徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「あしたのパスタはアルデンテ」―ときめきと笑いと涙の家族愛―

2011-10-30 09:00:00 | 映画


     イタリア発信の、ちょっと変わった家族の物語だ。
     人生には、いつだって様々な不安がつきものである。
     家族や親友、恋人にも言わない秘密がある。
     でも、自分に正直に、何事も恐れずに明日へチャレンジする。
     そうすれば、幸せはきっとやってくる。

     フェルザン・オズペテク監督のこの映画は、家族の深い絆をユーモアたっぷりに描いている。
     家族それぞれが持っている過去、現在を紡いで、笑ってほろりとさせるドラマは、未来へとつながってゆくエンディングに、幸福
     感を味わせてくれる。




 
ローマに住んでいるトンマーゾ(リッカルド・スカマルチョ)は、作家志望の青年だ。
実家は、南イタリアにある老舗のパスタ会社である。
兄アントニオ(アレッサンドロ・プレツィオージ)が、新しい社長に就任し、共同経営者一族の晩餐会が開かれる。
そこへ帰郷したトンマーゾは、家族に言えない三つの秘密を告白すべく、兄アントニオに予告する。
彼の秘密とは、大学の経営学部といつわり文学部を卒業したこと、家業につかないで小説家になること、そして最大の秘密は自分がゲイであることだった。

ディナーの席で、それをトンマーゾが告白しようとした矢先に、アントニオが機先を制して告白してしまったから、一同は驚愕し、父ヴィンチェンツォ(エンニオ・ファンタスティキーニは憤怒のあまり、長男に勘当を宣告して、そのまま卒倒してしまった。
家族は、大騒ぎとなった。
トンマーゾの未来や、老舗パスタ会社の将来はどうなってしまうのか。
一家に、再び平和な生活が訪れてくるのだろうか・・・。

父親の卒倒の場面などは、ちょっと出来過ぎというか、いかにもイタリア映画らしいが、こういう大げさな(?)シーンはどうもという気がしないでもない。
まあ、確かに、可笑しくもときに少し切ない、イタリア製のコメディではある。
パスタ会社の大家族のそれぞれが持っている、過去、現在、家族の構成をコミカルな語り口で描いている。
オズペテク監督は、幸福感や満足感を収束させながら、やや癖のある、強引ともいえる演出で、観客を引っ張っていく。
最後にいたる高揚感も、悪くはない。
笑いと涙に乗せて、家族の深い絆を綴りながら、映画が勇気をくれる。
ビタースウィートなコメディとはよく言ったもので、どこまでもイタリア的な物語世界の可笑しさなのだ。

イタリア映画「あしたのパスタはアルデンテ」(公式サイト)の、フェルザン・オズペテク監督はトルコのイスタンブール出身で、フェリーニロッセリーニといった巨匠たちの陰にあって、作家性のある作品を撮り続けており、これまでも数々の映画賞を獲得している。
彼の趣味嗜好をふんだんに取り入れた音楽も、大変効果的に使われており、色彩豊かな音楽が映画を盛り立てている。
ちょっぴり意地悪な毒舌と、金色のハートを持ったおばあさん(イラリア・オッキーニ)の存在は、この作品最大のスパイスかもしれない。


映画「一 命」―武家社会に立ち向かった侍たち―

2011-10-26 20:00:00 | 映画


   東京・近畿に木枯らし一番が吹いた。
   季節は、早くも晩秋から初冬へと、移り変わりつつある。

   さて、映画の方は時代劇だ。
   いま時代劇といえば、この人、「十三人の刺客」(2010年)三池崇史監督の力作である。
   かつて、1962年に、小林正樹監督「切腹」というタイトルで映画化されたことがある。
   この時は、仲代達矢石浜朗らの出演で、カンヌ映画祭審査員特別賞を受けている。
   原作は、滝口康彦「異聞浪人記」だ。

   武士に面目があるとすれば、何だろうか。
   形式を重んじる武家社会に、一石を投じる作品だ。

   食いつめた、武士の物語である。
   武士には誇りも意地もある。
   それが、徹底的に踏みつけられた時、武士として何をなし得るか。
   その屈辱の計り知れぬ大きさ、そして、復讐にかける、鬼気迫る執念が見ものだ。
   映画は、それらを重厚な描写で丁寧に綴り、作品を静かに盛り上げている。
   哀れと無情観をたたえた、力の入った作品だ。

         
戦乱の世が終わり、平和が訪れたかのように見えた、江戸時代初頭、徳川の治世である。
しかし、その下では、大名による御家取り潰しが相次ぎ、仕事も家もなくし、生活に困窮した浪人たちの間で、<狂言切腹>が流行していた。
それは、裕福な大名屋敷に押しかけ、「庭先で、切腹させてほしい」と願い出ると、面倒になることを避けたい屋敷側から、職や金銭がもらえるという、都合のいいゆすりだった。

