徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「信さん・炭坑町のセレナーデ」―琥珀色の夏の郷愁―

2010-12-30 13:30:00 | 映画


     
      昭和30年代の、九州のとある炭坑町が舞台だ。
     炭坑の繁栄と衰退に左右され、激動の波に流されてゆく人々がいた時代である。      
     苦しみや悲しみを背負いながら、ぶつかりもがきながらの暮らしの中で、人々の純粋さが真摯に息づいていた。
     
     そういう時代を切り取った平山秀幸監督の作品である。
     ドラマには、懐かしい郷愁が漂っている。





昭和38年、九州のある島に向かうフェリーの甲板に、辻内美千代(小雪)と小学生の息子・守(池松壮亮)がいた。
島の真ん中にある炭坑に支えられ、男も女も子供たちも、貧しくとも明るく肩を寄せ合って暮らす町があった。
そこが、美千代の故郷であった。
彼女は、商店街の一角に用品店を構え、この町で息子を育てていくことを心に決めていた。

ある日、悪がきたちに囲まれた守の前に、ひとりの少年が現れる。
町では知らない者はいない、札付きの少年信一(石田卓也)であった。
信一は、早くに親を亡くし、親戚に引き取られていた。
家でも学校でも、いつも誤解ばかりされて、厄介者のような扱いを受けていた。
その信一が、鮮やかに相手を打ち負かし、守を救ってくれたところに、偶然美千代が通りかかった。
このことから、美千代と守と信一との交流が始まる。

辻内家に遊びに来るようになった信一は、いつしか美千代に憧れを抱くようになっていく。
それを見ている、守の心は複雑だった。
冬の夜、炭坑で働いていた信一の義父が急死したことから、彼は一家を支えるために新聞配達を始め、次第に辻内家から遠ざかっていった。

そして・・・、時は流れて7年後、島の炭坑で真っ黒になって働く坑夫たちの中に、精悍に成長した信一の姿があった。
信一は、義妹の美代(金澤美穂)を高校へ行かせるために、懸命に働かねばならなかった。
一方、高校生になった守は、信一に代わって、家に遊びに来る美代のことが気になっていた。
信一は信一で、美千代への一途な思いは変わらなかった。
信一は、一人の男性として成長していた。
美千代も、母子のようでありながらも、二人が昔と違うことを痛いほどに感じていた。

信一は、炭坑の不況から人員削減を余儀なくされ、家族のために上京して働くことを決めていた。
まだ見ぬ未来への希望を膨らませて、いまはまだいつものように坑内へ下りていく信一だった。
その時であった。
家にいた美千代は、炭坑での爆発事故を知らせるサイレンを聞いた・・・。

映画信さん・炭坑町のセレナーデは、人の絆を大切にして互いに支え合って生きている人たちの、淡々としてどこか心温まる人間ドラマだ。
炭坑といえば、五木寛之「青春の門」などが思い出される。
平山監督が福岡出身で、自身が育った時代も場所も近かったということもあり、原作者(辻内智貴も筑豊のど真ん中に生まれた人で、故郷を懐かしんで一気に書いた百枚足らずの小説が、この作品を生むきっかけとなったようだ。

雪の舞う炭鉱住宅の路地を、新聞を抱えた信さんが駆け抜けるシーンにも、この国が置き去りにした何かを、観るものに突きつけているような気がする。
近代産業の中心であった九州の筑豊・・・、石炭産業がもう過去のものになろうとしているいま、あの♪~月が出た出た、月が出た~♪(炭坑節)とともに、昔懐かしい郷愁を感じさせる。
昭和30年代、これとてもはや時代劇と言ってもいいのかも知れないが、妙に人懐っこさのにじむ作品である。

冬枯れの木々が、寒風に揺れています。
もうあと数時間で、今年も暮れてゆきます。
お立ち寄りくださった皆様、有難うございました。
今年も、いろいろなことがありました。
来年は、どんな年になるのでしょうか。
また、御目にかからせていただきます。
寒い日が続きますので、風邪をひかないように注意され、どうぞ良い年をお迎え下さい。


映画「最後の忠臣蔵」―忠義のために生きた16年の歳月―

2010-12-26 20:00:05 | 映画



これは、もうひとつの「忠臣蔵」の物語である。
赤穂浪士の討ち入りから、16年後の話だ。
池宮彰一郎の原作を得て、杉田成道監督は、忠義に生きた二人の武士を描いている。
この映画は、あの有名な史実を、これまでにない切り口で映画化した。
重厚で、格調ある時代劇となった。

