徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「夏時間の庭」―時の移ろい、にじむ郷愁―

2009-12-30 12:00:00 | 映画

今年も、いよいよあと残り数時間となった。
冷たい北風の吹く街中で、見過ごしていた一作と出会った。

・・・思い出の輝く場所、それは誰にでもあるものだ。
変化の時代に生き、否応なく離れ離れになる現代の家族・・・。
その絆を描いた、親子三代にわたる物語だ。
といっても、大げさな作品ではない。
オリヴィエ・アサイヤス監督の、このフランス映画は、じんわりと心に沁みてくるような小品である。

フランス、パリ郊外・・・。
画家であった大叔父のアトリエにひとりで住んでいた、老母エレーヌ(エディット・スコブ)が亡くなった。
三人の子供たちには、広大な家と庭、そして貴重な美術品の数々が遺された。
コローやルドンの名画があり、マジョレルの家具、ドガの芸術品など・・・。
遺族は、経済学者の長男フレデリック(シャルル・ベルリング)デザイナーで世界中を飛び回っている長女アドリエンヌ(ジュリエット・ビノシュ 中国で仕事をしている次男ジェレミー(ジェレミー・レニエ)たちだ。

このドラマの舞台となる、イル・ド・フランス地方というと、豊かな田園地帯が広がり、印象派の芸術家たちがモチーフを求めて滞在した小さな町のひとつだ。

母の葬儀に集まった三兄妹が、遺産となった膨大な美術品と向き合うことになった。
彼らには、思い出に彩られた家への愛着と、現実のジレンマがあった。
母は、生前「私が死んだら、何もかも消えてゆくのよ」と、すべてを美術館に寄贈するように言い遺していたのだ。
フレデリックは、それらを手離すつもりはなかったが、アドリエンヌはアメリカ人との結婚を決め、ジェレミーも中国に生活の拠点を移していた。
姉や弟にとっても、愛着のある遺品でありながら、もはや必要なものではないことにショックをかくしきれないフレデリックだったが、相続という現実的な問題から逃れようもなかった。

遺品を相続するには莫大な相続税がかかり、家も、家族が集まる場所ではなくなる。
三兄妹は、結局家を売却し、貴重な美術品は、オルセー美術館に寄贈することで合意した。
・・・そして、何もかもなくなった、がらんどうの家をひとり訪れた、大叔父時代からの家政婦エロイーズ(イザベル・サドワイヤン)は、亡き主の好きだった花を墓前に捧げる。

季節は移ろい、人の命に終わりがあっても、世代を超えて確かに受け継がれてゆくもの、それは何だろうか。
息づく美術品のリアリティには、まず目を奪われる。
画面も、非常に綺麗で美しい場面が多い。
色彩的にも、パリの郊外にこんなにも美しい緑があったかと、あらためて感じ入った。

この映画に登場する美術品のほとんどは、オルセー美術館所蔵個人のコレクションの実物が使われており、その美が生み出す、比類のないリアリティは作品と見事にマッチしている。
それらの小道具のひとつひとつに、忘れがたい個人の郷愁がにじみ、いつまでも何かを語りかけているいるようだ。

ドラマの中で、長年尽くした家政婦のエロイーズが、忘れれたままになっていたブラックモンの花器を手にし、たったひとつの思い出に南仏へ去るときのシーンで、「花が活けられてこそ価値がある」といった言葉は、とてもいいセリフだ。
この一言が、作品の主題を要約しているといってもいい。

全体の色調も、四季の移ろいを見事に表現していて、申し分がない。
遺品となった美術品が、家の中では愛情や愛着が注がれ、非常に親しみやすい存在に思えたが、これらが美術館で展示されると、ただの鑑賞品となってしまって、静かな空間の中に閉じ込められてしまうのはどういうわけだろうか。
美術品や骨董品のたぐいは、その家で暮らした人たちには使われてこその思いが沁みてきて、懐かしく輝くものなのだ。

映画では、最初と最後の場面が、やはりとても美しい。
緑の風のそよぎ、揺れ光る木漏れ日、絵画のような世界・・・。
それに、オリヴィエ・アサイヤス監督のこのフランス映画夏時間の庭は、まことに親密かつ個人的な物語で、失われた‘よき時代’(ベルエポック)を、若い世代にいつか見出してもらいたいと願う、そんな作りの映画に思える。
詩情を感じさせる、いい作品だ。
かつて輝いた時間と記憶は、決して消えることなく、姿を変えてもなお母から子へ、そして孫へと、未来にわたって続いていくことを予感させて・・・。

