徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「柘榴坂の仇討」―たとえ時代は変わろうとも忠と義に生きた侍の美学―

2014-09-30 12:00:00 | 映画


 時代遅れと笑われても、「忠」と「義」に殉じる男の物語である。
 武士の時代が終わろうとしている時代の、歴史の変革期を描いて見応えのある一作だ。
 浅田次郎の原作を得て、「沈まぬ太陽」「ホワイトアウト」若松節朗監督が映画化した。

 時代劇不振の中にあって、日本人として生き方が見えにくくなっている時代、150年前の激動の時代を描くことで、人々の生き方とその矜持について、人間主義を貫く新しい時代劇の登場だ。
 京都時代劇の力量にも見るべきものがあり、武士の美学を誇り高く描いている。
 武士は、どうしてここまで強くなれたのだろうか。









安政7年(1860年)3月3日、開国を唱えて攘夷派を弾圧する大老井伊直弼(中村吉右衛門)は、幕政に反発する水戸藩士らに暗殺される。

桜田門外の変である。
これは、その時に大老警護の要職にありながら、ただ一人生き残った彦根藩士志村金吾(中井貴一)の物語だ。
金吾は、刺客の一人を深追いして不覚にも大老の傍から離れ、主君を守りきることができなかった。
それは、悔やんでも悔やみきれぬことだったが、切腹さえも許されなかった金吾に、主君の仇を討てとの藩命が下される。

明治の世になって、時代は大きく変わろうとしていた。
それでも金吾は、武士としての矜持を失わなかった。
妻セツ(広末涼子)の内助を得て、敵を探索する日々が続く。
一方、水戸藩士の佐橋十兵衛(阿部寛)は、井伊直助殺害後、人力車夫に身をやつし、孤独の中にひっそりと生きていた。

・・・そうして時は流れ、明治6年2月7日、皮肉にも新政府によって仇討禁止令が布告される。
彦根藩もすでになく、桜田門外の変から13年後、金吾はついに佐橋十兵衛を探し出した。
直吉と名を変えた十兵衛の引く人力車は、金吾を乗せて柘榴坂に向かっていた。
そして、運命の二人は13年の時を超え、ついにに刀を交えることに・・・。

あれから13年後の雪の柘榴坂、二人の男の対峙する静かなクライマックスだ。
二人の男は、時代が大きく動いているのに、まるで時が止まったかのように生きている。
敵同士でも、時代に取り残された不器用な彼らが、雪の中で向き合うシーンがいい。
ことさらに派手な殺陣もなく、激しい復讐劇があるわけでもない。
日本人の情の深さと、美徳を表面に浮かび上がらせ、金吾にとっては温かい人柄だった主君の思い出を胸に、ひとりの敵を追いかけ、その陰には多くを語らずそっと寄り添う妻の姿が・・・。

生か死か。
13年という歳月は長く、重い。
妻を働かせて自分は生き延びようする恥を背負いながら、生と死を煩悶する。
金吾の揺れる気持ちは、十兵衛の人力車に乗る時の、彼の複雑な表情に現れている。
彼は仇を討つために車に乗りこんだのだが、十兵衛と言葉を交わすうちに、死にたいと思いつつも懸命に生きてきた者同士の共感のようなものが生まれる。
決して殺意を失っているのではなく・・・。
悩みながらも朴訥に生きる金吾に、人間らしさ、いやむしろ人間臭さが感じられる。

大老役の中村吉右衛門の風格ある演技もいいが、金吾が十兵衛に言うセリフに出てくる、雪をかぶった垣根越しに見える真紅の寒椿が、とても象徴的で印象的である。
元武士で、司法省警部役を飄々と演じる藤竜也ら、わき役陣もそろっている。
この時代劇では、とりわけ人物のセリフとセリフの間合いの取り方が実にうまいと感じ入った。

江戸から明治へ移りゆく時代を背景に、人々に洋服が目立つ中、髷に二本差し、袴姿の金吾がさまようさまに、ひたすら生きようとする男のどうしようもない寂寥感がにじむ。
小説は文庫本で40ページほどだ。
映画は脚色の部分もあって、金吾役の中井貴一は髷を落としていないが、小説ではざん切り頭だ。