吉良邸討ち入りの前夜、瀬尾孫佐衛門(役所広司)は、大石内蔵助(片岡仁左衛門)から生まれてくる子供を守ってくれという密命を受ける。
…その16年後、姿を消した孫左衛門は、赤穂浪士の、もう一人の生き残りである寺坂吉右衛門(佐藤浩市)が偶然見つける。
吉右衛門は、事実を後世に残すために、死ぬことを許されなかったのだ。

主君の仇討ちとして語り継がれる物語を、別の視点からとらえたドラマである。
二人の武士の運命の再会を軸に、裏切り者という汚名を着せられながら、ひたすら信念を貫く忠義の士を、役所と佐藤が入魂の演技で体現する。

内蔵助の遺児である可音かね・桜庭ななみ)が、二人の男の苦悩する悲しみとは対照的に、明るく健やかな姿で、この暗く、重々しいドラマに華を添える。
その清廉な感じがいい。
可音は、やがて豪商の息子のところへ輿入れすることになるのだが、その‘使命’を果たした孫左衛門には、最後にまだ本当になさねばならぬことが待っていた・・・。

名誉の死を許されなかった二人の運命・・・。
かつては、熱い友情で結ばれた二人が、かたや命の惜しさに逃げた裏切り者、かたや英雄になれなかった死に損ないとして、それを耐えて生きてきた男たちの心の屈折・・・。
悲しくも切ない激情がほとばしる、遺児である娘可音が、切々として恋心を抱きながらも、孫左衛門のもとから嫁いでゆ作品終盤のシーンでも、涙を流す人は多いことだろう。(大きめのハンカチの用意を忘れずに・・・)

要するに、討ち入った者よりも、生き残った者のほうが、背負うものは大きかったということか。
別れの日、可音が孫左衛門のために縫った着物を贈り、「幼き時のように、私を抱いてほしい」と願う、その孫左衛門の胸のなかで、はらはらと涙を流す可音が印象的だ。
孫左衛門の胸をよぎるのは、喜びと安堵と悲しみの入り混じった、複雑な思いであった・・・。

この映画は、大覚寺や随心院、丹後の海岸などを舞台に、ほぼ全編が京都やその近郊で撮影され、日本の古都ならではの美しい景色の中で、物語は紡がれた。
いずれも、どこか心の和む風景である。
まだ人生50年の時代、孫左衛門は50歳近いという設定で、人生の終焉を迎えようとしている人物としては、男の哀愁を漂わせて、可音の育ての親(父親代わり)としての心情(心の動き)は、いまひとつ表現が弱い。
また、彼が‘お役目’を終えた後の自死も、すこぶるあっけない。

上方には、人形浄瑠璃「曽根崎心中」が流行っていて、それが作品の中に登場するのだが、これは本当に必要なシーンだろうか。
この浄瑠璃劇の舞台が、可音に思わぬ運命をもたらすとの関連づけも、少し無理があるようだし、いかにも説明的でかえって邪魔な気がしてならない。
杉田成道監督は、この映画「最後の忠臣蔵で、どうもこれが恋の物語であることを伝えたかったのではないか。

今年は、時代劇が多く製作されたような気がする。
結構なことだ。
「必死剣鳥刺し」「桜田門外ノ変」「十三人の刺客」そして本作と・・・。
どの作品も、かなりの意欲作には違いないが、それぞれ特長があって、評価はまだまちまちのようである。


映画「パリ20区、僕たちのクラス」―吹き溜まりの下町で―

2010-12-24 03:00:00 | 映画




カンヌ国際映画祭
で、パルムドール(最高賞)を受賞した、ローラン・カンテ監督フランス映画だ。
この作品が、周到に準備されたドラマとは信じられなかった。
ドキュメンタリーだと思われるような作品だったからだ。
この緻密な完成度に、脱帽だ。

パリ20区というところは、アフリカ人、中国人、東欧出身者らとフランス人が共存する地区で、黒人もいれば白人もいる。
昔から、労働者や移民の多いカルチエで、フランス社会を象徴する地域なのだそうだ。
その移民世帯の多い地区にある、中学校に通う若者たちの日常をドキュメンタリータッチで描いている。
出演者は、全く演技経験のない生徒と教師たちだ。
1年にわたってのワークシェアリングで培った、彼らの演技と即興(アドリブ)で、日々の出来事を3台のカメラで追ったそうだ。

カンテ監督は、100年以上の歴史を持つ映画芸術に、新たな試みを実践し、それを成功させて見せた。
描写が実にリアルだし、脚本もよく練られている。
この作品で、教師フランソワを演じるのは、元教師で自身の体験を綴った原作の著者フランソワ・ベゴドーとういう人だ。

