人間の心の深淵を、余韻豊かで軽やかな喜劇に仕上げている。
「二十四時間の情事」(1959年)、「去年マリエンバードで」(1961年)、「風にそよぐ葦」(2009年)ほか数々の名作を発表してきた、名匠アラン・レネ監督が昨年3月91歳で逝った。
この作品はアラン・レネ監督の遺作である。
この作品は、アラン・レネお気に入りの劇作家アラン・エイクボーンの戯曲をもとに、遊び心満載で自在なカメラワークを駆使して、女3人の駆け引きが快調に描かれる。
サスペンスとユーモアが程よく混じり合って、結構お洒落なコメディだ。
イギリス、ヨークシャー郊外・・・。
ジョルジュ・ライリーは、カリスマ的な魅力のある高校教師だ。
コリン(イポリット・ジラルド)は開業医で、妻カトリーヌ(サビーヌ・アゼマ)と暮らしている。
コリンは真面目な男で、カトリーヌが若い頃ジョルジュの恋人だったとは知るよしもない。
リッチなビジネスマンのジャック(ミシェル・ヴュイエルモーズ)は、ジョルジュの十代の頃からの大の親友だ。
妻のタマラ(カロリーヌ・シオル)は良妻賢母で、夫の浮気も知らないふりをしている。
ジョルジュの元妻であるモニカ(サンドリーヌ・キベルラン)は、彼の八方美人ぶりには耐えられず、夫を捨て、農夫シメオン(アンドレ・デュソリエ)と新しい生活を始めていた。
ジョルジュが、末期がんで余命わずかだということが明らかになった時から、この3組の男女の物語が回り始める。
誰もが、愛すべきジョルジュ(事実、彼は愛すべき男だった!)の最期の時間を、有意義にしたいと思っている。
親友も、彼を捨てた妻も、昔の恋人も、それぞれが心をひとつにするかと見えて、しかし春から秋へと季節の移ろいに合わせるように、女たちはジョルジュに心を奪われ、一方で男たちはおろおろと落ち着かず、くすぶる思いを抱えて右往左往する。
3組の男女の、異様とも思える心のざわめきが、この群像劇の核である。
サビーヌ・アズマはレネ監督の終生のパートナーだったが、デュソリエとともに彼の作品の常連で、役者としては実に巧い。
人間の滑稽さ、虚栄、狡猾と、いたたまれない真情をあぶり出し、芸達者の丁々発止の舞台演劇を観客に見せつける。
物語のはじめは実写で始まり、次にイラスト、それから舞台劇のような空間が生まれ、そこのところで男たち女たちが、ジョルジュのことをあれやこれやとにぎやかに語り合うのだ。
しかし、ジョルジュは観客の前に一切姿を見せない。
カラフルな抽象芸術のような世界が造形され、マンガまで登場する。
画面に映らない向こう側で、どんなことが起こっているのだろうか。
フランス漫画の人気作家といわれるブルッチの“書き割り”を出たり入ったりするように、観客も舞台と映画の間を行ったり来たりする。
どこかごちゃまぜの感がある舞台と映画の壁が、ここでは見事に突き破られ、そこに滋味あふれる人生賛歌が至福の時をもたらしてくれるのだ。
アラン・レネ監督の遺作となったこのフランス映画「愛して飲んで歌って」は、英国風ユーモアとフランスのエスプリが絶妙な解け合いを見せ、陽気で楽しい作品に仕上げられている。
人間、みんなから愛されて幸せな死を全うしたいものだ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回は「妻への家路」を取り上げます。
芸術と恋の都パリが舞台だ。
エッフェル塔、セーヌ川、モンマルトルと、歴史と文化の美しい街並みに囲まれた、魅惑のパリを体感する。
「愛、アムール」(2012年)、「3人のアンヌ」(2012年)などで知られる、フランスの国宝的女優といわれるヒロインのイザベル・ユぺールとともに・・・。
人生に、ふと立ち止まりたくなる時がある。
そんな時、見知らぬ街での出会いを喜んだり、ちょっと傷ついたり、戸惑いながらも生きることの大切な意味に気づかせてくれる。
マルク・フィトゥシ監督の、ちょっと小粋なフランス映画の小品である。
フランス北東部、ノルマンディーで畜産業を営むグザヴィエ(ジャン=ピエール・ダルッサン)と、ブリジット(イザベル・ユぺール)は、学生時代の恋がかなって一緒になった二人だったが、いま倦怠期にあった。
ブリジットは夢想家だが、グザヴィエは農業一筋の実直な男だ。
