徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「春との旅」―人間のおかしさと哀しさ―

2010-05-28 15:00:00 | 映画

人は、人に寄りそって生きて行くものであろうか。
先鋭的な作風で、国際的にも高い評価を得ている小林政広監督が、一転してストレートに感情に訴えかける、家族のドラマを作り上げた。
老人と孫娘が、親戚を訪ね歩くという、一見地味な物語だが、これが、なかなかどうしてどうして・・・。
旅の途中の出逢いを重ねながら、物語を綴るという、一種のロードムービーである。
何とも奇妙な「道行き」は、観客も主人公たちとともに同行し、哀しみや歓びを体験することになる。

冒頭から、少しイラつくようなシーンの連続なのだが、次第に引き込まれていく。
静かな映像の流れの中に、人間のもつ自然な感情の高まり、たとえようのない優しさがほとばしる。
この地味な旅物語が、それでもなお最後まで目を離せないのは、彼らの旅が最終的にどこに行き着くかを、確かめずにいられないからだ。
生きる道は・・・、それはきっとある。

春四月とはいえ、まだ寒さ厳しい北海道から東北・宮城へ。
74歳の老人と19歳の孫娘が、親類縁者たちを巡る旅に出た。
かつてはニシン漁に沸き、いまではその面影すら留めない北海道・増毛の寂れた海辺・・・。
そこが、この物語の旅の始まりだ。

そこのあばら家で、年老いた忠男(仲代達矢)と孫娘の春(徳永えり)は、つましく暮らしていた。
だが、二人の暮らしは、時の流れとともに行き詰まる。
春は、地元の小学校の給食係をしていたが、廃校となって失職、東京に働きに出ようとも考えるが、足の不自由な忠男を見捨てることはできない。

ふと、春の口を突いて出た一言がきっかけで、二人は、老いた忠男の居候先を求めて、長年疎遠になっていた忠男の姉兄弟たちを訪ねる旅に出ることになった。
しかし、行く先々で、二人を待ち受ける現実は、冷たいものばかりだった。
それぞれが、ごく普通の家庭の事情と、忠男への肉親たちの愛憎と葛藤――
心と心の隔たりと通い合い、互いの勝手と情のあいだで、思いがけない激しい感情が交錯し、ぶつかり合うのだった。

・・・そうした、祖父と肉親たちの再会を目の当たりにした春は、これまで長く離別していた父親に会いたい思いにかられる。
春と父親真一(香川照之)との再会・・・。
真一は、後妻の伸子(戸田菜穂)とともに、静内で牧場を経営していた。
伸子は、春が驚くほど亡き母に似ていた。
忠男は真一と春を二人きりにして、外へ出た。
伸子は、そんな忠男にこう問いかける。
 「よかったら、お父さん、一緒に暮らしませんか」
屋内では、真一の前で、春が堰を切ったように泣いていた。
・・・やがて、忠男と春は、そっと真一夫婦の牧場を後にした。

以前、忠男が一人娘、春の母親と来たことのある蕎麦屋に立ち寄った。
そこで春は、ある決心を忠男に告げた。
忠男の老いの目に、涙があふれた。
二人の寄り添う姿は、増毛へ向かうローカル線の電車の中にあった。
しかし ――

2007年、「愛の予感」ロカルノ国際映画祭グランプリを受賞した小林政広監は、この作品春との旅の脚本を起こしてから、100回も書き直しを重ね、6年越しの映画化を実現したといわれる。
それだけのことはある作品だ。
主演の仲代達矢は、これまでの出演映画約150本の中で、5指に入る脚本と絶賛した。
忠男という、男の心の変化を見事に演じ、カメラもそれを見事に撮らえて秀逸である。
北海道や気仙沼、鳴子温泉など、地方の風景がわびしく美しい。
春役の徳永えりも、地方の少女役にぴったりとはまっている。
登場する女たちも、みんな優しさにあふれている。
ドラマの撮影は、物語の進行に沿って、 <順撮り>で行われ、オールロケーションの効果を如何なく発揮している。
ドラマの脇をかためる、大滝秀治、菅井きん、小林薫、田中裕子、柄本明、美保純ら好演で、オールドファンには懐かしい、何と淡島千景までが忠男の姉役で出ている。
とにかく、出演者は豪華だ。

偏屈で横柄でわがまま、自尊心だけは強い老人と、しっかりしているかと思えばおろおろし、怒ったり泣いたり子供っぽさのぬけない少女の、寄る辺ないふたつの魂のさすらいの道中だ。
二人の主人公の、片意地張った演技も、あまり気にならない。
この旅の終わりは劇的だが、決して予定調和的な大団円とはいかない。
春は歩きながら、「父との別離」「母の自殺」という、心に封印してきたことと向き合い、祖父と生き直すことを実は決意するのだが、そこからこの旅は一気にクライマックスへ・・・?

