徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

風変わりな「和紙夢絵展」ー鎌倉芸術館にてー

2007-11-30 07:00:00 | 日々彷徨

朝から、冷たい木枯らしが舗道の枯葉を舞い上げている。
雨かと思ったが、頬に当たったのは、白い雪片のようであった。
鎌倉芸術館一階のギャラリーで、一風変った「和紙夢絵展」なる個展が開かれていたので、立ち寄ってみた。

手漉きの和紙に、顔料で写真をプリントした、絵とも写真とも異なる独自のアートなのである。
それを、「夢絵」と呼んでいるのだ。
この「夢絵」作家は、何と驚くなかれ、地球の四周分十六万キロを、たったの一人で行脚したと言う、久楽迎古゛(くらーく・げーぶる)氏だ。

会ってみると、久楽氏は、京都出身の66歳、気さくなロマンスグレーの好紳士だった。
お名前からして、大変ユニークなこの人、世界を股にかけて、自らの瞳に焼きついた、自然と人間の圧倒的な瞬間を撮り続けて、その「美」を和紙に再現するという、前人未到の試みを実現したのだった。
久楽氏が、試行錯誤を繰り返しながら創り上げた、どこにもない極上の芸術作品であることがうかがえる。

世界の雄大な自然、愛しい生き物たちの風景、安らぎの山河・・・。
そこには、人間の忘れかけた原風景がある。
新しいジャンルの、癒しの芸術がここに誕生した。
それが、「和紙夢絵展」だ。

「印象派モネを思わせる」と話題になり、ボストン総領事館に飾られた代表作『森の妖精』を、新たに『畳サイズ』に創作、新作小品『地球のかおり』など約40点が、ここに展示されている。

機械や薬品を使用しない、古式方式で処理した寒漉きの純楮和紙、その和紙を得るために、何年も時間とお金をかけて確保し、備蓄した。
現在所蔵している和紙だけ、夢絵創作が可能だそうだ。
京都黒谷の職人に依頼して、漉き舟を使う古いやり方で、一枚一枚漉いてもらって、美しく染まる、不純物のない、冬に漉かれた寒漉和紙だけを使って、「夢絵」を制作する。
そこに、作家の心の景色が、そのまま写しこまれている。
作品のひとつひとつが、愛おしく、幽邃な、癒しの感動を与えてくれる。

北鎌倉の円覚寺に仕事場を持って、常にこころの原風景を求めてやまない久楽氏の作品群は、彼が、その身ひとつで体感した、生生しい「地球のかおり」そのものである。
そこに写し出された時間と空間は、異次元のようなきらめきを放っているのだった。

芸術家への夢挑戦を始めて14年、忘れかけていたもの、心の豊かさを求めて、松尾芭蕉の「おくのほそ道」を脳裏に描き、・・・以来訪ね歩いた国は三十余国となった。
久楽迎古゛さんは、私にこう言った。
 「夢は創られるものではありません。夢は咲かせるものなのです。」

古来、自然と言えば、日本では「花鳥風月」である。
花は視覚、鳥は聴覚、風は触覚と嗅覚、月は視覚と心で受けとめる。
自分探しの旅とも思える、地球行脚で彼の見出したものが、作者渾身の「夢絵」に凝縮されているようだ。
日本の伝統文化である和紙に、和魂の芸術を託して、異彩を放つ夢絵の世界の登場をみたことは、いささか驚きでもあった。

会場には、他に世界の旅日記や多くのスナップ、資料なども展示され、閲覧することも出来る。
プライベートブランドの、日本酒「久楽酒」まで置いてあるのには、おもわず苦笑した・・・。
久楽氏は、会期中、来館者の質問にも気軽に応じてくれている。
鎌倉芸術館で、12月4日(火)まで、午前10時から午後8時まで開催中。
( 最終日のみ午後4時まで。 入場無料。 後援/鎌倉市教育委員会 )



 


「女性専用車」ー女尊男卑?!ー

2007-11-24 17:30:00 | 寸評

戦前、東京の中央線で「婦人専用電車」というのがあって、戦後になって「婦人子供専用車」が京浜東北線に連結されたのが、そもそもの始まりだった。
この頃、通勤時間帯の一般車両の乗車率は300%に及ぶ過密状態だった。
この専用車は、その殺人的な通勤ラッシュから、子供と勤労女性を守る目的で導入されたものだった。
それも、やがて廃止され、シルバーシートの導入と入れ替わる形となった。
そして、現在は痴漢行為の抑制などを目的に、「婦人専用車」が私鉄や地下鉄に導入され、概ね女性に歓迎されているようだ。