若松節朗監督「柘榴坂の仇討」は、やや控えめの端正な語り口が、作品をきりりとしたものに仕上げている。
原作者の浅田次郎が、お茶屋の主人役でちらっと出演している。
忠と義に生きた武士の美学を描いた、好感のもてる日本映画の佳作だ。
上映時間1時間59分。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)


映画「海を感じる時」―愛を知らぬ少女の「女」への痛ましき目覚め―

2014-09-24 13:00:00 | 映画


 1970年代後半、まだ高校在学中に中沢けいが書いた、衝撃の純文学作品が映画化された。
 この小説は「群像」新人賞受賞、当時は一躍話題となり、凄まじい反響を巻き起こした。
 一人の少女から大人の女性へと成長していく、繊細な内面を精緻な描写で抉り、女と男、家族とのつながりを豊かな感性で綴った普遍的な作品として、高い評価を得た。
 その18歳の女子高生が文壇を揺るがしたこの作品を、荒井晴彦の脚本を得て、映画は清々しくも濃密な男女像を描き出していく。

 安藤尋監督は、70年代後半という中途半端な時代の空気を、敢えて現代という設定に置き換えず、当時のままとした。
 それは、まだ微温的で因習的な、男性中心主義的な社会という意識があったからだろう。
 自由な生き方を模索する、ヒロインの焦燥といったものが物語の主調をなしており、男に寄り添っては傷つく女の中で、やがて本当の「女」が目覚めていく姿を、濃密な心理描写で描いて見せるのだ。



恵美子(市川由衣)は、洋(池松壮亮)と高校の新聞部で出会った。

授業をさぼって、部室で暇つぶしをしていた恵美子は、先輩で3年生の洋と顔を合わせた。
そこで、洋はいきなり恵美子にキスを迫り、自分は君が好きなんじゃない、ただキスがしてみたいだけだ、あくまでも女性の身体に興味があっただけで、何も君でなくてもよかったんだと、言い放った。
しかし、恵美子は衝動的に体を預けることになり、次第に洋の正直な態度に惹かれ、すべてを許していく。
だが、洋はそんな恵美子を避けるようになり、恵美子は執拗に追いかける。

幼い頃に父親を亡くし、母親(中村久美)に厳格に育てられ、愛を知らずに育った恵美子は、それでも洋を求め続け、会うたびに自分の体を差し出すのだった。
そんな関係に寂しさを募らせながらも、次第に「女」として目覚めていく自分に恵美子は気づき始める。
・・・月日は流れ、洋は進学のため上京し、恵美子も洋の近くに居たい一心で、東京の花屋で働いていた。
恵美子はどんな形でもいから、洋に必要とされたいと願いながら、彼に寄り添っては傷つき、反発し、求めていくのだったが・・・。

満たされない一途な想いと、むき出しの欲望、もがき苦しみながらもつながっていく、不安定な二人の姿をが描かれる。
立場が逆転した男女の、過去と現在が交互に描かれるが、恋愛というのはいつでも身勝手なものだし、それはいつの時代も変わるものではない。
この作品の中の二人も、それぞれ自由に生きている。
無気力な高校生らと、世俗的なモラルにこだわり続ける母親、自分を束縛するようになった男・・・、そういった世界に対する少女の反発がある。

原作者の作家中沢けいは、いまは法政大学文学部教授で、36年前に刊行されベストセラーとなった原作小説が、いま映画化されることに感慨深いものがあるだろう。
脚本も映画化を待って長いこと眠っていたわけで、ようやく作品が日の目を見ることができたというわけだ。
36年前と今とは、若者たちの性意識もかなりの温度差があるだろうし、女子高生の制服の長いスカート、家庭におかれていた足踏みミシン、女性の下着姿、古い木造アパートも妙に懐かしい。

若手実力派の池松壮亮と、静謐ながらも激しい濡れ場に果敢に挑戦した市川由衣の熱演に、新鮮な驚きを感じる。
難を言えば、役柄もあるが池松はセリフがあまりこなれていない感じで物足りないし、母親役の中村久美のヒステリックは吠えすぎて芝居が過ぎて浮いている感じも・・・。
70年代だから(?)こんなものか。そうではあるまい。

