徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「アンナ・カレーニナ」―極寒のロシアの大地に燃え上がる禁断の愛の物語―

2013-03-31 19:00:00 | 映画


 1873年から76年にかけて執筆された、レフ・トルストイの長篇小説が原作だ。
 カレーニンの若き妻アンナと、貴族将校のヴロンスキーの不滅的な恋を主軸に、当時のロシア地主階級の不安と農民生活をリアルに描き出したイギリス映画だ。
 原作は 「戦争と平和」「復活とともに、トルストイ三大傑作といわれる。

 恋愛小説の金字塔といわれる、ロシアの文豪トルストイ不朽の名作を、「プライドと偏見」「つぐない」名匠ジョー・ライト監督が映画化した。
 これまでも幾たびか映画化されたが、ここにまた豪華絢爛なラブストーリーが、斬新な映像とともに現代に甦った。







       
19世紀末ロシア・・・。

政府高官のカレーニン(ジュード・ロウ)の妻アンナ・カレーニナ(キーラ・ナイトレイ)は、サンクトペテルブルグ社交界の花であった。
ある日アンナは、兄オブロンスキー(マシュー・マクファディン)の浮気が原因で壊れかけた、兄夫婦の関係を取り持つためモスクワを訪れ、そこで若き将校ヴロンスキー伯爵(アーロン・テイラー=ジョンソン)と出会った。
二人は、一目で惹かれあった。

兄の妻ドリー(ケリー・マクドナルド)の説得に成功したアンナは、ドリーの妹キティ(アリシア・ヴィキャンデル)に頼まれ、舞踏会に出席することになる。
かねてからヴロンスキーに想いを寄せているキティは、彼からのプロポーズを固く信じており、そのために田舎の地主リョーヴィン(ドーナル・グリソーン)からの求婚も断っていた。
ところが、そのヴロンスキーはもはやアンナしか目に入らず、平常心を保とうとする彼女もまた、燃え上がる情熱を抑えることができなかった。

お互いの思いをぶつけ合うかのように、ヴロンスキーとマズルカを踊ったアンナは、自身の心に言い聞かせるようにモスクワ発の夜行列車に飛び乗る。
平和で安全な家で、夫と息子が彼女を待っている筈だった。
だが、列車が途中停車した駅で、気持ちを鎮めるために外の空気を吸いに出たアンナの前に、何とヴロンスキーが現れたのだった。
・・・アンナは、欺瞞に満ちた社交界や家庭を捨て、ついにヴロンスキーの愛に生きる決意をするのだったが・・・。

アンナの夫は政府への忠誠心が強く、世間体を重んじる彼は、家庭では一見冷やかに見える。
だが、ヴロンスキーはどこまでも自分の気持ちに素直に、自由に生きようとする。
ヴロンスキーは若くて貴公子だし、アンナが彼の虜になり、不倫に走る気持ちが手に取るようにわかる。
19世紀の後半というと、近代化の波が人々の生活に影響を及ぼし、いろいろな問題や矛盾をはらみながら世の中は動いていたし、そうした中で、アンナはあまりに形式的な夫婦生活からの脱却をはかろうと、自ら真の愛を求める女としての生き方が描かれる。

映画は、画面に映る舞台の幕が開いたところから物語が始まり、ジョー・ライト監督はこの作品で、徹底した舞台劇の要素を取り入れている。
冒頭の劇場の舞台でも、それはほかのセットとつながっていて、たとえば競馬場であったり、登場人物が行き来するシーンであったりする。
舞踏会の振り付けは非常に現代的で、カット割りやシーンの転換も、映画というよりは舞台を観ている感じで、臨場感たっぷりだ。
リョービンの田舎のシーンと、アンナの登場する壮大なロケ撮影の現場を見せられると、華麗な虚飾社会と自然と人情に包まれた社会の対比が、作品のテーマを分かりやすくしているようだ。

劇場のセットや舞踏会のシーンといい、豪華絢爛たる夜会服の衣装といい、オスカー受賞の美術というお膳立てには目を見張る想いだ。
それに、比類のない映像の美しさも、文句のつけようがない。
「アンナ・カレーニナ」といえば、これまでもグレタ・ガルボヴィヴィアン・リーソフィー・マルソーといった、錚々たる女優陣が演じ、カトリーヌ・ドヌーをして一度は挑戦してみたかったと言わしめた、世紀のヒロイン“アンナ・カレーニナ”の難役を、今回はキーラ・ナイトレイが素晴しく、圧倒的な演技力と存在感でスクリーンを彩っている。

ジョー・ライト監督イギリス映画「アンナ・カレーニナは、トルストイの大長編を2時間10分で観せるとあって、かなり無理をしたとも思われるが、そこは著名な劇作家トム・ストッパードの脚本に負うところが大きく、的確な描写とともに、原作をよく生かした作品となっている。
まあ、観るだけの価値は十分で、女性の心を魅了する作品かも知れない。
世界中で愛読される傑作小説の世界を、映像の説得力と、しかも今回はわかりやすい現代的な手法で料理した、大型の文芸作品として好感が持てる。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

  
  * * * * * 追  記 * * * * *  

このほかの鑑賞作品では、「チチを撮りに」「マリア・ブラウンの結婚」の二作を取り上げたい。


日本映画学校出身の新進中野量太監督「チチを撮りに」は、「死にゆく父の顔を写真に撮る」ことを依頼された先で待っていた修羅場で、奮闘する姉妹を通して、家族の絆を描こうとした作品だ。
湿っぽい話をユーモアに包んで、明るいドラマになっている。
映画は母親の心情を丁寧に描いて、作品自体に監督の誠実な人間観察を感じる。
伏線を生かしたラストも悪くはない。
ただ、ドラマに奥行きが乏しく、単調な場面もあって、物足りなさも・・・。(★★★☆☆)





