徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「野のなななのか」―輪廻転生の世界に込めた未来への希望―

2014-05-28 21:30:00 | 映画


 人は常に誰かの代わりに生まれる。
 そして、誰かの代わりに死んでゆく・・・。

 現在と過去、生者と死者、愛と歴史の物語が、時空を超えて自在に交錯する。
 大林宣彦監督の最新作は、北海道芦別市民との共同で製作した、なかなか味わい深い作品だ。
 古里の風景の中に、何とも独特の大林ワールドが、流麗かつ細やかに展開する。
 1938年生まれの大林監督が、戦争、原爆、震災、原発、復興といった、すべてがつながった意識の流れを見事に映像化した。
 人は、これを大林マジックと呼んでいる。
 映画とは、ここまで自由で奔放な冒険ができるものなのか。
「 なななのか」とは、四十九日(七×七日)の意味だ。
 百聞は一見にしかず、上映時間3時間、まことに凄まじき抒情歌である。
 それにしても、どうやら最後まで飽きさせないドラマである。




    
冬の北海道、雪降る芦別市・・・。

風変わりな古物商を営む、元病院長の鈴木光男(品川徹)が他界した。
2011年3月11日14時46分、92歳の大往生であった。

告別式やら葬式やらの準備で、散り散りに暮らしていた鈴木家の面々が、古里芦別に帰って来る。
光男の2人の息子はすでに他界しており、妹の英子(左時枝)や、気難しい光男と暮らしていた看護師の孫娘カンナ(寺島咲)をはじめ、孫たちが集まってくる。
そんな中、鈴木家の前に謎めいた女の清水信子(常盤貴子)が現れる・・・。

やがて、信子が光男の孫たちの母親代わりを務めていた過去や、光男との関係、そして戦争末期にソ連軍が侵攻してきた樺太で光男が体験した悲劇が、明かされる。
戦争中に、樺太の病院で働いていた光男は、敗戦時の混乱の中で。中原中也の詩を愛する綾野(安達祐実)という少女と知り合い、彼女から殺してほしいと告げられたという事実も・・・。

死者が生と死の間をさまようといわれる、「なななのか」=四十九日をテーマに、花々が咲き乱れる丘や、雪におおわれた田舎道、芦別の風景や風土がふんだんに登場し、どこかユーモラスでめくるめくような映像とともに、人物たちの早口で交わされる言葉の奔流が、観ているものをぐいぐいと引っ張っていく。
まあとにかく、盛り込み過ぎ(!)の質量とともに、贅沢で豊饒な物語だ。

時空を自在に超えて、青年から晩年までの光男が代わる代わる登場し、戦争とともに歩んだ半生を振り返るかと思えば、謎めいた看護師の信子は突然現れたり、突然消えたりする。
1945年8月15日以降も、ソ連と戦闘を続けた北海道の戦史は現代にもつながるものだし、大林監督の円熟の冴えは社会派のファンタジーを想わせる。
このバイタリティは驚嘆に値する。
もう、ご当地映画の枠など突き抜けて、何もかもが過剰で、広げたその大風呂敷の中身がやや不完全燃焼という部分も・・・。

映画のところどころで登場する時計の針は、ずっと午後2時46分を指したままである。
主人公の老人光男は、冒頭で真っ先に死んでいるのだが、逝った者が残された者と映画を通してもう一度めぐり逢い、いろいろなことを話し合い、泣き、笑い、喜び、過去を悔い、やがて身を引き裂かれるほどの時を惜しみながら、それでも別離の時はやってきて、互いに去っていくのだ。

中原中也の詩の断章が幾度となく繰り返され、彼の詩文までが、生死のはざまをさまよっているかのようだ。
死と向き合うとき、人の言葉は意味を持たないのだろうか。
四十九日という日本らしい死生観の中に、生きている人が死んだ人を思い出すと、その人がすぐそばに居たりする。
芦別の野山で、人々が楽しげに奏でる楽曲、生者と死者の対話、そして敗戦時の出来事は、戦争の悲劇を痛烈に訴えて胸を突く。
映像作家大林宣彦監督の集大成を思わせるような映画「野のなななのか」は、若い世代の未来への希望を託したメッセージ、あるいは異色の映画エッセイと読めないこともない。