                                ***************

   今年も、政権交代をはじめ、本当にいろいろなことがありましたね。
   おかげさまで、今年最後の更新となりました。
   有難うございました。
   行く年があり、来る年があります。
   来年は年男になります・・・。
   新しい年は、どんな年になるのでしょうか。
   どうぞ、よい年をお迎えください。


映画「パチャママの贈りもの」―素朴さとやさしさと―

2009-12-27 03:00:00 | 映画

雄大な自然と、先住民の家族の素朴でやさしい生活の物語だ。
何も知らずに観ていれば、記録映画と間違えそうだ。
松下俊文監督による、日本・ボリビア・アメリカ合作作品である。
しかも、南米ボリビアのアンデス高地は、標高3600メートルというから、富士山の高さに近い。
“パチャママ”とは、インカ帝国の末裔、アンデス先住民の言葉で、“母なる大地”のことだそうだ。

誇りをもって、自然と共生して日々を暮らし、家族や社会の一員たること、先祖からの知恵を大切にすること、すべての恵みを与えてくれる“パチャママ”へ感謝を捧げることを、この作品は印象づける。
地球上に暮らす人々は、誰もがみなそのような日々を営んできている。
映画「パチャママの贈りものは、現代の私たちが失いかけている大切な何かを教えてくれる・・・。

南米ボリビアの高地に、広大なウユニ塩湖がある。
面積12,000キロ平方メートル、四国の半分の大きさだ。
そこで塩を採掘して生活している、ケチュアの家族がいる。
家族の一員コンドリ(クリスチャン・ワイグァ)は13歳、学校に通い、友だちと遊び、父を手伝って堆積した塩を黙々と切り取っている。
貧しいながらも、心豊かな日々を送っている。

季節の移ろいとともに、そんな彼にも変化が訪れる。
大好きな祖母の死、友人の引越し、そして今年はじめてキャラバンの旅に出る。
リャマ(駱駝の一種)の背に塩の塊を積み、アンデスの山々を越えて塩の道を行く3ヶ月の旅・・・。
女友達のコーリー(ルイス・ママーニ)も、一緒に行くことになった。
同じ村に住む、コーリーのおばあさんから父が頼まれたからだ。

そうして、旅は続く。
鉱山での悲しい出来事、悪夢、雪山で大人へのはじめての反抗・・・、コンドリは初めての経験を重ねながら、旅の最終地マッチャの村に到着する。
人々にチチャ酒を売ったり、幸福を招くアルマジロ(小動物)が売りに出ている。
まあ、小さな市である。
父は、一年ぶりに会ったおじさんとコカを噛みながらチャンゴを弾いている。
町はにぎわい、いよいよインカの時代から続いている伝統のケンカ祭りがはじまる。
そこで、コンドリは、山里からやって来た美しい少女ウララ(ファニー・モスケス)と出会ったのだった・・・。

この作品は、3ヶ月の塩キャラバンを通じて、少年の成長を描く物語だ。
ボリビアで、6年の歳月をかけて撮影したといわれる。
出演者は、ボリビアで暮らすアンデス先住民で、ケチュアの人々だ。
彼らの、何にもまして屈託のない、ほんとうの笑顔と、アンデスの美しい映像(たとえば夕焼けに映えるアンデスの山並み)が、私たちの心に鬱積した、不安や疲労を洗い流してくれるようだ。
世界的な歌手ルスミラ・カルピオの、奇跡の歌声と現地のフォルクローレに乗って、アンデスの笑顔と風がやってくる。

現代の科学文明とは隔絶された感のある、アンデス高地の人々の生活を見るとき、その素朴さとやさしさに心癒される想いがする。
そして、この作品からふと想うこと・・・、13世紀末頃、現在のボリビアあたりのケチュアから、いまのペルーやボリビア中心に、広大な領土とあの高名な文明をもたらしたインカ帝国が興ったのだった・・・。


映画「AVATAR アバター」―3Dの脅威を体感!―

2009-12-23 10:00:00 | 映画

あの映画「タイタニック」から12年、ジェームズ・キャメロン監督の最新作だ。
アメリカ映画「AVATAR アバターは、今回話題の3Dでも同時公開され、その革新的な技術で、まるで自分が映像の世界に入り込んでいくという、これまで経験したことのない感覚と出会うのだ。
<観るのではない。そこにいるのだ。>

