徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「雪の轍(わだち)」―冬の眠りの中で人間の魂の暗部に迫る深淵なる物語―

2015-07-26 17:00:00 | 映画


 人間の虚飾と欺瞞を描く、3時間16分の大作である。
 チェーホフ短編「妻」をもとにした、人間の心の底を深くえぐる作品で、カンヌ国際映画祭最高賞パルムドール受賞した、まことに濃密な人間ドラマだ。
 トルコ映画界の巨匠ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督は、カンヌ国際映画祭ですでに2回グランプリと監督受賞し、満を持しての最高賞受賞となった。

 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督は、ため息のでるような映像美とともに、世界遺産の地カッパドキアを舞台に、人間が抱えるいつ終わるともしれぬ葛藤のドラマを作り上げた。
 イスラム教と世俗主義が、微妙にバランスを保つ社会を背景に・・・。
 ジェイラン監督の作品が、日本国内で公開されたのはこれがはじめてである。







世界遺産、トルコのカッパドキア・・・。

初老の主人公アイドゥン(ハルク・ビルギネル)は、その山裾の小さなホテルの経営者だ。
彼は元俳優で、新聞にエッセイなどを寄稿し、資産家として何不自由なく暮らしている。
ある日、アイドゥンの乗った車に石が投げられた。
犯人は少年だった。
少年の一家はアイドゥンの貸家に住んでいたが、家賃を滞納して財産を没収され、父親イスマイル(ネジャット・イシレルが侮辱を受けたことに対する復讐であった。

このことをきっかけに、アイドゥンの周囲で全てが揺らぎ始める。
離婚して実家のホテルに戻ったアイドゥンの妹ネジラ(デメット・アクバァ)は、兄のエッセイを感情的だといって批判する。
また、若く美しい妻ニハル(メリサ・ソゼン)は夫そっちのけで慈善事業に没頭し、夫の忠告に反発して離婚すると脅しにかかる始末だ。
まるで時が止まったかのような、ホテルの中で繰り広げられる葛藤をあとに、アイドゥンは家を出ていくのだったが・・・。

辺り一面を白く染める雪のモチーフ、さらにシューベルトのピアノソナタ第20番の旋律とともに、裕福なもの、そうでないもの、西洋的な世界とイスラム的な世界、男と女、老いと若さ、エゴイズムとプライド、愛と憎しみの中で、様々な普遍的な要素が対峙されていく。
壮大なカッパドキアの風景とうらはらに、ホテルの部屋には閉塞感だけが満ち、人を赦すこと、愛すること、解り合うことが、こんなにも困難なことであろうかと思わしめるドラマを、精緻で深い演出によってまざまざと見せつける。
人間の心の秘められた部分をえぐり出しながら、かつ、濃密に増幅されていく会話劇が、ぐいぐいと観客を引っ張っていく。
こちらが叩きのめされてしまいそうだ。

人間のエゴイズム、耐え難い孤独が剥き出しにされる。
血のつながりのある肉親でも、自分にとっては脅威となり、愛する妻さえも理解不能で愚鈍な他人となる。
これって、結構誰にでも起こりうる普遍的な人間ドラマではないか。
貧困に苦しむ男イスマイルが、アイドゥンの妻ニハルから贈られた札束を無表情に燃やしてしまう場面など、印象に残る骨の髄までこたえる重要なシーンだ。

人間が人間と向き合う。
緊迫した室内の対話劇と、カッパドキアの建築群や草原といった開かれた外景が、濃密で痛苦きわまりないドラマを演出する。
主人公アイドゥンの心の旅路に目を見張る想いだ。
膨大な量の台詞の応酬が凄まじい。
少年の父親役のネジャット・イシレルの存在感も強烈だ。
トルコ・フランス・ドイツ合作映画「雪の轍(わだち)」は、長尺のドラマだが、「洗練された知性」は最後まで飽きさせることはなく、さすがに見応えのある傑作である。
人の心を突き動かすものがある。
巨匠の作品、観て決して損はない。
      [JULIENの評価・・・★★★★★](★五つが最高点


映画「六月燈の三姉妹」―和菓子屋三姉妹のワケあり奮闘記―

2015-07-22 22:00:00 | 映画


 「半落ち」(2004年)、「夕凪の街 桜の国」(2007年)、「東京難民」(2014年)などで知られる佐々部清監督による、笑いと涙のハートフルコメディーだ。
 大型ショッピングセンターの進出で、地方都市の商店街はどこでも再建を目指して奮闘している。
 実在の店をモデルに描いた作品だ。

