徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「ジョン・カーター」―大胆で奇抜で壮大なファンタジーの世界―

2012-04-30 10:00:00 | 映画


 ウォルト・ディズニー生誕110周年記念と銘打ったこの作品は、大人も子供も文句なしに楽しめる。
 アンドリュー・スタントン監督による、初の実写映画だ。
 「スターウォーズ」シリーズや、「アバター」に多大なインスピレーションを与えたとされる、エドガー・ライス・バローズの伝説のSF小説「火星のプリンセス」が原作だ。
 未知なる伝説の惑星を舞台にした、壮大なアドベンチャーが、世紀のディズニー・スペクタクル巨編で登場した。

 当然、映像も音楽も、ドラマティックかつダイナミックである。
 いまの沈潜する時代に、想像を超える世界の出現に、見どころもいっぱいで、娯楽映画の大作としての見応えは十分だ。
 ストーリーに、多少荒削りなところがあっても・・・。






     
1881年のニューヨーク・・・。

ジョン・カーター(テイーラー・キッチュ)という名の大富豪が、謎の失踪を遂げる。
愛する妻と娘を失って以来、彼は他人との付き合いを断ってきた。
その彼が、甥のエドガー・バローズ(ダリル・サバラ)に、一冊の日記を残していた。
そこに記されていたのは、想像を超えた、彼の“体験談”であった。

生きることの意味を失っていたカーターは、ある不思議な現象によって、未知なる惑星“バルスーム”に迷い込む。
この星は、地球を凌駕する文明を持っており、全宇宙を支配しつつある“マタイ・シャン”(マーク・ストロング)によって、滅亡の危機に瀕していた。
カーターは、バルスームの民たちと心を通わせていたが、かつて妻と娘を救うことのできなかった無力感が、彼らと戦うことを躊躇させていた。

だが、マタイ・シャンの無慈悲な攻撃にさらされるバルスームの惨状が、カーターの中に、新たな感情を芽生えさせる。
サーク族との戦い、ヘリウム王国との戦い・・・、惑星バルスームでは、壮絶な戦いが繰り広げられる中で、カーターは自ら、漆黒の髪をなびかせた美しい女デジャー・ソリス(リン・コリンズ)を助ける・・・。

スタントン監督のイマジネーションを具現したクリエイターたちは、誰も見たことのないバルスームを創造し、牽引する。
このドラマ自体、壮大なスケールと手に汗握る冒険の、破天荒でわくわくさせるような面白さは、実に痛快だ。
物語を体現するキャストも、斬新かつ豪華な顔ぶれで楽しい。
カーターは、地球に帰ることと与えられた使命に引き裂かれ、デジャー・ソリスは、王女としての使命とカーターへの想いに引き裂かれ、タルス・タルカス(ウィレム・デフォー)は、種族の存命か戦うべきかに引き裂かれる。
そこに、このドラマを貫いているテーマがある。

原作はファンタジーだが、小説を映画化するとき、フィルムメーカーの成すべきことは、文字通りそれを忠実に描くかどうかではなく、小説を読んだ読者が
感じるのと同じような感覚を、映画の観客が感じられなければならない。
アンドリュー・スタントン監督は、アメリカ映画「ジョン・カーター」(2D・3D)で、それを目指した。
異世界に放り込まれた男の、絶望と葛藤、優しさを秘めた勇気と強さ、自分自身を変革していく男の旅路が、新たなヒーローを誕生させた。
映画を支えている、マイケル・ジアッチーノの、色彩感豊かで高いテンションの音楽も、ねりあげられたオーケストレーションが見事に功を奏している。
この娯楽映画の大作も、新時代の、エキゾティックで野蛮な冒険映画として、なかなかいけるではないか。
映画は楽しければいい。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「ドライヴ」―闇を切り裂く鮮烈な映像と音楽とバイオレンス―

2012-04-25 10:35:00 | 映画


若葉が萌えて、鳥はさえずり、陽光を浴びて、この季節はどこかへドライヴとしゃれ込みたいところだ。
たかがドライヴといったって、これは、そんじょそこらの生半可なドライヴとはわけが違うのだ。
サスペンス一杯の超特急「ドライヴ」だから、ドラマから目を離せなくなるしろものだ。
うっかりすると、見失ってしまうほどのテンポの速さに注目だ。
それは、これまで体験したことのないような、スカッとした爽快さである。

この作品は、天才的なドライビングテクニックを持つ、孤独な男を描いた作品だ。
孤独、愛、友情、悪、憎しみ・・・、多彩なドラマの要素を盛り込んで、疾走する。
息をもつかせぬ、疾走感にひきつけられる。
       
カンヌ国際映画祭で、監督賞受賞した、デンマーク鬼才ニコラス・ウィンディング・レフン監督の野心作である。
華麗で、スリリングで、爽快なクライム・ムービーだが、スクリーンからはみ出しそうな錯覚さえ覚える。
それでいて、純粋な愛の物語でもある。
             
昼はハリウッドのスタントマンで、夜は強盗の逃走を請け負う運転手“ドライバー”(ライアン・ゴズリング)は、家族も友人もなく、孤独に生きる男だ。

ひとたび依頼を受ければ、迷路のように入り組んだLAの街を、パトカー相手に機械のような正確さで走り回り、淡々と任務を遂行する。
いわば、プロの逃がし屋なのだ。

ある晩、仕事を終えたドライバーは、同じアパートに住む子連れの女性アイリーン(キャリー・マリガン)と、偶然エレベーターに乗り合わせたことから、一目で恋に落ちる。
そして、車の事故で困っている彼女と息子を助けたことで、次第に親しくなっていく。

しかし、アイリーンの夫が服役を終えて帰ってくることを知って、ドライバーも一度は身を引く覚悟を決める。
が、夫を組織から足抜けさせるための犯行を手伝ううちに、次第に、マフィアの罠に絡め取られてしまう・・・。
ドライバーは、愛する女を守るため、裏社会を相手にして、危険な闘いを仕掛けていくのだった。

