徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「アレクサンドリア」―歴史に葬られた伝説の都市の物語―

2011-03-29 15:00:00 | 映画

                            
     
     誰もが言った。
     そこは、真実が滅び去ったところだと・・・。
     アレハンドロ・アメナーバル監督の、スペインの映画だ。

     実在の天文学者のたどった、数奇な運命を描いている。
     4世紀、エジプト・アレクサンドリアを舞台にした、このスペクタクル史劇は、見どころたっぷりの快作だ。
     ローマ帝国末期に伝説を残した、実在の科学者の物語は、ヨーロッパ映画史上最大級の製作費をかけて、壮大なスケールだ。
     この作品、まずまず楽しめる。



 時は4世紀、エジプト・アレキサンドリアである。
栄華を極めたこの都市にも、混乱が迫りつつあった。
そんな中で、類いまれなる美貌と明晰な頭脳を持った、女性天文学者ヒュパティア(レイチェル・ワイズ)は、分け隔てなく弟子たちを受け入れ、講義を行っていた。

ヒュパティアは、「世の中で何が起きようとも、私たちは兄弟です」と訴えていた。
彼女は、生徒であり、のちにアレクサンドリアの長官となるオレステス(オスカー・アイザック)、奴隷ダオス(マックス・ミンゲラ)は、密かにヒュパティアに想いを寄せていた。

やがて、科学を否定するキリスト教徒たちと、彼らの教えを拒絶する学者たちの間で、激しい対立が勃発する。
暴徒と化した、キリスト教徒への弾圧が激化していく中で、この都市のキリスト教指導者たちに、多大な影響を与えているのはヒュパティアであることに気気づく。
そして、彼らの攻撃の矛先は、ヒュパティアに向けられていくのだった・・・。

4世紀と現代をつなぐダイナミックな作品で、ヒロイン(レイチェル・ワイズ)は、その美貌で多くの男たちから求愛されながらも、人生のすべてを学問に捧げ、誇り高い信念に生きた女性として、物語をドラマティックに盛り上げる。
奴隷が、人間として扱われなかった、悲しい時代のことである。

ヒュパティアという女性は、異教徒だったし、キリスト教徒からは、数学や科学は異教で邪悪なものと思われていた。
しかし、彼女は、女性の立ち入らない哲学や科学、天文学の分野に大きな功績を残し、その学識の深さのゆえに、市の為政者たちの相談役でもあった。
その彼女が、最終的には抹殺されてしまったことで、かつて、地中海の真珠と謳われた都市アレクサンドリアの復活は遠ざかり、暗黒の時代がもたらされたといわれる。

スペインのアメナーバル監督は、極めてキリスト教色の強い人なのだそうだ。
その人が、ヒュパティアの物語を撮ることにあたっては、相当の覚悟を必要としたのではないか。
アレクサンドリアときけば、科学や天文学が進んでいたことを思うが、歴史の中では、その芽が無残にも摘み取られてしまうことになる。
その様子を、興味深く観ることになる。

ヒュパティアは、自らの叡智を宿した、純潔の肉体をバラバラにされ、虐殺されるという非業の死を迎えることになるのだ。
古代の神々、たとえば古代エジプトのオシリス神もそうであったことを考え合わせると、そのことが復活再生であり、再生を司るがゆえに殺害されたのだという逸話もわかる気がする。

1600年を経て、アレハンドロ・アメナバル監督のこのスペイン映画「アレクサンドリア」を観るとき、広大な宇宙の謎を解くことが目標だったヒロインの、数奇な運命を知ることは、とても興味深い。
のちに、18世紀ヨーロッパロマン派詩人の間で、伝説の女性となったのもうなずけることである。
それも、彼女が、史上最初の女性天文学者だからだ。

科学が、宗教の前に敗れたのだ。
そこから、暗黒の中世は幕を開けたのだ。
宗教が科学を破る・・・、そんなシーンをいまの時代に見るとも思わなかったが、古代アレクサンドリアの街の再現(復元)は、史実に虚構を交錯させた歴史絵巻をつくりあげた。
ローマ帝国末期のアレクサンドリアを舞台に、大勢の登場人物を配し、スペクタクル史劇として観るかぎり、ドラマが壮大な作品のわりに、終盤のあっけなさは少々寂しい。
21世紀のテクノロジーで、1600年の昔を体感する映画だ。


映画「クレアモントホテル」―品位を忘れずに人生の終焉を生きて―

2011-03-25 22:00:00 | 映画


     
     彼岸を過ぎて、なお寒い日が続く。
     そんな時には、陽だまりが温かい。
     温かい場所は、すこぶる居心地がよい。

     この映画は、老婦人と青年の交流を綴った小品だ。
     人生に対する、限りない愛をこめて・・・。
     ダン・アイルランド監督イギリス・アメリカ合作映画に、大げさな気負いは何もない。
     ごく普通の映画なのに、どこか温かい。