 六月燈とは、旧暦の6月に、鹿児島と宮崎の一部の神社や寺院などで催されているお祭りで、第三代藩主の島津光久が観音堂を建立し、供養のため、燈籠を灯した領民たちが見習ったことが始まりといわれている。
 いま静かなブームを呼んでいる、ご当地ドラマの一品である。








鹿児島のとあるシャッター商店街に、家族経営の和菓子店「とら屋」はある。

大型ショッピングセンター進出のあおりを受けて、客足の減少に苦しんでいた。
この店を営む中園家は、家族とはいえ、母惠子(市毛良枝)と菓子職人の父真平(西田聖志郎)は、すでに離婚していた。
おまけに、長女静江(吉田羊)は出戻りで、次女奈美江(吹石一恵)は税理士事務所を経営する夫の徹(津田寛治)と離婚調停中で、三女栄(徳永えり)は結婚直前に実家に戻り、現在は妻子ある男性と不倫関係にある。

とら屋菓子店の三人姉妹と父母は、それぞれがわけありの身で、この5人に東京から奈美江を追って徹がやって来た。
とら屋再建のため背水の陣を敷いた一家は、起死回生の大作戦として、六月燈の祭礼の夜に、新作和菓子“かるキャン”の販売にこぎつけるのだが・・・。

ドラマは、とら屋一家の再生と商店街の生き残りをかけた店主たちの、人間模様を活き活きと描いている。
人物関係は、これがやや複雑で、もう少し整理して欲しかった。
この地方の方言がドラマに温かな味わいを添えているが、都会育ちの人間には意味がわかりにくい。
ドラマの織り成す人間模様には親近感も感じられ、軽やかなタッチは好感が持てる。

一家の家族構成を見て、離婚している夫と妻が、どうして同じ屋根の下で一緒に仕事をしていられるのか不思議だ。こんなことは現実にはありえない。
男と女が離婚したら、芸能界は別にしても、一般には二度とお互いに会いたくないものなのだ。
離婚した夫婦、出戻りの長女、離婚調停中の次女、妻子ある男性と不倫中の三女と、まあよくも一家のだれもがワケありで、ガタガタしている。
一体どうなっているのだ。
それも、男が悪いのか。
それとも、女の方が悪いのか。

大体離婚というのは、女性の方から切り出すことが多いし、彼女たちは言い出したら聞かないから、男がどんなに頭を下げて復縁を求めても、もとサヤに収まるというのは難しいものだ。
女性は、見切りをつけたら早い。
駄目な男だと思ったら、次の男を探す。
振られた男は、いつまでもめそめそして追いかける。
そんな構図が一般的だ。
甘い言葉で好きだとささやかれ、付き合っても上手くいかない、そんなケースだって多い。
しかし・・・、離婚は世の中に多い。
でもそれは、一概に不幸ともいえまい。
きっと、次のステージがあるからだ。

所詮、離婚といっても紙切れ一枚で決まるのだ。
佐々部清監督映画「六月燈の三姉妹」は、その家の夫婦はもちろん、三姉妹の人間関係それぞれが抱える葛藤に描写不足が目立つ。
あらかたは観客の想像力に頼るしかない。
和菓子店というが、団子70円、大福120円の世界である。
そんな家の再生のドラマが、ちょっぴり涙と笑いを誘う、ほっこりとした作品だ。
幸せだと思うことも、不幸せだと感じることも、何気ない、普段の日常の中にあるものではないだろうか。
ついでながら、佐々部清監督による青春ドラマの最新作「群青色の、とおり道」も、別途公開中だ。
この作品も、機会があれば取り上げたい。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回はトルコ・フランス他合作映画「雪の轍(わだち)」を取り上げます。

 *** 追 記 ***
当ブログ(3月16日)でも取り上げた、台北映画「さいはてにて やさしい香りと待ちながら」に主演した永作博美が、台湾で開催されている台北映画祭で、このほど最優秀主演女優賞受賞した。
奥能登を舞台に、支え合って生きる女性二人の姿を描いた小品で、台湾のチァン・ショウチョン監督作品だ。
台北映画祭で、外国の女優が主演女優賞を獲得するのは初めてのことだそうだ。


映画「ボヴァリー夫人とパン屋」―小粋でちょっとユーモラスでとても悲しくて―

2015-07-20 20:30:00 | 映画


 フランス近代文学の祖といわれるギュスターブ・フローベールの、古典小説「ボヴァリー夫人」をベースに、現代のノルマンディーを舞台にした大人のストーリーで、ちょっとユーモラスな悲劇を、毒気としゃれっ気たっぷりに綴った快作だ。

