徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

「 禁煙条例 」ー怖い!受動喫煙ー

2008-06-29 11:00:00 | 寸評

居酒屋など飲食店でも、喫煙が禁止される・・・?!
飲食店やパチンコ店といった、不特定多数が出入りする施設を全て禁煙にする。
違反者には、罰金も科されると言うから穏やかではない。
「禁煙条例」の制定をめぐって、神奈川県が賛否両論で揺れている。

最近、「受動喫煙」と言う言葉をよく耳にする。
他人のたばこの煙を吸わされることを言うのだ。
この受動喫煙が、不快なことはもちろんのこと、健康への悪影響が大いに心配されている。
4000種類以上の化学物質を含んでいて、その内200種類以上が有害物質だそうだ。
火がついた方から出る煙(副流煙)の方に、多くの有害物質が含まれていて、そのため受動喫煙は、肺がんや心臓疾患といった病気の引き金になると言われる。
怖ろしいことだ。

いま多くの国々で、公共施設での喫煙を、法律で禁止している。
主流煙より副流煙の方が、ニコチンは2.8倍、タールは3.4倍、一酸化炭素は4.7倍も多いそうだ。
これでは、生命と健康への、悪い影響が心配されるわけだ。
2006年のアメリカ公衆衛生総監報告書によれば、親の喫煙はこどもの心臓血管症状を増やし、受動喫煙には安全無害と言えるレベルの全くないことが、科学的に証明されている。

家庭では、幼児や子供の前でたばこを吸わないということは、今では鉄則になっている。
この受動喫煙の防止に向けて、神奈川県は他県に先んじて、防止対策を進めている。
提唱者は松沢成文・神奈川県知事で、年内にも、新しい条例を制定したい考えだ。
実現すれば、これはもう画期的なことである。

問題となるのは、とくに飲食店での喫煙防止だろう。
禁煙にしたら、客が来なくなってしまう。
たばこの煙で、料理が台無しになる・・・。

この条例制定については、、不満や不安いっぱいの飲食業や理容業などの業界団体が、反発している。
禁煙の居酒屋が出来たら通う、という人もいる。
遊技場やマージャン店の客は、受動喫煙は仕方がないと覚悟している。
賛否は、いろいろと分かれるようだ。

先日、松沢知事の製作した映画「破天荒力」の上映会の席で、合わせて知事の講演を聴く機会があった。
その時に、たまたま禁煙条例の話が出た。
喫煙は、もはや「迷惑」と言うようなものではなく、「危険」そのもので、健康増進法が成立しただけで、多くの人が利用する施設での受動喫煙の防止については、努力義務が課せられている。
でも、それだけではとても不十分だ。
世界の潮流は、どんどん法制化が進み、禁煙対策は拡大されている。
それなのに、国政は無策だ。
厚生労働省がたばこ対策を進めようとしても、財務省が陰で反対する。
国政が無策だから、地方自治が動く。
そして、国を変えていこうというわけだ。

当然、喫煙者のための空間は別に確保するわけで、不特定多数の人々が利用することを目的としていない施設は、対象とはならない。
 「皆さんが集まっているところで、お話をすると、9割以上の方が禁煙条例に賛成して下さる。ところが、議会というところ
  は、なかなか反対が強いのです。ですから、とても一筋縄ではまいりません。この条例制定は、大きな社会改革だと考え
 ています。時間をかけていくしかありません。」
松沢知事はこう言って訴えた。

確かに、ひと仕事終えたら、酒を飲み、談笑しながら一服する。
これまでずっと、誰もが、こうした庶民の生活文化に身を置いてきた。
何ひとつ疑うこともなかった。
しかし、そうした喫煙という行為が、同席する多くの人たちの健康に被害を及ぼすとなったら、それを改めることだって、当然必要になってくることだ。

空気がきれいで、健康的なまちをつくるつくることは、素晴らしいことだ。
時代とともに、国の状況だって変ってきた。
悪しき習慣は、改めていけばよい。

地方分権が進む。
住民が議論を積み重ねていく中から、それこそ利害の対立を超えて、禁煙条例が、その先駆的な事例になる日は、そう遠くないかも知れない。
喫煙者と非喫煙者が共存できる、健康的な秩序ある社会への変革に期待したい。
時代の流れの中で、自分たちの生活文化を、見つめ直し、改める勇気を持たなくてはいけない。

・・・ふと、何の脈絡もなく、本当に何の脈絡もなく、このとき、三島由紀夫の名作『金閣寺』の最後の一節が浮かんだ。
何故なのか、分からない。
金閣寺に火を放った主人公が、左大文字山の頂きにたどりつき、火の粉が舞う金閣の空を眺めて、一服する場面だった。

    ・・・別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一ト仕事を終へて
    一服してゐる人がよくさう思ふように、生きようと私は思った。・・・


映画「潜水服は蝶の夢を見る」ー驚きの実話ー

2008-06-27 18:00:00 | 映画

・・ぼくは生きている。
話せず、身体は動かないが、確実に生きている。
二十万回の瞬きで、自伝を綴った奇跡の実話が映画化された。

順風万帆な人生が、ある日を境に突然変わってしまう。
誰にでも起りうる、病と言う名の不条理・・・、そんな時人はどうするのだろうか。
ELLE誌の編集長をしていた、ジャン=ドミニク・ボビーは突然脳梗塞で倒れ、身体の自由を失った。
そして、唯一動く左目の20万回以上の瞬きで、自伝を書き上げた。
たとえ身体は“潜水艦”のように動かずとも、“蝶”のように自由に羽ばたく記憶と想像力がある。
そうした意味から付けられた著作は、フランスやイギリスで数ヵ月に及ぶベストセラーとなり、全世界31ヵ国で出版され、世界を驚きと感動で席巻したのだった・・・。

その奇跡の実話を、ジュリアン・シュナーベル監督は、溢れるほどの色彩と映像美で映画化した。
カンヌ国際映画祭監督賞、高等技術賞、ゴールデングローブ賞監督賞、外国映画賞他数多くの映画賞を受賞した。
ジュリアン・シュナーベル監督
は、ともすれば、生きる希望さえも失いかねない人生の逆境を、愛とユーモアいっぱいに、しかし美しい夢のように描き上げた。
そこには、人生とはこんなにも素晴らしいのだという、彼のメッセージがこめられている。

ジャン=ドミニク・ボビー(マチュー・アマルリック)は、病院で目覚める。
全身麻痺していて、動かない。話も出来なくなっている。
身体の中で、唯一動くのは、自分の左目だけ・・・、であった。
ジャン=ドミニクは絶望に打ちひしがれる。目覚める前の自分からは、かけ離れた姿だった。