3Dというと、三つの次元があることで、タテ、ヨコ、高サの広がりがあって、私たちの生活している空間が三次元の世界だ。
人間の二つの目は、左右に離れていて、顔の前にある物体は、顔を動かさなくても、脳には二つの違った方向から見た、二種類の画像が送られているのだそうだ。
右目用の画像と、左目用の画像というわけだ。
3D映画は、DLPプロジェクター(デジタルシネマ用映写機)で、1秒間に144回のペースで、右目用と左目用の映像を交互にスクリーンに投影する。

3D映画の画像は鮮明だ。
明るさ、コントラスト、繊細さ、すべて言うことなしである。
「映像が劣化しない」という言葉を使って、説明されるゆえんだ。
この3Dを「アバター」で体験、驚異の映像世界に大いに心をときめかせた。

22世紀、人類は、地球から遠く離れた衛星パンドラで<アバター・プロジェクト>に着手していた。
この星の先住民ナヴィと、人間のDNAを組み合わせた肉体<アバター>を作ることで、有毒な大気の問題をクリアし、莫大な利益をもたらす鉱石を採掘しようというのだ。

この計画に参加した元兵士ジェイク(サム・ワーシントン)は、車椅子の身だったが、<アバター>を得て、身体の自由を取り戻した。
ジェイクは、パンドラの地上に降り立ち、大地を自由に動き回っていて、獰猛な野獣に襲われそうになったとき、ナヴィの酋長の娘ネイティリ(ゾーイ・サルダナ)に救われ、恋に落ちた。

地球人の任務として<アバター>となり、ナヴィに接していたジェイクだったが、ネイティリの教えを通して、すべての動植物が共生し合って育まれている、パンドラの大自然への敬愛を深めていくのだった。
しかし、ジェイクは、パンドラの生命を脅かす任務に疑問を抱き、この星の運命を決する選択を強いられる。
そして、様々な発見とともに、思いがけない愛を経験したジェイクは、やがて、ひとつの文明を救う戦いに身を投じていくのだった。
滅ぼすのでなく、守るために・・・。

とにかく壮大なファンタジーで、そのスケールは、間違いなく観る者を圧倒する!
パンドラの神秘的な世界観がユニークだ。
豊かな大自然には、未知の動植物が生息し、息を飲む幻想美と生命力に満ちあふれている。

映画のなしうるスペクタクルの極限を目指していて、生きとし生けるものの共生、希望、争い、愛といった盛りだくさんの要素を一杯に詰め込んだ、超大作だ。
壮絶なアクションが繰り広げられる戦争のもとで、種族を超えて花開くSFロマンスだし、ドラマは激しくかつ壮麗で、息つく間もない展開で、キャメロン監督ここまでやりますかといった感じだ。

最先端のテクノロジーに、震えがとまらない。
3Dの第一次ブームは、1950年にアメリカですでにあったそうで、実はいまは第三次ブームだといわれる。
実写とCGを、完璧なリアリティで融合させた、最先端の3D映像だろう。
その驚異的な立体感もさることながら、色彩を誇る映像の中に、この作品はキャメロン監督が自ら創造した、衛星パンドラの斬新な世界観を繰り広げている。

映画の世界も、確実に進化している。
もしかすると、年末年始は、日本中をこの映画が席巻することになるかもしれない。
鑑賞時間は正味2時間42分、決して長いとは思わなかったけれど、疲れました。


映画「アンナと過ごした4日間」―人を愛することの困難さ―

2009-12-20 04:00:00 | 映画

四大映画祭カンヌ,ベルリン、ヴェネチア、東京)を制したといわれる、イエジー・スコリモフスキ監督17年ぶりの、ポーランド映画だ。
映像感覚の冴えを見せるこの作品は、映画芸術の域に近い。

赤い屋根の上の尖塔、白壁の家並み、灰色の空、静まりかえってうらぶれた町・・・。
ポーランドの、とある田舎町である。
病院の火葬係りをしているレオンアルトゥル・ステランコは、若い看護師のアンナキンガ・プレイスに憧れている。

数年前、レオンは釣りの帰りに、アンナが廃工場で犯されているのを目撃してしまった。
気弱な彼が警察に通報すると、彼自身が犯人と疑われ、逮捕される。

彼の家から、アンナの寝起きする寮が見える。
うだつのあがらぬレオンは、双眼鏡で彼女の部屋を覗き見る。

一緒に暮らしていた、レオンの祖母が死ぬ。
レオンは、アンナが寝る前に飲むお茶の砂糖に睡眠薬を仕込み、深夜、アンナの部屋に忍び込む。
レオンは、寝ているアンナのそばで、彼女の服のボタンをかがり直す作業をする。
次の夜は、眠る彼女の傍でペディキュアをする・・・といった具合で、忍び込みは4日間に及ぶ。
名もない男の行為は、夜を追って大胆になり、スリルをいや増していく。
決して、アンナに気づかれることもないままに・・・。