しかし・・・。
近頃、この「婦人専用車」が、日本経済の担い手である、多くのビジネスマン(サラリーマン)から、大いなる嘆きの不評をかっていることも事実なのだ。

 男は女に言った。
 「あのさあ・・・」
 「なあに?」
 「女性専用車ってあるよなあ」
 「あるわよ。それが、どうかしたの」
 「あれ、どうにかならないのかなあ」
 「どうにかって?」
 「・・・廃止するとかさ」
 「えっ?」
 「いろいろ、問題だぜ」
 「何が、問題なの?」
 「何がって、何も知らないんだな」
 「・・・」
 「あのなあ、朝のラッシュアワーの時の女性専用車って、ガラガラなんだ」
 「どうして?」
 「乗ったことないのかよ?」
 「その時間、乗らないもの」
 「だからさ、分かってないって言うんだ」
 「あのなあ、俺の乗る地下鉄、毎朝凄く混むんだぞ。身動きもできないほどだ」
 「それは分かるわ」
 「それなのにだな、隣の女性専用車はガラガラで、空いてる席もある。うん、結構空いてるんだ。毎日というわけではないけど、何時も大体そうなんだ」」
 「へえ・・・」
 「ひどいのは、こないだなんか化粧してる女がいた」
 「あら!」
 「何だ、これって思ったね。ああいうの見ると、俺だって頭くるぜ。ええ~!」
 「まあ!それは、そうよねえ」
 「女性専用車だけがガラガラで、他の車両は超満員さ。分かるか。妙な話さ」
 「何でかしら?」
 「誰でも、降りる駅のホームの都合を考えて、電車に乗ってるんだ」
 「なるほどね・・・。電車の停まる時に、出来るだけ、近くに階段があるあたりとか・・・。そうよね。だって、乗る時の、乗る車両の入り口も、ホームの場所も、いつも通勤の人は決まってるわよね・・・」
 「そうだ。だから、混む車両はいつも決まってるのさ」
 「しかたないのね」
 「おいおい、そう簡単に言うなよ」
 「だから、専用車なんか要らないと・・・?」
 「ああ。俺たちはな、汗水たらして、毎日毎日ぎゅうぎゅうの満員電車に揺られてだな、馬車馬のように働いてるんだぜ!専用車に乗りたいのは、俺の方だよ」
 「う~ん・・・、確かに、男の人は大変よねえ」
 「考えても見ろよ」
 「ええ。分かるわ」
 「あんな専用車なんて、無くしたらいいんだ。まるで、女尊男卑だな」
 「う~ん・・・、男女平等じゃないって、言いたいのね」
 「ああ、そうだ。男女平等の社会に反するッ!」
 「・・・だって、元はと言えば、男の痴漢が多いからそうなったんでしょ」
 「専用車のきっかけはそうらしい」
 「そうでしょうよ。男が悪いんだわ、決まってるじゃない」
 「そう短絡的に物を言うな」
 「はあ?」
 「痴漢、痴漢て、身に覚えのない人間まで痴漢にされてしまう世の中だ。痴漢の冤罪事件が多いの、知ってるか?」
 「知ってるわ。ほんとに気の毒な話よね」
 「馬鹿言うな。、そんなことですむか。男の人生台無しにして・・・」
 「・・・家庭も、仕事も、何もかも無くした人の話ね」
 「いい加減な女のせいでだな、人生めちゃめちゃにされて、あとで、たとえ無実となっても全ておしまいさ」
 「・・・」
 「女って奴は、ひどいよなあ。まったく・・・!」
 「何ですって?それって、もともと男が悪かったからじゃない」
 「そんなことあるもんか。痴漢ていうのはな、あまり言いたくはないが、女にだって、責任があるときもあるんだぞ。これ以上は言わせるな。男が全部悪いわけじゃないぞ」
 「ふ~ん・・・!」
 「真面目な、無実の男が、或る日突然痴漢扱いされる・・・。そんなこと、許せると思うか」
 「よく聞く話だわ」
 「満員電車に乗るときは、俺も、毎日びくびくものだ」
 「・・・そうだわねえ」
 「冗談じゃねえよ。男性専用車が欲しいのはこっちだぜ。女性といっしょの車両じゃあ、何時痴漢にされるか分かりやしない。ご免だねえ。怖い、怖い」
 「ほんとうね」
 「まったく物騒な時代になったものさ」
 「確かにねえ・・・」
 「・・・だろう?女性を優しく、大切にと言うなら、男女の高齢者や身体障害者だって同じだぜ」
 「女性専用車に、男性が乗ってはいけないと言う規則は、とくに無いのよね」
 「そうらしいな。でも、専用車って書いてあるのに、乗れるかって言うんだ!」
 「そうよね。勇気がいるわよね」
 「あたりまえだ」
 「痴漢対策と言うならだな、もうはっきりと、女性はすべて女性専用車に乗るようにしてくれと言いたいね。女性全員だぞ!」
 「男性、女性別々の車両と言うことね」
 「そうだ。だけど、そんなこと出来るわけがない」
 「そうね」
 「困った問題さ・・・」
 「いっそ、専用車なくしたら?そうよ、そうだわ。それがいいわ。なければないでいいのよ。なくしたらいいんだわ。そんなに問題なら・・・」
 「そうだな。でも、そこがどうもすんなりいかないわけよ、な・・・」
 「みんな、自ら自分を守ればいいのよ。自分の身は、自分で守るのよ。女だって、男だって。そうすればいいのよ。そしたら、女性専用車なんて要らないのよ。そうよね」
 「・・・」
 男が黙ってうなずくと、女の口元から、ふっふっと小さな笑みがこぼれた・・・。

・・・或る調査によれば、女性専用車について、女性の65%はあった方がよいと答えているが、要らないと答えた女性は35%もいた。
男性の80%以上が、専用車は要らないと言う反対意見であった・・・。
最近の調査では、さらに反対意見は増える傾向にあると言われる。
男性と女性の賛否両論、さて・・・?

女性が、それこそ完全に痴漢の被害を防ごうとするなら、確かに、全ての女性を女性専用車両に乗せることを強制しない限り、とても不可能だろう(!)
痴漢犯罪は増え続けている。
それと同時に、痴漢の冤罪事件も増えていることを忘れてはいけない。
満員電車に乗っていれば、たとえ男性がどんなに気をつけていても、いつ突然冤罪事件に巻き込まれないとも限らない。
考えると、空怖ろしいことだ。
女性の訴え一言で、犯罪者になってしまうのだから・・・。
この場合、男性の弁解はほとんど通らない。
無実の証明ほど難しいものはない。
評論家の有田芳生氏は、痴漢の冤罪が怖いからと、帰宅の満員電車をやめて、タクシーで帰ることにしていると言う記事を何かで読んだことがある。
いま、そういう時代なのか・・・。

・・・近年、女性は強くなった。(ときに頼りない男性よりも・・・?)
男女同権、男女平等、機会均等が叫ばれている。
そんな中で、自立する女性たちの活躍も目立つようになった。
その陰からは、男性の嘆きの声が聞こえてくるが、それでも、「女性専用車」は必要だろうか。
今日も、通勤電車は走りつづけている。
男と女たちの、それぞれの思いを乗せて・・・。
 