家というものを見つめて、生きることの素晴らしさを探る、人間讃歌であり、人生という「旅」の意味を問いかける作品である。
家族、人生、老い、死・・・、さらには深刻な社会問題の提起も・・・。
上映時間2時間14分、心の揺れる一作である。


映画「トロッコ」―心に響く家族の絆の物語―

2010-05-25 21:00:00 | 映画

中学校時代の国語の教科書に、芥川龍之介「トロッコ」という短編が載っていた。
授業の時間に、それを音読したことをいまでも覚えている。
名短編だと思った。

その芥川作品を下地に、日本と台湾の家族の人生を綴ったドラマが生まれた。
小品ではあるけれど、日台の歴史にまで一歩踏み込んだ、大きな物語だ。
台湾の撮影監督を起用して、日本の川口浩史監督はこの作品で監督デビューを果たした。

ある夏の日、敦(子役・原田賢人)は、急死した台湾人の父親の遺灰を届けるために、弟の凱(とき)子役・大前喬一)と日本人の母親夕美子(尾野真千子)とともに、台湾東部の小さな村にやって来た。
素直に甘えられる弟とは対照的に、兄の敦は、悲しみも母親を案ずる気持ちも、小さな胸の中にしまい込んでいる。

近くて遠かった、この父親の故郷では、日本語を話す優しいおじいさん(ホン・リュウ)が、彼らを待っていた。
敦が父親から譲り受けた、大事な写真に写るトロッコの場所も一緒に探してくれる。

数日後、ある決意を胸に、敦は凱を連れてトロッコに乗り込む。
最初そのスピードに胸を躍らせるが、鬱蒼とした森の奥へと進むにつれて、不安がもたげてくるのだった。
大分遠くまで来てしまったからだ・・・。

・・・ささやかな冒険と、おじいちゃんが教えてくれた、沢山の大切なこと・・・。
そして、夏の終わりには、敦から暗い表情が消え、たくましい笑顔が見られるようになった。
母の夕美子もまた、雄大な自然(森)の懐に抱かれ、子供たちとの繋がりをゆっくりと見つめなおすのだった。
愛する人を亡くし、バラバラになりかけていた家は、家族の絆という最も大切なものを、この旅で手に入れることが出来たのだった。

いまも色褪せることのない、芥川龍之介の短編小説を、川口監督も幼い頃に読んでいたそうだ。
この物語をいつか映画化したいという、長年の夢がこれでかなえられた。
まだ、台湾にはトロッコの線路が残っていると知って、ロケハンに訪れた台湾で、美しい日本語で日本の思い出を語るお年寄りに心を打たれ、原作を大きく脚色し、3年の歳月をかけてオリジナル脚本を書き上げた。
きらめくように、緑の濃い台湾の風景が、詩情豊かで魅力的だ。
夕美子を迎えた義父(おじいちゃん)は、日本統治時代に日本のために尽力した経験があった。
義父母と夕美子は、次第に親しくなるにつれ、義父の日本に対する複雑な思いが明らかにされていく。

登場人物の誰もが、いい人たちだ。
最近活躍めざましく、海外でも評価が高い尾野真千子もいいが、二人の子役も少年の心を見事に演じ切っていて拍手を送りたい。
夕闇迫りくる森の中で、トロッコに乗って遠くまで来てしまって、家路を急ぐ心細い寂しさが痛いほどにわかる。
森をどこまでも走るトロッコ、その線路を歩いて戻る二人の兄弟・・・、この物語のクライマックスだ。
このシーンは、あの芥川作品を髣髴とさせる場面で、やわらかな哀愁がにじむ。
このあたりの心理描写は、小説の心理描写と重なるのだ。
そして、おじいさんの慈しみ深い眼差し、少年たちの目の涼やかさも、あくまでも自然体で・・・。
「また、いつでもおいで」――
映画「トロッコは、川口浩史監督作品としては、上出来の台湾製日本映画といえる。
芥川龍之介の名作が、舞台を台湾に変えて、ここにあざやかに甦った。
音楽も詩情豊かで、川井郁子のヴァイオリンの音色はいかにも深く優しい。
間違いなく、こころ癒される、いい作品だ。


「口蹄疫」の被害拡大―その責任は?―

2010-05-23 10:15:00 | 雑感

宮崎県の口蹄疫被害が、拡大している。
宮崎牛全滅の危機とも・・・。
この家畜病は、人体には無害とされるが、感染力が強い。
その感染も、空気感染するというからまことに厄介だ。
貴重な6頭の種牛のうち、感染の疑い濃厚な1頭がすでに殺処分された。
残る5頭も、どうなることか。
種牛以外でも、10数万頭が殺処分されるだろうということだ。