ジャン=ドミニクは、幸せでエレガントな、しかし多忙な日々を送っていたが、今は、潜水服に閉じ込められて動けなくなっているのも同然だった。
しかし、彼を支えてくれる人々がいた。

言語療法士のアンリエット(マリ=ジョゼ・クローズ)は、彼の左目の瞬きが唯一の伝達手段であることを認識し、コミュニケーションの手段を発明する。
「はい」は瞬き一回、「いいえ」は二回、その次の段階は、彼女がアルファベットを読み上げる。
文字を選ぶときは瞬きをし、単語が完了したら瞬き二回、そうして彼は文章を作り、会話をしていくのだ。

身体は動かないが、自由になるものが三つあった。
まず、左目の瞬き、そして記憶と想像力だ。
・・・彼は、生きる気力を徐々に取り戻していく。

ジャン=ドミニクは、自分が倒れるまでの半生のメモワールを、まばたきで文章として綴る作業に没頭する。
それは、茫漠とした過去の旅であった。
年老いた父との記憶、恋人ジョゼフィーヌ(マリナ・ハンズ)とルルドに行った記憶・・・。
過去を旅する彼の傍らで、父は誕生日の祝いの電話をかけてきてくれたし、3人の子供たちとその母セリーヌ(エマニュエル・セニエ)は、ことあるごとに病室を訪ねてきた。
ジャン=ドミニクは、周囲の人々の大切さを思い知る。
そして、彼らの思いを本に綴っていく・・・。

実在したフランス版ELLE誌の名編集長、ジャン=ドミニク・ボビーは43歳の時突然倒れた。
意識だけは元のままの、脳梗塞の一種で<ロックト・インシンドローム(閉じ込め症候群)>という重病であった。

随意的な眼球運動や、瞬目が保たれている、ただそれだけの状態で、希望を胸に本を書き続ける。
そんなことが、本当に出来たのだ。

この難しい主人公の役は、最初ジョニー・デップが演じる予定だったそうだ。
だが、ジョニー「パイレーツ・オブ・カビリアン」で多忙を極めていて、実現出来なかった経緯がある。
難役を、格好良く感動的に演じたマチュー・アマルリックは、アカデミー賞にもノミネートされていた。

物語そのものに、大きな起伏があるわけではない。
淡々とした、一味違ったドラマである。
楽しいとか、面白いといったたぐいのそれではない。
必ずしも、一般受けする作品とは思わない。
だから、「実話」だったのだ、と思える。
主人公は、失意の底から希望の光を見出していた。
そこには、人間の精神の強さ、熱さ、崇高さがあり、人を支えるのもやはり人だという感慨に包まれる。
人は、誰もが孤独だ。
閉塞感を持った、現代の若者や中高年が多い。
この作品を観て、勇気を与えられるかも知れない。

人が<心>だけの存在になる。
そんなことがあるとすれば・・・。いや、きっとあるだろう。
その時、宗教的、哲学的な瞑想(?)の中で、<思う>のは、何だろうか。
魂のエレガンス、と言うような言葉を口にする人もいるけれど・・・。
ジャン=ドミニク・ボビーによれば、「健康な時には私は生きていなかった。存在しているという意識が低く、極めて表面的だった。しかし、私は再生した時、“蝶の視点”を持って復活し、自己を認識する存在として生まれ変わった」のである。
彼は、こうして偉大な文筆家となった。
原作者ジャン=ドミニク・ボビーは、この作品が出版されて数日後、突然亡くなったという。

ジュリアン・シュナーベル監督は、ニューペインティングの旗手としてニューヨーク美術界に彗星のごとく現れ、時代の寵児となったと言われる。
だからなのか、カメラワークにも、絵画的な手法がふんだんに使われている。
その彼の“生きる”ことへの、メッセージは貴重だ。
 「一度限りの輝かしい人生を、一瞬たりとも無駄にしてはいけない。」

この映画は、ヒューマンタッチの佳品といってもいいだろう。
アメリカ・フランス合作映画潜水服は蝶の夢を見るの原作は、寝たきりの著者の作品にもかかわらず、絶望を乗り越え、自分らしい人生を全うしようと決意した、その心もようが伝わってくる一作である。
そして、これもまた映画なのだ。



映画 「 奇跡のシンフォニー 」ー♪ 主役は音楽 ♪ー

2008-06-25 17:30:00 | 映画

        ・・・僕の心の音楽は、両親からの贈り物だ。
        きっとパパとママが出会った夜に聞いた音。
                    音楽がふたりを結びつけた。
               僕ともつながってる。・・・

登場する楽曲は、実に40曲以上というから、これはもう立派な音楽映画だ。
映画の脚本に感銘を受けた、世界の名だたるミュージシャンが集まって、楽曲の提供やレコーディングに参加した。
クラシック、ロックなどのジャンルを超えて、良質なサウンドが、映画の中でクロスオーバーする。

カーステン・シェリダン監督のアメリカ映画である。
製作者の意図は、もうこの夏は、とびきりピュアな涙を流してくれと言わんばかりだ。
必ず会えると信じて、両親を探す少年の一途な想いと、再会の奇跡を呼び起こす音楽に、心揺さぶられるファンタジーだから。

エヴァン・テイラー(フレディ・ハイモア)は、男子養護施設で育った11歳の少年だ。
風の音からベッドのきしむ音まで、あらゆる音がメロディとして感じられるほど、幼い頃から、鋭い感性を備えている。
児童福祉局のリチャード・ジェフリーズ(テレンス・ハワード)は、施設を出て、養子になることをエヴァンにすすめる。
だが、家族がいつか必ず迎えに来ると信ずるエヴァンは、涙を流しながら、首を横に振った。
 「ぼくは、ここを離れたくない。生まれて最初に来たこの場所を離れたら、パパとママがぼくを捜し出
 せなくなるから」

・・・11年前の満月の夜、コンサートで、ニューヨークへやって来た新進のチェリスト、ライラ・ノヴァチェク(ケリー・ラッセル)と、ロック・ミュージシャンのルイス・コネリ(ジョナサン・リース=マイヤーズ)は、ワシントン広場を見下ろすビルの屋上で、運命的な出逢いを果たした。
二人は、ステージ・パパとして権力を振るう、ライラの父トマス(ウィリアム・サドラー)によって、その仲を引き裂かれる。
間もなく、妊娠に気づいたライラは、父の反対を押し切り、シングルマザーになることを決意する。
しかし、出産を間近に控えたある夜、交通事故にあう。
・・・意識を取り戻したライラに告げられたのは、お腹の子は助からなかったという報らせだった。

