徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「ミス・シェパードをお手本に」―ユーモアたっぷりでちょっぴり切ない英国式人生讃歌には痛快な味わいも―

2016-12-31 13:00:00 | 映画


 イギリスを代表する劇作家のひとり、アラン・ベネットが経験した実話をもとにした作品だ。
 偏屈なホームレスの老人と、シニカルな劇作家の奇妙な触れ合いを描いたこのドラマは、1999年に舞台化されたものだ。
 今回、老女をマギー・スミス、相手役の劇作家をアレックス・ジェニングスと、どちらも舞台と同じ二人の俳優が演じ、これまた舞台と同じ演出のニコラス・ハイトナー監督が映画化した。
そうなのだ。
イギリスのヒット舞台劇を、そっくり同じ陣容の顔ぶれで作り上げた、イギリス風の正統派の喜劇だ。









1970年代の、ロンドンの高級住宅地カムデンタウン・・・。
文化人が多く住むエリアに引っ越してきた劇作家のベネット(アレックス・ジェニングス)は、通りに停めたオンボロの黄色い車で生活するミス・シェパード(マギー・スミス)と出会う。
近所の住人達は、年老いた彼女を心配して世話をやくが、お礼を言うどころか悪態をつくばかりで、らちがあかない。
ある日、駐車をとがめられている彼女の姿を見かけたベネットは、親切心から自宅の駐車場をひとまず避難場所として提供する。

・・・それから15年、ミス・シェパードはその駐車場に居座り続け、ベネットと二人の奇妙な共同生活を送っている。
ベネットはゴミや悪臭に悩まされながらも、どうやら変わった過去のありそうなミス・シェパードに、作家としての好奇心を募らせていく。
彼女の高飛車な態度や、突飛な行動に頭を抱えつつも、二人の間に不思議な友情が生まれていたのだった・・・。

ああ言えばこういうお婆さんをさっさと追い出そうとする気持ちと、このくらいは大目に見てもいいと思う引き裂かれた心情を、アレックス・ジェニングスが一人二役で見せる。
はじめはわからなかったが、この分身を登場させる手法は面白いアイディアで、よくできた脚本だ。
そっけない分身と違って、彼女の身を世話焼きの婆さん風に演じるもう一方の分身は、自分の母親の老いと重なって思いは複雑だが、そんな気持ちはミス・シェパードには通じない。
何といっても、親切にされてあたり前だと思っている。
頑固で偏屈で、自分勝手な主張だとわかっても、ホームレスの女性と作家の気持ちが微かに触れ合うところに、ユーモラスな笑いが生じる。

ドラマはテンポもあって軽妙な語り口が心憎い。
マギー・スミスは今年82歳だが、なかなかしたたかな老女から純真無垢な童女まで、みすぼらしい外見ながら実は高い教養を持つ複雑なヒロインを、味わい深く好演している。
原作者アラン・ベネット役のアレックス・ジェニングスは、彼女への同情心と、文化人特有の罪悪感みたいなものがないまぜになって、その複雑な心境を上手く体現している。
そう、この名優二人の丁々発止が絶妙で、作品を盛り立てているのだ。

心温まる二人のやりとりもいいが、孤独に生きる者の切なさも浮かび上がって、ほほえましいドラマである。
人間関係のしがらみや、物欲にとらわれない自由な生き方をシェパードに見せられて、見ている方もいくらか心が豊かになったような気分に浸れる。
ボロは着てても心は錦というではないか。
ポンコツ車に乗ってやってきた、年老いたレディの何とも言えない魅力が、ニコラス・ハイトナー監督イギリス映画「ミス・シェパードをお手本に」にはいっぱいに溢れている。
話の内容はほとんど真実だそうで、そつがなく哀切さの漂う作品だが、まあ見て損のない映画だ。
        [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はドイツ・フランス・カナダ・スウェーデン・ノルウェー合作映画「誰のせいでもない」を取り上げます。

いつも、拙いブログにお付き合い下さって有難うございます。
どうやら今年も暮れてゆきます。
来年もまた、氣が向いたらお立ちよりいただき、このページを覗いてやって下さい。
陽は沈み、陽はまた昇る。
どうぞ良い年をお迎えください。


映画「胸騒ぎのシチリア」―交差する愛と欲望そして加速する誘惑と嫉妬の果てに―

2016-12-27 17:15:00 | 映画


 「ミラノ、愛に生きる」(2009年)ルカ・グァダニーノ監督が、南イタリアの孤島で繰り広げられるセレブな男女の恋の駆け引きを描いた。
 この作品、ジャック・ドレー監督アラン・ドロン主演「太陽が知っている」(1969年のリメイク版だ。
 何だ、そうだったのか。
 そう、少し怖くて不気味なサスペンス映画だ。