家畜よりもアクロバットに興味を持ち、サーカス学校に入学した息子に対しても、二人は対照的で、ブリジットは息子の夢に共感しても、夫の方は胡散臭い職業だと言って認めようとしない。
確執を持つ夫の態度に、ブリジットの不満は溜まっていくばかりだった。
そんな時、姪のマリオン(アナイス・ドゥムースティエ)が、パリから友人たちを伴って隣家へやって来た。
友人の一人で、魅力的な25歳の青年スタン(ピオ・マルマイ)と知り合ったブリジットは、その夜のパーティーに誘われ、ひさしぶりにドレスアップして乗り込んだ。
音楽とダンスで盛り上がり、スタンの楽しい会話にも話が弾んだブリジットは、彼がパリのブティックで働いていることを知る。
ブリジットはほのかなアヴァンチュールだけを期待して、ついにいぶかる夫をも尻目に、プチ・パリ旅行を実行に移すことにした・・・。
筋書きもドラマも定番で、新味らしさはない。
お洒落なパリの街並みを舞台に、大人の恋の冒険がユーモラスに描かれる。
どことなく頼りないお話が淡々とつづられ、ややかったるく、物足りなさも残る。
ドラマの中のユーモラス感は、フランス風とイギリス風が介在する。
カンヌ国際映画祭でも多くの受賞歴を持つ女優イザベル・ユぺールが、農家の平和な主婦を演じ、これなどやや意表を突いたキャスティングだ。
共演のジャン=ピエール・ダルッサンの生真面目さと慌てぶりも面白おかしいが、総じて心地よい大人向けの映画である。
マルク・フィトゥシ監督のフランス映画「間奏曲はパリで」には、不倫という言葉はあまり似合わない。
軽い乗りの効いた、女性おひとり様、大人のフレンチ・ラブストーリーといったところだ。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
インド映画というと、華麗な歌と踊りということになるが、ここではそれを封印したミステリアスな作品だ。
美しく、知的な、意志の強いヒロインが大活躍する、女性映画(!)だ。
それにしても、インドの女優は別人でもよく似て見えるのはどうしたわけか。
スジョイ・ゴーシュ監督のこの作品は、混沌としたインドの街並みを背景に、少々間の抜けたような感じもする大げさなアクションと、もちろん当たり前のどんでん返しをスクリーン一杯に散りばめて・・・。
ベンガルの風が運んできた、一味違ったインドミステリーの鑑賞も悪くはないのだが・・・。
2年前、毒ガスによる地下鉄無差別テロ事件で多くの犠牲者が出た、コルカタの国際空港に、美しい妊婦ヴィディヤ(ヴィディヤー・バーラン)が降り立った。
ロンドンからはるばるやって来た彼女の目的は、1ヵ月前に行方不明となった夫アルナブを捜すことだった。
しかし、宿泊先にも勤務先にも、彼がいたことを証明する記録は何も残っていない。
ヴィディヤは途方に暮れる。
やがて、アルナブに瓜二つの風貌を持つ、ミラン・タムジという危険人物の存在が浮上し、それを知った国家エージェントの情報局が捜索に介入してきた。
そして、ヴィディヤへの協力者が、何者かに次々と殺害されるという事態に発展する。
ミランは、2年前に起きた毒ガス事件の容疑者であった・・・。
冒頭の地下鉄無差別殺人事件は、どうやら日本で起きた、あの事件を模倣したみたいで少々がっかりだ。
かなり粗削りな復讐劇で、ストーリーも結構入り込んでいるが、コルカタの文化や生活描写もそれなりに描かれており、いたるところにお決まりの多くの伏線が張られている。
ハリウッドでは、すでに「ミレニアム・タトゥーの女」のニールス・アルセン・オプレブ監督によるリメイクの話も進んでいるとか。
インド映画「女神は二度微笑む」は、行方知れずの夫を捜すというシンプルな物語に、いくつもの謎を膨らませて、観客を引っ張っていく。
大きな腹を抱えた妊婦のヴィディヤが、映画の要になっている。
何故妊婦なのか。
夫の消息を調べようと、危険を顧みずに街中を捜し回る姿が、スリリングに映し出される。
ラストの、ヒンドゥー教の戦いの女神ドゥルガーを祝う祭りの場面は、優雅な容姿と激烈な気性を備えた女神の、その極端な二面性が、このドラマのミステリーのベースとなっている。
ドラマの方は最後まで目が離せないが、従来のインド映画よりは一歩進化した、新しい映画の波を感じさせるものはある。
