戦争の悲惨さを底流に、前作「東ベルリンから来た女」でベルリン国際映画祭監督賞を受賞した、クリスティアン・ペッツォルト監督がサスペンスフルに織り上げたドイツ映画だ。
タイトルだけを見るとラブストーリーかとも思えるが、ドラマとして描かれるのは、戦争がもたらした悲劇であり、極限の状況下で生き抜くための道である。
そしてそれはまた、人間の心の奥深い謎である。
その時、愛はどんな意味を持つのだろうか。
心をしめつかれるような、大人の愛のサスペンスを感じさせるドラマだ。
1945年6月、ベルリン・・・。
ドイツ降伏直後、顔を撃たれたユダヤ人声楽家のネリー(ニーナ・ホス)は、強制収容所から奇跡的に生還し、顔の整形手術を受ける。
医師に別の顔を勧められるが、夫ジョニー(ロナルド・ツェアフェルト)と再会したいと願うネリーは、元の顔にどうしてもこだわった。
彼女は自分の過去を取り戻したかった。
顔の傷が癒えて包帯のとれたネリーは、米兵向けのクラブで働いている夫を見つけるが、容貌の変わったネリーに夫は気がつかない。
それどころか、収容所で亡くなった妻になりすまし、遺産を山分けしようとジョニーはネリーに持ちかける。
一方、ネリーの親友で弁護士のレネ(ニーナ・クンツェンドルフ)は、ネリーの摘発寸前に離婚届が提出されていたことを知り、ジョニーは裏切り者だと言って警告する。
夫ジョニーは本当に自分を愛していたのか。それとも自分を裏切ったのか。
その思いに突き動かされ、提案を受け入れ、ネリーは自分自身の偽者になろうとするのだったが・・・。
奇しくもネリーは、もとの自分の顔を取り戻したと思っている。
ネリーがジョニーと再会を果たし、二人が知人を訪ねる場面では皆すぐにネリーと認識するのに、夫だけは素知らぬ顔をしている。
気づかないのか。
二人の間には愛は存在しないのか。
ネリーは地下室の彼の住まいで、彼の作戦に協力しようと自分の筆跡を模倣し、想い出のドレスや靴を身につけ、髪の色も髪形もかつての自分と同じにする。
ジョニーの望むままに、新しいネリーとして甦ることに喜びを感じ始める。
ジョニーは妻に似ているとは思っても、本物の妻とは気づいていないのか。
彼女の逮捕直前、離婚届を出していたのは何を意味するのか。
夫は、どうして妻が生きているとは思わないのか。
ネリーが、過去の自分がいかに幸福であったかを語るところがあるが、まるで誰か他の人間の話をするように、自分について三人称で語るのだ。
胸の痛む場面のひとつだ。
ネリーが生きる世界につきまとう闇の底から、人間の悲しさ、人生の無常、そして無償の愛の苦悩が浮かび上がってくる。
ユダヤ人作曲家クルト・ヴァイルが手がけたジャズのスタンダードナンバー「スピーク・ロウ」が、さりげなく、優しく、深く、流れる。
映画後半のサスペンスは、むせび泣きのようにどこかとてもやるせなく、切ないシーンが続き、無償の女の愛の苦悩を象徴するかのようだ。
クリスティアン・ペッツォルト監督のドイツ映画「あの日のように抱きしめて」は、ホロコースト後のユダヤ人の癒えることのない傷を引きずってくるが、ニーナ・ホス、ロナルド・ツェアフェルトという素晴らしい二人の俳優の名演を得て、心をかきむしられるような、しかし力強いドラマだ。
削ぎ落とされたセリフといい、無駄のない演出といい、知的な陰影に富んだ魅力的な心理劇だ。
報われぬ女の愛とは、かくも悲しいものか。
何とも言いようのない、あのラストシーン・・・。
この作品だけは、そこら辺にあるような単なる愛の物語とはわけが違う。
奥の深い、とんでもない純愛物語だ。
ドイツ映画の秀作だ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回は日本映画「赤い玉、」を取り上げます。
ナチスに追われるユダヤ人の苦難を生き延びた運命といえば、それだけでも映画史の大きなジャンルである。
この映画は、壮絶な運命をたった一人で、強く前向きに生き抜いた少年の感動の実話だ。
アウシュビッツ収容所解放70年、ポーランドでの実話を映画化したのは、ドキュメンタリー作家としても評価の高い、ドイツのペペ・ダンカート監督だ。