寒々とした、うらぶれた風景の中で、アンナという女性は妙に生々しい存在感を見せる。
日本で、実際に起こった事件から構想されたそうだ。
だからといって、安直なストーカードラマではない。
単に、愚かな人間の行為と片づけるのは簡単だ。
論理でははかりしれない、人間の濃密な真実が描かれる。
見ようによっては、これも、一方的な人間の愛の変形だからだ。
どことも知れぬ、無機質な街並みを舞台に、人が人を愛することの困難さ、愛のもつ不確実さを描いて、極端に省略されたセリフと絵画的な映像美が、灰色にくすんだ詩的世界を演出する。

簡素で正直、繊細で簡潔、エキセントリックで奇異でありながら、ありのままを断片的に描いた世界だ。
繰り返しが多く、極力説明を排除する構成だ。

映画「アンナと過ごした4日間のエンディングで、主人公レオンの前に立ちはだかる壁のシーンがある。
これは、何をあらわしたものなのか。
それは、主人公の病的な考えが生んだ空想、いや妄想に過ぎないのかもしれない。
つまり、すべてはレオンの妄想、あるいは夢ではなかったのか。


イエジー・スコリモフスキ監督は、小さなディティールを論理的に積み重ねて、映像と物語を作っている。
この映画の持つ、暗く湿った空気と、重く垂れ込めた雲、その外側には、どうあがいても出て行くことの出来ない、内側に閉じ込められてしまった人生の不可能性の向こう側を、主人公は見続けている。
その主人公に、大いに共感を寄せている男こそ、鬼才と呼ばれるスコリモフスキ監ではないだろうか。
日本ではめずらしいポーランド映画で、プロ好みの作品といわれるゆえんだろう。
東京国際映画祭では、審査員特別賞を受賞した。


映画「ハウエルズ家のちょっとおかしなお葬式」―ほっこりコメディ―

2009-12-18 07:00:00 | 映画

“お葬式”というのは、そもそもが別れの儀式だ。
それは、笑いとは無縁の厳しく切ないものだ。
しかしそこには、人々の故人への思いがあり、ひょんなことから生まれる笑いというのもある。
フランク・オズ監督の、このアメリカ映画「ハウエルズ家のちょっとおかしなお葬式は、ちょっぴりユニークなお葬式の物語である。

ハウエルズ家の父親の葬儀の朝、家族とその友人、個性豊かな親族たちがそれぞれの思惑を胸に、集まって来た。
長男のダニエルマシュー・マクファディンは、父のお葬式で、弔辞を読むという大役への不安と、妻ジェーンキーリー・ホーズと約束した新居の準備金のことが気がかりだ。

さらに彼は、ニューヨークから到着したばかりの、優秀な弟・ロバートルバート・グレイブスと顔を合わせることに頭が痛かった。
ダニエルの従弟マーサデイジー・ドノヴァンとその婚約者サイモンアラン・デュディックは、神経質な父親に好印象を与えたかった。
従弟の弟は、ビジネスにしているドラッグのことが心配だった。
ダニエルのひとりの知人は、自分の病気のこと、さらにまた彼の知人は、昔一夜をともにしたことのあるマーサを再び自分のものしようと、それぞれが、それぞれの思いを抱いて集まってきていた。

そして、式は何とか始められると思いきや、サイモンが精神安定剤と間違えて、ドラッグを服用してしまったり・・・。
ドラマの一番最初のところでは、父親じゃない人の棺に入った遺体が運ばれてきたりと、次から次へと問題が明るみに出てくる。
まあ、そんなことは現実には考えられないことだが・・・。

それに、参列者の中に、見慣れぬ小男がひとりいて、何とこの男は亡くなった父親の同性愛者だったのだ。
小男は、そのことをネタに一家を脅迫してくるという事態までも・・・。
こうして、この映画は、ハチャメチャな群像劇が、葬儀の日を中心に、ハウエルズ家の中でにぎやかに展開していく。


とどまるところのないようなドラマの展開だが、やがて、笑いのなかにほろりとさせられる一幕もあって、心温まる作品としてどこか悲しく、どこかおかしいシーンの連続だ。

年齢を重ねるということの本音と、複雑な家族関係の破壊と再生を描いて、脚本もかなり凝っている。
そう、最期のお別れ、それは、笑って泣いて、さようなら・・・。
小品とはいえ、いろいろとシリアスなシチュエーションを舞台にした、ほっこりとしたハートフルコメディだ。


