徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「人生万歳!」―何でもありの恋模様ー

2011-01-26 04:15:01 | 映画


   ウディ・アレン監督
の、記念すべき通算40作目の映画だ。
   このところ、ロンドンやバルセロナといった、ヨーロッパ各地での撮影が多かった。
   今回は、久々にニューヨークに戻って、型破りなコメディタッチの作品を製作した。
   この作品、悩める現代人の、ときにシリアスな人間模様を綴っている。
 
   
   脚本も、アレンが書いている 。
   年齢や性の壁を越えて、ここに描かれる恋模様も様々である。
   抱腹絶倒とまでは言い難いが、ユーモラスな笑いを誘う作品だ。










ボリス(ラリー・デヴィッド)は、かつてノーベル賞候補になりながら、今ではすっかり落ちぶれてしまった物理学者だ。
ある夜、アパートの前で、田舎から家出してきた、若い娘メロディ(エヴァン・レイチェル・ウッド)に声をかけられる。
寒さで凍えそうな彼女を気の毒に思って、ボリスは、数晩だけの約束で泊めてやることにする。

ところが、世間知らずのメロディは、冴えない中年男のボリスと暮らすうちに、彼こそは自分の運命の相手だとすっかり勘違いしてしまい、やがて二人は結婚する羽目に・・・。
二人は、周囲の予想とは裏腹に楽しい結婚生活を送り始めた。
そして一年後、そんな二人が生活しているところへ、メロディの母親マリエッタ(パトリシア・クラークソン)が、彼らのアパートを探し当て訪ねてきた。
愛娘の結婚相手が、冴えない中年男と知って、マリエッタは失神してしまった・・・。

母親は、浮気した夫に見切りをつけて出てきたのだが、結局二人のアパートに居つくことになる。
そしてその直後に、今度はこの家に第二の訪問者が現れたのだ。
メロディの父親ジョン(エド・ベグリーJr.)が、過去の浮気を後悔し、マリエッタに謝りにやってきたのだった。
メロディのわけあり両親が、相次いで上京したことから、事態がますますややこしいことになり・・・。

ドラマの初めは、学者とはいえ、小難しい理屈ばかりの台詞が気になるところだ。
少々嫌気がさしてきたところで、場面はぐっと面白く、コミカルでロマンティックなタッチに変わる。
ラリー・デヴィッドの、自虐的なユーモアも悪くはないが、少しくどい。
ただ、そういう役柄だから、これも仕方ない。
恋人メロディを演じる、エヴァン・レイチェル・ウッドの、キュートで明るい魅力に救われる。
彼女、スカーレット・ヨハンソンに次いで、ウディ・アレンの映画のミューズと目されている。

ドラマの随所で、人生で起きることの90%は運に左右されるという、アレンの人生観がのぞく。
人の幸せには様々な形があり、社会の伝統や常識から多少ずれていても、気にする必要などないのだ。
その人の人生がそれで幸せになるのなら、万事よしなのだ。
ありえない話を、さもありえるかのような演出に、何がしかの幸福感を味わうのも悪いものではない。
この際いいではないか。
何でもありで、人生万歳だ!(笑)

アメリカ映画「人生万歳!」は、ウディ・アレン監督がニューヨークをを舞台に、年齢といい、知能指数といい、かけ離れた二人のありえない恋愛の行方を、軽快なタッチで描いている。
可笑しくも、またシニカルな中年男と家出娘のお話だ。
ニューヨークの猥雑な(?)雰囲気を背景に、人間関係の不器用な人々の一面をすくいあげて、それこそ純粋さであり、生きたいように生きることへの人間賛歌なのかもしれない。


アナログ放送全面停止の日―平成23年7月24日!!―

2011-01-21 04:15:00 | 雑感
テレビのアナログ放送が全面停止となり、地上デジタル放送(地デジ)に移行する日が近づいている。
総務省によれば、現在全国の90%超が、すでに地デジに移行したというのだ。
これ、本当だろうか。
もっともこの数字は、はじめからバラつきがあり、地デジ受信機を持つ世帯の割合だから、詳細はわからない。
むしろ、疑わしい。
仄聞するところでは、たとえば鹿児島県の普及率は86%だというが、今のスピードでいくと、とても7月までに全普及など難しいらしい。