真実を語れ!ー「大臣の疑惑」ー

2007-11-21 16:00:00 | 寸評

冷たい木枯らしが吹きすさんで、北の国から雪の便りが届く頃となった。
舗道の枯れ木の梢が、寒天を刺している・・・。
あたかも、空を睨みつけるようだ。

(記事一部改訂・一部追加)
前防衛事務次官の証人喚問で、名指しされた額賀財務大臣は、「山田洋行」元専務らと宴席に同席したとされる問題について、「その記録も、記憶もない」と事実を真っ向から否定した。
財務大臣は、夜を徹して日誌や記録を調べたが、宴席に出席したとの記録はなかったと言った。
夜を徹して、ねえ・・・。
そもそも、そういう記録がはじめからあったのか。
人間、都合の悪いことは記録に残さないこともある。
自分は残さなくても、相手や関係者が記録を残すと言うこともある・・・。
言おうと思えば、そんなこと、何とだって適当に言えるではないか。
記録のないことが、宴席に同席した事実がないと言うことにはならない。
このことは、前次官の証言と違うところだ。
証人の話とどうすり合わせるというのか。
どちらかが嘘をついているか、勘違いなのか。
嘘をつけば偽証罪に問われる。
守屋前次官の証言には重みがある。

「山田洋行」に買ってもらったというパーティー券220万円について、ことが発覚したからと言って、突然慌てて返還する必要があるかどうか。
それ事態もおかしい。
やましいことがなければ、返還の必要はない筈だからだ。
額賀財務大臣は、防衛庁長官の時代に、朝食勉強会と称して、「山田洋行」の分も含めて、6000万円近いパーティー券を売り上げたこともある。

額賀氏は、一度目の防衛庁長官の時に、装備品の代金を過大に払っていた背任事件の責任を取って辞任した。
彼は、防衛省・庁と五年間で、170億円もの取引のある業者と深い癒着関係にのめりこんでいたのだった。
そして、額賀大臣は、防衛庁引責辞任の2年後、経済財政担当大臣の時にも、KSD汚職事件に絡んで疑惑を受け、大臣の職を辞した経歴を持つ。
何と、二度にもわたる辞任更迭劇があった。
それでも、福田内閣の財務大臣に納まった。
(自民総裁選を辞退し、福田内閣での入閣という筋書きがあったからだ)
身元調査は、意味をなさなかった?
いわくつき政治家の入閣は、甘い誤算だった?!
こんな福田人事も大いに問題がある。

そして、またもやである・・・。
新たに、元防衛官僚のとんでもない証言が飛び出した。
驚きました。
いやいや、次から次と、とどまることを知らぬ疑惑の連鎖である。
元仙台防衛施設局長が在任中の00年3月、建設会社に絡む工事発注について、当時の額賀内閣官房副長官側から、工事指名業者に入れて欲しいと言う「口利き」があった疑いが分かった。
勿論、当人側は、「口利き」も「口添え」も、そのようなことは一切ないと全面的に否定している。
この話は、元仙台防衛施設局の太田局長の語った話なのだが、守屋前防衛事務次官の国会証言を聞いて、この際自分の知っていることを明らかにしたいとの意向で、取材に応じたものだった。
そして、この太田元局長は、額賀氏側から、守屋前次官を通じて伝えられ、自分の受けた報告の内容、経緯について、詳細に記した当時の日記なども公開する意向だと、大新聞が一面トップで報じている。
元局長は、施設局在任中、局長室のパソコンにその日の出来事を詳細に入力してきたそうだ。
これは、信憑性の高い、有力な証拠となるかも知れない・・・。

あれやこれやで、額賀問題は、まことに厄介な火種を抱えることとなって、ただでさえ波乱含みのいまの福田政権にとって、守るも地獄、攻めるも地獄となりそうな様相を呈して来た。
さて、どうなることか・・・?
福田総理、どうする・・・?

守屋次官の証言といい、この元施設局長の発言といい、いずれも事実ではないとする、額賀大臣の強い居直りは何なのだろうか。
否定の根拠はとなると、どうも弱々しい。
これまで名指しされ、公言されて、怒らないのか。
事実無根であるなら、即刻名誉毀損、誣告罪で告訴なさらないのか。
 「そのことは、いまは考えていません」
ほほう・・・。余裕なのか、それとも・・・?
一体、何なのだろう・・・。

ところで、一方国会の証人喚問で守屋次官から名指しされた、もう一人の久間元防衛大臣が、最初の防衛庁長官在任時に、「軍事情報サービス」などを目的とする会社を設立し、現在も一人取締役として経営しているらしい。
久間元大臣は、「山田洋行」元専務らと料亭で飲食し、その代金を支払わなかったことを認めている。
防衛庁長官や、自民党の防衛関係の要職を歴任しながら、軍事情報を取り扱う会社を経営していたなんて・・・、そんなことって、あっていいのかなあ!?
とにかく、防衛省・庁をめぐって、怪しげな話ばかり一杯出てくる。
全く、きりがないから、この位にしておきたい。

それにしても・・・。
国会証言と額賀発言の、虚々実々・・・?
真実は、どうなっているのだろう。
・・・納得できないことばかりだ。
平気で嘘をつくようでは、「厚顔無恥」も甚だしい。
そんな大臣には、すぐお引取り願いたい。
いずれにしても、今国会での、額賀大臣への与野党の追求は避けられず、大臣が、どういう説明責任を果たすかが見ものである。
防衛省をめぐる、利権の大きな深い闇は、底なし沼みたいだ。
この際、国会にも、検察にも徹底的に疑惑の解明を期待したい。

ついつい、長い記事になってしまった・・・。
政治家は、常に真実を語ってもらいたい。
私たちが知りたいのは、真実だ。


ー映画「長い散歩」ー魂の救われるファンタジー

2007-11-17 08:30:00 | 映画
個性派俳優であると同時に、映画監督としてのスタンスを固めつつある奥田瑛二が撮った、長編映画の三作目である。
新作ではないが、彼の映画作家としての確かな実力を示す作品だ。

この作品で取り扱われる、幼児虐待という社会問題は、現在も根深く存在しており、親子間の問題など、福祉の介入が困難なデリケートな一面も合わせ持っている。
原案は、奥田瑛二自身によるもので、妻の安藤和津が中心になり、今回の助監督を務めた安藤桃子、次女安藤サクラのアイディアを取り入れながら、新人脚本家山室有紀子の協力を得て、執筆されていった。

定年まで高校の校長を勤めた松太郎(緒方拳)は、妻をアルコール依存症で亡くし、ひとり娘とも絶縁状態にあった。
家庭を顧みなかった、過去の自分を悔いながら、安アパートでひっそりと暮らし始めた彼は、隣室の女(高岡早紀)が、日夜幼い5歳の娘を虐待していることに気づく。