一方ルイスは、兄たちと組んでいたバンドを脱退し、金融ビジネスの世界に身を投じていた。
ライラとの間の子供が、この世に存在しているとも知らないで・・・。

ライラの父トマスが死の床につく直前、彼女は、父から自分の子供が生きていることを知らされる。
ライラエヴァンを捜す日々と、エヴァンが父と母を捜す日々が始まった・・・。

・・・11年間に、天才的な音楽の才能を発揮し始めたエヴァン少年は、両親への思いを込めて、ジュリアードで狂詩曲を作曲し、その曲は、奇しくもライラの出演するセントラルパークの野外コンサートの会場で、演奏されることになったのだ・・・。

この映画も、感性の細やかさは、やはり女性監督カーステン・シェリダンの演出によるところが大きかったようだ。
ドラマを盛り上げるのは、何と言っても音楽だ。
ただ、後半に力を注いだせいか、前半ライラルイスの、二人の出逢いから別れまでの話が、大分短かくなってしまったのは残念だ。
急ぎすぎの感は否めない。

ワシントン門から始まって、郊外の施設に預けられたエヴァンと、シカゴへ戻ったライラ、サンフランシスコでビジネスマンになったルイスの三人・・・。
離れ離れになっていた彼らが、11年後にまたニューヨクで再会したのだ。
ライラルイスが、かつてギターの音色によって引き合わされたように・・・。
ありえないような話だから、これがドラマになるのだろう。
夜空に、高らかに響き渡るシンフォニー・・・。
そして、感動のラストは、勿論この映画のために用意されたものだった。

登場人物の誰もが、それぞれ物語を持って、生まれてきていた。
そう、そして人は誰もが、出逢いと別れを繰り返す・・・。
今日も、明日も・・・。
アメリカ映画 「 奇跡のシンフォニー は、人はみないつでも、“奇跡”の出会いによって、“今”があると言いたいのかも知れない。


映画「靖国 YASUKUNI」ー日本の過去を検証するー

2008-06-23 23:55:00 | 映画

上映中止など、映画の枠を超えて、社会現象まで引き起こした作品である。
日本人にとって、複雑な想いを抱かせる、アジアの戦争をめぐる歴史・・・、「靖国神社」には、そうした日本の歴史の側面が潜んでいる。

靖国神社は、日常は平穏そのものだ。
でも、毎年8月15日になると、そこは、奇妙な祝祭的な空間に変貌する。

旧日本軍の軍服を着て、「天皇陛下万歳」を叫ぶ人たち、的外れな主張を並べ立てて、星条旗を掲げる変なアメリカ人、境内で催された追悼集会に抗議し、参列者に袋叩きにされる若者、日本政府に「勝手に合祀された魂を返せ」と迫る、台湾や韓国の遺族たち・・・。
狂乱の様相を呈する、靖国神社の10年に渡る記録映像から、アジアでの戦争の記憶が、観るものの胸を焦がすように、様々な多くのことを問いかけながら、鮮やかに甦ってくる。

リー・イン(季纓)監督による、香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞受賞作だ。
凄まじい作品だが、日本人なら目を背けるわけにはいかない。
さすがに、日本在住19年の中国人監督リー・インにしてなしえた力作ではなかろうか。
映画は、日本と日本人について描かれている。
リー・イン監督は、中国人なのに、日本人以上に日本のことを深く理解し、研究している。
一知半解の日本理解ではない。

リー・イン監督は、冒頭でまず、靖国神社の神体は刀であり、昭和8年から敗戦までの12年間に、靖国神社の境内で、8100振りの日本刀(軍刀)が作られていたことを指摘する。
その90歳を超える刀匠の、日本刀づくりの作業を撮りつつ、穏やかで口数少ない老刀工と、ゆっくり静かに、これらの刀の持つ意味を語り合う問答を配置しながら、靖国問題をめぐる、熱狂的な渦の中へと入ってゆく。

リー・イン監督は、かつて日本の侵略を受けた中国人として、当然日本人たちの言動を苦々しく見ているはずである。
しかし、彼の目は冷静だ。
どちらに偏ることもなく、中立の視線で、リアルに現実を追っていくのだ。
カメラの動かし方は、ニュースフィルムを見ているような迫力がある。
意表をついた、気迫のこもった作品だ。

人類にとっての、永遠のテーゼ(命題)と言われる、戦争と平和について、彼は10年もの歳月をかけて追いかけていたのだ。
戦争と言う名の亡霊が、人類に接近する歩みを止めたことはない。
ここでは、靖国神社は戦争を祀る<生>と<死>の巨大な舞台となった。

日本人から見ると、この作品はまさしく日本人が思想的に考える映画だ。
日本人が見て、何ら不愉快な要素はない。
むしろ、「なるほど」「もっともだな」と思わせられる。
感心してしまうのだ。

「英霊」と言う概念は、国のために殉じた軍人に対して、明治時代に作られたもののようだ。
靖国神社の「英霊」をどう評価するのか。
この国の戦争を、どう考えたらいいのか。
大変難しいところだ。

靖国神社は、太平洋戦争にしても、この戦争をはっきり聖戦と位置づけている。
侵略戦争ではなく、自衛のための戦争だと言ってはばからない。
この話は、かなり衝撃的だ。

日本の戦争責任について、日本政府はどう見てきたか。
国際社会に対しては、東京裁判の判決を受け入れる姿勢を見せた。
あれは、戦勝国が敗者を裁いた裁判だった。
国内では、その被告であるA級戦犯(東條英機ら)たちを、英霊として祀ってきたのだった。

映画を作るにあたっては、様々な脅威にさらされてきた経緯がある。
この映画には、ナレーションも解説もない。
そのかわりに、登場人物たちのいい言葉がいっぱいある。
そして、偽りなき事実が語る多くのもの・・・。

しかし、う~ん、考えさせられる・・・。
日本という国のこと、日本人という民族のこと・・・。
「靖国」とは、「国を平安にし、平和な国をつくり上げるという意味だそうだ。
命名は、明治天皇だそうだ。

政府要人の参拝が、いつも問題になる。
日本人の「心」の問題が、他国の干渉を受けることなど、本来あってはならないことだ。
「参拝」に、公人だの私人だのあるのもおかしい。