 英国・ロンドンの街角に、慌ただしい時代から取り残されたような、古びたホテルがある。
クレアモントホテルだ。
長期滞在向きのこのホテルに、人生の終着駅に近づいた人たちが、引き寄せられるようにやって来る。
サラ・パルフリー夫人(ジョーン・プロウライト)も、そのひとりであった。
彼女は、娘から自立するためにここを訪れ、ホテル暮らしを始めた。

新入りのパルフリー夫人は、老いた先客たちの注目を集める。
どこかいつも孤独におののきながら、あてのない誰かからの電話を待っているような、ホテルの住人たちの関心は、夫人のところにだれが訪問してくるかということだった。
しかし、夫人のところには、娘も孫も訪ねてくることはない。
夫人は、彼らに孫の話をするのだが、本当の孫はいないし、だから現れない。

ある時、パルフリー夫人は外出先で転び、近くに住む青年のルード(ルパート・フレンド)に助けられる。
夫人は、こころ優しい彼を、自分の孫に仕立てようと思いつく。
日々の暮らしさえもままならない、小説家志望の青年との、世代の異なる二人の心の交流が始まる・・・。

こうして、孤独ながらも、ユーモアとウイットを忘れないホテルの住人たちの中で、パルフリー夫人は、青年を通して、亡き夫との思い出を紡ぎ、青年は夫人から人生の奥深さを知る。
この二人の出会いと別れ、彼らを取り巻く愛すべきエピソードと、それらの喜びや哀しみを、じんわりとした温もりとともに、優しくやわらかい春の日差しのように描いている。

ダン・アイルランド監督映画「クレアモントホテル」では、ヒロインのパルフリー夫人を演じるベテラン、ジョーン・プロウライトのあくまでも気品のある存在感がいいし、青年ルード役のルパート・フレンドもいい。
老いてなお失われない人生への前向きの姿勢、若さへの賛歌を綴りながら、そこはかとない温かみが、主人公の愛読するワーズ・ワースの詩集とともに、人生の様々な‘楽章’が抒情豊かに奏でられる。

主人公が、知らない場所に踏み込んだときの不安は大きい。
ホテル滞在の初日に、パルフリー夫人がお洒落をしてホテルの食堂を訪れて、逆に恥をかいたり、他の人たちから好奇の目で見られたり、冷ややかな空気が流れたりするのだが、毎日顔を合わせているうちに、誰とも打ち解けて、人それぞれの善さが見えてきて、この世は誰もがいい人なのだと感じさせるあたり、女性監督ダン・アイルランドの実直な目線に共感できるのだ。
斬新な表現や、遠大な思想を謳っているわけではない。
凡庸な作品と見えて、後味も心地よく、しかも小さな宝石を思わせるような、珠玉の一作だ。


映画「ヤコブへの手紙」―祈りを湛えた大人の寓話―

2011-03-21 10:00:00 | 映画



     人の心の深奥に迫りながら、人間の孤独と愛しさを描いた作品だ。
     ゆったりとした、くつろぎと優しさの込められた、めずらしい北欧のフィンランド映画である。
     クラウス・ハロ監督によるこの作品は、その作風からしていかにも地味で、古風であることは否めない。
     しかし、かなり密度の濃いドラマだ。

     物語は、美しい田園地帯の牧師館を中心に織りなされる。
     全編にわたって響き渡る、哀しみの調べは強い。



          
12年間を、模範囚として刑務所で暮らしたレイラ(カーリナ・ハザード)は、恩赦で出所した。
彼女は、片田舎に一人で住む、ヤコブ牧師(ヘイッキ・ノウシアイネン)の家で働くことになった。
レイラは、聖職者のヘルパーになって、古い館に住み込む。
彼女の仕事は、盲目の老いた牧師のために、毎日ヤコブに届く手紙を読み、返事を書くことであった。

毎日届く手紙を楽しみにしているヤコブだが、レイラは、心を閉ざしたまま、嫌々ながらこの仕事をこなしていく。
郵便配達人(ユッカ・ケイノネン)は、ヤコブのなじみの男だった。

ヤコブは、たぐいなくひたむきで、清廉な魂を持っていて、盲人ゆえに心の目で人の心を見ている。
そして、牧師らしく、人々からの悩みや魂の叫びに答えることで、なぐさめ、励ましを与え続ける。
レイラの方はというと、彼女は宗教や慈善も信じようとせず、いつも自らの感情移入を避け、心は凍てついていた。
いわば、この二人は社会から隔絶された格好で、生活を始めたのだった。
郵便配達の男は、突然現れたレイラに不信感を抱く・・・。

そんなある日を境に、ヤコブへの手紙がぷっつりと途絶える。
ヤコブは、生きがいだった手紙が届かず、「目の不自由な老いぼれは、もう必要ないのか」と、日に日にふさぎ込み、懊悩する。
レイラは、牧師館を去ろうとして車を呼ぶのだが、行く先はなかった。
彼女は自殺を図ろうとするが、ふみとどまって、ヤコブに重い心を開く。
そして、レイラはヤコブ牧師に、手紙が届いてもいないのに、「手紙が来ましたよ」と告げる。
彼女は、「親愛なるヤコブ牧師さま・・・」と、今まで誰にも告げなかったことを、自らヤコブに語り始めるのであった・・。