そんなある日、名門・井伊家の門前に、ひとりの侍が訪れ、切腹を申し出た。
名は、津雲半四郎(市川海老蔵)と言った。
井伊家の家老・斎藤勘解由(役所広司)は、数か月前にも同じように訪ねてきた若浪人、千々岩求女(瑛太)の、狂言切腹の真相を語り始める。
武士の命である刀を売り、竹刀に替え、恥も外聞も捨てて切腹を願い出た、若浪人の無様な最期を・・・。
そして、半四郎はさらに驚くべき真実を、静かに語り始めるのだった。

津雲半四郎が、井伊家の庭で問うのだ。
 「恥を承知で、武士の妻子のために金子を頼んだ、その心底を誰も哀れと思わなかったか・・・」
自分一人ではどうすることもできない、慣習や社会の中で、武士として自分を信じる正しい生き方と、命をかけて貫こうとする侍たちがいた。
その生き様は、貧困、格差、政治、カネ、権力といった、いまの社会の構造とよく似ている。
三池崇史監督映画「一命(公式サイト)が描く、不条理に抗う武士の生き様は、悲哀に満ちている。
静かに進行するドラマが、やがて、壮絶な斬り合いへとなだれ込んでいく・・・。

いつもながら、殺陣や武士の所作はあくまでも優美で、四季の移ろいを情感たっぷりに捉え、映像は、時代劇初の3D映画としても話題になっている。
ただし、あえて3D版でなく普通のバージョンで観ても、映像全体の迫力は十分に伝わってくる。

50年前の映画「切腹」も、衝撃的な作品だった。
今回の作品は、現在から過去、さらに現在へ戻り、またもう一度過去に戻るというストーリー構成で、武士道精神とは相容れぬ要素をあえて主題としたところは、極めて現代的だ。
山岸きくみの脚本は、女性の慈愛の目から見た武士の姿を描いており、そこから浮かび上がってくるのは、日本人が受け継ぐべき、武士の「精神」だ。
旧作と比べて、作品の「心意気」には新しい解釈もあり、それは現代にも通じるものだ。

武士の義と人情を重んじる、半四郎役の市川海老蔵も上手いのだが、この作品、前評判のわりには観客動員数がはかばかしくない。
義を貫くことを重んじる役の海老蔵は、何とも下世話な当人の私生活で起きた、情けない一件がだぶってしまい、大きなイメージダウンは免れないところだ。
まあ、どうでもいいといえばどうでもいいのだが、そんな嫌な陰が差して、興業成績は想定の半分ぐらいで伸び悩んでいて、大幅な赤字なのだそうだ。
映画は、なかなかよくできていると思われるだけに、惜しい気がする。
…人間とは、まことに愚かなものである・・・。


映画「一枚のハガキ」―新藤兼人監督が99年の人生をかけた最後の作品―

2011-10-23 20:45:00 | 映画



     生きているかぎり、生き抜きたい。
     現代日本で、最高齢(99歳)の巨匠は新藤兼人監督だ。
     当のご本人が、映画人生最後の作品と自称する、力の入った作品だ。
      東京国際映画祭で、審査員特別賞受賞した。

     この作品は、監督自身の実体験がもとになって作られた。
     戦争の愚かさと、人間の希望と再生を描いて、心に迫るものがある。
     命あるぎり、人は強く生きてゆく。
     いい映画である。







            
戦争末期に召集された100人の中年兵は、上官がくじを引いて決めた戦地に、それぞれが赴任することになっていた。
くじ引きが行われた夜、松山啓太(豊川悦司)は、仲間の兵士、森川定造(六平直政)から、妻の友子(大竹しのぶ)より送られてきたという、一枚のハガキを手渡される。
それには、こう書いてあった。
 「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないので、何の風情もありません。友子」

そして、終戦・・・。
生き残ったのは、6人だけであった。
啓太は生き残り、亡くなった戦友の森川から託された一枚のハガキを持って、森川友子のもとを訪ねたのだった・・・。

実は、啓太も前線で戦死したと報告され、空の遺骨が故郷に届いていた。
その戦死したはずの啓太が、故郷の家に帰ると、自分の妻は不在で、啓太の父と恋人同士となっていて、妻はキャバレーで働き、金を稼いでいた。
それを見て、啓太は一旦はブラジル行を決断するのだが、思い直して日本にとどまったのは、戦死した友人森川の妻からの「一枚のハガキ」を彼から託されて、生きて帰ったら、きっと訪ねてほしいと頼まれていたからであった。

くじ運だけで、自分が生き残ったことに罪悪感を感じる啓太と、そして家族も、女としての幸せな人生も、何もかも失ってしまった友子と、二人は、戦中戦後を通じて、辛くも生き抜いていくことになるのだが・・・。
戦争に翻弄され、すべてを奪われた二人が選んだ再生の道とは、どんな道だったのか。

映画は、後半になると新劇の舞台を観ているようだ。
その‘舞台’は、淡々としていても、重厚でずしりと深い。
ドラマの中で、大竹しのぶ演技のテンションが高いのが気になったけれど、これは毎度のことだ。
でも、感情移入が強く、精神的にヒステリックになるのはどうか。

