徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「七夜待」―日常からの離別―

2008-11-10 07:00:00 | 映画

「殯(もがり)の森」で、カンヌ・グランプリを受賞した、河瀬直美監督の最新作を観る。
この人、早いものでデビュー作「萌の朱雀」から、もう10年になる。
今回の作品の舞台は、故郷奈良から離れ、異国の地タイだ。
言葉の通じない、自分を理解してくれる人もいない、そんな異国の地で過ごした七つの夜・・・。

ヒロインの彩子(長谷川京子)は30歳、ひとり日本を旅立ちタイに降り立った。
しかし、ホテルに向かうはずのタクシーがたどり着いた先は、混沌とした森の中であった。
鬱蒼と生い茂る緑の森と、静かに水をたたえる川のほとりで出会ったのは、伝統的な高床式の小さな家で暮らすタイ人母子だった。
そこには、フランス人の青年グレッグ(グレゴワール・コワン)も滞在していた。

言葉が通じない、知る人もいない、ここがどこかも分からない。
癒されるはずの場所で、タイの湿気だけがまとわりついて、不安と苛立ちから心と身体で衝突する彩子は、やがてタイ式マッサージに触れ、濃密な自然に包まれて、見知らぬ人々と七つの夜を過ごすことになって・・・。
祈りを捧げる僧たち、喜捨を行うタイの人々、緑いっぱいの自然、子供との小さないさかい、何かに対する脅えと戸惑い・・・、彩子は、そこで新しい自分と向き合うことが出来るのだろうか。

主演の長谷川京子に、河瀬監督は、毎朝メイクの時に一枚のメモを渡したそうだ。
それは、その日一日に撮影する“行動”だけが記され、それ以外の台詞や相手とのやり取りなどは、自分自身で自在に‘演じて’いくというものであった。

タイ人の母子と4歳の息子、そしてタイ人のタクシードライバー、袈裟を着たゲイのフランス人・・・。
それぞれは、自分の行動しか知らされず、異国の俳優たちは言語が異なるだけでなく、お互いの関係性や、このあと起こる物語も知らされず、朝手渡された一枚のメモだけで、相手と対峙するのだ。
俳優たちも、こんな体験は初めてであったようだ。
局面ごとに、ヒロインは、豊かな表情と新鮮なリアクションで彩子を演じる。
言葉によるコミュニケーションが取れないのだから、相手のことも聞けない、自分のことも伝えられない。
そうした現場の状況を、そのまま物語にしていくという、河瀬監督の独特の演出手法が、果たして演技なのか本心なのか、判別のつかないリアクションと、俳優同士のリアルな触れ合いを生み出していく。
一見、不思議な設定で、観客はこの演出に抵抗なくついていけるのだろうか。

タイ式マッサージとは、2500年の歴史を持つ、タイの伝統医学だそうだ。
その根底には、仏教の教えがあって、「慈、悲、喜、捨」の心で、相手の苦しみを取り去ってあげたいと願い、相手の幸せを自分のことのように喜び、自分勝手な判断を捨て、物事のあるがままの姿を受け入れる、素直で自然な気持ちを言うのだそうである。
一種のリラクゼーションのようなものかも知れない。

非日常の生活を体感する中で、未知の言葉、人物の接触から、自分を発見するという旅に似ている。
いつも、様々な試みを実験する河瀬演出の意図は、分かりにくい部分もある。
河瀬監督は、空気、光、風といった、ある季節のある時間を大事にとらえているようにも見受ける。
 「・・・様々な人たちとの出逢いを通して、何かしら心身から余分なものを落として、生まれ変わる・・・。
 そんなストーリーですが、お話を追うだけでは何も描いたことにはならない。
 何気ない風景や暮らしを介在させることによって、そうしたことを伝えたい。
 それは、現代社会の中では見つけにくいことです。」
ある新聞の対談で、彼女はこのようにも語っている。

河瀬直美監督作品「七夜待は、言葉や文化の壁を越えた一体感を生み出そうとし、一人の女性が自分の中の‘滞り’を流していく様を、瑞々しく描いてはいるが、ややもすると、監督自身がひとりよがりな世界にはまり込みかねない危険を感じないでもない。


映画「アウェイ・フロム・ハー」―愛の切なさ―

2008-11-08 21:00:00 | 映画

サラ・ポーリー監督のカナダ映画は、新作ではないが、心に残る一作である。
ゴールデングローブ賞、全米批評家協会賞など、数々の賞に輝いた作品だ。
・・・君を幸せに出来るなら、この孤独を受け入れよう・・・。