スジョイ・ゴーシュ監督の次作は、東野圭吾の「容疑者Xの献身」のインド版リメイクだそうである。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
彼の年来の宿願は、光輝ある美女の肌を得て、それへ己の魂を刺り込むことであった。
その女の素質と要望については、いろいろの注文があった。
啻(ただ)に美しい顔、美しい肌とのみでは、彼は中々満足することが出来なかった。
江戸中の色町に名を響かせた女という女を調べても、彼の気分に適った味わいと調子とは容易に見つからかった。
まだ見ぬ人の姿形を心に描いて、三年四年は空しく憧れながらも、彼はなおその願いを捨てずに居た。(谷崎潤一郎「刺青」より)
春の文学散歩は、結構見応えのある特別展だ。
神奈川近代文学館で、4月4日(土)から5月24日(日)まで、文豪谷崎潤一郎展が開催されている。
実をいうと、近代文学館での谷崎展の開催は、1998年以来二度目のことになる。
1910年(明治43年)に、谷崎はデビュー作ともいわれる「刺青」「麒麟」などの作品を発表し、その耽美的な作品群は、自然主義全盛の当時の文壇に大きな衝撃を与えた。
以後79歳で世を去るまで、「痴人の愛」「春琴抄」「細雪」などの数多くの名作を紡ぎ出した。
谷崎の作品は、すべて自らの人生で見出した様々な美を源泉として生み出されており、とくに美しい女性への崇拝(偉大なるフェミニズム)が、作品の大きな鍵となっている。
彼は人生の途上で出会ったものを貪婪に味わいつつ、ある時は悪魔的な美、またある時はモダンな暮らし、関西の風土に見出した伝統美の世界を、徹底的に描いた。
本展では、今年初めに公開されて大きな話題となった、妻松子への膨大な量の恋文を含む未公開書簡の88通のうちの一部、最初の妻千代との間に生まれた娘の鮎子あての書簡225通も見つかって、その一部など、まことに貴重な資料が館内ところ狭しと展示されている。
展示品の中には、親交と絶交を繰り返した作家佐藤春夫宛ての書簡もあって、とても興味深い。
谷崎は30年千代と離婚し、千代と佐藤春夫の結婚を通知する挨拶状を、3人の連名で知人に送った、いわゆる「妻譲渡事件」で文壇の話題を独占したが、今回、その新たに発見された佐藤春夫宛ての書簡は、33年3月23日に発信されたものだった。
この時期は、谷崎が「春琴抄」を執筆していた時期で、当時は二番目の妻丁未子と結婚していた。
翌年に、すでに人妻だった松子と同居し始め、35年に松子と三度目の結婚をし、熱烈な恋情を吐露する恋文は、それはもう一女性にかしずく男奴隷のような文豪の姿を垣間見せる。
大作家にして、この華やかな女性遍歴が、次から次へと幾つもの名作を生み続けていったのだった。
娘鮎子への書簡は、父親の娘に対するひたむきな谷崎の愛情がうかがわれ、ほほえましい。
先の見通しの見えない混沌とした時代に生きながら、律儀な父親の一面を伝える、巷間、悪魔主義の作家といわれる潤一郎の姿が浮き彫りにされる。
谷崎が、ほかの女に気を取られて千代夫人を悲しませ、その夫人に哀憐と思慕を寄せる佐藤春夫を激しくなじる春夫あての書簡など、実に生々しい。
この谷崎潤一郎の「妻譲渡事件」がもとで、佐藤春夫は「秋刀魚の歌」を発表した。
佐藤春夫の詩は、春夫の失恋の歌なのだが・・・。
この詩の中には、谷崎と千代の愛娘鮎子の幼き日の姿も描かれており、この事件の後何と鮎子は学校から追放されるという事態にもなったのだった。
「妻譲渡事件」の経緯については、小生のブログ2007年9月21日付け「秋刀魚の歌」に詳述した通りである。
本展では、谷崎が亡くなる前に構想していた小説の創作メモをはじめ、愛用のマントなど、多彩な資料総数400点余りで、彼の生涯と作品世界を紹介している。
見どころ一杯の谷崎展である。
話はちょっとそれるが、最初の妻千代の実妹石川せい子は奔放な性格で、「痴人の愛」のナオミのモデルが彼女であることはよく知られている。
「痴人の愛」は、一種の私小説だが、せい子は、「妻譲渡事件」(小田原事件)にも介入してきて、文豪を悩ませる女性だ。
本展とは別に講演、ギャラりートーク、朗読会(5月10日(日)寺田農「春琴抄」)も予定されており、文芸映画を観る会では、4月24日(金)25日(土)に「春琴物語」(1954年大映)、5月15日(金)16日(土)に「刺青」(1966年大映)が上映される。