映画「パブリック・エネミーズ」―愛と野望の逃亡劇―

2009-12-16 07:00:00 | 映画
大胆不敵な銀行強盗が奪うのは、汚れた金だった。
愛したのは、たった一人の女だった。
1930年代初め、大恐慌時代のアメリカで、義賊の美学を貫き通した男がいた。
その男の実録にもとずく、激しいドラマだ。
マイケル・マン監督の演出は、派手なアクションシーンもたっぷりだ。

市民を苦しめる銀行から、鮮やかな手口で金を奪い、仲間たちとともに脱獄を繰り返した男がいた。
ジョン・デリンジャージョニー・デップだ。
汚れた金しか奪わない。
仲間は決して裏切らない。
愛した女は、最後まで守る。
自分なりの倫理観にもとずく行動をとり、犯罪者でありながら、大衆のハートをも虜にした、黒いヒーローであった。

伝説のアウトローであるデリンジャーと、彼が愛した女性ビリーマリオン・コティヤールの、スリリングな逃亡劇だ。
孤独な魂同士が、導かれるように結びついた二人であった。
国家権力を敵に回しながら、最後まで揺らぐことのない愛を貫く。
どんなに追い詰められた状況にあっても、愛する女を励まし、彼女との未来を夢見るロマンがデリンジャーにはあった。

一方、デリンジャーを追う政府捜査官のパーヴィスクリスチャン・ベイルは、隠れ家の山荘を包囲し、激しい銃撃戦の末デリンジャーひとりを残して、仲間の一味は全員死亡する。
必死の思いで逃亡したデリンジャーは、捜査の目をかいくぐって、ついに最愛の恋人との再会を果たすのだった。
しかし、彼を追う捜査網は次第に縮まっていき、運命の時が訪れる・・・。

この実話は、これまで幾度も映画化されているが、今回の役の見どころはジョニー・デップだ。
決して後ろを振り返ることがなく、修羅場に強い男を演じて、なかなかカッコいいのだ。
頼もしい男の魅力があって、デリンジャーの美学そのものだ。
「エディット・ピアフ/愛の讃歌」で、アカデミー賞主演女優賞を受けたフランス人女優マリオン・コティヤールも、苦手の英語も特訓のかいがあったか、熱っぽい好演を見せる。
さらに魅力を感じたのは、デリンジャーを追う捜査官パーヴィスを演じるリスチャン・ベイルだ。
端正で、クールなこの演技派は、デップに負けていない。この人、不思議な存在感がある。
デリンジャーという男は、悪事を働いたが、心は捻じ曲がっていなかった。
だから、彼のやったことはよくないが、愛すべき悪人だと人はいう。
マイケル・マン監督アメリカ映画「パブリック・エネミーズは、追う者と追われる者をめぐる緊迫感を縦糸に、愛に熱く誠実な男の恋を横糸に、ドラマはスリリングな展開であきさせない。
まあ、この種のギャング映画につきものの、激しい銃撃戦には閉口だが、娯楽作品(エンターテインメント)としては面白い。

映画「ポー川のひかり」―清貧の贅沢―

2009-12-13 06:00:00 | 映画

イタリアの名匠といわれる、エルマンノ・オルミ監督の作品だ。
オルミ監督が、自身の映画人生において、最後の長編劇映画と位置づけたこの作品は、不思議な香気に満ちている。

太古から、人間の暮らしとともに、水、光、炎、風などの自然の事象をやさしくとらえている。
野を渡る風、川の岸辺を包む光、夜の水面の静謐・・・。
ポー川というと、イタリア北部を西から東へ、平原を蛇行しながらゆったりと流れる大河である。
そのポー川流域の、美しい牧歌的な時間のなかに、現代の寓話を描き出した。
やや、宗教哲学的な匂いが気にならなくもないけれど・・・。

イタリアの古都ボローニャ・・・。
夏休みに入った、人気のない大学図書館で、大量の古文書が太い釘で床に貫かれるという、衝撃的な事件が起きた。
このあまりにも不気味な光景が、このドラマのプロローグである。
事件の直後に、忽然と姿を消した若い哲学教授(ラズ・デガン)が犯人であった。

・・・教授は、地位、財産、名前も捨て、陽光溢れるポー川のほとりに移り住んでいた。
彼の放浪生活の始まりであった。
彼は、持ち物も車も捨てて、岸辺の廃屋で生活を始めたのだ。
どうして?何のために?