とても、印象的な場面がある。
・・・谷間から、重い水桶を天秤棒で両肩に担ぎ、運びながら、啓太は友子のがっしりとした姿勢に導かれて歩いている。
この水桶を並んで運ぶ二人の姿が、この映画「一枚のハガキ」のハイライトだ。
そういえば、同じようなシーンを、新藤監督の初期の作品「裸の島」(1960年)で見たことを想い出した。
そうだ。
天秤棒で水を運ぶ、あのシーンと酷似している。
モスクワ国際映画祭をはじめ、数々の映画賞に輝いた「裸の島」は、全編セリフのない見事なドラマだった。

新藤監督は、他の映画製作に携わった監督たち(たとえば吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」(47年)、「源氏物語」(51年)や、増村保造監督「刺青」(66年)などの、230本を超える脚本を執筆した。
それだけでも、大変なエネルギーだ。
新藤監督は、長年連れ添った、妻で女優の乙羽信子さんを、「午後の遺言状」など自らの多くの作品に登場させ、ずっと二人三脚を続けていたが、生前も今も、彼女のことを「乙羽さん」「乙羽さん」と呼んでいる。

余談になるが乙羽信子さんはかつて大映の専属看板女優だった人で、その彼女が、当時の大映の猛反対を押し切ってまで、独立プロの新藤作品に登場し、それまでの美しい御姫様女優が、自ら望んで体当たりで汚れ役に挑戦していた。
あの気迫も、大変なものだった。
今日、新藤監督があるのも、女優乙羽信子に負うところがいかに大きかったか。
愛妻に先立たれた新藤監督だが、今回の作品は、人間の生き抜くことの逞しさをも見事に謳い上げている。
この作品、来年2月に開催される、米アカデミー賞外国語映画賞部門に、日本代表作品として出品されることが決まっている。
名実ともに、日本映画界を代表する最高齢(白寿!)の映画監督として、新藤兼人は今も健在だ。


映画「朱花(はねづ)の月」―万葉の地に宿る濃密な古代の記憶―

2011-10-21 13:30:00 | 映画


    
     飛鳥地方にある大和三山とは、畝傍山、香具山、耳成山のことだ。
     いにしえの昔から、神々の宿る地とされてきた。
     そこは、今なお万葉の時代と変わらぬ姿を見せている。

     その飛鳥を舞台に、人の命のあとさきを、自然との融合の中に描こうとする、河瀬直美監督の試みである。
     今と昔の、男と女の恋模様・・・。
     一瞬の狂気が、それを朱花(はねづ)の色で染めるのか。
     遠い過去と未来をつなぐ、物語といったらいいか。









      
染色家の加夜子(大島葉子)は、地元PR紙の編集者の恋人・哲也(明川哲也)と、長年一緒に暮らしてきた。
しかし、かつての同級生で木工作家の拓未(こみずとうた)と再会したことから、拓未といつか愛し合うようになっていた。
二人は、幸せな時を過ごしていたが、加夜子が身ごもったことを契機に、平穏だった日常生活に変化が訪れる・・・。

そして、さらに、互いの祖父母の悲恋という過去が交錯する。
大和三山を男女になぞらえ、「一人の女を二人の男が奪い合う」と、幾多の万葉歌に詠まれているように、加夜子、哲也、拓未という三人の男女が愛することの意味を模索しつつ、向き合うことになる。
加夜子は拓未から“言葉”を期待し、拓未は小さな命の誕生を待ち焦がれる。
哲也は、加夜子から気持ちを打ち明けられるのだが、それでも変わらぬ愛で向かい合おうとする。
・・・しかし、やがて、危うくも保たれてきた三人の均衡も、ついに崩れていくこととなる・・・


朱花(はねづ)というのは、万葉集に登場する朱(赤)色の花なのだそうだ。
この色は血や太陽、炎を連想させ、命を象徴する一方、赤は最も褪せやすいがために、貴重な色と考えられていたらしい。
その色の褪せやすさに重なる、人の世の無常や儚さを表しているのだそうだ。

この映画「朱花(はねづ)の月」は、かたちは愛の物語だ。
作品には、グランプリ監督・河瀬直美一流の省略や飛躍もあって、理解し難い内容のところもないわけではない。
それに、過去と現在、さらには夢の話までが交錯して、少し混乱しそうだ。
夢に現れる、石室の中から聞こえてくる、言葉にならないうめき声は何だ・・・。
あれは、死者の魂の叫びだろうか。
時は流れ、人は変わっても、いつまでも変わらぬものがある。
時の「輪廻」ともいうべきだろうか。

    燃ゆる日も取りて包みて
    袋には入ると言はずや
    逢はなくもあやし    (万葉集)