街中を車で走るシーンは、敵とのチェイスともども見応え十分だ。
それは、愛と暴力を、車の疾走によって描いているといってもよい。
主演のドライバーを演じるライアン・ゴズリングは、ほとんどセリフがなくても、わずかな動作で、多くの言葉を語れるほどの演技派だ。
主人公が寡黙なだけに、車のエンジン音だとか、車内にかかる音楽が、登場人物の感情を代弁する。
暴力シーンなどは影で表現され、計算されつくした映像は、きわめて刺激的だ。
エレベーター内での、同乗していた男との猛烈な格闘といい、カーチェイスの激烈さには目を奪われる。
登場人物は、どれもこれも曲者俳優ばかりで、迫力満点のアクションは、緊迫感の連続だ。
その中には、ユーモアが流れる余裕さえもあって・・・。

アメリカ映画「ドライヴ」は、なるほどセリフというセリフは数えるほどしかない。
女がそばにいても、黙って見つめているシーンばかりが多い。
セリフに代わって、別のものが語るのだ。
ゴズリングの青い目、、青い月夜、整備工場の青い壁、アイリーンの赤いベスト、セーター、アパートの赤い廊下といった具合で、画面はいつも冷たい青や緑、暖かい赤や黄色やオレンジで塗り包まれる。
この二色のコントラストも、ドライバーの冷たい暴力とアイリーンの暖かい日常の対立(?)だろうか。
出会ってはいけないその二人(あるいはその二つ)が、交錯する。
ドライバーの職業を、アイリーンがたずねる。
 「危険?」
それは、二人の危険な関係をも意味している。

作品は、実にシャープでエキサイティングだが、しかしどこまでもしなやかである。
ドライバーの仕事は、武器を持たず、強盗もしない。
善人であれ、悪人であれ、クライアントをひたすら車で運ぶだけで、仕事が済めば、まるで存在すらしていなかったかのように、姿を消すのである。

ライアン・ゴズリングは、寡黙な一匹狼のドライバーだ。
顔色ひとつ変えない、無表情で、ミステリアスだし、凶暴な変身をしたかと思うと、ストイックな雰囲気の中にロマンティックを感じさせる男を演じて、上手い。
希薄(?)な生を生きてきたに違いないドライバーが、ひとりの女に恋をし、復讐に立ち上がろうとするのだが、彼が浮かべるわずかな微笑と眼差しが、沈黙の中でとても印象的だ。

デンマーク出身で、次世代のラース・フォン・トリアー(「メランコリア」)といわれていた、ニコラス・ウィンディング監督のこの映画センスは、単に車のカーチェイスを盛り込んだアクション映画ではなく、非現実的な中にもファンタジックな要素もある作品だ。
物言わぬヒーローの映画として、異色の面白さだ。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


ああ、原発なかりせば―政府と電力会社の拙速な再稼働の愚、許すまじ―

2012-04-21 22:00:00 | 寸評

花の季節だというのに、衝撃的な話が伝わってきた。
あの原発事故から、早いもので一年有余・・・。
福島で、5歳の子供が下痢を訴え、次に口内炎などの症状が現れ、それから鼻血が出るようになり、身体に紫斑が出始めたそうだ。
広島での被曝体験があり、以来、放射能が人体に及ぼす悪影響の研究を続けてきた医師の警告だ。
これは、間違いなく被曝の初期症状だというのだ。
そして、広島、長崎の被爆者と同じ順序で症状が進行しているそうだ。
福島第一原発の事故によって、大量に放出された放射性物質が、人体を蝕み始めたのではないかというのだ。
怖れていたことが、早くも始まったということか。
あまりにも、残酷過ぎる話である。
これから後、何が、どんなことが起きてくるというのだろうか・・・。

・・・福島原発事故で失われたものは、あまりにも大きい。
いまも、16万人が故郷を追われている。
その反省も検証も、まだなされていない。
何をしているのだ。
大きな不安の中で、根本的な安全対策も基準も出来ていないのに、政府は原発再稼働へ前のめりになっている。

原発再稼働がないと、電力は本当に不足するのか。
いや、そんなことはないとの声も、あちらこちらから聞こえてくる。
政府や電力会社は、電力需給について、突き詰めた細密なデータを提示していない。
そして、原発の全停止は、国民の‘集団自殺’だなどと言って扇動している。
何を血迷ったことを、言っているのか。

国民が節電に務めるだけで、つまりちょっと工夫するだけで、いまの日本の真夏をも楽に乗り切ることができるというのに・・・。
政府や関西電力が何を言おうと、中部電力にしても中国電力にしても、十分な余剰電力を有しているので、いざという時にはいつでも本気で電力の融通は可能なのだ。
電力が足りない足りないとはいっているが、どうやら眠っている火力発電や、いざという時のために公にされていない、余剰電力もそこそこあるそうではないか。
一体どうなのだ。
政府や電力会社が、嘘をついているとしか思えない。
努力すべき対策は、本気になればいくらだってあるのに、それもしないで、電力不足をことさらアピールして不安を駆りたてる。
そんな姑息な手段で、国民を恫喝するのも、いい加減にしてもらいたいものだ。

雨の日だった。
停止中の、大飯原発の再稼働に反対する2000人近い人々が、首相官邸前でシュプレヒコールを叫んでいた。
女子学生、サラリーマン、子供を持つお父さんたちだ。
この人たちは、みんな抗議行動などはじめてなのに、よくぞやってくれました。
いまの国民の代弁者たちだ。

世界に名だたる地震国に54基もの原発を作り、日本は世界第三位にのし上がった。
はじめは原発利権から動き、それが誤った原子力絶対主義をまかり通すことになった。
それ自体、狂気なのだ。
それなのに、この国は、周期的に必ず巨大地震や大津波が押し寄せてくることを知りながら、誤った「政治」が、原発を絶対「安全」だと偽って、強引に最初のレールを敷いたのだった。