過去二回もノーベル文学賞の最終候補に挙がりながら、残念ながら受賞には至らなかった。
いまでも谷崎潤一郎人気は根強いものがあり、かなり若い女性が入館に訪れている。
日本文学史の中に登場する、文豪と呼ばれる作家はそんなに多くはない。
時は春、いよいよ春本番で、温かな季節がめぐってきた。
貴重な機会といえる。
初公開からは少々時間がたってしまった。
「わたしはロランス」(2012年)の、弱冠26歳の美しき天才監督グザヴィエ・ドランの新境地を見せる意欲作だ。
カナダ東部ケベック州の雄大な田園地帯を背景に、閉鎖的な家族と地域を舞台に描かれる、心理サスペンスという触れ込みである。
主演も、もちろんグザヴィエ・ドラン自身だ。
過去の隠された真実、暴力と罪悪感、閉塞的な土地で静かに狂っていく日常・・・。
時として息詰まるような、一種の心理スリラー劇なのだ。
モントリオールの広告代理店でコピーライターとして働くトム(グザヴィエ・ドラン)は、交通事故で死んだ恋人ギヨームの葬儀に出席するため、ギヨームの実家である農場に向かう。
そこには、ギヨームの母親アガット(リズ・ロワ)と、ギヨームの兄フランシス(ピエール=イヴ・カルディナル)が二人で暮らしていた。
トムは到着してすぐ、ギヨームが生前、母親にはゲイの恋人である自分の存在を隠していたばかりか、サラ(エヴリーヌ・ブロシュ)というガールフレンドがいると嘘をついていたことを知ってショックを受ける。
トムはさらに、フランシスからギヨームの単なる友人であると母親には嘘をつき続けることを強要される。
トムは次第に、恋人を救えなかった罪悪感から、自らを農場に幽閉するかのように、フランシスの暴力と寛容のなさに服していくのだった・・・。
このカナダ・フランス合作のドラマ「トム・アット・ザ・ファーム」は、複雑な主人公の心理を見事に表現しており、彼の作品群の中でも完成度はかなり高いとされるが、この映画を楽しもうとするには心に余裕がないと難しいかもしれない。
いたるところで、主人公の心にくすぶり続ける純粋な感情が、作品の中で剥き出しにされる。
作品にはホラーのテイストも多少加味されており、エネルギッシュな緊迫感にあふれている。
暴力を挟みつつ、緊迫感を極限にまで高めていく説得力のある話が功を奏しているが、映画音楽の優れた効果も無視できない。
この種の作品を好むと好まざるとにかかわらず、光り輝くような若いグザヴィエ・ドランの才能には、しかし一目置かざるを得ない。
誘拐事件や監禁事件などの被害者が、犯人と長い時間を共有することによって、犯人に過度の連帯感や好意的な感情を抱く現象を「ストックホルム症候群」というのだそうだ。
1973年にストックホルムで起きた人質立てこもり実験で、人質が犯人に協力的な行動をとったことから付いた名称だといわれる。
このドラマは「これはホモセクシュアルとホモフォビアについての映画でなく、恋人を救えなかった罪悪感から、暴力と不寛容のみでストックホルム症候群に陥っていく主人公の物語だ」とグザヴィエ・ドランは述べている。
もともと、現代カナダの劇作家ミシェル・マルク・プシャールによる、室内を舞台とする同名戯曲の映画化だが、撮影では登場人物たちを屋外にも出場させて、より映画らしさを出している。
登場人物も少なく、本作は舞台演劇を見ているような仕上がりの作品となった。
だがどうしても、決して楽しいというたぐいの作品ではない。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
アカデミー賞作品賞ほか主要4部門を獲得した、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督の作品だ。
メキシコのイニャリトゥ監督にとっては、これが初めてのオスカーだそうである。
タイトルの意味するところがすこぶる理解しがたいが、際立った特徴としては、映画全体がつなぎ目のない長回しで撮られているように見えることだ。
それは長い文章を、まるで句読点がないまま読む感じによく似ている。
この作品が、映画史をひっくり返すほどの傑作と世界は絶賛しているというのだが、それよりはむしろ実験的な映画に近い。