このドラマは、人のつながりや友情といったものを、一番求めてやまなかったのに、それをあきらめてしまった人たちが、それでもなお、つながり(連帯)や友情を探し求める物語だ。
ドラマの中で、なかなか噛み合おうとしない、ヤコブとレイラの間を取り持っているように見えるのが、郵便配達人だ。
その彼が夜ヤコブの家に侵入したり、ヤコブに毎日届けていた手紙も突然届かなくなったりと、わからないことも多い。
どうにも何らかの説明がほしいところだが、それがない。
しみじみとした作品の終盤は、いかにも切ないラストシーンなのだが、それでも、一片のほのかな明るさも暗示して・・・。

フィンランド映画「ヤコブへの手紙」には、全編を通して暗く哀しいトーンが漂っていて、でもそれは敬虔な祈りのようでもある。
ささやかなくつろぎもないではないが、人間の孤独と寂しさを感じさせる、心にしみるような小品だ。
いろいろと気ぜわしい今の世の中に、こうした静謐な作品があってもいい。


東日本大震災―緊迫!国家未曾有の大惨事―

2011-03-18 13:15:00 | 雑感

季節だけは、確実に春に向かっているというのに・・・。
全世界に、テレビを通して放映された惨憺たる光景は、もはやこの世のものとは思えませんでした。
みちのくの人々の暮らしのすべてを呑み込み、多くの街々が、一瞬にして消え去ってしまいました。
いま、無情の時だけが過ぎていきます。
連日の新聞、テレビの報道に接して、もう他人事とは思えず、余震もあってか、いろいろなことが脳裏をよぎって、ゆっくり寝つけない日々を送っています。

東日本大震災で、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様、そのご家族の方々に、心からお見舞い申し上げます。
どうか、一日も早い復旧復興をお祈り申し上げます。合掌。

M9クラスの大地震と大津波の威力について、どれだけの認識を持ち得ていたでしょうか。
おそらく、誰もが想定外のことだったわけで、津波の本当の恐ろしさが、全くと言ってよいほど伝えられていなかったように思えます。
地方の行政は、これまで何をしてきたのでしょうか。
防災対策は万全だったと、言えるのでしょうか。

追い打ちをかけるように起きた、相次ぐ原発の爆発事故では、放射能による大量被爆の新たな恐怖に直面し、なすすべもないのでしょうか。
日本の発電の3割を占めるそうですが、地震大国の日本で、沢山の原発施設が必要なのでしょうか。
それよりも、電力消費の無駄な部分を、もっと見直してはどうですか。
原発とてダムと同じで、政管癒着の構造の中で、一部の業者や役人の利益になっているというではありませんか。
いまの日本のそうした社会構造に、大いに問題があります。
福島原発は、安全性の面で、根本的な疑問を投げかけています。
いまや、核被爆国たる日本に、その選択を抱えている問題を、大きく見直す必要があるといえます。
どこが安全なものですか。
「安全神話」は、まやかしに過ぎません。
日本に、原発は向いていないと思うのが自然です。

福島原発は、1基で、広島の原爆700発分以上の核を燃やしているといいます。
かりに1基分の1%といえども、原爆4発以上に相当するから、もし放射能が漏れるようなことがあったら、大惨事は免れないでしょう。
そう思うと、ぞっとします。
地震、津波に、さらに追い打ちをかけるような惨事の連続です。
それで、本当に「安全」なのですか。「大丈夫」なのですか。
決して予断の許されない状況が、いまも続いています。

大津波の惨事といい、原発事故といい、「想定外」といいますが、大惨事というのはいつだってそうした「想定外」で起きるものです。
途方もない数の人々が避難民となり、行き先もままならないままさらに増え続けています。
最終的には、50万人(3月16日現在・朝日新聞)に達するとういう声もあります。
食料や医薬品なども、ここへきてようやく被災地に届き始めたばかりです。
頼りにすべき菅民主政権は、千年に一度(?)の大災害を前に、おろおろするばかりです。

東京電力の計画停電についても、もう少しやり方を考えて、住民にわかりやすい伝達を心がけてほしいものです。
グループ分けもそうですが、いつどこでということが、初めはよくわかりませんでした。
停電は、やむを得ない措置です。
ただ、時間帯、場所、対象をよく考えて、住民の生活を最優先に、統一性のある方策が考えられないものでしょうか。
そんなときに、東京ドームでの、プロ野球のナイター開催が決まりましたが、何故、いまナイターなのか、理解に苦しみます。
国民に勇気を与えるための強行だそうですが、さあどうでしょうか。
開催時に、ナイター分だけで約4万キロワット(一般家庭5000世帯分)の電力を消費するそうです。
多くの市民が、計画停電に黙々と従っている時に、ずいぶん現実離れのした話ではありませんか。
東電については、計画停電もそうですが、突然の鉄道運休でも大きな混乱を招きました。
あれは、何なのですか。
駅に行くまで知らなかった人が、ほとんどだったといいます。

