徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

「白船来航」ー歓迎にわく100年前の横浜ー

2008-07-31 22:00:00 | 日々彷徨

黒船から半世紀、1908年(明治41年)10月、米国大西洋艦隊の白船が、世界一周の途中で、横浜に来航した。
十六隻の軍艦は白く塗られていたことから、「白船」 (Great White Fleet)と呼ばれた。
当時のルーズヴェルト大統領が、派遣した艦隊であった。

横浜開港150周年を記念する企画展が、横浜市中区の横浜開港資料館で、10月26日(日)まで開かれている。
これ、なかなか面白い企画展だ。
題して、 「白船来航」ー米国大西洋艦隊にわく100年前の横浜・東京ー
当時の横浜市民の歓迎振りや、来航の目的などについて、写真や資料で迫っていくというものだ。
初日(7月31日)から、早くも賑わいをみせている。

日米関係の歴史の中で、横浜が舞台となった出来事に、幕末のペリー来航、第二次世界大戦後のマッカーサーの進駐があったが、この二つの出来事の間に起きたのが、スペリー監督の率いる白船来航だった。

幕末の黒船出現に、「太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船) たった四はいで夜もねられず」と、狂歌によんだほど驚愕した日本は、白船がやって来たこの年には、世界第五位の海軍力、黒船を有するまでに変貌をとげていた・・・。

当時、日露戦争に勝利した日本は、満州での利権や、太平洋での影響力などをめぐって、アメリカとの対立を深めていた。
白船の来航は、アメリカが、世界、特に日本に、海軍力を誇示することがひとつの目的であった。
しかし、白船を待ち受けていたのは、政府や横浜・東京の人たちの熱狂的な歓迎だったのだ。

この劇的な出来事から、ちょうど百年、今回の展示では、白船来航にわいた横浜・東京の様子や、メディアの反応などについて、白船来航関係の資料を収集した、スティーヴン・レヴィーン氏のコレクションを中心に紹介されている。

来航時の記念品や歓迎式典プログラムなど、約170点の資料も展示されている。
来日前には、あわや日米開戦を心配する海外の新聞もあったそうだが、このときの日本の歓迎振りは、アメリカ側も驚くほどであったそうだ。

横浜港内には、白船のほかに、日本や外国の軍艦も加わって、40隻以上となり、さぞかし壮観だったと思われる。
港周辺は市民で大混雑し、艦隊を一目見ようと、海岸通りは黒山の人で、通りの両側に並べない人々は、街路樹によじ登り、「樹木は人間の数珠なり」(東京朝日新聞)という有様だったと紹介されている。
このことがあって、一時的にせよ、日米両国の緊張が解かれたことは事実であった。
(記事一部横浜開港資料館資料による)

いま、それから100年を期に、歴史の片隅に埋もれていた白船に目を向けて見るのも、夏の日の一興かも知れない。


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映画「ぐるりのこと」ー夫婦の再生のドラマだがー

2008-07-29 18:00:00 | 映画

橋口亮輔監督の、6年ぶりの復活作だそうだ。
世の中の美しいことや醜いこと、それらをぐるっと描けたらと言うことから、この一風変ったタイトルがついたようだ。
時代を、1993年から2001年の間に設定した。
過去の出来事を追いながら、現代的な作品として、夫婦の愛を描こうと試みた作品だ。
ただ、初めに言ってしまうと、作品全体の作りは少々雑駁だ。
ただし、これはあくまで‘私見’として・・・。

翔子(木村多江)は、夫のカナオ(リリー・フランキー)とともに、子を身ごもった幸せを噛みしめていた。
しかし、そんなどこにでもいるような二人を、突然として襲う悲劇・・・。
初めての子供の死をきっかけに、翔子は精神の均衡を少しずつ崩していく。
鬱になっていく翔子と、彼女を全身で受け止めようとするカナオ・・・。
困難に直面しながら、ひとつずつ一緒に乗り越えていく、二人の十年にわたる軌跡を、やさしさと笑いを交えながら描いた。

人は、一人では無力で何も出来ない。
しかし、誰かとつながることで希望が持てる。
決して離れることのない、二人の絆を通じて、そんな希望のありかを浮き彫りにする。
そこには、ささやかだけれど、豊かな幸福感もある。
法廷画家のカナオが目にする、90年代の様々な犯罪、事件を織り込みながら、苦しみを超えて生きる人たちの姿を、橋口監督はあたたかく照らし出していく。

法廷画家と言っても、テレビ局の委託を受けて、いろいろ指示通りに絵を描き、かつ、ときには手直しして嘘も描き、演出効果をねらったりする画家のことである。
夫のカナオは、そんな仕事に戸惑いつつも、真面目に打ち込んでいく。

映画は、当時の社会背景にも静かに迫っていく。
カナオが法廷で目撃するのは、90年代から今世紀初頭にかけて起きた、実際の事件とその犯罪者たちだ。
これらの法廷シーンも、見所のひとつなのだが、どうも迫力はいまひとつといったところだ。
‘重苦しい’時代の空気を受け止めながら、“二人でいることの幸せ”を見つけ出そうとする翔子カナオであった。

他に、倍賞美津子柄本明寺田農といったベテランが、脇をしっかりと固めている。
そのわりには、作品に不要な(?)会話、不要な(?)シーンが多すぎる。
主役の翔子カナオの話す会話が、声が小さくてよく聴き取れない。
何を言っているのか分からないのだ。
この二人の俳優は、基本的に発声が良くないようだ。
そのあたり、勉強の必要があるのではないか。
演技以前の話だ。

人と人、それも夫と妻という、そばにいることが当たり前の二人を描くのに、夫婦の日常生活を、延々と2時間20分もかけて描くとは、いかにも長い。
いや、長すぎる。
だらだらと続く展開にさしたる波乱があるでなし、いい加減飽きてくる。
これといって、インパクトもない。
終映まで20分もあろうかというのに、客席をたった女性が二人いた。
話のくどいことも一因だ。
二人がふざけあうシーンまでも、コミック漫画みたいに薄っぺらで、安っぽい。
夫婦の入浴シーンとか、二人が見詰め合って涙を流すシーンもあるが、これまた一向に感動が伝わって来ないのだ。
何故だろう。
果たして、本当に必要なシーンだったのか。
本当に必要な台詞だったのか。
削ることの出来ない会話だったのか。
大いに疑問が残る。