サラ・ポーリー監督は、1979年生まれの若き女優だ。
彼女は、複雑な人間心理を実に巧みな演出と映像で表現した。
この作品は、一言で言えば愛の映画である。

忘れてしまうことの悲しさ、忘れられないことの苦しさ、そして忘れさせてしまう辛さもある。
結婚生活44年目の、フィオーナ(ジュリー・クリスティ)とグラント(ゴードン・ピンセント夫婦は、突然予期しない出来事に見舞われる。
フィオーナは、時として自分の名前が判らなくなったり、自分でも理解できない行動を取るようになって、医師からアルツハイマーと診断される。
ついに、フィオーナは、老人介護施設(ホーム)へ自ら入所を決断する。

1ヵ月後、面会を許されたグラントが目にしたのは、オーブリー(マイケル・マーフィ)という車椅子に乗った男の傍らで、恋人のように優しく世話をやいている妻の姿であった。
そればかりではない。
妻のフィオーナが、自分のことは全く覚えていないという、恐るべき事実であった・・・。

二人の夫婦をつなぐのは、忘れたい記憶と忘れられない想いだった。
今でこそ、お互いに満ち足りた毎日を送っていたが、フィオーナには、忘れたくても忘れられない想い出があったのだ。
それは、グラントが大学教授の時代に、女子大生と幾度も浮気をしていたことだった。

毎日施設を訪れるグラントだったが、フィオーナとオーブリーの間に芽生えた愛情が、日増しに深まっていくのを目の当たりにして、彼はいてもたってもいられない気持ちになるのだった。
フィオーナのオーブリーへの愛情は、自分に対する罰なのか。
それとも、フィオーナの復讐なのか。

一方で、オーブリーの妻マリアン(オリンピア・デュカキス)は、小さな家で孤独な生活を送っていたが、お金がかかるからと、彼女はオーブリーをホームから連れ戻し、ホームのフィオーナは落胆する・・・。
・・・そして、ドラマは意外な展開を見せることになる。

女性監督ならではの、心理描写がまことに細やかだ。
ヒロインを演じるジュリー・クリスティは、「ダーリング」という映画ではアカデミー賞主演女優賞を受賞しているし、幾つもの主演女優賞を総なめしているベテランだ。
芸達者のゴードン・ピンセントも、共演のオリンピア・デュカキス(アカデミー賞助演女優賞受賞)も、ともどもなかなかの演技派が揃った。

まだ20代のサラ・ポーリーは、長い時間を共に過ごして、その時間の共有があったからこその想いも、複雑に重なる知的なカップル(夫婦)の苦悩を、成熟した視点で見つめている。
人間の持つ、思いやりやいたわりが、年齢とは関係なく、老いや介護の問題に説得力を持つ。
別れ別れの老後を送らねばならない、二人の心境は複雑だ。

カナダ映画「アウェイ・フロム・ハー 君を想う」は、フィオーナとグラント、そしてオーブリーとマリアンの二組のカップルを見せながら、夫婦の愛と結婚、そこから生まれた罪悪感を浮き彫りにする。

・・・人間は、いつかは一人になるのだ。
高齢化社会、そして老々介護の時代・・・、老いも若きも、明日はわが身だ。
ある日、アルツハイマーを宣告され、次第に記憶が薄れ、最後には、妻の、あるいは夫の顔さえも判らなくなる・・・。
その怖ろしい現実が、本当に近いところにあるのだ。
  (最近、日本の映画界でおしどり夫婦といわれる、あの御夫妻にもまさにその兆候が現れたと、夫がテレビで
   その辛い胸の内を吐露していましたが・・・。)


映画「レッドクリフ」―ど肝を抜く歴史絵巻―

2008-11-06 07:00:01 | 映画

構想18年、制作費100億円と言われる。
「三国志」が、1800年の時を経て、愛と勇気の伝説として甦った。
中国、アメリカ、日本、台湾、韓国合作の、中国の鬼才ジョン・ウー監督の大作だ。
すぐれた知将たちの戦略戦が、2時間半観客を圧倒する。
ハリウッドも驚くような、ダイナミックな映画がアジアに誕生したものだ。

西暦208年、中国は、魏・呉・蜀の三国が争っていた。
魏の曹操(チャン・フォンイー)は、80万人の大軍と2000隻の戦艦を率いて、他の二国を圧倒していた。
呉の孫権軍の知将、周瑜(トニー・レオン)と、蜀の劉備軍の軍師、孔明(金城武は同盟を結び、たった5万の兵士でこれに立ち向かった