 ゴージャスなリゾートで展開するサスペンスではあるが、この作品では人の心理そのものを追っていて、それも誰かが死んですぐに真犯人を捜すといったたぐいの謎解きではない。
 眩しい太陽の下、ひと夏のヴァカンスの出来事が綴られるのだが・・・。








世界的な人気を誇るロックスターのマリアン(ティルダ・スウィントン)は、南イタリアの孤島、シチリアのパンテッレリーア島へヴァカンスにやって来る。
声帯の手術を受けたばかりで、ほとんど声の出ないマリアンは、恋人で無名の撮影監督ポール(マティアス・スーナールツ)と二人だけで、優雅な時間を過ごそうとしていた。
ところがそこへ、マリアンの元彼でカリスマ音楽プロデューサーのハリー(レイフ・ファインズ)が、去年初めてその存在を知ったというセクシーな娘ペン(ダコタ・ジョンソンを連れて押しかけて来る。

そして、歌って踊って、食べて飲んで、1秒たりとも黙らないエネルギッシュなハリーに、マリアンのセレブな休暇は掻き乱されていく。
ハリーは、実はマリアンとの復縁を狙っていたのだ。
一方で、若さを持て余したペンはポールへの好奇心を募らせていく。
マリアンの嫉妬と困惑と迷いが最高潮に達したとき、思いもよらない事件が待ち受けていた・・・。

舞台となるパンテッレリーア島は、世界遺産に登録された島である。
欲望には抗えないと告白するかのような、ローリング・ストーンズの名曲「エモーショナル・レシキュー」と、ヒロイン・マリアンが着ているディオールの衣装の数々が作品に彩りを添える。
危うくて華麗な、ひと夏のヴァカンスの物語は、旅と音楽とファッションを融合させ、刺激的な非日常へと誘っていく。

オスカー女優ティルダ・スウィントンは存在感たっぷりだし、元恋人役のレイフ・ファインズの演技も出色で、他の俳優陣も個性派をそろえて大人のドラマの展開だ。
俳優たちの力を信じて作られたようなドラマで、後半の展開はスリリングでサスペンスに満ちている。
歌のトップスターと年下の恋人、昔の男と多分その娘と・・・、彼らが一堂に会したところで穏やかなヴァカンスに軋みが生じる。
眩しい太陽の下で、危うい四角関係が怪しげな展開をたどり始めるのだ。
それが楽しいだけののんびり作品とはならず、このドラマは衝撃の展開へと転がっていく。

ルカ・グァダニーノ監督イタリア・フランス合作映画「胸騒ぎのシチリア」は、誘惑と嫉妬に駆られた男女の行く末に胸騒ぎもするが、この終盤の急ピッチはいただけない。
どことなく薄気味の悪さが漂っていて、事件が起きた後のイタリアの警察の動きもいい加減だ。
どうもすっきりと納得がいかない。
少々お粗末な、あっけにとられるようなラストである。
総じて風景も衣装も大いに目の保養とはなっても、決して後味のよい映画とは言えない。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回はイギリス映画「ミス・シェパードをお手本に」を取り上げます。


映画「みかんの丘」―アブハジア紛争で血に染められた黒海の楽土は誰のものか―

2016-12-24 12:00:00 | 映画


 その土地は誰のものか。
 アルハジア紛争の廃墟から生まれた作品である。
 人間としての誇り、戦争の不条理が描かれる。

 1961年にソ連邦が崩壊し、その一共和国だったジョージアは独立し、国内で民主主義が高まった。
 そのことに、西部のアブハジア自治共和国が反発し、両者の間で戦闘が起こった。
 これにより、国は荒廃し、多くの難民が生まれ、同時代に起こった内戦とともに、アブハジア紛争と呼ばれる。
 1994年に停戦合意が成立したが、今なお緊張状態が続いている。
 コーカサスの歴史あるジョージア(旧グルジア)の戦争を背景に、ザザ・ウルシャゼ監督は、この作品を人間性に満ちた憎しみの連鎖を超えた力強い映画に仕上げている。




ジョージア(グルジア)の西部にあるアブハジアで、みかん栽培をするエストニア人の集落が舞台だ。
ジョージアとアブハジアの間で紛争が勃発し、多くの人は帰国したが、イヴォ(レムビット・ウルフサク)とマルゴス(エルモ・ニュガネン)は残った。
マルコスはみかんの収穫が気になるからだが、みかんの箱作りのイヴォは本当の理由を語らない。