東電については、情報の徹底といい、その対応のまずさが指摘されました。あまりにも官僚的で・・・。
原発事故は、初期の監視段階で異常を早く見つけられなかったことが、事態の深刻化を招いたのです。
言ってみれば、原発事故は、明らかに人為的なミスが、大事故につながったと考えられます。
どうも、確かな情報がいまだに後手後手に回り、1分1秒の時間との戦いになっています。
果たして、国民には、間違いなく本当のことが、伝えられているのでしょうか。疑わしくもなってきます。
どうか、原発被害を最小限に抑えて、どんなことがあっても、怖れている最悪の事態を回避して頂きたいものです。

スーパーをのぞいてみました。
被災地でもないのに、食料品(牛乳、パン、納豆、卵、米)の品切れが続き、おひとり様1個までと書かれたトイレットペーパーを、家族4人で4個も買い占めていく人たちを見ました。
首都圏にまで広がってきている、ガソリン不足は言うに及ばず、家電量販店では、乾電池、蝋燭、懐中電灯まで、姿を消してしまいました。
余震やら、今後起きるかもしれない災害への不安から、多くの主婦たちが買いあさっている姿を目にしましたが、これとても政府が当てにできないからで、食品パニックがあちらこちらで起きているのです。
そして、このことが、今後の食料品価格の急騰にだってつながりかねません。
解りきったことですが、こういう時は不要な外出も控えて、本当に必要なものだけを買い求めればいいのではありませんか。
いたずらに、妙な群集心理に惑わされずに、買い占めは控えたいものです。

いま、被災地では、物資が不足しています。
鉄道や陸路が寸断されているなら、自衛隊の空輸で、どんどん空からの投下作戦だって考えられるはずです。
あらゆる手段を講じて、救難作業の道を急がなければ、冷たい寒さの中で避難している人たちを救うことはできません。
生存者の救出、被災者のケア、原発対応、復興支援、これらすべてを同時進行で、的確かつ迅速に履行しなければならないのです。
それが、政治というものです。
「水をくれ、食べるものをくれ、毛布をくれ、暖房器具を!」
かつてなかった深刻な危機が、喫緊の救援を求めています。

いま、国会議員の皆さんは何をしていますか。
どうぞ、飢えと寒さに苦しんでいる人たちの、悲痛な叫びを聴いて下さい。
国は、総力を挙げて、国民の生命と財産を守るべき義務があります。
国家未曾有の大災害のただ中ですから、もう不便や我慢は覚悟の上で、誰もがともに助け合い、この困難と戦っていく努力が求められています。
被災地で頑張っている、自衛隊員が言いました。
 「これは、もう戦争だ」と。
日本人は、これまでも幾多の困難と戦ってきた、強い国民なのです。
人は誰でも、何か出来ることがきっとあるはずです。
たとえば、節電だっていいではありませんか。これぐらいは出来ます。
日本人は、みんな仲間です。
困ったときには、支え合って、ともに生きる同胞です。
重大かつ深刻な国難、この未曾有の危機を乗り越えて、必ず新しき明日の来ることを信じて・・・。
合掌。


映画「ショパン 愛と哀しみの旋律」―その知られざる禁断の恋―

2011-03-13 16:00:00 | 映画



     愛が哀しみに変わるとき、美しい旋律は永遠を生む。
     ピアノの詩人と称えられた、ショパンの半生を綴る。
     ショパンが、生涯もっとも愛したフランスの女流作家、ジョルジュ・サンドとの愛である。
     めずらしく、ポーランド映画だ。
     イェジ・アントチャク監督
激動の人生を生きたショパンを、数々の名曲とともに描いた、壮麗な叙事詩だ。






   
19世紀、ポーランド・・・。
愛国心を胸に秘めた、若き作曲家フレデリック・ショパン(ピョートル・アダムチク)は、ロシアの圧政に蹂躙されていく母国の姿に、心を痛めていた。
彼は、より自由な芸術活動を求めて、ポーランド出国を決意する。

ショパンは、パリでは自分の音楽が認められず、失意の底にいたが、フランツ・リストの計らいで、念願のパリ・デビューを果たし、たちまちにしてサロン界の寵児となった。
そして、いよいよ名声の階段を昇りつつあったショパンは、男装の麗人として知られる希代の人気作家ジョルジュ・サンド(ダヌタ・ステンカ)と運命的に出会い、彼女の情熱に飲まれるように愛が始まる。

ジョルジュ・サンドはパリ社交界の寵児だったし、当時フランス最大の作家でもあった。
彼女には、すでに家庭があったが、財産と二人の子供たちの親権をめぐって、前夫と裁判で争い、その間にも詩ミュッセをはじめ、数多くの男性との関係を噂されていた。
サンドは、まさにパリ社交界の絶頂にいた。