口蹄疫というのは、これまでもあったそうだが、今回ほど深刻な被害ははじめてだそうだ。
感染した肉を食べても、人には被害がないというが、人気の宮崎牛専門店は客足が遠のきつつある。
普段は予約でいっぱいになる鉄板焼肉店でも、昼時だというのに、客は数組だけというありさまだ。
キャンセルが増えているそうだ。
接待に利用される、銀座あたりの高級店では、先方に気遣いしてのキャンセルが多いのはうなずける。
ここはと思うような宮崎牛専門店は、あらかた宮崎県内に食肉工場を持っているが、工場から全国のレストランへの出荷にも影響が出てくることだろう。
事態はきわめて深刻だ。

この口蹄疫の症状がはじめて現れたとき、宮崎県の対応は1週間ぐらいの経過観察を経てから、国への報告を行った。
これさえも、遅くはなかったか。
国の対応も、即というわけではなかった。
県の対応も、国の対応も、結果的には後手後手になってしまった。
直ちに根本的な対策を打っていれば、ここまでの被害は避けられたのではないか。

感染が広がったのは、大型連休中のことだった。
この頃、赤松農水相は中南米を外遊中だった。
その間に、この大事が発生したのだ。
しかし、当の赤松農水相は、「私の全く反省するところはない」と開き直った。
この人に、危機意識はないのだろうか。
政府は、このほど、国内で初めてのワクチン接種に踏み切ったが、これまでウィルスを甘く見てはいなかったか。
赤松農水相は、現場に行ってみたらどうか。

宮崎県の、初期対応の遅れはどうだ。
東国原知事は、そんなことを聞かれると、怒りをあらわにして記者団にくってかかった。
県産物の宣伝など、著名人であれば購買客は集まってくるものだ。
テレビに出まくっていればいいというものでもない。
この人も、これまで危機的状況に直面したことがなく、浮かれていたように見えてならない。

高級牛というのは、出生地ではなく、育成機関の最も長い地域のブランド名が付けられるのだそうだ。
このため、多くの子牛が、毎年宮崎県から全国各地に出荷されていて、去年1年間で3万頭近くになるそうだ。
安全とは聞いても、宮崎牛はしばらく遠慮するといった人が増えて、肉食系が減るのではないかと・・・。
・・・いずれにしても、宮崎県の損失ははかりしれない。
こうなってしまったからには、畜産農家の補償問題はもちろん、、国と県はよく協議し、早急な対応が求められているのは言うまでもない。


映画「クロッシング」―果たされなかった約束―

2010-05-21 10:30:00 | 映画

生きるがために、命がけで国境を超えていく人々がいる。
国家とは何か。
人間とは何か。
世界唯一の分断国家、それが韓国と北朝鮮だ。
これは、その北朝鮮からの脱北者のほんの一例を描いている。
キム・テギュン監督韓国映画である。

1996年以降、北朝鮮では、苛酷な食糧危機で、300万人以上の人々が餓死したといわれる。
北朝鮮の住民たちは、家族の死を目の当たりにし、死線をさまよいながら、住み慣れた故郷・国を捨てて、国境を超える。
北朝鮮にいる彼らが、どのような生活をし、何故脱北せざるをえないのか。
生きるために、別れるしかなかった家族の悲劇を通して、この作品は究極の脱北者を描きつつ、かつ北朝鮮の惨状を忠実に描き、北朝鮮の現実に最も近い映画といわれるだけに、物語にはリアリティがある。
実際に、キム・テギュン監督は、100人近い脱北者の取材をもとに、中国へ渡った父子の悲劇を綴った人間ドラマだ。



北朝鮮の炭鉱の町に、三人の家族がいた。
元サッカー選手のヨンス(チャ・インピョ)は、妻ヨンハ(ソ・ヨンファ)と一人息子のジュニ(シン・ミンチョル)とともに、貧しいけれども幸せに暮らしていた。
しかし、ある日、ヨンハが肺結核で倒れてしまった。
北朝鮮では、風邪薬を入手するのも困難で、ヨンスは薬を手に入れるため、危険を顧みず中国に渡ることを決意する。

決死の覚悟で国境を越え、身を隠しながら、ヨンスは薬を得るために働いた。
脱北者は、発見されれば容赦なく強制送還され、それは死をも意味していた。

その頃、北朝鮮では、夫の帰りを待ちわびていたヨンハが、ひっそりと息を引き取る。
孤児となったジュニは、父との再会を信じ、国境の川を目指した。
しかし、脱北に失敗し、無残にも強制収容所に入れられてしまうのだ。

韓国に到達したヨンスは、すぐに息子探しを依頼する。
仲介者から、ジュニは中国の国境を越え、モンゴルの砂漠へ脱出したとの報に接する。
・・・だが、息子との再会にかける、ヨンスの必死の願いは空しかった。
広大な砂漠に星降る夜、ジェには、父と遊んだサッカーの夢を見ながら、眠るように死んでいく・・・。

引き裂かれる父子の、壮絶な旅路が描かれる。
北朝鮮の人々の生活は淡々と描かれているが、実際こうなんだろうなと思われる説得力がある。
でも、描き方といい、映像といい、やや荒っぽさのあることは否めない。
脱北と聞いただけで、もう大変なことだ。
空腹、絶望、緊迫感、生き別れ、死・・・、人間がこの世で経験するであろう苦痛のすべて、彼らのあまりにも苛酷な辛い心情を表現するのは容易ではない。