地デジ化となれば、テレビ本体はもちろん工事代など当然自己負担だ。
ただし、申請によって,国費でアンテナ工事をし、地デジを古いテレビで視聴するためのチューナーを配ってくれる。
でもこれは、NHKの受信料免除世帯270万世帯などだそうだ。
それに、日本の生活保護世帯は約140万といわれる。
こうした人たちは、テレビ代やアンテナ工事費(およそ10万円)が払えないでいるのだ!
総務省の想定は、どの程度まで踏み込んでいるか、疑わしい。

地デジ化は、いわば国策だ。国が勝手に決めたことだ。
だからとて、本来無料でというわけにもいかず、国民に強制しているとすれば、これは違法ではないかと、国を相手取って、とうとう地デジ移行差し止めの訴えを裁判所に起こした人がいる。
鎌倉市の難視聴地域で、現在も電波の届きにくいところに住んでいる。
国民が、自己負担なしで地デジを完全視聴できないのはおかしいし、「国民の知る権利を定めた憲法」に反するとして、アナログ放送を中止するのではなく、継続すべきだというのである。

訴訟の成り行きに、注目だ。
一理ある、ごもっともな意見だ。
つまり、とにかく見られればいいのだからと、地デジとアナログ放送を両立させてはどうかという話だ。
そうすれば、いろいろと助かる人も多いかもしれない。
誰もかれもが、‘完全無料’で地デジ化できないのだから、お金に困っている人の中には、地デジを見られない人も出てくるだろう。
果して、低所得層の普及はうまくいっているのだろうか。
生活保護世帯と同レベルの収入しかなくて、何らかの理由で、生活保護を受けていない世帯が多数あるそうだ。
そうなると、資産もなく、わずかな国民年金だけの老夫婦の世帯とかを合わせると、おそらく全国規模では600万世帯はくだらないだろうといわれる。
そうした、低所得層全てを網羅した世帯への地デジ普及にまで、総務省は綿密な計算をしているのだろうか。
総務省のデータも、どこまで想定しているか、極めて疑問だ。
あれやこれやで、地上アナログ放送を延期すべきだとの提言(「地上アナログ放送を停止出来ない10の理由」)まであるくらいだ。
坂本衛氏の、説得力のある、大変興味深い提言だ。

個人的には、アナログ放送も地デジもどちらも幸い支障はなくなったが、両者を見比べたら、断然地デジのほうがいい。
画質も音質もいうことなしだし、気象情報などリアルなデータ放送も便利だ。
ただし、すべての番組の質までよいとは言えない。
バラエティ番組やドラマなど、内容そのものまでよくなるわけはない。
せっかくの地デジなのに、まるで小学校や中学校の学芸会みたいな長時間バラエティなど、いい大人がやっているのはひどいものだ。
旧態依然だ。
製作費とか、各局の事情もあるだろうが、この際番組の質も考えてもらいたい気がする。

それから、あのテレビ画面上下の黒みに出るアナログ終了の告知、あれはどうにかならないものだろうか。
わかりきったことを、しつこく流していて、鬱陶しいことこの上ない。
DVDのレコーダーを買う余裕もなく、アナログで録画する人もいるご時世に、不満も募るというものだ。
あまりに無頓着だ。やめてほしい。
ドラマの、しんみりとしたいい場面でもお構いないのタイミングで、がっかりするする視聴者も多いのでは・・・。
もっとも、こうしたことは、民放番組のところ構わずやたらと多い、CMだってそうだ。

完全デジタル化されると、すべてのテレビで、受信料のかかるNHKのテレビを見たくなかったら、NHKを受信しない設定もできるようになるそうだ。
何かと問題の多いNHKを、自分のところは映らないようにしてくれということができるらしい。
そうなって、受信契約拒否が増えたら、受信料不払いが増える。
ということは、つまり、受信契約者の負担が増えはしないか、ということになる。
そうでもしないと、天下のNHKの経営が苦しくなる・・・?