 まあ言ってみれば、妻子とともに単調な日々を送っている男が、フローベールの名作小説の虚構と現実を取り違えて、いらぬお節介をやいたり、自分の欲望をエスカレートさせていくといった恋愛喜劇でもある。
 「ココ・アヴァン・シャネル」(2009年)の、アンヌ・フォンテーヌ監督が映画化した。










フランス西部のノルマンディー地方・・・。

美しい田園風景の広がる小さな村に、稼業のパン屋を継いだマルタン・ジュベール(ファブリス・ルキーニ)が暮らしている。
パリでは12年間出版社に勤務したのち、平穏で静かな生活を求めてのことだった。
毎日の単調な生活で、文学だけが想像の友で、とりわけ読みふけっているのは、ノルマンディーを舞台にしたフローベール「ボヴァリー夫人」であった。

ある日、向かい側の家に、イギリス人夫妻、その名もジェマ・ボヴァリー(ジェマ・アータートン)とチャーリー・ボヴァリー(ジェイソン・フレミング)が越してくる。
マルタンはこの偶然に驚き、小説さながらに行動する奔放なジェマから、目が離せなくなってしまうのだ。
一方のジェマも、マルタンの作るやさしく芳醇な香りのパンに魅せられていく。
ボヴァリー夫妻と親交を深めるうちに、マルタンの好奇心は単なる文学好きの域を超え、ジェマを想いながらパンをこね、小説と現実の入り混じった妄想が膨らんでいく。
しかし、「ボヴァリー夫人」を読んだことのないジェマは、勝手に自分の人生を生きようとする。
このままでは、「ボヴァリー夫人と同じ運命をたどるのでは?」と心配になったマルタンは、思わぬ行動に出る・・・。

田舎ののどかな風景や、文学好きのパン職人という設定がなかなか面白い。
ドラマとしてのスリルやエロスは少し物足りないが、小粋さがよい。
匂い立つようなジェマ・アータートンのあやしげな所作に、マルタンが骨抜きになる姿には思わず笑ってしまう。
何しろ現実が芸術を模倣しているのだから、と言ってしまえばそれまでだが、映画はボヴァリー夫人の視点からではなく、初老の男マルタンの視点から描かれている点に大いに注目だ。

妄想にかられた初老のパン屋マルタンだから、この人、なかなか味があってどことなく面白い。
頭の中に「ボヴァリー夫人」のヒロインを創り上げ、隣人のボヴァリー夫人ではなく、このパン職人の男が隣人を小説なみのボヴァリー夫人に仕立てて、恋慕しているのだ。
アンヌ・フォンテーヌ監督フランス映画「ボヴァリー夫人とパン屋」は、午後の紅茶でくつろぐ気分で、憩いのひと時を過ごすには格好な小品だ。
しかし、この新感覚ドラマ(!)の、ラストの意外なあっけなさには驚く。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回は映画「六月燈の三姉妹」を取り上げます。


映画「パプーシャの黒い瞳」―激動の歴史と甘美な郷愁の中に生きた女性詩人の生涯―

2015-07-19 20:30:00 | 映画


 ポーランドに実在した、ジプシー民族の女性詩人の生涯を描いている。
 ヨアンナ・コス=クラウゼ&クシシュトフ・クラウゼ監督の作品だ。
 文字を持たないロマ一族に生まれながら、ジプシーの集団に生まれた主人公は、こっそりと読み書きを覚えた。

 1910年から70年代初頭までの、主人公の生涯をたどる。
時代と場所を交互に行き来しながら、ジプシーの生活と、女性詩人の人生を点描していく。
 ポーランドの激動の二十世紀と、流浪する民の迫害の歴史を背景に、このドラマは綴られる・・・。









1910年、娘を出産した人形好きのロマの女性は、その子を「パプーシャ(人形)」と呼んだ。

パプーシャ(ヨビタ・ブドニク)は、長い年月が過ぎて71年に、鶏泥棒の罪で服役中の刑務所を出所して、音楽会に連れていかれる。
パプーシャはそこで、自分の言葉がオペラ歌手に歌われていることに驚く。

1949年、秘密警察に追われる作家で詩人のよそ者、イェジ・フィツォフスキ(アントニ・パヴリツキ)をパプーシャの夫がかくまうことになる。
パプーシャは彼の持つ本に惹かれ、イェジは、自分を眩しそうに見る彼女の口から発せられる言葉の、その鮮烈な輝きに魅せられる。