この作品の上映については、いろいろな物議をかもしてきた。
ひとつの記録映画としてとらえたとき、リー・イン監督のまことに穏やかな目線が、このような、中立的な作品を誕生させたことは画期的なことだろう。
こうした映画は、なかなか生まれるものではない。
日本の映画史上で、おそらく靖国神社を描いた作品は初めてではないか。
この神社の存在はあまりにも不明瞭で、矛盾に満ちていて、複雑だ。

「靖国」を知る者も知らぬ者も、また戦争を知る世代も知らぬ世代も、日本という国を知る、思いもよらぬ手がかりが、この日中合作映画「靖国 YASUKUNIには潜んでいる。
日本での生活の長いリー・イン監督、「この映画は、私の日本に対してのラブレターだと思っています」 と語っている。
十分一見に価する、秀逸な “考える” 映画である。
作品を観ての判断は、すべて観客に委ねられる。
・・・今年もまた、間もなくあの8月15日がやって来る・・・。



映画「サラエボの花」ー救いと慈しみー

2008-06-21 23:00:00 | 映画

1992年のことであった。
旧ユーゴスラヴィアが解体してゆくなかで、ボスニア紛争は勃発した。
95年の決着をみるまでに、死者20万人、難民、避難民が200万人も発生したと言われる。
第二次世界大戦後の、ヨーロッパにおける、民族と宗教が複雑に絡み合った、最悪の紛争となった。
これまで、このバルカン半島での未曾有の紛争をテーマにした作品は数多く作られてきたが、この映画もそのひとつである。
ベルリン国際映画祭金熊賞グランプリ、平和映画賞をはじめ、ブリュッセル・ヨーロッパ映画祭などで数多くの映画祭賞を受賞した作品だ。

74年、サラエボ生まれの女性監督ヤスミラ・ジュバニッチは、ボスニア紛争当時、まだティーン・エイジャーであった。
彼女にとって、長編デビュー作となるこの作品を製作することは、自らの恐怖の体験を掘り起こす辛い作業だった。
しかし、この紛争の悲劇に立ち向かうことによって、ヤスミラ・ジュバニッチ監督は、ここに生命の尊さと美しさを見出したのだった。

山々に囲まれたサラエボは、戦時中はセルビア人勢力に包囲され、長期間にわたって、市民は砲撃と狙撃兵の標的にされてきた。
この映画の舞台となった地域は、セルビア人の勢力に制圧されていたところで、ここで、戦争という名目のもと、多くの多彩で悲惨な出来事が起った。

この作品は、その犠牲者たる女性の12年後を描いている。
ここでは、殺戮のシーンも、暴力の恐怖も、戦争の生々しさも描くことなく、平和を取り戻そうと懸命に努力し、生きる人々の日常を丁寧なカメラワークが捉えていく。
ジュバニッチ監督が、「これは、愛についての映画である」と言っているように、作品に描かれるシーンの数々には、慈しむような、穏やかな視線を感じるのだ。
そこには、許しも復讐もない。
主人公は、戦争の悲惨と、さらには衝撃的な事実までも淡々と語っていくのだ。

純粋とは言えない愛がある。憎しみがある。
それらは、いつもトラウマと成り、絶望、嫌悪が入り混じって、救いがたい現実となった。
憎しみという感情の中で、生まれてしまった子供を持つ女性の心が、純粋であればあるほど、襲いかかる感情の凄まじさは、どれだけ第三者に理解できるだろうか。
実際、自分の子供に授乳しながら、ジュバニッチ監督はシナリオを書き上げたそうだ。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボ、グルバヴィッツァ地区・・・。
かつて母は、自分のお腹に宿した生命を怖れていた。
しかし、生まれてきた娘は、母の大きな喜びに変っていく。

シングルマザーのエスマ(ミリャナ・カラノヴィッチ)は、12歳の娘サラ(ルナ・ミヨヴィッチとつましく暮らしている。
学校のサッカーで、男子生徒と張り合うくらい、男まさりのサラの一番の楽しみは、もうすぐ出かける修学旅行であった。

戦死したシャヒード(殉教者)の遺児は、旅費が免除されると言うのに、何故かエスマはその証明書を出そうとしない。
かわりに金策に奔走する母に、サラの苛立ちは募るばかりだ。
娘の怒り、母の哀しみ・・・、12年前、この街で何が起ったのか。

娘への愛のために、母が心の奥深くひたすら隠してきた真実が、次第に明らかになってゆく・・・。

戦争の犠牲となった女性の現在を、この作品は描いていく。
初監督にして、弱冠32歳の女性監督ジュバニッチは、十代をまさに戦争の真っ只中のサラエボで生きた。

ボスニア戦争は民族戦争と言われるが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナには、そもそも民族間の深刻な対立というものは存在していなかった。
セルビア人、ムスリム人、クロアチア人の三民族が合意した政治機構が確立されなければ、統一した独立国家としてスタートするのは困難だったのだ。
その「独立」に際して、「手順」を誤ったために悲劇は起きたのだった。

女性に対する性的暴力は、残念なことだが、戦争ではいつでも起きている。
そして、このボスニア紛争でも、女性への暴力だけでなく、敵民族の子供を産ませることで、所属民族までを辱め、後世に影響を残すことが作戦として組織的に行われたと言うではないか。

三民族が混住した地域が、戦場となってしまったのだ。
死傷者は、戦闘の前線や攻撃で生じるばかりではない。
民族浄化のために、自宅から追いやられる際に、男性や子供は殺され、女性はその場で凌辱され、連行されていった。
各地に収容された女性は、連日多くの兵士に乱暴され、妊娠すると、本人の意志に反して子供を出産させられた。
それは、民族間の和解の可能性を消すためだったのだろう。
収容所での自殺や、子供を殺した例も多いと言う。

映画の中で、戦争の「悲惨」が映像として登場しないのは、もとより監督の意図するところであろう。
そのためもあるのか、どうも、訴えてくる力が希薄で、頼りなく思われる。
ヒロインの台詞だけで、過去の痛ましい傷跡を語りつくせるものではない。
戦争の深い傷を持つ母親と、真実を知らされる娘の、双方の苦悩と慰藉の念が描ききれていない。
心の葛藤や相克だってあるだろう。
どうも、こなれていないのだ。十分とは言えず、物足りなく感じる。
一番大事なところだ。
ジュバニッチ監督の若さか。未熟か。
希望と再生を謳うのであれば、悲惨な現実を直接あぶり出すべきではなかったか。
回想シーンがいつでもいいとは思わないが、もうひとつ、演出に工夫があってもいいのではないか。
ヤスミラ・ジュバニッチ監督には、もう一歩踏み込んだ演出をこそ期待したかった。
ともあれ、ボスニア・オーストリア・ドイツ・クロアチア合作の映画
サラエボの は、母娘の再生と希望を描いて、まずまず良質の作品には違いない。