人が生きるとは、また死ぬとは何か。
その人間の生き死にの死生観から、戦争と平和を「なななのか」のもうひとつの主題に添えて、東日本大震災の発生時刻を物語に散りばめ、映画を芸術作品として世に問うた、寓話性に富んだエンターテインメントだ。
作品には、一度観ただけでは見逃してしまいそうな、ミステリアスな仕掛けが随所にあって、かなり凝った舞台装置が満喫できる(!?)。
みずみずしくほとばしる抒情に、優しい温かさの感じられる映画だ。
平和の意味や生と死についてのこの作品の問いかけを、よく噛みしめたい。
「戦争が起きるのを止めるのに、まだ間に合いますか・・・。」
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「世界の果ての通学路」―それでも学ぶ喜びに輝く子供たちの笑顔―

2014-05-26 16:00:00 | 映画


 先進国では考えられないような苦労をして、通学する子供たちがいる。
 世界はいかに広いか。
 遠く離れた学校に通うため、長い道のりを危険を承知で行く子供たちがいる。
 ケニア、アルゼンチン、モロッコ、インドの4ヵ所で、自然と対峙しながら“通学路”を駆け抜ける彼らを追った、ドキュメンタリー映画だ。

 フランスパスカル・プリッソン監督は、世界の秘境で学ぶ子供たちの逞しさと生命力を、明るく撮り続けた。
 私たちは、どんな地球を子供たちに残してやれるだろうか。(ピエール・ラビ)









      
ケニアでは、11歳のジャクソン少年が、サバンナ地帯の15キロの道を2時間かけて通う。

途中、象の大群に襲われ命を落とす危険も承知だ。
パイロット志願の彼は、学ぶことが第一だ。

アルゼンチンのカルロス少年も11歳だ。
アンデス山脈の牧場から、5歳下の妹を馬に乗せ、18キロを1時間半かける。
彼の目標は獣医師になることだ。

3000メートル級の山々が連なる、モロッコのアトラス山脈の中腹に住む12才の少女ザヒラは、寮生活だ。
彼女は毎週金曜の夕方帰宅し、月曜の朝自宅から同じ道を登校する。

片道22キロ、4時間かけての”金帰月来”だ。

足の不自由なインドの少年サミュエルは13歳、2人の弟の協力もあって、オンボロ車椅子で通学する。
4キロのガレ道でタイヤが外れたり、川を渡れば車輪が砂にはまるなど、トラブルの連続だ。
それでも、常に笑顔を忘れない。

4人にとって、登校は一大作業でハラハラドキドキの連続だ。
彼らは、学校が大好きで、遅刻することは何としても避けたい。
ところが、通学路は危険がいっぱいで、大人の足でも過酷な道のりだが、それでも子供たちは真直ぐに学校へ向かう。
雄大な地球の姿に魅了されながら、通学する4人の子供たち・・・。
彼らの両親たちも学校に通ったことがなく、一族で学校に行く初めての世代である。

貧困、女子差別問題、身体的な障害、住宅環境問題等々、厳しいテーマが散りばめられたドキュメンタリーだが・・・。
パスカル・プリッソン監督フランス映画「世界の果ての通学路」は、大人のナレーションをやめ、子供たちの言葉と映像のリズムでつないだドキュメンタリーだ。
子供たちの表情や映像はよく撮られていて好感のもてる作品だが、やや単調で肝心の学校の描写は不十分だし、それに社会的な背景ももっと描かれてほしかった。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「ブルージャスミン」―虚飾の果てに壊れてゆく女―

2014-05-23 16:30:00 | 映画


 ここでの‘ブルー’とは、憂鬱を意味する。
 人生のどん底にまで堕ちた女を主人公に、「ミッドナイト・イン・パリ」などのこれまでのロマンティック路線から一転し、ウディ・アレン監督がちょっとシリアスな作風で描いたドラマだ。

