チリ出身のアレハンドロ・ホドロフスキー監督の自叙伝的映画は、前作「リアリティのダンス」(2013年)では幼少期を扱っていたが、その続編となるこの作品では、彼自身の青年期の彷徨を描き出している。
それも、多彩で奔放な想像力を見せて、とどまるところを知らないかのようだ。
御年88歳、ホドロフスキー監督恐るべしである。
舞台は第二次世界大戦後の1950年代、チリの首都サンティアゴ・・・。
北部の田舎町トコピージャから、家族で移住したホドロフスキー自身の青年期が描かれる。
主人公アレハンドロ(アダン・ホドロフスキー)の父ハイメ(ブロンティス・ホドロフスキー)は、娼婦や酔っ払いがたむろする下町に居を構える。
独裁的に振る舞う父に反抗して、アレハンドロは母の実家に行き、従兄のリッカルドと意気投合し、芸術家志望の仲間たちと勝手気ままな生活を謳歌していた。
そんな折り、真っ赤な髪の豊満な女詩人ステラ(パメラ・フローレンス)と出会い、詩と酒と愛欲の日々に溺れる。
だが、リカルドが親との対立で首つり自殺したことから、真剣に生きることを決意し、詩人エンリケ(レアンドロ・ターブ)との友情を育む。
しかし、エンリケの恋人と関係したことに罪悪感を抱き、サーカスの道化師となって自分の人生を笑いの中で見世物に仕立て上げる。
そして、実家が火事で焼けたことを機に父との関係を清算し、ホドロフスキーはパリへ旅立とうとする・・・。
現実をもとにしていながら、自由な空想で彩り、精神的自叙伝を作り上げており、まあ何とも破天荒、どぎつさにエロスと血の刺激に満ちている。
サーカスとか人形劇といった、大衆的舞台芸能への嗜好もたっぷりと、ホドロフスキー的なテーマはてんこ盛りいっぱいだ。
詩人になることを夢見るアレハンドロだが、権威主義的な父ハイメとは進路をめぐって対立する。
のちに世界的な詩人となるエンリケ・リンなど若い芸術家たちと交流を深めるうちに、父から押し付けられる堅実な生き方という呪縛からも解放され、詩人への道を歩み出そうとする・・・。
極彩色な映像やクラシック音楽を意識し、自分の過去を幻想的に演出し、現在から過去を楽しく生きなおしたような長編映画だ。
現実が幻想と絡み合い、両者の突飛な世界観をたっぷりと、これでもかという風に、面白く見せつけようとする。
まさに、想像が想像を招く、極彩色のスペクタクルへの連打といった感じで、瑞々しさにあふれており、時空を超えた詩人の青春を描き切っている。
その世界は決して楽園のようなものではないから、どこかでいつも、生と死はせめぎ合いを演じている。
矛盾や錯誤も多分にはらみ、それでいて新しい現実を創造し続けようとする、意気込みだけは血気盛んだ。
この種の自伝的映画3作、4作も、ホドロフスキー監督の脳裡にはもう浮かんでいるようだ。
年をとっても生きることを全肯定する、特異な〈魔法〉に満ちた映画の制作欲は、まだまだ進化し続くのか。
これというルールのない、奇妙奇天烈に展開するマジックリアリズムの世界が全編を覆っている。
この作品で主役ホドロフスキーを演じているのは、ホドロフスキー自身の4男アダン・ホドロフスキーだ。
フランス・チリ・日本合作映画、アレハンドロ・ホドロフスキー監督の「エンドレス・ポエトリー」は、自由な詩人への道を歩む主人公を描いて尽きない。
映画の好き嫌いが、はっきり分かれるような作品でもあるだろう。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回は日本映画「最 低」を取り上げます。
秋は一段と深まりを見せ始めている。
暦の上では立冬も過ぎて、早くも冬将軍が駆け下りてこようとしている。
映画は、ファッションデザイナーとしても活躍中の、「シングルマン」 (2007年)のトム・フォード監督の最新作である。
ヴェネチア国際映画祭で審査員グランプリに輝いた、フォード監督独特の美学に貫かれた、甘美だが残酷な物語だ。
タイトルの邦訳は「夜の獣たち」で、闇の中をうごめくぞっとするような展開が続き、なかなかスクリーンから目が離せない。
上映時間1時間56分は、あっという間である。
色彩や視覚効果に工夫が凝らされていて、観るものを物語の中に引きずり込んでいく。
愛の不確かさとか人間の愚かさを突きつけるドラマが展開し、劇中で小説を映像化したり、芸中劇がモザイク模様のように絡み合って少し難解な部分もある。
緊張感の溢れた心理ミステリーで、映画内小説と過去と現在が交叉する複雑な物語が紡がれる。
裸体の肥満女性が、恍惚の表情で誘いかけるように踊っている。
欲望で肥大化した、アメリカの隠喩のようだ・・・。
アートギャラリーのオーナーで、スーザン(エイミー・アダムス)は夫とともに裕福な暮らしを送っているが、精神的には満たされていなかった。
ある週末、20年前に離婚した元夫のエドワード(ジェイク・ギレンホール)から、彼の書いた小説「夜の獣たち」の原稿が送られてくる。
彼女に捧げられたその小説は、暴力的で、衝撃的な力強さがあり、スーザンは読んでいるうちにぐんぐん引き込まれていった。
原稿を読むスーザンは、エドワードとの別れを思い出し、彼女の回想シーンが重なり、エドワードの小説を映像にした劇中劇が入れ子構造の小説世界となって、並走を始めるのだった。