陸と水上から攻め入る、巨大な帝国の支配者、曹操との圧倒的な差を覆すために仕掛けられた、連合軍の奇策とは何であったのだろうか。
人徳の司令官周瑜、知略の軍師諸葛孔明らの、手に汗握る、迫力ある場面がこれでもかこれでもかと展開する・・・。
呉の猛将役にも、中村獅童ら個性豊かな人物が配置され、大河ドラマにふさわしい群像劇となっている。

ドラマは、曹操の野望の陰に隠された、周瑜の美人の妻小喬(リン・チーリン)を奪うという執念の炎を燃え上がらせて、有名な「赤壁(レッドクリフ)の戦い」へと、否応もなく突き進んでいく。
知恵と勇気を振り絞って、愛する者たちを守ろうとする戦いは、中国の歴史そのものを、大きく揺るがしていくことになるのだった。

「赤壁の戦い」は、三国志の中でも、最も熾烈な戦いと言われる。
世に、伏龍の異名をもって呼ばれた男、諸葛孔明が、27歳にして世に出た最初の正念場であった。
「九官八卦の陣」と呼ばれている、孔明の兵法の凄さが解る。
円陣を作って、罠に嵌めたあとで形を変え、改めて多数の陣形を作るのだ。
もともとは、亀の背中に書かれた魔方陣(亀の甲羅を形どった布陣)から考案され、孔明が工夫に工夫を重ねた陣形なのだそうだ。ここは、大軍に一泡吹かせる、今回の壮大なクライマックスシーンだ。

劉備は孔明を軍師として迎え入れるために、三度にわたって孔明を訪ねた。
この故事から、「三顧の礼」と言う言葉が生まれたことはよく知られている。

映画「レッドクリフ PARTⅠ」は、とにかく見どころ満載だ。
人間同士の葛藤や愛憎が渦巻いていただろうが、そのあたりの描写よりも、この作品の大半はどうしても合戦シーンなので、観ている方は結構疲れる。
それでも、来年4月に公開予定の続編PARTⅡがいまから期待される。

ジョン・ウー監督は、黒澤明監督の名作「七人の侍」を何度も見て、参考にしたと語っているように、かなりの影響を受けたことは事実のようだ。
本作の、豪快で緻密な演出は特筆に値する。


映画「ラフマニノフ ある愛の調べ」―白いライラック―

2008-11-04 13:00:00 | 映画
あるかなきかの風に乗って、枯葉が舞い落ちている・・・。
ピアノ協奏曲第二番 ― そう、あの魅惑的な名曲である。
最も弾きこなすことが困難な名曲を生み出す作曲家であり、超絶的な技巧を持つと言われる音楽の魔術師、セルゲイ・ラフマニノフの秘められた愛がここに綴られる・・・。
あの、不滅の名曲の誕生秘話である。

パーヴェル・ルンギン監督ロシア映画だ。
時代を超えて、人々を魅了する名曲を世に送り出したラフマニノフ・・、彼は驚くほど波乱の人生を送った。
生家の没落、恩師との決別、初めての交響曲の失敗、作曲家生命の危機、ロシア革命と亡命、そしてアメリカでの第二の人生・・・。

そんなラフマニノフの人生に、彩りを添えた三人の女たちがいた。
何もかも全てを捧げた初恋、短く燃えた美しい恋、苦悩する心を支え続けた愛・・・、その中から、数々の叙情的な、時にダイナミックに心を揺さぶる旋律が生まれてきたのだった。

1920年代、ラフマニノフ(エフゲニー・ツィガノフ)のニューヨークでの初コンサートがあった。
その夜、カーネギーホールは、熱狂的な感動に包まれていた。
人々は、目の前で繰り広げられる音楽の奇跡に、惜しみない讃辞を贈り続けた。
ただ、アメリカでの大成功とは裏腹に、ラフマニノフは、日々の多忙、募る強い望郷の念から、日に日に憔悴していった。
そして、新しい曲が書けなくなってしまっていたのだ。