主人公は双子一役で、全く見分けがつかない。
少年はどうして生き抜くことができたのか。
そこには、争いが続く世界に暮らす人たちが、未来を探るための答えがありそうだ、
1942年、ポーランド…。
雪に覆われた道を、ひとりとぼとぼと歩く8歳の少年スルリック/ユレク(アンジェイ・トカチ&カミル・トカチ)の姿があった。
スルリックは居住区を脱け出し、飢えと寒さに行く倒れとなり、ヤンチック夫人(エリザベス・デューダ)の保護される。
彼女はスルリックの賢さと愛らしさに気づき、一人でも生きられるよう、“ポーランド人の孤児ユレク”としての架空の身の上話を覚えさせるのだった。
ユレクと名乗り、教えられたとおりにキリスト教の祈りを唱え、寝床と食べ物を求めて、農家を一軒ずつ訪ねて歩く。
無邪気な笑顔のユレクに、救いの手を差し伸べる者、ドアを閉ざす者、彼を利用しようとする者も現われる。
ユダヤ人というだけで、何故こんな目に合わなければならないのか。
それでも「ひとりでも絶対に生きろ」と言った、生き別れとなった父との約束を胸に、ユレクの旅は続くのだった・・・。
逃亡者のようなユレクは、ユダヤ人の浮浪児たちの集団に会ったりして、彼らがいやが上にも身に着けている世知辛い強さを教えられ、食量を得るためには泥棒に入り、捕まりそうになって逃げ、逃げ遅れた仲間が捕まっても、感傷に囚われることなく見捨てていく。
そうした少年たちを振り向きもしない。
幼くも、生き残りをかけた不屈の精神が、きりきりと胸に痛い。
少年ユレクは出会った人から生き残る知恵を学び、嘘も方便でみずから悲惨な身の上話を語り、同情を誘って食べ物を恵んでもらったりもする。
どんなことがあっても、したたかに、そうだ、したたかに生きる。
辛いときは涙を流し、思いっきり泣く。
そこに人間性がある。
ある農家に招き入れられたスルリックが、農場で仕事中脱穀機による大怪我を負い、片腕を失うシーンは泣かせる。
ユダヤ人の9割が殺害されたというホロコースト・・・。
ポーランドで生き残ることが、いかに困難であったかを思い知らされる。
しかし、まだ幼さを宿す少年ユレクが、絶体絶命の窮地に陥っても、諦めることなくどんな逆境でも生き続けようする強靭さが、この映画の救いの光だ。
ペペ・ダンカート監督のドイツ・フランス合作映画「ふたつの名前を持つ少年」では、賢く勇敢なスルリック(ユレク)の過酷なな逃避行にハラハラしながら感情移入し、映画に引き込まれていくところがこの作品の大きな見どころでもある。
起伏の激しい物語の底には、信仰への深い問いがある。
「正体は隠して、ユダヤ人であることは忘れるな」という父の言葉もあった。
ユダヤ教徒であることを隠し、キリスト教徒以上に敬虔なキリスト教徒にまでなりきっても、幾度も命の危険にさらされる。
人間の優しさも、残酷さも孕んだこのドラマは、全編がロケーション撮影だ。
ダニエル・ゴットシャルク撮影監督は、月や雪、森などの自然現象や戦場などを、徹底してドキュメンタリータッチで撮り続けた。
双子俳優の細やかな演技も素晴らしく、生き抜こうとする少年の勇気と意志が胸に熱く迫ってくる。
子供にも容赦ない時代の厳しさはもちろん、人間の善意にも光を当てたいい作品だ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
89年にヴェネチア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)に輝いた「非情城市」は、忘れがたい傑作だ。
台湾を代表する侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督による、今回初めての武侠映画だ。
8年ぶりといわれるこの作品は、唐代の中国を舞台に、凄腕の女刺客を主人公にした映画だ。
映像については圧倒的な力があるが、ドラマとしては決して理解しやすい作品とは言えない。
それもそうだ。
アクション満載の史劇でもなく、活劇の高揚感もさらさらないからである。
画面の比率もスタンダードで、タイトル導入部はモノクロで始まる。
凝縮された美が、光と影の対照を際立たせ、、刺客に育てられたヒロインの密命と情念を描き出している。