定住を嫌うロマの一族を、ナチの弾圧や社会主義国ポーランドの、戦後の強制的定住政策などが苦しめる。
だが、イェジに書き送った詩人の詩が本になったことで、パプーシャは苦しむことになる。
彼女は、一族のことをよそ者に明かさないという掟を破ったのだった。
パプーシャと夫は一族ののけ者にされ、71年、貧困の中で夫は死んだ。
全てを背負い、自らを責め続けるパプーシャであったが、彼女は次第に自分の行為の反響と呪いに怯え、正気を失っていく・・・。

幼児の頃、パプーシャは呪術師から「恥さらしな人間になる」と告げられる。
彼女は成長すると、印刷物を見て文字に興味を持ち、町の酒場の女性から読み書きを習った。
ジプシーは口承文化を持っていない。
だが、口承文化を持たず、外部に秘密を漏らさないことを掟とする一族にとって、パプーシャのしたことは思いがけない悲劇の始まりであった。

息をのむような、美しい映像が素晴しい。
パプーシャの世界は、甘美な郷愁を誘ってやるせない。
原語を文字に残すことなど、彼らの最大のタブーをパプーシャは破ってしまった。
彼女の人生は不幸だったかもしれないが、文字に残せる詩を書いたことで、命を超えて永遠なるものを残したわけだ。

昨年12月にポーランドの名匠クシシュトフ・クラウゼは61歳で亡くなったが、共同で監督した妻のヨアンナ・コス=クラウゼがこの作品を完成させた。
パプーシャは詩を創造したことで、より窮地に立たされたわけだが、創作をしなかったらそんなことにはならなかっただろう。
ジプシー文化の厳しい不文律のもとで、変わり果てて失われていくもの、よりどころを失ってさまよう魂の悲しみが浮かび上がる。
どの場面も丹念に時代の情景を再現し、とくに馬車を連ねて旅をする一行のロングショットなど、陰影のくっきりとしたモノクロの映像が絵画のように美しい。
いやむしろ、全てのシーンが光と影の傑作といえる。
にぎやかな民族音楽も、このポーランド映画「パプーシャの黒い瞳」にさらなる魅力をそえて、格調の高い作品となった。

愛称パプーシャは、放浪の民であるロマ族の中から生まれた初の女性詩人、ブロニスワヴァ・ヴァイスのことで、彼女の悲劇の生涯を通して、ポーランドのジプシーたちが受けた差別の歴史がよくわかるが、場面転換などを含め、作品としてはとりつきにくさも多々あることは否めない。
鑑賞には、少々忍耐が必要だ。
悲痛な映画である。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はフランス映画「ボヴァリー夫人とパン屋」を取り上げます。


映画「ゆずり葉の頃」―人と人のつながりを綴る清廉な恋の抒情詩―

2015-07-17 11:00:00 | 映画


 今年77歳になる中みね子監督は、娯楽映画の岡本喜八監督の妻として、またプロデューサーとして支えてきた人である。
 老婦人の夢と現実を見つめる作品を、女優八千草薫を起用して映画化した。
 八千草薫・谷口千吉監督故人)は、岡本喜八監督の師匠で、夫妻で結婚の仲人をしてくれた間柄だそうだ。
 中監督は自ら脚本を書き、77歳にして初メガホンで撮り終えたこの作品は、絵筆が心のキャンバスにあえかな旋律を刻み込むように、叙情豊かに遠い日々の詩情を綴る・・・。

 人は、年を重ねて見えてくる風景もあるものだ。
 そんなことに気づかせてくれる作品だ。
 登場人物は善人ばかりだが、それはそれでよいではないか。








海外から、息子の進(風間トオル)が一時帰国してきた。

独り暮らしの母親・市子(八千草薫)を訪ねたが不在で、市子は軽井沢へ旅立った後であった。
市子は、画家の宮謙一郎(仲代達矢)の個展で、以前から気に入っていた「原風景」の原画に触れたいと思っていた。
会場にはその絵は展示されていなかったが、出会った人に導かれるように、いまは国際的な画家となった宮の軽井沢のアトリエを訪ねることになる。

一人旅に出た母を気にかけ、そのあとを追う息子の進であったが、彼はまだ知らない。
かつて、着物の仕立てをしながら、戦後の貧しさの中で、心に封印していた若き日の母の想いを・・・。
軽井沢で人のぬくもりに触れ、優しくほどけてゆく市子の心が水面のように揺れる。
過ぎ去った記憶とともに、思いがけない出逢いがもたらされる。
・・・しかしその人は、ある理由を抱えて、フランス人の夫人と軽井沢でひっそりと暮らしていたのだった・・・。