一方、1982年に36歳の若さでこの世を去った、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督「マリア・ブラウンの結婚」(ニュープリント版は、もちろん旧作(1979年)だが、彼の名を一躍世界にとどろかせた最高傑作といわれる。
ベルリン映画祭でも、銀熊賞受賞した作品だ。
第二次大戦でひとり身となったヒロインの女性が、生きるために幾多の男性と関係を結ぶが、やがて精神の異常をきたすという物語だ。
戦後ドイツの、社会学的な考察とともに映像化した作品で、大きいタイトルの「ファスビンダーと美しきヒロインたち」は、ファスビンダー没後30年ということで、「マリア・ブラウンの結婚」は愛を求め、愛に裏切られ、愛を信じた女たちを描いた特集三部作のうちの1本である。
まあ、作品の古めかしさは気になるとして・・・。(★★★☆☆)


国会政治の怠慢を司法が断罪するとき―1票の格差、違憲!―

2013-03-29 09:00:00 | 雑感

早くも、桜が散り始めている。
新年度を前に、1票の格差をめぐる、判決が出そろった。
法の下の平等に反すると指摘されながら、国会の対応は「違憲」あるいは「違憲状態」のままだ。
しかも、違憲のもとでの選挙で国会議員が選ばれ、違憲の議会が選んだ内閣が、国会の進むべき道を決めてきたのだった。
いまの国会議員は、正当に選ばれた国会の代表者なのだろうか。
国会の代表者とは何だ。
民主主義といい、国民主権といい、法の支配といい、一体何なのだろうか。

国会というところは、何をしているところなのだろう。
与党にしても野党にしても、どうすることが自分たちに有利になるか、どうすれば政局の主導権を握れるのかと、そんなことばかり考えているのではないか。
そんな国会政治に、司法が断を下した。
このことについて、司法はおかしいのではないかと、たてを突いている政治家(政治屋)がいる。
議員である前に、何故議員として選ばれたかを考えてみるがいい。
政治に参加するそのスタートラインから、基本を間違えている。
何ということか。
日本の政治の異様な構図が見えてくる。情けない限りだ。

議員一人当たりの有権者数が、選挙区で異なるため、1票の価値に不平等が生じるのだ。
これまで最大格差4.99倍だった1972年と、4.40倍だった1983年の衆院選を、最高裁は違憲としたが、「事情判決の法理」とやらで選挙自体が無効とする請求には踏み込まなかった。
しかし、今回の広島高裁の判決は、猶予期間を設けない「違憲、選挙無効」の判決だった。
こうした衆院選の格差訴訟の経過を見ると、何と40年間も、こんな大切なことをほったらかしにしてのうのうと選挙をやって来たのだ。
高裁判決、してやったりだ。

国会議員というのは、どこまで鈍感なんだろう。
貪欲な党利党略が絡み、国会での議論は堂々巡りで、やるべきことをできない政治家(政治屋)ばかりが、偉そうに跋扈している。
「センセイ、センセイ」とちやほやされて・・・。
しかしやっていることを見ると、おのれの保身と権力の上に胡坐をかく、怠け者の集団とみられても仕方があるまい。
この際遅きに失したが、選挙のやり直しを求める「選挙無効」の判決こそ、司法の厳然たる正しい判断ではないか。
国会の、あまりにもずさんな怠慢政治に対する、これこそ歴史的な司法判断だ。
最高裁が、こうした異常な状態を「違憲状態」だと判断していたにもかかわらず、国会は何ら手を打たなかった。
司法を甘く見るべきではない。
政治家よ奢るなかれ、である。

そして、憲法違反のこんな国会政治を容認してきた、歴代内閣首相をはじめ、怠慢国会議員たちには何も責任がないのか。
今回の広島高裁の「違憲、無効」の判決が、この後最高裁で確定したら、当然選挙はやり直しだ。
そうなれば、いまの安倍首相を選んだ首班指名も無効になる。
最高裁の判決いかんでは、もちろん訴訟になっている31の選挙のすべてが無効となり、議員は失職し再選挙ということになる。
さらに、これが確定すれば、日本が法治国家である以上、昨年12月以降に成立した予算、法律もすべて無効となり、首班指名も日銀人事もやり直しとなる。

正当性のない国会議員が、勝手に法律を決めて国を動かしてよいはずがない。
いま安倍首相は、しきりに改憲を叫んでいるが、憲法違反の中で選ばばれた国会議員が憲法を変えようなどと、憲法論議をしようというのだから、実に愚かで、ナンセンスだ。
憲法違反の国会が、勝手に法律を決め国を動かす政治を、民主主義といえるのだろうか。
日本の政治は、とてつもなく異様だとしか言いようがない。
国会は、司法の判断を厳粛に受け止め、一日も早く違憲状態から脱し、選挙制度を作り直し、怠慢政治を深く反省し、全く新しく出直すべきである。


映画「クラウド アトラス」―人類の進歩を問う壮大な叙事詩に驚嘆!―

2013-03-24 16:00:00 | 映画


 壮大なロマンに酔いしれる、超大作映画だ。
 この映画の主題は、時空を超えて展開する愛である。
 人類は果たして、どこまで進歩しうるものか。
 映画芸術は、どこまで進歩しうるものか。

 時代も背景も異なる複数の物語を、同時進行させるという、とてつもない試みをやってのけた。
 19世紀から24世紀にかけて、6つの物語が次から次へと入れ替わるのだ。
 各々の物語は、相乗効果で盛り上がり、しかも同時にクライマックスへ向かうのである。
 性転換して女性になったラナ、ウォシャウスキー姉弟と、トム・ティクヴァの三監督による、アメリカ映画だ。
 過去、現在、未来にまたがる500年間を、まるでモザイク模様のパズルを解くように、ドラマは激しく、目まぐるしく展開する。
 同じ魂を持つ、複数の人物を演じ分けるという、俳優たちの挑戦など、見どころも超満載だ。