「エコ」のおかげで、昨年は地デジ対応の薄型テレビが結構売れたようですね。
そんなこともあってか、今年7月段階での予測では、テレビ受像機はどうも不足するらしい。
それに、急増する(?)テレビの需要は2台目、3代目の購入が多く、世帯普及率の伸びは逆に鈍化してきていて、総務省でも深刻な懸念材料となっているときく。
どうせはじめから国民の声など無視した、総務省のやることだ。後で慌てても、後の祭りだ。
・・・ともあれ、総地デジ化で最後に笑うのは、一体誰か。
どこまでも、あれやこれやと人騒がせな、たかが地デジ、されど地デジなのだ。

映画「小さな村の小さなダンサー」―ある亡命ダンサーの波乱の半生―

2011-01-18 11:15:00 | 映画



  
  ・・・故郷を捨てた悲しみの中から、あるダンサーが誕生した。
  中国とバレエという意外な組み合わせには、ちょっと驚かされる。
  激動の時代、亡命してまでなお活躍し続けた男の、感動の実話だ。
  ブルース・ベレスフォード監督による、新作ではないが、少し前のオーストラリア映画である。
















中国の小さな農村で、貧しかったが、両親の愛を受けて、11歳の少年リー・ツンシン(ホアン・ウェンビン)は幸せに暮らしていた。
時おりしも、毛沢東の文化大革命による英才教育で、彼は突然北京舞踏学校の研修生に選ばれる。
リー少年は、お母さんと別れたくないと、心細くなって毎日泣き暮らしていた。
しかし、心からバレエを愛する先生の教えを受けてから、率先して猛練習に励むようになった。
その時、リーは15歳になっていた。

リー・ツンシンの努力が実って、奇跡を呼び、アメリカへ研修に行くことになった。
彼が生まれた1961年は、中国では大飢饉の年であった。
毛沢東の文化大革命、江青の芸術政策、尊敬する先生が、共産党推進のバレエに苦言を与えただけで投獄される時代だった。
そして、江青の失脚と、そんな激しい時代に育ったリー少年にとっては、初めてのアメリカ留学は、目を見張る驚きの毎日であった。

自分の主張を話せる世界があることさえ、リーは知らなかったのだ。
彼は中国政府の命令を受け、アメリカに滞在し、踊り続ける生活を選択する。
しかし、それは同時に、愛する祖国の両親、故郷への永遠の決別を意味していた・・・。

当時、海外と中国を自由に行き来できるような情勢ではなかった。
あの不条理な中国は、今でこそもう過去のものとなった。
この映画を見るとき、この作品のそうした背景を知らねばならないが、1976年秋、文化大革命が終結し、2年後の78年に中国が改革の開放路線を定めるまで、中国の海外永住や定住を選んだ留学生は、苦悩の選択を迫られていたのだった。

映画「小さな村の小さなダンサー」は、現実にあった物語だ。
国の派遣でアメリカに渡った、中国人の若いダンサーのリー・ツンシンが、1年間の研修を終えた時、アメリカ人女性と結婚してアメリカに残る決意をしたが、中国政府はこれを認めなかった。
一時は、中国総領事館に監禁され、強制送還される寸前にまで事態がエスカレートした。
だが、最終的には、米中二国の首脳の話し合いを経て、ようやく自由の身となり、アメリカに残ることができた。
しかし、国の「裏切り者」というレッテルを貼られ、9年もの長い間祖国中国へ帰ることは認められず、肉親と別れた、天涯孤独の生活を強いられたのだった。

ドラマの中に、本格的なバレエのシーンの数々があって、これが、また実に素晴らしい!
そして、終盤でのどんでん返しが、観ているものに、胸にこみ上げる感動をもたらすのだ。
のちに、中国出身の世界的ダンサーとなった、自伝を脚色したものだが、よく出来ている。
力強いダンサーとして成長したリー・ツンシン(ツァオ・チー)だが、べレスフォード監督は、彼にあくまでも自然体を求めて、俳優としての演技をしないように幾度も指示したと言われる。
バレエを存分に堪能できる本作の数々のシーンは、本物のバレエ団の協力を得て実現したのだそうで、これを鑑賞するだけでも見応え十分だ。

リーが、実人生でたどった軌跡が、全編にわたってリアルに再現されている。
まあ、小さな作品(小品)には違いないが、心にしみる感動作だ。
最後の屋外のシーンで、人々に囲まれて、主演のリー・ツンシンツァオ・チー)が、のちに彼の妻となるメアリーカミラ・ヴァーゴティス)とともに踊るバレエが、素晴らしいラストシーンだった。