河瀬直美監督映画「朱花(はねづ)の月」の原案は、この歌からとった坂東眞砂子小説「逢はなくもあやし」からで、脚本の方は、拓未と哲也の間で揺れる女の気持ちが柱となっていて、その表現のために、主役の大島葉子は、河瀬監督から厳しい注文を受けたといわれる。
台本を文字で読み解いて、それを頭に入れて身体を使って表現するのではなくて、映画製作過程(たとえば役者、スタッフ一緒になっての合宿生活などを通して)の環境の中で、役者は自然につくられていくというのが、当代女流監督第一人者の河瀬監督の持論だ。
だから、役者とのリハーサルもしないで、むしろ1回でOKを出すことも多い。
それだけ、演技指導も厳しいということになる。
作品の中での、登場人物の台詞も実に自然で、まるでアドリブのようで、演技をしているように見えない。

タイトルだけをとってみても、この作品は、古代の言葉を現代に甦えさせることで、その言葉のもつ意味や深さを感じとることができるということだろうか。
その昔、持統天皇という女の天皇が、飛鳥時代の大きな都、藤原京を造った。
それは、夫を亡くした妻が造り上げた都だったわけで、いわば古代の夫婦の愛の結晶だった。
映画は、万葉集の持統天皇の歌が、当然モチーフになったのだろう。
遠い過去と今をつなぐという話には、少し背伸びをし過ぎている感がないわけではない。
一言で言ってしまえば、今も昔も、男と女というのは変わらないということだろうか。
そう思うと、無理筋の描写や、ややこしいと思われる映画の作りも、素直に理解できる気がする。


映画「レイン・オブ・アサシン」―迫力と美の剣の舞が魅せる愛と闘いの物語―

2011-10-18 21:30:00 | 映画


     豪華絢爛、疾風怒濤とくれば、大作「レッドクリフジョン・ウー監督が放つ、最新作だ。
     この作品は、中国武術の剣(つるぎ)の舞を描いて、出色の面白さだ。
     様々な、究極の秘技を操る刺客たち・・・。
     その決戦のさなかに、ぐいぐい引き込まれる。

     美しい孤高の女剣士を待ち受ける、非情な宿命が愛に舞い、壮絶きわまりない武侠アクションを繰り広げる。
     お互いが、秘められた過去を持つ、男と女の愛と葛藤のドラマである。








     
壮大な神秘に彩られたこの物語は、武術の奥義を究めたインドの王子、達磨大師をめぐる‘伝説’から幕を開ける。
それから数百年後、明朝時代の中国・・・。
謎の暗殺組織<黒石>が、ミイラ化した達磨の遺体を手に入れようと、暗躍していた。
その遺体を得たものは、絶対的なパワーの恩恵に浴し、中国武術界の覇権を握るとされていた。

ところが、<黒石>の最強の女刺客細雨(ミシェル・ヨー)が、忌まわしい過去と決別するために、組織を裏切り、達磨の遺体とともに失踪した。
やがて、細雨は曾静という新しい名前を名乗り、都の片隅で出会った、心優しい配達人の阿生(チョン・ウソン)と結ばれる。

しかし、非情な宿命が、殺しの過去を捨て去った女性の、慎ましい幸福さえも容赦なく打ち砕く。
そんな彼女に、<黒石>の凄腕の刺客たちが、ひたひたと迫って来ていたのだ。
孤高の女刺客は、人生のすべてをかけ、最強の暗殺組織との壮絶な最終決戦に、その身を投じていくのだった・・・。

中国・香港・台湾合作映画、ジョン・ウー監督「レイン・オブ・アサシン」は、ドラマの迫力と面白さについては、もう文句なしだ。
美貌と演技力を兼ね備えた、アクション女優ミシェル・ヨーが素晴らしい。
冷酷な、女刺客の過去を封印して生きようとする曾静は、凛々しさ、勇猛さに加えて、揺れる女心の哀しみまで、実に繊細に表現する。
魅力的なヒロイン像だ。

相手役は、韓国の正統派二枚目俳優のチョン・ウソンだが、愚直で不器用な配達人を演じながら、ドラマ後半に入ってまさかの‘変身’を披露するという、阿生の驚くべき二面性を好演している。
ただ、よほど注意力を集中していないと、字幕に追われているうちに、画面がどんどん変わっていってしまう速さだ。
しかも、スローな映像と、スピード感あふれるアクションシーンを、見事にコラボレートさせている。
とりわけ、剣(剣)の舞は必見だ。

外国映画は、字幕に追われていると、訳が分からなくなってしまうことがある。
あまりなじみのない、登場人物の名前まで混乱してしまうものだ。
このドラマの最後のからくりは、絶対に見逃してはならない、なかなかの仕掛けだ。
ミシェル・ヨーが舞えば、チョン・ウソンが覚醒する。
このドラマの中には、冒険、復讐、恋愛、伝説、義理、人情、ユーモアといった、活劇映画の精神がいっぱいに詰め込まれているから、観ていて楽しい。
過去を持つ男と女の、愛と葛藤のドラマが、中国、韓国、台湾、香港のトップスターの競演で、まずは期待に応えてくれる作品に仕上がっている。
魅惑的なスリルとロマンに満ちた、武侠大作といえる。
この映画、首都圏、それも神奈川県では、上映館が横浜で一館だけというのは、またどうしたものだろうか。
 