 虚栄心とプライドで塗り固められていたヒロインの華麗なる過去と、堕ちぶれた痛々しさを背負って生きる現在とを対比させながら、セレブの身も心も破綻していく様を、容赦なく映し出した。
 ウディ・アレン監督78歳にして創造した主人公は、現代性と真実味を帯びた女性で、この作品ではアカデミー賞主演女優賞に輝いたケイト・ブランシェットが演じる。
 ウディ・アレンの作品となると、絶妙な作劇と台詞で観客を魅了するものだが、ここではケイト・ブランシェッ自身が、自分の映画にしてしまっている。
 これはもう彼女の映画だ。






      
サンフランシスコの空港に、かつてセレブリティ界の花と謳われたジャスミン(ケイト・ブランシェット)が降り立った。

しかしいまは、裕福でハンサムな実業家のハル(アレック・ボールドウィン)との結婚生活も資産もすべて失い、彼女は自尊心だけで自分の身を持たせていた。
妹のジンジャー(サリー・ホーキンス)は庶民的なシングルマザーで、彼女の質素なアパートにジャスミンは身を寄せる。
華やかな表舞台への返り咲きをはかろうとするが、思うようにならない。
過去の栄華を忘れることができず、不慣れな仕事と勉強に疲れ果てて、精神のバランスまで崩してしまうありさまだった。

やがて何もかもが行き詰まったとき、理想的なエリート外交官の独身男ドワイト(ピーター・サースガード)とめぐりあったジャスミンは、彼こそが再び上流階級にすくい上げてくれる存在だと思い込む。
そして、ドロイトとの親密なデートを重ねるようになって、ジャスミンは再び未来への妄想をぐんぐん膨らませていくのだったが・・・。

ヒロインのジャスミンという女は、愚かだが悪い女ではなく、むしろ可愛い女なのだ。
名前も、自分を美しく見せたいがためにジャスミンと変えた。
でも、誰かに頼らなければ生きてゆけない。
自分の心で生きてゆく逞しさは、持ち合わせていない。
そんな主人公を、ウディ・アレンは心配そうな眼差しで優しく見守っている。
アレンは回想シーンを手際よく挟みながら、セレブ時代の女の生活を描くが、富裕層の姿を痛烈に突き放した描き方が面白い。
そこには、労働者階級の狡さやだらしない一面も、自嘲気味に合わせて描かれる。

ウディ・アレン監督アメリカ映画「ブルージャスミン」は、ひとことで言ってしまえば陳腐な話なのだ。
また、これほどわかりやすい話もない。
一見洗練された主人公が、何とも空っぽな人間で、滑稽な感じもたっぷり描かれ、一方でセレブを皮肉っているような場面も多く、美しいヒロインのメッキがはがれていくあたり、観客をわくわくさせるだろう。
ジンジャーは、同じ里親のもとで育った義理の妹だが、食料品店で働き、武骨な修理工と付き合っている。
そんな貧しくて無教養な妹の世界に舞い降りたセレブの姉と・・・、そのギャップ、対比から、ひとりの女の転落を冷徹に見つめる。
ヒロインの、元セレブの空虚なプライドを演じるブランシェットの演技も上手いが、もう少し凄味があってもいい。
大人向けの作品には違いないが・・・。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「フォンターナ広場 イタリアの陰謀」―歴史が語り継ぐミラノの悲劇―

2014-05-20 23:00:00 | 映画


 この作品は、映画「輝ける青春」2003年)で、1966年から37年間にわたるイタリア現代史をみずみずしい筆致で描いた、巨匠マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督の大作だ。
 この映画では、壮大なパズルを解いていくように、歴史の真実をたぐり寄せていく。
 全編、緊迫感にあふれる演出に圧倒される。
 そして、巨大な力にいやおうもなく翻弄されながらも、真実を見出そうとする人間の姿を精力的に描いた。

 かつて多くの若者たちが、理想を信じ、世界を変えようとした時代があった。
 それは時に、暴力という形で噴出し、苦く辛い記憶を伴ったが、  そこには確かな青春のたぎる情熱が存在した。
 60年代後半、東西冷戦の時代、イタリアでは他国と同様に学生運動の波が高まり、それが労働者にも広がっていた。
 “熱い秋”と呼ばれたその季節を終わらせたのは、ここに語られる未曾有の爆破事件だった。
 この事件以降、イタリアは大きく変わったといわれる。