映画の背景は北朝鮮だから、自然と背景も北朝鮮になる。
この国の背景の徹底した考証には、努力のあともうかがわれる。
そして、北朝鮮の人々が、どのように生き、どのように死んでいったのか。
映画で、その一端を知ることができる。
彼らの、いや日本に住む者が、隣人の未曾有の苦難と悲しみを知ることができる。
想像を絶する人間弾圧が、現在もこの国で行われている。

しかし、世界も日本も見て見ぬふりをしているのか。
手をこまねいているだけでは、何も始まらない。
この韓国映画、キム・テギュン監督「クロッシング」は、徹底してノンフィクション文学に近い表現方法をとっている。
分断国家、そう聞いただけで、生き延びるということがいかに困難か。
極限状況の中で、生きようとする人間が壊れていくのだ。
この現実から、目を背けてはならない。

現在でも、苛酷な食糧難から、国境を越え脱北者となる人はあとを絶たない。
その数20万人以上、日本にたどり着いた脱北者も200人に達するといわれている。
2002年、中国の日本領事館に、脱北者の両親と子供5人が駆け込もうとし、中国人警官によって引きずり出された映像は記憶に新しい。
恐怖に立ち竦む少女と、必死に警官を振り切ろうする母親・・・。
それをただ傍観するだけの日本領事館職員の姿は、いまの日本の象徴ではないか。

映画「クロッシング」は、同じ年に起きた、脱北者25名がスペイン大使館に駆け込んで、韓国亡命に成功した事件をモチーフに極秘裏に製作され、2008年6月政権交代後の韓国で上映された。
日本人拉致被害者の問題も、一向に進展のきざしがない。
彼らは、何度も救いに来てくれと、祖国日本をどんなに呪詛していることだろうか。
現実問題として、私たちの心を揺さぶらずにはいない、極めて上質な、しかし悲しい社会派ドラマである。


昭和の旅人 城山三郎展―文学散歩―

2010-05-18 06:00:00 | 日々彷徨

爽やかに晴れた五月のある日、元町通りの商店街を抜けて、少し急なレンガの坂道を登っていった。
この坂、見尻坂というらしい。
外人墓地に沿って、港の見える丘公園、イギリス館前のいまが盛りのローズガーデンを横切る。
朝まだ早い内から、大勢の人たちがカメラのシャッターを切っていた。
大佛次郎館の前を行くと、もうそこは神奈川近代文学館だ。
幾度も通いなれた道であった。

6月6日まで、「昭和の旅人」と題して、城山三郎展を展観している。
2007年に亡くなるまで、「落日燃ゆ」「男子の本懐」など、気骨ある日本人の姿を描いた彼が世を去ってから、早くも3年の歳月が過ぎ去った。
いま、その作家生活を俯瞰すると、この作家の眼差しは、人々の暮らしに向けられていたことを知らされる。

城山氏は、資料や取材によって、相手の生まれたところからじっくりと訊ね、問いかけを繰り返しながら、相手の人生の中を旅をする。
それは、城山流の「人間を読む旅」なのだった。
静かに行く者は、健やかに行く。
健やかに行く者は、遠くまで行く。
死去2年前の記述である。(人生の信条)

信じたものに裏切られ、くだかれる一方、世相が一夜で逆転する戦後を生きつつ、城山三郎は、死におくれた人間の負い目を心の底に刻んでいったといわれる。
平成18年、死の前々年の手紙とともに、こんな自筆メモでの文句がある。
 「ふわり、ふわふわ、ふうらふら・・・」
 「孤独と死を受けとめて、抗わず、良くも悪くも開きなおる。
 何事にも煩わされず、心地よく生きていこう」と、自分に言い聞かせるような言葉を残している。

城山作品の原点には、作家自身の悲惨な軍隊の体験があって、人の幸福や志が、組織の大義によって損なわれてはならないという、強い思いがある。
そこから、組織のありかたやリーダーたるものの資質をも、生涯問い続けていたのだった。

視界ゼロの時代、逆境の時代をどう生きるかといった、男の生き様を描き続けた作家は、人間の真の魅力とは何かを問いかける。
晩年、妻に先立たれた城山三郎は、最愛の伴侶との日々を描くことに、最後の力をつくした。
没後、仕事場に置かれた草稿をまとめて出版されたのが、「そうか、もう君はいないのか」だった。(一部解説より)

自らも受賞している直木賞の選考委員をしていたが、自己にも他者にも厳しかった彼が、作品の選考過程に疑問を感じて委員を辞任した話は有名だ。
あれも、作家の気骨だったのだろう。