映画「親愛なるきみへ」―どこか頼りない不器用な純愛物語―

2011-10-15 16:00:00 | 映画


     少しでも風が強く吹くと、枯葉がはらはらと舞い落ちる。
      秋は、さらに深まりの色を見せている・・・。

     映画「きみに読む物語」
など<恋愛小説の神様>の異名で知られる、ニコラス・スパークスのベストセラーの原作を映画化した。
     小説出版前から、映画化権獲得競争が激しかったそうだ。
      「ショコラ」(00)、「HACHI 約束の犬」(03)で、映像美豊かな作品を発表した、ラッセ・ハルストレム監督アメリカ映画だ。
     でも、これを珠玉というには、正直のところいささか憚られる、ラブストーリーである。
     もちろん、これは、個人的に強く思うことだけれど・・・。







    
2001年春、アンリか南部に住む裕福な女子大生サヴァナ(アマンダ・サイフリッド)は、自閉症の父に育てられた特殊部隊の兵士ジョン(チャニング・テイタム)と、ともに帰省していた故郷の海辺で出逢った。
二人は、一緒の時間を過ごすたびに、強く惹かれあい、二週間で恋に落ちていく。
しかし、ジョンは米軍の戦地に再び赴かなくてはならず、サヴァナの心は揺れる。

機密事項のため、赴任地も明かせないジョンと、大学に戻り学生として生活するサヴァナは、遠く隔たった距離を埋めるように、約束通り絶え間なく手紙を交換することによって、大切に愛を育てていた。
それが、二人にとって、信じあえる唯一の絆であった。

・・・時は流れ、世界の情勢が複雑化する中で、ジョンは兵役の任務を延期せざるを得ない状況に追い込まれる。
彼は、祖国への献身と、サヴァナのもとに戻りたい想いの内で苦悩する。
しかし、そんな二人の関係は、ある事件をきっかけに引き裂かれる。
そして、ある日ジョンのもとに届いたのは、サヴァナからの別れの手紙であった・・・。

二人の出逢いは、甘い恋愛小説の書き出しを思わせる。
物語の核となるのは、それ以後のことだ。
このドラマは、長距離恋愛を描いていて、二人の恋は、戦争と‘9.11テロ’で引き裂かれるが、そこには‘献身’の精神がある。
ジョンはサヴァナとの結婚を考え、除隊するつもりだったが、祖国への忠誠心と責任感のために、戦地に引き止められる。
このあたりの突込み、描写が浅いのは残念だ。
同じようなことが、サヴァナにも言える。
自閉症の施設建設を夢見ていたサヴァナは、ジョンに別れの手紙を書くのだが、この身の処し方がいかにも唐突だ。
かなりの泣かせどころかどうか知らないが、観客を甘く見てはいけない。

9.11テロそのものが、二人を引き裂いたわけではない。
それは、ほんのきっかけに過ぎない。
二人の揺れる心は、もっと深く突っ込んで欲しかったし、ジョンと離れている間にサヴァナの身に起きたこと(!!)は、ある意味、ジョンへの裏切りと取れないこともない。
いや、この作品を観た男性なら、間違いなく裏切りだと思うだろう。
ちょっと信じ難いドラマの展開を挟んで、二人の成り行きがどうなるか、気をもませるところだ。
女性側から見れば、サヴァナの決断は納得(?)できるかもしれないが、男性側からだったら、どうか。

ラッセ・ハルストレム監督アメリカ映画「親愛なるきみへ」は、抒情的なラブストーリーを映画というキャンバスの上に描いているが、本来監督の得意な分野であるはずの、人間の持つ抗いがたい強い感情の源泉に何があるのか、さらにきめの細かいキャラクターを作り上げてほしかった。
孤独な人間に寄り添う優しさには、もっと努力することと勇気を持つことも、大切なのではないか。
良くも悪くも、拍子抜けのするほどあっさりしていて、欠点をいえば、描写不足なのだ。
魅力的な二人の主人公を配しながら、純愛映画として観たとき、この作品の安易な満足感には、どうしても物足りなさが残る。


映画「黄色い星の子供たち」―フランスの歴史の陰に隠されていた知られざる真実―

2011-10-12 16:30:00 | 映画

     
     ここに、決して忘れてはならない、歴史的事実がある。
     50年もの間、公式には認められなかった事件だ。
     それは、1942年にフランス政府によって行われた、史上最大のユダヤ人の一斉検挙だ。
     これは、その一斉検挙によって、家族と引き裂かれながらも、過酷な運命を懸命に生きた子供たちの、<真実>の物語だ。

     1995年に、シラク元大統領がフランス政府の責任を認めるまで、事件は、ナチス・ドイツによる迫害のひとつだと捉えられ
     ていたのだった。
     歴史の陰に、知られざるもうひとつの暴挙が隠されていたのだった。
     フランス政府は、何故こんな悲劇を生んだのか。