それ以来、松太郎は何かとその少女を気にかけるが、或る日ついにその虐待の惨状に見かねて、彼女をアパートから連れ出して、二人だけの旅に出る。
旅の途中で、いじけていた少女の固い心も少しずつ開かれ、二人の間に絆が生まれる・・・。
しかし・・、世間は事態を誘拐とみなして、男と少女は、警察に追われることとなってしまうのだが・・・。
初老の男松太郎は、自分の贖罪の念から、少女に手を差し伸べる。
・・・が、やがて、彼自身もまたその少女に救われてゆく。

子供や家族をめぐる、悲惨な事件の相次いでいる現代の社会・・・。
その社会の、ゆがみや心の暗部を、逃げることなく抉りだしながら、日本人の本来持っている優しさや情緒感を見つけ出し、救済されていく魂のファンタジーと言ったらいいか。
天使の羽を身につけた少女と、人生を再生させたい男の交流が描かれ、家庭が崩壊した現代に紡がれていく。
純粋な情愛が、優しく胸を洗う、あえかな温もりを感じさせて、心癒される、モントリオール映画祭グランプリに輝いた、珠玉の一作だ。

・・・閑話休題・・・
心癒されると言えば、このあいだ至福の一瞬を味わった。
目をみはった。胸が高鳴った。
それは、月の地平線から、漆黒の闇の中に昇る、青く美しい地球の姿だった。
それは、荘厳で、心の引き締まる瞬間であった。
地球の出と、そして入りと・・・。
美しく、青く輝やく星、地球・・・。
その地上には、あまたの人間と生物が息づいている。
しかし、そこには、いつの時代も戦争があり、殺戮があり、飢餓があり、貧困があり、病苦があり、嫌悪と憎悪が渦巻いている。
地球は、こんなにも美しい星なのに・・・。
・・・それらを、束の間忘れさせてくれた。
ほんの束の間だけれど・・・。
月探査衛星「かぐや」(SELENE・月の女神)よ、感動を有難う!



「情けは人の為ならず」ー供与されるものー

2007-11-13 07:42:03 | 寸評

軍需専門商社「山田洋行」元専務の逮捕で、防衛省の利権に検察のメスが入った。捜査の成り行きが注目される。
いまのところ、元専務の容疑は、業務上横領ということになっているが、裏金の一部が、前防衛事務次官に流れた事実がなかったかなどを含めて、全容の解明が急がれている。

最近になって、前次官が、10年ほど前にかつての直属の部下だった防衛省の現職課長に、投資目的で2千数百万円を預けたことが分かった。
投資は失敗したらしいが、上司、部下の関係でこれだけの金額のやりとりはいかにも不自然で、違和感を覚える。
事態は、防衛省の課長クラスを巻き込んだ、底なしの構造汚職の様相だ。
テロ特措法どころの話ではなくなってきた。

「山田洋行」元専務から幾度となく繰り返された、前次官や、その妻への接待、饗応、物品買い与えなどが、次官への利益供与には当たらないのだろうか。
元専務は、前次官の忙しいときには、その妻だけでも週に2,3回、東京・赤坂の高級クラブなどに接待していたと言われる。
頻繁に行われた、こうした接待料金は、全部「山田洋行」側に負担させ、前次官不在のときでも、次官本人と同等の扱いでなされたという。
家族をも取り込んだ、ズブズブの接待攻勢の実態が明らかになった。

そこまでして、元専務の受けた見返りは何だったのだろうか。
ゴルフや、飲食接待が賄賂に当たるのかどうか。
特捜部は、慎重に検討している。
接待汚職事件については、過去にも摘発例はある。
しかし、これとて、いろいろと立件も難しい面があるようだ。

元専務と前次官の会談の席には、防衛省の役職関係者は勿論、与野党の大物政治家も同席していたとされる。
捜査が、政界に及ぶのも時間の問題かもしれない。

90年代の半ばに、大商社三井物産が、約40年に渡って保持し続けてきたと言われる、アメリカのゼネラル・エレクトリック社(GE)の販売代理権が、規模も売り上げも、けた違いに小さい「山田洋行」に移った。
その時の奪取劇は、今でも、防衛省内の語り草になっているそうだ。
勿論、「山田洋行」の責任者は宮崎元専務だった。
当時、「手だれの宮崎には気をつけろよ」と、注意する声も上がっていたと言う。
元専務の、「相手を接待漬けにして、『落ちる』のを待つ」独特のやり方については、アメリカでも、彼が奪い取った、次期輸送機(CX)用のエンジンの代理店契約にからんで、まことしやかにささやかれた噂である。
まさに、それは“アリ地獄”そのものだったようだ。

酒席や女性を使って、相手を篭絡させる・・・。
こうした手法で、元専務は防衛省内部に深く入っていったようだ。
元専務の見返りが、防衛省の装備品調達の便宜の供与だったであろうことは、誰の目にも明らかだ。
それでなかったら、一体何のために、守屋前事務次官は、異様に過剰なまでの接待を受ける必要があっただろうか。

・・・世の中、ギブ・アンド・テイク(与えて、取る)である。
こうした商取引に、慈善事業などありえない。
何かを求め、期待するからこそ供与するものがあるのだ。
そんなことは、疑いのない話だ。

「山田洋行」元専務は、前事務次官を接待漬けにして、何を求めたのか。
前事務次官は、それに対して、何を供与し、どう答えたのか。
国会の証人喚問で、前次官は、肝心のこととなると、「記憶がありません」「わかりません」「そういう事実は全くありません」としらを切った。
それでは、例えば、夫人同行のゴルフなどで、何故偽名を使ったのか。
また、何故偽名を書くように、元専務は指示したのか。

その後の取調べでも、前次官の発言といくつかの矛盾する点が出てきたと言われ、新たに偽証罪の疑いも出ている。
近く参議院でも承認喚問が行われるが、そこで、改めていろいろと追求されることになるだろう。
前次官は、今度は何を語るのだろうか。

元専務の前次官に対する利益の供与と、それがあるからこその、前次官の元専務に対する便宜の供与・・・。
これらが、全く何も無かったなどと、誰も信じる者はいない。
与えるから求める。求められるから与えるのだ・・・。
おのずから、そこには、「利益の供与」と「便宜の供与」が成り立つ構図である。

・・・「情けは人の為ならず」と言うではないか。
人に同情する、情けをかけるということ、それは、決して他人だけを益することではない。人に情けをかけておけば、その善い報い(?)は、必ず巡り巡って、自分に返ってくるということだ。
人に親切にしておけば、あとできっといつか善い報いがある。
分かりきったことである。
だから・・・、ネッ~!