静かな館内で、ゆっくりと歩を止めて熱心にメモをとりながら、原稿用紙を食い入るように見つめている若い女性がいた。
そうかと思うと、いろいろと造詣が深いのか、ひとりがもうひとりに、さも訳知り顔で、得意になって、ぺちゃくちゃ解説をしながら展示に見入っている二人連れの紳士がいた。
もう少し、静かにしてくれといいたかった。
こういう人は、博物館や美術館に行くと、いつも必ずいるんですね。

・・・ともあれ、いつもながら、作家の生涯をこうして俯瞰するとき、その人の非凡な才能とともに、強靭な作家魂を見せつけられる思いだった――
外に出ると、照りつける強い日射しは、もう夏であった。


映画「すべては海になる」―疼くこころの愛おしさ―

2010-05-16 00:00:00 | 映画

生きづらい青春がある。
悩めるこころがある。
痛める魂がある。
―― 青春の、疼くようなおののきと、そしてためらい・・・。

自身の作品(小説)をもとに、念願の映画デビューを果たした山田あかね監督が、女心の繊細な機微を紡ぐ。
どこか愛おしいようなプチロマンで、なかなか味のあるラブストーリーを演出する。
少し前の公開作品だが、この映画「すべては海になる」は、何だかとてもいい雰囲気で、ところどころに幼さや漫画的な要素もあるものの、青春の切なさと若者の持つ純粋さが、痛いほどに伝わってくる作品だ。

夏樹(佐藤江梨子)には、たくさんの男と付き合った過去がある。
彼女は、そんな過去に自ら傷つき、雑誌の悩み相談に手紙を出すと、こんな返事が来た。
「あなたは、愛のわからない可愛そうな女の子です。恋愛小説を読んで勉強して下さい」
・・・夏樹は、片っ端から本を読み、書店員になった。
そして、「愛のわからないひとへ」と名づけた本棚をつくった。
彼女の本棚に引き寄せられるように、ひとが集まり、話題を呼ぶようになった。

17歳の高校生光治(柳楽優弥)は、学校でいじめられ、家には暴力を振るう父と魂の抜け殻のような母がいた。
それに、登校拒否の妹もいて、光治は恋愛についても興味があったが、それどころではなかった。
彼にとっても、「本を読むこと」が救いであった。

そんな夏樹と光治の出会いは、夏樹の本棚で起こった万引き事件だった。
犯人は光治の母親だった。
母親を助けようとする、光治のひたむきさに惹かれる夏樹と、夏樹の優しさに安らぐ光治・・・。
でも、このふたりはあまりにも違いすぎた。
夏樹は無謀な恋愛を繰り返していたし、ひとりで家族を立て直そうとする光治とは、すれ違い続けた。
本当は、ふたりともどこかでつながりたいと思っているのだったが・・・。
夏樹は夏樹で、光治は光治で、ともにふたりはその答えを求めていたのだった。
でもふたりは・・・?

光治の家族については、もう少し突っ込んでもよかった気がする。
光治と夏樹の、ふたりの会話はかなりこなれていて、ここは脚本のよさだろう。
山田あかね監督は、ナイーブな女性らしく、感性豊かな演出に好感が持てる。
彼女は、「アンナ・カレーニナ」や「ボヴァリー夫人」などを読んで、真実に目覚めた主人公の死を考えるより、死なずに困難を引き受けていく男女の愛情の方に関心が向いているようだ。
だから、恋愛がうまくいったら終わり、つまりハッピーエンドには疑問を投げかけるひとりであるようだ。

ヒロインを演じる佐藤江梨子は、凛とした存在感があってなかなかよかった。
「秋深き」「斜陽」などにも出演しているが、これからもさらなる活躍が十分期待できる女優だ。
柳楽優弥は、2004年「誰も知らない」カンヌ国際映画祭では、日本人初でかつ史上最年少(当時14歳)で最優秀男優賞を受賞し、いまではさすがに落ち着いた演技を披露していて、その後の成長をうかがわせるに十分だ。

青春の悩める魂、揺れる喜びと切なさ、幼い嫉妬や羨望、静かで熱い想いが、心に刺さる言葉やため息となって、痛ましくもあるが、お互いを傷つけまいとするやさしさにあふれている。
恋愛を繰り返しながらも、本当の愛にたどり着けない27歳の夏樹と、まだ一度も恋をしたことのない17歳の光治・・・。
このふたりの行き先に、どんな希望が訪れるのだろうか。
この作品すべては海になるは、小気味よい、ちょっと面白い作品だ。
若い女性や少年の心理を巧みにとらえているところは、よく理解できるし、非常にリリカルである。


恥も外聞もなく―有名人参院選続々擁立!―

2010-05-13 16:30:00 | 雑感

またやっていますか。
迫りくる参院選の数合わせのために、著名人の担ぎ出しの何とあわただしいことだろうか。
与党も野党も、乱立小党までがやっきになっている。
情けない、現代の日本の政治を象徴するかのようだ。

単なる人数あわせで、有名人の出る党は、それは安上がりだし、無党派層の浮動票を容易に集めることができるからだ。
そうした‘読み’自体が安直な発想で、こうしたことしか選挙対策は考えられないのだろうか。
何だか、紙芝居を見ているようで、まるで素人の政治集団だ。

民主党は、柔道の谷亮子氏まで引きずり出して、夏の選挙戦を戦おうとしている。
「地球を覆うほどの愛で頑張りたい」との決意表明に、異議を唱えるものではない。
そこまで彼女をして言わしめたものは、何か。
果たして・・・?