     元ジャーナリストのローズ・ボッシュ監督の、フランス・ドイツ・ハンガリー合作映画である。
     彼は、この事件の真相を描くべく、3年にわたる緻密な調査と研究を続けた。
     事件に関係する、記録文書や映像に片っ端から目を通し、生存している目撃者に連絡を取って、証言を集めた。
     ひとりひとりの、愛すべき小さなエピソードと、彼らに起きた憎むべき大きな運命を調べるうちに、彼らの人生を再現し、フィ
     ルムに生きた証を焼き付けたいと願った。
     そして、この作品は生まれた。


                           
ナチス占領下のパリ・・・。
ユダヤ人は、胸に黄色いダビデの星をつけることが義務付けられた。
11歳の少年ジョー(ユーゴ・ルヴェルデ)は、黄色い星をつけて学校へ行くのが、嫌でならなかった。
おまけに、公園や映画館、遊園地への立ち入りも禁じられていた。
何かが、変わろうとしていた。
それでも、ジョーは父(ガド・エルマレ)や母(ラファエル・アゴゲ)たちと、誇り高く、仲睦まじく暮らしていた。

だが、1942年7月16日、夜明け前のパリで、ユダヤ人の一斉検挙が始まった。
胸に黄色いダビデの星をつけたユダヤ人は、子供も女性も赤ん坊さえも、1万3000人がわずかな荷物だけを持って、ヴェル・ディヴ(冬季屋内競輪場)に押し込められた。
そして5日間というもの、水や食糧もろくになく、放置された。
最低の衛生状態の中で、自らも検挙された、シェインバウム医師(ジャン・レノ)がたった一人で、派遣されたごく数人の看護師とともに、人々の治療にあたっていた。
そこに、赤十字から派遣された、看護師のアネット(メラニー・ロラン)も加わるが、とても追いつかない。
でも、それは、信じがたい出来事の、まだほんの序章に過ぎなかった・・・。

フランス政府は、何故か、国民には、検挙の事実を極力知られないようにしていた。
ユダヤ人検挙を実行したのは、ナチス・ドイツに荷担した、フランスの政府と警察であった。
この事件は、約50年もの間、フランスのタブーだった。
一体、フランスは何をしたのか。
何の目的で、罪のない子供たちの、尊い命まで差し出してしまったのか。

鉄条網を挟んで、両親と引き離される、子供たちの泣き叫ぶシーンは、胸に詰まる。
そんな子供たちを、献身的な愛情で、最後まで守ろうとする看護師アネット・・・。
シェインバウム医師役の、フランスの名優ジャン・レノも、苦悩するひとりの医師を、静かな品格をもって演じている。
子供たちの人生の一瞬一瞬・・・、小さな掌、澄んだ瞳、汚れのない笑顔、決して消えることのない希望の輝きを、見逃してはいけない。
昨日まで、母に抱かれていた、子供たちと家族の絆はいやがうえにも引き裂かれ、彼らのほとんどは、二度と帰ってこなかったのだ。

一斉検挙された16歳以下の子供の中で、生き残ることのできた数少ない人物の一人、ジョゼフ・ヴァイスマンから、かつて彼らの生きた証を撮りたいと重大な使命を負ったボッシュ監督、勇気と力を与えられたたのだった。
そして、現在に至る彼の人生を基に、主人公ジョーが生まれたのだ。

“ヴェル・ディヴ事件”と誰が名付けたのか、映画「黄色い星の子供たち」では、フランス人が、ユダヤ人の平凡な日常と、人間としての尊厳を奪った様を、容赦なく映し出している。
壁際にうずくまって、人に見られながら排泄し、極限まで飢えているのに、フランス軍や警察はただそれを傍観しているだけであった・・・。
こんな悲劇が、実際にあったのだ。
いま、70年の時を経て、フランスという国家が、自国の大いなる恥部と正面から向き合った。
歴史とは、残酷なものだ。
驚愕の映像が共感を呼ぶ、大作といってもいいほどの、感動的な作品だ。


映画「夜明けの街で」―禁じられた恋の衝撃の結末―

2011-10-10 17:00:01 | 映画


     紅葉がすすんでいる。
     秋が、次第に深まりを見せている。

     ミステリー作家東野圭吾が、初めて恋愛をテーマとして書いた小説が原作だ。
     それを、大作「沈まぬ太陽」若松節朗監督が、映画化した。
     描かれるのは、甘く切ない、しかし残酷な不倫の恋である。
     この恋は、地獄だ。

     恋人たちの街、横浜を舞台に、大人の愛の機微をすくい取って・・・。
     狂おしい情熱と、迫りくる不安の狭間で、虚しくもがく恋がある。
     それはまた、救いがたい恋でもあった。