        
1969年12月12日19時37分、イタリアのミラノ・・・。

大聖堂ドゥオモの裏手にあるフォンターナ広場に面した、全国農業銀行が突如爆破される。
死者17人、負傷者88人という、国家を揺るがす未曾有の大事件だった。
左翼の関与を疑う捜査当局は、アナーキストたちを次々と連行した。
だが、現場の指揮をとるカラブレージ警視(ヴァレリオ・マスタンドレア)は、アナーキストのリーダー的存在であるピネッリ(ミケーラ・チェスコン)の人間性を信頼し、今回の爆破が、彼らの犯行だとは簡単には信じられなかった。

そしてある夜、事件が起こる。
ピネッリが、3日間の不法拘留の末、カラブレージが取調室を離れた隙に、転落死を遂げてしまったのだ。
自殺か、事故死か、殺人か。
ピネッリの死の真相とともに、爆破事件の真相をめぐって、イタリア政府、情報局、軍警察、極右組織、ネオファシスト、共産活動家、アナーキスト、さらにはNATO軍、CIAといった海外の組織までが関与する巨大な闇が広がり、カラブレージは次第にその闇に近づいて行くのだったが・・・。

この事件が起きた当時、ジョルダーナ監督は広場にいて、この事件を目撃している。
それから40年以上が経過し、若者たちがこの事件について知らないことに衝撃を受け、これは自分が描かなければならないと、映画化に取り組んだ。
彼は、いまだ存命関係者がいるにもかかわらず、すべてを実名で描くことを決意したのだった。
事件はかなり以前のことでありながら、イタリアを代表する俳優たちの肉と声が、見事にその時代を現代に甦らせる。
この事件に巻き込まれた人たちの、人間としての苦悩、希望、絶望、信念が観るものに伝わり、それによって、現代にも通じる巨大な力のグロテスクが浮かび上がって来る。

イタリア・フランス合作映画「フォンターナ広場 イタリアの陰謀」は、簡単に理解できて楽しめる類いの作品では決してない。
作品の中に説明もなく出てくる多数、様々な登場人物や事件を理解するのに戸惑い、筋を追うだけでも精一杯だ。
名前と役職のある人物だけでざっと30人はいるから、役者も大所帯だ。
時代背景と事件の流れを理解するには、イタリア現代史の基礎知識くらいは必要かもしれない。

この爆弾テロ事件は、左翼右翼のテロリズムが荒れ狂う、70年代、80年代のイタリアを先取りする、象徴的な事件だったようだ。
そして、この映画で扱われた事件は、実際に起きたイタリア最大の未解決事件だ。
多くの逮捕者を出しながら、結局のところ裁判では誰も有罪が確定しなかったのだ。
この作品のもつミステリーの、謎の正体は国家そのものだったということだろうか。
政治サスペンスともいえそうな、重厚な社会派ドラマも、上映時間2時間余りでそもそもこの未解決事件の全貌を描き切るには、かなり無理がある。
見応えは十分なのだけれど、観る側の覚悟も必要だ。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「家族の灯り」―ある家族の姿を絵画的で演劇的な映像世界で描く―

2014-05-17 21:00:00 | 映画


世界最高令105歳にして、ポルトガルマノエル・ド・オリヴェイラ監督が、戯曲を翻案して映画化した。
家族愛の物語だが、映画は簡素で重厚だ。

映画は、暗い室内、揺らぐ蝋燭の灯、そこの浮かび上がる顔をじっととらえ、カメラはほとんど外の風景を映さない。
カメラはほぼ固定されたままで、執拗に老人たちのやり取りを追い続ける。
老人たちはほとんど座ったままだ。
人生はかくも切ないものかと、息苦しく思えるシーンも・・・。
オリヴェイラ監督の作風は極めて簡潔だが、人間洞察は厳しく深く、高い芸術性が感じられる。
生真面目な父親と、アナーキーな息子の葛藤を軸に、家族の情愛とその悲劇を演じる名優たちのアンサンブルは特筆ものである。






