悲劇と喜劇の境界に位置するような、風俗劇だ。
何故、彼女は歌い続けたのか。
そこには、音楽への壮大で残酷な片想いがあった。
壮麗なクラシック音楽が全編を彩る舞台を、グザヴィエ・ジャノリ監督が笑いとペーソスいっぱいに織り上げたドラマである。
“伝説の音痴”と呼ばれた、実在の歌姫から生まれた人生オペラとはこのことだ。
しかし、何とも切ない映画である。
1920年、狂騒の時代のフランス・・・。
パリからそう遠くはない、貴族のジョルジュ・デュモン(アンドレ・マルコン)の邸宅ではサロン音楽会が開かれていた。
若き新聞記者ボーモン(シルヴァン・デュエード)は、主役のマルグリット・デュモン男爵夫人(カトリーヌ・フロ)の歌声に唖然とする。
それは、マルグリットが絶望的な音痴だったからだ!
しかし、儀礼的な貴族たちの拍手喝采を受け、本人はそのことに気づいていなかった。
翌朝、記者ボーモンはマルグリットに近づこうと、大絶賛の評を新聞に寄せる。
その上彼女を出演者として、パリの音楽会に招待する。
本物の観客の前で歌う喜びに目覚めたマルグリットは、リサイタルを開くことを決意する。
妻の“音痴”という真実を告げられない夫のジョルジュがとめるのも聞かず、マルグリットは有名オペラ歌手のペッジーニ(ミシェル・フォー)から特訓を受け始める。
勿論、マルグリットの歌声を聴いた彼は最初は断るが、マルグリット邸の執事マデルボス(デニス・ムブンガ)に弱みを握られている関係から、渋々引き受けたのだった・・・。
歌うことが生きがい、歌うことの大好きなヒロインの“音痴”が、あくまで儀礼的な(!)大喝采を浴びて、ますます人生の喜びに目覚めていくのだから、何という皮肉か!
ちょっと考えられないことだ。
しかも本人はそのことをまるで知っていないし、誰からも知らされていない。
これこそまさに、誰かの言葉ではないが、喜劇は悲劇よりも偉大である・・・。
主人公は伝説の歌姫で、フローレンス・フォスター・ジェンキンスというれっきとしたモデルがいる。
誰が聴いても音痴なのに、誰からも愛されるという、まさに耳を疑うソプラノ歌手で、最初はあっけにとられた人々も、いつの間にか自由でおおらかな歌声に魅入られてしまったという。
1944年、76歳でカーネギーホールの舞台に立ったそうだ。
グザヴィエ・ジャノリ監督が、この実話から着想を得て創作したことは言うまでもない。
ステージに耐えうるように、歌唱指導を任されたオペラ歌手のレッスンが、何だか楽しそうでいて、悲しくもあり、胸にじんとくる。
まあ、マルグリットは感心なほどよく研究し、勉強はしている。
ヒロインを演じるベテランのカトリーヌ・フロの、軽やかな無邪気が笑わせるが、作り手の姿勢はよそから嘲笑しているような気がしないでもない。
この作品の中でのマルグリットは、ただ音痴なだけではなく、自分が音痴だということも知らなかった。
知らないがゆえに、お金に物言わせレコードを出したり、リサイタルを開いたりもした。
最初は失笑していた人々も、いつしか耳を傾け、話題が話題を呼び、リサイタルのチケットは入手困難なほどの人気になった。
ここで考えることはこうだ。
何故、周囲の人々は彼女に真実を伝えなかったのだろうか。
何故、この音痴の歌姫は人々の支持を得たのだろうか。
そして、彼女は何故そこまでして歌いたかったのだろうか。
その答えは、グザヴィエ・ジャノリ監督のフランス映画「偉大なるマルグリット」を観て納得できた。
この映画、もちろん本国フランスでは大ヒットした。
稀有なる女性の愛と孤独な情熱の、しかし老いていつまでも天真爛漫でドラマティックな人生を描いた作品として・・・。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
次回は日本映画「ハッピー・アワー」を取り上げます。
幸せだけど、何か足りない。
心癒される処方箋のような映画だ。
パリに暮らす3世代の家族の人生を、ときにコミカルにときにリアルに描き出した、ジャン=ポール・ルーヴ監督の作品だ。