どこにでもいそうな、何事もきちんとしなければ気のすまない性分の妻と、真面目一方の模範的な夫の取り合わせで、夫婦仲が悪いわけではない。
夫は、どちらかというと、いい加減に手前勝手に生きてきた男だ。
主役二人の演技は、可もなく不可もないが、映画として見ると面白味に欠ける。

橋口監督は、あれもこれもと伝えたいことが多かったのか、盛りだくさん過ぎて整理できていない。
二人の愛の絆という点に絞れば、1時間30分で足りることだ。
原作、脚本、編集ともに橋口監督だ。
希代の才能とも言われる彼が、6年もかけてたどり着いた新境地というには、やけに力みすぎばかりが目だって、苦心の末に完成した‘意外な’映画に驚きを隠せない。

夫が、妻の膨らみ始めたお腹に手をあてて、幸せそうに微笑んでいる。
そのすぐあとには、もう部屋に位牌が祀られているシーンだ。
これも、唐突と言えば唐突だ。

‘夫婦’を描いた作品と言えば、同じ夫婦の機微を描いた、成瀬巳喜男監督の名作「夫婦」(上原謙・杉葉子・三国連太郎)が想い出されるが、心の沁みる情感があふれていて、いつまでも心に残る傑作だった。

橋口監督は、映画ぐるりのことを、ややドキュメンタリー風なタッチで作品を描いたふしがある。
それはそれでいい。
登場人物たちが自然体だし、妙に構えたりはしていない。
台詞は、しばしばモノログのようで、それはもう呟きとなって聴き取れない。
でもこれには、困った。
彼は、自らの体験をもとにこの作品を作り上げたそうだが、期待していた作品からの“愛おしさ”のようなものは、残念ながらあまり伝わって来なかった。

人生とは、幸も不幸も表裏一体であることを鮮やかに(?)演出したのか。
人生の光と影、まさに、禍福は糾える縄の如しではあるけれど・・・。
人間の内奥に迫る、心の襞を描ききるのは、文学も映画も同じではないだろうか。
映画芸術の険しさを、再認識(?)させる一作だ。
見終わって、さて今日の心に強く残るものがない。
ならば、今日のことは忘れて、明日のことを考えよう。
どうせ短い人生だ。


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「防衛利権」を操っていた男ー黒い闇の世界でー

2008-07-27 21:00:00 | 寸評

防衛省の前事務次官の摘発から、早いもので8ヶ月が経っていた。
そして今度は、政界と日米の軍需産業を結ぶパイプ役が逮捕された。
人呼んで、“防衛フィクサー”またの名は“チンピラ・ブローカー”とか言うのだそうだ。
脱税容疑である。

防衛関連企業から集めたコンサルタント料のうち、2億3200万円を隠していて、所得税7400万円を脱税したと言うのだ。
日米のパイプ役が、聞いてあきれる話だ。

防衛省汚職の捜査では、前防衛次官と軍需商社山田洋行の癒着が明らかになっている。
今度は、政界との関わりを持つと言われる、キーマンの逮捕だ。
防衛利権の根は、どうもこの辺にあるように思えてならない。
その張本人は、「日米平和・文化交流協会」なるものの秋山専務理事だ。
この協会を活動拠点に、久間章生、額賀福志郎、石破茂、瓦力と言った大物国防族議員が理事としてずらりと名を並べ、族議員でない福田康夫総理の名前までも・・・。

久間元防衛相のことを、秋山理事はウチの「先生」と呼んでいたそうだ。
他の政治家のことは、皆呼び捨てにしていたと言うから、政治家をあごで使っていたのか。
この秋山なる男が専務理事を務める、「日米平和・文化交流協会」の会員には、日本を代表する重工メーカーや商社など20社が加盟していたそうだ。
年会費とか部会費とかと称して、秋山理事の懐には、毎年‘表’(おもて)だけで、1億数千万円の大金が入っていたというのは事実らしい。

政官界と軍需産業をつなぐ舞台で、何があったのだろうか。
大物政治家たちは、誰もが、自分たちに金が入るなんてあり得ないと、不正への関与を否定している。
しかし、それで何もなかったということになるのだろうか。
国会での疑惑の追及から半年余り、操作は難航したが、ようやくここまで来たという感じだ。
理事と政界との関わりは、どんなものだったのか。
防衛利権の構造は、どんなものだったのか。
それが知りたい。

防衛フィクサー、あるいはブローカーと呼ばれるようになった男の軌跡は、政治評論家戸川猪佐武氏の書生から始まって、金丸信・元自民党副総裁と親しい女性の運転手を務めたことから、当時の竹下派を中心に、人脈を広げていったと言われるのだが・・・。
何~だ。そうなのか。
もともと、防衛問題の専門家でも何でもなかったのか。
アメリカの要人をつないで、カネにするブローカーだったのか。
彼は、沢山の民事訴訟の被告人でもあるという。
自身、いろいろな事件にまみれているようだ。
普段は、サングラスと黒いシャツ、相手を威圧する姿で、アメリカからの兵器調達について実権を握っていたのだ。
勿論、これという専門知識も教養もない。(そういう風評だ)
そんな軍事のプロなんているのだろうか。
防衛省と外務省は、そんな男に、腫れ物にでも触れるような扱いだったそうだ。
もう、驚きである・・・。
それで、一部でチンピラ上がりとも言われている。
そんな男に、日本の防衛行政が舐められていたということか。

世の中には、何者とも、得体の知れない人間はいるものだ。
小説や映画の世界だけではなさそうだ。
そんな怪しげなブローカーが暗躍できるのは、日本に、確たる防衛政策がないからだろう。
本当の、軍事のプロはいないのか。
日本の軍事とか防衛政策は、大体アメリカの言いなりではないか。
何でもあちらの言いなりなら、その道のプロもいらないし、勉強する必要もない(?!)