ドラマというよりは映像詩に近い。
映画としては、ひどく贅沢な作品だけれど・・・。
唐代の中国・・・。
13年前に女道士に預けられた隠娘(スー・チー)が、突然戻ってくる。
美しく成長した彼女は、凄腕の暗殺者に育て上げられていた。
標的は、朝廷に離反する地方の有力者で、由季安(チャン・チェン)であった。
由季安はかつての許嫁だった。
隠娘は、どうしても由季安にとどめを刺すことができず、暗殺者として生きてきた自分に戸惑っていた。
それは、自分に情愛が残っていたからだ。
その運命に、自らを問い直す日々であった。
そんな中、朝廷派の叔父が襲われ、警護する隠娘も窮地におちいるが、居合わせた遣唐使の日本人青年(妻夫木聡)に助けられる・・・。
数奇な運命に翻弄される、孤独な女刺客を慎み深く描いており、アクションという枠を超えた壮大なドラマは、ドラマといえ肝心の物語の面白さに欠ける嫌いがある。
いや、あまりピンとこないといったらいいか。
静謐な映画である。
孤独な運命を生きるスー・チーの表情は、沈潜する悲しみに凄みをたたえ、言葉は少ないが伝わってくるものがある。
屋敷の内部に灯される蝋燭の炎も、幻想的な美しさを漂わせている。
台詞を極端に排し、映像を主体にドラマを語ろうとしており、素材は悪くないのだが、どうも作品としての面白さはこれでは致命的だ。
侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の台湾・中国・香港・フランス合作映画「黒衣の刺客」は、過剰なまでの美意識に彩られた映像が、奥行きのある詩的空間を作り上げている。
豪奢な宮殿といい、華美な調度や衣装が観る者を圧倒し、雄大な水墨画の背景に息をのむことはできても、ロングショットが多く、人物の表情もはっきり見ることができない。
登場人物のひとりひとりが、十分描かれているとも思えない。
ドラマとしてのまとまりと描写も不完全燃焼だ。
長い黒髪と黒衣のヒロインの姿だけは、とにかく凛として美しく好印象なのだが・・・。
日本人女優の忽那汐里も出演している。
カンヌ国際映画祭監督賞受賞作品だ。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
次回はドイツ・フランス合作映画「ふたつの名前を持つ少年」を取り上げます。
・・・本当の気持ちに気づいたとき、人生をやり直すことは許されるだろうか。
主人公のこの問いかけに、この作品はどんな答えを用意しているのだろうか。
「君に読む物語」「一枚のめぐり逢い」など、泣ける恋愛小説の名手ニコラス・スパークスの本編も、ベストセラー小説の映画化で、 「終着駅/トルストイ最後の旅」のマイケル・ホフマン監督が手がけた作品だ。
運命に導かれ、運命に翻弄される二人を描いた、珠玉のような一篇のラブストーリーだ。
ルイジアナ州の田舎町・・・。
石油採掘基地で働くドーソン(ジェームズ・マースデン)は、爆破事故に遭うが、奇跡的に一命を取り留める。
奇しくも事故直後、人生の恩人である友人タック(ジェラルド・マクレイニー)が他界し、二十年ぶりに故郷へ戻る。
そこには、初恋の相手だったアマンダ(ミシェル・モナハン)がいて、タックは二人に、自分の遺灰は思い出の詰まった別荘の池に撒くように遺言を残していた。
実は幸せな家庭を築いていたアマンダだが、夫との間にできた溝が徐々に広がりつつあった。
ドーソンとアマンダが出逢ったのは、二十年前で、二人は深く愛し合いながらも、別々の人生を歩まざるを得なかったのだ。
ドーソンとアマンダは別荘に向かう。
アマンダへの想いをいまでも持ち続けているドーソンと、愛する娘を亡くし夫との関係も冷え切ってしまっているアマンダであった。
それぞれの人生を歩んできた二人の運命が再び交錯し、心の奥に封印していた“想い”が熱くよみがえるのだった・・・。
二人の再会に、果たしてどんな意味があるのだろうか。
適わなかった初恋の相手と、再びめぐりあったら・・・。
ほろ苦い青春時代を想い出させる、いい映画だ。
恋愛というのは偶然か。運命か。