パリといっても下町が舞台で、やたら気取った人が出てこないのがいい。
それと対照的に登場する、ノルマンディ地方の海沿いの町エトルタ・・・。
どことなく田舎っぽい町の雰囲気が、印象派の絵画のようだ。
そこに、様々な色合いで映し出される人生の景色は、不思議と優しい空気感を漂わせている。
2015年本国フランスで公開された時には、半年もロングランが続き、100万人が観たという家族の物語である。
パリの小さなアパルトマンに暮らすマドレーヌ(アニー・コルディ)は、長年連れ添った夫に先立たれる。
3人の息子を育てたアパルトマンには、家族の歴史がいっぱい詰まっている。
もうすぐ85歳になる、祖母マドレーヌの面倒を見ることになった息子のミシェル(ミシェル・ブラン)は、郵便局を定年退職したばかりだ。
妻のナタリー(シャンタル・ロビー)との関係も微妙で、引退後の身の振り方に戸惑っている。
おばあちゃん子の孫ロマン(マチュー・スピノジ)は、大学の文学部の学生で一応は小説家志望だが、夢も恋も見つからないまま、小さなホテルで夜勤のアルバイトをして生計を立てている。
ある夜、マドレーヌがケガをして病院に運び込まれた。
そんなことがあって、高齢の母を心配する息子たちに懇願されて、彼女は老人ホームへ入居したが、殺風景な狭い部屋やイマイチの食事に嫌気がさしていた。
ホームで暮らす老人たちは一様に寂しげで、まだまだ元気なマドレーヌは気が滅入るばかりである。
そんなマドレーヌの周囲では、身近な友人の葬儀があったり、家族の歴史が刻まれた我が家が自分の知らぬ間に売却されたり、悲報が相次ぐ。
そんな中で、マドレーヌが突然施設から姿を消した・・・。
ここに描かれるのは、普遍的な家族の物語である。
しっかり者のおばあちゃん、不器用な息子ミシェル、心優しい孫ロマンの3世代の家族が織りなす、ほろ苦くどこか温かい、でもちょっぴり悲しいドラマだ。
みんなが決して不幸ではないけれど、将来の不安や、少しずつずれていく家族同士の間の距離に、それぞれが小さな悩みを抱えている。
マドレーヌの失踪をきっかけに、残された家族たちが自分自身を見つめなおし、日常に潜む大切なものを思い出し始める。
全編コメディのようなユーモアに溢れながらも、人生の無常や哀しさ、喜びや切なさが漂っていて、フランス風人生讃歌といったところだろうか。
人生に喜怒哀楽はつきものだ。
一見穏やかに展開するドラマに見えて、そこには巧みな演出も計算されていて、人生の機微がにじむ。
熟成したワインの澱(おり)のように。
祖母役のアニー・コルディがいい味を見せているし、息子夫婦を演じるミシェル・ブラン、シャンタル・ロビーも、ユーモアとペーソスをともに表現できる存在感は貴重だ。
フランス映画「愛しき人生のつくりかた」に、この作品のカギとして登場するエトルタはパリの美しさとは対照的に、白い絶壁とアーチで知られるクロ-ド・モネの絵画に見られる海沿いの街で、この二つの舞台を背景に、3世代の家族のありかたがほっこりとした感動をもたらすのではないだろうか。
淡々としたドラマだけに、はっとさせるようなインパクトには欠けるが、さらりと見過ごさずにじっくりと観たほうがよい映画だ。
シャルル・トレネの名曲「残されし恋には」の調べも、優しい味わいを添えていて悪くない。
この主題歌は、フランソワ・トリュフォー監督の作品「夜霧の恋人たち」の主題歌でもある。
ジャン=ポール・ルーブ監督は、トリュフォーに敬意を表してこの曲を使い、ロマンが夜番するホテルの名前と建物を、その「夜霧の恋人たち」で、ジャン・ピエール・レオ演じるアントワーヌが働いていたホテルと同じものに設定している。
そして、パリに住む普通の人々の暮らしを切り取っているのも、明らかに巨匠へのオマージュといえる。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
次回はフランス映画「偉大なるマルグリット」を取り上げます。
第二次世界大戦下のフランスを舞台に、若きフランス人女性とドイツ軍将校の秘められた恋を描いている。