柔道家、妻、4歳と生後7ヶ月の2児の母、そして政治家となると、“4足のわらじ”を履くことになる。
大丈夫なのか。
“2足のわらじ”だって難しいのに、“4足のわらじ”である。
常識では考えられない。

国会議員の仕事は暇ではないはずで、中途半端に出来るものではない。
国会を甘く見てはいけない。
どうも、そのあたりに甘えの構造が透けて見える。
国会議員と五輪選手の両立に限っても、橋本参院議員だけで、当選したとしてもその道は厳しい。

スポーツ選手、お笑い芸人、俳優、文化人、作家、キャスターと、有名人だやれタレント議員だといっても千差万別である。
政治の舞台に登場していけないとは思わないが、現役生活を続行しながらというのもどうか。
大いに疑問だ。

民主党は、参院比例区で20議席以上の獲得を目指しているらしいが、五輪体操の池谷幸雄、女優の岡崎友紀、落語家の桂きん枝らを公認していて、谷氏で43人目の候補者だ。
それも、ピークを過ぎた(?)人が多い。
いま絶頂にいる人は、ほとんどが誘いを断っているのだ。

現役を断念してというのなら、わかる気がする。
しかし、これまでこうした経緯で国会議員になって、どれだけ多くの人が国会から去っていったことか。
知名度を頼りに、片っ端からツバをつけて、まことに品性のない、情けない人集めにしか見えない。
有権者を見くびっていないか。

票を入れたい人は入れるだろう。
世の中、少しは明かるくという効果ぐらいは期待できるかもしれない。
その先は未知数だ。
数合わせさえできれば、中身はどうでもいいのか。
人寄せパンダばかりが増えてどうするか?

しかも、民主党のみならず、自民党はもちろん、国民新党、みんなの党、立ち上がれと、そろい踏みで著名人を参院選に出馬させようとしている。
当選して議員ともなれば、年収は最低でも2000万以上は保証され、6年間で1億2000万は下らない。
議員バッジさえ手にすれば、国会を休もうが居眠りをしていようが、身分は安泰だ。
報酬に見合うだけの仕事をしている政治家が、はたしてどれだけいるだろうか。

この国はどうなっていくのだろうか。
普天間の問題とて不透明だ。
何があろうと、鳩山総理も小沢幹事長も辞任など考えていない。
マスコミや、一部の閣僚、政府高官らが、公然と総理らの辞任を要求するような言動を弄しているけれど、そんなことがいえる立場かどうか。
辞任するなら、自分がさっさと辞任すればよろしい。
文句があるなら、それからだ。

重ねて言いたい。
集票マシンや客寄せパンダに、有権者が一喜一憂しているようではこころもとない。
パンダは所詮パンダなのだ。
日本人の民度とは、いまその程度のものなのだ。
日本人の選んだ自民党議員たちが、悲しいかな、これまで半世紀以上もこうした堕落の民を許してしまったのだ。
国会議員になってみたけれど、政治を知らない人もいる。
国会議員になってみたけれど、結局何もしないまま去ってゆく有名人の多いことも確かだ。

よしんば谷亮子氏が小沢ガールズ入りして「地球を覆うほどの愛」で頑張って、果たして有権者は民主党や民主政権に「愛」を抱けるのであろうか。
何もかもが不透明である。
過大な期待というものは、しばしば耐え難い失望と絶望を招く。
恥も外聞もかなぐり捨てて、数だけ合わせて、そこに生まれてくるものは何か。

古代ギリシャ、デルフォイの神殿に書かれていた銘を、ソクラテスは座右の銘にしたというではないか。
曰く、「汝自身を知れ」・・・。
総理大臣といえども、ただの人なのだ。
国会議員といえども、ただの人なのだ。
どこを見渡しても、いまの政治家(?)のなかに、ひときわ飛びぬけた資質と才能とを兼ね備えた、そんな偉い政治家などひとりだっていやしない。(?!)
みんな、どんぐりの背比べだ。
誰が政治家になっても、誰が総理大臣になっても同じなのだ。(?!)
愚かな民が、愚かな政治家を選んだからだ。
・・・国会議員のバッジが泣いている。
参議院は「良識の府」だ。
「良識の府」も泣いている。
こんな参議院はいらないと――
初夏だというのに、この夕暮れに吹く風の、冷たさよ。