その一方で、ショパンには貴族の娘マリアとの婚約話もあったし、当初はサンドに何の関心もなかった。
それでも、ショパンの才能に惚れたサンドは、ためらうことなく、積極的にその熱い想いを伝え、すっかりショパンを虜にしてしまった。
ショパンは、結局サンドの優しさに心を動かされ、二人の関係は8年にわたって続くことになった。
サンドの献身と尊敬の眼差しは、もっぱらショパンに注がれるのだが、しかし歳月とともにお互いの感情は次第に変貌していく。
サンドは愛から憎しみに、ショパンは愛から哀しみに・・・。
このころ、サンドは「愛の妖精」「笛師の群れ」といった傑作小説を、次々と発表していたし、ショパンは「24の前奏曲集」を完成させていた。

サンドは、成長した子供たちの母であった。
子供たちは、ショパンにすべてを捧げようとする、サンドの姿勢を快くは思っていなかった。
サンドの息子モリス(アダム・ヴォロノーヴィチ)は、母の愛を独占しようとするショパンを憎むようになり、娘のソランジュ(ボジェナ・スタフーラ)は、天才ショパンに尊敬以上の感情を抱き始めてしまったのだ。
こうして、ショパンとサンドとの間に、子供たちを巻き込んで、ドラマは予想もつかなかった悲劇へと発展していくのだった・・・。

ドラマの中でも演奏される、「幻想即興曲」「ピアノ協奏曲第1番」をはじめ、ショパンの名曲が素晴らしい。
それだけで、音楽映画の趣きを満喫できる。
彼の壮大な音楽の底流には、ジョルジュ・サンドとの許されざる恋があったからで、映画では初めて、ワルシャワ、パリ、マヨルカと、ショパンゆかりの地がすべてロケで、彼の足跡をたどれるのはいい。
サンドとの出会いなくして、ショパンの成功はなかったのだ。

この物語は、見方を変えると、ジョルジュ・サンドの物語とみることができる。
彼女の気性の勝った献身は、史上の事実でもあろうし、彼女の出現によって、ショパンの晩年の音楽がいかに深みを増していったかがわかる。
二人のエピソードについては、いろいろな文献でも、文学的、芸術的によく知られていることが多く、それを実際に映像で見ることで、ショパンの人生と音楽がどのように形成されていったか、その知られざる悲劇に触れるとき、ショパンが39歳という若さで世を去ったことは、惜しまれてならない。
イェジ・アントチャク監督ポーランド映画「ショパン 愛と哀しみの旋律」は、2010年ショパンが生誕200年ということもあり、彼の音楽からはポーランド人の誇り高い精神を感じ取ることができる。

この作品のヒロインについて、ひとこと苦言を呈したい。
ショパン役のピョートル・アダムチクは、ほれぼれするような美男子で申し分ない。
それなのに、ジョルジュ・サンドの方は、本人は、どうも写真などで見るかぎりなかなかの美貌のはずなのだけれど、彼女を演じるダヌタ・ステンカさんは、はっきり言って、とても怖そうな小母さんなのであります。
これは、どうにも期待外れで、激しく落胆(!)したのであります。




映画「モンガに散る」―黒社会に揺れる青春の抗争と友情―

2011-03-11 23:07:10 | 映画




     ・・・俺たちは、帰り道のない世界にいた。
     この街で誓った友情は、永遠に続くものと信じていた。
     ニウ・チェンザー監督の、台湾映画だ。

     1980年代、台北市西部の最も古くから栄えていた下町、モンガ・・・。
     現在の、台北市繁栄の起源となったこの街には、歓楽街があった。
     同時に、ここで、極道たちが縄張り争いを繰り広げていた。
     黒社会で翻弄される、若者たちの友情と絆を、当時の世相を織り交ぜて描いている。



1986年・・・。
台北一の歓楽街モンガに、高校生のモスキート(マーク・チャオ)は引っ越してきた。
彼は、学校内での争いをきっかけに、モンガ一帯の権力を握る、廟口組の親分の一人息子“ドラゴン(リディアン・ヴォーン)と、その幼ななじみで頭の切れるモンク(イーサン・ルアン)に気に入られる。
モスキートは、彼らの率いるグループの5人目として迎えられる。

最初は、極道の世界に戸惑いつつも、生まれて初めてできた友達と喧嘩に明け暮れながら、モンガの街で、モスキートはモスキートなりに青春を謳歌していた。
次第に、彼らは固い絆で結ばれ、義兄弟の契りを交わし、仲間のために戦うことを誓い合っていた。

そんな時、街の利権を狙う新しい勢力が、モンガに乗り込み始める。
5人の仲間たちは、激しい抗争と陰謀の渦にまきこまれる。
それぞれの思いを抱えながらも、自分たちの街を守ろうと戦っていた。
しかし、、その争いは、やがて彼らにいやがうえにも、悲しい運命をたどらせていくのだった・・・。

抗争の街モンガは、ここでは友情の街でもあった。
このニウ・チェンザー監督作品「モンガに散るは、随所で血で血を洗う暴力抗争が描かれるので、観るのはつらく、痛い。
台湾では、初日の興行で、 「アバター」を超える大ヒットとなったそうで、台湾映画としても歴代第一位となった。