安藤尋監督映画「海を感じる時」は、荒井晴彦(「映画芸術」編集長)の脚本による力も大きいし、映画的な撮り方も、カットを割らなくても場面が持つというように、その場の空気や匂いを繊細にとらえる感覚が功を奏していると言えそうだ。
蛇足ながら、認識不足だったが、女優人生で自身の殻を打ち破って濡れ場を演じた28歳の市川由衣は、デビューして15年、単独映画主役は8年ぶりになるとは知らなかった。
結構な芸歴なのに、器用でなかった自分を振り返る彼女の体当たりの演技は、大きな成長を物語るものだろう。

全編に流れる主題は、心満たされぬ不条理な愛である

70年代を舞台にしているので、あるいは心が折れるかもしれないが、古めかしさには目をつぶるほかない。
大胆なラブシーンが多いが、二人の心情を繊細に活写している。
ヒロインが朝の浜辺で、白い波頭の海と向かい合うラストシーンがいい。

     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

   
   * * * * 追 記(朗報) * * * *

河瀬直美監督「2つ目の窓」吉永淳が、サハリン国際映画祭主演女優賞に輝いたのに続いて、またロシアのウラジオストク国際映画祭でも、この作品がグランプリ受賞しました。
快挙です。
河瀬監督作品、海外での評価がやはり高いですね。



映画「グレート・ビューティー 追憶のローマ」―人生の黄昏に倦怠と退廃を映し出す虚飾の美学―

2014-09-23 02:30:00 | 映画


 まだ四十代ながら、21世紀のイタリアの才人といわれるパオロ・ソレンティーノ監督が、現代ローマの活気と退廃を魅力たっぷりに描いた、大人の映画だ。
 人々の憧れ、興味をひきつけてやまない永遠の都ローマ・・・。

 歴史と流行、聖なるものと俗っぽさが同居し、華麗な映像と含蓄に富んだ精神的な会話が全編を彩る。
 半世紀以上前に発表された、フェリーニ監督傑作「甘い生活」を髣髴とさせる。
 起承転結にこだわらない、脈絡のない物語はきわめて観念的であり、それゆえに新鮮さも感じられる一篇ではあるのだけれど・・・。
 そうなのだ。明確な物語がこの作品には存在しない。
 アカデミー賞最優秀外国語映画賞を、受賞した作品だ。





ローマで暮らすジェップ・ガンバルデッラ(トニ・セルヴィッロ)は、セレブでお洒落な初老の小説家だ。

四十年前に書いた作品は高い評価を受けたが、その後は筆を折り、雑誌の依頼と著名人のインタビューなどをこなしている。
65歳のいまも、夜ごとパーティーに繰り出し、美食と議論を楽しみ、お持ち帰りする女性には事欠かない。
だが、人生の残り時間の少ないことを自覚するにつけ、冨と名声を手に入れながらも、見栄と虚栄だらけの社交界にうんざりし、余生の行方を見定められずにいた。

生活に虚しさを覚えていたそんなジェップのもとに、長い間思い続けてきた、初恋の女性エリーザの突然の訃報が知らされる。
ジェップは、1970年夏のエリーザとの思い出にふける一方で、さらに深く夜の喧騒に身を委ねていく。
そして、さらにジェップに訪れる様々な別れと出会い・・・。
彼は、長い間中断していた作家活動の再会を決意するのだったが・・・。

人世の黄昏を迎えて、主人公はこれから先どう生きるべきかと自問する。
迷える男の悲哀、映画の舞台となる永遠の都ローマの退廃と美しさ、そしてウィットに富んだ会話の絶妙なアクセントが混然一体となって、一見クールなジェップの心理描写とともに、主人公の魂の彷徨が語り綴られていく。
主人公の観念と精神のドラマは、インパクトが弱く、何よりも想像力までどうかすると萎えてしまう始末で・・・、その一方でローマのテヴェレ川や名だたる教会、博物館などの美しい風物が楽しませてくれる。