主人公の思い出の地、龍神池のシーンが美しい。
淡い恋心が胸にしみるようだ。
一枚の絵を求めて旅立つ女性を演じて、八千草薫の表情は老いてなおみずみずしく見える。
ほとんど全編が軽井沢で撮影され、個展会場も彼女が通う喫茶店も本物だ。
岡本喜八監督の演出テンポとは違って、中監督のこの作品は実にゆったりとしたテンポで、それはもう八千草薫のテンポに合わせて作られているからだ。

若い世代に向くようなアクティブな作品ではないけれど、詩情は豊かである。
大人の童話だ。
中みね子監督は全くの新人監督だが、立派なデビュー作である。
映画「ゆずり葉の頃」は、ファンタジーの要素も入れて、CGなど一切使用せず、どこまでも優しい視点で見つめた思いを貫くささやかな人生讃歌だ。
ただ一部画調のややくすんだ感じの色合いは気にもなったが、作品のつくりは丁寧でしなやかさがある。
出演者も他に、岸部一徳、竹下景子、六平直政、本田博太郎ら実力派俳優陣ががっちりと脇を固めているのは、何とも頼もしい。

ゆずり葉は、若葉の成長を待って、やがて譲るように落葉する。
青いままで落ちることが多い。
「人間は肉体が衰えても、精神は変わらない。恋をしてもいいと思う」
「ゆずり葉の頃」は、老いと死を前に、身の処し方を主人公・市子に重ねあわせたタイトルだ。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回はポーランド映画「パプーシャの黒い瞳」を取り上げます。


映画「あの日の声を探して」―孤児の目が見つめる戦争の悲劇―

2015-07-09 05:00:00 | 映画


「 アーティスト」(2011年)アカデミー賞5冠を達成した、ミシェル・アザナヴィシウス監督の新作だ。
 1999年に発生したチェチェン紛争をテーマに、戦争の狂気と悲劇の中で懸命に生きる人々の希望を描いている。
 アザナヴィシウス監督は、フレッド・ジンネマン監督「山河遥かなり」(1948年)に着想を得たことは明らかで、いまも世界のどこかで起きている戦争を生き抜く人々の現実を、力強いヒューマンドラマとして世に送り出した大いなるメッセージだ。

 人間としての尊厳を奪われたとき、どんなに大切なものを奪われても、希望の光を探し求める人たちがいる。
 子供だってそうだ。
 いつだって、絶望の中でも懸命に生きている。
 衝撃の感動作である。





1999年チェチェン・・・。

9歳の少年ハジ(アブドゥル・カリム・ママツイエフ)は、目の前で両親を銃殺されたショックで声を失ってしまう。
姉のライッサ(ズクラ・ドゥイシュビリ)も殺されたと思い、まだ赤ん坊の弟を抱いて家を出たが、見知らぬ人の家の前でその子を置き去りにして一人旅を続ける。

一方、ロシア軍は彼のような子供でさえも容赦なく攻撃していた。
だがそんなロシア兵たちも、最初はごく普通の青年だった。
音楽を自由に謳歌していたコーリャ(マキシム・エメリヤノフ)も、軍隊の異常な訓練で正常な人間の心を失っていく。
彼は、一般人までテロリストと決めつけて、平気で殺してしまうようになる。

戦火を苦れて街へたどりついたハジは、EU人権委員会に勤めるフランス人女性キャロル(ベレニス・ベジョに拾われる。
しかし、自分の手では何も変えられないと知ったキャロルは、せめて目の前の小さい命を守りたいと願い始めるのだった。
ハジが声を取り戻し、生き別れになった姉弟と再会できるように・・・。

チェチェン紛争は、まだ記憶の遠い話ではない。
その戦火の中で、人々の運命が交錯する。
キャロルは、目の前で両親を殺され、姉と弟と離ればなれになり、声を失ったハジを家に連れて帰り、チェチェンの被害者の証言を集めるために奔走する。
一方、ロシアで平和に暮らしていたコーリャは、軍隊で罵られ、殴られ、人の心を捨てるのだが、映画は悲劇の闇でもがく彼らを正面から描いており、激しく心を揺さぶられる。
ハジが言葉を話せなくなったのは、両親の死のほか、赤ん坊の弟を他人の家の前に置いてきた罪の意識もあっただろう。