二十年の歳月を経て、二度目の運命(セカンドチャンス)を手にするとすれば、それはかつて一度手離してしまったものがもし運命だとしたら、その運命をもう一度手にすることはできないものだろうか。
このアメリカ映画「かけがえのない人」は、運命を試しているラブストーリーだ。
運命の糸を、赤い糸というではないか。
映画の中に散りばめられている、意図的とも思える赤色は何を物語るのか。
ドーソンがアマンダに渡した赤い椿の花、二十年ぶりに二人を再会させた弁護士の赤い蝶ネクタイ、二人が初めて結ばれた夜にアマンダがまとっていた赤いバスタオル、タックの遺灰を撒くためにヴァンダミアの別荘に行くときのオープンカーの車体の赤、その時のアマンダの赤いワンピース、途中レストランで食べたエビの赤さ等々・・・。
椿の花の花言葉は「敬愛」と「完璧」だそうだ。
二十年前の二人の青春には、完璧な敬愛の瞬間があったかもしれない。
ラストシーンで、アマンダが佇む湖のほとりに一面に咲いていたのは赤いポピーの花で、花言葉は「慰め」と「感謝」だ。
二十年前の高校時代の二人を演じる、ルーク・ブレイシーとリアナ・リベラトのフレッシュコンビも魅力的だ。
だからこの映画は二人一役だ。
現在と過去が交錯し、高校生の二人は様々な障害を乗り越えながら強い絆を培っていく過程が描かれ、時を経て再会した二人が、時の溝を埋めながら、互いの気持ちを確かめていく過程が、細やかに描かれている。
見方によっては、二つのラブストーリーと見ることもできる。
二十年の歳月を経ての再会は、二人の心の奥にくすぶる情熱を激しく燃え上がらせるが・・・。
この作品は、映像の美しさも特筆すべきだろう
そして最後に訪れる意外な結末に、いやが上にも感動が・・・。
いやいや、なるほど、これはまた、何というラストシーンか。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回は中国・台湾・フランス合作映画「黒衣の刺客」を取り上げます。
ノ ーベル文学賞作家、フランスのアルベール・カミュの短編小説「客」を基にしたヒューマンドラマである。
フランスから独立運動が高まるアルジェリアを舞台に、ダヴィド・オールホッフェン監督は、不条理な社会に絶望した人生の傍観者を登場させ、人間の解り合うことの困難と尊さを問いかける。
原作では、主要な登場人物は二人で、しかも24時間のあいだに展開する物語だ。
「 アルジェの戦い」「異邦人」「最初の人間」など、フランスとアルジェリアをめぐる名作映画もあったが、それをも凌駕する作品と言ったら言い過ぎだろうか。
文学に託された光が、時を超えてここに甦る・・・。
1954年、アルジェリアはフランスからの独立運動が高まっていた。
元軍人で教師のダリュ(ヴィゴ・モーテンセン)のもとに、殺人の容疑をかけられたアラブ人のモハメド(レダ・カテブ)が連行されてくる。
ダリュは、その男を裁判にかけるため、山を越えた町タンギーに送り届けるよう憲兵に命じられる。
アラブ人がまともな裁きを受けられるわけはないと、<死への旅路>の同伴を拒むダリュだったが、モハメドを置いたまま憲兵はいってしまう。
ダリュはやむを得ず、モハメドを連れて町へ向かう。
途中で、復讐のためモハメドの命を狙うものの襲撃、そして反乱軍とフランス軍の争いに巻き込まれ、二人は危険を乗り越えていくうちに、彼らの間に不思議な友情が芽生え始めるのだが・・・。
アルジェリア戦争によって、カミュは沈黙を余儀なくされた作家だ。
その作家の心が、映画の中で紐解かれる。
フランス人入植者の父を持ち、アルジェリアで生まれ育ったカミュは、フランスとアルジェリアの停戦を呼びかけるが、裏切り者と罵られ、以来固く口を閉ざしてしまった。
その直後に発表されたこの小説には、アルベール・カミュの知られざる真意が込められていると解される。
主人公ダリュは、カミュの分身とも思える。
映画としては、当然原作が拡大され、自由な翻案の形をとっているが、ダリュとアラビア人の道行きや、そこへ、アラブ人ゲリラやゲリラを掃討するフランス軍の襲撃といった場面が用意され、人種の違う人間が友情を育む・・・。
苛烈な状況の中で、自らの生き方を模索する人を描いており、二人の演技も秀逸だ。