日中合作映画ー「鳳凰 わが愛」鑑賞ー 

2007-11-10 09:00:00 | 映画

日中合作映画「鳳凰 我が愛」を観た。
この映画の「鳳凰」と言うのは、中国の言い伝えでは「鳳(雌)は凰(雄)を求める」の通り、お互いを唯一無二の相手として求め合った、鳳凰(不死鳥)の愛にたとえた物語だ。

中国の実話を元に、激動の時代に翻弄されながらも、刑務所で出逢った男女の数奇な運命を辿った、三十年に渡る壮絶な愛の叙事詩と言ったらいい。

日中国交正常化から35年・・・、日中戦争が始まってから70年という、負の歴史の節目となる今年、俳優中井貴一が、日本と中国の架け橋となるべく、初プロデュースした作品として注目を集めている。

この映画のジヌ・チェヌ監督は、「愛」こそが、自分の一生のテーマだと言う。
彼の手がける作品は、確かにラブストーリーが中心だが、今の中国の若者たちには、政治の動乱も戦争も、宗教心もイデオロギーもほとんどないと言い、あるのは平和と消費だけという状況の中で、彼らに一番必要なのは情感、愛だということを訴え続けてている。
 「人が人を愛することは普遍であり、それは社会の中で何か引き受けることで
 あり、ラブストーリーを作ることは、歴史も人間性も描くことになるのです」

結ばれる愛よりも、求め続ける心・・・。
二人は、生きた。生き続けた。そして・・・。
・・・この物語は、1920年代の中国で始まる・・・。


恋人を助けるために、些細な諍いから誤って相手に怪我を負わせ、投獄されてしまったリュウ・ラン(中井貴一)・・・。
自分を待ってくれている恋人を想いながら、辛い刑務所生活を乗り越える筈だったが、彼を待っていたのは、辱められた恋人の突然の死の知らせであった。
愛する人と生きる希望を失った男リュウ・ランは、恋人を死へと向かわせ、自分を刑務所へ追いやった男への復讐を誓った。
すべてに反抗的となった態度の彼は、刑務所の中の、男女混合の懲罰の場で、暴力に耐えられずに夫を殺してしまった女囚ホン(ミャオ・プゥ)と出遭う。
夫の子供を身ごもっていたことで、死刑を免れた彼女も、飛び降り自殺を起こすほど絶望の渕にいた。
境遇の似ていた二人は、懲罰の作業を共に行う日々の中で、心と心を近づけていく・・・。

リュウ・ランは一人で脱獄を図るが、刑務所の警戒線を越えようとしたとき、遠くにホンの姿を見つける。
目に涙を浮かべて、必死に訴えるように首を振るホンを見て、彼の心は大きく揺れ、脱獄をあきらめる。

1931年、満州事変が起こる。
リュウ・ランたちの刑務所も日本人の配下となった。
この、日中戦争へとつながる激動の時代に、愛を深めつつあった二人をお互いに確認できた矢先、女囚たちは別の刑務所に搬送されることになる。
突然の非情な別れに、驚きと悲しみを抑えきれない二人・・・。
ホンは、泣き叫びながらリュウ・ランのもとを去っていく・・・。
 「わたし、待ってるから!あなたの出てくる日を!」

1945年、戦争が終わった。
月日は過ぎ、リュウ・ランは恩赦となり、ホンは地震で崩壊した刑務所の唯一の生存者として、別々に出所していた。
ひと時も忘れたことのない二人だったが、互いに相手を探し出す手がかりは乏しかった。
ホンは、かってリュウ・ランのいた刑務所をたずねた。
彼女は、そこに鳳凰のしるしを見つける。
それは、かって刑務所の中で行われた氷の彫刻大会で、リュウ・ランがホンのために自分で作った、鳥と蛇とがひとつになった小さな彫刻で、酉年のホンと巳年のリュウとの愛の象徴なのであった・・・。
彼女は、それを見てリュウ・ランを想い、涙を流した・・・。

一方、リュウ・ランは、果てなき人の波の中を、ホンの足取りを追って旅に出た。
かっての盟友リアンに言われた、「リュウ・ラン、お前がホンを探し出したとき、二つの魂は、何者にも邪魔されることなく、永遠に一つになれるのだ」という予言を胸に・・・。

・・・鳳は凰を求める。
終わることのない、わが愛こそが、ホンだと信じてきたリュウ・ラン・・・。
そして、三十年もの歳月を経ても、なお変ることのなかった愛の果てに、待ち受けていたものは・・・。

主演の中井貴一は、全編で中国人顔負けの中国語を違和感なく駆使して、役柄を巧みに演じきっており、大変好感が持てた。
彼も、この作品でまたひとまわり大人になった感じがする。
撮影は、中国でも極寒の辺境の地で行われ、想像を超えた大変な苦労があったと言われる。
監督ジヌ・チェヌは、テレビドラマの演出も多数手がけ、中国第六世代の監督として、現在最も期待されている気鋭の一人だそうである。
大陸的な、素朴で温かい原点に立ち返った、中国映画の姿を日本人俳優が示すことで、アジア映画の新しい時代の幕が開かれる。
日本と中国の架け橋ということか。
・・・そんな想いが伝わってくる。

時代の描き方、政権の移り変わりが分かりやすい仕掛けになっていて、よく工夫された演出が随所に目につく作品である。
中国と日本について、周恩来はこんなことを言っている。
 「憎しみの歴史は百年、そのほかの二千年はいい関係を築いてきた」
文字通り、中国と日本の、多彩な才能が融合した、東京国際映画祭コンペテイション公式出品作品、日中友好35周年記念作品というわけである。