日本の政治家の関心は、年間予算5兆円という防衛利権だけだ。
この利権にどう食い込むのか。
そういう族議員から見れば、たとえチンピラだろうが、何だろうが、こうした軍事ブローカーのような男の存在はなくてはならないわけだ。
防衛予算といったら、それこそ聖域扱いで、闇の世界だ。
兵器と言ったって、値段があってないようなものだ。
だから、日本の防衛行政は不透明なのだ。

戦争するわけでもない。
なのに、防衛省・自衛隊には、毎年、黙っていても5兆円の国防予算が転がり込むのである。
それも機密扱いだという。使い道も、ほとんどチェックされない。
族議員、防衛官僚、防衛産業の甘い甘い蜜だ。
彼らは、蟻のように集まってきて、それを食い物にする・・・。
・・・だから、ブローカーが暗躍する。

防衛省の改革はないのだろうか。
石破防衛相はやっているのか。
いやいや、防衛省、自衛隊の体質が簡単に直るとはとても思われない。
だから、装備品納入をめぐる汚職事件だって後を絶たない。

・・・自民党の国防族議員は、防衛利権を操る、チンピラ上がりのブローカーを排斥することも出来ず、ひたすらおこぼれにあずかろうという魂胆が透けて見えてくるではないか。
いずれにしても、日本の防衛行政があまりにも無能でお粗末ゆえに、防衛の知識も教養もない(?)一介の男に、浅はかにも操られていたという構図が浮かんでくる。
政治家も官僚も、恥ずかしくないのか。
あまりにも、情けない話である。
もう、防衛省自体、一度解体しては如何だろうか。

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「原油高倒産ラッシュ」ー真夏の残酷ー

2008-07-25 20:00:00 | 雑感

炎天下の街に、ウナギの蒲焼の煙が、匂いと一緒に美味しそうに漂っていた。
「三河一色産」と書いてある。
本当に、本当かな。
店頭に並んでいる人もいるが、横目でちらっと目をやるだけで、さっさと通り過ぎる人も多い。

このところ、燃料などの原料高に関連して、今年の上半期の企業倒産が235件にも達したそうだ。
前年同期比で150%を超え、07年の年間合計229件を突破し、今や空前の倒産ラッシュだと言われている。

トラックの燃料となる軽油価格も、半年で30円近く値上がりした。
1リットル当たり、140円前後を推移しているようだ。
こんな調子では、倒産件数が3倍から4倍に膨れ上がるかも知れない。

原油高は、ホテルや旅館にも襲いかかっていて、こちらも、大きな老舗旅館など62件もの倒産が相次ぎ、ホテル付きゴルフ場までが、ばたばた倒産に追い込まれている。

ガソリン高による車離れが、客離れを招いているのだ。
高速道路の通行台数も、ぐんと減っている。
地方のロードサイドの出店は、車が減って、軒並み客足が激減してしまった。
車が走らないのだから、郊外の外食チェーンも大変だ。
あのデニーズでさえも、14の店舗が閉鎖を決めたそうだ。
ファミレス全体の売り上げも、前年割れの90%台が続いているという。
とくに中小が良くないらしい。

さらに意外なところでは、郊外のスーパーに入居する、ゲームセンターや釣具メーカーも・・・。
燃料の高騰に、悲鳴を上げる漁業や農業は言わずともがな、ギリギリの状況だ。
今後も、原油高による倒産はますます増えるだろう。

一方で、自公政権の失政(?!)か、国民生活がズタズタになってしまっている。
国民は、医療費や年金保険料の負担増にも耐え、定率減税の廃止ものんで来た。
それでも、財政赤字は解消できない。
経済成長が止まっているからだろう。
だから、予算を削減すると言うのか。
その穴埋めに、まことしやかに増税論まで出てきている。

どんなに景気が悪くなっても、無為無策で通して来たのが、これまでの内閣だ。
小泉、安倍、福田政権は、国民のために一体何をしてくれただろうか。
失政で景気が冷えると、悪いのは、現金や預金でカネを寝かせている国民だなどと、妙なことを言う。

それも、政府与党は、性懲りもなく、財政の赤字は増税で賄おうなんて、暴論まで吐いている。
財政の赤字分を穴埋めしようとしたら、3%以上の税率引き上げだ。
いま、原油高、食料高で、庶民はフラフラになっている。
そんなときに、そんなとどめの一撃を考えていると言うのか。

世論などどこ吹く風の福田総理は、増税を見込んでいるふしがある。
自分でぶち上げていながら、道路特定財源の一般財源化についても、道路整備費を削るのか、予算の配分をどうするのかさえ決めていない。
福田総理は、困難と分かっていることには、最初から手をつけないで、消費税で安易に乗り切ろうとしている。
それなら、総選挙で、一日も早く是非を問うべきだ。

福田総理は、方針も目的もはっきりしない。
道路族など党内の勢力や官僚、国民の方を窺いながら、右往左往している。
経済政策の専門家は、こんなことを言っている。
 「日本は、恐慌に向かって突き進んでいる。本来なら、今すぐにも景気対策を打たなければならない、緊急事態です。アメ
 リカのブッシュでさえも、矢継ぎ早にやっているのに、一体福田政権は何を考えているのかね」
いっそ、今こそ、50兆円とも言われる<埋蔵金>を使うべき時ではないか。

不安だらけの老後をかかえて、国民はひたすら生活防衛に走るのみだ。
個人消費は、ますます冷え込み、景気はどん底まで落ちていく。
「内閣改造」などで、乗り切れることではない。
この夏は、凄まじい炎暑だ。
暑い、暑い。
もう、尻から火がついたようだ・・・。


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映画「百万円と苦虫女」ー不器用な女のいたいけさー

2008-07-23 22:00:00 | 映画

笑顔を見せながらも、悲しみが同居する・・・。
そんな、独特の表情が魅力的だ。
主演は蒼井優で、三年ぶりの主演作になるそうだ。
映画「フラガール」(06)は思い出すが、日本アカデミー賞助演女優賞やブルーリボン賞主演女優賞など、数多くの映画賞を受賞していて、この数年の間にさらに成長した感じだ。
彼女は、渡された脚本を読んで、人間の様々な行動が美化されないで、細かいデテールまで隠さずに描かれているので、大いに気に入って、役作りに関しては意外に悩まなかったそうだ。
性格の不細工な女の子を演じて、かえって面白いキャラクターが画面に生きている。

この作品、タナダユキ監督(脚本共)が、人と距離を置くことで、自分を守る傷つきやすい女性の姿を、覚めた目線でリアルに描いていて、どこかさわやかな人間像が観るものをひきつける。

短大を出て、就職浪人中の21歳の佐藤鈴子(蒼井優)は、ウェイトレスのアルバイトをしている。
或る日、バイト仲間からルームシェアの話をもちかけられ、実家を出ることにした。
それがもとで事件が起き、警察の厄介になるはめになった。
中学受験を控える弟の拓也(齋藤隆成)に、「受験に響く」と非難され、鈴子は、「百万円貯まったら出て行きます!」と家族に宣言、新聞配達にビル清掃など、何でもかけもちで懸命になって働いた。