ヴェネチア国際映画祭をにぎわせたヴィゴ・モーテンセンが、最後まで生きることを説き続ける人間味豊かな役を熱演し、囚われたアラブ人を演じたレダ・カテブはアルジェリア系移民の父を持ち、死の渕で出会ったと男との道程を通して次第に変わっていく複雑な心情を、繊細に演じきっている。
フランス人ながらアルジェリアで育ったダリュという男は、現地や住民に共感を抱くが、社会状況がそうした態度を容認しない。
一体自分は何者なのだろうか。
そんなダリュの様々な心象が、荒れ果てた大地の風景に重なって見事だ。
新進気鋭のダヴィド・オールホッフェン監督のフランス映画「涙するまで、生きる」は、アトラス山脈の迫力ある広大なロケーションが、終わりなき血の争いの虚しさを伝えて、どこかにヒューマニズムの希望が残されていることを示唆している。
広大な砂漠も印象的だ。
人生観を揺さぶられるような思いがする作品だ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回はアメリカ映画「かけがいのない人」を取り上げます。
若杉公徳の同名コミックを、鬼才園子温監督が映画化した。
テレビ東京で放送された深夜ドラマの劇場版だ。
ヴェネチア国際映画祭で園子温監督は、シリアスなドラマ「ヒミズ」で一躍世界に名が知れ渡ったが、今回まるで作風の異なるお色気コメディを、染谷将太主演で、驚きといえば驚きの、くだらないといえばくだらない怪作(快作?)を、これでどうだといわんばかりにスクリーンに叩きつけた。
物語も適当で笑いも存分、心して(?!)鑑賞するにこしたことはない。
常に性的な妄想で頭がいっぱいの童貞高校生・鴨川嘉郎(染谷将太)は、運命の出会いを求める若者だ。
そして、数か月に一度という特別な天体配列の光を浴びた嘉郎と、幼なじみの美由紀(池田エライザ)は、突然人の声が聞こえるテレパシーに目覚める。
つまりエスパー(超能力者)として覚醒した彼は、早速憧れの女の子の本心を聞いてみるが、期待とは裏腹に幻滅するばかりだ。
その頃、時を同じくして、次々とエスパーが生まれる一方で、街には下着姿で闊歩する若い女性が増え、悪のエスパーによる人類滅亡の序章“世界エロ化計画”が幕を開ける。
超能力研究者の浅見教授(安田顕)は、嘉郎と同じく超能力に目覚めたエスパーたちを招集し、能力覚醒に関する驚愕の事実を伝え、迫りくる世界危機の阻止を命ずる。
ところが、テレパシー、テレキネシス、テレポーテーション、透視といった凄い能力は人間本来のエロスにしか機能しないのだった・・・。
突然、超能力に目覚めてしまった平凡な高校生や同級生たちが繰り広げる、ちょっとエッチな物語が綴られる。
ここでは超能力といっても、“脱力”のストーリーが展開し、真の狂気と呼ぶには程遠い無邪気な性の妄想が彼らを覆いつくし、時には発情したかのような美女たちが半裸で町中にあふれるという、あきれるほどの多彩な賑やかさだ。
これは、狂った一種の群像劇だ。それも、間違いなく青春真っただ中の・・・。
園子温監督の演出へのこだわりの執拗さは言わずもがなで、全編何から何まで、開けっぴろげで大らかなのが救いだ。
こんなテーマを扱いながら、陰湿な暗さや嫌らしさが微塵もなく、まことに壮快そのものなのだ。
ただし、いろいろ描かれるエピソードは、エンディングも含めかなりしつこく、くどい。
これはもう、園監督の性格かもしれない。
園監督の生まれ育った愛知県東三河を舞台に、原作コミックの大分県をこちらに変更、三河地方の方言で全編を描き切った。
園子温監督の「みんな!エスパーだよ!」は、軽薄な映画にも見えるが、日本の窮屈な社会への小さな反旗のようでもあり、ありえないユートピアへの未来と幻想に、一応愛と平和を込めた作品だ。
少年たちは性への好奇心でいっぱいだ。
大人たちが目くじらを立てるのはよそう。
そんなことは野暮というものだ。(笑)
この頃の若い世代というのは、性に臆病で、しかしどこか純粋で、この作品にはラブシーンとかヌードといったシーンは全く登場せず、妄想一辺倒のそれでいて十代の葛藤を描いた、青春ノンストップムービーだ。
O,My God!
[JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点)
次回はフランス映画「涙するまで、生きる」を取り上げます。
物語そのものに、特別目新しさがあるわけではない。
人生に虚しさを感じていた気難しいチョイ悪じいさんが、12歳の少年との出会いを機に生きる力を取り戻していく。
いろいろあるけれど、老人と少年の心温まる物語だ。
セオドラ・メルフィ監督のアメリカ映画だ。
北米では、たった4館の上映からスタートしたにもかかわらず、幅広い層から支持され、4週間後には2500館にも拡大したと言う、驚異(?!)の話題作だ。
メルフィ監督は脚本も手がけ、初長編作品だ。
アメリカ・ブルックリン・・・。
アルコールとギャンブルをこよなく愛するチョイ悪オヤジのヴィンセント(ビル・マーレイ)は、街でも評判の気難し屋だ。
独り暮らしの彼の家の隣に、シングルマザーのマギー(メリッサ・マッカーシー)と12才の息子オリバー(ジェイデン・リーベラー)が引っ越してくる。
仕事で遅くなるマギーから頼まれ、借金まみれのヴィンセントは渋々オリバーのシッターを引き受ける。
そして、オリバーの年齢をも気にせず、ヴィンセントは行きつけのバーや競馬場にも彼を連れて歩き、バーでも注文の仕方、オッズの計算方法、いじめっ子の鼻のへし折り方など、一見ろくでもないことばかり教え込んでいく。
ギャンブルや、売春婦でストリッパーのダカ(ナオミ・ワッツ)との交流など、母親には言えない人生の“学習”を重ねる中で、オリバーはやがてヴィンセントの傍若無人の振る舞いの裏に、優しさを感じ取っていく。
両親の離婚で早く大人になってしまったオリバーも、いい年をして物わかりのいい大人になりきれないヴィンセントも、最初はお互いに最悪の相手だと思っていたが、ひねくれ老人と少年の間には、こうして奇妙な友情が生まれ、育まれていくのだった・・・。
でたらめな男だがどこか愛すべき親父のヴィンセント、大人びているが少しずつ子供らしい腕白を取り戻していくオリバー、生活に追われ働きづめのシングルマザーのマギー、言葉使いは乱暴だが几帳面で生真面目な妊娠中のロシア人ストリッパーのダカ、4人の登場人物が織りなす笑いと涙のハートウオーミングな映画だ。
4人それぞれが、型破りな演技と役柄で、これがまた新鮮な驚きでもある。
オリバー役で、ビル・マーレイを相手に堂々と渡り合った少年ジェイデン・リーベラーは、 ラスベガス映画批評家協会賞をはじめ数々のベスト子役賞に輝いた。
ドラマは孤独な不良老人と少年との交流に過ぎないが、あちこちに社会的な問題をさりげなく盛り込み、あるがままのドラマ作りには好感が持てる。
アメリカ映画「ヴィンセントが教えてくれたこと」では、認知症介護の問題なども出てきて、ややもすると感傷的なムードも影を落とすが、主題ははぐれ者同士の大人と少年のヒューマンドラマだ。
しかし、ほんとうに深刻な問題を内包しつつ、物語の展開はかなり甘くタッチも軽いのが気にかかる。
それも、老優マーレイの魅力が救っているか。
毒舌を吐く主人公と、それをさらりと受け流す少年のコンビネーションは、新人監督セオドア・メルフィの軽妙な脚本と演出の効果大いにありといって、よいのではないか。
人生再生のドラマである。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
季節の変わり目だからだろうか。
このところ、降ったり止んだり、晴れたり曇ったり、寒暖の差も大きく、変わりやすい空模様が続いている。
早秋の文学散歩は神奈川近代文学館だ。
9月27日(日)まで、「100万回生きたねこ」などの絵本作家、エッセイストとして知られる佐野洋子展が開かれている。
早いもので、もう没後5年になる。