   
大手建設会社に勤めるエリート社員・渡部和也(岸谷吾朗)は、美しく従順な妻・有美子(木村多江)に何の不安もなく、可愛い盛りの一人娘とともに、幸せな生活を送っていた。
和也は、あるとき、自分の会社に派遣されてきていた部下の女性・仲西秋葉(深田恭子)と知り合い、そのどこか謎めいた雰囲気に惹かれていった。
甘く、残酷な、不倫の恋の始まりであった。

和也は、家庭では優しい夫を演じながら、クリスマスイヴもバレンタインも、妻には嘘を重ねて、秋葉のもとに向かわずにはいられなかった。
やがて、秋葉は、自身の過去に起きたある事件について、語り出すのだった。
その謎と彼女の孤独を知った男は、より深く彼女との関係に溺れていく。
それは地獄、甘い地獄だった。
いや、罠だったのかも知れない。
そこからどんなに逃れようと思っても、自分の中の悪魔はそれを許さなかった。

情熱と不安の中で、男は、どこまで謎を持つ女を愛せるか。
秋葉が口にする‘3月31日’がやってきたとき、彼女が15年もの間抱えこんできた秘密が明らかにされる。
そして、その日を境に、二人の関係にも大きな変化が訪れようとしていた・・・。

「不倫をする奴なんて、馬鹿だと思っていた」という和也自らが、道ならぬ恋にのめりこんでゆき、どうにも動きが取れなくなっていく様は、それこそ男が嵌まった地獄の罠であった。
その愚かさを、妻の有美子は全て知っていて、知らぬ表情を装っていたのか。
有美子の動静は、不気味な怖さをたたえている。
本当に怖いほどだ。

女は、彼女が言うところの‘不自由な愛’よりも、‘自由な愛’を望んでいたのか。
男が、いよいよとなって家庭を棄てようと思ったとき、衝撃の結末が訪れる。
戸惑いを隠せないまま、うろたえるしかない男の孤独のみじめさが、そして、一方で男をもて遊ぶかのようにも見えた、女の優しさ、不可思議さが、奇妙な不協和音を奏でながら、ドラマを引っ張っていく。

若松節朗監督映画「夜明けの街で」は、導入部が少々かったるい感じで、やや退屈感もある。
詩的で文学的な(?)会話のやり取りも、どうも確かなリアリティに乏しく、もどかしい気がするのは、原作のせいなのだろうか。
それでも、微妙に変化する男女の心理を丁寧に描いていて、手に取るように心の動きがわかる場面も多い。
ミステリーというよりは、ラブストーリーの要素一杯のドラマである。

このドラマは、ありていに言えば、不倫の怖ろしさとともに、不倫の魅力のようなものも感じさせる作りだが、妻子のある男性は、こんなとき、どこまで自分の家族を愛し切れるものだろうか。
不倫は、男にとっても女にとっても、精神的、経済的に高いリスクを覚悟せよということのようで・・・。
甘い誘惑には、必ず毒がある。
世の中で怖いのは、男ではなく、薔薇のようにかぐわしく、しかし甘やかな毒を持った、したたかな女かも知れない。
・・・と、わかったようなことを言ってみても、この作品、そんな怖いもの知らず(?)の、一見何とも頼りなさそうで、抜き差しならない恋へ向かっていく、子どもみたいな男を演じて、岸谷五朗が好演だ。






映画「この愛のために撃て」―逃走と追跡の圧巻のシークエンス!!-

2011-10-07 21:35:00 | 映画


     フランス気鋭の俊英フレッド・カヴァイエ監督の描く、極上のサスペンスアクションだ。
     昨今のハリウッドの娯楽大作をあざ笑うかのように、小気味よい、ノンストップ、スリングな85分間である。
     とにかく、全編にわたって、手に汗握る緊張の連続だ。
     こちらは興奮されっぱなしで、息つくひまもない。

     パリの市街地で、よくこんな作品が出来たものだ。
     やはり、映画はこうでなくてはいけない。
     そう思わせるに十分な、作品だ。
  
フランス・パリ・・・。
市内の病院に勤務する、看護助手のサミュエル(ジル・ルルーシュ)は、出産間近の妻ナディア(エレナ・アナヤ)と、慎ましくも愛情にあふれる毎日を過ごしていた。
ところがある日、サミュエルは、突然家に押し入ってきた謎の男たちに暴行され、気を失ってしまう。
彼が、携帯電話の音に目が覚めたとき、電話の向こうから、妻の泣き叫ぶ声とともに、「今から3時間以内に、お前の勤める病院から、警察の監視下にある男を連れ出せ。さもないと、妻を殺す」という声が・・・!