このハジを演じる少年アブドゥル・カリム・ママツイエフが素晴らしいのだ。
400人の中から選ばれた素人だ。
アブドゥルは、実は自分も幼くして両親と別れる経験をしているから、ハジの心境をよく理解できたようだ。
セリフのない難役なのに、つぶらな大きな瞳で観客の心をわしづかみにする。
ひとり残された少年の心は空ろで、絶望と悲しみの眼差しが、彼の切ない心の内を表出していて涙を誘う。
この子を助けるフランス人のキャロル役ベレニス・ベジョも好演だ。
彼女はアザナヴィシウス監督の私生活上の良きパートナーであり、「ある過去の行方」などで高い評価を得ている実力派だ。

フランス・グルジア合作映画「あの日の声を探して」は、全編フィルムを使ってほぼ手持ちカメラで撮影され、ドキュメンタリーのようなリアル感が胸に迫る。
アザナヴィシウス監督の言うように、チェチェン紛争も、もっと国際社会がロシアに厳しい制裁を与えていたら、いまのようなウクライナの悲劇は起きなかったかもしれない。
この作品について、監督は決して政治的なメッセージを込めたつもりはないと言っている。

戦争はすべてを破壊する。
そこからは何も生まれない。
そうなのだ。その通りだ。
そして、過去は未来に続く一本道なのだ。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)      


映画「イマジン」―たとえその目は見えずとも障害を超えて生きる希望と勇気―

2015-07-06 11:00:00 | 映画


 ポーランド出身の映画人の活躍が、このところめざましい。
 アンジェイ・ヤキモフスキ監督は、本作が長編第三作目だ。
 視聴覚障害者の診療所で働く、教師と教え子との淡い恋物語が、研ぎ澄まされた音響設計と自然光を駆使した映像美で綴られる。

 全編ポーランドロケによる国際色豊かな作品で、ヤキモフスキ監督は日本では初めてのお目見えだが、力量ある演出は特筆ものだ。
 リスボン市街の詩情も豊かに、音響と映像を可能な限り生かして、冒頭からラストまで、心揺さぶられる作品の誕生だ。
 詩的な美しさにあふれた映像が、スクリーンに展開する。










リスボンにある視覚障害者のための診療所・・・。

世界各国から、幼児から成人までの男女が集まり、寄宿して治療やトレーニングを行っている。
そこに、盲目のイギリス人青年教師イアン(エドワード・ホッグ)が着任する。
彼は音の反響などで距離や方向を推測し、白杖に頼らずに街を歩くことができる「反響定位」の実践者だ。
通りを眺めている老人たちよりも、街が見えるのだという。
この方法によると、外の世界に触れる素晴らしさまで体感できることから、イアンの隣室に引きこもっているドイツ人女性エヴァ(アレクサンドラ・マリア・ララ)は関心を示し、二人はデートを重ねるようになる。

エヴァは、イアンと杖なしで街に出かける。
しかし、安全を第一とする診療所側は、彼の教育は危険だと懸念し、イアンに一方的に解雇を言い渡した。
これ以上、彼の授業で生徒たちを危険にさらせないというのだった。
診療所に残りたいと嘆願するイアンの希望は、受け入れられない。
イアンが診療所を去る日が来る。
イアンは悲しみにくれる生徒たちを後にして、ひとり淋しく町へ向かって歩いていく。
そのイアンのうしろ姿を追いかけて、エヴァが外へ出ていく。
この映画の後半からラストにかけての、ヤマ場である。
目の見えない二人は、果して出会うことができるのだろうか・・・。

このドラマに見られる「反響定位」という技術は、まるで闇の中を飛ぶ蝙蝠のように、舌や指で音を出し、その反響で周囲を判断する。
イアンを演じるエドワード・ホッグは目が見えるが、訓練を重ねて、見えない状態で車道を横断したり、狭い路地を歩いたりできるようになったそうだ。
子供たちは、杖を用いずに歩けるこの技術を真似しようとする。
だが、この「反響定位」については、推進する運動に対して、安全性に疑問を持つ声もある。

目が見えないということの恐怖、それでも外界を知りたいという思い・・・。
古都の陽光の中で、人間が本来持つ能力の素晴らしさを垣間見せ、音と光に彩られた物語は、詩情豊かに静寂で独創的な画面を作り出している。
ものを見る、ものが見えるということはどういうことだろうか。
あらためて、そんなことを考えさせられる。

主人公イアンが、白杖なしで怯えるエヴァを街に連れ出すシーンはとても印象的で、自分のことのようにはらはらする。
街には危険がいっぱいある。
道路には段差があり、車やバイク、路面電車も走っている。
行き交う人々の靴音、鐘の音、雑音もあって、よく仕組まれたこの物語も緊迫感が漂い、しかし映像は繊細で美しい。
主役二人を取り巻く生徒たちは、実際に盲目だが、この映画でもそれがよく生かされている。