多彩な原画でたどる絵本の世界だ。
ちょっと懐かしく、幼き日の郷愁を誘う世界だ。
第1部では自作の絵本から、約10作品を取り上げ、作品に込められたメッセージを探りつつ、他作家との共作による多様な表現の一端を展観する。
第2部ではエッセイを中心に、童話や小説なども含めた仕事を紹介しながら、作品を通して佐野洋子の人生の軌跡をたどる。
会場には、絵本の原画のほかに、数々の著書の表紙、挿絵原画、今回初公開の原稿、日記を含む自筆資料や写真、愛用品など多数を展示している。
ライオンは、えものをとってくると、きって、やいて、にて、ソースをかけて、ごちそうを、しました。
ねこたちは、めを まるくして、こちらをながめ、よだれと、いっしょに、ごちそうを たべました。
「さすが、ライオンだ。」(「空とぶライオン」より)
佐野洋子の作品にはライオンのほかにねこ、豚、熊などがよく登場する。
「100万回しんで、100万回も生きたとらねこ」の話は、ミーニャという筆者の飼い猫がモデルだそうだ。
実は佐野洋子は猫が嫌いな人で、猫を飼ったのも息子のためだそうだ。
しかし、猫の瞳や体型の美しさ、静かさを認め、絵本に描くのは、人間の姿だと生々しく、形として綺麗だからとも述べている。
1938年中国北京生まれの彼女は、デザイン美術を専攻し、白木屋デパート宣伝部のデザイナーとしてスタートした人だが、以後童話集の挿絵を始め、童話、絵画を創作、1990年には詩人谷川俊太郎氏と結婚生活(再婚~1996年離婚)を送ったこともある。
今も絵本は読み継がれ、1980年前後からはエッセイも執筆し、自由闊達で天衣無縫な筆致と批評精神の溢れる世界を支持する人は多い。
9月12日(土) 谷川俊太郎(詩人)と広瀬弦(画家、絵本作家)の記念対談
9月19日(土) 工藤直子(詩人、童話作家)の記念講演会
をはじめ、ギャラリ-トークなどのイベントが予定されている。
次回はアメリカ映画「ヴィンセントが教えてくれたこと」を取り上げます。
「扉をたたく人」(2007年)のトム・マッカシー監督による、ファンタジーの要素も取り入れた、愛すべきヒューマン・コメディだ。
人生は誰にでも変えることができる。
人はいつになっても、新しい自分を発見することができる。
ペーソスあふれる人間模様、心温まるユーモアとサプライズが、ほっこりとした大人のドラマを綴る。
ニューヨークの片隅で靴修理店を営む、さえない男に訪れた奇跡・・・。
笑いと驚きに満ち溢れたドラマは、最後に思わずほろりとさせてくれる。
ニューヨークの下町で、代々続く小さな靴修理店を営むマックス(アダム・サンドラー)は、変わり映えしない日々を過ごしていた。
ある日、先祖代々の旧式ミシンで靴を直して、それを履くと持ち主に変身できることに気づく。
鏡の中に映ったのは、不思議なことに、自分の姿形からしゃべり方まで、靴の持ち主に変身する自分の姿だったのだ。
マックスは、父親アブラハム(ダスティン・ホフマン)の失踪後は、母親サラ(リン・コーエン)と二人で暮らしていた。
“魔法のミシン”を手に入れたマックスは、世代も人種も異なる他人の人生体験を疑似体験し、かつてない刺激的で痛快な日々を満喫していく。
“魔法のミシン”に驚いたマックスは、顧客の靴を次々と借り、自ら変身を楽しむ。
やがて、ちょっとした親孝行をきっかけに、相次ぐトラブルに見舞われたマックスの行く手には、これまで味わったことのない、本当に人生が一変するほどの大きな事件が待っていた・・・。
これはまるで人情コメディである。
ドラマの終盤は怒涛の展開だ。
伏線もよく練られいるが、出来過ぎた話で、少々嫌気と退屈感に見舞われるが、大人のファンタジーという趣きもあって・・・。
まあ、途中のドタバタ調はあまり好感が持てない。