鈴子は旅に出る。
海辺の町に辿りついて、海の家ではかき氷の腕をほめられ、サーファーの青年たちにも何かと声をかけられるが、貯金が百万円になると、鈴子はあっさりと次の土地を目指して、今度は山村へ行く。
そこで、桃畑農家の住み込みのバイトをしながら、老婆と息子の暮らす家で田舎暮らしをする。
しかし、村おこしのために、「桃娘」にならないかと言われ、気のすすまない鈴子は、それを断って村にいずらくなり、また別の地方都市へ向かった。

鈴子は、ホームセンターのガーデニングコーナーのアルバイトを見つける。
先輩店員の大学生中島亮平(森山未来)は園芸に詳しく、さりげなく鈴子をかばってくれる。
或る日、中島に誘われた喫茶店で、鈴子は、自分が刑事告訴されたこと、百万円貯めては転々としていること、さらには自分の心の内まで、初めての彼に吐露する・・・。
喋りすぎて、嫌われたかと思い込んだ鈴子が、逃げるように店を出ると、必死になって追いかけてきた中島に、いきなり「好きです」と告げられる。

二人の幸せな日々が始まるのだが、そのとき鈴子の貯金額は、既に96万円台になっていた。
やがて、中島は、幾度も幾度も鈴子に金を無心するようになる・・・。
それは、中島が、鈴子の貯金が百万円を超えないように願っていたからだったのだが・・・。

鈴子が、中島に問われる場面がある。
 「どうして、ひとり旅をしているの?自分探しの旅?」
それに対する鈴子の答えはこうだ。
 「自分探しの旅なんてしたくない」

旅する鈴子の持ち物は、自分で縫ったカーテンと僅かな衣服だけだ。
一日中黙々と働いて帰るのは、がらんどうのアパートの一室だ。
その何気ない空間が、今の鈴子には心地よい。
 「自分探しなんて、むしろしたくない」という鈴子は、自分を閉ざすことでリハビリをしているのだ。
でも、旅が進むにつれて、鈴子は人を信頼する方法を少しずつ学んでゆく。
あるがままの自分を受け入れてくれ、未知の世界へとまた踏み出す彼女が、ラストで見せる、凛として爽やかなあの表情が何にもましていい。

蒼井優は、その笑顔の輝きと、幅広い役を確実にものにする演技力のある女優だ。
こんなに存在感の薄い役柄を、ごく自然に独特の感性で演じている。
鈴子という女は、自分と向き合うほどの勇気もない。
どこにでもいそうな女性だ。
「桃娘」のシーンにしても、はからずも近隣農民の期待を背負いながら、所在なげに逃げ出したくなる気持ちがよく出ている。
恋人にお金を貸し続け、断ることも出来ない複雑な心境を、どこかはかなげでいたいけな仕草で演じている。
何となく、胸に迫るシーンだ。

鈴子(蒼井優)は、他人の視線が大の苦手の女性だ。
どこか弱く、ひたむきさはあるのだが、勇気がない。
心の孤独を抱えている。
必死で、自分を守り続けている。
そんな、閉ざされていた心が、次第に周囲の人たちによって解きほぐされていく。
鈴子中島のシーンにしても、思っていることを、うまく伝えられないもどかしさが伝わってくる。
くすくす笑ってしまいそうだ。
ここでは、男も女も二人とも、揃って不器用なのだ。
このあたりは、青春映画のひとこまを観ているようだ。

映画「百万円と苦虫女」は、ちょっとコメディみたいなタイトルに惑わされるが、小品ながら心癒される、どこかほんのりと切なさもにじませて、むしろある意味ではシリアスなドラマと言える
共演はほかに、竹財輝之助、ピエール瀧、笹野高史、佐々木すみ江らでタナダユキ監督の、極力無駄を省いた丁寧な演出は評価できる。
演技と言えば、‘笑顔’もいろいろあって、嬉しい笑顔、悲しい笑顔、困った笑顔、苦しい笑顔など、それこそ役者の力だ。
ヒロインの、‘悲しい笑顔’は秀逸だ。
人は、自分から逃れるなんて出来ない。
たとえどんなに逃れたと思っても、自分の影は自分を追ってくる。
所詮他人が何と言おうと、自分は自分だ。
不細工は不細工なりで、まあ、それはそれでいいではないか。

それにしても、不器用不細工な女の、あの余韻を残した、さらっとしたラストシーンの爽快な表情はどうだろうか。
とりわけ、蒼井優の好演が光った面白い作品である。


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「先生はどこへ行ったの?」ー疑心暗鬼ー

2008-07-21 07:00:00 | 寸評

梅雨が明けた。
小学校の一学期が終わった。
終業式から帰ってくるなり、少女は、いきなり泣きじゃくりはじめた。
明日から、楽しい夏休みのはずだった。

母親は、心配そうに子供に尋ねた。
 「まあ、いったいどうしたっていうの?」
少女は泣いてばかりで、物も言えない。
母親が、娘の顔をじっと見つめると、少女はやっと重い口を開いた。
 「先生が・・・、クラスの担任の先生が・・・」
 「先生がどうかしたの?」
 「ついこの間から、学校に来なくなって・・・」
 「あら」
 「終業式にも来なかった。それも、無断でよ。ねえ、変よねえ」
 「夏休みに入るというのに?」
 「そうなの」
 「他の先生は何て言ってるの?」
 「分からないって。絶対変だよ」と、少女はまだ泣きじゃくっている。
 「どうかしたのかしら?何かあったのね」

少女は涙をふきながら、苦しそうに言った。
 「何か、先生悪いことをしたみたい。みんなが噂しているもん」
 「噂って?」
 「知ってるでしょ、お母さん。ニュースでこれだけ騒がれているんだもの」
母親は、うすうす感じてはいたが、なるべくならその話には自分の方から触れたくなかった。
今の子供たちは、世の中の出来事に敏感だ。
知らないと思っても、子供は何でも知っている。
おそるおそる、彼女は娘の顔を覗いて、
 「あの、沢山お金を払って先生になった話ね?」
 「お母さん、あたしが知らないとでも思ってた?」
母親は、ちょっと戸惑いを見せた。
 「そんなことはないけれど・・・。それで、そのことに先生が関わっているらしいのね?」
 「だって、あれだけ学校で騒がれていて、何もないはずないでしょ?」
 「それは、そうでしょうけど」
 「それにね、この前辞めた校長先生の、替わりの先生が今日来て挨拶があったの」
校長が、今回の教員採用に絡む汚職で逮捕されたことは知っていた。