ある日彼らは、戦闘で負傷した二人の兵士を自宅で介抱することになる。
ひとりはアブハジアを支援するチェチェン兵アハメド(ギオルギ・ナカシゼ)、もうひとりはジョージア兵ニカ(ミヘイル・メスヒ)で、二人は敵同士だったのだ。
彼らは互いに同じ家に敵兵がいることを知って殺意に燃えるが、イヴォが家の中では戦わせないというと、家主が力を持つコーカサス人のしきたりに則り、兵士たちは約束する。
数日後、事実上支援するロシアの小隊がやって来て・・・。

19世後半のロシア帝政時代に、多くのエストニア人がアブハジアに移住し、開墾、集落を築いた。
この作品は、その歴史的事実を背景に、エストニア人を主人公にしてアブハジア紛争が描かれる。
みかんは、アブハジアの名産品で、日本の温州みかんに似ている。
ソ連邦時代に、日本人の学者が中心になって、西ジョージアの黒海沿岸の地方に多くの苗を植え、広めていったといわれる。
全編ロケによる撮影だが、いまだに緊張状態が続くアブハジアではなく、同じ黒海沿岸にあるグルジア地方の広大な荒地に集落や道を創り、樹木を植えて撮影された。

ドラマの中、ニカが大切にしていたラストシーンで流れるカセットテープの曲は、ジョージアを代表する詩人、作家、音楽家であるイラクリ・チャルクヴィアニが歌った「紙の船」という歌で、戦争中ジョージアで大ヒットした。
これにはジョージア人のアブハジアへの思いが重ねられ、戦場に赴く若者の恋人への心情が込められている。

紛争のさなか、主人公イヴォは負傷した敵同士の兵士を自宅で介抱する。
ザザ・ウルシャゼ監督エストニア・グルジア合作映画「みかんの丘」は、戦争の愚かさ、不条理を描きつつ、人間らしさとは何かを問う反戦映画の意欲作だ。
チェチェン人、ロシア人なども登場し、多様な民族や宗教、文化が入り組んでいるが、小さな村を舞台に戦争の本質を痛烈に映し出し、深い余韻を残す作品だ。
現代世界の今を照射していて、力強い。
       [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
なおこの作品は、当初ジョージア・ドイツ他合作映画「とうもろこしの島」と東京岩波ホールで同時公開されました。
次回はイタリア映画「胸騒ぎのシチリア」を取り上げます。


映画「雨にゆれる女」―あの日の雨の匂いが明らかにしていく過去と罪―

2016-12-21 11:30:00 | 映画


 十数年にわたって、ホウ・シャオシェン、ジャ・ジャンクーといった才能豊かな監督たちと、音楽家として作業をともにしてきた、半野喜弘監督初監督作品だ。
 音楽と映画は表裏一体であって、彼が映画の製作に挑戦したのは自然の成り行きだった。
 濃厚な色彩、優美な旋律、登場人物の息づかいなど、いまの日本映画では稀な質感の映像を作り上げた。

 一個人として生きる男がいた。
 その男の前に、突然謎めいた女が現われる。
 隠された過去と罪がめぐり合う、サスペンスに溢れた愛の物語である。








その男(青木崇高)は、毎朝万全の準備を整えて、鏡に向かって自分を見つめる。
「飯田健次」と名乗り、綿密さと精巧さをもって、完璧な別人を演じてひっそりと日々を送っていた。
勤め先の工場では真面目に働いているが、人との関りを拒む彼の過去を知るものは誰もいない。

ある夜、突然同僚の下田(岡田天音)が家にやってきた。
惚れた女が男から逃げたいと言うので、かくまってほしいと言う。
健次はドアを閉めようとするが、下田が粘る。
下田は、一晩だけでいいからここで預かってほしいと懇願する。
ことを長引かせたくない健次は、しぶしぶ女を預かることにした。
・・・工場に警察がやってきて、下田が工場で盗みを働き捕まったことを伝えられる。

健次のかくまった理美(大野いと)と名乗る、その女の正体もまた謎に包まれていた。
どこか危うさを抱えた理美の登場で、静かだった健次の日常が狂い始める。
理美の前では賢治は偽装をやめるようになり、これまで完全に線引きしていた本当の姿と「飯田健次」の境界線が揺らいでいく・・・。