「居酒屋タクシー」ー官僚の不埒ー

2008-06-19 23:45:00 | 寸評

夜更けの、東京銀座裏通り・・・。
名だたる高級クラブが、店を連ねている。
その一軒から、一人の男が千鳥足で出てきた。
数人の、派手な着物に厚化粧の女たちに見送られて・・・。
男はご機嫌だ。
男は、待たせてあった個人タクシーに乗った。
動き出した車に向かって、女たちは、甲高い声で何か叫びながら、おざなりに手を振っていた。

タクシーの運転手とは、顔見知りだった。
 「いつもの、コースでよろしいですか」
 「ああ。頼む」
 「かしこまりました」
車は、首都高速を一気に抜けると、埼玉県内の新興住宅地に入っていった。
丘の上の、まだ建って間もない邸宅の前で、車は停まった。
男は、車を降りるとき、何やらサインとともに、運転手の差し出した茶色い封筒と手土産の入った紙袋を受け取った。
 「どうも、有難うございました。また、宜しくお願いします」
 「ああ、いつもどうも・・・」
 「いいえ、どういたしまして」
 「じゃあ・・・」
 「はい。おやすみなさいませ」
タクシーの運転手も、降りた男もにこやかな表情だったのが、夜目にも分かった。
男はいくらか酔いがさめたのか、しっかりとした足取りで、玄関を入った。

男の妻は、どんなに遅い時間でも、必ず夫を出迎えた。
 「あらあら、また“飲み”ですか。こんなにおそくまで・・・」
 「いや、仕事と付き合いだ」
 「あら、お仕事も?」
 「そうだ。そのあと、付き合いもあってな」
 「それで、また車ですか」
 「そうだ」
リビングへ通ってからも、妻は夫に言った。
 「いつも、いつも、それいいんですか」
 「お前、何が言いたいのだ」
 「心配してるんです。この頃、いろいろニュースで騒がれてるから」
 「案ずるな。官僚というのは、何をしても、よくは言われないものなのだ」
 「いけないことじゃないの?」
 「何がいけないものか。仕事で遅くなれば当然のことさ」
 「仕事?でも、あなた酔ってるわ」
 「だから、言っただろ。仕事のあとの一杯だって」
 「・・・」
夫は、霞ヶ関へ勤める、上級管理職だ。
妻は、夫の毎度の行動を知っているのか、それ以上は立ち入ったことは言わなかった。言えば、嫌な言葉が返ってくるに決まっている。
だから、なるべく余計なことは言わないようにしていた。

夫は、少し難しそうな顔をして言った。
 「ただなあ、いろいろ騒ぎ立てられて、この頃チェックがうるさくなった。俺の立場でも、気をつけんと
 なあ」
 「・・・でしょう?」
 「まあ、な」
 「近所でも噂になってるらしいの。あなたのタクシー帰りが・・・」
 「何故だ?」
 「そんなこと、当たり前でしょ。自重しないと、まずいんじゃない?」
夫は、渋い表情で妻を見つめた。

明日は土曜日だ。二日続きの休日であった。
毎週金曜日の夜は、いつもこんな具合だ。
 「俺も、あと二年で役所も定年だ」
 「・・・」
 「これまで、一生懸命お国のために働いて来たんだぞ。少しぐらい、いい思いもさせて貰いたいよ」
長年連れ添ってきた妻は、黙って夫の方を見た。
 「・・・だからな、お前たちにも、十分な暮らしをさせてやることが出来たんだ」
 「そうね。それは、そうだわ。感謝してるわ」
 「何か不満でもあるのか?」
 「不満はないわ。だけど、何だか少し怖いわ」
 「・・・」
 「いろいろ、世間では言われていて・・・」
 「気にするな。役人へのやっかみさ。そんなこといちいち気にしていたら、役人なんかやっていられる
 かってんだ、ええ!」
 「・・・!」

時間外の仕事は、なるべく部下に任せ自分は極力少なくしている・・・。
馴染みの個人タクシーを利用するようになって、もう20年近くなる。
自分で金を払ったことは一度もない。
電車の時間に十分間に合うときでも、車を利用するようになった。
もうほとんど病み付きで、いまさら止められなくなっていた。
妻は、そんな夫の習慣を分かりすぎるほど分かっていた。
通勤定期があるのに、それを利用するのは出勤の時と、たまに帰宅の途中で自分の用事がある時だけであった。
自分でも、交通費の無駄は承知していた。
それでも、心のどこかで、「これは、俺の金ではない」と思っている自分がいるのも事実だ。
夫は、かねがね妻に言って聞かせたこともある。
 「ちょっと、勿体無いとは思うがね。・・・だが、俺だけじゃないんだ。皆やってることなんだよ」
 「・・・!」

個人タクシーの運転手もご利用大歓迎だし、利用する方も、サインひとつで土産と金一封か商品券が間違いなく貰えるのだ。
そこに、需要と供給のバランスが成り立つ。(!?)

妻は、「居酒屋タクシー」のことを、近くの主婦から聞かれたことがある。
 「タクシーで、おつまみとビールが出るって、そういうタクシーがあるの?」
あまりにも真面目な顔をして尋ねられたので、妻は真面目(?)に答えた。
 「そうらしいわねえ」
 「一度、乗ってみたいわ」
そう言って、主婦はくすくすと笑った。
知らぬ筈がない。わざとかまをかけたに違いないと妻は思った。
だって、夫がいつも夜遅く個人タクシーで帰ってくるのを知っている筈だからだ。
だからこそ、妻は気になっていたのだ。
 「知らないようで、知ってるのよ、うちのこと。あたし、嫌だわ」
 「いいから、知らんふりしていろ。それが一番だ。余計なことは一切言うな。わかったな」
妻は、唇をとがらせて黙っていた。
 「俺も、やがて定年だ。いいか、そのあとの天下り先も大体決まっている」
 「あら、そうなの?」と驚いたように目を丸くすると、
 「当たり前だ。何も心配しなくていいぞ。第二の人生も決まっているようなものだ。は、は、は・・・」
夫は、そう言って笑い飛ばした。
しかし、妻は、自分の胸のうちに、何かとてつもなく大きなどす黒い不安が、ふつふつと湧き上がってくるのを感じないではいられなかった。