そして、今度は担任の教諭だ。
少女のクラスの担任は、とても人気のある、イケメンの若い男性教師だった。
母親は、授業参観や家庭訪問でも会った事があって、印象はよかった。
 「友達がね、他の先生にそのことについて聞くと、ひどく怒られたの」
 「だって、まだはっきりしたことじゃないでしょ?」
 「あたしだって、先生が、先生になる時400万円もかかったなんて、思いたくもない。それって採用試験に落ちそうな人
 のすることよね。・・・でも、きっと間違いないわ。そうなんだわ」
 「・・・」
 「学校に、県の偉い人や警察の人が来ていたし、とても変な感じだった」
 「そう?」
 「だって、何もなければ、警察の人なんか来ないでしょ」
母親は、娘の言うことに黙ってうなずくほかはなかった。
少女は、落ち着きを取り戻して言った。
 「急に辞めた校長先生は、警察に捕まったんでしょ。それで、あたしのクラスの担任の先生も・・・」
 「・・・」
 「夏休みのキャンプにも参加しないらしいし、もしかすると9月からの新学期には出て来ないかも・・・」
少女は、がっかりしたように肩を落とした。
そのとき、少女の目にはもう涙はなかった。

次の日、少女はクラスメートからのメールで、担任教師が9月以降の新学期からも、おそらく学校には出て来ないだろうと言うことを知らされた。
PTAの役員からの話だから、きっと間違いないということだった。
真相は、そのうち解るだろう。
先生が病気だとは聞いていないし、思いたくなかったが、やっぱりそうなのか、と少女は思った。
母親に、そのことを告げると、
 「生徒に顔向けできないわね。あんなにいい先生が・・・」
 「お母さん、先生って、みんながみんな悪いことしているの?」
 「そんなことありません、決して。一部の人だけですよ」
 「最近、職員室の中まで、何だか様子が変だったもの」
 「変?」
 「そうよ。何か、仲のいい先生同士までよそよそしかったり・・・」
 「・・・」
 「そういうことってさ、いま、みんな敏感なんだよ。神経質になってるっていうのかな・・・」
 「真面目な先生には迷惑なことね。もっとも、あなたたち生徒が一番の被害者だわね」
 「高いお金を払って、教育委員会や議員の先生と縁故がなければ、これからは先生になれないの?」
 「そんなこと、絶対ないわ。そういうことは、許されないことなんだから」
母親は、自分の娘に毅然として言った。

これまでの教員の不正採用について、取り消しを検討する方針を教育委員会は決めたらしいが、学校と言う教育現場の混乱は、当分避けられそうにない。
そして、こんなことで、最大の被害者が学校の生徒たちだとなれば、その悪の根は深い。
少女はぽつりと言った。
 「あんなに、いい先生だったのに・・・」
母子家庭に育った少女は、優しい男の先生のどこかに、自分の父親像を描いていたのかも知れなかった。
あの、いつも誰にでも親切だった担任の教師が、不正に採用された教師だったなどとは思いたくない。
思いたくはないのだ。

・・・しかし、少しずつではあるが、少女の胸のうちで、疑惑は黒々とした森のように、次第に大きく広がっていくのをどうすることもできなかった。
そのことが、彼女には、無性に悲しく腹立たしかった。
学校生活での、楽しい思い出もいっぱいあるのだろう、少女はまた涙ぐんでいた。
そんな娘の肩にそっと手をおいて、母親はさとすように言った。
 「でも、新学期には、きっと、ちゃんとした立派な先生がまた見えるわ」
  

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映画「あの日の指輪を待つきみへ」ー愛、喪失と復活ー

2008-07-19 21:00:00 | 映画
アイルランドで発見された、金の指輪が紡ぎだす、愛の物語だ。
眠り続けていた愛が目覚め、封印されていた秘密が明かされていく・・・。

この作品は、映画「ガンジー」アカデミー賞に輝いた、名匠リチャード・アッテンボロー監督の、イギリス・カナダ・アメリカ合作の一応ラブストーリーだ。
これも、小さな実話から発した物語だ。
人生が続く限り、愛は終わることはない。
一人の女を演じ分ける、ハリウッド大女優シャーリー・マクレーンが懐かしい。
でも、この女優さんも、さすがに御年を召したなあと、思わずにはいらない。

或る日、アメリカに暮らすエセル・アン(シャーリー・マクレーン)のもとに、アイルランドからの報せが届く。
エセルの名前が刻まれた金の指輪が、ベルファストの丘で発見されたと言うのだ。
彼女は、長年連れ添っていた、夫チャックを亡くしたばかりだった。
娘のマリー(ネーヴ・キャンベル)には、多くを語ろうとはしなかった。
 「私の人生は21歳で終わったのよ。今さら何を嘆くの?」
彼女は涙ひとつ見せなかった。

マリーは、両親と青春の日々を共にした、親友ジャック(クリストファー・プラマー)に真相を尋ねるが、彼は、瞳に悲しみを湛えているだけで、何も語ろうとはしない。

指輪が、何故アイルランドの地に埋もれていたのか。
指輪には、もうひとつの名前「テディ」が刻まれていた。
実は、50年前、若き日のエセル・アン(ミーシャ・バートン)が、愛を誓い合った青年兵士がテディ(スティーヴン・アメル)だったのである。
二人は、ひとつしかないその‘結婚指輪’に、記念に二人の名前を刻んでいたのだった。
そのただひとつしかない指輪を、エセルは戦場に行くテディに贈ったのであった。
彼が、恋人の証として、父親の残した土地に家を建設している最中に、戦争が勃発した。
出撃命令が下り、「もし僕が死んだら、頼みがあるんだ」と、二人の親友ジャックチャックに、自分の思いを託して爆撃機に乗り込み、戦地に旅立ったのだった。

いつも、戦争は大切なものを奪っていく。
不幸なことに、テディの乗った爆撃機は、ベルファスト上空から、悪天候のために丘へ墜落炎上してしまった。
遺体は発見されず、戦死報を受けても、エセル・アンは諦めることができなかった。
指輪を見つけた青年ジミー(マーティン・マッキャン)が、はるばるアイルイランドからエセルの家を訪ねて来たとき、ついにエセルは決意する。
50年前に、自ら封印した運命の愛に向き合うことを・・・。
そして、二つの時代、二つの国を結ぶ<愛の旅>が始まる。