その男というのは、昨夜交通事故で、意識不明の重体で病院に運ばれた、ある重要事件の容疑者サルテ(ロシュディ・ゼム)だった。
妻のナディアが誘拐されたのだ。
サミュエルは理由もわからぬままに、必死の覚悟で犯人の要求に従おうとするのだったが、やがて、今度は自分が警察から追われる羽目になってしまったのだ。
自分には、ひとりの味方もいない。
サミュエルは、絶望的な状況下で、再び妻に会うために全てをかけて走り続けた・・・。
そして彼は、やがて衝撃的な真実にたどり着くことになるのだった。

ごく普通の幸せな夫婦を襲った、誘拐事件である。
タイムリミットは3時間だ。
孤立無援の救出劇は、こうして始まった。
パリの街を疾走する男の姿が、サスペンスフルに展開する。
テンポも早いし、パリ市内群衆の中を、追いつ追われつの逃走劇が繰り広げられる。

観ていて圧巻だったのは、パリ市内の地下鉄構内のシーンである。
ここでの長い追跡シーンは7分間にも及び、電車の接近してくる線路の上での逃走シーンは、実にスリリングで、重要な場面だ。
構内の撮影シーンは、行政や支援体制の点でもいろいろと問題もあっただろうが、しかしよく撮ったものだと感心する。
これだけのシーンでも、4日間かけたといわれる。
パリ市街の雑踏のなかでの、緊迫した逃走劇と同様に、失敗の許されないシーンだ。

警察内での、何もかもがひっくり返ったようなドタバタは、ちょっと異常といえば異常だが・・・。
ドラマは、息詰まるようなテンションを持続させつつ、増幅増大し、よくぞ85分間の作品にまとめたと思われる。
強烈なサスペンス、スリル満点だ!
人は、愛する者のために、かくも強くなれるのだろうか。
フレッド・カヴァイエ監督フランス映画「この愛のために撃て」は、無実の罪で獄につながれた、妊娠中の妻を救い出すために、決死、必死の行動に走る中年男を描いて、ドラマの面白さたっぷりのニュー・フレンチ・ノワールだ。
前作「すべて彼女のために」でデビューしたばかりの、カヴァイエ監督は今回の作品でテーマをさらに掘り下げ、斬新な感情ドラマを追求している。
そこに、この映画の面白さがあるのではないか。





花のいのちはみじかくて―林芙美子没後60年記念展―

2011-10-03 22:00:00 | 日々彷徨


   花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき・・・。
   『いま輝く 林芙美子没後60年記念展』が、10月1日(土)から11月13日(日)まで開かれている。

   港の見える丘公園を抜け出ると、真紅の彼岸花が秋の風に揺れていた。
   空はかすかに曇っていた。
   秋の日の文学散歩は、神奈川近代文学館だ。
   昭和を代表する、放浪の女流作家林芙美の残された原稿、草稿、書簡、遺愛品など、およそ400点によって、その生涯と
   作品を紹介している。

   1930年、「放浪記」で文壇にデビューした林芙美子は、一躍ベストセラー作家の
   仲間入りをする。
   その後、「清貧の書」「うず潮」「浮雲など、貧しさや戦争によって翻弄される、庶
   民の哀感を書き続けたのだった。
   



芙美子自身、貧しい苦しさの中で育ち、少女時代から日本中を流転しながら、昼は旅商い、夜はキャバレーの女給などをして働き続けたわけで、その中から彼女の文学は大きく育っていったのだった。
しかし、決してその哀感の中に溺れることはなく、いつも明るく、そしてこよなく人を愛した。
幾人もの男を愛し、別れてはまた愛し、まるで運命のように、出会いと別れを繰り返した。

林芙美子は、人気作家となってからも、筆力は衰えることなく、人々が活字に飢えていた戦後の時代にあって、自由にものを書くことができる世を歓んでいた。
書ける限り、彼女は書き続けた。
映画化された作品も、数えき切れぬほど多い。
1951年、朝日新聞に連載中だった「めし」は、作者急逝により未完の絶筆となった。
享年まだ47歳の若さであった。

小説「めし」は、川端康成の監修の奏功が大きかったこともあるが、上原謙、原節子の共演、名匠成瀬巳喜男監督を得て、映画としても大ヒットした。
また、芸術座で上演された「放浪記」は、菊田一夫演出、森光子主演で、1961年10月20日から上演通算2000回を超え、芸術座閉館とともに終演となったことは記憶に新しい。

あまり語られていないかも知れないが、林芙美子は‘一人旅’を愛し、中国、東南アジアはもちろん、フランスにも渡り、パリの街を下駄履きで歩いた日本人としても有名になった。
晩年、自ら設計した東京下落合の家(現・林芙美子記念館)に住み、親しい人を呼んでは割烹着姿で台所に立ち、料理の腕を振るったといわれる。
芙美子の作る「めし」は、上手いと評判だったそうだ。
この記念展、旅と芸術を愛し、恋と文学に生命を燃やし続けた作家の、47年という短い生涯を浮き彫りにしていて、関心のある人には興味深い。

なお、本展関連行事としては、記念講演会が、10月16日(日)(太田治子)、 11月5日(土)(川本三郎)の両日行なわれます。
また、記念朗読会は、10月8日(土)(紺野美沙子「放浪記」)と10月22日(土)(五代路子「晩菊」ほか)に催されます。
ほかに、文芸映画を観る会(成瀬巳喜男監督作品 高峰秀子主演「稲妻」)などが予定されています。