そこへ、レンガ職人の青年や、パン屋の女店員が、さらには近隣の住民たちまでが、廃屋の改造を手伝い、人々はひげの主人公をいつしか「キリストさん」と呼ぶようになった。
そこに、周辺に暮らす村人やホームレスたちとの素朴な交流を通して、小さいながらコミュニティが出来ていくのだった。

そんな生活を始めてほどない彼らに、役人たちが立ち退きを迫ってきた。
それのそのはずで、ポー川の岸辺一帯は国有地で、彼らは不法居住者だったのだ。
そして、教授は、つかの間の「希望」と、村人たちとの別れの日を迎える・・・。

キリスト教の寓意が垣間見え、教授をはじめ人々は誰もが飄々としている。
ポー川の美しい風景を背景に、自由な市民の生活ありといった、楽しささえ見える。
組織社会から離れた‘自由な生活’空間が、世のしがらみや、人間関係の軋轢もなく、のびのびと綴られ、俗塵を超越したかのような主人公の思いが伝わってくる。

哲学的な命題を論ずるより、あるがままに現実を受け入れ、生きることの息吹きをよみがえらせ、人生の豊かさとは何かを問いかける。
地上に戦争は絶え間なく、経済危機、環境問題など、いま世界は急速に破局の未来を迎えようとしている観がある、こんな時代にあって・・・。

ドキュメンタリー出身の、エルマンノ・オルミ監督イタリア映画「ポー川のひかりは、現代の病める時代にあって、一心に生きることへの希望を探ろうとしている。
彼の突きつける問いは、人間の根源に迫るものがあって、原点回帰、いまの世に生きる人々への痛切なメッセージがこめられているようだ。

新約聖書の世界観をもうかがわせ、少々理屈っぽく、わかりにくい部分もある。
それはそれで、感じるものがあればそれでいい・・・、と観客にゆだねている。
心を揺さぶるものがありさえすれば、ということか。
光と影が、繊細に織り成す映像は、絵画のようでもある。
老監督の祈りともとれるメッセージは、深い精神性を湛え、観る人によっては胸があつくなる作品だ。


マナーは時代とともに変わるのか

2009-12-11 17:00:00 | 雑感

以前、本欄で触れたことがある。
またいま、くどいようで恐縮・・・。
バスの車内での女性の化粧、あれのことだ。
はっきり言って、この頃、一部女性の間で定着(?)しつつあるようにさえ見受ける。
見ていて、決していいものではない。

日頃、バスを利用する機会が多いので・・・。
車内で、いろいろな光景を目にする。
なかでも、最たるものは、禁止されている携帯メールと、女性の化粧だ。
女性の化粧は、年齢を問わず、毎日のようにお目にかかる。
手鏡や化粧品を取り出し、人前でも平気で堂々とおめかしが始まる。
いやでも目に入るこの光景に、いつもうんざりしている。
もう、どうにかしてほしい。

公に、車中で禁止されている行為ではない。
当の本人は、何らいけないことをしているわけではない。
他人に迷惑をかけるでもない。
だから、人から批難される筋合いはない。
そんな感じだろうか。
だから、困るのだ。

先日のことだ。
バスの車内に、案の定いつも化粧している常連(!)の若い女性がいた。
そのすぐそばで、二人連れの中年女性がそれを見て交わしている会話が聞こえてきた。
 「ねえ、見て!私たちには出来ないわね」
 「最近の若い子は平気なのね」
 「大胆というか・・・」
 「でも、もう今はね、あんなこと当たり前になってるのよ」
 「あなたは、気にならないの?」
 「別に、気にもしないわ、気にしてどうするの」
そう言ってから、連れの女性に向かって、
 「私たちの頃は、とやかくいろいろ言われたわ。人前で化粧なんてするなとか、女の身だしなみがどうだと
 かね」
 「・・・でしょう?」
 「今は、時代が違うのよ。この忙しい時代に、家で化粧する時間もないっていうこともあるのよ」
 「だからって・・・、いやだなぁ、あたし」
 「何を言ってるの。ちょっとの時間、バスのなかで化粧するくらいどうってことないわ」
 「・・・でも、ほめられたマナーじゃないわね。よくないわ」

すると、もうひとりの女性はムッとした顔つきで、口を尖らせ、強い口調でこう言った。
 「それは、主観の違いね。わかってないわね。時代は変わったのよ!」
 「・・・」
 「マナー、マナーと言うけど、マナーも時代とともに変わっていくのよ」
 「そうかしら?私は、そうは思わないけどな」
 「今は自由な世の中なのよ。最近何かとマナー、マナーってうるさすぎるのよ。変わっていくの!変わって
 ね!」
 「・・・!」