冒頭のシーンから、観光ガイドの説明に耳を傾ける日本人団体、夜を徹してクラブで踊り狂う金持ちたち、抽象的な議論に夢中なインテリ、芸術ぶったパフォーマンスを演じる(?)アーティストと、雑然としたコンセプトアートを断片のように散りばめて、これらの映像と音楽のシャワーを、観る者はいやがうえにも浴び続けなければならない。
もうそのこと自体、現代に生きることの虚しささえ覚えられて・・・。

パオロ・ソレンティーノ監督イタリア・フランス合作映画「グレート・ビューティー 追憶のローマ」を観て、結局のところ、偽りの美とともに偽りの人生を生きてきた男の人生を振り返ることに、本物の人生なんてどこにもないのだという虚しい諦念すら感じ、人間誰しもが老いてのちの「生と死」についてあらためて再認識させられる。
映画はテンポよく、現代の虚しさといったものを感性に訴えてくる。
夜明けの川面をカメラが静かに移動していくラストシーン、永遠の都で永遠が続くことを祈るかのような幕切れである。
まず、どっしりと腰を落ち着けて観るべき作品かも知れないが、物語としての体をなさず(?!)、とりとめもなくまとまりもないのでは、散逸してしまった作家の原稿より始末が悪いようで・・・。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点

     
     **** 追 記(朗 報) ****


すでに報じられている通り、河瀬直美監督作品「2つ目の窓」吉永淳が、このほどロシアで開催された第4回サハリン国際映画祭で、主演女優賞受賞しました。
彼女のあのみずみずしい清冽な演技が、高い評価を受けたのではないでしょうか。

どうも河瀬作品は、国内より外国での人気がかなり高いようです。
結構なことではありませんか。



映画「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」―俗塵から隔絶された世界―

2014-09-19 12:00:00 | 映画


 音がないから、聴こえてくるものがある。
 言葉がないから、見えてくるものがある。
 ・・・俗塵から隔絶された、沈思黙考の世界である。

 フランスアルプス山脈に立つグランド・シャルトルーズ修道院で、日々祈りを捧げる修道士たちの生活を追った、異色のドキュメンタリーだ。
 1984年に設立され、カトリック教会の中でも、厳しい戒律で知られるカルトジオ会の男子修道院で、ドイツ人のフィリップ・グレーニング監督は、撮影を申し込んで16年後にひとりだけならとやっと許可がおり、監督自身、半年間修道士たちと共同生活を送りながらカメラを回し続けたそうだ。
 映画を観ているうちに、自分がカメラとともに、修道院の中をゆっくりと移動しているような感じにとらわれる。






毎日数回の祈り、自給自足の清貧生活など、日々の営みを淡々と映している。

照明なし、音楽もナレーションも排した映像には、わかり難さもある。
フィリップ・グレーニング監督はたった一人でカメラを抱え、2002年から03年にかけて、修道士たちとともに過ごし、その暮らしを記録した。
映画は2005年に完成、日本公開はそれから9年後に実現した。

冬から春へ、緩やかにめぐる季節、繰り返される祈りと務め、修道士たちの澄んだ眼差し、空の映す青の色、雲、降りしきる雪、火、明かり・・・。
質素な家具にさしこむ日の光、訪れる人、去りゆく人、生と死、闇と影、蝋燭の灯、星と月、太陽、風に揺れる木々、水、水滴、清冽な川の流れ、日の温もり、労働と休息、聖なる言葉、鐘の音、遥かなる山々・・・。
この作品は、修道院を撮影したというより、映像が修道院そのものになったと言える。

修道士たちは、聖歌を歌ってミサをあげるほか、日課はひとりで行う。
水をくむ。薪を割る。僧衣を縫う。
独房で食事し、深夜も祈り続け、私語は一切禁じられている。
上映時間2時間49分、静寂な時間の中で、雨の音や息づかいまで拾って、静謐な問いかけが続く。
彼らが会話するのは、日曜日の昼食後の散歩の時だけだ。
修道士の平日は、深夜23時30分起床、祈祷と学習と瞑想を繰り返し、19時30分に就寝する。
勿論、テレビもラジオもない。
一日の大半をそれぞれの房で過ごし、たいていの場合、修道士は65年間をここで過ごすのだ。
来る日も来る日も、同じ儀式が繰り返される