かって、ソ連からアメリカに亡命した、ミハイル・バリシニコフという世界的バレエダンサーがいたが、りー・ツンシンも、学院を追われる直前先生から送られたその秘蔵のビデオテープの映像を見て、ひたむきな努力を重ねていったといわれる。
映画の最後のシーンから、この後この物語が、どういう展開をたどったのだろうかと、ふと気になった・・・。

 


映画「しあわせの雨傘」―男性社会への皮肉と風刺―

2011-01-14 15:45:00 | 映画


このフランス映画の原題は「ポティッシュ」・・・、それは飾り気のない花瓶や壺のことだ。
意を転じて、「飾り物」のような人間のことを言うのだそうだ。
名優カトリーヌ・ドヌーヴが、したたかな女を演じている。
フランソワ・オゾン監督の描くこの作品は、女性のための賛歌でもある。

ドヌーヴは、かつてのあの匂い立つような青春の甘い香りから脱却して、見事な成熟を見せる。
しかも、勇猛に果敢に・・・。
この作品で注目すべきは、フランソワ・トリュフォー「終電車」(1980)で共演した、ドヌーヴドパルデューが、30年の時を経て、まるでそれは夢のような再会を果たしたことだった。
この二人の現在の姿を見るとき、言い知れぬときめきを感じる映画ファンも多いのではないだろうか。

真っ赤なジャージーに身を包み、髪にカーラーを巻いて、朝早く森の中の小道をジョギングするカトリーヌ・ドヌーヴにも少々驚くが、オゾン監督のこれもほんの悪戯心なのだろうか。
カトリーヌ・ドヌーヴのためのオマージュともいえる作品だ。
ドラマは、実に軽妙なコメディ調で、イキのいいセリフがぽんぽんと飛び出して、テンポも速いから、ゆっくり観ているとどんどん先への展開に追いつかなくなるといった調子だ。

朝の日課のジョギングが終わると、とくにすることもない。
スザンヌ・ピジョル(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、優雅で退屈な毎日を送る、ブルジョワ主婦だ。
結婚30年になる夫のロベール(ファブリス・ルキーニ)は、雨傘工場の経営者で、スザンヌには仕事も家庭もやるなと命令する。
美しく着飾って、夫の言うことにただ黙ってうなずけばいいという、典型的な亭主関白だ。

娘のジョエル(ジュディット・ゴドレーシュ)は、父親が秘書のナデーシュ(カリン・ヴィアール)と浮気しているのは、「パパの言いなりのママのせいだ」と非難する。
そして、「私は、ママみたいな‘お飾りの妻’にはなりたくない」から、家庭を顧みない夫と離婚すると息巻いている。

雨傘工場は、ストライキに揺れていた。
労働組合の要求を断固拒否したロベールは、社長室に監禁される。

一方、息子のローラン(ジェレミー・レニエ)は、芸術家志望で、工場を継ぐことにはまったく興味がない。
異母兄妹かもしれないとも知らず、父親の昔の浮気相手の娘と恋愛中だ。

スザンヌは、その昔、短くも燃えるような恋に落ちた、市長のババン(ジェラール・ドパルデュー)に、力を貸してくれと頼みに行く。
今でも、彼女のことを忘れられないでいるババンの尽力で、ロベールは解放されるが、ストのショックで心臓発作を起こし、倒れてしまう。
騒動のなか、いつの間にか、何も知らないスザンヌが、工場を運営する羽目になる・・・。

そして、今や、スザンヌの主婦目線による、自然体の経営方針が次々と成功し、工場は見違えるように業績を伸ばしていく。
ジョエルとローランも母親をサポートし、ナデ―シュさえスザンヌに心酔している。
しかし、やっと自分の人生を歩き始めたスザンヌのもとへ、退院した夫が帰ってきた・・・。

60年に、姉のフランソワーズ・ドルレアックとともに、女優活動を始めたカトリーヌ・ドヌーヴは、鬼才、名匠の傑作に多数出演、その匂い立つような妖艶さで、いまや押しも押されぬフランスの大女優で、あまりの貫録に観ている方もたじたじとなってしまうが、その存在感は、70歳近い今も全く衰えを見せていない。