パリ20区にある、中学校の教室が舞台だ。
主な登場人物は、ひとりのフランス語教師と、出身国も、生い立ちも、将来の夢も異なる、24人の生徒たちである。
カメラが追いかけるのは、1年間の国語の授業だ。
国語(フランス語)とは、ここでは生きるための言葉を学ぶこと、それは、他人とのコミュニケーションと社会で生き抜く手段を身につけることでもあるわけだ。

言葉の持つ力を教えたい教師フランソワにとって、生徒たちとの何気ないひとつひとつの対話が授業そのものであり、真剣勝負だった。
フランソワは、どの生徒とも真正面から向き合おうとして、悩み、葛藤する。
一方で、多感な24人の生徒たちは、率直な言葉、はじけるような笑い、抑えられない想いでフランソワに応じる。
さまざまな個性の子供たちだが、混じり合うように生きている。
・・・この教室は、見ようによっては現代社会の縮図だ。
彼らの、躍動する若いエネルギーに圧倒される。
この教室という小さな空間で、生徒たちは何を学ぶのだろうか。

映画の中で注目すべきは、黒人少年の懲罰動議のシーンだ。
問題行動を指摘し、退学を求める教師と懸命に弁護する移民の母親・・・。
双方の声を自ら通訳する少年の姿、眼差しが、非常に印象的だ。
一歩外に出ればフランス人だが、家では別の文化がある。
二つの世界の、移民の子の苦悩がにじむこのシーンのために、この作品はあるようなものだ。

率直に自己主張する生徒たちの姿は、日本とは大分違うみたいだ。
生徒と教師が本音で論じ合っているいる。これが、演技だろうか?そう思うと、とても不思議な感じがする。
教室での本物の熱気は、たのもしい限りだ。
生徒には、常に自分で考えるように促す、教師の努力がよくわかる。

言葉がすれ違い、いつも傷つけ合う生徒たちと教師だが、もともとフランス社会は、黒人、白人、アラブ系、中華系が入り混じる移民社会であることがネックだ。
教室では、生の感情がむき出しになる。
肌の色の違う生徒たちが、白人教師に言いたい放題だ。
だからといって、教師と生徒に断絶があるわけではない。
誰もが他人とは違う。
だから、誰もが言いたいことを言ってよいのだ。

フランス映画「パリ20区、僕たちのクラスは、ローラン監督のいうように民主主義についての作品だ。
人と人とは違っていいのだ。自己主張は大切だ。対話が、摩擦や衝突を起こしたっていいのだ。
そのことを考えさせられる映画だ。
そして、何といっても、素人で無名の役者の演技の素晴らしさだ。
実際には、しっかりと作りこまれた物語であることを、観客に忘れさせる。
この作品が、カンヌ映画祭で審査委員全員一致で、大いなる賞賛とともにパルムドール受賞した理由も納得できる。


映画「クリスマス・ストーリー」―いかにも奥深い家族の絆―

2010-12-22 13:00:00 | 映画

映画というのは、一種の魔法のようだといわれる。
クリスマスの‘魔法’がかかった街で、かけがえのない家族が集まって、人生を語り合うのだ。
みんながそれぞれのやり方で、集まれば喧嘩ばかりなのだが、それでもこの作品は、すべての人生には驚きがあり、輝きに満ちたものであることを気づかせてくれる。
名匠アルノー・デプレシャン監督の、なかなか気の利いたフランス映画である。

ある家族の、クリスマスの物語である。
主演の、フランス映画界の大御所カトリ-ヌ・ドヌーヴは、この作品でカンヌ映画祭特別賞に輝き、文字通り“ゴッド・マザー”はいまも健在だ。
彼女は、半世紀近いキャリアの中でも、見事な貫録ある存在感を見せている。

フランス、ルーベの街・・・。
長男をたった6歳で亡くした、ヴュイヤール夫妻には、その後成長した3人の子供がいたが、悲しみは影を落とし、子供たちとはいつか疎遠になっていた。
数十年の時が流れて・・・。
父アベル(ジャン=ポール・ルション)と、母ジュノン(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、いまも仲睦まじいが、ある日ジュノンに重い病気が見つかる。

ところが、久しぶりの家族の再会も、絶縁されていた、“役立たず”で評判の悪い次男アンリ(マチュー・アマルリック)の登場で大混乱!
母に愛されず、姉との間に、修復不可能な確執を抱えている問題児だからだ。
でも、彼の恋人フォニア(エマニュエル・ドゥヴォス)は、そんなアンリの孤独を知っている。