禍福は糾える縄の如しー「辞めるの、やめた!」ー

2007-11-08 07:00:00 | 寸評

民主党小沢代表が辞意を撤回し、続投を正式に表明した。
 「俺、辞めるの、やめたよ」
予想していた通りだった。
今回の、お家騒動の渦中の人の謝罪会見は神妙で、心情を真摯に吐露しているように見受けられた。
代表は、「自分はいかにも不器用だった」と涙ぐみながら頭をさげ、「政治生命を総選挙にかけ、最後の決戦にあたりたい」と語った。
・・・さて、これで一連の経緯を踏まえて、雨降って地固まるとなるのだろうか。

大連立構想が話し合われた、二人きりの党首会談に端を発した迷走劇は、異例の展開をたどった。
民主党の「結束」に逆流するかのような形となり、予期せぬその流れに驚く自民党は、突然党首会談の「真相究明」に乗り出した。逆転国会の魔力と言うか、党首を主役とした神経戦のような・・・。
政府、自民党も、「連立」という最後の(?)カードを切ってしまったが・・・。

「民主党は、政権能力がない」との代表の発言も、「参院選を圧勝したからと言って、命がけでやらないと、今度の選挙は勝てないと言う意味で言った」のが、誤解されたと言う。
やはり、あれは「檄」だったのだ。

代表の辞意撤回で、民主党は、屋台骨が揺らぎかねない局面から、これで何とか危機を脱出できたということだろう。
確かに、今の国会情勢、政治状況を打開しなければならない。
国の政治が、止まっていていい筈がない。
今度の一件は、本来別の問題である筈の、「大連立」と「政策協議」とが、一緒になってしまい、ごたついた形になってしまった。

「大連立」については、8月16日の読売新聞の社説で提唱されてjから、秘かに水面下で、構想実現に向けて交渉が行われていたようだ。
その立役者は、中曽根康弘、渡辺恒雄らと、読売新聞、自民党だと言われる。
その後、特に読売新聞には、民主党を攻撃する記事が目立ち、自民党情報のタレ流しが溢れていた。
世に言われる、「世論操作」「情報操作」である。
これを民主党側から見ると、「民主代表を政治的に抹殺することを意図した、誹謗、中傷」と言うことになる。
党首会談を密室で行ったことが、読売新聞(?)の情報操作に利用される余地を与えてしまった。
今回の件で、マスコミと政府の癒着の実態がますます明らかになった。
もっとも、マスコミと政府の癒着は、今に始まったことではないけれど・・・。
政権必死の生き残りをかけた、いよいよ切羽詰った自民党の、なりふりかまわぬ“謀略”説まで飛び出した。
予断は出来ないが、福田政権が、最後の自民党政権になるかも知れない。

政治家であれば、「大連立」を模索するのは、当たり前だと言われる。
「大連立」と言えばドイツだが、福田総理も、おそらくドイツのメルケル政権を思い描いたのだろうか。

共同通信の緊急世論調査では、連立政権構想について、「望ましくない」が56.4%で、「望ましい」の25.8%を大きく上回った。
民主党が連立政権を拒否したことに関して、「よかった」とする答えが56%と半数を超え、世論は連立構想に否定的なことが明らかになった。
二大政党が、国政の基本的な課題で衝突し、にっちもさっちもいかなくなった時に、打開策としてあるかもしれない。
しかし、今の時期、「大連立」は、いかにも唐突ではなかったのか。
その機は、熟したとはとても言えない。

政権交代は難しいが、選挙に勝てるだけの体制を作る意思統一をはかりたという思いが、民主党首脳陣にはあった。
民主党の混迷を機に、福田総理も足固めに動き、国会の「ねじれ」を解きほぐすには、二大政党による「大連立」しかないと早くから温めていたことを明かし、今後もなお模索を続ける方針が了承された。
小沢氏の民主党残留が決まっても、自民党には、「大連立」の幕引きと受け止める動きはほとんどなさそうだ。

ともあれ、逆転国会は、与党も野党もともに苦境に立っている。
民主党には、いろいろな不平不満は封印し、今は党の分裂を回避し、一丸となってしっかり出直してもらいたい。
参院選での民意に答えられるよう努力すべきなのだ。
日本の政治には、政権交代が必要だとの思いから、国民にもうひとつの選択肢を示して、総選挙で政権を実現する。これが、民主党の訴えであった筈だ。
そうでないのに、参院選で大勝して後、一度も勝負をしないうちに、大連立の誘いに乗って、もし与党に加わったとなれば、それは国民への背信以外の何物でもない。
民主党が、この呼びかけを直ちに拒否したのは、当然過ぎることであった。

民主党のお家騒動は、一見落着した。
新たに代表を選び直すことはせず、自ら辞めると一旦は宣言した党首の続投となった。
この党を支持してきた、有権者の思いは複雑だろう。
いろいろな課題を抱えて、これから、民主党はどう動くのか。
「大連立」という最大(?)のカードが不発に終わって、自民党はどう動くのか。
衆議院の解散、総選挙は・・・?
逆転「ねじれ国会」の第二幕が上がり、政局は再び迷走し始めた・・・。

ふと暦をみれば、早いもので、もう立冬である・・・。
枯葉がはらはらと舞い落ちて、風が冷たい。






「俺、辞める!」ー民主党小沢代表の怪ー

2007-11-06 08:01:13 | 寸評

政界に激震が走った。
どちらが持ちかけたのか、さだかではない。
民主党の小沢代表が、福田総理との密談後、自民党との「大連立」に傾いたと思いきや、党の猛反対を受けると、今度は突然の辞意表明をした。
代表は、「けじめをつける」と言いながら、「次の総選挙での勝利は厳しい」などと、自分の身内に対して、辛らつな評価も口にした。
一体、何があったのだろう。
民主党幹部は、辞意を撤回するよう代表に求めているが、どうなることか。

国会は、今週末までねじれ国会の開会中である。
安倍総理のあとは、小沢代表の政党丸投げか・・・?
総選挙のちらつく情勢の中で、野党第一党の党首が、ポストの座を投げ出したのである。
「大連立」については、小沢代表が、秘かに選択枝のひとつに考えていたことを十分に伺わせる話も報道されている。
それによると、「大連立」に向けて、民主党内をまとめる自信があると伝えている。それが、猛反対を受けたということは、代表にとって意外なことだったともとれる。
本当だろうか。
驚いたのは、ある大新聞が、連立になったときの閣僚の配分まで具体的に決めていて、小沢氏は、「副総理」とまで決まっていたと言うのだ。
これら一連の報道について、代表は、「でたらめなマスコミ報道もいい加減にしろ」と激怒した。
真相は、はたしてどうなのか。