この世の中で、失くした愛ほど美しいものはない。
時が経てば、悲しみさえも熟した甘い果実となって、再び傷つくことを恐れる恋人たちを過去の小部屋に閉じ込める。
しかし、勇気を出して、若き日の悲恋に決着をつける旅に出たエセルは、運命の愛は一度きりではないのだという、人生の素晴らしい真実を知る・・・。

いささか甘いこのストーリーも、それなりに楽しめばよろしいわけで、それにしては現在から過去へのフラッシュバックが忙しく、まごつきながら展開に気を取られるという有様だ。
物語は、1941年から1991年までの時代、50年という長い時空を、幾度も幾度も一跨ぎするのだ。
設定は、シンプルに見えてやや複雑だ。
ドアを開けると、そこにミーシャ・バートン(若き日のエセル・アンが現れるのか、シャーリー・マクレーン(50年後のエセル・アンが現れるのか、その瞬間まで解らない。

リチャード・アッテンボロー監督は、今年85歳だ。
いまなお現役で、フランス政府から芸術文化勲章やレジオン・ド・ヌール勲章を贈られるなど、華々しい経歴とともに健在だ。

今回、映画作品としては、特段の目新しさと言ったものはない。
一人の女性に、複数の男性が思いを寄せるという構図も、ごく普通の愛の物語だ。
その域を出ていないのは、ヒロインの50年と言う歳月の重みの中での、苦悩、悲哀、希望、悔悟といったものが全く深く掘り下げて描かれていないことだ。
男たちの友情、恋、嫉妬、羨望、失望などもあまり描かれていない。浅すぎるのだ。
大切なことが、全て通り一遍なのだから参った。
これでは、アカデミー賞の巨匠の名が泣くだろう。
どんなによきテーマであっても、感動させる心理描写の少ないドラマほど、つまらないものはない。
(テレビドラマにも同じことが言える。)
もっともっと、細部の描写があってしかるべきだし、どうも‘描写’不足のようである。
観客の想像に任せる、余韻というようなものではない。
“人間”の描き方が足りないのだ。
ただただ、俳優たちの質の高い演技に支えられて、ひとまずロマンティックな物語には仕上がったと言えるだろうか。

リチャード・アッテンボロー監督あの日の指輪を待つきみへは、或る意味では、‘約束’に囚われた人々を開放する物語なのかも知れない。
脚本家(ピーター・ウッドワード)は、ベルファストで指輪が発見されたと言う報せに、かくも想像力を掻き立てられるものなのだろうか・・・。
彼は、「これこそは、映画にうってつけの素晴らしい素材だと感じた」と、のちに述べている。


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「横浜 黄金町映画祭」ー川のある下町でー

2008-07-17 21:00:00 | 日々彷徨

(7月18日/記事一部訂正)
みなとみらいでもない、赤レンガ倉庫もない、海の見える港のすぐ近くでもない、横浜の下町だ。
お世辞にも、ハイカラなんて言えない。
伊勢佐木町があり、横浜橋があって、その横浜橋商店街に一歩足を踏み入れると、魚、肉、野菜その他何でも売っている。新鮮で、しかも安いときてる。

年中、人出が絶えずにぎわいを見せている。
普段着姿の小母さん、小父さん、若いお姉ちゃんやお兄ちゃんも、下駄やサンダルをつっかけて、昼間からネギだの大根だの両手いっぱいにかかえて、ぞろぞろ歩いている。

活気があって、生活そのものの匂いがあり、気取らない、横浜の庶民の街の一面が覗く・・・。
大岡川が街の北を流れていて、沿道の桜は春の満開が見事だ。
夏は夏で、灯ともしごろともなると、屋形船が一斉に川を下りながら涼風を誘う、夜の風物詩となる。
そんな街の、小さな映画館が、映画祭をやると言うのだ。

幕末開港以来、多くの外国文化が、横浜を通して日本に上陸した。
19世紀末頃、日本に渡来した映画文化も、フィルムの輸入を通じて横浜は深く関わってきたわけだ。
20世紀初めに、本格的な喜劇が、国内で初めて上映されたことや、「封切り」の語を生み出したとされるのが、今はない伊勢佐木町の洋画専門館オデオン座の存在だった。

1920年頃だろうか。
大正活映株式会社の元町スタジオで、それまでの日本映画を大きく刷新するフィルム製作が行われていた。
昭和戦前期のサイレント黄金時代から、戦後にかけて、港町横浜は撮影地としても、多くの映画に登場することになった。

言ってみれば、横浜と言う街は、日本映画史に大きな足跡を残していたのだ。
今回の映画祭でも、開催地・横浜で撮影された映画の中から、劇場やテレビではあまり上映、放映されない名画を選んでいるのもいい。

「日本映画の、もうひとつの魅力に触れる。」
「海外が注目する、日本の才能を再発見する。」
こうしたテーマを掲げて、7月26日(土)から、ちょっと変わったユニークな映画祭が催される。
小規模だが、どうしてどうして中身はかなり濃い。
よくやってると言ってもいい。

かつて、横浜黄金町から伊勢佐木町にかけて、数多くの映画館が存在し、名画の舞台にもなった。
横浜の映画文化の一時代を築いた、この街に唯一残った名画座シネマ・ジャック&ベティで開催される、映画祭だ。

今回が第一回目で、「再上陸ー海外が注目する日本の才能」を謳い文句に、優れた内容でありながら、劇場で公開される機会に恵まれなかった日本映画の中から、海外の映画祭出品作品にも注目している。

それに、横浜ゆかりの映画、例えば「ヨコハマメリー」(中村高寛)「我が人生最悪の時」(林海象)「喜劇 家族同盟」(前田陽一)「虹をわたって」(前田陽一)などを含め、全部で30本以上が軒並み上映され、活弁あり、横浜ゆかりのロケ地ツアーあり、佐藤忠男氏(映画評論家)らの映画文化についてのトークショウありと、結構賑やかで、それなりに楽しめそうだ。

横浜・黄金町エリアと言えば、JR関内駅や桜木町駅から、京浜急行黄金町駅、市営地下鉄阪東橋駅にかけての一帯だが、この地域には何軒もの映画館があった。
横浜ピカデリー、伊勢佐木町東映1・2、横浜オスカー1・2、オデオン座、横浜セントラル、横浜松竹、関内MGA、かもめ座などは、すでにここ10数年の間にすべて閉館し、最近では50年の伝統ある横浜日劇までが惜しまれつつ閉館して、いまマンションの建設が始まっている。
現在街に残っている映画館は、横浜ニューテアトル、横浜シネマリン、それにシネマ・ジャック&ベティぐらいで、すっかり少なくなってしまった。

