人は常に誰かの代わりに生まれる。
そして、誰かの代わりに死んでゆく・・・。
現在と過去、生者と死者、愛と歴史の物語が、時空を超えて自在に交錯する。
大林宣彦監督の最新作は、北海道芦別市民との共同で製作した、なかなか味わい深い作品だ。
古里の風景の中に、何とも独特の大林ワールドが、流麗かつ細やかに展開する。
1938年生まれの大林監督が、戦争、原爆、震災、原発、復興といった、すべてがつながった意識の流れを見事に映像化した。
人は、これを大林マジックと呼んでいる。
映画とは、ここまで自由で奔放な冒険ができるものなのか。
「 なななのか」とは、四十九日(七×七日)の意味だ。
百聞は一見にしかず、上映時間3時間、まことに凄まじき抒情歌である。
それにしても、どうやら最後まで飽きさせないドラマである。
冬の北海道、雪降る芦別市・・・。
風変わりな古物商を営む、元病院長の鈴木光男(品川徹)が他界した。
2011年3月11日14時46分、92歳の大往生であった。
告別式やら葬式やらの準備で、散り散りに暮らしていた鈴木家の面々が、古里芦別に帰って来る。
光男の2人の息子はすでに他界しており、妹の英子(左時枝)や、気難しい光男と暮らしていた看護師の孫娘カンナ(寺島咲)をはじめ、孫たちが集まってくる。
そんな中、鈴木家の前に謎めいた女の清水信子(常盤貴子)が現れる・・・。
やがて、信子が光男の孫たちの母親代わりを務めていた過去や、光男との関係、そして戦争末期にソ連軍が侵攻してきた樺太で光男が体験した悲劇が、明かされる。
戦争中に、樺太の病院で働いていた光男は、敗戦時の混乱の中で。中原中也の詩を愛する綾野(安達祐実)という少女と知り合い、彼女から殺してほしいと告げられたという事実も・・・。
死者が生と死の間をさまようといわれる、「なななのか」=四十九日をテーマに、花々が咲き乱れる丘や、雪におおわれた田舎道、芦別の風景や風土がふんだんに登場し、どこかユーモラスでめくるめくような映像とともに、人物たちの早口で交わされる言葉の奔流が、観ているものをぐいぐいと引っ張っていく。
まあとにかく、盛り込み過ぎ(!)の質量とともに、贅沢で豊饒な物語だ。
時空を自在に超えて、青年から晩年までの光男が代わる代わる登場し、戦争とともに歩んだ半生を振り返るかと思えば、謎めいた看護師の信子は突然現れたり、突然消えたりする。
1945年8月15日以降も、ソ連と戦闘を続けた北海道の戦史は現代にもつながるものだし、大林監督の円熟の冴えは社会派のファンタジーを想わせる。
このバイタリティは驚嘆に値する。
もう、ご当地映画の枠など突き抜けて、何もかもが過剰で、広げたその大風呂敷の中身がやや不完全燃焼という部分も・・・。
映画のところどころで登場する時計の針は、ずっと午後2時46分を指したままである。
主人公の老人光男は、冒頭で真っ先に死んでいるのだが、逝った者が残された者と映画を通してもう一度めぐり逢い、いろいろなことを話し合い、泣き、笑い、喜び、過去を悔い、やがて身を引き裂かれるほどの時を惜しみながら、それでも別離の時はやってきて、互いに去っていくのだ。
中原中也の詩の断章が幾度となく繰り返され、彼の詩文までが、生死のはざまをさまよっているかのようだ。
死と向き合うとき、人の言葉は意味を持たないのだろうか。
四十九日という日本らしい死生観の中に、生きている人が死んだ人を思い出すと、その人がすぐそばに居たりする。
芦別の野山で、人々が楽しげに奏でる楽曲、生者と死者の対話、そして敗戦時の出来事は、戦争の悲劇を痛烈に訴えて胸を突く。
映像作家大林宣彦監督の集大成を思わせるような映画「野のなななのか」は、若い世代の未来への希望を託したメッセージ、あるいは異色の映画エッセイと読めないこともない。
人が生きるとは、また死ぬとは何か。
その人間の生き死にの死生観から、戦争と平和を「なななのか」のもうひとつの主題に添えて、東日本大震災の発生時刻を物語に散りばめ、映画を芸術作品として世に問うた、寓話性に富んだエンターテインメントだ。
作品には、一度観ただけでは見逃してしまいそうな、ミステリアスな仕掛けが随所にあって、かなり凝った舞台装置が満喫できる(!?)。
みずみずしくほとばしる抒情に、優しい温かさの感じられる映画だ。
平和の意味や生と死についてのこの作品の問いかけを、よく噛みしめたい。
「戦争が起きるのを止めるのに、まだ間に合いますか・・・。」
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)