現実と妄想が交錯する世界を、巧みに演出している点は高く評価できるが、ドラマ自体も構成も平凡だ。
落ち目の俳優の悪戦苦闘ぶりを、ブラックユーモアたっぷりに描いているに過ぎない。
かつて、スーパーヒーロー映画「バードマン」で主演し、スターになったリーガン(マイケル・キートン)も、いまでは脚光を浴びなくなっていた。
私生活でも結婚に失敗し、一人娘のサム(エマ・ストーン)は薬物に溺れ、気がつけば莫大な資産もほとんど消えていた。
そんな失意のどん底から脱け出すべく、彼はアメリカ・ブロードウェイの舞台での再起を目指していた。
サムは付き人として親子関係の修復をはかり、リーガンは俳優人生をかけて自らの脚色、演出で、舞台に立とうとする初日を控えて、トラブルが相次ぐ。
共演者が事故に遭い、実力派舞台俳優のマイク(エドワード・ノートン)が代役になるが、これこそが最低のトラブルメーカーだったのだ。
マイクは、リーガンの娘と知りながら、サムを誘惑し、舞台では本物の酒を飲んで演技を暴走させるなど、プレビュー公演の初日を滅茶苦茶にぶち壊してしまったのだった・・・。
冴えない中年男リーガンの妄想が、全編に漂う。
カメラワークは見事だし、撮影のうまさにもあざとさが見え隠れする。
妄想と現実がない交ぜで、ミステリーの要素もあり、大笑い出来るシーンも随所に用意されている。
アメリカ映画「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」の演出は、観客が舞台の劇場にいるかのような錯覚を起こさせるのだ。
いろいろな場面でドラムスの音が盛り上げるが、それも時として息苦しさも・・・。
現実と妄想が巧みに交錯するので、いささか奇想天外の感強く、爽快感もあるが虚脱感もある。
物語自体に感動するものは、何もない。
リーガンの出る劇(舞台の原作)は、レイモンド・カーヴァーという人の原作で、この劇中劇とリーガンの実生活が重なって、何とも苦々しい味わいとのさじ加減はなかなかのものだし、映像スタイルも斬新だ。
主人公が意気込めば意気込むほど自分を見失っていく、その緊張感と困惑感のようなものはこちらにもよく伝わってくる。
超能力(?)、幻覚に翻弄される2時間は痛快な一面もあって、作品は決して悪くはない。
かつての栄光が、いま再起をはかろうとする男を振り回す、その面白さだ。
ダークファンタジーとでもいったらよいか、寓話の世界に遊ぶ気分で楽しめば肩は凝らない。
一種特異な作品には違いないが、映画の芸術性を考えて、大騒ぎするほど傑出した作品ではない。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
2003年のデビュー作「父、帰る」で、ヴェネチア国際映画祭グランプリ金獅子賞を受賞したアンドレイ・ズビャギンツェフ監督は、十年ぶりに女性映画二本を発表し、日本公開した。
と もに、男性社会に対する女性の孤独、抵抗、苦悩を題材とする作品だ。
近年めずらしい、謎めいた‘美’に彩られたロシア映画の二本だ。
「エレナの惑い」
2011年冬、モスクワ・・・。
二年前に、初老の資産家ウラジミル(アンドレイ・スミルノフ)と再婚したエレナ(ナジェンダ・マルキナ)は、生活感のない高級マンションで、一見裕福で何不自由のない生活を送っている。
しかし、その生活で夫に求めるのは、家政婦のように家事をし、求められるがままに尽くす従順な女の姿だ。
そんな生活の中で、彼女は夫の顔色をうかがいながらも、唯一の自己主張のように、前の結婚でもうけた働く気のない息子夫婦の生活費を工面している。
ウラジミルは、そんなエレナに不快を隠せない。
エレナの日常は夫の急病により一変する。
夫は言った。
「明日、遺言書を作成する・・・」
どうやら、ウラジミルは別に暮らしている一人娘のカテリナ(エレナ・リャドワ)に全財産を譲りたいらしい。
死期を悟ったウラジミルのその言葉とともに、エレナの「罪」の境界線が揺らぎ始め、彼女はある行動に出るのだった・・・。
冒頭の静謐な映像から、ズビャギンツェフ監督はじいっと人間の行方を追い続ける。
だが、登場人物は多くを語らず、寡黙である。
エレナは、失業中の息子夫婦に年金を貢いでいる。
夫は反対している。
再婚で、エレナ自身も安定した暮らしを得ており、一方で自分の子供を可愛がる。