人は流れ、時は移り、街は姿を変えてゆく・・・。
街の小さな映画館には、それなりのよさもあって、忘れがたい。
その映画館が頑張っている。
そこでしかで出来ない、あるいは、そこだからこそ出来る、そんなユニークな試みを次から次へと打ち出して、街を活性化しようとしている。
小さいが、根強いファンに支えられて、黄金町がいま熱く燃えている。

横浜 黄金町映画祭」(←詳細公式サイト)は、7月26日(土)から8月1日(金)まで開催される。
照会先 : 横浜黄金町映画祭実行委員会広報室(シネマ・ジャック&ベティ内 電話 045-243-9800)

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映画「イースタン・プロミス」ー闇の中の天使と悪魔ー

2008-07-15 20:00:00 | 映画

現代の鬼才と評される、デヴィッド・クローネンバーグ監督の、イギリス、カナダ合作映画である。
アカデミー賞など35賞に、ノミネートされた作品だ。

一少女の日記が秘めた、イギリス、ロンドンの闇に巣食う犯罪組織の影・・・。
表裏の世界に生きる、人間たちのドラマだ。
R-18指定映画で、刺激臭が強く、冒頭から思わず目を覆いたくなるようなシーンは衝撃的だ。
拳銃ではなく、ナイフを手にする格闘は残虐で、こういう映画をクライム映画とか、バイオレンス映画と呼ぶのだろう。
言ってみれば、ややグロテスクなシーンを、いやおう無しに見せつけられるのだ。
物語そのものは、さほど複雑ではない。むしろシンプルだ。

イギリス、ロンドン・・・。
クリスマスを目前に控えた、或る夜のことであった。
助産婦として、アンナ(ナオミ・ワッツ)が勤める病院に、身元不明の少女が運び込まれた。
彼女は身ごもっていて、女の子を出産ののち息を引き取ってしまった。
手術に立ち会ったアンナは、彼女のバッグの中から日記を取り出した。
孤児となった赤ん坊のために、少女の身元を何とか割り出そうと考えたのだった。
日記はロシア語で書かれており、そこには、“トランスシベリアン”というロシア・レストランのカードが挟みこまれていた。
ロシア人とのハーフでありながら、ロシア語の解らないアンナは、カードを頼りにレストランを訪ねる。

その店の前で、アンナは謎めいた男と出会った。
ニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)という名前のその男は、悪名高きロシアン・マフィア<法の泥棒>の運転手で、組織の跡取りであるキリル(ヴァンサン・カッセル)のために働いていた。
ニコライは、エンジンのかからないバイクを前に困惑するアンナを、車で家まで送り届ける。

やがて、少女の日記を読んでしまった、アンナのロシア人の伯父が、彼女にこの事件に深入りしないように忠告する。
日記には、ロシアン・マフィア<法の泥棒>が関わる、「イースタン・プロミス」=人身売買についての、恐ろしい事実が記されていたのだった。
かつて、流産した辛い過去を持つアンナは、子供のことだけを考えており、「日記」と引き換えに、少女の身元を教えてもらうという取引をマフィアと交わすことになる。
その取引の場所に現れたのは、ニコライであった。
しかし、日記を渡すアンナに、彼は彼女の身元を伝えなかった。
そして、今回の事件のことは忘れ、自分たちには近づくなと、アンナに忠告した。

秘密を知ったアンナへの忠告を聞いて、時折優しさを覗かせるニコライに、はからずも惹かれはじめている自分に、アンナは気づくのだった・・・。
謎だらけの、闇の世界に生きる男ニコライ・・・、本来会う筈もなかった二人を、運命が引き寄せ、物語は、静謐だが重厚なクライマックスへと突き進んでゆく・・・。

映画「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズで、勇者役を演じたヴィゴ・モーテンセンが、謎めいた複雑な個性を持つ男ニコライを、完璧なまでに演じきっている。
公衆浴場での、全裸の恐ろしいまでにリアルな格闘といい、その陰影に富んだ演技は迫力と凄みさえある。
ヒロインには、透明感のある美しさで定評のあるナオミ・ワッツで、悲しい過去を背負いながらも、小さな命ゆえに奔走する女性の心の動きを繊細に表現している。
どうやら、この二人のコンビネーションが、作品の‘核’をなしているようだ。

・・・私には、果たすべき約束がある。たとえ、あなたが何者であっても・・・。
男と男、そして男と女が絡み合う運命の中で、決して多くを語ろうとしない、ニコライの孤独と秘密を湛えた姿が、悲しみの宿命のように浮き彫りにされる。
ニコライは何者なのか・・・?

デヴィッド・クローネンバーグ監督は、普通のギャング映画ではない、家族のドラマや文化の衝突を描きたかったと言う。
さて、どうだろうか。
ロンドンに巣食うロシア人犯罪組織を横軸に、犯罪映画やギャング映画といった、古典的なジャンルに近い雰囲気を醸し出している。
一種のホラー映画のように観ることも出来る。

イギリスでは、或る時期、売春目的の人身売買は一大産業だった。
警察の記録によれば、その大部分は東欧出身者による犯罪だったそうだ。
映画のタイトルにもなっている「イースタン・プロミス」とは 、「東欧・ロシア」からやって来た貧しい女性に良い生活を「約束する」という意味なのだ.
FBI(アメリカ連邦捜査局)に国際指名手配されていた、セミオン・マギレビッチは、ウクライナのマフィアのヴォール(大親分)だったそうだ。
2008年に、モスクワで逮捕された。
この男と偶然同じファーストネームのヴォールが、この作品の中に登場するキリルの父親セミオン(アーミン・ミューラー=スタール)である。
・・・そして、何を隠そう、彼が14歳のロシア人売春婦を強姦し、妊娠した彼女が病院に運び込まれ、死亡するところから、このストーリーは始まったのだ・・・。

マフィアの世界でしか生きられない男たちと、それに翻弄される女・・・。
映画 「イースタン・プロミス」 は、スタッフ、キャストにも恵まれ、よく出来た映画だが、あっと驚くような衝撃のシーンも多く、一般向きとは言えないかもしれない。
観るには、かなりの勇気が必要だろう。

 