若者たちの青春の疾走を描きつつ、黒社会の荒波に揺れる小舟に乗り合わせてしまった、彼らの約束と裏切り、そして固い絆と友情や夢を綴った、骨太の作品だ。
時代設定は1980年代だから、誰もが際限のない高度経済成長を信じて、明日よりは今日、今日より明日はもっと輝かしい日が来ることを夢見ながら、突っ走っていた時代だ。

元気な若者たちが、青春を謳歌する中での刺激的な日々と、やがて、黒社会への抗争に巻き込まれて直面する、過酷な試練を革新的なスケールで描く。
この作品の影響は大きかったようで、様々な社会現象まで巻き起こした。
抗争の果ての裏切り、復讐の繰り返される中、仲間同士の死闘はいつ終わるとも知れない。
若者たちが、撮影では本当に指を切り、契りを結ぶシーンが登場したりと、そのスピーディなアクションとあいまって、体中が痛くなりそうだ。

台湾ニューウエーブというが、1980年代当時の時代の気分が、この映画には色濃くにじんでいる。
作品の台湾での成功で、何でも10億円という経済効果がもたらされたとされる。
おそらく、演出のエモーショナルな部分が、人間ドラマとして受け入れられたのではないか。

今となっては、決して戻ることのできない過去の時代に対する距離感・・・、変わってしまった友情、変わってしまった時代を前に、取り返しのつかない過去への哀しみがひたひたと寄せてくる・・・。
この視点は、貴重だ。
粗削りな反面、強烈なインパクトがある。
極道という世界に生きた若者たちの、熱くエネルギッシュで凄惨なドラマだ。
はらわたをえぐり取られるような、この耐えられないほどの痛みはどうしたことか。
青春映画とはいえ、あまりにも痛ましく、哀しい。


     「東北地方太平洋沖地震」には、驚きました。
     国内の地震観測史上、最大規模の巨大地震(マグニチュード9.0)ということで、刻々伝えられる被害の大きさに言葉もありません・・・。
     この東日本大震災、巨大津波が、まさに現実に日本を襲ったのかと思うと・・・。
     御政道が乱れると、天も地も怒り、天変地異起こるとはこのことで、古来からの日本の言い伝え通り(?)ではありませんか。
     大変なことになりました。
     大惨事で、多くの方が犠牲になりました。合掌。
     こうしているいまも、不気味な余震が続いています。
     これから、いろいろなことが心配ですが、政府は、こんな時にこそ、いかにして国民を守るかが問われています。
     政治が、国民のために何をなすべきか。
     国を挙げての、救援が急がれます。合掌。


映画「ツーリスト」―謎めいた美女に翻弄される旅―

2011-03-09 10:00:01 | 映画

     
     アンジェリーナ・ジョリージョニー・デップといった、当代きっての人気スターの共演が、話題をさらっている。
     映画の人気の方が、かなり先行している。
    フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督の、アメリカ映画だ。
     この人はドイツ人で、他の主要なキャストも含めて、スタッフ全員がアカデミー賞受賞か、もしくはノミネートの経験者だ。
     キャスト、スタッフ、そして舞台と、これだけでもなかなか豪華な布陣だが…。
     
     主演二人の、ゴージャスな魅惑の旅で起こる、ラブ・サスペンスである。
     イタリアの水の都ヴェネチアを舞台に、追う者、追われる者たちの、ちょっぴりミステリアスなドラマだ。
     でも、それにしてはありきたりの設定で、物語の底が浅い。
     どうやら、そんなに大騒ぎするほどの作品ではない。



アメリカ人旅行者フランク(ジョニー・デップ)は、パリからヴェネチアへ向かう列車の中で、謎めいた美女エリーズ(アンジェリーナ・ジョリー)と出会う。
フランクは、彼女に誘われるままに、ヴェネチアの超一流ホテルにチェックインする。
二人は、そこで、夢のようにゴージャスで、ロマンティックな時を過ごすのだった。

しかし、一夜明けると、悪夢とも思える、怖ろしい運命が待っていた。
フランクは、エリーズの恋人で誰にも顔を知られていない大物犯罪者と、同一視されることになってしまった。
そして、捜査当局と巨大マフィアの双方から、追われる羽目になったのだ・・・。
フランクは、自分の恋人の身を守ろうとするエリーズに、利用されていることに気づきながら、危険に身を投じていくことになる。

二人は逃亡するうちに親しくなるが、度重なる危険から、フランクはエリーズにその命を救われる。
ことのすべてを知ってからも、彼は、今度は自分の体を張って、エリーズを守ろうとするのだった。
それは、エリーズの優しさやたくましさに、男としてひかれていったからであった。
・・・やがて、事件の真相が、迷路の謎解きのように明らかにされていくのだが・・・。

ヴェネチア、そこは、光と影が怪しく揺らめく水の都だった。
周囲に張りめぐらされた、迷路のような罠からの、フランクとエリーズの脱出劇が見ものだ。
この危険な旅の果てに、どんな結末が二人を待っているのだろうか。
…なんて言うと、どうしたってミステリーな展開に期待が高まるところだが、さて・・・?

