徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「永遠の僕たち」―生と死の狭間で向き合うピュアで切ない恋の物語―

2012-01-30 21:30:05 | 映画


      ガス・ヴァン・サント監督
の、アメリカ映画だ。
     死にとらわれて生きる少年と、迫りくる死の影に惑わされる少女との、恋の物語だ。

     昨年5月に亡くなった、デニス・ホッパーの愛息ヘンリー・ホッパーと 、「アリス・イン・ワンダーランド」(10年)でアリス役を演じたミア・ワシ
      コウスカ
が、死と向き合う男女を好演した作品である。













   
幼い頃に、交通事故で両親を失い、臨死体験をした少年イーノック(ヘンリー・ホッパー)の話し相手は、イーノックだけが見える死の世界から来た青年ヒロシ(加瀬亮)だけだった。

ヒロシは特攻隊員の幽霊だったのだ。
死に囚われたような少年イーノックは、他人の葬式をのぞいて歩くことを日常としていた。
少年イーノックは、そこで、ガンで余命3カ月と告げられた少女アナベル(ミア・ワシコウスカ)と出会った。
ヒロシがそっと見守る中で、死がこの二人を結びつける。
イーノックの中で、少女アナベルの存在は、次第に大きなものとなっていくのだった。

生きるということ、愛するということ、二人にとってそれはどういうことなのだろうか。
アナベルは、自分の人生と、それを取り巻く自然界に深い愛を感じていて、魅力あふれる少女だ。
彼女は、自分自身が闘病中の身でありながら、子供のガン治療のボランティアのようなことをしている。
秋から冬へと向かう鮮やかな街の景色が、わずかな時間しか残されていない二人を、優しく包み込んでいく。
そして、恋人たちとヒロシの世界が輝きはじめる。

イーノックとアナベルは、森の小屋で朝まで二人の時間を過ごし、フェンシング・自転車、空手、自然観察など、いろいろなことを楽しむのだった。
でも、そんな日は長く続かず、アナベルは自宅で突然倒れ、窓の外にはヒロシの姿があった。
アナベルや叔母メイビル(ジェーン・アダムス)とのいさかいから、墓地で両親の痕跡を掘り起こそうと自暴自棄になったイーノックは、それを押し留めようとするヒロシに殴られ、気を失う。
気がつくと、イーノックは病院のベッドの上にいた・・・。

ガス・ヴァン・サント監督は、ポートランドを舞台に、何かを失うことで成長する彼らの青春劇を、温かな眼差しで作り上げた。
少年少女の演技は、繊細さにあふれている。
とくに、アナベル役の、ミア・ワシコウスカの白く透んだ少女らしさは光っている。
それは、まさに美しい子供の領分を思わせる。

この作品は、二人の若者が、一緒に変革していく様子を描いたものだ。
それから、ヒロシという役に挑戦している加瀬亮は、ちょっと変わった幽霊といった存在で、二人の間を取り持つ天使のような働きをしている、不思議なキャラクターだ。
このあたりは、生と死の境界にたたずんで二人を見守るヒロシの寡黙さが、ときおり表情の変化で物語の展開を暗示する。
あれは何だろうか。
ガス・ヴァン・サント監督の異色作といった感じが強く、少しわかり難いところや、くどいと思われる部分もある。
そんなところは退屈だ。

映画の最後の場面で、少女との思い出を回想するイーノックの無言の微笑をとらえるアップのショット、そこに、ひと組の男女の出会いと別れを、淡彩のパステル画のように描いて、完結へ持っていくといった単調な恋物語だ。
二人の少年少女が、いつも寄り添って一緒にいるピュアなシーンは、甘美なロマンティシズムを感じさせるが、映画前半のゆっくりとした展開はややけだるく眠気を催した。
まあ、こんなにも死を身近に感じつつ、二人の立ち位置で、生きることの意味を訴えているような演出があまりにも静かなので、逆に物足りなさも・・・。
やはり、心に響くすかっとした‘刺激’もほしい。
ガス・ヴァン・サント督アメリカ映画「永遠の僕たち」は、切ないラブストーリーに、少しばかり奇妙で不思議なファンタジーの要素を加えた青春映画だが、小品の域を出ていない。
   [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「やがて来たる者へ」―子供たちにいったい何が残せるのか―

2012-01-28 22:30:00 | 映画


     このところずっと、厳しい寒さが続いている。
     身も心も、凍りつきそうだ。

     この作品も、実は温もりのある心までが寒くなる、しかし心を打つ物語だ。
     1944年9月29日未明から8日間、北イタリア・ボローニャ近郊の山林で、ナチス・ドイツ軍による、最大の住民虐殺事件が起きた。
     史上、 『マルザポットの虐殺』と呼ばれている。
     パルチザン掃討が目的だったが、犠牲者771名のうち、多くは子供、女性、高齢者だった・・・。

     この第二次世界大戦中の歴史的事件を、一少女の眼差しで捉えた、ジョルジョ・ディリッティ監督イタリア映画だ。
     題名の「やがて来たる者」というのは、未来に生きるものを意味する。
     少女の澄んだ瞳は、何を見つめているのだろうか。

   
1943年12月、イタリア北部の都市ボローニャに近い、小さな村・・・。
ドイツ軍とパルチザンの攻防が、激しさを増していた。
静かなこの山林にも、戦争の影が徐々に忍び寄ってきていた。