映画「運命のボタン」―謎と妄想の渦巻く恐怖!―

2010-05-11 06:00:00 | 映画

風薫る五月に、これはまた少々(?)怖ろしいドラマである。
若き鬼才といわれる、リチャード・ケリー監督アメリカ映画だ。
ボタンを押せば100万ドルの大金が入るが、その代わりに見知らぬ誰かが死ぬという、究極の選択を迫られる夫婦の運命が描かれる。

主人公を演じるキャメロン・ディアスが、初めて本格サスペンスに挑戦する。
運命に翻弄される、静かなる演技にぐいぐいひきつけられる。
物語は、SF作家のリチャード・マンスマンの短編を下地に、巧みな設定を施し、最後まで目が離せない、奇想サスペンスである。
SF的な味付けがかなり濃厚なだけに、現実離れした魔術の世界をのぞくような、誇大妄想的解釈も必要か。

映画「運命のボタン」(原題「THE BOX」)は、謎の人物が玄関先に置いた箱のボタンを押すかどうか、決断を迫られるところから始まる。
1976年冬のある早朝、ヴァージニア州郊外に暮らす、ルイス夫妻の玄関のベルが鳴った。
妻のノーマ(キャメロン・ディアス)はベッドから起き、階段を降りてドアを開けたが、誰もいない。
その時、一台の車が走り去っていくのが見えた。

見ると、玄関のアプローチに真四角な箱がポツンと置いてある。
朝食の支度をするノーマの横で、夫のアーサー(ジェームズ・マースデン)が箱を開けた。
中には、木製の装置のようなものが入っていて、赤いボタンがついている。
そのボタンを、半球の透明なガラスが覆っていて、鍵がかかっていた。
手紙が添えられていて、「スチュアード氏が午後5時に伺います」と書かれていた。
ルイス夫妻の知らない人物であった。

その日の夕方、スチュアード(フランク・ランジェラ)と名乗る、謎の人物がノーマを訪ねて来た。
彼の物腰は紳士的だったが、顔の半分が火傷のあとのように焼け爛れていた。
そして、夫妻に驚くべき提案を持ちかけた。
 「このボタンを押せば、あなたは100万ドル(約1億円)を受け取る。ただし、この世界のどこかであなたの知らない誰かが
 死ぬ。提案を受けるかどうか、期限は24時間です。どうしますか?」
ノーマとアーサーの二人は迷うが、目前に一億円を見せられ、生活が苦しいこともあり、結局ボタンを押してしまうのだ。
だが、それは想像をはるかに超えた、怖ろしい事態の始まりに過ぎなかった・・・。

映画だから、ボタンを押さなければドラマは始まらない。
そのボタンを押してしまったから、さあ大変だ。
次から次へと、信じられない出来事が襲いかかってくる。
ある時は水に閉じ込められ、ある時は見ず知らずの者たちに追いかけられる。
謎の人物スチュワードは、一体何者なのか。

幸せになりたかったための「選択」が、とんでもない恐怖の世界へ、夫婦を引きずりこんでいく。
生活に疲れた主婦を演じるキャメロン・ディアスもめずらしく、ダメ男みたいな夫を演じるジェームズ・マースデンもともによくやっていて、人間の欲望の果てに待つ、得体の知れぬ怖さにはらはらさせられる。
アメリカ映画「「運命のボタン」は、謎と妄想が渦巻き、恐怖と哀しみに彩られた作品だ。
あり得ない話が壮絶なドラマとなって描かれ、人間のちょっとした欲望のツケは、怖ろしいまでの悲劇を呼ぶことになる。

何故、どうしてといった科学的論拠や因果関係、常識といったものは、ここでは一切通用しない。
映画を芸術と観るか、これはかなり刺激的な思考実験だ。
映画でなくては出来ない大冒険を、常識を超えた奇想なスケールで描いている。
リチャード・ケリー監督の正気をも疑いたくなるような、複雑怪奇で、どうにも脳内整理の追いつかない異色作だ。
究極の選択で、ドラマが悲劇的な終焉を迎える構成にも息を呑む。
不条理きわまりない、ミステリー作品である。


母の日―妻が夫から欲しいもの―

2010-05-09 08:30:00 | 随想

みずみずしい青葉がさわやかです。
立夏が過ぎると、「母の日」ですか。
この日が来ると、母のある人は、胸に赤いカーネーションを飾って日頃の労苦に感謝し、母のない人は、白いカーネーションをつけて母の愛をしのび、その冥福を祈るわけです。

何でも、その起源は1907年頃にさかのぼるそうで、アメリカの一少女が亡き母をしのぶ会で、霊前にカーネーションを手向けたことに始まり、それから世界に広まったのだそうです。
日本では、第二次大戦後から一般に行われるようになったらしく、「母の日」だからといっても、案外無頓着な子供や夫もいるようです。
子供が、母親に花(カーネーションなど)を贈るというのは、とてもいい習慣ですが、世の夫たる男性は、「母の日」に何を贈るのでしょうか。(夫は関係ないという殿方もいるようですが。)