アウシュヴィッツで殺された、ユダヤ人女性小説家イレーヌ・ネミロフスキーの遺作を、イギリス映画界で活躍するソウル・ディブ監督が映画化した。
原作者イレーヌ・ネミロフスキーは、1942年に亡くなったが、彼女の夫も同じ運命をたどり、残された娘二人は逃亡の間も母のトランクを大切に保管していた。
そこに入っているノートを母の日記と思い込んで、辛い思い出に向き合うことを恐れ、読まないまま長い年月を過ごした。
それが小説であると気づいたときは、作者の死後60年がたっていた。
手書き文字で綴られた「フランス組曲」は、2004年に出版されるとたちまち大反響を巻き起こし、全世界で350万部を超える大ベストセラーとなったそうだ。
ドイツ占領下のフランスで、戦争に翻弄される普通の人々の生き方を、敵味方の関係なく、冷静な視線で描いている。
深く見応えのある人間ドラマとして誕生した。
哀切な物語である。
1940年6月、ドイツ占領下のフランスの田舎町ビュシー・・・。
戦地に赴いた夫を持つリュシル(ミシェル・ウィリアムズ)は、厳格な義母アンジェリエ夫人(クリスティン・スコット・トーマス)と窮屈な生活を送っていた。
ドイツ軍の進駐で、その屋敷にブルーノ中尉(マティアス・スーナールツ)が滞在することになる。
作曲家だという彼は、リュシルのピアノで曲を練る。
心すさむ占領下の生活で、リュシルとブルーノはピアノと音楽への愛を共有するようになり、リュシルはブルーノの繊細な人柄に次第に心を開いていく。
彼女が夫の不実を知り、ブルーノとの愛を確かめ合う矢先に、小作人のブノワ(サム・ライリー)が、妻マドレーヌ(ルース・ウィルソン)に欲望を抱くドイツ軍将校を射殺する事件が起きる。
小作人からの取り立てで、リュシルは暮らしている。
町民から裏切り者として見られたリュシルが、ドイツ軍に連行されるブノワを車で密かにパリに連れ出し、追跡したブルーノはそれを知りつつ彼女を見逃すが、二人は言葉なく見つめ合ったまま別れる。
そして・・・。
フランスとドイツ、敵対する国の男女が愛し合うというのだから、いかにも物語だ。
それはそれとして、ソウル・ディブ監督のフランス・イギリス・ベルギー合作映画「フランス組曲」は、主人公二人の禁じられた恋を繊細に、占領下に起きた悲劇を横軸として、人物描写の多用さと相まって、見ごたえのあるふくらみを見せる。
過酷な時代が二人の運命を翻弄する。
したたかに生きる女の強さも描かれ、戦時下を飛び越えた普遍的な物語は、観客を飽きさせない。
密告や媚びへつらいが横行し、混沌としたこの時代に生きる人たちの本性や階級社会などが描かれ、見どころは沢山ある。
ちょっとありすぎるくらいだ。
ドラマの展開には、これといった新味があるわけではない。
叙情的なピアノ曲が絶えず流れ、ドラマの行方は哀切を漂わせるが、登場する人物たちの人間観察は冴えている。
人間性についての深い洞察もある。
これを人間観察の妙というのか。
女性の視点から書かれた原作小説は、執念の遺作で、70年以上の時を経てついに映画として甦った。
丁寧に作られた、しかも力強い映画で、ここにはロマンスとサスペンスの融合が感じられ、余韻の残る作品となった。
ただ全編が英語というのはとても残念だ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回はフランス映画「愛しき人生のつくりかた」を取り上げます。
フランス文壇で活躍した、女流作家ヴィオレット・ルデュックの人生を描いている。
ヴィオレットは女性として初めて、自らの「生」と「性」を描いた作家で、1960年代に文壇を騒がせるまでの半生を七つの転機ごとに分けて描かれる。
新しい世界が幕を開けるパリ…。
彼女の小説は時代を変えたのだろうか。
「セラフィーヌの庭」(2008年)で、セザール賞最優秀作品賞を受賞した名匠マルタン・プロヴォ監督が、人生を芸術にまで昇華させた魂の喜びと苦しみを、この作品に綴った。
女性芸術家の深い心の内面を描き、大胆な構成とともに、南仏プロヴァンスの瑞々しい自然描写が美しく魅力的だ。