       
1849年、南太平洋・・・。
奴隷売買の契約を結ぶため、ある島を訪れる若き弁護士ユーイング(ジム・スタージェス)は、謎の病に倒れる。
彼は、邪悪な医師グース(トム・ハンクス)から手厚い看護を受けるが、故郷へ帰る船の中で二人の男との交流が、彼の人生を全く違う方向へと導いていく。

1936年、スコットランド・・・。
ロバート・フロビシャー(ベン・ウィショー)は、スキャンダルまみれの故郷から逃げ、高名な作曲家に師事する。
ある日、彼の聞いた美しい旋律が想わぬ運命を引き寄せる。
二人の作曲家の数奇な運命から生まれる、名曲秘話・・・。

1973年、サンフランシスコ・・・。
ジャーナリストのルイサ・レイ(ハル・ベリー)は、物理学者シックス・スミス(ジェイムズ・ダーシー)から、重大な情報提供を持ちかけられる。
そして、原子力発電所をめぐる、恐るべき陰謀が明らかになる。

2012年、ロンドン・・・。
三流の編集者カベンディッシュ(ジム・ブロードベント)の担当する作家が人を殺し、著書は大ベストセラーとなる。
大金を手にした彼は、作家の弟から脅迫されて逃走、たどり着いた暴力施設からも脱走を試み、流されてばかりの人生を変えようと、大冒険に挑む。

2144年、ネオ・ソウル・・・。
人間が遺伝子操作で作ったクローンを酷使する社会で、ひとりのクローン少女ソンミ451(ペ・ドゥナ)が、自我に目覚め、革命家と恋に落ちる。
やがて彼女は、クローンの悲しき運命を知り、反政府運動に身を投じる。

2321年、ハワイ・・・。
地球が崩壊して106度目の冬、ソンミが女神として崇められている村に、進化した人間のコミュニティから、使者メロニム(ハル・ベリー)が訪れる。
ヤギ使いのザックリー(トム・ハンクス)は、人食い族との戦いの末に、メロニムとともに旅立つことを決意する。

いずれも異なる時代を生きる、彼らのドラマのひとつひとつに魅力がある。
さらに、時代を行き来してリンクを重ねていくという、予測不能な展開に度肝を抜く。
6つのドラマはそれでいて、スクリーンに現れては消え、消えては現われ、それらを巧みに組み合わせて同時進行の形をとるので、奥深い物語世界は圧巻の展開を見せる。
そこでは、愛のため、大切な人を守るために、命がけで困難に挑む人々の強さと美しさとともに、時空を超えた愛というテーマが浮き彫りにされる。

こうした作品を支える、トム・ハンクスハル・ベリーら豪華なキャストの“六変化”が見事だ。
6つの物語で、それぞれの俳優たちが、別の役で登場、出演しており、その特殊メイクを駆使した、年齢、人種、性別さえも違うキャラクターを演じる変身ぶりが、面白い見どころともなっている。
それは、よく見ていれば解るものから判別不可能なものまであり、エンドロールをしっかりと見ていれば、その‘仕掛け’が明かされているから、最後まで席を立たないほうがいい。必見だ。
ラナ&アンディ・ウォシャウスキー、トム・ティクヴァ三監督による、アメリカ映画「クラウド アトラス」は、まさに6つの時代を舞台に1人6役を演じるキャスティングといい、人間ドラマ、ラブストーリー、SF、コメディ、アクション、社会派サスペンス、スリラーと、多彩な何でもありのジャンルを入れ子状態にした構造で、その映像美に圧倒される!

星空の下で、年老いた男が語り始める物語は、奴隷貿易の横行した19世紀から、文明の崩壊する24世紀に渡る、6つの時代に生きた人々の軌跡を描き、息をもつけぬ怒涛の展開で、あっという間の3時間だった!
物語はひとつの物語ながら、次の物語へと実にめまぐるしく入れ替り、1本で、タイプの異なる映画をまとめて6本味わえたような、感覚にとらわれる。
でも、詰め込み過ぎはよくない。


ひとりの俳優が演じる人物たちは、そうだ、輪廻転生の死生観で、時代や場所をも超えて果てしなく繋がっている。

こだわり抜かれた美術デザインも秀逸だし、時代ごとに緻密に再現、創作された背景や衣装も十分楽しめる。
どのシーンを観ても、エンターテインメントとして、近頃の娯楽作品としてはなかなかのものだ。
面白く観られる作品なのだが、この映画はしかし、一度観ただけではすっきりと理解しにくいのが難点だ。
時間の余裕があれば、もう一度観たいものだ。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

 
  ***** 追   記 *****

 このほかに鑑賞した作品としては、


 「さまよう獣」(
内田伸輝監督
)が、都会から田舎へやって来た謎めいた女と、色めき立って  
翻弄される村の男たちを描いた、奇妙な人間ドラマが面白い。(★★★☆☆)









 また、「灰とダイヤモンド」「カティンの森」の巨匠、アンジェイ・ワイダ監督87歳の新作「菖蒲」が、瑞々しい
抒情の中で、人間の根源的なテーマ「生と死」を見つめるポーランド文芸映画として優れている。(★★★☆☆)


映画「先祖になる」―頑固おやじ愛と勇気の老人力全開!―

2013-03-20 09:30:00 | 映画


 東日本大震災から2年、復興はまだまだである。
 岩手県陸前高田市で、農林業を営むその人佐藤直志を描くドキュメンタリー映画だ。
 中国残留孤児を描いた「蟻と兵隊」池谷薫監督が、震災後1年6カ月をかけ、東京と岩手往復5万キロを走行し、復興への夢を燃やし続ける、ひとりの老人の姿を撮り続けた。
 カメラは、孤軍奮闘する頑固老人に寄り添い、いかなる困難にも屈しない、日本人の底力を描く。