両親や親戚と暮らす8歳のマルティーナ(グレタ・ズッケリ・モンタナーリ)は、大所帯の農家の一人娘であった。
生まれたばかりの弟を、自分の腕の中で亡くして以来、口をきかなくなってしまっていた。
そのために、学校でいじめられたりもするが、豊かな自然の中で、家族に見守られて多感な日々を過ごしていた。

ある日、母のレナ(マヤ・サンサ)は、再び妊娠し、マルティ―ナと家族は、新しい子の誕生を待ち望むようになった。
戦況がいよいよ悪化し、ドイツ軍が出入りする中、地元の若者たちは、密かにパルチザンとして抵抗を続けていた。
幼いマルティーナには、どちらが敵でどちらが味方かよくわからない。
そして、44年9月29日の早朝、レナは男の子を無事出産する。
しかし、一家の喜びもつかの間で、とうとうドイツ軍がパルチザンを掃討する作戦を開始し、大挙して村に乗り込んできた・・・。

このドラマにおける歴史の目撃者は、口をきかない8歳の少女だ。
キャストは、ほとんどが地元を中心に選ばれた素人で、家や衣装、家畜にいたるまで、出来る限り当時の生活を忠実に再現している。
少女のマルティーナは、最初から最後まで一切言葉を発しない。
マルティーナの眼は、カメラの眼となって、そこに起きていることの理不尽を、淡々と写し撮っていくのだ。
少女マルティーナの瞳に映るのは、敵味方に関係なく、子供たちを育て、恋をし、ごく普通の生活を送っていたのに、戦争という時代の本流に呑み込まれていった人々の姿である。

ドラマ前半は、平和で穏やかな山村の生活が描かれている。
これが後半に入ると、がぜん兵士たちが住民を巻き込んだ戦いとなって、平和な村は戦場と化していくところは胸がつまる。
この作品には、いまもなお、アフガニスタンなど世界中で絶え間なく続いている戦争の悲劇に対して、このような過ちを二度と繰り返してはならないという、製作者サイドの未来への願いがこめられている。
戦争と平和という普遍的なテーマと、人間への深い洞察がある。
山間に生きる人々の、素朴な暮らしや、季節に彩られた風景を丹念に紡いで、その映像美は極めて味わい深い。
出演はほかに、現代のイタリアを代表する若手女優アルバ・ロルヴァケルらの名も見逃せない。

ドイツ兵による住民虐殺は、イタリア各地で繰り返されるが、平和で穏やかなこんな小さな村で、無抵抗の住民まで殺すことにどんな意味があるのだろう。
この『マルザポットの虐殺』が最も大規模で、最後に、パルティザンの総蜂起によって、ドイツ軍とファシスト政権からのイタリア全土の開放がなされて、イタリアの戦乱は終息を迎えることになる。
イタリアでの、ナチスによる大虐殺を描いた映画に、アメリカスパイク・リー「セント・アンナの奇跡」があるが、こちらの方はイタリアでは成功しなかった。
それは、強いリアリズムの欠落した映画として撮られていたからだといわれる。

このジョルジョ・ディリッティ監督イタリア映画「やがて来たる者へ」は、大きな意味で、人間そのものを問うている作品だ。
小品だが、作品は丁寧でよくまとめられている。
ラストシーンのマルティーナには、心を揺さぶられるものがあり、まだこの世界には希望があることを確信させる。
そして、この作品もまた真実の物語なのである。
   [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「ALWAYS 三丁目の夕日’64」―懐かしいあの日の絵日記を見るような―

2012-01-26 17:15:00 | 映画


     そう、日本が、高度経済成長の真っただ中にあった、あの頃・・・。
     昭和33年(1958年)、東京タワーが完成する。
     昭和39年(1964年)、アジア初の東京オリンピックが開催される。
     そして、この年オリンピックに先駆けて、東海道新幹線も開業した・・・。

     あの頃、日本中が、熱気に溢れていた。
     誰もが、元気だった。
     その時代を描いた「ALWAYS 三丁目の夕日’64」が、シリーズ3作目となってまた帰ってきた。
     2005年11月第1作初公開以来、前作のラストからおよそ5年後である。
     夕日町三丁目は、あの頃と変わらない。
     それぞれが、賑やかな日常に明け暮れている。

   




   
昭和39年、東京オリンピックが開催されたこの年、オリンピックを控えて、首都東京の街はビルや高速道路の建築ラッシュで、活気に満ち溢れていた。
そんな中、東京下町の夕日町三丁目では、5年前と変わらず、個性豊かな住民たちがみな元気に暮らしていた。
小説家の茶川竜之介(吉岡秀隆)はヒロミ(小雪)と結婚し、高校生となった淳之介(須賀健太)らと3人で仲良く暮らしていた。
ヒロミは身重で、もうすぐ家族が一人増えようとしていた。
茶川は、少年雑誌の看板作家として連載を続けてはいるものの、新人小説家の作品に人気を奪われてしまい、スランプに陥っていた。