特別なきまりはないようですが、ある調査会社が、未就学児の母親、父親を対象にプレゼントについての調査をしたところ、夫が妻にあげたい物の一位は「ケーキなどのお菓子」で、二位が「花」だったそうです。
これに対して、妻が夫から欲しいものは、一位が「夫婦や家族での外食」で、二位は「家事や育児から開放される時間」という回答が、圧倒的に多かったといいます。
夫は、女性が喜びそうな、安く買えるものをプレゼントすればいいだろうなんて考えていますが、少し違うようです。

妻の方は、家族の時間とか、ひとり、完全に解放される自分だけの時間が欲しいとする声が多く、こんなところでも夫婦間のミゾに開きがあることがわかりました。
「母の日」くらい、いつもと逆に、夫に家事(炊事・洗濯・掃除など)と子供の面倒を見てもらいたいということなのであります。
そうすれば、夫婦仲も深まる(?)のかも知れません。

近くのスーパーでも、「お母さんありがとう」と銘うって、カネーションはもちろん、季節のフルーツ、人気のスウィーツ、ハンドタオル、バッグなどを売り出しています。
安いか高いかよくわかりませんが、「母の日プライス」と称して、<国産牛ステーキ120グラム880円>とかも・・・。
まあ、安直なプレゼントで済まそうと考えている、殿方もおいでのようです。
それはそれで、ひとつの立派な(?)真心ですしね。
必ずしもモノではなく、心のこもった「家庭サービス」が期待されていることも、お忘れなく――
「父の日」(6月20日)というのもありますから。(笑)


映画「ずっとあなたを愛してる」―心の深淵に迫る愛と再生―

2010-05-07 10:30:00 | 映画

フランスの現代作家として名高い、フィリップ・クローデルが、自分で脚色から監督まで試みた作品だ。
フランス・ドイツ合作の映画で、作品としては極めてシンプル、極めてピュアなものだ。
人間の心の深淵にのぞみ、誰しもがかかえる孤独を浮き彫りにする。
過去に犯した過ち・・・、その罪と罰、そして許しを描く。
緊張感あふれる、ドラマの上質さをうかがわせる。

ひとりの女性が、人気のない空港で煙草を吸っているシーンからこの物語は始まる。
ジュリエット(クリスティン・スコット・トーマス)は、15年の刑期を終えて出所してきたばかりだ。
彼女は、年の離れた妹レア(エルザ・ジルベルスタイン)の一家のもとに、身を寄せる。
長い空白の期間を経て再会した姉妹は、はじめはぎごちなく、ジュリエットはレアの夫や娘たちとも距離をおく。

しかし、献身的な妹、無邪気な姪、新しく出会ったよき理解者と触れあい、少しずつ自分の居場所を見出し始める。
そんなある日、ジュリエットに、幼い頃に別れて何も知らないレアに、長年封印していた真実を明かす瞬間が訪れる。
―― 何故、愛する息子を手にかけねばならなかったのか。

刑務所で実際に教鞭をとったjことのあるクローデルが、自分の体験を色濃く反映させたこの作品は、「居場所」を失った者の再生を力強く描いている。
孤独な心の闇の深淵から、再び光の差し出す方へ歩み始めようとする主人公、その主人公にそっと寄り添い、理解し、ありのままの姿を受け入れる。

ドラマのスタートは悲劇的なのだが、この物語の根底にあるのは、愛の美しさやその絆の強さである。
犯した罪は、決して消えることはない。
でも、差し伸べられた手を携え、もう一度本来あるべき自分を取り戻すひとりの女性の姿に、一種崇高なまでの魂を見る。

光溢れる美術館、雨の流れ落ちる窓辺・・・。
生きることに、救いはあるのだろうか。
死んだ息子は帰っては来ない。
罪は消えない。
それでも、人は生きてゆかなければならない。
救いがたさを受け入れて、さらなる新しい生を始めるために――
そういう心象風景を想わせる、ラストシーンだ。

心の闇をかかえる女性の再生を演じる、ヒロインのクリスティン・スコット・トーマスは、ノーメイクに時代遅れとも見えるファッションで、息子を手がけた母親という難役に果敢に取り組んでいる。
渾身の演技が素晴らしい。
妹レア役のエルザ・ジルベルスタインも、憧れていた姉の、突然の不在に深く傷つきながら歳月を重ねていて、自分の家庭を持ったいま、もう一度姉と向き合うことを決意したレアの心情を、実に細やかに表現している。

英国アカデミー賞ほか、ヨーロッパ各地をはじめとして、多数の映画賞を総なめにした作品だ。
このフランス・ドイツ合作クローデル監督の映画「ずっとあなたを愛してるは、作品それ自体が小説のようであり、いや、まさに小説こそが描く世界と思われるのに、クローデルという人は映画を制作してしまった。
痛める心の叫びに、力強い演技と繊細な演出を観て、ふう~っと思わずため息が出た。