末っ子イヴァン(メルヴィル・プポー)と妻シルヴィア(キアラ・マストロヤンニ)は、幸せな夫婦だ。
しかし、クリスマスの夜、シルヴィアは、従兄弟のシモン(ローラン・カペリュート)がずっと自分を愛していたことを知ってしまう。
集まれば、喧嘩ばかりなのである。
彼らは、それでも正直に本当の姿でぶつけ合うのだ。
久しぶりの大家族の再会に、波風が立ち始め、家族の誰もが抱いている不安や寂しさ、秘密めいた想いが顔を出すのだった。

全ての人生は、驚きに満ちている。
しかし、それは実にドラマティックで、決して理想的とは言えない家族なのだが、そこには素晴らしい眩暈的な時空が感じられて、みずみずしささえも漂っている。
ここでは、ひとりひとりが、もう主役として際立っているのだ。
デプレシャン監督の集大成ともいえる、群像劇だ。

フランス映画「クリスマス・ストーリーは、様々なな困難に立ち向かう「家族」をテーマに、彼らの持つ過去が引き出され、良質のサスペンスのようでもある。
ドラマの中の、メリハリ豊かな(!?)台詞の応酬についていくのはやや骨だけれども、終わってみると極上の爽快感がある。
あまりにも登場人物が多く、一気に彼らの相関関係が理解しにくい面もあるが、それも次第にわかってくる。
家族って何だろうか、ということも・・・。

こうして見てくると、それは運命に義務付けられた共同体、良くも悪くも腐れ縁なのだけれど、でもその根底には、血のつながった人間の温かさがある。
この映画、きわめて濃密で、彼らの台詞のやり取りには疲れるほどだ。
このドラマには喧嘩もあるが、愛もある。
雪の舞う夜、それらすべてを呑み込んで、家族の「和解」をもたらすようにドラマは進行する。
・・・クリスマスの休暇が終わり、自宅へ帰った長女エリザベート(アンヌ・コンシニ)が、ひとり静かなな朝を迎える。
このラストに、観客はほっとしたため息をつくはずである。

来年の年明け早々に、フランス映画、カトリーヌ・ドヌーヴ「シェルブールの雨傘」ならぬ最新作「しあわせの雨傘が日本で公開される。
これもまた、楽しみな一作では・・・。

映画「ロビン・フッド」―伝説の義賊を描く最新スペクタクル版―

2010-12-17 04:00:01 | 映画



リドリー・スコット監督
が、重厚感たっぷりの演出で観せるアメリカ映画だ。
実話のようなリアリティはもちろん、特に圧巻はスペクタクルシーンだ。
映像派リドリーのビジュアルな美しさ、イングランドの田園風景や丘陵、森の雄大なスケールといい、戦闘シーンも見どころ満載だ。
知ってのとおり、並外れた能力と勇気の持ち主、異色のヒーローの登場だ。
むき出しの正義が、強きをくじき、弱きを助ける。
そして、愛は自由のためにある・・・。

12世紀末、十字軍を率いるイングランドのリチャード一世(ダニー・ヒューストン)は、フランス軍との戦闘で戦死する。
イングランドきっての弓の名手ロビン(ラッセル・クロウ)は、瀕死の騎士から、王の冠をロンドンに、自分の剣は故郷に届けるよう託される。
ロビンは騎士に成りすまして冠を王室に届け、騎士宅へ向かうのだが、そこで領主と騎士の妻マリアン(ケイト・ブランシェット)に迎えられる。
彼は、二人に請われてしばらく滞在することになる。

一方、王の後継者となったジョン(オスカー・アイザック)は、悪政の限りを尽くしていた。
そのことがロビンの運命を大きく変えることになった。
ロビン・フッドの伝説の始まりである・・・。

前王の側近の解任で、後釜に座った側近は敵国フランスのスパイだったり、そこには愚かな新王に仕掛けられた恐るべき裏切りの罠があったのだ。
暴君を倒すのか、フランスと戦うのか、民衆を導くロビンが立ち上がる。
義父までも殺されたマリアンの悲しみを受け止めて、これまで自らのサバイバルのために闘ってきた男ロビンが、愛する人のために闘うことを生れてはじめて決意したのだ。
ドーヴァー海峡を埋め尽くす、フランス軍の大艦隊を迎え撃つイングランド連合軍、実戦の総指揮を執る、英雄ロビン・フッドの勝負の行方は・・・?