リーダーシップも実績もある小沢氏は、これまで幾度も「創造」と「破壊」を繰り返してきた、「壊し屋」とまで言われる剛腕政治家だ。
あの細川内閣のときも、自分は自民党を離れ、非自民8党派で連立内閣をつくり上げたが、数ヶ月でこの政権を失速させた。
「権勢の政治」というのだろうか・・・。

いずれ訪れる「総選挙」の「勝利」が「厳しい」との結論に達したから、自民党との連立に走ろうとしたのか。
これでは、これから選挙戦に向けて、挙党一致で自民党と闘おうとする民主党議員たちに、水をさすことになる。
ただ、一歩下がって考えると、党員への「檄」と読めないこともないが・・・。
でもねえ、一郎様、貴方の持病の「壊し屋」は、一生治らないのでしょうね。

小沢代表は、自民党では政治は変らない、民主党が政権を奪取しなければ何も変らないと語っていた。
その彼が、代表職を辞めると言う。
慰留工作でどうなるか、いまのところ不透明である。
参院選で大勝し、次の総選挙でいよいよ政権交代と意気込んでいたのは、何だったのか。
「政権交代」は、単なる見せ掛けの、偽りだったのだろうか。

代表はこうも言ったといわれる。
 「民主党は力量不足で、政権担当能力に疑問符がつく」とも・・・。
最大野党の党首ともあろうお方の、この言葉を党員たちはどう聞くだろうか。
それに、このように公言されてまで、なお懸命に党首を慰留する幹部も大変だ。
日本の政治の指導者は、安倍前総理といい、小沢代表といい、この程度だということなのだろうか。

・・・今の国会は、民意不在である。
いっそ早く国会を解散して、本当の民意を問うたらどうなのだろうか。
だらだら国会から、一日も早く出直して、すっきりした論戦に入ってもらいたいものだ。

それにしても、「両巨頭」の密室での「談合?」など、あれこれといらぬ憶測まで、まるでマスコミ合戦の様相を呈していて、何が本物なのか、国民にはよく理解出来ない。
どだい、大将が敵将と呉越同舟で、意気投合するなんてありえないことだ。
どう見ても、この国民不在の「連立方程式」など解けるわけもない。
「密室政治」「独断先行」・・・、危うい日本の政治の姿だ。

このいまのねじれ国会で、重要法案の審議もなされないままである。
国会の空転が続いている。
秋が一段と深まる中、永田町は風雲急を告げている。

 


中国映画「幸せの絆」ー涙の感動作ー

2007-11-04 12:00:00 | 映画

また、中国の映画を観てしまった。
心の底まで濡れるような、そんな中国の映画だ。
人の心の温かさが、しみじみと嬉しい、感動作であった。
これは、いたいけな少女と老人の“絆(きずな)”が、周りの心を動かしてゆく、切なくも温かい<いのち>の物語である。

子供に対しての、愛情やつながりが薄くなっている現代の社会・・・。
中国映画「幸せの絆」は、様々な事件や問題が報じられ、殺伐としつつある今、血のつながりさえない一人の老人と少女を取り巻く世界を通して、血よりも濃い“絆(きずな)”が存在することを描いた作品である。

1980年代の末、中国のある山間にある芍薬村(シャオヤオ)に、孤児で、里親の虐待に耐えられず逃げてきた7歳の少女小花(チャン・イェン)が、行き倒れていた。
貧しい農村で、自分たちが生きるのに精一杯な村人たちは、誰も少女を引き取ろうとはしなかったが、通りがかりの一人のおじいさん(ティエン・チェンレン)が、彼女を引き取る。
おじいさんの優しさに、小花は一生懸命に答えるべく、掃除や農作業を手伝うのだったが、おじいさんが一緒に暮らす一人息子の宝柱(ユー・ウェイジェ)とその妻香草(ハオ・ヤン)は、自分たちに子供がなかなかできないことから、二人に冷たく当たり、香草は、小花を追い出そうとする。
何度も繰り返される、香草の仕打ちにもめげず、怯えながらも、小花は、息子夫婦と仲良くなろうと努力するのだった・・・。

辛い仕打ちを受けながらも、感謝の気持ちを絶やさずにいる小花と、彼女をまるで我が子のように大切に育てる老人の絆が、やがて人々の冷たい心を温め、良心を呼び覚ましてゆく、感動のドラマが展開するのだ。

中国全土を、感動の渦に巻き込んだと言われる、人間愛にあふれたこの作品を手掛けたのは、この映画が初監督という内モンゴル出身の女性ウーラン・ターナで、彼女自ら脚本を書いたが、無名のため出資者もなく、なかなか映画化出来なかった。
その時、偶然にも、山西映画製作所の所長が脚本を見て感動し、撮影を承諾してくれたのだという。

製作費は約2500万円と言うが、この作品は山西省で大ヒット、瞬く間に各地方大都市の上映が決まり、当時の興行収入は2億5000万円を突破、まさに奇跡の口コミヒットとなった。
中国国内では、多数の映画館が、「感動しなかった観客、泣けなかった観客には、入場券を払い戻します」をキャッチフレーズに上映したが、払い戻しを請求した観客は一人もいなかった、というエピソードも残している。
出演者たちも、ほとんど無名のこの作品は、「一級市場」日本で言うメジャーなロードショウ館の公開ではなく、「二級市場」つまり中小都市の映画館やホール上映といった、小さな公開から始まったそうだ。
だから、たった一枚のポスターとこの作品を観たお客の口コミだけが、人々に伝える手段であった。

映画の時代背景は、農民の暮らしが非常に貧しい、中国の1980年代の山村である。
現在も、中国は、都市部と農村部の間で、経済的な格差社会を生み、中国国内でも大きな問題の一つになっている。