一方、鈴木則文(堤真一)とその妻トモエ(薬師丸ひろ子)、一人息子の一平(小清水一揮)、住み込みで働く星野六子(堀北真希)が暮らす鈴木オートは、事業を拡大し、店構えも立派になった。
仕事も熱心にこなす六子は、最近、しっかり化粧などして家を出ていく姿が目立つようになった。
それは、通勤途中の医者の菊池孝太郎(森山未来)とすれ違い、朝の挨拶をかわすためだった。

そんな六子のほのかな恋心を、大田キンもたいまさこ)は暖かく見守っていた。
そして、小児科医の宅間史郎
(三浦友和)は、今日も人のために診療を続けている。
そんな折、茶川が隠していた、とある電報をヒロミが見つけてしまったのだった・・・。

原作は、西岸良平のビッグコミックオリジナルで、関連本は総発行部数1800万部という、大変なベストセラーだそうだ。
全2作を大きなヒットに導いた、山崎貴監督がリアルな3Dでの撮影を敢行した。
まだ人々の記憶にある時代を、しかも、たくさんの人が目にしているはずの光景を再現し、昭和39年の夕日町三丁目へ、文字通りタイムトラベルする。
スクリーン一杯に、懐かしさが溢れる。
当時をよく知ってもいるので、感慨がないわけではない。本当に懐かしい気持ちになる。
いまの日本から振り返れば、あの頃は、少なくとも、今よりはずっと誰しもが元気だった。
希望があった。夢があった。
そして、世界が、日本に集まってきた!

だが、山崎貴監督の今回の作品「ALWAYS 三丁目の夕日 ’64」は、全2作のほうが、今回の作品よりまだ良かったような気がする。
キャラクターが成長し、当時の世相もよくわかるのだが、今回の作品にさしたる感動がわかない。
それに泣いてくれ、笑ってくれといわんばかりの演出が、どうしても気になる。
たとえば、本編での淳之介と竜之助の関係のように、誰でもが思いつきそうな、ご都合主義や気負いばかりが目立つ。

とくに、きわっだ確執のある、起伏の激しいドラマでもなし、もっと自然体の演技にも、期待したかった。
ただでさえ、わかりきった‘絆’だとか‘希望’だとか言っても、少々聞きあきてしまった。
そんなことは、あらたまって言葉にしなくても伝わってくるものだ。
残念ながら、おざなりなセリフにも、誰かの言葉ではないが‘刺激’がないし、魅力も感じない。
絵日記を見るような、懐かしさを感じられたのは救いだけれど、異論は百も承知で率直に言うと、‘ドラマ’としてはつまらなかった。
   [JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点


映画「無言歌」―人間の命の尊厳を見つめる慟哭の叙事詩―

2012-01-24 18:00:05 | 映画


     中国の映画作家ワン・ビン(王兵)監督の作品だ。
     この映画は、中国辺境の砂漠地帯で撮られた。
     でも、「中国映画」ではないのは何故か。

     世界的にも鬼才の呼び声の高いワン・ビン監督が、これまで封印された実話にもとづいて、観る者を圧倒する映画美で、鮮やかにその謎を解き
     明かした作品である。
     人間が絶望のどん底にありながら、何とか人間らしさを保とうとする、命の尊厳を描く叙事詩だ。
     この作品には、多くの無念と、決して消し去ることのできない歴史が、厳然として生きている・・・。
     日本では、初めて劇場公開された作品である。




   
1960年10月、中国西部にある、中国共産党右派の収容所・・・。
風邪が轟々と鳴り、砂の舞う荒野である。
一本の樹も見えず、空は濃く青い。

男たちが歩いている。
男たちは粗末なテントに集められ、隊長のチャオ(リー・ジュンチー)が、彼らをそれぞれの壕に振り分けて行く。
彼らは、反革命の思想の持ち主だとして、労働によって思想を改造する「労働改造」を命じられ、“右派”とされた人たちであった。
農場とは名ばかりで、そこは収容所と呼ぶ方がふさわしかった。

壕は土肌が剥き出しの穴倉だ。
昼間でも中は暗く、だが、わずかな隙間から射し込む陽は眩しい。
彼らの労働は、広大な荒野を開墾することだが、痩せた大地を掘り越す作業は、不毛な苦役であった。

班のまとめ役であるチェン(リェン・レンジュン)が、所長のリュウ(ワン・ダーユアン)に呼ばれ、稼働状況を聞かれるが、三分の一は歩くことさえままならず、働くことができない。
仲間が、二人がかりで男を歩かせようとしても、男は歩くことができない。
男は死んでいるのだ。
だが、誰ひとり男の死を気に留めることもなく、作業を続ける。
配給の食事といえば、水のような粥だけである。

ある朝、きょうもまた誰かが死んだ。
いよいよ冬が始まり、零下20度にもなるこの砂漠では、夜を持ちこたえられない者も多い。
死体は布団にくるまれて、ロバに引かせた荷車にのせて、遠くへ運ばれ捨てられる。
食糧は、切迫し1日わずか250グラムに減らされた。
折しも、中国に、飢饉がやって来ていた。

荒れ果てた土地に生える雑草から、一粒でも草の種をとろうとする老人、ネズミを捕まえぐつぐつと煮て食べる男、生のトウモロコシにあたったのか吐く者がいれば、その吐瀉物の中の穀物を探して口に運ぶ者さえいる。
果ては、死んだ人間を墓から掘り起こして食べる。
飢餓は、極限に達していた・・・。