映画で描かれる70年代よりは、フランスの女性の社会進出は広がっているようだけれど、男女の不平等はまだまだだそうで、作品ではそのあたり、オゾン監督の社会富裕層への風刺も十分だ。
このフランス映画「しあわせの雨傘は、描かれている時代(70年代)から、30年以上も経た現代の社会の変化をも照らし出し、経済危機に苦しむフランスでは、昨年も、政府の進める年金改革などに対するストやデモが相次いだことは、まだ記憶に新しい。
将来を見通せない今日の不安は、日本と同じようだ。

ドラマの中の、スザンヌとババンの去りし日のエピソードは、どうもとってつけたような話で、あまりいただけない。
シリアスで、奥深いテーマを、コメディとして描いた試みには大いに意欲を感じる。
でも、ドラマの描かれている時代が時代だけに、映画作品そのものにほとんど斬新さはない。
男性がしょぼくれて、女性が強くなる、そんな人生賛歌である。


映画「海炭市叙景」―哀愁と郷愁の北の街で―

2011-01-09 10:00:00 | 映画


村上春樹らと並び称されながら、不遇に終わった佐藤泰志の幻の小説を、熊切和嘉監督が映画化した。
函館をモデルにした、架空の街・海炭市に生きる人々の、人生の断片を淡々と綴っている。
オムニバス形式の作品だ。

この映画、多くの市民が参加、出演するという、手作り感覚の作品なのだ。
市内に住む、映画館の支配人から演出を依頼された熊切監督が、市民から協賛金を募って出来上がった作品だ。
ほぼ全編が、函館市内ロケである。

北国の小さな砂嘴の街・海炭市を舞台に、そこに生きる屈折した若者の姿を描き出し、一筋の光明を求めて暮らす家族の再生の姿が描かれている。
ジム・オルークの音楽も、バラバラだったそれぞれのテーマが、ひとつの曲に紡がれていくように、海炭市に生きる人々を、優しい詩情で包み込むように雪の町に響く・・・。

その年、海炭市にある造船所が、経営難から縮小され、閉鎖された。
職場を解雇された兄(竹原ピストル)とその妹(谷村美月)は、なけなしの小銭を握りしめて、初日の出を見るために山に登った。

時代遅れのプラネタリウムに勤める中年男(小林薫)は、小さなスナックで働く妻(南果歩)とは、擦れ違いばかり繰り返している。
夫は、その妻の裏切りに傷ついているのだが・・・。

家業のプロパンガス店の二代目(加瀬寛)は、事業がうまくいかず、日々苛立ちを募らせていた。
そして、彼の不倫がもとで、連れの息子を虐待するなど、事業も家庭も空回りしていた。

長いこと、路面電車の運転手を務めていた男は、仕事のため地元へ帰郷している息子と会えないでいた。
その父子は、何年振りかで再会したのだが、短い会話も、ぎごちなく途切れがちであった。

70歳になる老婆は、古い家に住んでいたが、地域開発のため周辺の家々が次々と引っ越していくなかで、一軒だけ残った我が家で、頑なに立ち退きを拒み続けていた。
そんなとき、彼女の飼い猫が姿を消してしまった・・・。

これらは、どれも小さな、そしてどこにでもあるような出来事だ。
そんな人々の間を、路面電車が走り、その上に雪が降り積もる。
誰もが、失ってしまったものの大きさを感じながら、後悔したり、涙したり、それでも生きていかなければならない。

ドラマは、どちらかといえば、いずれも平凡な庶民の悲しい話ばかりで、ロマンティックな香りとは程遠い。
いささか寂れた地方都市で、生活を営む人々は、誰もが過酷な人生の葛藤と向き合っている。
しかし、このドラマは、そうした映画の陰影の随所に、どこか詩的な情味をかもし出している。
悲しみもあるが、ぬれるような温もりも・・・。
軽いようでいて、重い哀感も・・・。
でも、それらはすべて、時の流れのまにまに消えてゆくような・・・。
じんわりとした、そのとらえどころのない感懐も、悪いものではない。