エレナの家族を養う義務はないとうそぶく夫に、妻は妻で反発する。
エレナの息子への盲目愛と、自分のひとり娘には全財産を相続させたいというウラジミルと・・・、そこでエレナが決断したことは、人間の行方、人間の魂の荒廃を描いて心に響く。
監督自身の、初めてのオリジナル脚本で描かれるこの作品は、いまなお男性優先主義のロシアで、一人の母としてそして女としてもがく主人公の姿を通して、魂とモラルを失いかけている現代の闇を観客に突きつけてくるのだ。
スタイリッシュななカメラワーク、計算され尽くした色彩設計と音響効果・・・、その中で女の業の凄みがその闇を画面一杯にに投影しているようである。
ロシアの格差社会を背景に、夫婦、そして母と息子との関係を描いたこの作品、ラストまで目が離せない。
「エレナの惑い」は緊張感途切れないサスペンスで、厳格なカメラのまなざしとともに、アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の演出力に敬服するしかない。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
「ヴェラの祈り」
初夏の田園風景の中を、一台の自動車が走り抜けていく。
運転するマルク(アレキサンドル・バルエフ)は、腕に銃弾を受けており、血を流している。
街に入って、弟アレックス(コンスタンチン・ラヴロネンコ)の住まいを訪れ、弾丸を摘出してもらう。
アレックスは兄に休んでいけというが、マルクは手負いのまま去っていく。
アレックスには、美しい妻ヴェラ(マリア・ボネヴィー)と息子キール(マキシム・シバエフ)、幼い娘エヴァ(カーチャ・クルキナ)がいて、一家で揃って亡き父が残してくれた田舎の家に出かける。
アレックスとヴェラの間には、いつのころからか溝が深まっていた。
子供たちが寝静まったある夜、ヴェラはだしぬけに夫に言った。
「赤ちゃんが出来たの。あなたの子ではないけれど」
アレックスは妻の突然の告白に動顛し、ヴェラを置き去りにして田園に出ていく・・・。
夫婦のすれ違いが引き起こす悲劇を描いたヒューマンドラマだが、ドラマそのものは極めてシンプルである。
その構図は緻密に計算されたように、しかも絵画のように美しく、ひとつひとつの場面がアートを見ているようだ。
夏の休暇を過ごすために、子供二人を連れて田舎にやってきた夫婦を描いており、妊娠した妻がお腹にいる赤ちゃんの父は夫ではないと告白したことから、実は大変深刻な事態に陥ってしまうのだ。
ヴェラの宿した子の父は誰であったか、そしてヴェラはどうして夫に「あなたの子どもではない」などと不思議なことを言ったのか。
冒頭のマルクの怪我は何を意味するのか。
ズビャギンツェフ監督の映画世界は、どこか謎めいた要素を多分に孕んでいて、釈然としない。
登場人物たちの台詞は極限にまで研ぎ澄まされている。
しかも登場人物が少なく、これというアクションもない。
日常のゆったりとした時の流れに、いやでも観客はついてゆかざるを得ない。
人間と人間のコミュニケーションは、どこまで通じ合っているのだろうか。
この作品「ヴェラの祈り」では、主人公の男の、内面の苦悩の重さが明かされないままだ。
シンプルではあるが、監督の創造する映画美学世界の理解に苦しむ作品だ。
この映画もまた静かすぎる。
映画のラスト、農婦が古代スラヴ語で歌うシーンは、ズビャギンツェフ監督によれば人間の生命のサイクルを示しているのだそうだ。
生命は続くのだという・・・。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
アンドレイ・ズビャギンツエフ監督のロシア映画「エレナの惑い」「エヴァの祈り」は、ともに芸術的挑戦をはらんだ特異な野心作と思わざるを得ない。
ドラマの緊張を高めるための音楽、油彩画を思わせるような映像に、豊饒な映画体験の大いなるひとつのきっかけをつかめるだけのものはあろう。
* * * * * 追 記 * * * * *
21世紀の最高傑作という触れ込みで、ロシア映画「神々のたそがれ」(巨匠アレクセイ・ゲルマン監督作品)が、3月21日、日本公開となっています。
いずれの時か、取り上げさせていただく機会もあろうかと・・・。