近代中国最大の傷跡である、文化大革命の嵐の前に起きた、知られざる「反右派闘争」の悲劇を描いている。
「反右派闘争」の対象者は百万人以上といわれ、中国西北部のゴビ砂漠にある収容所では、3000人もの人たちが、過酷な労働を強いられていたと伝えられる。
歴史に飲み込まれ、傷ついた人々の悲しみに慟哭し、怒り、そしてなお人間の尊厳を見つめた、驚くべき傑作である。
ワン・ビン監督は、2004年に脚本を書き始め、さらに3年間にわたって実際の生存者たちをリサーチし、封印されていた悲劇に真正面から挑んだ。

この作品には、当時の生存者の一人も出演している。
中国の歴史を語るのではなく、人間とは何であるかを見せる作品が、ここに誕生した。
ワン・ビン監督映画「無言歌」に描かれたすべては、実際に収容所で起こった出来事で、この映画のために作り上げたり、加えたりしたものはない。
人里離れた、人知の届かない無人の砂漠地帯で、カメラは回された。
映画は、香港、フランス、ベルギーの共同制作で、中国政府の許可は得ていない。
この物語に、実際に生きた人々が参加したことも重要だし、いかに真実が映画の中に存在するかを問いかけていて、中国のタブーに敢然と挑戦したドキュメンタリーを観ているようだ。

圧巻は、夫が三日前に死んでしまったとようやく知らされ、上海から幾日もかけてやって来た女が、声もなく、やがてすすり泣き、号泣するまでの過程をカメラが一定の距離を保って見つめるシーンだ。
そこに、風の音が聞こえ始める。
かすかだった風は、一夜明けて、女が夫の墓に行きたいと言い出すあたりから、次第に激しくなる。
砂漠の中を、土饅頭の墓を捜してさまよう女の背中を、カメラが追う。
数々の歴史を背負って、幾世紀の向こうから轟々と吹き渡ってくるかのような風は、ひとりの女の心を突き通し、その泣き声さえ、引っ浚っていく・・・。

この作品から受ける感銘は、重い。
人間の犯した罪を、後世の人間は忘れてはいけない。
エンドロールは伝えている。
 「苦難の末に非業の死をとげた人々と、辛くも生き延びた人々にささげる。」
この作品、現在もなお、中国本土では上映が禁じられているというのも、うなずけることだ。

1960年代といえば、日本は高度成長期だったし、フランスはヌーヴェルヴァーグだった。
そして、中国では、世界の誰にも知られぬまま、人々が辺境の地で死に向かっていた。
そこには、かつて百花のごとく咲き誇った言葉は失われ、感情さえも失いかけた男たちがいたのだ。
・・・上海から、一人の女性がやって来る。
愛する者に逢いたいと、ひたすら願い、嗚咽する女の声の高まる中で、いつしか男たちの心に忘れかけていた生命のさざ波が広がっていくのだ・・・。
歴史とは、何と残酷なものだろうか。
ワン・ビン監督が、命がけででメガホンをとった、必見に値する、まことに感動的な作品だ。
   [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)


魚介類の放射能汚染のこれから―戸惑う食の暮らしは―

2012-01-21 21:00:01 | 雑感

日本は、世界有数の「魚」消費国だ。
何といっても、日本人は「魚」が大好きだ。
今の時期であれば、身に脂の乗り切った寒ブリなど、最も美味しい季節だ。
そんな鮮魚の多くの品種に、放射性物質の汚染がじわじわと進んでいる。
その実態が、少しずつだが明らかになりつつあるようだ。

房総沖や、さらには東京湾(特に湾岸の河口付近)、また関東一部の湖沼や河川でも、セシウムが検出され、群馬県の赤城大沼で釣れたワカサギはセシウムまみれだった。
これらがこれから拡散、飛散、拡大を繰り返して、広範囲に汚染が進んでいくと考えるのは容易だ。
どうにも不気味で、いやな話である。

去年の10月に、国際環境NGOが大手スーパー数社の店舗の鮮魚を独自調査した時、すでにすべての店舗で、放射性セシウムに汚染された魚が見つかっていたのだ。
ただ、この時点では、国の暫定規制値(1キロ当たり500ベクレル)を上回る数値はゼロだった。
しかし、11月下旬に原発直下の海に、はじめて放射能汚染の調査が入った時は、メバル2300ベクレル、アイナメ1400ベクレルといったように、ほとんどの魚から、暫定規制値を数倍も超えるセシウムが検出されている。
しかも、野菜や果物などよりもはるかに高い数値が検出されたから、驚きだ。

これもしかし、氷山の一角だろうと思われる。
海底には、福島原発から流れ出たセシウムが、拡散することなくたまり続けているといわれる。
‘収束’を発表した原発事故だが、‘収束’などしていない。
先日のNHKの特集番組でも、そのようなことを報じていた。
そっと、警鐘を投げかけているようだった。

その魚介類が、いま何の表示もないまま市場に出回っている。
たとえ、国の決めた暫定規制値以下であっても、必ずしも安心はできないとして、スーパーのイオンでは、一段と厳しく「セシウム0」「放射性物質は検出されず」をもって、初めて店頭に並べることにした。
消費者の安心のためには、ごもっともな話である。
どこのスーパーや鮮魚店でも、もちろん他の野菜や米、肉類にいたるまで、そうあってほしいものだ。