今日の社会のように、かたちや結果に価値をおくのではなく、内なる精神に意味を求める日々は、沈黙に満ちている。
このフランス・ドイツ・スイス合作映画「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」は、進歩、発展をとげるテクロノジーのもとで道を見失った、現代社会に対する痛烈な批判と、今日の物質文明を原点から見なおそうとする想いを根底に感じさせる。
深い瞑想のような、映画である。

大いなる沈黙は、大いなる警鐘だ。
退屈に失望するか。
偉大なる沈黙に身をゆだねるか。
この作品の2時間49分に、あなたは耐えられるだろうか。
耐えられれば、それはかけがえのない経験となるに違いない。

四季折々の、自然に包まれた光景が美しい。
このドキュメンタリーの最後、盲目となった老修道士の言葉が響いてくる。
・・・「何が起きようとも、心配することはないんだよ。起きることはすべて、私たちの幸せのためなんだ。私は盲目になったことを、よく神さまに感謝する。死は、何も怖いことはないんだよ」・・・。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「めぐり逢わせのお弁当」―二人の大人の男女の心の揺らぎを巧みに―

2014-09-15 16:00:00 | 映画


季節の移ろいは早いもので、晩夏から秋へ。
風爽やかに、雲白く、紅葉が始まっている。

とはいえ、いまインド映画がが熱い。
インド映画というと歌と踊りということになりがちだが、ここに描かれるのは、それを封印し、市井の人々の機微を綴った人情噺だ。
ムンバイ名物の弁当配達を題材に、大人の男女の触れ合いを、しっとりと細やかに描いた作品だ。

リテーシュ・バトラ監督は、言葉も国境も越えた男女の気持ちの揺らぎを、丁寧に描写している。
登場人物たちがムンバイの雰囲気によく溶け込んでおり、どこにでもありそうな普通の光景の中で、心温まる情景を作り出している。
表現も平明でわかりやすく、男女の心理の機微を繊細にうまくとらえている。
偶然の接点から、ほのかな感情を抱く男と女がお互いの顔を知らない。
なかなか出会うことができないあたりは、擦れ違いのメロドラマを髣髴とさせる。
哀歓とともにユーモアもあって、結構楽しめる作品だ。






お昼時になると、インドのムンバイではダッパーワーラー(弁当配達人)が、オフィス街で慌ただしくお弁当を配って歩く。

その中のひとつ、主婦イラ(ニムラト・カウル)が、冷え切った夫との愛情を取り戻すために腕を振るった、4段重ねのお弁当が、何故か早期退職を控えた男やもめのサージャン(イルファーン・カーン)のもとに届けられた。
この偶然の誤配達が、孤独な男と女をめぐり逢わせる。

イラは、空っぽになって返ってきたお弁当箱に歓び、サージャンはとびきりおいしいこの手料理に驚きを覚える。
だが、イラの夫の反応はいつもと変わらず、不審に思ったイラは、翌日のお弁当に手紙をしのばせたのだった。
そして、次の日もまた次の日も、誤配送が続き、イラは間もなく間違いに気づくのだが、残さず帰ってくる弁当箱と、毎日添えられてくるサージャンの手紙が妙に嬉しい。
こうして、二人の弁当文通が続くうちに、イラはサージャンに愛情を抱くようになる。
まだ、お互いに逢いまみえぬ男女が、一緒に逃避行することまで夢見るようになって・・・。

いやいや、弁当もドラマも何と温かいことだろう。
弁当の誤配達で始まる文通から、お互いに不思議なときめきを覚える時の表情が、どちらも実にリアルでほのぼのとする。
見知らぬ二人の心が手紙で結びつくというのは、ロマンティックドラマの王道だし、メールやSNSが当たり前の現代では、郷愁めいた奥ゆかしさも感じられてよいものだ。
弁当が届き、返され、その繰り返しの中での何とも言えない焦燥感が、じんわりと伝わってくる。
ラストはどうなるのだろうかと気をもませりあたり、なかなかの演出だ。