1907年、ヴィオレット(エマニュエル・ドゥヴォス)は私生児として生まれる。
母親に愛されない想いを抱き続けるヴィオレットは、やがて小説を書くことに目覚める。
第二次大戦中、彼女は同性愛者で作家のモーリス・サックス(オリヴィエ・ピィ)と田舎で暮らしていたが、愛を固く拒絶するモーリスに苦悩していた。
戦後は闇商売で生計を立てるなど、貧しい生活を送っていた。
ヴィオレットは自分の人生について書き始める。
やがて、「第二の性」で知られるシモーヌ・ド・ボーヴォワール(サンドリーヌ・キベルラン)の小説に魅了され、自作の小説を彼女に手渡したのをきっかけに、文才を高く評価される。
自身を見出してくれたボーヴォワールへの、狂おしいほどの同性愛(それはヴィオレットの片思いであったが)を作品に投影し、彼女の拒絶を招く。
また少女時代の性体験や中絶の過去に言及した作品は認められず、ショックのあまり精神を病んでしまうのだった。
南仏のさびれた村で、一途で無垢な女性だったヴィオレットは、服装も甘味の乱れも構わず、執筆に励む。
その姿は、彼女が成功を夢見たパリの社交界からはあまりにも遠い。
そんな彼女に、ボーヴォワールはヴィオレットの愛を拒みながら、友情以上の友情で文学による救済を目ざし、経済的にも援助を惜しまなかった。
この二人の絆は、複雑でややこしいが、美しい話である。
華やかな都パリと、素朴な南仏の田舎の村が対照的だ。
長い間、世に忘れられていた作家ヴィオレットを題材にした伝記としては、主人公の心の襞に分け入って描き方も丁寧だ。
マルタン・プロヴォ監督のフランス映画「ヴィオレット ある作家の肖像」は、主人公の内面描写が繊細で、その苦悩をよく表現している。
ボーヴォワール、サルトル、ジャン・ジュネといった作家たちとも交流し、「書きなさい。それがあなたの人生を変える」とボーヴォワールから言われ、執筆に打ち込む姿は痛々しくもある。
彼女の作品はなかなか売れず、出版社からは新作の過激な描写を削除するよう求められる。
不遇な中で、彼女は心の平安を失っていくのだ。
ヴィオレットは、恵まれない容姿と父の認知されなかった過去というコンプレックスを抱えていて、周囲に対しても攻撃的になりがちで、エマニュエル・ドゥヴォスの体当たりの演技はなかなかのものだ。
現在ならともかく、作家自身の「生」と「性」を赤裸々に描いていても、それはサルトルら錚々たる作家たちからは絶賛されるが、当時の社会には受け入れられなかったのだ。
彼女の作品が再評価され、“文学界のゴッホ”と称されるまでには、いくばくかの時を要したことは言うまでもない。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回はフランス映画「フランス組曲」を取り上げます。
「美代子阿佐ヶ谷気分」(2009年)で、劇場映画デビューを果たした坪田義史監督が稀有な映像詩の世界を作り上げた。
アメリカの作家アンソニー・ドーアの同名短編作品をもとにしている。
雄大な自然の前で、ちっぽけな人間はどう生きていくのか。
五感に訴えかける、不思議な映像ファンタジーだ。
いまの日本を覆っている、漠然とした不安とか虚無感を、沖縄の海の幻想的な美しさに絡めて映像化した。
盲目の貝類学者を巡るこの物語は、日本で撮影された日米合作映画である。
貝の美しさと謎に魅せられ、その世界では名を成した盲目の貝類学者(リリ-・フランキー)は、沖縄の離れ島で厭世的なな生活を送っていた。
ある日、島に流れ着いた女いづみ(寺島しのぶ)を家に連れて帰った。
彼女は、世界中に蔓延する死にいたる奇病に侵されていたが、学者が見つけた新種のイモガイ野猛毒で治したことから、それを知った人々が次々と島に押し寄せて来るようになった。
学者の生活は一変する。
いづみと同じ謎の奇病を患った少女(橋本愛)の治療を望む者、奇跡を起こした父の噂を聴きつけてやってくる疎遠だった息子(池松荘亮)ら・・・。