スーパーの鮮魚の表示には、産地の記されていないものあれば、「太平洋産」としか書かれていないものもある。
「太平洋産」とは、ひどいものだ。そんな表示の仕方があるものか。ふざけてはいけない。
もちろん、セシウムなどの調査を、スーパー独自で行っているところはほとんどなく、他の調査機関に頼っているとか、実際にやっていないと答える店舗もあるくらいで、鮮魚の規制値についての表示はなかったり、あっても信用できるものかどうかは疑わしい。
消費者は調べようもないから、とても厄介だ。

やがて、東日本大震災から1年になろうとするいま、被災地の復旧、復興はままならず、ガレキの処理すら全体の4%しか進んでいないという。
さらに、被災地のみならず、全国各地の人々の暮らしの直結する、生鮮食料品(野菜、魚介、米、肉類)については、完全に調査が行き届いているとは言えない。
そしてさらに、一刻も急がなくてはならないのは、周辺各地の除染作業である。
こんな時に、政治や行政は100%機能しているといえるだろうか。
実行とともに、約束通りの結果を出してもらいたい。

国会では、どじょうの異名を持つ、全く頼りにならないリーダーが、ひたすら「ゾウゼイ」「ゾウゼイ」ろ叫びまくっている。
ほとんど絶叫に近い、あれは一体何なのですか。本当に正気なのですか。
そして、舌の根も乾かぬうちから、一日も早い原発再稼働を促す動きまで出ている。
いま、この国に何が起きて、どうなるのか。すべて、本当にわかっているのだろうか。
難問が山積している中で、何をまず第一にやらねばならないか。
国民に直結する、喫緊の課題をこそ、待ったなしで、優先解決していくべきではないのか。
それなのに、朝から晩まで、開けても暮れても「ゾウゼイ」「ゾウゼイ」だ。
消費税増税騒ぎもわからぬではないが、耳が痛くなるほど、聞きあきている。
もう、うんざりである。

ついでに、消費税アップのことでちょっと言わせていただければ、これとて官僚の利権確保以外の何ものでもないと思うし、経済が疲弊しているのに、そんなことをして国民生活は立ち行くのだろうか。
本当に、財政が健全化するというのだろうか。
中小企業などは、大変ではないか。
ヨーロッパのギリシャとかイタリアとかポルトガルは、日本より間接税が高い国で、ことごとく財政危機にあえいでいるそうだが、ヨーロッパの財政危機はそのせいではないのか。

そんなこと云々より、毎日口に入る、魚や肉や野菜や米が、以前のように安心で安全な食品であってほしい。
現在、そしてこれから、日々の暮らしがどうなるかが、何よりも大切な問題だ。
陸地はもとよりのこと、海の方で、それよりもはるかにはるかに高い数値の放射性セシウムが検出され始めたということは、少なからずショックだ。
このことには、大学教授、研究者たちも大変ショックだったようだ。
今後の推移を、しかと監視ししていかなくてはならない。
とくに、日本人と「魚」とは縁が深く、日々の食卓にしても、すしのネタにしても、不安は募る。
それから、貝類の汚染については、まだまだ調査も結果もこれからだし、残念ながら、これら魚介類や海水、淡水の汚染はまだほんの序章に過ぎない。

なお、三重大学準教授の勝川俊雄氏の解説『水産物の放射能汚染から身を守るために、消費者が知っておくべきこと』は、大分前に発表された記事ですが、論述が詳細で、大変参考になる部分がありますので、ご紹介をさせていただきます。


映画「クリスマスのその夜に」 「CUT」―ちょっと気になる二作品―

2012-01-19 21:00:00 | 映画


     この作品「クリスマスのその夜に」
は、ベント・ハーメル監督の、ちょっぴり切ないクリスマスの物語だ。
     クリスマスイヴの夜、北欧ノルウェーの小さな町を舞台にしている。
          6編ほどの短いエピソードからなる、きらきらとした群像劇だ。












     
      
一年に一度のクリスマスだけは、大切な人と過ごしたい。
そんな願いを抱きながら、彼らは家路を急ぐ。

結婚生活に破綻した男は、子供たちにプレゼントを手渡したい一心で、サンタに変装し、かつての我が家に潜り込む。
その友人の医師は、二度と故郷に戻れないという、コソボ出身のカップルの赤ちゃんを取り上げる。
ある少年は、御馳走を囲む家族よりも、クリスマスのお祝いをしないイスラム教徒の女の子との時間を楽しんでいる。
彼女の横顔を、きらめく瞳で見つめながら・・・。

小さな嘘と引き換えに、すてきな時間をもらった少年、身勝手な男と愚かな女のよくある不倫話、うちに帰るのに電車賃がなくて、雪の中をさまよい歩く男、何があっても希望をくれた新しい生命の誕生といった、ささやかでつつましい小品群が、さながら「クリスマス短編小説連作集」を思わせるのだ

この映画は、複数のエピソードが美しい調和を織りなしている。
それぞれの関係、それぞれの人生が、スケッチ画のように、しかも生き生きと描かれている。
しんしんと降り積もる雪の中で、不器用でも懸命に生きる人々の一日が、愛にあふれた眼差しで綴られる。
ありふれた日常だからこそ、実は輝く時間の積み重ねだと教えてくれるように・・・。