      
年老いた帳簿係のジェボマイケル・ロンズデール)は、妻ドロティア(クラウディア・カルディナーレ)と、8年前に姿を消した息子の妻とつましく暮らしている。
ジェボは、息子が失踪した秘密を知るが、家族には黙っている。
ある時、隣人の友人カンディニア(ジャンヌ・モロー)が訪ねてきて、コーヒーと会話を楽しんでいるところへ、突然不在だった息子ジョアン(リカルド・トレパ)が帰ってくる。

彼らはジェボやカンディニアを罵倒し始め、老主人の味方のような存在だった息子の嫁ソフィア(レオノール・シルヴェイラも、そんな夫の突然の行為に心を乱される。
動揺する家族を通して、それぞれの思惑が浮かび上がる・・・。

ほとんどが狭い部屋の中だけで、登場人物は座ったまま、台詞と表情で物語は展開する。
回想シーンはなく、それは登場する人物たちの台詞で語られるのみだ。
ポルトガルの作家ラウル・ブランダンの戯曲がもとになっており、古典的な演劇の醍醐味を感じさせるが、このドラマに馴染めないと、終始息苦しい思いをするかもしれない。

彼らの姿を、動きのないカメラが見守るままだから、これも映画的な表現のひとつとしては、極北に位置するような作品のありかただろう。
何やら、日本の小津安二郎監督を想い出せる。
いやむしろ、ひょっとするとこの家族劇は、小津監督との深い親近性さえ感じさせはしないか。
巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ監督ポルトガル・フランス合作映画「家族の灯り」は、ある家族の愛の姿を描いた、静謐な室内劇ともいえる。
画面の隅々までも緊張感をたたえ、ひきしまっていて緩みがない。
映画の芸術性を、ここまで高めたという点では注目だ。

まあ、ジャンヌ・モロー、クラウディア・カルディナーレ、マイケル・ロンズデールといった豪華俳優陣の競演だけでも、芳醇で贅沢な時間を与えてくれる有難い作品である。
なお、2009年に製作された、同じオリヴェイラ監督によるポルトガル映画「ブロンド少女は過激に美しく」も、5日間限定でリバイバル公開中だ。
こちらの方もなかなか‘映画的’で、なるほどと思わせるようなよくできた作品だ。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「とらわれて夏」―許されざる愛が人生を取り戻す5日間の物語―

2014-05-13 16:00:00 | 映画


「JUNO/ジュノ」「マイレージ・マイライフ」ジェイソン・ライトマン監督が、米作家ジョイス・メイナードのラブストーリーを映画化した。
愛と再生を優しく見つめる作品だ。

夏の終わり、ひとつの愛が始まる・・・。
ありえない話と思いつつ、登場人物の過去が明かされるにつれ、観る側の心情がシンクロしていくのを感じる。
じれったいような展開から、少しずつ事情が明かされていくと、登場人物が心を通わせるラストにちょっと切ない気持ちになる。










1987年の夏、アメリカニューハンプシャー州・・・。

13歳のヘンリー(ガトリン・グリフィス)は、過去に辛い出来事を経験し他人や外出を恐れる母アデル(ケイト・ウィンスレットと、暮らしていた。
ある日、久々に二人で出かけたショッピングセンターで、見知らぬ男と出会い、自宅へ連れていくよう脅される。
男は殺人で収容されていた脱獄囚フランク(ジョシュ・ブローリン)で、危害を加えないから、脚の傷が治るまで家で休ませてほしいというのだ。


週末を共に過ごしたフランクは、ヘンリーに野球を教え、車や家の修理までこなし、アデルと心を通わせる。
アデルは、彼が追われている男だと気づき始めていた。
やがて、ヘンリーもフランクを父親のように慕い、アデルとフランクも互いに惹かれあっていく。
しかし、捜査の手はすぐ近くまで迫っていた。
三人がともに過ごした時間の中で、ついに、彼らは人生を変える決断を下すのだった・・・。