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映画「クライマーズ・ハイ」ー命を追った、あの夏ー

2008-07-13 19:00:49 | 映画

1985年8月12日、群馬県の御巣鷹山に、日本航空123便が墜落した。
乗客乗員524名、うち生存者4名、死者520名という、世界最大で最悪の単独航空機事故が発生したのだった・・・。

当時、地元紙上毛新聞の社会部記者として、この大事故を取材した作家・横山秀(「半落ち」)が、自らの壮絶な体験をもとに、17年の歳月をかけて書き上げたベストセラー「クライマーズ・ハイ」が、映画になった。

事故当時の、一地方新聞社の記者たちが、渾身の取材にあたった、生々しい姿が浮き彫りにされる。
23年という時を経て、あの夏、命を追った記者たちの、それは壮絶な一週間であった。

原田眞人監督のこの作品は、横山秀夫の原作を得て、事件の取材活動を中心に、文字通り、走り、叫び、書いた彼らの激動の日々を描いたものだ。

群馬県、北関東新聞社・・・。
この大事故の全権デスクを任命されたのは、組織から一線を画した遊軍記者の悠木和雄(堤真一)だった。
<新聞>は、命の重さを問えるのか・・・?
大きな命題に立ち尽くす悠木は、更なる壁にぶち当たる。
混乱する現場、妬みや苛立ちに激昂する社内、全国紙と地方紙の加熱する報道合戦、壊れてゆく家族や友人との絆・・・。
社内は異様な熱気に包まれていた。
悠木は、もがいていた。
必死に、自分の信念を貫き通そうとする彼は、あるスクープをめぐって、極限の決断を迫られていた。

未曾有の大事故を横糸に、浮き彫りになる生々しい人間関係の中で、悠木は報道人としての使命感を奮い立たせて、あくまでも正義を貫こうとする。
その姿勢は、「新聞社」という枠を超えて、働く人たち或いは働いてきた人たちに、仕事とは、家庭とは、さらに生きる意味とは何かを問いかける。

四方八方からのプレッシャーに、押し潰されそうになりながら、確固たる信念で、全権デスクの任務を遂行する主人公を演じる堤真一の動きがひときわ光っている。
そして、悠木に憧れつつも反発する県警キャップを堺雅人が、男社会の中で奮戦する新人女性記者を尾野真千子(「殯の森」)が演じ、記者魂をかけた熱いスクープ合戦が繰り広げられる。
また、鬱屈した悠木を、谷川岳衝立岩の登攀に誘い出す販売部の同僚を高島政宏が、さらには車椅子に乗ったワンマン社長を山崎努が印象深く演じ、ひとくせもふたくせもある、新聞社内の人間模様に厚みを持たせている。

原田監督は、社会派エンターテイメントから超娯楽作品まで、数々の作品を手がけている。
この作品では、自身でも最高記録となる2541カットを重ね、登場人物たちのあふれるばかりの緊張感や、感情の機微を、スリリングに、情感たっぷりに、見事なまでの緩急をつけて立体的に描き出している。
どの画面も、活き活きとしていて、躍動的だ。
観ている者は、主人公たちと一緒になって、臨場感溢れる取材現場を共有し、体感させられる。
迫力ある、人間群像劇ではある・・・。

ただし、この映画は、日航機事故に深く言及しているわけではない。
勿論、あの時の事故の再現シーンはリアルだし、圧倒される。
今でも忘れもしない。
あの時、日航機はダッチロール(蛇行)をしながら、機はむしろゆっくりと墜落していった。
だから、パニックに陥った機内の乗客の中には、「遺書」をメモに残す人もいたのだった。

物語は、大きなうねりを描きつつ進行するが、社長のセクハラとか、主人公の家庭の確執(?)とかいった挿話は、一体どういう意味があるというのだろう。
感ずるに、むしろわずらわしいだけだ。
岩登りのシーンが、幾度も幾度も、短い回想シーンとして出てくるのも鬱陶しい。
タイトルと、無理やりにこじつけることもあるまい。
観ていても、ああ、またかと、苛々してくる。減点だ。

人間関係も、複雑に込み入っている。
それを、いちいち説明していてはきりがない。
上映時間も長い。もっと削れる場面もないことはない。
最後の、ニュージランドかどこか外国に、主人公が孫に会いに行くシーンは、本当に必要なシーンかどうか。
蛇足ではないのか。

・・・そして、結局この映画は何を一番言いたかったのか。
幾つもの要素が混入されていて、そのどれもが未消化みたいで、完全に描ききれていない。
日航機墜落の原因を究明するでもなし、新聞記者である主人公の家庭での相克に目を向けるでもなし、地方新聞社の頑張っている姿を、悲哀を交えて描きたかったのか。
そのどれかとも取れるし、全てともとれる。
何もかも、全部が大事だったのか。

記者同士の口論や議論も納得できるが、少々うるさい。
社内での、ニュースのトップ、一面に何をもってくるかという判断は、日々編集部で議論されることだろう。
その辺の描き方は、なるほどと思わせるものがある。
この作品では、50人近い記者たちが登場するのだが、全員を俳優のオーディションで決めたそうだ。
しかも、彼ら登場人物の一人一人の役者としてのキャラクターにこだわり、各人の趣味、性格、ニックネームまで細かく決めたのはさすがである。
かつて、黒澤明監督は、「七人の侍」を撮ったとき、村人の一人一人の戸籍まで作ったと言われる。
シナリオ作家は、脚本を書くときは、登場人物全員の「履歴書」を克明に書けなければならないのだから・・・。

<クライマーズ・ハイ>とは、岩登りの際、興奮状態の極限にまで達して、恐怖心のなくなることを言うのだそうだ。
岸壁を登りきることができればいいが、途中でクライマーズ・ハイが解けると、恐怖のあまり、人間は一歩も動くことが出来なくなるというわけだ。
報道スクープという社命にかけて、編集部が渾身の記事を立ち上げようとしている中で、彼らの興奮状態はヒートアップしていって、極限に達するのだ・・・。

人が愚直なまでに働く姿を描くとき、その職場はスペクタクルだ。
50人という人間の集団がいて、彼ら一人一人の、生き生きとした濃密な芝居を、一見の価値がないとはむろん思わない。
原田眞人監督
映画「クライマーズ・ハイは監督の力量は認めても、欠点も目立つ。
人気度が高い作品だが、いろいろ欲張りすぎたのか、テーマはやや散漫だ。
ただ、この映画を観ていると、社会の様々な出来事を含めて、あの当時のことが、昨日のことのようにフラッシュバックして、それは忘れることの出来ない夏であった・・・。

 

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