いやはや、時代とともに変り行く・・・、ですか。(?!)
そんな風だと、そのうち乗り物の中で、あちらでもこちらでも女性たちが平然と化粧をするようになるかも。
そうなったら、それこそ、壮観(!?)だろうな、なんて・・・。
いやぁ、誰が、そんな姿をよしとするのか。
大和撫子といわれた日本女性は、平安の昔、いやもっと古(いにしえ)の時代から、美しい身だしなみを、身上としていたのではないのですか。
ちなみに、マナーとは、国語辞典によれば、態度、礼儀作法、風習の総称だそうで・・・。
こんなわかりきったこと、言うまでもない。
娘を持つ、世の日本の母親たちは、どう思うだろうか。


事業仕分けに反発―学者たちの言い分―

2009-12-09 10:00:00 | 雑感

話題の「事業仕分け」に対して、学会の反発が波紋を投げかけている。
ノーベル賞受賞者までが、こぞって異を唱えている。

学者たちの反発が、連鎖反応を起こしている。
科学技術の進歩を阻害する。
国家の土台を揺るがしかねない。
国家の存亡にかかわる。
学術文化の喪失である。
事業仕分けは、科学技術立国と逆方向だ。
・・・などと、ざっとこんな具合だ。
すさまじい意見表明が、学会や会見などで相次いでいる。

ノーベル賞受賞者らの、意見に賛同するネット署名は1万2000件を超えたそうだ。
恐るべきかな・・・、である。
予算を削られると、研究を予定通り継続できなくなるし、専門的な内容や意義が、一般によく理解されないという思惑がある。
世界一になるには、二位では駄目だというではないか。

科学の必要性は、誰しもが認めるところだ。
仕分け側は、科学を否定しているわけではない。
予算の使い方や、組織のあり方など、学術、科学の分野にわかりにくい側面が有ることも確かだ。
ノーベル賞受賞者らの下には、多くの学究、助教、大学院生ら若手の、日夜たゆまぬ研究、研鑽があってこそ、素晴らしい論文が発表され、世界が認める成果を上げていることも事実だ。

学者も、上から目線ではなく、国民と対話する双方向のコミュニケーションは大切な課題だろう。
そうでないと、どちらも‘一方通行’になり、相互の理解は難しい。
お金の使い方にも、不透明な部分が多い。
国民、納税者の共感を得られるよう、もっと努力する試みが必要だ。
ただ、科学技術だから予算を減らすなでは、納得が出来ない。
学会側にも、この機会に、どう考え、どう行動すべきか、国や政党ともよく話し合うべきだし、仕分け側を科学者側が誤解している面がないか、といったような議論、シンポジウムが今後も盛んに交わされる必要がありそうだ。

いずれにしても、一般市民を交えて、もっとコミュニケーションが必要だ。
ノーベル賞受賞者の異論まで飛び出して、何かと取りざたされているが、巷からは、ノーベル賞がそんなに偉いのかといった声も聞かれる。
もちろん、ノーベル賞には一にも二にも大いなる敬意を表するが、受賞者でなくても偉い人はいる。
受賞者だけが偉いのではない。

余談だが、ノーベル賞といえば、このところの世界的な金融危機のあおりを受けて、賞金が引き下げられることになるらしい。
何でも、今年は約15億円の費用がかかるらしいが、市場低迷の影響で、投資にまわしている資産がどんどん目減り(5分の4まで)して、穴埋めもままならないというのだ。
ノーベル賞の賞金は、時代とともに増えてきており、もはや引き下げは避けられなくなってきたのだ。
もし、穴埋めができなくなったらどうなるのか。
えっ、そんな余計な心配は、無用?!
へぇ。


古いテレビが映らなくなったら?―ひとつの終焉―

2009-12-07 20:00:00 | 雑感

古いテレビが映らなくなったら、どうしますか・・・?
多分、いやおそらく、ほとんどの人は、きっと新しい地デジに切り換えることだろう。
ところが、そうはしないという人がいる。いるんです。
長年使ってきた、古びたブラウン管テレビが壊れてしまい、いよいよ映らなくなってしまった。
ところが、この機会(?)に、もうテレビなんか要らないという人がいるのだ。
その分、ラジオで十分だと言うのだ。
ラジオは結構楽しいし、生活に役立つ情報や話が一杯だというではないか。
これは、確かに事実だ。
だから、地デジなんかも要らない、思い切ってテレビよさようならだというのだ。