ある罪をめぐって繋がる、出会ってはいけなかった二人だ。
逃れられない哀しい運命を前に、やがて二人は選択を迫られる。
半野喜弘監督は、この作品を、逃れられない喪失を抱えた男女の贖罪の物語として描こうと試みた。
ありきたりの日常を夢見た、男女の苦しみと悲しみを通して、あたり前に存在する日常の豊かさと素晴らしさを炙り出した。

ハードボイルドな設定のなかで、主たる登場人物の男女が哀しくもまたおかしい。
独白のようなセリフ、淡々としていながら繊細な描写と演出が際立っている。
映像も構図も美しいし、生と死について行き着く愛のドラマとしては、これまでのこの種の作品にはあまり感じられなかったものが横溢している。
青木崇高は、2003年「バトル・ロワイヤルⅡ鎮魂歌」で本格的映画デビューし、2007年NHKの朝ドラ「ちりとてちん」でヒロインの結婚相手を演じ、広く顔を知られる役者に成長した。
本作では彼は、別人のように単独で生きる「るろうに剣心」(2012年~14年)などで知られる豪快なイメージとは違い、主人公を繊細な演技で体現した。
健次を惑わす謎の女役の大野いとは、映画、舞台と幅広く活躍中の若手女優で、大人の色気を漂わせている。
この映画「雨にゆれる女」について一言付け加えれば、初単独主演の青木崇高半野義弘監督が、2002年パリでの偶然の出会いからコラボレーションで生まれた、個性的な色合いの強い作品だ。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はエストニア・ジョージア合作映画「みかんの丘」を取り上げます。


映画「秋の理由」―60歳を迎えた作家と編集者らを取り巻く人々の織りなす人間模様―

2016-12-18 18:00:00 | 映画


 詩人でもある福間健二監督が、人生の黄昏時を迎えた二人の男の創作やこだわり、恋と格闘するさまをざらざらとした感触で描き出した。
 ひとりでは生きてゆけない。
 でも、ひとりで生きている自分がここにいる。

 原作は2000年に出版された福間健二の同題の詩集で、その中にある詩のフレーズが生きることとこの世界への問いかけとなって、人物たちを動かしていく。
 秋は悲しく、どこかで誰かが泣いている・・・。
 福間監督は、これまでも新しい語りかたと魅惑を探ってきたが、この作品は60代を迎えた二人の男の友情を軸に、この世の'迷路'で生きる人間像を浮かび上がらせようとしている。
 福間監督5作目の作品である。







宮本守(伊藤洋三郎)は本の編集者で、友人の村岡正夫(佐野和宏)は作家だ。
村岡は代表作「秋の理由」以降、小説を発表していない。
精神的な不調から声が出なくなり、筆談器を使っている。
宮本は村岡の才能を信じ、彼の新作を出すことを願っている。
そして実は、村岡の妻美咲(寺島しのぶ)のことが好きなのだ。

宮本の前に、「秋の理由」を何回も読んだというミク(趣里)が現われる。
ミクは「秋の理由」のヒロインに似ていて、宮本の心を読むことができる。
宮本は、美咲への思いをはっきりと自覚する。
その一方で、美咲と村岡との関係は険悪になっている。
村岡は書けないことの苦悩から、正気と狂気の間を揺れ動き、自分の傍に宮本がいることを苦痛に感じて、宮本にそのことを口にしてしまう。
宮本は怒りを爆発させる。村岡に、自分に、そしてこの世界のありかたに・・・。

福間健二監督は、二年前に「佐藤泰志そこに彼はいた」という一冊を出して、自死した作家佐藤泰志のことを書き切った。
福間監督は、この作品に彼のモデルとも思われる人物を登場させた。
書けない作家村岡と佐藤泰志は重度の不安神経症で、自殺未遂するところが重なるのだ。
しかも、佐藤泰志は首を吊って死んでしまったが、村岡はそうはならなかった。
彼は死にきれずに入院し、目覚めた病院の窓から秋の空を見上げる。
二人の男に一人の女の物語だ。

福間監督のこの作品「秋の理由」には人の歩くシーンがよく出てくる。
みんなよく歩いている。
そして、公園の紅葉、金木犀、どんぐり、秋の様々な雲、これら自然と人物の絵模様が繋ぎ合わされ、かすかにきしみ合っている。
この映画には詩的透明感がある。
福間監督は、自著の詩集を自分の意のままに映像化して見せたが、やはり映画といえどもドラマとして見たとき、登場人物の気負い過ぎは気になるし、セリフが固くて、よくこなれていないのも気になる。
舞台演劇ではなく、これは映画だ。
だが、ドラマとしてはインパクトが弱い。
そう思いつつも、ラストまで付き合って少々疲れました・・・。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回は日本映画「雨にゆれる女」を取り上げます。