面白いのは、ラッセル・クロウ演じる、ちょっと強面で寡黙な、今回のロビンのキャラクターだ。
一匹狼のロビンには、女心をときめかさずにいない、何ともたくましい男臭さがある。
そんな男の強さに、マリアンもほれぼれする。
ロビンが入浴する場面で、彼がマリアンに鎖帷子をはずしてもらうところがある。
彼の、母親の前の子供みたいなぎごちなさと、外した鎖帷子の重さでマリアンが尻餅をついた瞬間の、彼女の小さな驚きを見ると、その重さを平然と身に着けていた男の強さに圧倒されたからで、これはもう二人の恋の始まりなのだった。
磊落でユーモアセンスの光るラッセル・クロウのロビンと、しなやかな強さの中に初めて男に魅了された女心をのぞかせるケイト・ブランシェットのマリアン、この二人の共演もなかなか面白い。
男も強いが、ここでは女も強い。強いもの同士なのだ。

ロビン・フッドは、圧政に苦しむ人々の希望であり、王にとっては本来反逆者であった。
そのロビンが、イングランド侵略をもくろむフランス軍を相手に、壮絶な戦いを繰り広げる、アメリカ映画「ロビン・フッドは、実際の中世史とフィクションを巧みに織り交ぜた、オリジナル・ストーリーである。
この熱いドラマには、陰謀、裏切り、愛憎のすべて(?)が投げ込まれている。
作劇のスリルは十分だし、さらに、ほの暗い(?)官能の香りをも添えて、ちゃんとラブストーリーの要素も欠かさないといった具合なのだ。
リドリー・スコット監督の、優れた映像センスに負うところも大きい。
終盤のクライマックス、波打ち寄せる海岸(フレッシュ・ウォータービーチ)での、叙事詩ともいうべき戦闘シーンは、1500人のキャストと130頭の馬を疾駆させるという、生々しい迫力十分のスペクタクルだ。
ヒーローが伝説になるまでの物語だが、総じて人物像の掘りが浅いのは、やはり娯楽映画だからということか。
観客への、まあサービス精神旺盛なこの<史劇>ともいえる作品を、騙されたと思って観るのも、また一興かもしれない。


映画「ノルウェイの森」―病める心の喪失と再生―

2010-12-13 10:00:00 | 映画



村上春樹のベストセラー小説の映画化作品といっても、作品の原作は23年も前の物語だ。
いま、その作品が何故と思わないこともない。
原作は恋愛小説の形をとっているが、個人的にはかなり退屈な、理屈っぽい長編小説だと思っている。

死生観をはらんだこの小説の映画化は、かなり難しいだろうと思われていた。
その作品を、ベトナム出身のトラン・アン・ユン監督は、「思い描いていた通りの作品ができ上がった」と自画自賛している。
試行錯誤の挙句、脚本や演出の練り直しを重ねながら、自分の色を出していったようだ。
そのせいか、映像美を追求する監督の意図は十分にうかがえるのだが、大事な登場人物の精神形成の過程については、描かれ方に期待していたほどの奥行きが感じられないのはどうしてだろうか。
ドラマが、綺麗ごとで終わってしまっている・・・。


高校時代の親友・キズキ(高良健吾)を自殺で喪ったワタナベ(松山ケンイチ)は、深刻な空虚感を逃れて故郷を離れ、東京での学生生活を始めていた。
ワタナベは依然として空虚な日々を送っていたが、ある日偶然に、自殺したキズキの恋人だった直子(菊池凜子)と再会する。

高校時代には、ワタナベと直子もよく一緒に遊んだ仲であった。
そんなことから、ワタナベは透きとおった目をしている直子に惹かれてゆき、再会した二人は、お互いに大切なものを失った者同士として付き合いを深めていくのだった。
二人は、直子の20歳の誕生日に夜を共にした。
ところが、ワタナベの直子に対する想いが深まれば深まるほど、直子の喪失感は、より深く大きなものになっていってしまうのだった。

直子は精神を病み、結局京都の療養所に入院することになる。
そんな折りに、彼は大学で、瑞々しい女の子・緑(水原希子と出会う。
直子と会えない彼は、直子と対照的な緑と会うようになっていく。
・・・しばらくの時が流れ、忘れることのなかった直子から手紙が届き、ワタナベは京都に直子を訪ねていくのだったが・・・。

映画
の画面は、寒々とした光景が若者の心象風景と重なり、1960年代後半の、過激な学生運動の渦巻きの中で、学生たちの送ってきた青春の一面を浮き彫りにする。
主人公のワタナベは、京都の療養所で、直子の部屋の同居人・レイコ(霧島れいか)の弾くギターを聴く。
それが、ビートルズ「ノルウェーの森」だったことから、このタイトルは生まれた。
ワタナベがそばにいるときは大丈夫だと言っていたが、それでも結局はこの曲を聴くと直子は泣いてしまうのだった。