イモガイの毒は果たして奇跡的な薬なのか、それとも毒に過ぎないのか。
蔓延する奇病は、自然が人間に与えた警鐘なのか。
そんな疑問の中、孤島近くの火山が静かに活発化していく・・・。
美しい海、その海の中の生物たち、様々な形で螺旋を描く官能的な貝の数々、自然の姿はいつも魅惑的だ。
イモガイの毒、蔓延する奇病、謎めいた女、火山など、それら人間と自然の発する悲痛な叫びも映し出される。
偉大な自然の中で、いかにして小さな人間は生きるのか。
その術を見つけ出そうとして、もがく人間・・・。
神秘的な気配とともに紡がれた、不思議tな幻想に満ちた映像詩である。
圧倒的な自然を前にして、欲望と希望の混沌の中に生きる人間の高慢不遜を象徴しているかのようだ。
この作品に登場する生みが死生観を物が立っているように、海底で人間がウミガメとなって囁きかえるシーンなど、極めて寓意的だ。
坪田義史監督は、ファンタジックなカルト映画「シェル・コレクター」の中に、人が生きることの孤独や愚かさを表現したかったに違いない。
原作の舞台はケニア沖の孤島だが、ここでは日本の沖縄に置き換えるなど、原作の設定を変えている部分もある。
作品には自然に対する畏怖の念も見える。
そして人間が自然の中で治癒されるイメージ、戦争の気配のイメージも感じられ、いろいろな見方が許される作品だ。
前衛的な、アートの世界を描いたような作品だが、観る人にはどのように受け取られるだろうか。
エキゾチックな世界を描きながら、どこか世紀末的な臭いがしないでもない。
本当は、もっと深遠な世界を描き出そうとしたかったのではないか。
芸術性を求めて、独りよがりの感じも強い。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高)
次回はフランス映画「ヴィオレット ある作家の肖像」を取り上げます。
甘美な香りに誘われる危険なドラマだ。
夏の海辺のリゾートホテルで展開する、数日間のミステリー・・・。
「ジョイ・ラック・クラブ」(1993年)、「スモーク」(1995年)の、香港出身のウェイン・ワン監督が初めて撮った日本映画だ。
非現実的な世界の積み重ねがあるかと思えば、現実は妄想と入り乱れ、一体真実は何七日、まことにとらえどころのない世界が描かれる。
原作は、スペインのハビエル・マリアスの短編小説だ。
眠れる美女と覗きをモチーフに、男女の欲望や疑念が絡み合う内容は、川端康成の妖しの世界にも通じるものを思わせるが、川端文学が官能を描いている点ではこの作品はとてもその比ではない。
一体どこまで、この解釈を観客に委ねるというのだろうか。
作家の清水健二(西島秀俊)は1週間の休暇を取って、妻の綾(小山田サユリ)とともに、海辺のリゾートホテルを訪れる。
最初の小説のヒット以来スランプ続きで、妻との関係も倦怠期を迎え、無気力な時間を過ごしていた。
滞在初日に、プールサイドのデッキチェアに寝そべっていた健二は、綾に促されてプールの反対側にいる男女に目を留める。
白いビキニ姿の少女の無垢さを残した若い女美樹(忽那汐里)と、ワイシャツに黒いズボン姿の白髪交じりの男佐原(ビートたけし)だ。
見た目にも年齢的にも、不釣り合いなカップルだった。
男は慣れた様子で、女のからだに日焼け止めを塗っていた。
その日以来、健二はホテル内で彼らを見つけるたびに、部屋を覗き見るようになっていく。
部屋には、美樹のからだの産毛を剃刀で丁寧にそり、彼女が眠る姿を、毎夜撮影し続ける佐原の姿があった。
自ら佐原に近づいた健二は、佐原とはじめて言葉を交わしたため、彼が美樹の眠る動画を見せながら言った「あの子の最後の日を記録しようと思って」という言葉に、言い知れぬ恐怖を覚えるのであった。
危険を感じながらも、好奇心をさらにかきたてられ、健二の行動は次第に常軌を逸し、部屋の中まで忍び込むというストーカー行為にまで及んでいく・・・。
このウェイン・ワン監督の日本映画「女が眠るとき」は、覗き見から始まる4人の人間模様を描いて、スリルと妄想に満ちている。