映画「ジムノぺディに乱れる」―一世を風靡したあの成人映画レーベル・ロマンポルノの復活第一弾―

2016-12-16 12:00:00 | 映画


 1970年代~80年代に1100本もの作品が公開された。
  一定のルールと製作基準を守ることで、映画を自由に作ることができた。
 このため、製作現場は様々な表現の自由を駆使し、映画作りに挑戦していった。
 ここから、多くの監督やスタッフをして俳優が育っていった。
 映画史においても、最もセンセーショナルなレーベルとして、国内外でいまもなお高い評価を得ている。

 28年ぶりの新作と銘打ったシリーズ第一弾は、 「世界の中心で、愛を叫ぶ」(2004年)などの、ラブストーリーの名手・行定勤勲監督が、切なく不器用な大人の愛を官能的に描いた。
 生誕150年を迎えたエリック・サティ名曲「ジムペディ」の調べに乗せて・・・。





映画監督の古谷(板尾創路)は、代表作が映画祭で受賞したのだが、観客の動員は今ひとつだった。

彼はやる気を失っていた。
古谷は鬱屈した気持ちに耐えながら、悶々としていた。
仕事、名声、愛・・・、全てを失った男は、映画の撮れない日々が続き、映画学校で教鞭をとりながら、肌のぬくもりを求めて、学生の結花(芦那すみれ)作品に出演した若手女優の安里(岡村いずみ)ら、女たちの隙間を一週間彷徨っていた・・・。

ロマンポルノの定番は、大体ダメ男が主人公だ。
この作品に見る古谷の空虚さ、情けなさ、だらしなさ、嫌らしさ・・・、だがそんなだらしのない男のやるせなさが、主人公役板尾創路にはまっている。
ヒロインの芦那すみれは、長編映画の役どころは初めてだそうで、最初の濡れ場にも体当たりの演技を見せる。
こういう作品で、現場の段取りについていくのは必死にならざるを得ず、やっていくうちに撮影がどんどん楽しくなって、あっという間の一週間だったそうだ。

簡単に言えば、男と女が出会って別れたりするだけの映画といってもいい。
それに、どれだけの時間を紡いでゆけるかだ。
ロマンポルノの決まりは、総尺80分前後、10分に1回の濡れ場、製作費は全作品一律、撮影期間は1週間、完全オリジナル作品で、低予算でと決まっている。
行定勲監督作品「ジムノペディに乱れる」は、ダサいけれど少しだけおしゃれな男の登場で、まあ丁寧にに撮られていて映像も美しいし、気になるような古臭さは感じさせない。
昭和の時代にロマンポルノ誕生して45周年、いま平成の世に再び花開く、といったところだろうか・・・。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回は日本映画「秋の理由」を取り上げます。


映画「神聖なる一族24人の娘たち」―自然崇拝と大らかな性で謳歌する民話の世界の人々の物語―

2016-12-13 18:00:00 | 映画


 ご存じだろうか。
 ロシア西部、ヴォルガ川流域に広がる魔法の国のような世界、その名もマリ・エル共和国・・・。
 ロシア内の共和国で、面積2万3400キロ㎡、人口69万人の小国だ。
 首都ヨシュカル・オラはモスクワから643㎞のこの地域には、5世紀初頭から、ウラル語族系民族マリ人が住んでいる。
 マリ人は、人間と自然が密接につながっていると考え、自然崇拝を行ってきた。
 ロシア連邦の中では、際立って特異な民族で、どこにもない宗教や世界観を持ち、民間伝承は昔から今も息づいている。

 この作品は、マリ人に伝わる説話をもとにした女性たちの物語を、アレクセイ・フェドルチェンコ監督が映画化した。
 ロシア版「遠野物語」「アイヌ民話」のような、優しく哀しい不思議な世界が広がる。
 十代の少女から老婆まで、様々な世代の女性たちが次々と登場する。



理想的な夫を選ぶ目を養うために、バケツ一杯のキノコの形を丹念に調べるオシュチレーチェ(ナジェージュダ・ナザロワ)小枝のようにか細い体を豊満な体にするため、オカナイおばさん(オリガ・ギレワ)から、裸の体を布で拭くまじないを施されるオシャニク(アンナ・グラチョーワ)夫に思いを寄せる醜い森の精霊に呪いをかけられてしまうオロプチー(ユーリア・アウグ)男の亡霊たちの気まぐれに乗せられて、裸で踊る姉たちを目撃する少女オルマルチェ(ナジェージュダ・ソコロワ)など・・・、気が付けば名前が“O"から始まる24人の“娘たち”の、「生」と「性」の物語なのだ。
彼女たちの物語は、やがてひとつの車輪となり、季節を巡り人生を巡る・・・。