ジョニー・デップは、ジャック・スパロウなどこれまでのあくの強い役ではなく、今回は美女に誘惑される、どこにでもいるような男を演じ、気取りのないのがよろしい。
パリに住む、謎の女を演じるアンジェリーナ・ジョリーの、ファッションやメイクも注目なのだろうが、ドラマとしての映画にとくに新鮮さは感じない。
ドラマは、ハチャメチャでテンポもサスペンスもありだけれど、何だか少し馬鹿馬鹿しい。
それよりは、ヴェネチアの運河やサン・マルコ広場、老舗ホテル「ダニエリ」など観光スポットの方が気になる。

映画の楽しみ方は、いろいろあって結構だ。
そのひとつは、華やかなスターが躍動するさまを、大写しで堪能できることだそうだ。
そうした好みは、人によって違うだろうし、様々だ。
物語性にとらわれていると、ドラマも陳腐で、男と女のありふれた出会いから、二人が一緒に旅をしながら、実は、事件の渦中にはまり込んでしまうというような筋立ては、もう散々見飽きていて、新味に乏しいものだ。

アメリカ映画「ツーリスト」のアイデアそのものは、アンジェリーナ・ジョリーからの提供を受けて、ドナースマルク監督がラブスートリーに仕立てたといわれる。
彼女自身の、強いキャラクターを生む潜在性は、彼女自身と重なる部分も感じられなくはない。
監督がヨーロッパ出身だからか(?)、アメリカ人観光客を皮肉るジョークも出て来たりして、完璧な英語を使うはずのイタリアのホテルで、あえてスペイン語で対応するあたりは、お笑いである。
何はともあれ、どうしても内容より、人気先行タイプの作品だ。

ドナースマルク監督は、一度ラブストーリーを撮ることにこだわりがあったようだが、前の初長編「善き人のソナタ」(アカデミー賞外国語映画賞受賞)の方が、人間の心の深奥に迫る、すぐれた作品だっただけに、どうしてもあちらの方に強い印象がある。
余談ながら、本作「ツーリスト」のPRで先日来日したジョニー・デップは、今春(5月)公開予定のシリーズ4作目「パイレーツ・オブ・カリビアン(3D同時公開)で共演した、19歳のモデル兼女優クリステン・スティーブンソン・ピノに夢中なのだそうだ。
いま、この30歳近くも年下の女優とのゴシップが、彼と事実婚を続けている女優兼歌手のバネッサ・パラディを悩ませているとかいないとか・・・。


映画「新しい人生のはじめかた」―出逢いから紡がれる物語―

2011-03-06 10:00:00 | 映画

・・・人は、時とともに確実に老いていく。
過去を、振り返ってばかりいられない。
いつまでも、前向きに生きることから、新たな希望も見えてくる。
何気ない、ふとした出会いから始まるものもある。

中高年とて、捨てたものではない。
生きていれば、また新たな人生も始まる。
そのために、一歩踏み出す勇気も、ときには必要だ。
そんなことを感じさせる、中高年向きの旧作なのだが、このドラマ、さりげない味わいがあって、なかなか心地よいのだ。
ジョエル・ホプキンス監督イギリス映画だ。

 CM音楽家のハーヴェイ・シャイン(ダスティン・ホフマン)は、離婚後ニューヨークで、ひとり気ままに暮らしていた。
そんなある週末に、イギリスで働いている一人娘の結婚式で、ロンドンに行くことになった。
しかし、宿泊先のホテルは最悪、トラブルで仕事は干され、あげくに、娘は義理の父とバージンロードを歩くと言っている。
ハーヴェイは、絶望的な気持ちになり、ヒースロー空港のバーでヤケ酒をあおっていた。

一方、空港の統計局で働くケイト・ウォーカー(エマ・トンプソン)は、40代で婚期を逃していた。
周囲も、彼女によい相手を紹介しようとするのだが、うまくいかない。
彼女は、いつも楽しい場の雰囲気に馴染むことができず、孤立している。
家には、細かいことまで干渉好きな老いた母親を抱え、未来に期待することもなく、諦めて楽々マイペースで生きる道を選んだケイトだった。

ハーヴェイは、その空港のバーで、白いワイン片手にひっそりと読書をするケイトと知り合った。
それは、偶然の成り行きであった。
二人は、テムズ川河畔に遊歩道を連れ立って歩くうちに、夜明けまでロンドンの街で一緒に過ごすことになって・・・。

ウエストミンスター宮殿、セント・ポール大聖堂など伝統と近代が融合する、ロンドンの魅力的な風景の中で、リアルでちょっぴり心にしみる物語が生まれる。
どれだけ年を重ねても、完璧な人間なんていない。
そして、幸せへの扉を開くのは、いつだって自分自身だ。
ドラマの中で、互いに交わされる会話が、自然で楽しくセンスにあふれている。
ハリウッドの名優とイギリスの演技派女優(ともにアカデミー賞俳優)が、繊細で味のある雰囲気をかもし出している。
どうせなら、もっとときめきのロマンティックがほしかった。