「幻影師アイゼンハイム」ー現実か、幻影かー

2008-06-17 16:30:00 | 映画

これは、現実なのだろうか、幻影なのだろうか。
ピューリッツァー賞受賞作家、スティーヴン・ミルハウザー原作の、アメリカ映画「幻影師アイゼンハイム」は、ニール・バーガー監督秀作だ。
この作品、期待に違わぬ出来ばえで、完成度も高いと見た。
何よりもまず、究極のイリュージョンが素晴らしい。
大人の寓話である。
映画とは、こうあってほしいものだ・・・。

封印された幼き日の純愛・・・、そして公爵令嬢の謎の死・・・。
天才幻影師が、命を賭けた最後の舞台が幕を開ける。

19世紀末、ウイーン・・・。ハプスブルグ帝国末期の芸術文化の都では、大掛かりな奇術(イリュージョン)が一世を風靡していた。
その中でも、幻影師アイゼンハイム(エドワード・ノートン)の繰り広げるイリュージョンは、「芸術の域に達している」と評されるほど、神秘に満ち、絶大な人気を誇っていた。
その噂は、日ごとに高まって、とうとう皇太子レオポルド(ルーファス・シーヴェル)が、婚約者の公爵令嬢ソフィ(ジェシカ・ビール)を伴って、アイゼンハイムのショーを観覧しにやって来る。
だが、ショーの最中、イリュージョンの体験者として舞台に上がった彼女を見て、アイゼンハイムは愕然とする。
皇太子の婚約者である女性こそ、幼なじみで、かつての恋人ソフィだったからだ・・・。
彼女は、その時アイゼンハイムにこう訴えた。
 「私を、あなたの術で消してほしい」
この言葉は、後で大きな意味をもってくる。

二人は、15年前、互いに思いを交わした仲だったが、家具職人の家に生まれた彼と公爵令嬢とでは身分の差があった。
幼い二人の愛は引き裂かれ、時を経て、舞台の上で再会を果たしたのだった。
しかし、ソフィは、悪名高き皇太子と略奪結婚させられる運命にあった。
今では、その皇太子の婚約者として注目を集める彼女は、その後程なく、皇太子邸で謎の死を遂げてしまうのだ・・・。

・・・ソフィを失ったアイゼンハイムは、思いつめた様子で、死者の魂を甦らせるという、新たなイリュージョンを開始した。
その舞台は、熱狂的な信奉者を集め、帝国の脅威とさえなっていく。
皇太子はイリュージョンのトリックを暴こうと変装し、劇場に潜り込むが、舞台上に現れた女性を見て驚く。
それは、間違いなくソフィだったのだ。(!!)
いまにも、彼女は自らの死の真相をしゃべりだしそうだった・・・。

恐れをなした皇太子は、帝国の秩序を乱しているという罪で、アイゼンハイムを捕らえるようウール警部(ポール・ジアマッティ)に命じる。
警官たちが、劇場を取り囲む。
舞台上では、固唾を呑んで見守る大観衆を前に、アイゼンハイムの驚くべきイリュージョンが、いままさに披露されようとしていた・・・。

アイゼンハイムの見せたものは、トリックなのか。
それとも、彼の一途の想いがなせる業なのか。
・・・彼は、世紀末の不安定な世相を映し出し、神秘的、超自然的な「幻影」を信じたいという民衆を惹きつけてやまなかった。

劇中の謎解きも楽しい。物語の展開もミステリアスだ。
イリュージョンと聞いただけで、観る者をわくわくさせるような、妖しい匂いが隅々までたちこめている。
これは、れっきとしたアメリカ映画だ。監督も俳優もスタッフも、誰もがアメリカ人だ。
それなのに、どうだろう。この、あまりにもヨーロッパ的な匂いは・・・。
19世紀のウイーンだからなのか。
勿論、当時の雰囲気は、細部にいたるまで、美術や衣装にもかもし出されている。

・・・わずか1分で種から実を結んでいくオレンジの木、突然空間から現れ、ハンカチを広げると蝶々といったマジックにも思わず見とれてしまう。
( 映画にも登場する、この二つの有名なマジックにつては、動画サイト 「 orange treeで、
イギリスのマジシャン、ポール・ダニエルズが<彼流>に演じているのを見ることが出来る。)

公爵令嬢と相思相愛でありながら、身分の差を越えられず、手作りの木製のペンダントを彼女に贈って姿を消した少年は、15年後、名前を変えて幻影師アイゼンハイとなって帰ってきた。
そして、死者に語らせる術を持ったアイゼンハイムの名演は、観客を魅了する。
彼の敵として登場するレオポルドも、実在の人物がモデルと言われる。

すべては、少年の日のマジシャンの恋に始まり、そこにある愛を信じたソフィの彼に対する信頼と恋の物語か。
ロマンティックで、ファンタジック・・・、そしてやるせなく、もしもウール警部を手足のごとく使って絶対的な権力を振るう皇太子に分かってしまったら、死があるかも知れない。
その恐怖までも乗り越える危険をおかして、後悔はしない。
そう決断した恋人同士のドラマは、曲がりくねった道を進むのだが、その道のあちこちに仕掛けられたイリュージョンが伏線となって、あるときは罠であり、あるときは手がかりとなり、巧妙に練られた脚本がうまい。

アメリカ幻想文学の、どこかねっとりとした、しかし爽快な場面は、不思議な世界を演出して面白い。
映像化すると、こうなるものなのか。

映画の中で、令嬢ソフィは婚約したものの、結婚してもうまくいかないことに気づいて悩んでいる。
そこへ、少女の頃から秘かに愛し続けるアイゼンハイムが現れ、昔と変らぬ愛を示してくれたからこそ、彼を信じてついていくことを決意する。
そんな、愛しい女性を幸せにするために、アイゼンハイムは、一世一代のイリュージョンを仕掛けたのだ・・・。

考えて見れば、映画はもともとイリュージョンである。
現代の最新技術には慣れていると言っても、アイゼンハイムのトリックには参った。
 「君たちの見たものは、すべて幻影だ。トリックなのだ」
・・・しかし、幻影のなかに事実がある。
そう思わせるに十分な舞台装置が、この作品には揃っている。
作家スティーヴン・キングが、「繰り返し、幾度でも観たくなる1本だ」と評しただけのことはある。

アイゼンハイムを演じるエドワード・ノートンが特にいい。
映画音楽は、あの「あるスキャンダルの覚え書き」フィリップ・グラスで、格調の高い、ミステリアスなメロディがまことに心地よく響く。
手に汗握るシーンは、あっと驚くラストまで目が離せない。
ニール・バーガー監督幻影師アイゼンハイムは、十分大人の楽しめる作品だ。
アカデミー賞撮影賞ほか各賞にノミネートされている。