二人の俳優も演技派で、自分たちの気持ちの揺らぎを的確にナイーブに演じている。
男優のイルファーン・カーンは、言葉少なだが表情が上手い。
女優のニムラト・カウルは熟年の美しさがあり、目や身体に感情を込めるのが上手く、男のものを洗濯する中で夫に女がいることを知る場面をはじめ、絶妙な表情を見せる。
ひとつのショットをじっくり撮っているところなど、バトラ監督が少なからず小津安二郎の影響を受けているであろうことは、察しが付く。
リテーシュ・バトラ監督インド・フランス・ドイツ合作映画「めぐり逢わせのお弁当」は、男女の感情のひだを巧みにすくい取って、よくできた作品といえる。
まあ、この映画に見るような、奇跡の偶然性なんて滅多にないことだが、そこがドラマだ。(笑)
人情噺でいいではないか。
お弁当から生まれた、詩的で情感あふれる物語だ。
英題は「THE LUNCHBOX」だが、この邦訳のタイトルはいかがなものか。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「祖谷物語~おくのひと~」―日本の原風景の中に自然と人間の共生を見つめる―

2014-09-14 20:45:00 | 映画


 日本最後の桃源郷「祖谷(いや)」が舞台である。
 標高1000メートル級の山々と断崖と絶壁の峡谷で、蔦哲一郎監督は、美しくも厳しい大地に根を下ろし、時代に翻弄されながら逞しく生きる人々の営みを見つめる。
 現代社会が見失って久しい、本当の豊かさを見出そうと・・・。
 1984年生まれの蔦監督は、池田高校野球部を率いて甲子園を3度制した、蔦文也監督の孫にあたる。

 夏、秋、冬、春と移りゆく山々を背景に、人と獣と神々(自然)の夢幻的映像を、35ミリフィルムに丹念に綴った。
 デジタル映像では表せない、温もりや風の動きまでもが感じられる情景にこだわったからである。








お爺(田中泯)は、人里離れた秘境祖谷と呼ばれるこの地で、長い間暮らしていた。

ある日、冬山から下りてくると、谷に落ちた車から煙が立ち上り、都会の男女らしき二つの躯(むくろ)が転がっていた。
そしてその先には、まだ歩くこともできない赤ん坊の春菜がひとり、雪の上に横たわっていたのだった。

・・・それから17年後、春菜(武田梨奈)は18歳になり、山奥から麓にある小さな学校に通いながら、お爺と二人でひっそりと暮らしていた。
夏、ボンネットバスに乗って、東京から青年・工藤(大西信満)がやってくる。
自然豊かなこの田舎村で、工藤は自給自足の生活を始めようとしていた。
ところが、一見平和なこの村では、地元の土建業者と自然保護団体との対立や、鹿や猪といった‘害獣’から畑を守ろうとする人々と獣の戦いなど、様々な問題が起こっていた・・・。

過疎の村、荒れた古里・・・、そこに住み、暮らす人々の心は病んでいくが、彼らの心を再生することはできるのだろうか。
都会からこの地を訪れた工藤は、お爺と春菜に会い、電気もガスもなくものもほとんどない質素な家の生活を体験する。
そこは時間が止まっているかのようだ。
時代から取り残されたような生活に、工藤の心はゆっくりと浄化されていくのだったが・・・。

淡々として長い物語が、ゆっくりと綴られる。
都会主義なるもの、資本主義なるものに抑えつけられているような日本の田舎の景色の中で、過去の幻影と向き合うとき、蔦監督の愚直なまでの自然と人間の桎梏へのこだわりを、感じ取ることができる。
美しい四季を通じての祖谷の映像は、素晴らしいの一言につき、35ミリフィルムによる撮影に執念がこもっている。