本当かと思ったら、どうやら本当らしい。
さらに、ある新聞の投稿記事欄では、同じような意見を述べている、中年夫婦の記事が掲載されているではないか。
 「テレビ?そんなもの、なければないでいいよ。何も不自由はしないよ」
う~む、そうか、この話にも一理あると思った。

大分前のことだが、民間から皇室へ嫁入りした、どことなく気品のある(?)あの方の家には、テレビがなかったそうだ。
確か、学習院大学の教授をしていた、その方のお父君の嘘偽りのない、言葉である。
「ウチには、テレビはありません」と、あのとき記者に答えていた。
へえ~っと思い、意外な気がしたものだが、まてよそれもあるかなと・・・。
それは、もしかすると、テレビはあってもほとんど見ていないということを、そのように極端に表現したのかも知れないけれど・・・。
もしそうだとすれば、裏を返せば、見るべき番組もないということにつながるのではないか。
テレビはあっても、無きが如しと・・・。
う~む、いやぁ、本当にあの方の家には、テレビはやっぱりなかったのではないか。
んで、まぁ、そんなことは、どうでもよろし!

どうも、最近のテレビは、ネタ切れというか、息切れというか、良質な番組が少なくなったような気がする。
おそらくそう感じている人は、多いのではないか。
ごくたまに、本当にたまに、いいドラマにお目にかかることはあっても、魅力ある大人のドラマはぐっと少ないし、歌やバラエティ番組にもあきてしまったという声をよく聞く。
事件もの、どうでもいいタレントの結婚、離婚、スキャンダル騒ぎを各局競作で、どこの局もいっしょだ。
そうでなければ、古いドラマの再放送かおなじみの旅番組で、まずくてもああ美味しい、すばらしいの、ひたすらよいしょよいしょで、これにはもう辟易、お手上げだ。
お笑い番組にしても、決して全部が全部とは言わないが、まるでプロとは思えぬ学芸会がヤタラと多く(?)、限りある電波の無駄使いに見えてならない。
それに便乗するスポンサーも・・・。
ワイドショーは、これはと思ったドキュメンタリーさえもが、局のヤラセだったりで、危ない危ない!
一体、どうなってるのと言いたい。

ニュースだけなら、ラジオでも結構役に立つ。
(あのね、もっとも、このニュースってやつが、大したくせものなんで、何がって、とにかく政府、官僚寄りで、公正中立の報道かどうかは、大いに問題があるっていうわけなんだ。大新聞だって、おんなじだよね。だから、なおのこと始末におえないのだ。)
そう、昔は、テレビなんてなかった。ラジオしかなかった。
いまのラジオは、心を癒してくれる番組もあるし、おやっと思うような情報もあったりで、この際ラジオを見直す、いい機会なのかもしれない。

 「うちでは、テレビってほとんど見ないわよ」と言う人が、実際にいるのだ。
人の世は進化すると、確かに、いろいろと限りなく便利になる。
いま、そんな時代の豊かさを良しとしない人たちも、ちらほらと・・・。
だからといって、別に不思議でもなんでもない。

礼儀やしつけを重んじる家庭では、食事をしながらテレビを見ることは、行儀が悪いとしてうるさく禁じているところもある。
同じように、新聞を読みながら、食事をするお父さんもいる。
忙しい時代とはいえ、本当はあまり感心できることではない。
幼い子供への影響も・・・。
食事って、家族で話し合いながら時を過ごす、貴重なコミュニケーションの時間のはずだからだ。
といって、たった一人での食事というのも・・・。
相手のいない食事では、テレビに頼らなければならないか。
いや、いや・・・。
分かる気はする。

しかし、毎日地デジ、地デジで、いい加減もううんざりですね。
何ですか、鳩山総理の家はまだ地デジではないと、ご自分で言っていました。
ひょっとして、総務大臣から、何か言われていませんか。
大手の家電売り場をのぞいてみると、地デジの売り場がたいそうにぎわっているようだ。
第一、販売員が張り切ってる!
いまが、売り時とばかりに・・・?!

この際古いテレビを地デジに買い換える人、買い換えをしない決断をする人、この世は様々、人もいろいろ、人生もいろいろだ。
デフレの世の中にあって、家電販売店だけは、笑いが止まらない・・・?!
でも、よく考えよう。
いや、考えたって仕方がないか。もう、決まっていることなのだから。
決めたのは、国家だ!
世の中の流れには逆らえない?!
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
いや、関係ないか。
ない。ない。