新たな生命の息吹を祝福するかのような、黄金色のオーロラが瞬くシーンなど、北欧ならではの見ものがいい。
ノルウェー・スウェーデン合作「クリスマスのその夜に」は、最初はわかりにくい部分もあるが、それぞれのドラマが同時進行しており、ほのかな希望を感じさせるとともに、心温まる何とも優しい人間讃歌を奏でている。
出演はフリチョフ・ソーハイムをはじめ、無名だが達者な役者たちが揃っている。
   [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


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こちらの作品「CUT」は邦画なのに、国際的にも鬼才といわれる、何とイラン人のアミール・ナデリ監督の、出演者はそろって日本人という、
なかなかの異色作に注目だ。
主演は西島秀俊で、ナデリ監督からの強烈なオファーがあって、この作品は誕生した。

ヴェネチア国際映画祭
のオープニング作品として、ワールドプレミア上映された。
このとき、ハードなこの作品に対して、10分間ものスタンディングオベーションの熱狂が、やまなかったほどだそうだ。













   
主人公の秀二(西島秀俊)は、映画好きが昂じて、映画監督になった男である。
兄が遺した莫大な借金を背負わされたことから、陽子(常盤貴子)やヒロシ(笹野高史)を巻き込みながら、殴られ屋をしている。
殴った男から、金をかせいで、借金を返そうというのだ。

秀二は、殴られるたびに名作映画を思い浮かべる。
顔中血だらけになり、何度殴られても、映画への狂気とも思える愛情が、秀二を再び立ち上がらせる・・・。

こんな試練を乗り越えることが、愛する映画を救うだなんて・・・。
内容的には、誰が見たってハチャメチャなことで、1000万円を超える借金を、毎日殴られて返していくことなどできはしない。
そんなことは、とんだ妄想であり、狂気の沙汰だ。
だが、このアミール・ナデリ監督映画「CUT」は、それをひとつののように描いている。

主人公を演じる西島秀俊の、これでもかこれでもかという、凄惨きわまりない体当たりの演技は、観ている方もたまったものではない。
新境地というにはまことにエネルギッシュで、馬鹿馬鹿しさもあるが、頼もしさも漂う、変わった作品だ。
ナデリ監督の演出法には、極限にまで迫る怒気と狂気があり、音もなく流れるエンドクレジットを見ていて、その無謀とも思える情熱に共鳴した多くの日本人、韓国人、イラン人がいたことと、鬼気迫る演技で、これほどの役にのめりこんでいった西島秀俊を見ることになるとは思わなかった。
「激しくも慎み深い映画のいとなみ」と、黒沢清監督も評するごとく、映画はまだまだ捨てたものではない。
   [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「ラビット・ホール」―喪失から再び希望を取り戻すまでー

2012-01-15 11:05:00 | 映画


     小正月を迎えて、寒さはいま本番だ。
     こうなると、やがては訪れる春が待ち遠しい・・・。

     愛する者を亡くしたとき、その悲しみは消えることはない。
     それでも、その悲しみを抱きながら、歩き出すことはできる。
     喪失から再生というテーマを、真摯に探究した、静かな物語である。

     幾度となくほつれかけても、決して断ち切られることのないものは、夫婦の絆だ。
     誰だって、経験するかも知れない人生の陥穽を飛び越えて、少しでも光のある方へ・・・。
      そういう思いを込めた、ジョン・キャメロン・ミッチェル監督アメリカ映画だ。





     
ニューヨークの瀟洒な邸宅に、ベッカ(ニコール・キッドマン)とハウイー(アーロン・エッカート)夫妻は暮らしている。
何の不自由もない、日常生活を送っているように見える。
しかし、二人の間にはぎくしゃくとした空気が漂い、ベッカは今にも崩れそうだ。
この夫婦は、最愛の4歳の息子のダニーを突然の事故で失い、絶望の淵にいた。

8か月前、ダニーは走る犬を追いかけ、開け放された門扉から飛び出して、交通事故に遭ったのだった。
ベッカはダニーの面影から逃げ、ハウイーはダニーとの思い出に浸る。
同じ痛みを共有しながらも、夫婦の関係は少しずつほころび始める。

そんなある日、ベッカはダニーの命を奪った車を運転していた少年と遭遇し、彼の後を追う。
一方、ハウイーはといえば、心の癒しを求めるように、セラピーで知り合った気さくな女性ギャビ―(サンドラ・オー)と、急接近していった・・・。
あらゆる日常が、音もなく壊れていく混乱の中、8か月前の悲惨な出来事の記憶と向き合うベッカの心の中で、何かが変わり始めていた。

ニコール・キッドマンは、この作品で、初めて製作と主演の大役に挑んだ。
彼女は、虚飾を一切そぎ落として、ごく普通の女性の持つ、複雑にして起伏に富んだ感情を、繊細かつリアルに表現している。
このドラマでは、大きな悲しみも、いつしか変わりゆくことを“ポケットの石”にたとえ、都合よく奇跡が舞い降りてきたようなハッピーエンドをあえて避けながら、確かにポジティブな余韻を残すラストシーンに仕上げた。
それにしても、ベッカが自分の息子を轢いた少年と偶然出会って、ぎごちない対面をするところで、彼を責めることをせず、奇妙な安らぎを感じるというのは理解に苦しむところだ。
しかも、彼らは被害者と加害者なのに、これをきっかけに、公園のベンチに腰かけて、おしゃべりをするのが日課になったというのは・・・!