蔦哲一郎監督による「祖谷物語~おくのひと~」は、上映時間2時間49分と長い。
月明かりの下、祖谷中の案山子たちがゆっくりと動き出し、ボンネットバスに乗ってトンネルの中に消えてゆくシーンなど、幻想的な映像も素直に観ていられる。
主人公春菜は故郷を出て東京で暮らし、数年後再び祖谷の里へと戻ってくると、いまだにこの村での暮らしをあきらめるでもなく、黙々と畑を耕し続ける工藤の姿があった。
そのシーンから次第にカメラは遠ざかりつつ、この映画は終わる。
この工藤のそれまでの生き様、春菜の都会での生活、これからどう生きていくのか、これだけ長時間の物語なのだから、もう少し詳しい描写と説明があってもよかったのではないか。

ラストシーン近く、「殯の森」(カンヌ国際映画祭グランプリ受賞)で今や世界的に有名となったあの河瀬直美監自身が、何と出演者として登場しているではないか。
まずは自主製作映画ながら、資金調達から脚本、編集まで一手にこなし、故郷徳島の秘境に挑んだこの作品で商業映画のデビューを飾った、蔦哲一郎監督の今後に大いに期待したい。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち」―粗筋のないモザイク模様の都市の断片―

2014-09-09 11:00:00 | 映画


 大都市ローマの、幹線道路沿いに暮らす人々の日常を点描する、ドキュメンタリーである。
 車から見えない都市の、ひそやかな息づかいが生む叙情は、硬質なものだ。
 カ メラはひたすら観察に徹し、この映画にはナレーションもない。

 ジャンフランコ・ロージ監督は、撮影対象を決めてカメラを回すまで1年半をかけ、半年で撮影したそうだ。
 台本もテーマも用意せず、名もない人々の人生の断章を切り取って見せる。
 映画は脈絡のない詩のようだが、その風景の中に、生活する人々の喜び、怒り、悲しみ、そして夢が見えてくる・・・。
 ここに描かれているのは、‘観光都市’ローマではない。
 ジャンフランコ・ロージ監督は、ときに沿線の住民たちと暮らしながら、カメラを回した。





ヤシの木を食べる害虫を防ぐことを研究する、植物学者がいる。

資産家を装う没落家族がいる。
世間話から高尚な話まで、とりとめなく語り合う老紳士と娘がいる。
環状線を巡回する、救急隊員がいる。
漁業政策に文句をつけながら、ボートでウナギを捕まえる漁師がいる。

これらの映像も、登場人物の間につながりがあるわけではない。
全編を貫くストーリーがあるわけでもない。
それらの間に、道路近くで草をはむ羊の群れや、路側帯で空の写真を撮る修道士などの映像が、ふいに挟み込まれる。
こうしたスクリーンに、戸惑いを感じる。
特別なことは何も起こらないからだ。

そこに人はいるけれど、何故いるかは示されない。
解釈される自由は、観客に委ねられる。
それぞれの場面が、環状線のどのあたりなのか、説明もないしわからない。
他愛のないおしゃべりや独り言の連続に、もどかしさも感じる。
イタリア・フランス合作映画「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち」は、登場人物たちのそれぞれの生態は興味深いものもあるが、モザイク的な編集方法や雑駁な構成には疑問と物足りなさが残る。
そもそも、まとまりに欠けた映像をもともと集めた作品なだけに、もっと上手いまとめ方があってよいのではないか。
ドキュメンタリーとしては、従来の映画の文法にとらわれない革新性が、感じられないことはないが・・・。
ヴェネチア国際映画祭では、金獅子賞受賞した作品だ。    
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「収容病棟」―正常と狂気の狭間で社会から隔絶された日常を生きる人たち―

2014-09-05 13:00:00 | 映画


 現代の中国では、精神病患者が1億人を超えたといわれる。
 「無言歌」2010年)「三姉妹~雲南の子~」(2012年)などの秀作を生んだワン・ビン監督が、中国雲南省にある閉鎖病棟に収容された患者を、3カ月にわたって記録したドキュメンタリーである。

 ワン・ビン監督は患者に寄り添うように、自分でカメラを操作しながら、被写体と約2メートルの距離を寡黙に保ち続ける。
 全編と後編合わせて4時間近く、驚くほど多彩な人間模様が映し出される。
 暗い鉄格子で仕切られた空間に入り込み、生々しい日常生活の繰り返しを、丹念に追っていく。
 厳しく重いトーンだが、それでも観ているものには、強烈な力で胸に迫ってくる作品だ。