夫を信じられなくなって離婚し、十代の息子と暮らす母親が、けがをした脱獄囚を見かけ、彼をかくまいながら他人の信頼を取り戻していく。
この母親と殺人犯の脱獄囚の心の痛みを、過去を交錯させながら、息子の視点を中心に描いている。
母としてではなく、女として生きたいのにためらいのある女と、脱獄囚の男に父親像を重ねる息子・・・。
フランクには、心ならずも殺人を犯した過去がある。
彼らの信頼関係が増せばますほど、逮捕の時が迫る不安が増幅してくる。
フランクは男前で優しく、料理や庭仕事が得意で男の子のよき理解者になる。
アデルは弱さと強さを併せ持っており、フランクの登場によって人を信じる気持ちを取り戻すのだ。
「タイタニック」でみずみずしい美しさを見せたあのウィンスレットが、ここでは、少し疲れているが魅力的な大人の女性を好演している。

この作品には、情欲や官能の炎はない。
描かれているのは、そのままささやかな大人の幸せである。
警察の手が迫っていても、スリリングな描写にまでどこか優しさがある。
アメリカ映画「とらわれて夏」は、愛を失った女の悲哀を伝えて、甘酸っぱい息吹を感じさせるロマンティシズムは悪くない。
まあ、過去の出来事があって、引きこもりがちになってしまった女性が、何と脱獄囚と恋に落ちてしまうなど現実離れのした話ではある。
筋書きも破天荒だし、都合よすぎる幸せも、ジェイソン・ライトマン監督の見る幻影かも知れないが、女の妄想を叶えるような、ちょっと甘めのメロドラマというところか。
心が安らぐ作品だし、この映画のヒロインケイト・ウィンスレットよかったが、邦題のタイトルはいただけない。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「そこのみにて光輝く」―北の街、さまよいめぐり逢う魂―

2014-05-10 03:00:00 | 映画


自らの故郷函館をモデルにして、市井の人々の生活と心情をテーマに、故佐藤泰志はいくつも作品を遺した。
先に映画化された、彼の小説海炭市叙景」もそうであった。
この映画も、佐藤泰志の唯一の長編を原作に、心に苦しみと寂しさを抱えた若者たちの姿を、奥行きのある映像で描いている。

これまで家族をテーマに、「オカンの嫁入り」など温もりのある映画を撮り続けていた呉美保監督が、ここでは趣を変え、極めて厳しい現実に直面する家族の姿を浮かび上がらせている。
絶望の渕をさまよいながら、精いっぱいに生きる人々の物語が、北海道函館のうら寂しい風景の中に紡がれる。
愛から遠く離れたところにいる、男と女のひと夏の物語である。
いい映画だ。








   
ある事件がきっかけで仕事場を辞め、達夫
(綾野剛)は目的もなく怠惰な日々を過ごしていた。
ある日、パチンコ屋で使い捨てライターを挙げたことがきっかけで、粗暴だが人懐っこい青年拓児菅田将暉)と偶然知り合い、誘われるままに彼の家を訪ねる。
そこは、取り残されたような、海辺の粗末な家であった。

そこで拓児は、両親と姉の千夏(池脇千鶴)と暮らしていたのだった。
達夫はその家族の境遇を知って驚くのだが、彼は拓児の姉千夏と出会い、二人は次第に距離を縮めていく。
だが、千夏は家族を支えるため、達夫の想像以上に過酷な日常を生きていることがわかってくる。
千夏は、身体を売って家計を助ける一方、拓児の保証人となっている植木農園を営む中島(高橋和也)とも不倫の関係を断ち切れず、深い諦念の中に生きている。

それでも、千夏への一途な愛を貫こうとする達夫と、そんな達夫の真直ぐな想いに心揺れる千夏・・・。
千夏の魂に触れたことから、達夫の現実が静かに色づき始め、彼は失いかけていたこの世界への希望を取り戻していくかに見える。
そんな時に、事件は起こる・・・。

主演の綾野剛は、「夏の終わり」「ルパン3世」など引く手あまたのいまどきの旬な俳優だが、ここでは儚げで揺らぎのある存在感を見せ、新境地を開いて見せた。
達夫の心境を体現するという難しい役どころを、実に上手くこなしている。
一方、池脇千鶴情感あふれる迫真の演技は、名作「ジョゼと虎と魚たち」で見せた頃からさらに一歩踏み込んだ、大きな成長の跡を見せている。
彼女ももはや、押しも押されぬ実力派だ。
「共喰い」日本アカデミー賞新人俳優賞菅田将暉も、無垢なその精神を画面いっぱいにぶつけており、高橋和也火野正平伊佐山ひろ子といった芸達者がわきを固めていて、非常に奥行きのある作品になった。