政治家ならぬ政治屋にとって、この巨大公共事業のうまみは相当なものだからだ。
原発立地の地元には、膨大な金を落として、住民を懐柔するシステムを作ってきた。
だから、原発なくしては、地域住民は生活が成り立たないところまで来てしまった。
今だから言えるかもしれないが、取り返しのつかない、大変なことをしてくれたものだ。

官僚は、政治と電力会社を結びつけ、橋渡しをしてきた。
両者ともに、原発マネーにどっぷりとつかってきたのだ。
もはや散々言い古されたが、原発に安全だなどということは、絶対にない。絶対にないのだ。
永田町には、原発推進派の議員が、それでもうじゃうじゃといる。
原発推進派によって、利益を得るごく一部の人間たちのために、消費者も、世界一高いといわれる電気料金を、支払わされているのではないか。

いま、そうした普通の人たちが動き出したのは、原発が、いかに怖ろしいかを知ったからだ。
近く、あるいは将来、いつ大きな地震が来るかわからない。
こんど原発事故が繰り返されたら、もう、この国にはきっと住むことができなくなる。
地震という災害は、人間の手で止めることはできない。
だが、原発事故は人災なのだから、防ぐことができる。
原発再稼働を、安易に容認してはならない。

原発事故によって、想像以上に、放射能汚染地域は日本中のいたるところに拡がっている。
こうしている今も、じわじわち拡がりつつある。
大気中に放出された、放射性セシウムの総量は、最大約四京ベクレル(京は兆の1万倍)というから、これだけで旧ソ連のチェルノブイリ原発事故での放出量の約2割だ。
先々月、気象庁気象研究所が、まとめた試算を公表した数字に驚いている。

原発安全神話たるものは、根拠がなく、もろくもとうに崩れ去った。
何が安全なものか。
それなのに「原発で輝かしい未来を!」などと騙され、不当にも容認されてきてしまった。
利益優先、安全軽視の人災だ。
原発がなければ、電力不足になるというが、これもおかしい。

人類は、原子力を完全に制御する技術を持っていない。
放射性廃棄物は、処理されることもなく、どんどんたまり続けているではないか。
なすすべもないということは、怖ろしいことである。
核が、人類と共存できるわけがないのだ。
それでも、原発を稼働したいのか。

原発は廃止すべきで、廃炉の心配はもとより、再稼働はやめるべきだ。
ストレステストだって、あてにならない。
さもないと、人類は、重大な過ちを犯したまま滅亡へ向かうことになる。
安全だというなら、誰が安全と確認したのか。

原子力安全委員会は、ストレステストの一次評価の結果を了承したといっても、大飯原発が安全だなどとはひとことも言っていない。
政府御用達の専門家のみならず、反原発専門家の意見は聞いたのか。
反原発科学者の意見は聞いたのか。
くどいようだが、原発の安全性の評価については、あの斑目委員長ですら「不十分」の見解を示しているではないか。
はっきり言えば、原子力安全委員会の専門家さえもが、大飯原発の再稼働の安全性評価について「不十分」と判断しているにもかかわらず、たんなる素人の政治家ごときが、再稼働の安全性について、何故「十分」だなどと言いきれるのだろうか。

その昔、電気のない時代があった。
太陽と水があれば、極端に言えば、電気なしで人類は生きてきた。
それを、思い起こすことだ。
豊饒と飽食と贅沢が、人間に誤った驕りをもたらしたのだ。
全ての原発が停まったら、たちまち電力不足におちいり、産業活動に重大な支障をきたすからと再稼働を求める声があるが、原発なしでも国民の命や生活を守り続けることはできるはずである。

再稼働について、拙速な世論無視の結論を出すべきではない。
いままで電気をみだりに使い過ぎているのだから、もっともっと節電を心がければよいのだ。
日中の無駄な電気(駅のホーム、スーパーなど)、夜間の照明(過剰なネオンサイン、深夜のコンビニなど)は検討されていい。
大体、自販機がこんなに多い国も、日本ぐらいではないのか。

日本は世界に冠たる地震国だ。
こんな国に、原発は不要だ。
政府と電力会社は、何としても原発を再稼働したいらしい。
そもそも最初から、「再稼働ありき」がシナリオだからだ。
とんでもない話である。

・・・日本の大地も海洋も、セシウムによって汚染されてしまった。
大地で育つものも、海洋で育つものも、また汚れてくる。
残念ながら、本当に残念ながら、私たちがセシウムから完全に解放されることは、かなえられぬ夢の話だ。
これから、100年たとうが200年たとうが、もはやそんな単位の話ではない。
今後、多かれ少なかれ、日本の国民はセシウムに汚染されたものを摂取し続けるのだ。
基準を決めて、それ以下だから安全だとかなんてないのだ。
そんなことは、ありえないのだ。
悲しいかな、危険は、いつまでも付きまとってくると考えなければならない。

それでも、原発再稼働なのか。
政府発表の詭弁やまやかしに、決して騙されてはならない。
そして、人間の命の大切さを、真剣に見つめ直さなければいけない。
迷走に次ぐ迷走を続ける野田内閣だが、去年発足以来、「脱原発依存」の方針を決めているはずなのに、いまだその方針を進めているようには思えない。
日本も、もっとしっかり「脱原発」へかじを取るべきだ。
二度と、大きな過ちを繰り返さぬためにも・・・。


映画「レイトオータム」―短い戯れが真実の愛に変わるとき―

2012-04-20 11:00:00 | 映画


 「晩秋」というタイトルで、かつて1966年に映画化された、イ・マニ監督作品のリメイク版だ。
 今回は、全編アメリカのシアトルに舞台を移し、キム・テヨン監督が一編のラブストーリーとして撮影した作品だ。
 秋の紅葉を背景に、追われる男と心の傷を持った女の、運命的な出逢いを描く。
 
 ・・・胸にしみいるような、切なさと哀しみに彩られた物語が、そこはかとなく展開する。
 いまはやりの派手さはなく、地味な作品だが、しみじみとした味わいは捨てがたい。