アメリカ映画「ラビット・ホール」(公式サイト)は、淡々と進行するドラマの中に、人間は、過去も未来も変えられる力を持っているという希望を託して描かれており、そこから発せられる、優しく語りかけるようなメッセージは、少しかったるい部分もあるが、愛おしい温もりを感じさせる。
心に痛みを抱える夫婦の絆を描きながら、喪失から再生へと導かれる重いテーマだけに、皮肉とユーモアの要素まで取り入れた演出にも、好感は持てる。

タイトルの「ラビット・ホール」(ウサギの穴)は、『不思議の国のアリス』に由来するもので、夫婦をおそった突然の悲劇を、白ウサギに誘(いざ)なわれてワンダーランドに落っこちた、少女アリスのシュールな体験になぞらえているのだそうだ。
ラストシーンで、ベッカとハウイーが並んでベンチに腰かけている、あのたったひとこまのシーンが効いている。
映画は、不慮の事故に見舞われたことで、深い悲しみに沈む夫婦の再生を描くドラマだが、重いテーマだけに、花やいだ話はなく、再生の灯を見出そうとする、地味だけれども温かな小品となっている。
   [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」―太平洋戦争70年目の真実―

2012-01-13 17:45:00 | 映画


     なかなか、勇ましいタイトルだ。
     歴史を顧みれば、いまとよく似ている時代があった。
     昭和初期から、あの戦争が始まるまでの10年間、あの時代もまた、人々は不況にあえぎ、総理大臣は次々と短期間で交代を繰り返していた。
     そんな時代に、日本は、勝算のない(?!)戦争へ突入していったのだった。

     そんな時に、最後まで日米開戦に反対し続けた人物、聯合艦隊司令長官山本五十六を描いた、成島出監督の作品だ。
     山本五十六の名は、真珠湾攻撃によって、日本を代表する戦略家として知られているが、その「実像」はあまり知られていない。
     今のような困難な時代における、理想的なリーダー像を体現(?)していると言われるが、果たしてどうか・・・。



   
1939年(昭和14年)夏・・・。
「日独伊三国同盟」締結の声に、日本は大きく揺れていた。
それを強硬に主張する日本陸軍、マスコミ、そして国民・・・、しかし海軍大臣米内光政(柄本明)、次官山本五十六(役所広司)らは、その「世論」に敢然と異を唱えた。
日本がドイツと組めば、アメリカとの戦争は避けられない。
日本の十倍もの国力にまさる国と戦えば、この国は滅びる・・・。

彼らの命を賭した反対で、三国同盟問題は立ち消えとなり、山本五十六は、聯合艦隊司令長官として旗艦「長門」に着任する。
同時に、ヨーロッパではドイツの快進撃が始まり、同盟締結の声は再び沸騰する。
そして、1940年(昭和15年)9月、ついに三国同盟は締結された。

・・・それから一年後である。
太平洋上の空母から飛び立った,日本海軍350機の大攻撃隊が、アメリカ太平洋艦隊に襲いかかったのだ。
しかしそれは、戦争に勝つためではなく、一刻も早く終わらせるために(!?)、山本五十六が生み出した、苦渋に満ちた決断作戦だった・・・。

ハワイ真珠湾攻撃の結構作戦を立案し、指揮を執った男山本五十六は、命を賭して開戦に反対していたのに、何故、日本開戦の火ぶたを
切らねばならなかったのか。
山本五十六は、この国を見据えながら、家族を愛し、故郷長岡を愛し、日本を愛していたはずだ。
彼は、リーダー(?)として、いかなる戦いを続けたのか。
真のリーダーたりえたのだろうか?

ミッドウェー海戦があり、ブーゲンビル島上空での非業の死までを、ダイナミックに描いてはいるが、このドラマにはどういうわけかあまりが感じられない。
「太平洋戦争70年目」の節目に公開された映画だが、戦争というより、人間山本五十六に迫ろうとした映画ではある。
そのためか、戦争シーンの迫力もいまひとつだし、これまでも幾度となく映画に登場してきた、山本五十六の「実像」も十分に描き切れているように見えないし、ドラマにも奥行きがない。
彼の人間性や苦悩を、もっと掘り下げてほしかった。
出演はほかに、安部寛、坂東三津五郎、柳葉敏郎、田中麗奈、宮本信子、香川照之、吉田栄作、椎名桔平ら豪華なキャストだ。

成島出監督「聯合艦隊司令長官 山本五十六」は、 主演の役所広司力演だが、彼をもってしても、山本五十六の「実像」にどこまで迫りえたか。
山本五十六のリーダーとしての資質には、疑問を投げかける識者も多い中、教科書的な理解を示す人たちや、主人公の人間性を絶賛する人たちもいるが、山本五十六という人が、国際感覚を持った真の軍人であり、戦略家であることまでは認めても、この作品には大きな不満が残る。
例え人間ドラマとしても、戦争ドラマとしても中途半端で、大見えを切った通り一遍のドラマで、到底『衝撃の歴史超大作、戦争スペクタクル』とは言い難い。
戦争を知らない世代には、こんなものかと見えるのではないだろうか。
かなり人気先行の映画で、宣伝文句には惑わされないようにしたい。
   [JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点