いやぁ、何とも摩訶不思議な世界があったものだ。
アレクセイ・フェドルチェンコ監督は、いまロシア映画界の第三世代における比類なき才能と呼ばれる、気鋭の映画作家の一人だ。
この作品で彼は、ロシアの少数民族で、独自の言語、文化、宗教を持つマリ人に光を当てた。
そして、マリ人の生活を基に、マリの伝承や慣習などを織り交ぜた、女性たちの物語を作り上げた。

マリ・エル共和国の聖なる森を有するマリ人の村で、1年をかけて撮影を敢行したそうだ。
四季の移り変わりによって、様々に繰り広げられる風景と、世俗的な近代性に染まることなく、マリ伝承文化の中で生きる女性たちの天真爛漫な美しい姿を、まるで印象派の巨匠ルノワールの絵画のようにみずみずしく描きつつ、何とも不思議な世界を作り上げたものだ。

この物語は、“O”から名前が始まるマリ人女性の物語で、おとぎ話であり、また真実でもある。
原案と脚本を担当したデニス・オソーキンによれば、全ての映像は、彼がヴォルガ川中流域で実際に観たり聞いたりしたことや、今でも行われているマリ人の習慣なのだそうだ。
人々の生き方について描いているが、ノンフィクションのようなフィクションで、どこかノンフィクションの雰囲気が隠れている。
ロシア映画「神聖なる一族24人の娘たち」は、現代に今も残る貴重な世界を紹介しているようで、この奇妙なたたずまいに古い民話の面影が宿り、24話がほとんど人間の性と信仰の話である。
女たちの話は、短いものもそうでないものも、くすりと笑ってしまうものもあったりする。
しかし、地球上のいたるところで戦禍の絶えないいま、こんなにも大らかでこんなにも楽しい浄土のような世界があろうとは・・・。
何とまあ、この奇っ怪で、面白おかしい村のO嬢たちの物語は、とにかく意外性いっぱいの映画である。
       [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回は日本映画「ジムノペディに乱れる」を取り上げます。
その次に「秋の理由」を取り上げます。


映画「五日物語 ―3つの王国と3人の女―」~リアルな幻想世界とその緻密で荘厳な映像美~

2016-12-11 12:00:00 | 映画


 17世紀初頭にナポリ王国で生み出された、世界最初のおとぎ話「ペンタローネ(五日物語)」に描かれたのは、400年の時を経た現代と変わることのない、残酷なまでの女の“性”(さが)であった。
 「ペンタローネ」の物語は、グリム兄弟にも多大な影響を与えたといわれる。
その女の“性”をテーマに3話を選んで、「ゴモラ」(2008年) マッテオ・ガローネ監督が映画化した。

 この作品、どんな映画にも似ていない独創的な美的感覚で、元画家の感性を十二分に発揮して、ゴヤの古典ホラー映画からインスピレーションを得たともいわれる。
 映像は壮麗な中に不気味さを漂わせており、皮肉に富んだストーリーを融合させた。
 フランス・イタリア合作映画だ。





3つの王国に渦巻く、それぞれの世代の女たちの欲望が並行して描かれる。
まだ見ぬ大人の世界に憧れながら、父である王と暮らすハイヒルズ国の王女の結婚する相手に王が決めたのは、屈強で醜いオーガ(鬼)であった。
華やかな城から連れ出され、過酷な鬼の住処での生活に耐えながら、王女はひたすら逃げ出す機会をうかがっていた・・・。

ロングトレリス国の不妊に悩む女王(サルマ・ハエック)は、魔法使いの教えどおりに、怪物の心臓を食べて美しい男子を出産する。
成長した彼は、同じ怪物の心臓のもとで生まれた下女の息子と兄弟同然の友情で結ばれたが、年頃になった息子の心は母親から離れていく。

ストロングクリフ国では、人目を避けて細々と暮らす老婆の姉妹がいた。
好色な王(ヴァンサン・カッセル)に、その美しい声を見初められた姉は、不思議な力で若さと美貌を取り戻し、まんまと妃の座に収まるのだが、妹の嫉妬を買うようになる・・・。

それぞれの世代の女たちの欲望は一応叶えられるが、そこには皮肉な運命の裏切りが待ち構えている。
この作品では、人助けをした者があっさりと命を落とし、裏切ったものがいい目を見る。
童話というのは、優しいものではなく、本当は恐ろしいものなのだ。
そう思うと、何が幸せなのだろう。よくわからない。
そこがファンタジーなのだろうか。
でも、なかなかリアルなファンタジーだ。