出演者のエドワード・ホッグは英国人、アレクサンドラ・マリア・ララはルーマニア系ドイツ人、子供たちはポルトガルだけでなく英仏からも集められたそうだ。
そして、アンジェイ・ヤキモフスキ監督はポーランド人だ。
多民族(!)合作で作られた映画「イマジン」では、視覚以外に外の世界が語りかけてくる触感が、光や音にも質量があって、それらが五感の隅々まで人の心を揺さぶり続ける作品として描かれている。
眼の見えない男女のあわやかな恋というロマンティックなストーリー、パフォーミングアートのような授業風景、そして、路面電車の行き交う古都リスボンのしっとりとしたたたずまいに詩情が溢れている。
いい作品だ。
       [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回は映画「あの日の声を探して」を取り上げます。


映画「きみはいい子」―人と人のつながりにささやかな幸せを求めて―

2015-07-04 20:00:00 | 映画


 大人たちもかつては子供だった。
 いまの子供たちもやがて大人になる。
 中脇初枝の、五つの原作短編からなるオムニバス風の作品だ。
 ひとつの町を舞台にした、老若男女いろいろな人たちの事情を細やかに綴っている。

 「そこのみにて光り輝く」で数々の映画賞を受賞した、呉美保監督の長編4作目である。
 これまで基本的に、ひとつの映画でひとつの家族を内側から描いてきた呉美保監督は、今回は群像劇で登場人物の日常の点描を重ねながら、人と人とのつながりの意味を問う作品に仕上げた。











大人も子供も男も女も、いろいろな人たちが、様々な問題を抱えている現在の社会・・・。
虐待、認知症、自閉症、学級崩壊、育児放棄、モンスターペアレンツと、登場人物たちはそれぞれが事情を抱え、日常を生きている。
どれひとつを取り上げても一本の映画になるのだが、この作品では敢えて全部を取り上げた。
少しばかり欲張り過ぎた感じは否めない。



小学校4年生を受け持つ新米教師の岡野匡(高良健吾)は、言うことをきかない児童と、文句ばかり言う親に頭を悩ませている。
彼は真面目だが優柔不断で、学級崩壊していくクラスに何もできず、もがいている。

岡野の学校の近くにひとりで暮らす佐々木あき子(喜多道枝)は、認知症が進行しており、6月に「家の中に桜の花びらが入ってきたわ」といって、微笑する。
彼女は物忘れもひどく、そんな自分に不安を抱いている。
彼女が唯一挨拶を交わすのは、家の前を登下校で通る自閉症の小学生・櫻井弘也(加部亜門)だった。

同じ町の一室で、夫が単身赴任中で今は3歳になる娘と二人で暮らす、水木雅美(尾野真千子)は、幼い頃に虐待を受け、自分の子供に手を上げてしまう。
子供は泣き、母親はそんな娘に手を焼きながら自分を止められない・・・。

同じ町で暮らすそれぞれの誰もが、人とのつながりを通して、苦悩と向き合いながら、少しずつ希望を見出していく。
虐待や学級崩壊のシーンなど非常にリアルに描かれているし、先日男子を出産したばかりの呉監督は、ここでひとつの家族の崩壊と再生への希望を描いた。
そうなのだ。
現実は確かに厳しいが、傷つき、救われたり、そうして経験は誰かへの優しさにもなり、希望へつながっていく。
子供の悲惨という衝撃的な題材を扱っているが、ドキュメンタリーのような側面も見せ、終始淡々としたリアリズムの的確さに引きずられ、呉監督の演出の力を感じる。

新米先生の岡野は、意志があるのかないのかわからないような、ただの「お兄ちゃん」だし、娘に手を振り上げる母親は腹が立って虐待しているわけでなく、むしろ娘に対する怯えみたいなものがある。
それは、自分自身が母親ときちんと接してきた実感がないだけのことだ。
その彼女の目の前で、母親仲間のひとり陽子(池脇千鶴)が、自分の息子をぐしゃぐしゃにしながらハグし、悪いことをしても、頭を撫でて最後は抱きしめている。

子供を産んでみたものの、さてその子供とどう接していくかがわからない。

そういう人が多いのだそうだ。
陽子が息子を抱きしめたとき、雅美も救われたかもしれない。
周囲に、気づいてくれる人がいてほしいものだ。
誰もが自分を見てくれている。
そう感じた時に、雅美も変わる。

そんな期待感、安堵感の込められたカットだ。
尾野真千子は、この役柄に彼女としてはかなり抵抗感があったようで、1日でも早く撮影が終わってほしいととても気が重かったそうだ。
そうだろうなあ。その気持ちよくわかる気がする。