霧の街、シアトル・・・。

DVの夫を誤って死なせてしまったアンナ(タン・ウェイ)は、収監されて7年になる。
模範囚の彼女は、母親の訃報を受け、はじめて3日間の外出が許可される。
ただし、期間は72時間だけだった。
その間、アンナは、肌身離さず携帯電話の所持を義務づけられる。

葬儀に向かうシアトル行きのバスの座席に着くと、誰かに追われている様子の男フン(ヒョンビン)が、慌てて乗り込んできた。
フンは、バス代の持ち合わせもなく、乗客に同じアジア系のアンナを見つけると、バスの運賃を貸して欲しいと図々しく迫った。
仕方なく、アンナが運賃を貸すと、フンは申しわけなさそうに、金を返すまで持っていてほしいといって、自分の腕時計を強引に彼女に差し出した。
フンは、寂しい女性たちに「エスコート・サービス」をしている、よく喋る韓国人男性だった。
長い刑務所生活で、異性との会話もすっかり億劫になっていたアンナは、そんなフンに戸惑いを見せ、無視したまま別れる。

バスを降りて、つかの間の外出を満喫するアンナは、久しぶりにメイクアップし、ショッピングを楽しむのだが、しばらくすると残酷な現実を思い知らされる。
そんな時だった。
アンナは、偶然にも街角でフンと再会する・・・。

アンナに残されている時間は、限られている。
いったん別れた、行きずりの二人が再開したことで、ドラマは不思議な期待感を抱かせながら、緩やかに時を刻み始める。
もどかしくも、切ないドラマが綴られる。
短い戯れの中で見つけた、生涯の特別なラブロマンスだ。

タン・ウェイは、デビュー作「ラスト・コーション」(アン・リー監督)ヴェネチア国際映画祭新人女優賞で注目される女優で、この作品ではまた新たな魅力を引出し、韓国映画のみならずアジア映画界の注目を浴びた。
相手役のヒョンビンは、アメリカに暮らす韓国人の役柄を軽やかに演じている。
彼は、現在兵役中にもかかわらず、映画やテレビで人気沸騰の正統派だ。

雨と霧の街シアトルは、すっきり晴れる日が年間60日もないそうだ。
この街は湿っぽく、どうしても寂しさの漂う街である。
それだけに、またロマンティックだ。
孤独な男女が出逢う場所としては、この上ないロケーションなのだ。

アンナとフンが歩く細い路地、ギリシャレストラン、閉園した遊園地、そして、二人が乗り込んだダックバスのガイドの言葉が意味深く響いて・・・。
  ・・・ここで、また逢いましょう。
     あなたが自由になる、その日に・・・。  
キム・テヨン監督の、韓国・香港・アメリカ合作の映画「レイトオータム」は、そこはかとない哀愁を漂わせた、ちょっぴり魅力的な小品である。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「メランコリア」―もし世界が終わりを告げる瞬間が訪れたら―

2012-04-18 09:45:00 | 映画


 陽光うららか、日に日に、春らしくなってきた。
 これまでのソメイヨシノに代わって、八重桜の華やかなピンクが青空に美しく映えている。

 映画は、惑星の衝突による、地球滅亡の危機を描く作品だ。
 それは、ミステリアスなオープニングで始まる。
 そして、このドラマは最後まで謎に満ちた一作だ。

 今年、2012年という年は、マヤの預言の年でもある。
 それにあやかるわけでもないが、ラース・フォン・トリアー監督のこの作品は、一見不思議なドラマである。
 デンマーク・スウェーデン・フランス・ドイツが、製作に参加した。
 ヒロインを演じるキルスティン・ダンストアメリカ人女優としては18年ぶりに、カンヌ国際映画祭主演女優賞を受賞している。
 ヨーロッパ映画祭でも、最優秀作品賞など3部門受賞作だ。
 ワーグナーの楽曲「トリスタンとイゾルデ」をバックに、美しく荘厳な地球の最期を、比類のない映像美で描いている。
     
その日は、新婦ジャスティン(キルスティン・ダンスト)にとって、人生で最良の一日となるはずだった。
マイケル(アレクサンダー・スカースガスト)との結婚パーティーが、姉のクレア(シャルロット・ゲンズブール)と夫ジョン(キーファー・サザーランドの豪邸で華やかに行われていた。
しかし、みんなからの祝福を受け、笑顔を見せながらも、ジャスティンは虚しさとけだるさにとらわれていて、情緒不安定になっていた。
何かに憑かれたかのように、自分の気持ちをコントロールできなくなっていた。

そして、パーティーは最悪の結末を迎える。
憔悴しきって、歩くこともままならないほどのジャスティンが、クレアとジャスティンの邸宅を再び訪れたとき、惑星メランコリアは、地球に異常接近していた。
地球との衝突を恐れて、クレアは怯えていたし、ジャスティンも、月よりも大きくなった惑星の姿を目の当たりにしていた。
しかし、ジャスティンは、何故か自分の心が軽くなっていく感覚を覚える。
「地球は邪悪よ。消えても嘆く必要ないわ」

メランコリアが、地球に最も接近する夜・・・。
ジャスティンは、クレアたちとともに、その瞬間が訪れるのを待っていた。
それは、「世界の終わり」が訪れるかもしれない、瞬間だった・・・。
その夜、クレアは、突然ジャスティンがナイトガウンのまま庭に飛出し、夜の闇の中を走り抜けていくのを見て、すかさずそのあとを追った。
そして、ジャスティンが小川のほとりに全裸で横たわり、惑星に向かってうっとり微笑みかけるのを目撃した・・・。


デンマークを代表するトリア―監督が、この作品で描きだすのは、「世界の終り」という危機に直面した、ある姉妹の葛藤をめぐる、一種荘厳なドラマだ。
物語は、甘美で濃厚なワーグナーの音楽を得て、壮大な世界観を明らかにしていく。
序章で展開される、ジャスティンと惑星をめぐる象徴的なイメージの数々は、心のバランスを失って少しずつ崩れてゆく、ジャスティンの繊細な心理描写だ。
そして、巨大な惑星が、青白い光を放ちながら夜空を覆う、まるで絵画のように幽玄なシーンの展開が、あまり映画では見たこともないエンディングへと導いていく。
魂の救済とでもいおうか、エンドクレジット以降のエピローグは、観客自身に委ねられている。