映画「ブリューゲルの動く絵」―摩訶不思議な寓話の世界に迷い込んで―

2012-01-08 20:30:00 | 映画

 


     奇想天外な、動く絵の世界・・・。
     どんなものを想像できるだろうか。
     16世紀、フランドル絵画の巨匠といわれたブリューゲルの、壮大な絵画の世界をめぐる旅である。

      レフ・マイェフスキ監督の、ポーランド・スウェーデン合作映画だ。
     世界は、かくも豊かに、面白いものなのか。
     この作品は、実に見事に異空間を創出し、観客はかつてない体験をすることになる。
     一風変わった、不思議な映画に魅せられる。








     
16世紀、フランドル(フランダース)地方の夜が明ける。
人々は目覚め、そびえたつ岩山の頂に建つ風車小屋の帆が、ゆっくりと回り始める。
画家ピーテル・ブリューゲル(ルトガー・ハゥアー)は、書きかけのスケッチを片手に、まだ眠っている子供たちを家に残し、村へ出かけた。
村の素朴な農民たちや、フランドルの壮大な自然の風景は、ブリューゲルにとって絵画の源泉であった。
その日、彼は、朝露に濡れた蜘蛛の巣に、ある絵の構図のヒントを見出した。

そんなのどかな農村風景は、馬に乗ってやって来た、赤い服の兵士の出現で一変する。
宗教的な異端者を認めない支配者に仕える兵士たちが、何も罪のない若い男をなぶり殺し、見世物のように車輪刑にしたのだ。
男の妻は、なすすべもなく泣き崩れるが、周囲の人々は無関心を装い、ただその様子を見ているだけであった。

ブリューゲルの友人でコレクターでもある、ニクラース・ヨンゲリンク(マイケル・ヨーク)は、この支配者たちの横暴を憂いていた。
ヨンゲリンクはブリューゲルに、「このありさまを表現できるか?」と問いかける。
その問いに応えるように、ブリューゲルがおもむろに風車小屋へ合図を送ると、風車はぎしぎしと音を立てながら、その動きをゆるめ始めた。
やがて、風車の回転が止まるとともに、ヨンゲリンクの目前に広がる風景は、ぴたりとその時間を止めた。
すると、フランドルの風景の中に、イエス・キリストや聖母マリア(シャーロット・ランプリング)らが、過去から舞い戻り、「十字架を担うキリスト」の聖書の物語が始まるのだ・・・。

これは、新しい絵画体験の味わえる、体感型のアート・ムービーとでも言ったらいいか。
ルトガー・ハゥアーの演じる画家ブリューゲルに導かれて、絵の中の人々の日常生活をなぞりながら、やがて、名画に秘められた意味が解き明かされていくといった趣向だ。
絵画そのままの衣装をまとったキャストらによって、名画「十字架を担うキリスト」を、この映画は再現する。
最新の技術を駆使した、美しい映像と、風車の回転や風車の奏でる荘厳な音に包まれ、3Dを観ているような奥行きを感じさせる、絵画空間に出会うのだ。
まさに、目前に生きた物語として、ブリューゲルの世界を甦らせている。
絵の中にいる、人や動物たちがそのまま動き出すのである。そのままに・・・。
静と動の交差する不思議であり、絵画と映画の巧みなコラボレーションだ。
しかもそれは、絵画のテイストをよく守っているのだから、ルネッサンス時代の芸術作品が、現代のコンピューターというツールを駆使して見事に甦ったというほかない。
映画で言えば、これは群像劇で、背景はあくまでも絵なのだ。

の真ん中で、風車が止まる場面だけの、あのシーンを撮るのに1年かかったそうだ。
衣装も大変だったようで、デザイン、糸の織り方、染め方、パターンなど、テキスタイルも100枚を超えるサンプルを作って、カメラの前で確認し、同時に染めていったという。。
それも、野菜や果物で染め、そのために農村地帯から女性を40人以上も集めて、手縫いで完成させたというのだから、レフ・マイェフスキ監督の完璧なイマジネーションの再現には、並々ならぬ苦労があったわけだ。
そこに、映画作りのこだわりと執念を感じる。

フ・マイェフスキ監督
の、この作品「ブリューゲルの動く絵」公式サイト)の宗教的な背景は、十字架を背負わされ、処刑の地であるゴルゴダの丘へ向かうキリストを描いた宗教画だ。
この絵の中には、鞭打ちやキリストの磔刑、埋葬など、キリスト復活までの、最低1週間の6日目に起こったエピソードが順を追って描かれており、それに続いて、キリスト復活への新たな一日の始まりというかたちで、締めくくられる。
また、聖母マリアの語るかたちで、5日目に起こった最後の晩餐などのエピソードも登場する。
とにかく、絵画を映画にしてしまおうという、とんでもない構想がスクリーンに実ったわけで、これまで鑑賞したことのない、異色の作品が観られたことは大変に興味深い。
  [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点