アメリカ映画「靴職人と魔法のミシン」は、地元のストリートギャングやイケメン業界人、その恋人、女性の地域活動家ら、近くに住む親密な異業種の人種たちがにぎやかに取り囲む群像劇の様相で、下町情緒がいっぱいだ。
ニューヨークをこよなく愛する人たちのスピリットが、凝縮している。
少し頼りない主人公を思わず応援したくなるような、可笑しさ満載の暇つぶしドラマだ。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
そのあまりにも残酷なたくらみに、愛し合う二人はすべてを奪われたのだった。
混沌と悪夢の時代をさまよい続けた、男女の揺るがぬ愛に絡む思惑・・・。
イラクの名匠バフマン・ゴバディ監督が、母国を離れて亡命中に撮り上げた渾身の作品だ。
この物語は、監督と同じ、実在するクルド系イラン人の詩人サデック・キャマンガールの体験談をもとに、描かれたドラマである。
時間軸を交差させながら、徐々に解き明かされていく物語の真相は、絶え間ない緊迫感で観客をぐいぐいと引っ張っていく。
30年という歴史の闇が紐解かれる時、その戦慄の事実に胸を裂かれる思いがする。
王政下のテヘランで、詩人サヘル(ベヘルーズ・ヴォスギー)は、軍高官の美しい娘ミナ(モニカ・ベルッチ)と幸せな結婚生活を送っていた。
1979年、そんな二人の人生がイスラム革命で一変する。
サヘルは、反体制的な詩を書いた国家転覆罪で禁固三十年を言い渡され、妻ミナも夫との共謀罪として不当逮捕された。
ミナは獄中で、彼女に横恋慕するアクバル(ユルマズ・エルドガン)に蹂躙され、双子を生み、釈放後夫の死を伝えられ、悲嘆に暮れる。
アクバルは革命で地位を得た元運転手の男で、夫妻の不当な逮捕は彼の差し金であった。
ミナに想いを寄せるアクバルは、自らの愛欲、復讐へと、革命に乗じ夫婦を引き裂いたのだった。
ミナの父は王政の司令官だった。
彼女は双子の子供とともに、10年後釈放されるが、一方拷問に耐えて生き延びたサヘルは30年後に釈放される。
公けにも死亡したとされ、墓まで作られていた夫の獄死というのは、全くの虚報だったのだ。
あれから30年・・・、白髪の年老いたサヘルは、必ず生きていると信じるミナを探し求めて、イスタンブールの港町にたどり着く・・・。
歴史の闇の中、政治的に抑圧された詩人の愛と心象が詩のように描き出される。
映画は、イスラム革命から現在までの時の流れを交錯させながら、色彩を抑えた映像で展開する。
空から降ってくる亀、平原を疾走するサイの群れ、運転席を覗きこむ馬の瞳・・・、それらは主人公の心象を綴る、全て幻影の映像詩だ。
政治の匂いがしないでもない。
台詞の少ない沈黙の場面が多い。それこそが饒舌な物語となる。
サヘルの怒りと絶望が詩的イメージを膨らませ、彼の空想はどこまでも飛躍する。
凄まじい愛憎や喪失の情念が、ほとばしるように次から次へとスクリーンを覆い、もうそれはリアル(現実)を超えた奔流のようだ。
全編がただならぬ圧巻の映像詩なのだ。
物語を全て語るのではなく、観る側が、それぞれの物語を作ることを求められているのだ。
イラク・トルコ合作映画「サイの季節」は、戦慄の事実と大いなる復讐を描いてあまりある。
ミナ役のモニカ・ベルッチの、不遇の人生にありながら魂だけは純粋で自由であり続ける姿は、敬虔で美しい。
全編、陰鬱なトーンで展開するが、詩的な映像世界は息をのむほどに濃密である。
過去と現在、夢と現実を行き来する詩人の心象風景はちょっと見には理解しにくいところもあって、観客を混乱させるほどだ。
サヘルの詩のナレーションを聴かせるモニカ・ベルッチの声も、胸の奥にしみ渡るようである。
傑作に近い作品だ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回はアメリカ映画「靴職人と魔法のミシン」を取り上げます。