登場する怪物も、敢えて特撮映画のように撮っており、3つの王国の古城もそれぞれ実在の古城で撮影されている。
黒ずくめの女王が、白で統一された広間で赤い心臓にかぶりつく。
緑の森の中で、真紅の布をまとった、白い肌の女が横たわるシーン、ややホラーじみるが絵画のような造形と構図で描かれる幻想的な世界や、剣と魔法の世界が目を楽しませてくれる。
エロティックで退廃的なシーンは少なく、イタリアマッテオ・ガローネ監督のこだわりと美意識が、いたるところに散りばめられている。


フランス・イタリア合作映画「五日物語―3つの王国と3人の女―」では、17世紀イタリアのバロック様式を再現するにあたって、イタリアを縦断して、歴史遺産ともいえる建物や、おとぎ話そのものの景観での撮影を敢行し、3つの王国の城としてスクリーンにその荘厳な姿を見せている。
ドラマの筋立てについては釈然としない部分もあるのだが、世界遺産にも登録された景観に一歩踏み込むなど、このロケーションの美しさと素晴らしさは必見だろう。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回はロシア映画「神聖なる一族24人の娘たち」を取り上げます。


映画「ジュリエッタ」―死と罪と愛の運命に翻弄された母と娘の物語―

2016-12-09 12:00:01 | 映画


 親子の絆の問題を、正面から取り上げた作品だ。
 原作はノーベル賞作家アリス・マンローの短編集で、その中の3作が再構成され、回想的な形式の見事なミステリーとなった。

 女性讃歌の3部作ともいわれる「オール・アバウト・マイマザー」(1999年「トーク・トゥ・ハー」(2002年)、「ボルベール」(2006年)などで知られる、スペイン名匠ペドロ・アルモドバル監督の作品だ。
 本作では、人間の避けられない運命について、深みのある語り口で、ドラマティックな新作を誕生させた。
 母と娘の相克のドラマを通じて、女性の心の繊細さと奥の深さが濃密に描かれる。








(現在)
スペインのマドリードでひとり暮らし意をしている中年女性ジュリエッタ(エマ・スアレス)は、街角で古い知人の女性ベア(ミシェル・ジェネール)に会い、「イタリアであなたの娘を見た」と告げられる。
ジュリエッタのひとり娘アンティアは、12年前に不可解な失踪を遂げて以来、ずっと音信不通になっていた。
ジュリエッタは行方不明の娘に宛て、自分の半生を回想する手紙を書き始める。

(過去)
30年ほど前に古典の臨時教師をしていた25歳のジュリエッタ(アドリアーナ・ウガルテ)は、ショアン(ダニエル・グラオ)というハンサムな漁師と恋に落ち、結婚して娘アンティアにも恵まれた。
娘が9歳になったとき、夫のショアンは漁に出て嵐に遭い、死んでしまう。
ジュリエッタは、残された娘を唯一の生き甲斐として仲睦まじく暮らしたが、18歳を迎えた娘は瞑想のためのキャンプに出かけて、二度と帰らなかった。
あらゆる手段を尽くしても、娘の居所は解らず、半ば錯乱状態となった彼女に残された生きる道は、娘の存在を無理やり忘れ去ることだった・・・。

(現在)
娘アンティアの元親友であるベアの目撃情報によって、必死に打ち消したはずの娘の記憶がよみがえったジュリエッタは、手紙に過去のすべての真実を記し終える。
そして、出来ることならもう一度、この手で最愛の娘を抱きしめたい。
そんなジュリエッタの切ない願いが通じたかのように、彼女のもとに一通の封書が届く・・・。

ドラマでは、ショアンの住む港町の一軒家での、ショアンの妻と無愛想な家政婦との相克などもあるのだが、それらは簡潔に描かれている。
ジュリエッタが、初めて夫となるべきショアンと出会った列車に出てくる自殺者のエピソードなど、伏線も巧みである。
感覚派のアルモドバルらしく、親子三代の断絶という運命的なドラマで、画面も赤を基調としてくっきりとした色彩設計が冴えている。
母と娘が隠してきた心の闇が、少しずつはがされていく構成、脚本は見事だ。
互いの苦しみに気づいた母と娘が、最後に選択する決断が胸を打つ。
深い余韻をもって・・・。