惑星メランコリアが、地球に接近してきて衝突するとなれば、パニックや暴動で大変なことになるところなのに、あまりにも世界が静謐すぎる。
月と並んだメランコリアの投げる影・・・。
ジャスティンが、恍惚としてメランコリアに裸身をさらすところは、実に意味深い場面だ。
ここは、かえって姉の方が不安に震えて取り乱すところだが、ジャスティン自身が、‘破滅’を目前にして平明な心を取り戻すという、素晴らしく象徴的なシーンではないだろうか。

4か国合作映画「メランコリア」は、ラース・フォン・トリア―監督渾身の人間ドラマだ。
月並みなSFドラマになっていないところは、映画としての、より奥行の深い、濃密な香気を漂わせた作品にしていることに納得できるし、悲劇を予兆させないところがいい。
むしろ、未来を見つめる姿勢を貫いていると言える。
惑星メランコリアは、主人公が自分の心から呼び出した架空の産物なのか。
そして、それは避けがたい‘鬱’の塊を象徴するかのような惑星メランコリアを、地球めがけて接近する巨大な星と見たてた、作家トリアーの告白でもあろうか。
その時、姉のクレアの理性が崩れ、ジャスティンは逆に静謐を回復していくかのように、暗さの向こう側に明るい光が輝き、新たな何かが始まる予感がある。
星々の美しい週末の光景は、宇宙の詩情を感じさせる。
ここでは、それは荘厳な一篇の叙事詩に変わる。

トリアー監督は、幼いころから不安や疑念の感情とに強く閉じ込められてきたといわれ、自身この作品の完成度については、大きな不安と疑念を抱いていたが、数々の映画賞を総なめにするなど、作品として各方面から注目を浴びた。
人間の生きる原点を問い直すような、見方によっては、大変難しい作品だ。
精神的には甘美だが、その奥底に苦しい痛みを伴っている。
でも、幻想的ともいえる映像と、斬新な構成は、この映画の大きな見どころである。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「BLACK&WHITE/ブラック&ホワイト」―ハチャメチャで痛快で可笑しくも滑稽で―

2012-04-14 22:00:00 | 映画


 史上最大の“職権乱用”とは、何なのだ。
 馬鹿馬鹿しくも、白黒決めたい、危険な関係とは何なのだ。
 ひとりの女性をめぐって、前代未聞の恋の全面戦争を巻き起こす、アクションドラマだ。
 マックG監督によるアメリカ映画だが、CIAの凄腕エージェント二人が、大バトルを繰り広げる話だ。

 いかにもハリウッドらしい娯楽作品だが・・・。
 歯止めのきかない三角関係に、スパイの諜報テクニックや兵器まで総動員するとは、何ともメチャクチャなラブコメディだ。










     
CIAの凄腕コンビFDR(クリス・パイン)とタック(トム・ハーディ)は、ある日、闇商人の取引現場を抑えるはずの極秘任務についていたが、ターゲットを逃がしてしまい、謹慎処分の身となってしまった。

タックは暇を持て余し、恋人紹介サイトで知り合った、ローレン(リース・ウィザースプーン)という女性とデートすることになった。
ローレンは、元カレに彼女を見せつけられ、
彼氏を欲しいと最近あせり気味のOLだ。

一方FDRは、レンタルビデオ店でナンパ、なかなか思い通りにならない美女の登場にメロメロになってしまう。
何と、その女性はローレンだったのだ。
紳士的な性格のタックと、ロマンティストのFDR、この二人の男性にローレンの心は揺れ動き、ついつい二股をかけてしまった。

ところが、ある出来事で、FDRとタックは、お互いの恋人が同一人物だとわかってしまった。
ローレンを我が物にすべく、二人は、それぞれ「重要任務」といつわり、“職権乱用”の精鋭ティームを招集する。
もちろんローレンは、二人がCIAだと知るはずもない。
そのローレンの影で、宿命のライバルは、史上最大の恋の戦争をおっぱじめようとしていたのだった。

いやいや、荒唐無稽なドラマもあったものだ。
いかにも、ハリウッドのやりそうなことだ。
アメリカ映画「ブラック&ホワイト」は、スパイアクションを含んだラブコメディだ。
CIA諜報員のFDRとタックの、性格の異なるコンビがお互いに敵同士となって、それぞれのデートを監視するという、現実には考えられない“職権乱用”という設定は、あまりいただけたものではない。

ドラマの中には偶然も多いし、双方で同一人物の恋人を見せ合うなど、おかしく馬鹿馬鹿しい。
テンポもあって、派手なカーアクションまでありのこの娯楽映画は、笑いの要素満載で、まさにありえないドラマを楽しみたい人は楽しめばよい。
人の恋人をめぐってのバトルは、あらゆるハイテクを駆使して、スカッとした痛快さでいっとき笑わせるが、何もかもがハチャメチャな恋愛ゲームだ。
それに、やたらと騒々しくてやりきれない。
まあ聞いてあきれる“職権乱用”だが、世の中ではこういう作品が大受けするようで、全世界の興行収入は1億ドル(約81億円)を突破したそうだ。
いつになっても、この種の奢れる商業主義は健在だ。

この作品、春の夜ある試写会で観たのだが、あらかた楽しめた観客とは別に、「下らねえな!」と息巻いていたアベックの男もいたので、ああ、やっぱりなあと思った。
庶民感覚もいろいろありで、期待はずれであろうとなかろうと、覚悟はしておいた方がよろしいようで・・・。
面白かったという人には恐縮だが、まあ近頃稀な、とんだ噴飯映画だ。
     [JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点


映画「ルルドの泉で」―奇跡の泉が紡ぎだす光と闇の人間たち―

2012-04-11 09:00:00 | 映画


 オーストリア人の俊英女性監督ジェシカ・ハウスナーの作品だ。
 「奇跡」を巡るドラマだ。
 おとぎ話のような、極めて独特の世界観を描いている。
 ルルドは、フランス南西部のピレネー山脈の麓にある、小さな村である。