精神を病んでいく、危うさと美しさを兼ね備えた、触れたら消えてしまいそうなヒロインを演じた菊池凜子は、実年齢29歳で設定よりも10歳も年上だったが、大の原作ファンだった彼女は、どうしてもこの役を演じたくて、押しの一手で監督を口説き落として期待に応えたそうだが・・・。

小説は、37歳になったワタナベが、ドイツ行きの機内で「ノルウェーの森」を聴いて、18年前自分が恋に落ちたことを思いだすところから始まる。
小説の中に滲む、若者たちの魂の吐息のような空気感までを、映画でどこまで描き切れたか。
トラン・アン・ユン監督が、この映画「ノルウェイの森」で、さまよえる愛の生と死の小説世界に果敢に分け入ったことの試みは、新鮮な驚きでもある。
当然、心の内面の描き方には、物足りなさもある・・・。
ただ、映画で描かれる、草原の風景は素晴らしく、美しい。

 


酔っ払いの喧嘩両成敗?!―お騒がせ、海老蔵殴打事件―

2010-12-08 20:25:00 | 雑感

歌舞伎俳優の、市川海老蔵殴打事件の騒々しさは、異常だ。
ニュース番組の冒頭に、いきなり緊急謝罪会見が生中継で飛び込んできた。
一体、何事かと思いましたよ。
驚かさないで下さいな、ほんとうに・・・。

まことに神妙な会見だったが、当人の釈明を、どうしても素直には信じがたい。
歌舞伎界の名門の御曹司が、酔っぱらって絡んだ相手にボコボコとやられて、けがを負うという醜態をさらしたのだった。
この人の酒癖の悪さは、どうも半端ではないらしい。
今回のこの一件、いつかこんなことが起きても不思議はなかったようで・・・。

普段の人に対する、ちょっとした不遜な態度が相手を怒らせて、火に油を注ぐ事態になったとしても当然だ。
当人は、あくまでも自分は傷害事件の被害者だと言っていて、自分には落ち度が全くないというのなら、どうして幾度も頭を下げなければならないのか。
どう見ても、この茶番のような会見は、かしこまって慇懃、虚々実々の、自分に都合の良いシナリオに思えてならない。
少し言い過ぎかな.
このような謝罪会見というと、そんなことはよくあることだし、言っていることは一方的で、疑問だらけで、大体釈然としないものだ。

人は誰でも、こうした事案では、自己に不利な証言を極力控えて、相手の非を責める。
今回の事件の経緯など、こちらは、さらさら興味も詮索する気もないが・・・。
酒の席ではよくあることだし、まともに論じることさえ憚られるというものだ。
どちらかが仕掛けて、手を出したから、こういう事態に至ったことに相違ない。
いい気になって酔っぱらって、痴話喧嘩が高じて暴力沙汰になったまでのことだ。
どっちもどっちで、一方が名だたる歌舞伎役者だったばかりに、とんだ大騒ぎになったまでだ。

問題は、テレビや新聞がそのことを連日大々的に取り上げ、これでもかこれでもかとはしゃぎたてることだ。
この、愚かで滑稽なまでの大騒ぎは、一体何なのだ!
少し、変ではないか。
これまた、救いようのない、マスコミの体たらくだ。
人間は、酒に酔うと記憶だって曖昧になる。自分が何をしでかしたか、それすら覚えていないから始末が悪い。。
当事者の発言はもちろん、目撃者の発言だって、すべては信じがたい。
酔っ払いの起こしたことに、誰がまともに付き合えるというのか。

そういう立場で、およそ見たくもない突然の謝罪会見だった。
それが、とんだ茶番のおかげで、もっと大事なニュースがあったはずなのに、それもどこかへすっ飛んでしまった。
テレビもテレビである。
そんなことだから、後味が悪かった。
しばらくは、気分がすぐれなかった。(笑)

松竹は、海老蔵の無期限謹慎を発表し、当面舞台出演を見合わせることにした。
当然のことだ。
世間知らずの、大きな坊やの払う代償は大きい。
酒は禍のもと、酒が身を滅ぼすとは、よく言ったものだ。
ただ、優れた役者は、いつも身辺に気を使い、自らを厳しく律し、健全な私生活、社会生活を送ることを心がけるものだ。
そして、自分自身を大切に考えて行動するものだし、それができないようでは、芸人として一人前とは言えないのではないか。
無理もない。
名門の御曹司だから、周囲からちやほやされながら育ってきた。
その彼自身も語っているように、自らにおごりがなかったとは言えまい。