男女の出会い、母娘の葛藤などのエピソードの断片を運命の糸のように織り込んで、映画は終盤まで一気に見せる。
スペイン映画「ジュリエッタ」は、30年前に夜行列車の中で、漁師のショアンと運命の出会いをした場面から、徐々にそれまでのことが解き明かされていくが、様々なエピソードが目まぐるしく展開する。
映画では、ジュリエッタの心理が巧みに表現されていて、心地よい。

主人公ジュリエッタ役には、アルモドバル監督は二人の女優をはじめて適用している。
スペインの女優エマ・スアレスが“現在”のジュリエッタに扮し、NHKで放送されたTVシリーズ「情熱のシーラ」(2013年~2014年)で脚光を浴びた新進女優アドリアーナ・ウガルテが、“過去”の若き日のジュリエッタを演じている。
彼女たちも、アルモドバル監督の新たなミューズとなるのだろう。
いずれにしても、ミステリアスで女性を輝かせるメロドラマだが、魅惑的な映像世界が楽しい。
        [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回はイタリア・フランス合作映画「五日物語 3つの王国と3人の女」を取り上げます。


映画「手紙は憶えている」―記憶障碍を抱えながら消えることのない戦争の記憶をたどる戦慄の復讐劇―

2016-12-04 17:00:00 | 映画


 戦争が終わって70年たっても、戦禍の記憶は薄れてゆくものではない。
 むしろ、戦争で受けた心の傷は、体験者の中で癒えることはなく、深まっていくもののようだ。
 被害者であっても、加害者であっても、どんなに時を経ようが、戦争は彼らの心の中で続いている。

 これまで「エキゾチカ」(1994年)、「スウィート・ビアアフター」(1997年)などを手がけて、数々の映画賞に輝いた、カナダ異才アトム・エゴヤン監督が現代の倫理を鋭く問いかける。
 主人公の目指す“復讐の旅”は、次々と起こる予測不可能な展開に謎は深まり、驚愕のサスペンスを誕生させた。









ゼヴ・グットマン
(クリストファー・プラマー)が老人ホームで目を覚ますと、隣に妻の姿はなかった。
彼は認知症を患っていて、最愛の妻の死さえも忘れてしまっていた。
葬儀が終わった後で、ゼヴは友人マックス(マーティン・ランドー)から手紙を渡される。
アウシュヴィッツ収容所の生存者であるマックスは、自分たちを苦しめたナチの将校が名前を変えてアメリカに潜伏していることを突き止めたのだ。
その男、ルディ・コランダー(ブルーノ・ガンツ)を見つけ出して殺せと、マックスはゼヴに命じる。

ゼヴは手紙の指示に従って、元ナチ将校の収容所兵士らしき人物を探し出す旅に出る。
記憶が薄れ、犯人探しが空振りするする一方で、ミステリーは深まるばかりだったが、真犯人にたどり着いた瞬間、衝撃の真実が明かされる・・・。

映画はスリリングの連続で、展開から目が離せない。
ゼヴ役のクリストファー・プラマーと、混乱する彼を導き続けるマーティン・ランドーの演技がなかなかだ。
人生の最後に復讐を実行する。
ラストのどんでん返しが凄い。
ゼヴとマックスには、収容所で家族を皆殺しにされたという共通の過去があった。
登場人物たちにとっての戦争は、現在進行形で描かれ、余計な情緒は排され、主人公の旅を時系列で淡々と映し出している。
認知症を患う男の中にも、戦争の記憶だけが確かに息づいているのだ。

脚本のベンジャミン・オーガストの作品構成は、緩急自在の形が巧みで、独創的な観点でいまの時代にナチスによるホロコーストを捉えている点が特徴的だ。
被害者の復讐なのだが、過去の歴史はともかく、いまなお続く戦争に対する狂気や思想を見据えている。
物語には冒頭から終盤まで、緊張感を持たせており、まさにこれこそが“戦争”の今に突きつけた衝撃の刻印だ。
主人公の認知症ということが、大きなキイワードとなっている。
過去を取り戻したい老人の執念は、最終で不可能を実現する。
それはしかし、果たして幸福なことなのか。

主人公ゼヴは、家族殺しに手を下したナチの隊員を4人まで絞り込み、その彼らターゲットをひとりひとり訪ね歩く。
それはまるでロードムービーのようだ。
その報復の旅が終わるとき、このドラマは終わる。
カナダ・ドイツ合作映画「手紙は憶えている」は、第二次世界大戦を現在進行形で描く最後の作品となるのかもしれない。
アトム・エゴヤン監督の言うように・・・。
見応え十分の作品だ。

         [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はスペイン映画「ジュリエッタ」を取り上げます。