 「奇跡の水が湧き出る泉」があることで、特別な場所として知られる。
 そこは、心身の安らぎを求める人々が、年間600万人も訪れる、世界最大の巡礼地といわれる。
 初公開は、少し前の作品だ。
 








     
 不治の重い病で、クリスティーヌは(シルヴィー・テステュー)は、長いこと車椅子の生活を送っていた。

 彼女は、聖地ルルドへのツアーに参加する。
 病によって閉ざされ、孤独を強いられてきた彼女の人生において、唯一の楽しみは巡礼の旅ぐらいだった。
 ルルドには、病を抱えた人や、家族を亡くした孤独な老人、脳に障碍を持った少女たちが、奇跡を求めて集まって来ていた。

 そこで、洞窟での祈り、聖水を浴びる人々は、あるきまった儀式やしきたりに従って、粛々と行動する。
 そんな中、旅が終わりに近づいたある日、信者ともいえないクリスティーヌに、何故か奇跡が起こる。
 彼女が、突然立って歩けるようになったのだ。

 クリスティーヌは、お洒落をし、恋をしたりと、‘普通の女性’としての喜びを体感することになる。
 しかし、その奇跡が、周囲の人々の嫉妬や羨望などで、様々な波風を引き起こすことになった。
 さらに、この奇跡は長くは続かないかもしれないという恐れが、クリスティーヌの心を揺さぶり始めるのだった。

奇跡の泉が映し出す、光と影の人間模様は、ちょっと不思議な世界である。
何故、クリスティーヌだけに奇跡は起こったのか。
奇跡とは、何だったのか。
それをヒロインが体現してくれるのだが、にわかには信じ難く、期待するとしないとに関わらず、こういう現象が起きることが全くないわけではない。

敬虔な祈りがあるわけでもないのに、奇跡の兆しが訪れる理由はわからないのだ。
神父はドラマの中で、「神は自由だ」と語る。
映画は、細部にわたって、計算されつくした演出に従って、精妙な距離感とあくまでも静謐を保っている。
抑制のきいた、淡々とした描写が、この作品の性格もあるだろうが、極めておとなしい。
ジャック・タチの作品に影響を受けたと、ハウスナー監督の言うとおり、場面の所々にユ-モア(!)が光っているのは見逃せない。

ジェシカ・ハウスナー監督の、オーストリア・フランス合作映画「ルルドの泉で」(公式サイト)は、聖なる地である女性に起こった奇跡と、それを目の当たりにした人々との間に交錯する、不穏な人間関係を描いた、ちょっとサスペンスフルな一面を持つドラマだ。
ルルドという聖域でロケが行われたことは、ドキュメンタリー以外では、20年ぶりのことだそうだ。
聖母マリアが出現したといわれる洞窟、天空高くそびえる大聖堂、緑あふれるピレネーの山々など、聖地の静謐な風景が、閉塞感を抜け出そうとする人々の物語に、深みと広がりを与えている。

病を患ったり、将来に不安があるとき、孤独を感じたとき、人は見えない力を信じて、希望を抱き、“奇跡”を祈ることはある。
でも、もし“奇跡”が起こったら、どうだろう。
いたずらな感情移入など関係なく、この映画の、ルルドの光が照らしだす‘人間の深淵’に、そっと癒されるかもしれない。
病がほんとうに治癒される奇跡なら、大いに期待したいが、残念ながらこれはあくまで仮構の物語なのである。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「昼下がり、ローマの恋」―いつでも心にときめきを―

2012-04-08 17:00:00 | 映画


 誰かを愛するということ、それが人生を愛することだという。
 大人の恋が、新しい毎日を輝かせる。
 ときめく心は、いつも大切だ。
 それは、人生に張りと勇気を与える。
 毎日が生まれ変わる。

 ローマを舞台に、3つの恋物語を綴った、大人のための人生讃歌だ。
 世代の違う男女の繰り広げるドラマは、ほんわかと幸せを運んでくる。
 ジョヴァンニ・ヴェロネージ監督の、イタリア映画である。









 
永遠の都ローマ・・・。

移植手術をして新しい心臓を手に入れた、元歴史教授エイドリアン(ロバート・デ・ニーロ)は、パリから帰国したアパートの管理人オーグスト(ミケーレ・プラチドの娘ビオラ(モニカ・ベルッチ)と出会った。
ビオラはある秘密を抱えていたが、そんな彼女と本音で語り合ううちに、自分の気持ちに素直になって生きることが、どんなに人生を豊かにするかを語り、ある決意をするのだった。

一方、このアパートに暮らす恋人サラ(ヴァレリア・ソラリーノ)と、結婚秒読みに入っていた野心的な青年弁護士ロベルト(リッカルド・スカマルチョ)は、出張先のトスカーナ地方の小さな村で、飛びっきりゴージャスで挑発的なミコル(ラウラ・キアッティ)と出会い、一目で惹かれてしまった・・・。

そして、有名キャスターのファビオ(カルロ・ヴェルドーネ)は、情が深く、エキセントリックな女性エリアナ(ドナテッラ・フィノッキアーロ)に、身も心も翻弄される。
二人は、あげくの果てに、恋の大騒動を起こしてしまうのだ。

ここでは、何処と変わらず、アパートの住人たちの、恋の駆け引きやら何やらと、いろいろな人間模様が繰り広げられる。
恋愛というのは、何万通りものストーリーを書くことができる。
このイタリア映画「昼下がり、ローマの恋」に含まれる小さな3つの物語も、ひとつひとつがつながりを持ちながら、それぞれの世代ごとに、独身の主人公たちのセンチメンタルな人生を紡いでいる。
そこには、彼らの経験した、あるいは経験しようとしている、恋愛や心情が詰まっているのだ。
大人のロマンティック・ラブストーリーだ。