懸命に生きる片隅の人々に向ける視線は、どこまでも柔らかで、緊張感を込めつつも、表現は繊細で力強いものがある。
世人の抱える問題を、特別な事例として取り上げるのではなくて、決して綺麗ごとではない人生の景色から目を背けない。
呉美保監督作品「きみはいい子」では、カメラはときに各場面を盗み見るように情感を込めて描きだしているが、起こりうる出来事が実に身近に感じられて、本来高度な心理ドラマのはずである。
しかしこのドラマは、大きなドラマになっていない。
登場人物が多いだけ、彼らの内面をもっと深く掘り下げてほしかった部分もあり、個々の人間の描写が希薄になってしまったからだ。
大人になることのできない、大人みたいな人たちを描いて、救いを求めている映画だ。
人が、人を愛することの幸せとともに・・・。
呉美保監督の今後にも期待したい。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はポーランド・ポルトガル他合作映画「イマジン」を取り上げます。


映画「約束の地」―消えた娘を捜して荒野を彷徨う父親の奇跡の旅路―

2015-07-01 13:00:01 | 映画


 古代から語り継がれる、豊饒と幸福の理想郷は何処にあるというのだろうか。
 アルゼンチン新鋭リサンドロ・アロンソ監督による日本公開作品だ。
 「ロード・オブ・ザ・キング」(3部作/01・02・03)のアラゴルン役で、世界的にブレイクしたヴィゴ・モーテンセが存在感たっぷりだ。
モーテンセンは、主演のほか製作・音楽も手がけ、娘を捜す父親の孤独な旅を、幻想的なタッチの中で演じている。
 登場人物の台詞はきわめて少ない。

 南米パタゴニアが舞台だが、神秘的な荒野も美しい映像となって、一種不思議な作品だ。
 そして四隅を丸くして、やや正方形に近い独特のフレームの画像は、何を意図したものだろうか。
 トリミングされていない未加工の状態の映像を見て、アロンソ監督は、これこそが自分の表現方法だと強調したそうだ。

 






1882年、アルゼンチンとチリにまたがるパタゴニア・・・。
デンマーク人のディネセン大尉(ヴィゴ・モンテーセン)は、アルゼンチン政府軍が仕掛けた先住民掃討作戦に加わって行軍中だった。
ある日、野営地にいた15歳の愛娘インゲボルグ(ヴィルビョーク・マリン・アガー)が、若い兵士と駆け落ちし、姿を消してしまう。
娘の捜索に乗り出したディネセン大尉は、荒野で瀕死の兵士を見かける。
どうやら姿を消した将校スルアガの仕業らしいが、娘は見つからない。

大尉は、岩と草だけの荒涼とした風景の中を、インゲボルクを追って馬を駆りたてるが、その馬も奪われてしまい広大な荒野で孤立してしまう。
彼は途中で出会った1匹の犬に導かれるように、異界とも幻覚ともつかない摩訶不思議な世界にさまよいこんでいくのだったが・・・。

荒涼とした自然の美しさは圧巻だ。
人工的な建物や登場人物以外に、動くものはない。
主人公のさすらいの中で、犬や人形などが、意味ありげに小道具として使われており、時空を超えた不思議な叙事詩を想わせる。
辺境をさまようディネセンが、洞窟で得体のしれぬ謎めいた老婆に出会ったり、意味深なシーンも・・・。
この映画「約束の地」は、静かなアートといった感じが強い。
アルゼンチン・デンマーク・フランス・メキシコ・ブラジル・オランダ・アメリカ・ドイツ合作作品で、映画ではスペイン語とデンマーク語が使われている。

変形スタンダードのスクリーンが、観客を夢幻的な世界へ誘っていくのだが、ひとりひとり誰もが全く違う解釈ができるような結末が待っている。
原始と文明、現実と幻想が合わせ鏡のように浮かび上がって来るのだ。
魔術的な語り口で・・・。
この映画は、これまで誰もたどりついたことのない伝説の地“ハウハ”についてのテロップから幕を開ける。
原題「Jauja」(ハウハ)は、神話の中で語り継がれる、豊饒と幸福の理想郷を意味しているのだが、娘への愛を貫こうとする父親は、前人未到の地上の楽園=約束の地を夢見て、その旅に身を委ねたのだろうか。
そうだとしたら、その約束の地は・・・?
奇跡の旅を描くロードムービーは、アロンソ監督の独創的な美学を見せつけられて、戸惑いを隠せない。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点