 その人は、自らの職業を「樵(きこり)」といい、森で木を切り、住んでいた元の場所に新しく家を建て直す1年半を、池谷監督が綴った。
 復興にかける執念と、日本人の文化の豊かさと、常に前向きの夢を忘れずに・・・。





      
佐藤直志さん、77歳・・・。

彼の家は、東日本大震災の大津波で壊され、消防団員だった長男は波にのまれた。
この時、陸前高田市で1800人が津波に巻き込まれた。
生きがいを失ってしまったとき、年老いた男に一体何ができるか。
彼は、ひとつの決断を下した。
元の場所に、家を建てることだった。

自分は樵(きこり)だ。山に入って木を伐ればいい。
友人から田んぼを借り、田植えをする。
何があろうと、仮設住宅には入らない。
その土地に根ざした、彼の頑固ともみえる意志の強さは、少しずつだったが周囲を動かしていった。
生きることの本質を、問いかけるかこように・・・。


加齢とともに、腰の痛みも耐え難く、忍び寄る病魔をものともせず、一向に進まぬ市の復興計画に業を煮やし、数々の障害を乗り越えて、自分の夢を叶えるべく不屈の努力を重ねた。
そして、新しい家が建った。

池谷薫監督は、この映画の製作にあたって、相手のふところ深く飛び込み、長い時間をかけ、あくまでも優しい眼差しで、心の内面を追った。
彼は震災直後に、自分に何かできることはないかと岩手県を訪れたとき、直志さんとの運命的な出会いをした。
池谷監督は心を揺さぶられるものを感じ、佐藤直志の人間そのものを追った。

直志さんは毎朝、瓦礫と化した近隣の人々に「お早うございます」とメガホンで呼びかけ、自ら復興の先頭に立った。
その一方で、新居の設計図を作り、森に入って、水につかった木を自らチェーンソーを使って伐り出し、家の再建を目指した。
大震災から2年を過ぎて、この間の時間の経過から生まれた映画作品の一本だ。
スポンサーもなく、借金をしての製作だそうだ。
池谷薫監督「先祖になる」は、文芸作品かと思えるほど優しいドラマ性を持った、ヒューマンドキュメンタリーだ。
ドキュメンタリーだから、60年以上も樵として生きてきた自負も伝わってきて、年輪を重ねた笑顔と丸出しの方言も心地よく、演技ではない実写がとてもいい。
市の復興計画に反発し、なお頑固に見えるその人の「水と種があれば人は生きていける」という強い意志に、感服させられる。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「愛、アムール」―幸福な夫婦が老いて迎える人生の最終章―

2013-03-15 11:00:00 | 映画


壮絶で痛ましいが、端正な愛の物語だ。
ミヒャエル・ハネケ監督の、フランス・ドイツ・オーストリア合作映画である。
老いた夫婦の献身は、凄まじくも厳粛で残酷だ。
そして、看過することのできない、現実的なドラマだ。

ミヒャエル・ハネケ監督は、この作品で、2回目カンヌ映画祭最高賞パルムドール先日の米アカデミー賞外国語映画賞受賞した。
実に完成度の高い作品だ。
高齢化社会の厳しさを、見事なまでに描き切った。
無駄のない、研ぎ澄まされた映像は、必要にして簡潔、そこには感傷など一切ない。
ハネケ監督は、人間が死に向かうときの、ひとつの愛のあり方をどこまでも冷静に見つめる。









          
ジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)とアンヌ(エマニュエル・リヴァ)の夫婦は、80代の元ピアノ教師で、パリの高級アパルトマンで穏やかに暮らしていた。
ところが、ある日突然妻が病に倒れ、日常が暗転する。
妻は病院嫌いになっていて、入院だけはしたくないと、自宅にこもってしまう。
しかし、アンヌの身体には麻痺が残り、車椅子の生活を余儀なくされ、変わり果てた姿を見られたくないと、ますます閉じこもりがちになる・

妻アンヌは、さらに認知症の症状も現れるが、養老院のような施設には入らず、通いの介護人に頼る日々だが、雇い入れても人扱いが気に入らず数日で解雇してしまった。
夫のジョルジュは寡黙だが、ひとりで妻の介護を続ける。
アンヌの症状は確実に悪化し、心さえも失っていく。
長年連れ添い、幸福な家庭生活を送ってきて、妻を愛しているがゆえにその意思を尊重し、自宅で献身的に介護を続けるジョルジュだった。
しかし、次第に意思の疎通も難しくなり、妻との生活は徐々に追い詰められていく・・・。

ドラマは、二人の幸せそのものの生活から始まり、徐々に進行する介護の難しさを、ハネケ監督は丁寧に細やかに描いていく。
主演の二人、「男と女」(1966年)ジャン=ルイ・トランティニャンと、「二十四時間の情事」(1959年)エマニュエル・リヴァの演技が素晴らしい。
美しいフランス語の日常会話が、端的に簡潔に、そして知的にドラマを綴っていく。
二人の名優も、いま美しく老いて風格がにじみ出ている。

心身の自由が失われていく老婦人の変化を、壮絶なまでに演じきったエマニュエル・リヴァは、名作「二十四時間の情事」で、広島の原爆と自信の
戦時中の体験に深く思いをはせる、理知的な女性を演じていた。
そう確か、共演者は今は亡き岡田英次だった。
いい映画であった。

これまで疑惑と不信、暴力、狂気を描き、2009年には悪意に取り憑かれた村の悲劇を描いた「白いリボン」(2009年)でも、パルムドールに輝いたハネケ監督は、ここではひと組の夫婦の、静かな老境の愛の行く末を見つめた。
ミヒャエル・ハネケ監督フランス・ドイツ・オーストリア合作映画「愛、アムール」は、誰でもが必ず迎える「老い」と「死」を描いて、容赦ない誠実さは傑作に近い。
静かな画面だが、ひとつひとつ息詰まるような場面から目が離せない。
アパルトマンの中庭側の窓から、いつのまにか一羽の鳩が迷い込み、廊下をうろつく。
それを、夫は毛布を持って追いかけると、鳩は逃げまどい、やがて開けられた窓から飛び出していくシーンがある。
その閉ざされたかに見える空間に、鳩は二度にわたってっ侵入するのだが、このシーンなど、物語のまさしく終章を暗示する場面ではないか。