千夏と達夫の海水浴のシーンもいいが、明け方の部屋の奥でうめき声を発する父親のあのシーン、画面の外から聞こえる音から察せられる主人公の生きる場所を感じさせる気配、光と影、明と暗でたゆたう心に一瞬の輝きがきらめく・・・。
それらを繊細に掬い上げた細やかな演出や音響も含めて、視覚、聴覚に訴える心理映画だ。
外国映画賞にも輝いた、秀作「さよなら渓谷」を手掛けた高田亮だけのことはあって、脚本の方もはさすがによく練れている。

小さな市民映画館が企画、製作した、呉美保監督の作品「そこのみにて光輝く」は、北海道函館から発信された、街の息づかいが聞こえてくるような市民参加の映画として、地方都市で生きることの現実とその意味を問う、社会派映画でもある。
函館市民が、製作資金の一部を負担していたのだ。

この作品では、出演者たち全員が人間関係に体当たりし、のたうちまわったのだ。
綾野剛池脇千鶴は、ともに難役に全力で取り組み、近作ではめずらしく儚げで濃密な情念を立ち上らせている。
港町の繁華街の夜や、海辺の雰囲気も新鮮で、情景も美しく、ここでは登場人物とカメラの距離感も魅力の要素だ。

愛を求める人、生きる光を求める人、ここで描かれるのは、信じられる、信じたくなる、そんな愛を見つけた者たちのささやかな一瞬の眩い光だ。
物語も、舞台も、役者もいい。
原作、脚本、撮影、演出が巧みに溶け合っているから、物語世界が大きな膨らみを持つ。
登場人物たちの心理を、映像で提示することにどこまでもこだわり続けた、呉美保監督の手腕を高く買いたい。
哀しみと儚さと夢と・・・、全編に哀愁が漂う。
低迷気味の最近の日本映画で、出色の秀逸な作品である。
      [JULIENの評価・・・★★★★★](★五つが最高点


映画「8月の家族たち」―めくるめくような驚きと笑いの家族崩壊劇―

2014-05-05 06:00:00 | 映画


 愛すればこそ憎らしくもある。
 家族の間の残酷な秘密も、愛すればこそ浮かび上がってくる。
 そんな驚きと笑いのドラマは、緊張感に満ちている。

 ありがたくもあり、ときに煩わしくもある。
 楽しかるべき家族の食卓が、凄まじい修羅場と化すこともある。
 「家族」というテーマに焦点を合わせて、食卓を囲む全ての人たちの機微が丁寧に描かれる。
 ジョン・ウェルズ監督が、メリル・ストリープジュリア・ロバーツといった、アメリカを代表する二大女優の魅力を存分に引き出した作品だ。









       <iframe src="//www.youtube.com/embed/Y2_K9fCO30I" frameborder="0" width="560" height="315"></iframe>
アメリカのオクラホマ州・・・。

8月の真夏日に、父親のベバリー(サム・シェパード)が失踪したと知らされ、長女のバーバラ(ジュリア・ロバーツ)は、夫ビル(ユアン・マクレガー)、娘ジーン(アビゲイル・ブレスリン)とともに実家に駆けつける。
がん治療のための、薬物依存症で情緒不安定にになっていた母バイオレット(メリル・ストリープ)や、叔母、妹たちと次々と再会するのだが、母娘の再会にもいらいらしてしまい、お互いに罵倒と乱闘の騒ぎとなってしまうのだった・・・。

家族だから、遠慮せず本音をぶつけ合う言葉の応酬となり、激しい衝突を繰り返す。
そんな中で、それぞれの持つ“秘密“や“隠しごと”が次第に明らかにされ、彼らの戦慄と笑いが家族の崩壊を呼び起こしていく。

メリル・ストリープジュリアロバーツの、大物女優同士の肉弾バトルも凄まじく、ストリープの怪演はこちらが凍りついてしまうくらい見ものだ。
母娘を軸にした物語で、切なくも複雑な情感がにじむラストも見逃せない。
母親は何といってもここでは絶対王者だし、三姉妹の様子は、シェイクスピア「リア王」を髣髴とさせる。
舞台で群像劇を見ているようだ。