また、ドラマの中で、立ち退きを頑強に拒むおばあさんの役は、演技経験のない中里あきさんが、プロの役者に負けず劣らずの存在感を見せている。
なかなか上手いものだ。
昨年の東京映画祭でも、いろいろと話題を集めた作品だ。
映画の製作委員会は、市民から1200万円を集め、町の人々の多大な協力のもとで、映画「海炭市叙景」の夢の映画化企画が実現したのだった。
原作の佐藤泰志は、90年に41歳で自ら命を絶った不遇の作家だが、彼と同じ1949年生まれの村上春樹「ノルウェイの森」と比べて見るのも、興味深いことかもしれない。
熊切監督は、原作の未完の連作短編小説の中から5編を選び、モザイクを組み合わせるように、「海炭市」とそこに生きる人々の姿を浮かび上がらせた。
おそらく原作者がそうであったように、・・・遠くにいて故郷を想う、そんな気持ちが詩情とともに伝わってくる。
映画の出演者の多くがロケ地の住民で、地域共同体との新しい映画作りを実践して、豊かな成果を生んだ作品として、稀有な秀作のなかに入るのではないだろうか。

映画「冬の小鳥」―寂寞とした孤独な魂の旅路―

2011-01-05 03:00:00 | 映画



人生は旅路である。
人は誰もが出会いと別れを繰り返す・・・。
ウニー・ルコント監督の、この韓国・フランス合作映画は、父に欺かれて捨てられた少女の孤独な魂の物語だ。

9歳の少女ジニ(キム・セロン)が、旅行のつもりで連れてこられたところは、児童養護施設だった。
父は必ずまた迎えに来てくれる。ジニは、そう信じていた。
施設にいても、ジニはかたくなに周囲と馴染もうとはせず、反発や抵抗を繰り返していた。
しかし、父は、迎えに来てはくれなかった。

突然、予想もしなかった状況に投げ込まれた、少女ジニの孤独な魂の旅であった。
大好きだった父親に捨てられたジニは、たった一人で、絶望、怒り、孤独な悲しみと向き合い、やがてその運命を受け入れる。
そして、新たな人生を歩む、決意をしなければならなかった。

…寒い冬の日、傷ついた小鳥が冷たい雨に打たれて、飛ぶこともできずに震えている。
ジニは、施設で仲良しになったスッキ(パク・ドヨン)と、小鳥を介抱し、餌をやり、助けてやろうとする。
だが、実際のところ、彼女たち自身がその小鳥と変わらない身の上だった。

鉄の門が閉ざされ、父親は、振り返ることもなく立ち去って行ってしまったのだ。
父は、何故娘を裏切り、捨てたのか。
そのことは明らかにされない。
その理由をあえて語ろうとしない、この物語の寡黙な姿勢は、むしろそのことで、純粋と哀切と、ある種の美しさを演出している。

黒目がちの、ジニの無垢な瞳に映る世界は、そのままに提示することで、このドラマは異質な存在感を放っている。
少女の目は、何を見ているのだろうか。
脅え、怒り、悲嘆にくれる、子供の心の震えは、いやがうえにも伝わってくる。

施設の中で、いつまでも一緒に仲良くしようと指切りまでした、仲間の少女スッキさえもがジニとの約束を果たさず、施設を去る。
少女ジニにとって、裏切りだけが現実だと悟った時、彼女は、父に置き去りにされた時以上の孤独感に打ちのめされたはずだ。
傷ついた小鳥も、あえなく空しく死んでしまい、少女の手で庭の片隅に埋められた・・・。
この何気ないエピソードは、観るものには重く迫ってくる。

それは、つまりこうだ。
ジニの魂は死んでしまった。死んだものは埋葬される。
ジニは、たった一人で、自分だけの埋葬の‘儀式’を行なおうとするのだ。
彼女は、同じ庭の片隅に、自分が横たわれるくらいの穴を掘って、そこに、自らが空を仰いで横たわったのだ。
そして、自分の上に枯葉と土をかけて、自らを埋葬しようと試みるのだ。
胸を締め付けられるような、シーンである。
孤独な少女の心象を、荒涼とした寂寞とともに、魂の無言の叫びを描いて、見事な演出といえる。

全編を通じて、余分な装飾など一切ない、
ウニー・ルコント監督の、何と鮮烈なデビュー作か。
韓国ソウル生まれ、9歳の時にフランス・パリ郊外のプロテスタントの家庭に養女として引き取られ、母国語を話せぬ女性監督の細やかなメッセージは、自らの父へのあきらめきれなった愛について、まだまだ語りつくせぬものがるように思われてならないのだった。