映画「トゥヤーの結婚」ー夫を連れた再婚ー

2008-06-15 09:00:00 | 映画

男子二人、女子一人を持つ働き者の彼女の結婚の条件は、離婚した夫も一緒に暮らすことだった。
そんなこともあるのだろうか。
しかし、この映画を観ると、そういう離婚夫婦も納得がいく。
女の気持ちは、あくまでも純粋だ。
気立てもよくて、気っぷも文句なしだ。
切なる女の願いをかなえてあげようではないか、ということになるようだ・・・。

ワン・チュアンアン監督の、中国映画「トゥヤーの結婚」は、ベルリン国際映画祭金熊賞グランプリ受賞作品だ。
ベルリン国際映画祭は、内モンゴルの荒野で、凛として生きるヒロインをグランプリに選んだ。
この作品には、涙とユーモアがある。
ヒロインに“母”の姿を重ねて描き出した、人間の温かみにあふれた作品だ。
モンゴルの光いっぱいに満ちた景色の中で、色は赤く燃え上がり、水平線までもが砂漠になじんでいく。
厚手のコートに包まれ、赤いスカーフで頭を覆っている。
いつも、生き生きと輝いている女性トゥヤー(ユー・ナン)・・・。

広く果てしない、中国内モンゴルの荒野に、トゥヤーの一家は住んでいる。
水を汲むために、井戸を掘っていたところ、夫のバータル(バータル)は、ダイナマイト事故によって半身不随になってしまう。
トゥヤーは二人の幼い子供を抱えながら、家族を養うため重荷を背負って、厳しい生活の中に果敢に突き進む。

妻の苦難を見ていたバータルは、生きていくために離婚に同意するよう説得しようとする。
過酷な現実を前にして、トゥヤーは悲しみと憤りを胸に、障害を抱えた夫を支えながら、仕方なく裁判所へ行く。
そこでトゥヤーは、家族への愛から、ひとつの決断をする。
生きていくために、夫のために・・・。

裁判所は、バータルの請求に基づいて、トゥヤーとの離婚を認めた。
しかし、そこでトゥヤーが出した離婚の条件は、新しく見つける夫は、障害を負ったバータルとも一緒に生活し養ってくれる人に限るということであった。

トゥヤーへの求婚者が、次から次へと現れる。
・・・そして、誰からも祝福され、感謝される日の訪れを待ちながら、トゥヤーはどんな苦難にも立ち向かっていこうとする。
そんな時、トゥヤー一家の隣人センゲー(センゲー)が、勇敢にも彼女との結婚を申し込んできた。
トゥヤーの家族に起ったすべてを見ていたセンゲーは、彼女を尊敬し、トゥヤー家の全員を愛しているのだった。
彼は、心からバータルを受け入れる。
そして、センゲーとトゥヤーの結婚式で、バータルは様々な思いが交錯する中、祝い酒を飲む。
トゥヤーの目に、光るものがあった。
それは、みんなに祝福されるその日、彼女が見せた初めての涙であった。

ベルリン国際映画祭というところは、中国映画から、コン・リーに続いて、純粋で力強いヒロインを見出した。
砂漠化の進む、中国内モンゴル自治区の西北部での撮影後、彼らの生活は永遠に失われたという。
作品は、そういう土地柄だからこその、自然や大地を大切に思う気持ちが滲み出ている。
夫を連れた再婚というテーマを扱いながら、ひとつの家族愛を描いている。

母なる女の強さは、いつでも映画の主役だ。
トゥヤーの二度目の結婚祝いの宴で、逞しい母のことをからかわれたらしい息子が放つ言葉がいいではないか。
 「親父が二人いて、何が悪い」
息子同士がとっくみ合いの喧嘩になるシーンは、ほほえましい。
人間と人間、家族同志の絆とは何だろう。
普通に考えれば、夫を連れての再婚など許される筈もない。
再婚して、なお身体の不自由な前の夫の面倒を新夫婦でみるというシーンに、ワン・チュアンアン監督「家族」を見守る温かい視線を感じるのだ。
心温まる映画はいい。

余談だけれども、この作品の舞台は、中華人民共和国の北方にある、内モンゴル自治区ということで、大相撲の朝青龍たちの出身国モンゴル国とは、国が違うそうだ。
中国北部の内陸に位置し、モンゴル国、ロシア連邦と国境を接している。
近年、急速な砂漠化が問題になっていて、これまであった広大な草原は半分に減っているそうだ。
このために、牧畜民たちが、故郷を去らなければならない移住計画が進められてる。

この地が、いつの日か砂漠に化してしまうのだ。
そして、すべてが永遠に消え去ってしまう日が来る。
その前に、彼らの暮らしの記録を貴重な映像として残すためにも、この中国映画 トゥヤーの結婚 を撮ったと言う、ワン・チュアンアン監のメッセージは重いものがある。
光あふれる、モンゴルの雄大な荒野の映像が美しい。


「あるスキャンダルの覚え書き」ー他者への渇望ー

2008-06-13 22:00:00 | 映画

イギリス映画の旧作を観る。
少し長いタイトルだが、ゾーイ・ヘラーというベストセラー作家の作品を、リチャード・エアー監督が映画化した。
映画化にあたっては、大手映画会社から独立プロダクションまで、激しい争奪戦が繰り広げられたと言われる。
それを、「めぐりあう時間たち」スコット・ルーティンロバート・フォックスのコンビが獲得したのだそうだ。

人間関係を渇望する、孤独な人間の心の闇を描く・・・と言うと、話は少しややこしいか。
現代人の抱える孤独と、強迫観念、嫉妬、妄想、自己欺瞞が浮かび上がる、サスペンス仕立てのドラマだ。
ここでは、孤独は狂気(?)に変り、愛情は嫉妬を招く。
愛に満たされることのない人間は、愛されたいという願望がときに狂気となって、他者の人生までも巻き込んでいく。
少々、怖ろしい物語でもある。

ロンドン郊外の中等学校で歴史を教える女教師バーバラ・コヴェットジュディ・デンチ)は、厳格なベテラン教師だった。
同僚や社会に対しても、非常に批判的で、周囲から疎まれていた。
孤立しているバーバラは、或る日、労働階級の子供たちの通う学校に現れた、美術教師シーバ・ケイト(ケイト・ブランシェット)に心ひかれる。