ドラマは、淡々とした日常を通して、老いてもなお美しい夫婦愛を描いている、
在宅医療という選択は、この作品では究極の愛の形だ。
そしてそこは、老老介護という在宅医療の現場だ。
この作品の舞台はフランスだが、医療の不確実性、訪問介護、男性介護、介護ストレス、家族との関係性といった、日本人の考えておくべき終末医療の現実とどう向き合うかという問題を、高い芸術性をもって直視している。
大変重いテーマだが、あえてそれを描いた秀逸な作品だ。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「千年の愉楽」―紀州の路地に溢れる若き命の讃歌―

2013-03-10 19:00:00 | 映画


 紀州が生んだ作家中上健次代表作「千年の愉楽」を、若松孝二監督が映画化した。
 2012年10月に急逝した、若松監督の遺作である。
 いわば、この作品は若松孝二監督の集大成ともいえる最新作だ。

 生まれて、死んで、生まれていく生命・・・。
 命の炎を燃やす、中本の男たちは美しい。
 そして、彼らの生と死を見つめる女の物語だ。
 これは、鬼才・若松孝二監督最後の叙事詩だ。
 三重県尾鷲市の静かな集落を舞台に、昭和の薫りが色濃く漂う作品を描き上げた。
 そこは、よみがえりの地である。
 匂い立つような命も、不条理ゆえに、ときに命の讃歌となる・・・




      
紀州の路地に生を受け、女たちに圧倒的な愉楽を与えながら、命の火を燃やし尽くして死んでゆく。

高貴で穢れた血を継いだ、「中本の男たち」は美しい。
ここでは、男たちはみな美しく、性的魅力にあふれ、好色だが力強く、炎のように生きる。
しかし、最下層の仕事をするほかはなく、最終的には、過剰な生命力のゆえに、何ものかの生贄となって無情な死を迎える・・・。
ここでいう「路地」は他界であり、また日本の表徴のように扱われている。

その中本の男たちの、血の真の尊さを知っているのは、彼らの誕生から死までを見つめ続けてきた、路地の産婆オリュウノオバ(寺島しのぶ)だけだ。
ここでただひとりの産婆オリュウは、この土地のすべての嬰児を、母胎から取り上げる。
母親より先に、命の誕生を見る女なのである。
オリュウは、中本の男たちの出産を、格別の思いで見守ってきた。
そして夫の礼如(佐野史郎)は、僧侶として、この地に生きる者すべての、命の終わりに立会い続けてきた。

オリュウは、年老いていまわの際をさまよい続けていた。
この路地に生を受け、もがき、命を溢れさせて死んでいった、美しい男たちの物語が甦る・・・。

己の美しさを呪うように、女たちの愉楽の海に沈んでいった半蔵(高良健吾)、刹那の炎に己の命を焼き尽くした三好(高岡蒼佑、路地から旅立ち、北の地で立ち上がろうともがいて叩き潰された達男(染谷将太)たち・・・。
そして、生きよ、生きよ、お前はお前のままで生きよと、祈り続けたオリュウがいる。
うたかたの現世で、生きて死んでいく人間を、彼らの生き死にを見続けてきたオリュウの祈りが、時空を超えて、路地の上を流れていく。

時間も空間も、壮大なスケールの物語を、オリュウノオバが祈りの中で回想する。
風景と女性の胎内が、一体となってしまったような、その結合部分のような存在感だ。
人間の感情の流れが、途切れることなく描かれる。
この映画には、くだくだした説明はない。

中上健次原作に惚れ込んだ、若松監督のエネルギッシュな演出は激しく、暴力的で、それでいて感傷的で、どこまでも自然体だ。
人が人を差別する社会の中で、人は次々に生まれ、次々に死んでいく。
そのあまりに不条理で中上健次が描かずにはいられなかった美しさに、若松監督が触発され、映像による新しい表現が選ばれたのだ。
映画は、まともな死に方をしなかった、3人の中本の男たちの生き様を、愛おしむように見つめる。
「路地」に住む男たちが、長年続いた差別の中で、教育から疎外され、伝説や神話に誘導され、落とさなくてもいい命を落とすのだ。
半蔵は寝取った女の男に腹を刺され、三好は首を吊り、達男は炭坑で殴り殺される。
半蔵の父親彦之介(井浦新)も、半蔵が生まれる日に、同じように女に刺されて死んだ。
彦之助の父親は首を吊り、叔父は目が見えない。
中本の血は澱んでいて、世間から貶められ、穢れの罪を負わされたと死に際に叫ぶ・・・。

オリュウにとっては、自分の取り上げる赤子はすべて「仏さま」であり、人はみんな仏様さまの化身だ。
人間はすべて平等であり、貴賤の区別はないと言いたいのだろうか。
そして、それがこの作品のテーマだ。
生とは何かという、厳しい問いかけがここにある。

若松孝二監督の遺「千年の愉楽は、無知と神話による悲劇を描いている。
小説「千年の愉楽」は、20年前に他界した中上健次の代表作のひとつだ。
これまでも映画化の企画はあったが、実現には至らなかった。
原作は連作形式で、いくつもの物語と主人公が存在するため、作品の切り口が難しいということもあったかもしれない。
「路地」と呼ばれる空間の中で生まれ育った、美貌の若者たちの物語が、彼らを取り上げたオリュウノオバの記憶として語られるのだ。
オリュウと、夫で僧侶の礼如の二人は、彼らの誕生と死に深く関わっているという設定だ。