少女の持つ心の痛みと苦しみまでも、いつの日か過ぎ行くものであることを示唆するラストシーン・・・。
ルコント監督の実体験から生まれた作品だけに、自身の9歳の時の心のままを描いたといい、それゆえ強烈な説得力を持つ。
韓国・フランス映画「冬の小鳥は、ひとりの少女の再生に願いを込めた、上質な味わいを持った感動作だ。
とりわけ、キム・セロンの演技に胸を打たれる作品だ。 


映画「バーレスク」―大人の夜の社交場―

2011-01-02 10:00:05 | 映画


   
    明けましておめでとうございます。
   今年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

   さて、この映画のタイトル「バーレスク」は、大人のためのセクシーな社交場という触れ込みだ。
   厳密な意味では、「滑稽」が語源だそうで、19世紀イギリスのミュージックホールでのショーが原点だといわれる。
   作品には、歌とダンスと物語(?)がある。
   スティーブ・アンティン監督アメリカ映画「バーレスク」は、クラブの再生にかけた女たちのステージだ。






田舎娘のアリ(クリスティーナ・アギレラ)は、その美しい歌声を武器に、スターを夢見て単身ロサンゼルスへやって来た。
そこで、彼女の心を奪ったのは、経営不振にあえぎながらも、セクシーなダンサーたちが、ゴージャスで、しかもどこか淫靡なショーを繰り広げる、大人のエンターテインメントクラブ“バーレスク”だった。

クラブ経営者のテス(シェール)からウェイトレスの仕事をもらい、アリはひそかに舞台へ上がるチャンスを狙うのだった。
生き残りをかけて必死のテスと舞台監督のショーン(スタンリー・トゥッチ)は、アリの歌唱力とダンスの才能を見抜き、次世代のスターとして売り出した。
母を幼くして亡くした孤独なアリだが、彼女はこのバーレスクで、テスを母、ジョージア(ジュリアン・ハフ)らダンサー仲間を姉とし、ただひとり主役ダンサーだったニッキ(クリスティン・ベル)の嫉妬を買うものの、女性として、ショーガールとして輝き始める。
唯一の気がかりは、ルームメイトで、バーテンダーのジャック(キャム・ギガンデッド)の存在だった。
彼は、フィアンセがいる身で、お互いの思いを胸に秘めたまま、二人の仲は進展しないでいた。

そんなある日、アリのステージに魅了された大物エージェント・マーカス(エリック・デイン)から、アリは引き抜きの誘いを受ける。
彼女は、バーレスク存亡の危機を救うか、自分の夢をさらにステップアップさせるか、自ら選択すべき岐路に立たされていた・・・。

シンデレラになりたかった少女が、華やかな都会でつかんだ本当の夢は何だったか。
映画は、内側からみなぎるエネルギッシュな生命力を感じさせる。
ダンサーたちも輝き、生き生きとしている。
田舎出の一人の女性が、このありえないほどの豪華絢爛の舞台で、バーレスクの観客を魅了する。
ひとりの少女の夢がかなうことで、周囲のだれもが幸せになり、そして元気になる。

華やかなメイク、ぎりぎりのエロス、カラフルな衣装、それらすべての“ファッション”が、男性にとっても、女性にとっても、憧れの女性像であるかのようだ。
それは、あくまでも見せないで“魅せる”チラリズムで、それこそが、アメリカ映画「バーレスク」のダンスの特徴だ。
そう、登場する女たちは、どこまでもたくましく、繊細で、セクシーで・・・。

ショーは華やかなもの、人生を素晴らしいと思わせなくてはいけない。
歌もいい。ダンスもいい。
だから、要するにイキがいいのだ。
大変残念なこともある。
イキのいい女たちの“物語(ストーリー)”が語られていないことだ。
ドラマ(物語)としては、この映画は貧弱だ。
物語性がなく、その目線で観ると、なあんだということになる。
「音楽」と「ダンス」が、大きなカギを握っていることを考えれば、これはこれでよいのかも・・・。
少なくとも、萎えてしょぼくれた男たちには、いくばくかの元気を与えてくれるかもしれない。