イギリス映画「新しい人生のはじめ方」は、もう若くはない大人たちに、一歩も二歩も踏み出す勇気と希望を与えてくれそうだ。
ロンドンで出逢った、寂しい余生を代償に自由を手に入れた男と、人生をあきらめることに慣れてしまった女・・・。
二人の、心理描写に注目だ。
中高年だって、これからだ。
ちょっぴりコミカルで、どこかしみじみとした味わいが、ほどよくミックスされたドラマ構成もまずまずだし、まとまってはいる。
とにかく、人生をいつでも前向きに生きること、そんな想いを感じさせる作品だ。
人生を、前向きに・・・。
そうすれば、、何かが開けてくる。


映画「マザーウォーター」―川の流れのように―

2011-03-03 20:45:00 | 映画


     人の住む場所、誰もが、そこがある意味で理想郷であることを願うものだ。
     人と場所は、極めてシンプルな関連性でつながっている。
     この物語、といっても極めて「物語性」のない、物語だ。
     静かに進化を続ける街、それがたまたま京都であっただけのことだ。
        
     この作品は、登場人物にあまり生活臭が感じられない。
     それが欠点といえば欠点だが、あえてそうした作り方をしているのだ。
     時間が止まったように見える、京都の街が舞台だが、舞台といえるほどの大げさなものではない。
     要は、この街では、人が生きることにあくせくしていないのだ。それだけのことだ。
     少し前の、公開作品だ。

     登場人物は、どこか少し儚げで、美しくつましく静かだけれど、力強い。
     そんな、川の流れに引き寄せられるように集まってきた、七人の男と女たちなのである。



街の中を、大きな川が流れている。
そこには、いくつもの小さな川や湧水がつながる。
そんな京都の街に、風がそよぐように暮らし始めた三人の女たちがいた。
ウィスキーしか置いていないバーを営むセツコ(小林聡美)、疎水沿いでコーヒー屋を開いているタカコ(小泉今日子 )、そして、水の中から湧き出たような豆腐を作るハツミ(市川実日子)だ。

彼女たちに反応するように、そこに住む人たちの中にも、新しい水が流れ始める。
家具工房で働くヤマノハ(加瀬亮) 、銭湯の主人オトメ(光石研) 、その銭湯を手伝っているジン(永山洵斗) 、それにいつも近くを散歩しているマコト(もたいまさこ)らだ。
彼らの真ん中には、いつだって機嫌のいい、幼い子どものポプラもいる。

誰もが、社会の荒波を、まるで素知らぬ風情(?)でゆったりと暮らしている。
健気に、それぞれが何の束縛も受けないで、自分だけと向き合いながら・・・。
そんな日々の描写のほかに、物語という物語はない。
けれども、誰もが生きている現実の世界がここにある。

いや、あるいはその隣り合わせにあるかもしれない、ちっぽけで、どこか心癒される世界・・・。
心で心を感じながら、不器用に生きている。
その不器用さのおかげで、ストレートに何かを感じさせてくれる、登場人物たち・・・。
どこにいて、誰と居て、何をするのか。
そして、私たちはどこに行くのか。
そんなことどうでもいい。
屈託のない、平和で、のどかで、何も身構える必要もなく、静かに時を過ごす人々もいる。
自由なのだ。

この街の人々は、みんなが協力して、赤ん坊の面倒を見ている。
それも、おかしなことに誰の子かわからない赤ん坊をだ。
要するに、そんなこと、どうでもよいのである。
でも、その赤子を街の子として育てている。
 
ここから、何がこの先始まるのか。始めようとしているのか。
ふらっと散歩に出た時の、あてのない忘我の空間に酔えなければ、どうにも退屈で、つまらない映画として終わってしまう、そんな作品だ。
人生は、川の流れのようだ。
歌の文句も、そう言っている。

この作品に登場する、老女の役を演じているもたいまさこは、この前にも「トイレット」で寡黙な祖母「バアちゃん」の役を演じていた。
今回の役どころも、セリフは少ない。
でも、居ないようでも、ちゃんとそこに居るのだ。
それでいて存在感のある、不思議な役者さんである。

水割りかオンザロックで、ウィスキーだけしかカウンターで出さない・・・。そんな店が、いまどきあるだろうか。
豆腐がおいしいからと、店先の縁台に腰かけて、夕暮れ時にいつもそれを食べている人がいる。そんな店もめずらしい。
この映画は、そうした画面の切り取りを、さりげなくつないで見せている。
何だ、これは・・・と、こんなものが映画かと誰もが怒ることもできるし、皮肉のひとつも投げつけたい気持ちは、抑えた方がよさそうだ。
いまこんな時代だから、こうした松本佳奈監督「マザーウォーター」のような作品が、生まれてきたのかも知れない。
ただ、こうした作品が、果たして採算に合うのだろうか。
少し、心配になった。