患者たたちの年齢も収容年数もまちまちで、病状も多彩だ。

中庭を囲む回廊に、部屋が並んでいる。
三階らしいが、回廊に張り巡らされた鉄格子で下の方は見えない。
患者の服装も様々で、収容年数20年を超える者もいる。
名前は記されているが、病名は記されていない。

回廊を走るのを日課とし、兄が迎えに来るといって叫ぶ青年がいる。
食べ物に異常な執着を持つ、中年男がいる。
しきりに注射をねだる十代の少年がいる。
スリッパで壁をたたき続ける、氏名不詳の男がいる。
夜中にドアを蹴飛ばして罰を受け、手錠をかけられてしまう男性も・・・。
精神病以外にも、一人っ子政策に違反した者もいる。
本当に病気かと思われるものもいる。

この病院は収容人数200人以上、男女は分かれているが、他に区別はない。

暴力性の有無に関係なく、一緒に収容され、常軌を逸した振る舞いをしたものも含まれる。
病院での一日は規則正しく、食事、投薬、注射と、カメラは患者たちの日常を追いかけていく。

ただ、この映画「収容病棟」の重心は、彼ら患者のそれぞれの事情ではなく、鉄格子で社会から隔離された世界に生きる人間の方に置かれていることだ。
作品を観始めて次第に見えてくるものは、彼らの誰もが、この過酷で孤独などうしようもない環境を、ひたすら生き抜く術(すべ)を求めていることだ。
それも、みなそれぞれのやり方で・・・。

彼らは、誰かと精神的にあるいは直接に触れあい、温もりや愛を感じるべく‘努力’しているということだ。
ときに弱いが、ときに強く、カメラはどこまでも静かに患者たちに寄り添い、人間の本当の心が剥き出しにされる瞬間を逃さずに捕まえる。
患者たちは、ほとんど撮影されていることを忘れており、それはワン・ビン監督と被写体の距離が、スクリーンと客席の境を乗り越えているのに似ている。

映像は、切なく美しい。
人間たちが、愛おしく感じられる。
ワン・ビン監督は、「無言歌」では人間の尊厳を見事なまでに描いて見せてくれた。
香港・日本・フランス合作ワン・ビン監督のこの作品「収容病棟」でも、人間の尊厳をきっと信じていて、その温かい目線で、‘同病相憐れむ’患者たちを、そして自分たちが生きているこの世界を、見つめ続ける。
その先には、どこか優しい光が浮かび上がる。

大体、人間が異常か正常(健常)かを、どこで線引きすることができるだろうか。
正常と狂気の境界がいかに曖昧か。
自由とは何か。
生きるとは何か。
いつか自分たちも、どんなきっかけで正常でなくなるのか、全く分からなくなることだってありうる。
この作品には、多くの問いかけがある。
中国の精神病院の人間模様を、生々しく伝えるドキュメンタリーだ。
撮影素材は何と300時間にも及んだそうだ。
前後編で4時間の上映は少し長い気もするが、作品はありふれた人間讃歌ではない。
声高な告発もない。
しかし、ずっしりと重く胸にこたえてくるものがあることだけは確かだ。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

 
 * * * 朗  報 * * *
すでに報じられているように、カナダで開催されていたモントリオール世界映画祭で、成島出監督作品「ふしぎな岬の物語」(吉永小百合主演)が、最高賞のグランプリに次ぐ審査員特別大賞受賞した。
また、本欄でも取り上げ、個人的には★五つを打った呉美保監督作品「そこのみにて光輝く」(綾野剛、池脇千鶴主演)が、最優秀監督賞に輝いた。
日本映画のダブル受賞だ。
うれしい話である。
「ふしぎな岬の物語」は、千葉県鋸南町の明鐘岬にある小さな喫茶店を舞台にした、実際の話を吉永小百合がプロデュースしたもので、10月11日公開される。
日本映画の温もりが、感じられるかもしれない。