そんなある日、ラフマニノフのもとに、贈り主不明のライラックの花束が届けられる。
その白い花の甘い香りは、切なく情熱的だった愛の日々を彼に甦らせるものだった。
ラフマニノフが募る思いを交響曲に捧げた年上の女アンナ(ヴィクトリア・イサコヴァ)革命に燃える瞳に心を奪われた女マリアンナ(ミリアム・セホン)そしてどんな時も傍らで自分を支え続けてくれた女ナターシャ(ヴィクトリア・トルストガノヴァ)・・・。
贈り主の分からない花束は、届き続けられる。
一体、誰が花束を送り届けてくるのだろう・・・?
ラフマニノフの心には、愛の記憶に導かれるように、新しい旋律が生まれて来ようとしていた。

天才ピアニストにして、天才作曲家の、ラフマニノフの名曲誕生に関わる物語は、どのようにして紡ぎだされたのか。
彼の伝記を知る意味でも、大いに興味深いものがあるけれど・・・。
ロシアからアメリカへの亡命、そしてその生涯をアメリカで過ごした、ラフマニノフの複雑な苦悩の内を、作品の中で、もっと深く掘り下げて描いて欲しかった気がする。
ロシア映画「ラフマニノフ ある愛の調べは、白いライラックに託された、詩情を感じさせる小品である。

映画「その日のまえに」―郷愁のような温もり―

2008-11-02 12:00:00 | 映画

映画化は難しいとされていた、重松清原作の連作小説を市川森一が脚色し、大林宣彦監督が映画化した。
大林監督は、自分の70歳の節目に、70歳の新人のつもりでこの映画を作ったそうだ。
故黒澤明監督は、生前“80歳の新人”になったとき、「映画がようやく少し分かってきた」と語っていたが、大林監督は「この年を迎えて、映画がますます分からなくなってきた」と語っている。
この作品は、その大林監督のこれまでの集大成とも思われる。

人生で、誰にでも訪れてくる「死」というものを、「その日」として厳しく見つめながら、斬新な映像とともに、その恐れや悲しみを踏み越えての、創造力世界への試みだ。
テンポも、明るさもある。元気もある。
ドラマの展開も、現在から過去へ、過去から現在へと、大勢の登場人物の動きとあいまって、「生と死」を見つめる群像劇が、独特の大林ワールドを彩る。
したがって、多くの場面がよどみなく画面をつなぐ格好になって、多少の忙しさは否めない。

育ち盛りの、二人の息子を持つ健大(南原清隆)の妻とし子(永作博美)は、病に倒れ、突然余命を宣告される。
“明日”を断ち切れない夫は、妻とともに、「その日」に向かって、残り少ない日々を懸命に生きていく・・・。

・・・「奥様の余命は、あと一年ほどと思われます」
幸せな日々を過ごして来て、突然の告知だった。
元気なうちにと、二人が向かったのは、新婚時代に住んでいた町だった。
18年ぶりに訪れた町は、すっかり様変わりしていた。
心配顔の健大の気持ちをよそに、妻は元気にはしゃいでいた。
 「思い出めぐり、スタートよ!」

現在と過去、いろいろな人たちとの出会い、様々な「生」と「死」がそこにめまぐるしく交錯する。
・・・「その日」が訪れ、そのあとに近くで花火大会のシーンがある。
健大は、二人の息子と夜空に浮かぶ花火を眺めている。
ふと振り向くと、その花火のようにまぁるい顔の妻とし子がいる・・・。
 「ただいま」と、彼女が言った。
生きている者も、先に逝った者も、仲良く花火の照り返しを浴びている。
 「とし子、見えるよ。いまの僕には、みんな見える。君が見ていたものは、見えるんだよ」

作品には、どこか妙に懐かしいノスタルジーや抒情が漂っている。
映画は、死んでいく人たちの見た情景を、重ねるように綴っていく。
作品の中で、幾度も印象的に繰り返される宮沢賢治の「永訣の歌」は、原作でも冒頭の場面で登場する。
・・・新婚時代の思い出の場所にたたずむ、とし子(永作博美)の柔らかな微笑み、食卓での子供たちとの屈託のないやりとりなどのシーンには、ほのぼのとしたぬくもりも感じられる。
人は、短い一生の中で、何を一体残していけるだろうか。
大林監督その日のまえには、そんな問いを投げかけているようにも思われる。

映画のラスト、ヒロインが亡くなって三ヵ月後、ちょっぴり胸の熱くなるシーンだ。
 「奥様が亡くなる前に、お預かりしました」
そう言って、看護婦が健大に手紙を差し出した。
それを、ゆっくりと開いて読む、健大・・・。
たった、ひとことだった。
 「忘れてもいいよ」