元夫の小説の中に、それまで触れたことのない非凡な才能を読み取ったスーザンは、エドワードと再会を望むようになる。
エドワードは、何故小説を送ってきたのか。
それは、まだ残る愛なのか。
いや、それとも復讐だったのか・・・。
肥満の女性が、半裸で踊る冒頭のシーから度肝を抜かれる。
赤いソファに横たわる全裸の女性死体をはじめ、ちょっと悪趣味ではないかと思われるような映像が・・・。
これは、虚飾に満ちた現代アート界への何らかの警鐘か。
スケールは大きいとは言えない、古典的なメロドラマのような作品なのに、一瞬も飽きさせないところに感心する。
これはまた、監督の恐るべき手腕だろうか。
エドワードから届いた小包を開くとき、スーザが紙の端で指を切る場面がある。
ここは、その中の小説でやがて彼女に牙をむくものであることが暗示されている。
彼女が愛用する黒いドレスは、地位とプライドを失うまいとする女の防御心の表れだ。
様々なショットが強く訴え続けるヴィヂュアュアルで、衣装の装飾にひとつひとつのメッセージが込められているかのようだ。
元夫のエドワードの小説は、復讐劇で、それはスーザンにとって戦慄的なもので、悪夢のような虚構が彼女を惑わせ、苦しませ、恍惚と官能を呼び覚まし、愛の記憶にのたうち回るヒロインと化していくかのようだ。
現在のスーザンの虚ろな姿、元夫エドワードとの過去、エドワードの書いた小説世界(中味再生パート)は、暴力的なミステリーを漂わせている。
この劇中劇の主人公であるトニーと著者のエドワードは、ジェイク・ギレンホールの一人二役で、トニーの妻をアダムスによく似た女優のアイラ・フィッシャーが演じている。
こうしてみるとキャスティングは絶妙だが、現実と虚構の境界線があいまいになる。
観客は、ここは自然に身を任せるしかないだろう。
トム・フォード監督のアメリカ映画「ノクターナル・アニマルズ」は、一見、謎解きには難解な要素もあり、観る者の潜在意識に負うところの多い、非常に珍しい作品だ。
映画は全編にわたって、緻密に構成された繊細な世界観に満ちている。
背筋がぞくぞくするような作品だが、スタイリッシュな余韻がいまでも静かに残っている。
芸術性は思ったよりも豊かだ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回はフランス・チリ・日本合作映画「エンドレス・ポエトリー」を取り上げます。
芸術の秋、美術の秋、読書の秋である。
家庭が貧しく、中学にも進学できなかった山本周五郎は、すぐ隣に住んでいた人の勧めがあって、木挽町(現・銀座7丁目)の質店きねや(山本周五郎商店)の住込み店員となった。
大正5年、周五郎を名乗る前のまだ本名三十六の時だった。
店主は山本周五郎と名乗り、文学を志向する周五郎を物心両面にわたって支え、周五郎もまた彼を実の父親以上に敬愛したそうだ。
そのきねやは関東大震災で焼失、休業となり、質店の奉公を終えて独立した周五郎は、いよいよ文学で身を立てる決心をしたといわれる。
作家山本周五郎展が、今月26日(日)まで神奈川近代文学館で開かれている。
彼は、「小説にはよき小説とよくない小説があるだけだ」という信念のもと、あらゆる賞を拒んで、読者のため「よき小説」を書くことのみ生涯を捧げた。
「樅の樹は残った」(1959年)の毎日出版文学賞を辞退し、「青べか物語」(1961年)の文芸春秋読者賞に 選ばれて辞退しており、昭和18年直木賞も辞退している。
作家山本周五郎展では、市井の人々のささやかな営み、それぞれの人生をひたむきに生きる姿を鮮やかに描き出している。
彼の人間の心の動きを追求する作品は、今も世代を超えて愛されている。
いまもテレビや映画でよく観られるではないか。
彼は、横浜を自分の第二の故郷と呼んで愛したそうだ。
昭和38年頃、現在はなくなった伊勢佐木町の日活シネマで、大人270円を払って映画のチケットを買う周五郎の写真がいい。
11月12日(日)には五代路子(女優)、11月28日(土)には戌井昭人(作家・俳優)両氏の朗読とトークなども予定されている。
また晩年に完成させることのできなかった、未完の「註文の婿」など、未発表作品200字詰めの原稿用紙44枚の原稿も新しく発見され、公開されている。
山本周五郎は、1930年当時看護婦をしていた土生きよえと結婚するが、彼女は戦争末期すい臓がんでこの世を去る。
二男二女がいたが、周五郎の落胆ははかり知れなかった。
その後、近所に住む吉村きんと再婚し、新たな出発をする。
このあと、一家の横浜本牧暮らしが始まったようだ。
この思慮深く、しんの強いきよえ、大らかで天真爛漫のきん、二人の良き妻に支えられて、周五郎自身の人間味あふれる作品の登場人物として反映されていくのだ。
この二人の女性の存在は、周五郎の作品に存在する大輪のようなものとなった。
「・・・いま一と言だけ申し上げます、それは・・・この世には御定法では罰することのできない罰がある、ということでございます。」(「五瓣の椿」より)
この山本周五郎展観は、彼の透徹した人間を凝視する目を培った、人生体験を知るよき機会ともなった。
次回はアメリカ映画「ノクターナル・アニマルズ」を取り上げます。