本作のヴェロネージ監督はトスカーナに生まれ育った人で、そこを舞台にした場面では、葡萄とオリーヴの木々が交互に広がる丘の、素晴らしい景観を満喫させてくれる。
狭い路地を、カラフルなオート三輪がレースを行うシーンや、日没時の景勝で有名なティレニア海の砂浜で戯れるシーンも美しい。
眺めるシーンはロマンティックだし、アパートの屋上や緑ある中庭での語らい、ワインを片手に陽気に明るく楽しむ姿など、イタリアの庶民の生活があちこちで垣間見られるのは、この作品の魅力だ。

この作品がイタリア映画初出演のロバート・デ・ニーロと、イタリアの宝石と称されるモニカ・ベルッチという二大スターの共演も豪華である。
世に老いらくの恋とはあまり聞こえはよくない(?)が、とりわけ70歳を過ぎた人が、なおも新しい人生を始めるということを描いた、エイドリアンの登場はどうだ。
60歳でも、年寄りとみなされていた1970年代の終わりの話も、年齢など一向に関係のない、人生讃歌として生き生きと輝くから、楽しいドラマだ。
30歳も年の離れた娘に恋をする、ロバート・デ・ニーロのチョイわるの‘ときめき’にも納得だ。
とかくしがらみの多い人生で、凍てついた心から、それでもほとばしる若さを感じさせる活力がいい。
年齢を重ねると、人間は優しい気持ちになっていくものらしい。
そうありたいものだ。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「僕等がいた(前篇)」―高校生から社会人への青春の過渡期に―

2012-04-07 07:00:00 | 映画


 眩しいほどの、青空が広がっている。
 満開の桜が、春の風に大きく揺れている。

 時間が、輝くときがある。
 永遠があると、信じたい時がある。

 若者たちは、純粋で繊細だ。
 迷い、苦しみながら、それでも相手を想い続ける。
 小畑友紀の原作コミックを、三木孝浩監督が映画オリジナルとして描いた。
 きらめく初恋と、切ない青春群像を綴った、回想録だ。
 ワケありで観る羽目になった作品だが、どこにでもあるピュアな少女小説のようで・・・。
 出会いと別れは、世の常だ。





         
高橋七美(吉高由里子)は、北海道釧路の母校の屋上にひとり立っていた。

この学校も、やがて廃校になる。
懐かしく、眩しい、あの日の記憶がよみがえってる中で・・・。

高校二年の新学期に、七美は矢野元晴(生田斗真)とここで出会った。
矢野はクラスの人気者だった。
時おりさびしげな表情を見せる彼に、七美は強く惹かれていた。
矢野の親友の竹内(高岡蒼甫)から、彼が、死別した年上の恋人・奈々との過去を引きずっていることを知った七美は思い悩むが、矢野への想いは抑えきれない。
七美は、その想いを生まれて初めて告白する・・・。

矢野は、頑なな心を少しずつ開いていくが、奈々の幻影と、矢野に想いを寄せる奈々の妹・有里(本仮屋ユイカ)の存在が、二人の間に立ちはだかる。
互いに、思いを打ち明け、傷つきながらも、二人は自分たちの未来を誓いあった。
しかし、幸せに包まれた日々も束の間、矢野は東京への転校が決まり、やがて別れの日が訪れる・・・。

…ここまでが、前篇のあらすじだ。
矢野は人気者だが、どこか影がある。
母子家庭に育ちながら、どんな悩みを抱えていたのだろうか。
母親との関係や、父親は・・・?
それと、彼は17歳という設定のはずだが、演じる生田斗真は年を取りすぎていて、困ったことにどうしてもぴんとこない。
後篇では、社会人となる矢野の実像に近づくだろうが、本篇ではどうも・・・。

吉高由里子は、ヒロインを演じて、愛くるしい一面をのぞかせている。
友人役の高岡蒼甫も、それなりの存在感はある。
でも、彼ら登場人物たちのキャラクターは、必ずしも十分に描かれているとはいえず、明確ではない。
矢野にしても、七美にしても、家庭環境や、それぞれの人生の背景が、描かれていないし、よく分からない。
分からぬながらに、出会いと別れだけを描いている。
2時間のドラマが単調なのは、そのせいだ。
退屈してしまい、途中、幾度も眠くなった。
隣りを見たら、男子高校生は爆睡(!)してしまっていた。
彼が目を覚ました時は、ドラマ前篇のラスト、矢野の乗った列車がホームを離れ、七美が悲しげにそれを見送る別れのシーンだった。

この作品には、「好き」「きらい」「別れたくない」「別れられない」「離れたくない」「会った」「別れた」「一緒にいたい」といったキマリ台詞がやたら目だって、ドラマ自体がゆるゆるで、軟弱なものなってしまっているきらいがある。
それに、「永遠」だとか「誓い」といった言葉は、いたずらに濫用されるのもどうかと・・・。

後篇は、6年後の東京での二人の再会から始まるようだが、どんな展開が待っているのだろうか。
こちらも、原作とは大分違うようだ。
後篇は、21日から公開される。

誰にでも、思春期といわれる青春前期があって、甘くほろ苦い、様々な想い出があるものだ。
そして、高校生といえども、切実な悩みや心の痛みをいろいろな形で抱えているはずなのに、そのあたりがこの作品では描き切れていない。
前篇だけでは、二人の‘別れ’の理由もよくわからない。
しかし、そんな青春の過渡期を綴って、三木孝浩監督映画「僕等がいた」は、少年少女の人気になっている。
このドラマのようなストーリーは、いままでも沢山あったし、とくに新味も感じられない。
いつも、多くの原作コミックがそうであるように、映像化された作品に登場する人物たちの、キャラクターの描写不足もある。
展開だけのストーリーに固執していると、作品は退屈なものなってしまう。
こうしたドラマで、2時間の上映時間はいかにも長すぎる。
どう見ても、少年少女向きの一作だ。
     [JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点