それにしても、テレビや新聞の連日の報道は、この事件や会見の模様の伝え方に問題もある。
検証も十分でないまま、双方の言い分だけが都合よく“操作”されて、メディアは既成事実のように報じることだってできる。
都合の悪いこと(それもいろいろあるだろう)は、伝えようとしないのだ。
そこに、当事者擁護一辺倒の垂れ流しに走る、明らかに、マスコミの偏向と無節操が透けて見える。
もしそうだとすれば、それはマスコミの愚挙というものだ。
市川海老蔵本人の言い分を、そのまま真に受ける人がどれだけいるだろうか。
とはいえ、まだ新婚33歳、れっきとして世に知られた、坊や(?)みたいないい大人が、こんな騒ぎを起こしてどうするのか。
またしても、いやはや、何とも情けない話であることよ。


ねじれ国会「熟議」の成果は―日暮れて道遠し―

2010-12-05 10:15:00 | 雑感

落ち葉が、木枯らしに舞っている。
師走の声を聞くと、もう年の瀬がひたとひたと迫ってくる。

妄言、方言、失言と、非難合戦の続いた臨時国会が閉幕した。
菅総理が掲げた、政策の「熟議」は芽を出したばかりで、成果と呼ぶには程遠かった。
法案の成立率は、この10年で最低の37.8%だった。
民主党菅政権は、相変わらず、カネの問題、大臣の資質や品格、審議とは全く関係のない失態ばかりが目立った。
そのため、「熟議」に及びつかぬままだったのだ。
内閣支持率は凋落の一途で、いまの菅総理には、覇気も勢いも感じることができない。
この内閣の活路、いったいどこに見出せばいいのだろうか。

呆れることばかりである。
官房長官らの問責決議案が出され、さらには身内からも非難の声が上がっていても、居座りを続けている。
辞めるといったかと思うと、いや辞めないと迷走している。
決議案が出たからといって、即辞任というのではどうもまずいとでも思ったのだろうか。
しかし、自身も、さすがに続けられるとは思っていないのではないか。
野党はあくまでも辞任を迫る考えのようだから、そうでもないと、来年1月からの国会審議が立ち行かなくなる恐れもある。
もしそうなれば、間違いなく政権は立往生だ。

困ったことに、「何をやればいいのか、分からない」というのが、菅総理の胸の内のようだ。
やりたいこともないのに、首相だけはやりたいというのか。
どうも、はっきりしない。
官房長官の辞任問題をつつかれても、今はとにかく先延ばしをするしかないようだ。
まさに今でさえ、政権運営がもう立ち行かなくなっていることは、誰の目にも明らかだ。
確たる、主義主張があるわけでもない。信念も見えてこない。
自分の保身だけしか、眼中にないのではないか。
たとえ、内閣支持率が1%になろうとも、石にかじりついてでも政権を手放さないとまで平然と言ってのけた。
失政など、何とも思っていない。少なくともそう見える。
権力の上にあぐらをかいて、ただ一日でも長く居座る宰相でいいというのだろうか。
たわけた話である。

民主政権は、政権崩壊への道をたどっているのではないか。
そんな気までしてくる。
そうなると、国民はは哀れだ。
今年9月の民主党代表選挙以来、政治は狂いっぱなしだ。
政権の浮揚はおぼつかなく、グズグズとモタモタばかりが目について、近頃の菅総理の目は空ろで、宙をさまよい続けているように見える。
現実問題として、支持率が1%になったら異常事態だし、、首相などやっていられるわけがない。
国民のほぼ全員が、「辞めてくれ」と訴えていることになるのに、「辞めません」では、民主主義なんてどこかへ吹っ飛んでしまう。
冗談にもほどがあるというものだ。

ふと、権力の亡者という言葉を思い出した。
鉄面皮な政治家(政治屋?)の暗愚と、よもや心中してもいいなどという国民はひとりだっていないはずだ。
民主党は、‘反菅’だとか‘親菅’だとか言っている場合ではない。
挙党一致で出直す覚悟がなかったら、政権はもはや存亡の危機である。
ねじれ国会だからこそ、与野党はいたずらに対立するばかりでなく、いつも粘り強く話し合うことを忘れてはいけない。
民主党はまだまだ未熟だし、自民党も野卑でお粗末だし、ともに政策については、もっともっと「熟議」を尽くしてほしいものだ。
…内閣崩壊の危機をはらみつつ、越年を迎えることになる。
厳しい年の瀬、厳しい年明けになる。
ここは、しっかり覚悟が必要だ。