シーバの学校の彼女の受け持つクラスで、騒動が起きる。
偶然通りかかったバーバラが、殴りあう男性徒を一喝し、騒ぎを収拾する。
シーバは、バーバラに感謝する。
シーバに招かれて、バーバラが彼女の家を訪れると、シーバの夫リチャードビル・ナイ) 、長女ポリー、ダウン症の長男ベンが出迎える。
そこには、幸せを絵に描いたような、ブルジョワ家族の団欒があった。
バーバラは、一家の生活をシニカルに見つめ、シーバから人生の不満や夢を打ち明けられ、二人の友情を深めていく。

しかし、この女同士の友情は、バーバラが思っているような神聖なものではなかった。
バーバラは、シーバが人妻の身でありながら、自分の教え子の15歳の男子生徒と密会し、激しく愛し合っている姿を目撃してしまうのだ。
しかも、少年は、以前バーバラが叱りとばしたスティーヴン・コナリー(アンドリュー・シンプソン だった。
二人の関係に気づかなかった自分自身にいらだって、バーバラは、数日後シーバを呼び出し、全てを告白させる。
シーバは、コナリーとの別離を一度は明言するが、その約束は破られる・・・。

秘密を握ってしまったバーバラとシーバの間には、そこから微妙な友情関係が一時的にせよ培われ始める。
“共依存”となった二人の関係が、やがてエゴむき出しの行動を生み出すことになり、シーバの家庭の平和は、音を立てて崩れていく・・・。

物語の、非常に主観的なナレーターを務めながら、その言動や行動に悪鬼のような情念をにじませる老女バーバラを、ジュディ・デンチが貫禄たっぷりに演じる。
そのデンチと堂々と渡り合う女優ケイト・ブランシェット・・・。
ふとしたきっかけで、スタートした不倫にのめりこんで、身動き出来なくなっていくキャラクターを、ブランシェットは大胆に演じている。
この二大女優による、白熱した演技は、スリルにあふれたストーリーの展開とともに面白い。

二人ともが、アカデミー賞ノミネートされた話題作だ。
物語は、あくまでもバーバラの目線で綴られていく。
冷淡で、客観的だと思われていた彼女の語りが、あまりにも事実とかけ離れたものだと分かってくる。
積年の孤独に蝕まれた老女の、いわば妄想と暴走が怖ろしく、醜いほどだ。
幸せな家庭がありながら、男子生徒との不倫をきっかけに、道を踏み外していくシーバのリアリティも怖い。

それにしても、人妻であるシーバの女心をわしづかみにする15歳の少年の心といい、どうしようもなくのめりこんでいく貞淑(?)な妻に、「女」の脆さを見る。
老女のバーバラにも、空恐ろしさを感じる。
疎外感を抱いた人間の、孤独な渇望は、痛烈な苦悩を伴って、直接他者への渇望となり、救いがたい孤絶をもたらすようだ。
このイギリス映画 「あるスキャンダルの覚え書き」は、そんな潜在意識を思い抱かせる映画のような気がする。
音楽(フィリップ・グラス)が、なかなかよかった。


映画「ダージリン急行」ー希望と再生のコメディー

2008-06-11 22:00:00 | 映画

ハリウッドで異才を放つ、ウェス・アンダーソン監督アメリカ映画だ。
セレブな家庭に育ちながらも、いまいちぱっとしない三人の兄弟が、“ダージリン急行”に乗って、魅惑のインドを旅するロード・ムービーだ。
コメディドラマと言ったらいいか。

父の死をきっかけに、長い間疎遠になっていたホイットマン三兄弟・・・。
長男の呼びかけで、彼らは一年ぶりに再会し、失われた日々を取り戻すため、インド北西部を横断する列車の旅に出る。
彼らを待ち受けるのは、官能と混沌の国(?)ならではの、可笑しな出来事ばかりだ。
コミック漫画をみているようだ。
三人は、車窓を流れるスピリチュアルな景色を眺めながら、それぞれが抱えた心の傷をゆっくりと癒していく・・・。

三兄弟を演じるのは、オーウェン・ウィルソン、エイドリアン・ブロディ、ジェイソン・シュワルツマンの面々だ。
一緒に食事をすれば、やれツバが飛んだ、やれ義歯を外すなど、口論し、つかみ合い、いがみ合う三兄弟たち・・・。
それでも、目の前に広がるインドの絶景が、彼らの心を潤していく。

列車のアテンダントや、通り過ぎる村の聖職者らがドラマに絡み、奇妙で可笑しな旅を演出する。
観客は、まるでインドを旅しているような錯覚にとらわれる。

列車は、何とインドの鉄道会社から借り切って、撮影は行われたのだが、青いツートンカラーといい、三人の服装やいでたちといい、アンダーソンという監督は、一風変わったセンスと、エネルギッシュな質感を持った人のようだ。

この映画の冒頭には、13分間の短編「ホテル・シュバリエ」がついていて、ジェイソン演じる三男が、インドへ旅立つ前に、パリのホテルで別れた恋人と再会する話がある。
このプロローグは、本編を観ることによって、何となく心に沁みてくるシーンだ。

とにかく、本物の列車を借り切って、実際にインド北西部の砂漠地帯を走らせながら撮影した、今回のロケーションも前代未聞ではないか。
スタッフ、キャストが一台の列車に乗り込み、まるで旅をするように行われた撮影は、彼ら同士の信頼関係を深め、ドキュメンタリーのようなリアルさをかもし出している。
そして、ローリング・ストーンズなど、60~70年代のロック・ミュージックが、エモーショナルに響き渡る・・・。

「心の旅」と言ったらいいのか。
線路を走るはずの列車が、何故か迷子になる(!)シーンがあるが、可笑しい。
駱駝が歩いている砂漠めいた場所で、列車が立ち往生し、乗務員たちは自分たちの居場所すら分からず、躍起になっているのだ。
始発駅も終着駅もない。不明のままだ。
起こっていることはあり得ないし、そのあり得ないことが起こっている。
映画って、何でもあり~か。(?)

「列車」「インド」「兄弟」の三つの対象から、ウェス・アンダースン監督はこの物語を誕生させた。
三兄弟の心の旅は、どうやら唯物論的な偶然に翻弄されながら、展開されているみたいだ。
このアメリカ映画 「 ダージリン急行 は、生と死が交錯するインドを舞台に、三兄弟の愛と絆を綴っていく。
ちょっと、いやそれどころか大いに風変わりな、ユーモラスで、ほんわかとした笑いの映画だ。
真面目に観ていると、馬鹿馬鹿しさが、あきれるほどの奇妙な可笑しさとなって・・・。