全編無駄のない台詞で、アメリカ映画「8月の家族たち」は、濃密な人間模様が描かれていて、家族の愛と裏切り、絶望、悲しみを上質なサスペンスに昇華させ、ウェルズ監督は俳優たちの持ち味を十分に引き出している。
演技巧者たちが一堂に会し、家族であるはずの家族が、後半いつの間にか形だけの「家族」になってしまう過程がよく描かれている。
賑やかで贅沢な2時間である。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「レイルウェイ 運命の旅路」―人は憎しみを絶ち切ることができるか―

2014-05-01 21:00:00 | 映画



第二次世界大戦時の悲劇を生き抜いた、英国人将校と罪を負った日本人通訳の物語である。
ジョナサン・テプリッキー監督は、この奇跡の実話を、劇的でインパクトのある作品として映画化した。
原作はエリック・ローマクスの自伝で、脚本はフランク・コットレル・ボイスが担当した。

タイとビルマ(現ミャンマー) を結んでいた、悪名高き「死の鉄道」で、作業員として生き残った者のうち、戦時中の出来事について触れるものは少なく、そんな中でエリック・ローマクスは沈黙を破った。
彼自身立派な軍人だったが、自らトラウマとなった過去と対峙し、その体験を自伝に認めた。
戦友たちが、死ぬまで働かされる光景を目の当たりにし、自身も拷問に会うという何とも皮肉な物語だ。

鉄道好きな英国人エリック
(コリン・ファース)は、美しく聡明なパトリシア(ニコール・キッドマン)と結婚した。
だが彼は、心の奥に癒されることのない、深い傷を抱えていた。
第二次世界大戦中に、日本軍の捕虜として、タイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設に駆り出され、 残虐な拷問を受けた過去にずっと苦しめられていたのだった。

ある日、憎むべき当時日本軍の通訳をしていた 永瀬(真田広之)の生存を知る。
エリックは、戦争で負った深い心の傷を呼び覚まされ、献身的な愛で支えるパトリシアのためにも、ついに自分が永瀬と直接会うことを決意する。
・・・そして、数十年の時を経て、ただひとりタイへ向かい、直接永瀬と対峙することになった・・・。

   
この時にとったエリックの行動とそのその瞬間が、この作品の最大の見せ場だ。
ふと消息を知ったエリックは、自らの過去と向き合い、妻にさえも明かさなかった戦時中のトラウマ、その忘れえぬ因縁に苦しんでいた。
数十年間にわたって憎み続けた、日本人通訳との、再会と和解のドラマが展開する。
同じ舞台を背景に、「戦場にかける橋」というのがあったが、この作品は戦争がもたらす心の傷、贖罪や赦しといったテーマを引き出した。
この映画は強いて言えば、情緒過剰(?)な語り口が半面真面目すぎて気にもなるが、国と国ではなく、日本人と英国人という個人が愛対して、ともに戦争という傷を見つめるのだ。
その、日英の俳優が対峙する場面の、緊迫感が見どころだ。
作品の奥行もここにある。

主人公エリックには、ずっと復讐心が残っていた。
心を閉ざした彼が、、鉄橋を望みながらたたずむシーンも印象的だ。
しかし、彼が「憎しみはいつか終わらせなければならないんだよ」と妻につぶやく言葉は、エリックの本心だ。
実は、その永瀬もまた罪の意識で心に傷を持ち、現地で捕虜たちの墓を建てて慰霊をしていたのだった。

ジョナサン・テプリッキー監督イギリス・オーストラリア合作映画「レイルウェイ 運命の旅路では、人を殺したり、拷問したりという残虐な面も描かれるが、一方で、憎しみ合った後でも人は許しあえるという、崇高な一面も浮かび上がってくる。
戦争は、いつも人間の心に暗い影を落とすが、せめてその過ちから学ぶこともある。
そうなのだ。
人は、憎しみを断ち切れるのだ。
憎しみからは、何も生まれない。
人生をかけた、一人の男の心の旅路を綴った、人間再生の感動作である。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点