映画「わたしの可愛い人 シェリ」―ちょっと珍しい甘やかな物語―

2010-12-01 20:00:00 | 映画

絵画を見ているような錯覚にとらわれる。
この映画は、それほど絵画的なのである。
スティーヴン・フリアーズ監督の、英・仏・独合作映画だ。
四十代の元高級娼婦と、十九歳の若者との、切ない恋の物語だ。



フランスの作家コレットの原作にもとづいている。
コレットは、かつてA・ヘップバーンを見出したことでも有名だ。
コレットというと、作品では個人的には「青い麦」などを想いだすけれど、この人自身も50歳にして30歳下の義理の息子との恋や、その後も生涯の伴侶となる16歳年下のユダヤ人と正式に結婚したが、女性初のレジオン・ドヌール勲章に輝やき、81歳で死去した時はフランス政府による国葬が営まれたのだった。
そもそも、恋に落ちることを自らに禁じ、自立した女性として生きるヒロインが、一生に一度の愛に出合ったらどのような決断をするか。
19世紀末の、ベルエポックといわれた時代のフランスで、知性と教養と美貌を武器に、時代をリードした高級娼婦たちがいた。
そのヒロインが、母子ほども年の違う19歳の美青年との、情熱と官能に満ちた、二人の愛の顛末は、軽やかなペーソス漂う語り口から、一味変わった切なさを漂わせている。
 
四十代後半にもなる、主人公レア(ミシェル・ファイファー)は、友人の19歳の息子シェリ(ルパート・フレンド)に愛されるほど、魅力にあふれていた。
彼女は独身を貫き、人生を自らの意志で選択し、資産運用にもたけていた。
今様に言えば、セレブなワーキングウーマンだった。

レアは、恋に溺れることなく、毒舌家の同僚に嫉妬されながらも、窮地を脱し、決してゴシップにまみれることもなく、賢く誇り高く生きていた。
レアは成功し、年下の男性シェリの愛を手に入れたにもかかわらず、一人で生き続けることに誇りを持っていた。

1906年、ベルエポックのパリ・・・。
ココット(高級娼婦)たちが、パリの社会の中に、最も輝くセレブだった時代だ。
そんな元ココット・レアに、同業のマダム・プルー(キャシー・ベイツ)が、一人息子シェリとの仲を取り持ったところからドラマは始まる。
シェリは、女遊びにもあきているほどの、いわば“問題児”だが、子供のころからレアを慕っていた。
見るからに、不釣り合いな二人は、すぐに別れるつもりだったが、“不覚”にも6年間も暮らしを共にしてしまうのだった。
・・・やがて、シェリの挙式を突き付けられたとき、レアは、自分の生涯で、ただ一度の愛だったことに初めて気付くのだった・・・。

追えば逃げ、逃げれば追うといった、心理的なサスペンスを感じさせる。
スティーヴン・フリアーズ監督は、そんな二人のデリケートな心の動きを、流れるようなタッチで綴っていく。
心象風景を映像化して綴っていくような感じがあって、大体文学として読んだ方がいいのかもしれない。
心象の連続を映像で描くことって、たいそう難しいはずだからだ。
20世紀初頭の、アールヌーヴォー様式の邸宅なども興味深いし、美しい映像は、観ていてもあきることがない。

超高級娼婦というと、本編のヒロインと同じ時代に生きた、ベル・オテロとか、クレオ・ド・メロードといった、映画のナレーションでも紹介されている、実在した彼女たちを愛人にしようと思ったら、それこそ小さな国の国家予算くらいの金額が必要だ。
そして、実際のところ、そうした「超高級娼婦」を手に入れることができた、ベルギー国王、イギリス皇太子など、国家元首クラスの大富豪が名を連ねる。
彼女たちは美貌と肉体だけではなく、知性と教養を備えていることが最低条件(!!)だったし、リッチであっても身を滅ぼしていった紳士(?)も多かったそうだ。
そんな高級娼婦の恋という、いかにも時代離れのしたアフェアーを描きながら、よき時代(ベルエポック)の陰に華やかに生きていた、彼女たちの息遣いを感じとることができる。

映画「わたしの可愛い人シェリ・・・は、時代にマッチした舞台装置、衣装、美術など製作費に、40億円もかけたというのもうなずける。
恋の賭けに負けて、鏡をじいっと見つめる、レアの顔のアップのラストシーン・・・、自分の老いを認める女の顔がそこにあった。
そして、シェリの後姿には、寂しさとある種の解放感が・・・
この恋に勝ったのは、レアか、それともシェリか。
その答えは、出ているようなものだ。
中国の二胡による、エキゾティックな音色を取り入れた、フランス的に洗練された音楽もまあまあだ。