中上健次は、海が好きだったそうだ。
しかし、彼が描く「路地」からは海が見えず、この映画が撮影された、尾鷲の海が陽光にきらめいて拡がるさまは、原作者の情念が、映像の中に解き放たれる象徴であるかのようだ。
若松浩二監督は、この遺作の公開をどんなに期待していたことだろう。
彼はこの作品の中に、沢山の風景を遺し、思いがけない事故で逝った。
こういう作品は、なかなか生まれてこないだろう。
常に探し続け、怒りつけ、求め続けてきた生の不条理・・・、多くの彼の作品群は、いつまでも輝くような生命に満ち溢れている。
日本の映画界は、またまた惜しい才能を失ってしまった。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「最初の人間」―アルベール・カミュ少年期の追憶をたどって―

2013-03-08 22:15:00 | 映画


 「異邦人」「ペスト」「反抗的人間」で知られる、フランスノーベル賞作家アルベール・カミュの未完の遺作が映画化された。
 カミュは、世間には不条理とも見えた、自動車事故で不慮の死を遂げた。
 まだ46歳の若さであった。

 この自伝的小説「最初の人間」の草稿は、彼の生い立ちと思想をうかがわせる、重要な位置を占めているといわれ、2013年カミュ生誕100年記念を記念し、イタリアジャンニ・アメリオ監督・脚本で、重厚な作品として公開された。
 小説の原稿は、事故当時、カミュのカバンの中に入っていたといわれる。










     
1957年初夏・・・。

作家コルムリ(ジャック・ガンブラン)は、老いた母カトリーヌ(カトリーヌ・ソラ)が独りで暮らすアルジェリアを訪れる。
コルムリは、フランス領であるこの地で生まれ、育った。
そこは、独立を望むアルジェリアの解放戦線と、フランスの紛争の真っただ中で、一触即発の状況を呈していた。
故郷の温もりだけはあの頃のままで、いつしか心は少年の日に還っていく。

若くして父は戦死し、厳しい境遇の中で懸命に働き、コルムリを育ててくれた母、敬虔な祖母、気のいい叔父たちがいたが、彼らは文字が読めなかった。
そんなコルムリを、文学の道に誘ってくれた恩師や、アルジェリア人の同級生のことなど、数々の思い出が彼の胸に去来する。
その一方でコルムリは、現実の状況は当時と大きくかけ離れてしまったことを、目の当たりにする。

コルムリの旅は、アルジェリアの貧しい家庭に育った、彼の複雑な生い立ちをたどる。
それは、自分の存在を確かめる旅であった。
その中でコルムリは、フランス人とアルジェリア人の和解のために出来ることは何か、思い悩み続ける・・・。

カミュ原作の映画「異邦人」 (1968年/ルキノ・ヴィスコンティ監督)も、原作とともに異色の衝撃的な作品として、本作「最初の人間」ジャンニ・アメリオ監督)ともども、イタリア人監督というのが面白い。
「今日ママンが死んだ。それも昨日か、僕は知らない」
棺に安置された母の死に顔を無視し、昔なじみの女と一夜を共にし、真昼の海辺で刃物を手に持って襲ってきたアラブ人を、薄れる意識の中で射殺する。
その理由について、陪審員も裁判官も理解できない「それは灼熱の太陽のせいだ」と供述し、死刑判決にも抗わない男ムルソーを描いた「異邦人」(1942年)で、カミュは一躍文壇の寵児となったのだった。
そのカミュの、未完であれ、遺作としての自伝的作品は、文学史的にも貴重だ。
「不条理」「反抗」という言葉を知っていても、民族闘争やテロの吹き荒れるいま、カミュの奥深い思索を知るのもいい機会かもしれない。

ジャンニ・アメリオ監督フランス映画「最初の人間」は、現在(1957年)と過去(1924年)を行きつ戻りつしながら描かれる。
アメリオ監督は、淡々とと時には無表情に、穏やかな語り口でドラマを綴る。
「現在」には、緊迫した空気が張り詰めているが、「過去」には、幼き日の郷愁が詩情豊かに立ちのぼっている。
そして作家コルムリは、焼けただれたバス、死人、爆弾テロの現場を目撃する。
コルムリはカミュ自身だ。

まだ植民地だった頃のアルジェリアで、貧しく育ったカミュの回想録でもある。
アルジェリア人であると同時に、フランス人でもあるカミュの苦悩がのぞく。
だから、声を大にして叫ぶのだ。
「争うのではなく、共存を」と・・・。
そして、生まれ育った風土と人への、とりわけ自分の母への愛を感じさせる作品だ。
特別インパクトの強い、ドラマティックな展開はない。
そういう、自伝的色彩の強い作品なのだ。

南フランスのプロヴァンスに、ルールマランという小村がある。
そこに、村営かと思われる質素な墓地がある。
麗々しい他人の墓の陰に、身をすくめるようにうずくまっている小さな墓石がある。
幅70センチ、縦50センチほどの平たい石で、その表にはただALBERT CAMUS 1913-1960 とだけ刻まれている。
しかも長年の風雨にさらされて、その文字ももはや定かではない。
ノーベル賞作家の墓としては、質素を通り越してあまりにも粗末なものだった。
パリの目抜き通り、モンパルナスの墓地に立つサルトルの墓と比べても、あまりにも貧しいものだ。
カミュの墓に詣でる人の、絶えてないということか。
写真で見る限り、周囲に雑草が生えて、これでは、さながら忘れ去られた無縁仏である。
弱冠43歳でノーベル文学賞に輝いた、戦後文学の寵児カミュの墓にしては、悲しすぎはしないか。
(本文一部、平成17年6月30日付、フランス文学者・大久保昭男氏の朝日新聞記事を参照させていただきました。)

     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「ルビー・スパークス」―風変わりで切ない奇跡のような恋物語―

2013-03-07 21:00:00 | 映画


 このドラマの中で、フィクションと現実を飛び越えて、小説よりもロマンティックな恋が始まる。
 ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス監督による、ラブストーリーだ。
 現代のおとぎ話なのである。