映画「幸せの絆」の、最も重要な少女役を演じたチャン・イェンは、2000人の中からオーディションで選ばれ、撮影時は僅か8歳という年齢でありながら、堂々たる演技を見せ、観衆の涙を誘って止まない。

「おしん」で有名になった女優小林綾子は、この作品について、こんな風に言っている。
 「常に、感謝の気持ちを忘れない健気な少女と、貧しくとも、心を満たす術を知っているおじいさんに心を打たれ、涙が止まりませんでした。心の洗濯ができる超感動作です」

・・・一人のおじいさんの優しさが、少女の涙を笑顔に変えた。
確かに、観ていて、いかに無粋な男でも、目頭が熱くなってくるのをどうすることも出来なかった。
そんな、映画だった。


ーフランス映画「愛されるために、ここにいる」ー

2007-11-02 14:00:00 | 映画

紅葉が、季節の暦を染めて、日に日に秋が深まってゆく。
こんな映画は、なみなみと注がれた極上の赤ワインでも手にしながら、じっくりと見たい作品である。
フランス映画の妙味たっぷりの、「愛されるために、ここにいる」を見る。

そこはかとない感動、そして、しみじみとした哀愁・・・。
フランスの新鋭ステファヌ・プリゼ監督のこの一作、文句なしに、極上の作品に仕上がっている。
映画の全編を、心を揺さぶるアルゼンチン・タンゴの名曲の数々が流れる。
カルロス・ディ・サルリのオルケスタの演奏、これが、またすばらしい。

古典と現代の融合を見るようだ。
洒落ていて、しかも洗練された、何と言う小気味のよさか。
映画というのは、こうあって欲しいなと思わせるような・・・。
まず、日本では、残念ながら、この手の大人のドラマにはお目にかかれない。

父から引きついだ、司法執行官の職務を好きになれないまま、それを長年続けてきたジャン・クロード(パトリック・シェネ)・・・。
50歳を過ぎた今、妻はなく、仕事をつがせるつもりの息子ともぎくしゃくとして、うまく接することも出来ない。
彼は、週末ごとに老人ホームに父を訪ねるが、最近ますます気難しく手に負えないでいる。
孤独が骨身にしみる毎日だが、職場の窓越しにいつも眺めるだけだったタンゴ教室に、意を決して入門する。
そこで、クロードは、魅力的なフランソワーズ(アンヌ・コンシニ)という女性と出逢うのである・・・。
しかし・・・、彼女には、結婚を間近に控えた婚約者がいたのだった・・・。

年季の入った刑事のように、疲れ気味にスーツとコートを着こなす、パトリック・シェネが演じるこの作品は、どこまでもフランス的だ。
けれども、クロードやフランソワーズは、決して遠い存在ではない。
彼らが抱えるのは、それなりに、真っ当に生きてきた筈なのに、この侘びしさは何だろうと、我に返ってしまう、中年期の普遍的な悩みなのだ。

ステファヌ・プリゼ監督の切り取る映像は、独自の新鮮さがあり、クロードとフランソワーズの恋の描き方にも、ありきたりのものとは一線を画した、ハイレベルの瑞々しさが感じられる。
そこには、高い芸術性が水晶のように光っている。

親心も子の心も、てんで理解できない中年男に、揺れる女心を思いやるゆとりなどなく、二人の恋の行方にやきもきさせられる。
この辺の演出は、心憎いほどうまい。
可笑しく、悲しいリアリティを描いて見事である。
勇気を出して、もう一歩踏み出せば、また違った人生を送れるのに、その一歩を踏み出すことのできないのが人間であることを、教えてくれている。
見ていて、主人公の行動のもどかしいところなのだ。

映像は、すこぶる簡素なタッチで、男と女の機微をじっくりと見せてくれる。
そこは、あくまでもフランス映画らしく、非常に微妙な男女や家族関係を、繊細な仕草のつみかさねで、実に巧みに表現してゆく。
シンプルまでの台詞と、独特の間(ま)から生まれる余韻は、エモーショナルなタンゴの調べとともに、見る者を、より深く作品の世界へと導いてゆく。
二人の、さりげない表情にみる心理描写もさすがと言うほかない。

「タンゴの紳士」と称せられる、カルロス・ディ・サルリによる、クラシカルなアルゼンチン・タンゴの奏でる、濃密な雰囲気・・・。
フランス映画とアルゼンチン・タンゴが、これほど見事な調和を見せるとは思っても見なかった。
それほど、この映画では音楽が重要な位置を占めている。
上映時間93分という短い時間に、物語全編を通して、十数曲のタンゴが流れているのだ。タンゴが、本当によく似合っている。
それも、「エルオンセ」「ドンファン」「バイア・ブランカ」「エルチョクロ」「緑のインク」など馴染みの名曲揃いで、十分楽しませてくれ、とくに「黄昏のオルガニート」は、ほとんど全曲近くまで聴かせてくれたのは、うれしい限りだった。

日本の映画の、「シャルウイダンス」を思い出させる部分もある。
・・・ダンスといえば、どうしてもタンゴなのだ。
タンゴのうちに流れているメランコリー、そこに秘められた情熱や官能のため息が感じられる・・・。
クロードとフランソワーズの、二人のぎごちないステップに刻まれてゆく感情の変化を、こんなにも官能的に感じさせてくれるシーンは、完璧に近い。

フランス映画は、昔から傷ついた男に寛容であったし、女は気丈に男を介抱してきた。(少なくとも、そのように見られてきた。)
そういう男と女の伝統の関係に対して、近年のフランス映画は、ここしばらく理解しがたい面があったが、この作品では、久々にフランス映画の王道(?)を堪能させてくれた気がする。

・・・時を経て、クロードとフランソワーズがタンゴ教室で再会し、言葉も交わさず、無言で、どうとらえたらよいのか分からないような、しかし確かに、互いに熱い視線を感じながら、タンゴを踊るラソトシーンはとくに印象的であった。
・・・哀愁に満ちたバンドネオンのスタッカートの中、スクリーンは暗転し、タイトルロールが消えるまで、タンゴの曲だけが流れる。
主人公の心の奥底には、まだ燃えるのを待つ、小さな火があることを伝えるかのように・・・。
実に、余韻の残るラスト・シーンではないか。