映画「灼熱の魂」―時を超えて紡がれる衝撃の秘密と残酷な真実!―

2012-04-04 23:00:00 | 映画


 春の大嵐再び、そしてようやく4月の陽光がさしてきた。
 各地から、遅れた桜の便りも次々と・・・。
 日に日に、暖かくなってきて、いよいよ春本番です。

 この映画は、身も魂もやかれる、崇高な愛の物語だ。
 これは、想像を絶する、母親の魂の軌跡をたどる旅路である。
 至高のヒューマン・ミステリー、心が震えずにはいられない。
 国境を越えて、時を超えて、母なるものの過去をさかのぼって・・・。

 ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による、カナダ・フランス合作映画だ。
 本物の映画とは、こういう作品を指すのではないだろうか。
 数々の賞にも輝く、文句なしの、傑作。
 双子の成長を描く旅を、ドラマは追っていく。
 そこで二人は、憎しみと暴力にあふれた、家族の歴史の中で永遠の傷を負うのだ。
 いやがうえにも・・・。
 主人公の死から始まる、驚愕の感動作である。

     
初老の中東系カナダ人女性ナワル・マルワン(ルブナ・アザバル)は、ずっと世間に背を向けて生きてきた。

実の子である双子の姉弟、ジャンヌ(メリッサ・デゾルモー=プーラン)とシモン(マキシム・ゴーデット)も、心を開くことはなかった。
そんな、どこか普通とは違う母親は、謎めいた遺言と二通の手紙を残して、この世を去った。
その二通の手紙は、ジャンヌとシモンが存在すら知らされていなかった、兄と父親に宛てられていた。
母の遺言は、いまどこにいるかわからない彼らを捜し出して、その手紙を渡すようにというものであった。

遺言に導かれて、初めて母の祖国の地を踏んだ姉弟は、母の数奇な人生と、家族の宿命を探り当てていくのだった。
現代と過去が交錯する時の流れを超えて、凄まじくも悲劇的な、母親の生きた軌跡が、次第に明らかにされてゆく。
カナダから中東へ舞台を移しながら、現在と過去を行き来するこの物語は、1970年代半ばのレバノン内戦に想を得たといわれるが、ドラマの中では特定の国名は伏せられている。

民族や宗教間の抗争、社会と人間の不寛容がもたらす、血塗られた歴史を背景に、そのあまりにも理不尽な暴力の渦中に呑み込まれていった、ヒロインの魂の旅路が、ドキュメンタリーのようなタッチで綴られる。
それは、痛切で、苛烈で、悲惨だ。
舞台劇が原作(ワジディ・ムアワッド)とは思えないダイナミックな映像が、この上なく緻密に練り上げられた、ミステリー仕立ての構成によって語られていくのだ。

現代のパートでは、真意の解らない遺言の内容に、心をかき乱された若い姉弟ジャンヌとシモンが、中東の異国の地で、母親の歩みをたどる姿を克明に描き出している。
彼らは、母の過去なんて全く知らないのだ。
ほとんど何の手がかりも持たない彼らが、戦争の生々しい傷跡が残る場所を訪ね、関係者の口から次々と飛び出す証言に、思わず息をのむ。

一方、過去(回想)のパートでは、異教徒の恋人との間に設けた、赤ん坊と離ればなれになった、ナワルの若き日のエピソードが展開される。
このとき、「いつか絶対にわが子を捜し出す」と固く誓った“約束”が、その後の主人公ナワルの呪われた運命を決定づけることになろうとは・・・。
別れた子を毎日思う彼女の母性本能は、自分が、戦禍の混乱を逃れて非難することよりも、息子が収容されているであろう孤児院ヘ向かわせるのだ。
そして、何もかもが焼き尽くされた血の海で、息子の死を知っても、無慈悲きわまりない暴力に果てのない絶望に襲われ、彼女の悲嘆はやむことはなかった。
いや、それが彼女の母性の強さだった。

現在と過去のふたつのパートを通して、あまりにも重い十字架を背負った、ひとりの母親像がくっきりと炙り出される。
幾つかの伏線や、それらのパズルのすべてのピースが揃うクライマックスでは、ついに、探し求め続けた父親と兄の信じがたい素性が判明し、二通の手紙の中身が明らかにされるのである。
登場人物が秘密を解明していくミステリーは、映画の作品にも数々あるが、このドラマのように、恐るべき真実が最後に待ち受ける物語はそうはない。
しかも、その真実は、果てしない暴力と憎悪の連鎖を断ち切ろうとした、主人公ナワルのかけがえのない祈りをはらみ、観る者の心を震わせずにはおかない。
フランス語圏では、近代史に埋もれた、集団虐殺を発掘する力作が次々と発表されているが、この前公開された「サラの鍵」も、過去の傷を自分の痛みとして共有させようとする手法が鮮やかだった。
この映画も、全編フランス語だ。

この作品の中で、若き日の母が村はずれで恋人と密会するシーンがある。
恋人は異教徒で、難民だ。
その彼が殺され、彼女はその直後に出産する。
でも、村を追われ、彼女は赤ん坊と生き別れになる。
父親は死んだのではないかと、誰もが思うはずだが・・・。
戦火の地で、愛児を捜す母親ナワルのさすらい、異教徒の苦悩、逮捕、拷問の日々をひとり演じ切るルブナ・アザバルの演技は、もはやこれが演技かと思えないほど、凄みを帯びた究極の‘美しさ’で迫ってくる。
そして、衝撃のラストを迎える時、父とは、兄とは、誰のことかが明らかにされる。
真実とは、かくも惨たらしいものか。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督カナダ・フランス合作映画「灼熱の魂」は、人間の不寛容、不条理に対する、ひとりの女の魂の怒りと愛の叫びが、いつまでも怒涛のように寄せてくる。
こういう映画こそ、多くの人に是非観てほしいと痛切に思った。
胸が張り裂けるほどの、感動を覚えずにはいられなかった。
社会性あり、ミステリーの要素も十分で、発せられるメッセージ性もインパクトも、こんなに強烈な作品は稀有だろう。
滅多にお目にかかれない、まことに貴重なA級の名画であること疑いなし、多くの観客の賛辞に十二分に(!)応え得る、必見の叙事詩だ。
     [JULIENの評価・・・★★★★★](★五つが最高点