 いまハリウッドで注目度一番といわれる夫婦監督の、6年ぶりの新作だそうだ。
 主演のカルヴィンとルビーを演じる、ポール・ダノゾーイ・カザンは、実生活でもセレブ・カップルだから、監督も夫婦なら主演も恋人同士という‘Wカップル’が、ちょっと変わったラブストーリーを誕生させた。
 映画の舞台を現代のロサンゼルスに設定し、とびきりキュートでミラクルなお話を・・・。








      
天才作家として華々しくデビューしながら、カルヴィン(ポール・ダノ)は、極度のスランプ状態に陥っていた。

ある夜、カルヴィンは素敵な女の子の夢を見る。
そしてすぐさま、理想の女の子“ルビー・スパークス”を主人公にした小説を書き始める。
その彼の前に、不意に現れたのは、現実のルビー(ゾーイ・カザン)だった!
朝、目が覚めたとき、ルビーが朝食の準備をしていたのだ。
それからはカルヴィンにとって、夢とも現実ともつかぬ、不思議で魅惑的な日々の明け暮れが始まる。

そうして自分の、思い通りの女の子を創り上げるカルヴィンだが、彼の手によって、ルビーはますます魅力的な女になっていく・・・。

アメリカ映画「ルビー・スパークス」は、小説に描いた女の子が、突然恋人として現れたというお話だ。
ヒロインは、急に淋しがったり、突然はしゃいだり、カルヴィンが書いた通りに、考えやふるまいをころころと変える。
彼女を思いのままに書き換えても、決して思い通りにはならないのが、現実の恋の行方というものだ。
そんな夢のような話も、ときにはいいものだ。

この作品、実際に熱愛中のカップルであるダノカザンが、カルヴィンとルビーを演じ、それを夫婦監督のデイトン&ファリスが演出することで、ドラマにリアリティを生み出す上で大いに役立っている。
面白いのは、ルビー・スパ-クスを創り上げると、カルヴィンは自分の生活が滅茶苦茶になってしまうところだ。
彼は不安のため、仕事上も恋愛上も抑圧されている。
そして一方のルビーは、全く新しい世界をカルヴィンに見せようとする。
ドラマは、最終的にどうなっていくのだろうかと、目が離せなくなってくる。
だが、そこはそれ、あれ~っ、してやられた!と思うミラクルなしかけが、最後にはちゃんと待っていてくれるからよいのだ。


創りものとわかっていても、カルヴィンとルビーの関係は、わくわくするほどの素晴らしさがある。
それが夢であろうとも、だ。
ショック・不安ノイローゼ、半信半疑といった、男の様々な感情に加え、結局はその寛大さは共感を呼ぶキャラクターだ。
キュートな女性ルビーに扮する、1983年生まれのゾーイ・カザンは、名作「エデンの東」(1954年)巨匠エリア・カザンの孫娘で、本作の脚本まで書いた上に、製作総指揮にも名を連ねるなど、その多彩な才能に注目だ。

この映画を観ると、男という生きものは、つくづく誇大妄想狂だと思ってしまう。
淋しがりで、自分勝手で、まあどうしようもない生きものなのだけれど、心の底から憎めない、可愛いところもある。
虚構は虚構として、ヒロインを演じている女優自身が、こんなロマンを書いたところが心憎い!
たかが女、されど女、ひとりの女性にしてやられたと感じる、男もいるのではないか。
忙中閑を見つけて、明るく、軽快なコメディタッチの、たまにはこんな作品もいいものだ。
現在上映中の映画館が少ないのは難だが、近くレンタルも開始されるようだ。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)


映画「草原の椅子」―人生の岐路に立ったとき人は旅に出る―

2013-03-06 17:30:00 | 映画


「八日目の蝉」
では日本アカデミー賞最多10部門受賞した、成島出監督が、宮本輝の原作を得て映画化した。
宮本輝は、阪神淡路大震災で被災したのをきっかけに、シルクロードの旅に出て、日本人の再起する姿を書いた。

成島出監督は、東日本大震災後の日本人の出発点を、この作品から見出した。
そこに、この作品のテーマがある。
自分の人生は、これでよかったのか。
別の生き方も、あったのではないか。
人は立ち止まり、迷い、ためらう・・・。
作家宮本輝の体験をもとにして書いた、喪失と再生の物語だ。
これは、大人のための希望に満ちた寓話である。
そしてまた、桃源郷、フンザの映像が素晴らしい!








      
遠間憲太郎(佐藤浩市)は、カメラメーカーに勤める管理職だ。

いまは離婚して、大学生の娘と二人暮らしをしている。
その50歳を過ぎた彼に、運命的な出会いが訪れる。
憲太郎は、取引先の社長の富樫重蔵(西村雅彦)を助けたことから、同じ50代の男同士、親友となった。
彼は、ふと目にとまった陶器店の女主人篠原貴志子(吉瀬美智子)に魅かれ、淡い想いを寄せるようになった。
そしてひょんなことから、親から見放された見知らぬ男の子喜多川圭輔(貞光奏風)の、面倒を見ることになった。

憲太郎、重蔵、貴志子の3人は、いつしか同じ時間を過ごすようになり、交流を深めていく。
憲太郎は、4歳の息子を放棄する母親の身勝手を憤慨するが、彼としても、妻を欺き、家庭を崩壊させた過去を持っている。
そして貴志子にも、自らの胸に秘めていた、辛い過去があった。
3人はいずれも、年を重ねながら、心のどこかに傷を抱えている大人たちであった。
その中心に、幼いにもかかわらず、深く傷ついてしまった少年がいる。

圭輔は、実母と義父に二度捨てられ、心理的な抑圧で満足に話すこともできない。
憲太郎は、少年を施設に送ることを決めたが・・・。
こうしてめぐり逢った圭輔を含む4人は、これからの人生を見つめ直し、新しい希望を見出すために、ある日異国への旅立ちを決意する。

人は誰でも、自分の中に痛苦な部分を持っていて、いつもそこから逃げ出したいと思っている。
そして、ふと立ち止まる。そして、思い悩む。
登場人物たちの心の葛藤が、ときにはユーモラスに優しく描かれ、全体に温かな希望の光がさしている。
人生をやり直す、一言でいえば簡単なことが、そのために人は謙虚でなければならない。
日本から、わざわざ世界最後の桃源郷といわれるフンザへの、思いきった4人の旅・・・。
それは、希望を求める旅だ。

いつも、他の作品ではあまり感じなかったが、佐藤浩市がいい味を出しているし、吉瀬美智子の清潔感が際立っていい。
少年役の貞光奏風は本当の4歳だったが、2000人もの子役オーディションから選ばれただけあって、セリフは少ないが、集中力の高い演技は十分に及第点だ。
一方、重蔵役の西村雅彦も悪くはないが、やや力みすぎる演技が、いつもながら気になった。
それから、ドラマの後半で、フンザの集落で出会った老人が実にいい。
あの老人の存在感は、傑出している。
たまたまロケハンで、小さな集落を通りかかって、お店にたむろしている老人の中から、偶然見つけた全くの素人だそうだ。
いい顔していて、とってもいいねえ!
何と106歳だそうだ。

原作者は、映画化し難いはずの自分の小説が、期待以上の映画に仕上がっているので、ことのほか喜んだようだ。
成島出監督作品「草原の椅子」は、いまの日本の閉塞感が満ちている中で、「よき人との出会いは幸せを呼ぶ」といわれるように、人間どんなに年を重ね、どんな逆境にいようが、前を向いていれば、また出会いがある。
誰にだって、あるだろう。
やり直せたらと、思うことが・・・。
4人が揃って、世界の桃源郷フンザを訪れるこの映画のラスト、少年圭輔のことに触れ、貴志子が憲太郎に告げる言葉がじいんとくる。
 「遠間さんが父親になって、私が母親になれば、あの子は暮らせるんですね」・・・

      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「東ベルリンから来た女」―政治の過酷さをサスペンスフルに―

2013-03-03 21:00:00 | 映画


歴史の闇に隠された、真実がある。
想像もつかない事実の壮絶さに、人は愕然とする。
たとえ悲劇であろうとも、その悲劇に臆することなく、運命に生きる人たちがいる。

東西ドイツが統一されてから、今年で23年になる。
移りゆく時の流れは、これまで明らかにされなかった事実を、決して風化させることはない。
国家を信じること、人を信じることもままならなかった時代・・・。
クリスティアン・ペッツォルト監督は、ひとりの女医の日常を掬い取ることで、監視体制下の東ドイツに生きる人間の、重い心理的な抑圧をサスペンス映画のような緊迫感で描いた。








      
1980年夏のことだった。

旧東ドイツのバルト海沿岸の田舎町・・・。
その町の病院に、ひとりの美しい女医バルバラ(ニーナ・ホス)がやって来た。
彼女は、それまで東ベルリンの大病院に勤務していたが、西側への移住申請をはねつけられ、この地に左遷されてきたのだった。
バルバラは笑顔ひとつこぼすことなく、毅然と背筋を伸ばし、ただひたすら前を見据える眼差しは、一種近づき難い威厳を保っている。

誰もが、スパイかと疑念を投げかけられても仕方のない時代、新しく上司となった、アンドレ(ロナルド・ツェアフェルト)から寄せられるさりげない優しささえも、シュタージ(秘密警察)の監視つきだった。
西ベルリンに暮らす、恋人ヨルク(マルク・ヴァシュケ)との秘密の逢瀬や、自由を奪われた毎日にも、バルバラの神経は擦り減っていく。
そんなバルバラの心の支えとなるのは、患者への無償の献身と医者としてのプライドだった。
それと同時に、アンドレの意志としての姿に、尊敬の念を超えた感情を抱き始める。
しかし、ヨルクの秘密裡の手引きによる、西側への“脱出”の日は刻々と近づいていた・・・。

政治的な圧力に縛りつけられた、ヒロインの魂を、豊饒で自然あふれる田舎町の、ひと夏のきらめく陽光の中で清冽に解き放つ、寡黙で抑制のきいた演出が素晴しい。
バルバラの心は揺れる。
同僚の医師や、収容施設から逃げてきた少女との触れ合いで、「監視国家」の日常生活を、どこまでも静かな眼差しで、しかし緊迫感を持って描いた。
ベルリン国際映画祭で、銀熊賞(監督賞)に輝いた作品だ。
ペッツォルト監督自身、旧西ドイツの生まれだが、両親は1950年代に旧東ドイツから逃亡してきたそうだ。

多くの東ドイツ市民は、合法的に西ドイツに移住することができた。
その体制に不必要、あるいは危険とみなされた人々に、西への移住を認めていたからだ。
そうはいっても、朝鮮半島のように、東西ドイツが戦火を交えることはなかったので、旧東ドイツが、一概に暗い灰色の社会として類型的に言われることには、ペッツォルト監督も首をかしげる。
当時確かに、東は監獄のような国家だったが、同時に夢の中の世界であったような記憶もあると、のちに語っている。

当時の東ドイツは、現代のドイツや日本とは違う社会だ。
だが、この作品に描かれる不信や不安といった感情は、作品自体のテーマとして理解しうるものだ。
クリスティアン・ペッツォルト監督ドイツ映画「東ベルリンから来た女」では、説明的な描写はほとんどないし、インパクトのメッセージもない。(そのことがメッセージなのだ。)
台詞も少なく、無駄なカットもなく、非情な画面がドラマをサスペンスフルに演出する。
日本では初登場の監督だが、他の作品も観てみたい気がする。
自由と使命に揺れる、ひとりの女性の愛を描いて、知性と感性に満ちた繊細な作品だ。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点