そこに様々なな謎が吹き上げてくるのだが、それらはひとつひとつ解けることはない。
かなり厄介な作品だ。
いろいろな憶測も生まれてきて、美樹、綾、佐原、居酒屋の店主(リリー・フランキー)ら、どの人物にも謎らしきものがあって、それも詳しいことははっきりとはわからない。
全てが曖昧模糊なのである。
映像はどこまでも静かだが、やや荒削りで、不気味さを漂わせている。
どれが真実で、どれがフィクションかという正解はなく、観客のひとりひとりが様々な物語を紡いでほしいのだと、ウェイン・ワン監督は言っている。
虚実入り乱れてその先に、何を見ろと言うのであろうか。
今までの映画の見方を、全く変えないといけないかもしれない。
自分だけの解釈が許される、そんな映画の迷宮にはまってしまったら、多少の混乱は覚悟しなければならない。
覗き見の罪悪感、誘惑に戸惑う男を西島秀俊が好演し、忽那汐里の少女っぽさも妖しげな色気を放っている。
ビートたけしの異色の変態男といい、リリー・フランキーの独特の演技といい、それぞれがうまく役割分担されて存在感を見せている。
観客にこのドラマの解釈を委ねるというのは、ワン監督の逃げようにも思えて、それでは作品の丸投げではないのか。
これはもはや、エンターテインメントなどではなく、極端なアートととらえた方がいいかもしれない。
ウェイン・ワン監督自身が、もしかして佐原であり、健二ではないのか。
大いなる不可解と、いささかの不満を抱えて鑑賞する映画だ。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
次回は日米合作映画「シェル・コレクター」を取り上げます。
あのフランス映画の名作「太陽がいっぱい」(公開1960年/原作1955年)の、パトリシア・ハイスミスのベストセラー小説を、トッド・ヘインズ監督が映画化した。
パトリシア・ハイスミスは往年のミステリー作家で、原作は繊細な心理描写で濃密な人間関係を描いた作品として知られているが、映画は言葉ではなく、しっとりとした情感と緊張感豊かな説得力を持って、丁寧に描かれている。
テーマは女同士の愛というわけだが、現在実力、人気ともに一流の女優ケイト・ブランシェット(「ブルージャスミン」2013年/アカデミー賞主演女優賞)とルーニー・マーラ(「キャロル」ワールドプレミア2015年/カンヌ国際映画祭主演女優賞)の二人の競演は、贅沢というものだ。
二人の女優が微妙な表情の変化で、お互いに惹かれあう心の動きを巧みに表現している。
落ち着いた演出の光る、これまた大人のラブストーリーである。
1952年のニューヨーク・・・。
裕福な人妻キャロル(ケイト・ブランシェット)は、、娘のプレゼントを探しに行ったデパートの売り場で、若い女性店員テレーズ(ルーニー・マーラ)と出会う。
キャロルの忘れた手袋を届けたことから、そのお礼にとテレーズは昼食に誘われる。
そうして二人はお互いの境遇を知るようになり、徐々に親密になっていった。
キャロルには別居中の夫がいて離婚訴訟中だし、一方のテレーズには結婚を求める恋人がいたが、彼女には写真家になる夢があり、結婚に踏み切れない。
そんな折り、キャロルが車で西部への旅を提案し、二人は思いつくままの旅に出る。
それは、誰にも知らせないはずの旅だったが・・・。
見つめる女と見つめられる女・・・。
そこから始まる二人の物語は、女同士の密やかな愛の領域へと踏み込んでいく。
今でこそ自由だが、パトリシア・ハイスミスが別名義でこの小説を発表した当時、社会の目は人種、宗教、道徳、思想について、とくに同性愛については精神病者として疎外されたほどだった。
この、60年も前の歴史認識がものをいう作品だ。
ヘインズ監督の演出は特筆ものだ。
再会場面から最初の出会いへの逆行する演出、服装、仕事、風習を追いながら、押し隠された女の心の秘密を探っていく。
秘めた情熱を象徴するかのような赤がくすんだ色合いの中、ざらつく哀愁を漂わせている。
そこに、50年代初頭の鬱屈したムードが漂う。
16ミリフィルムで撮影された独特の質感を持つ映像、流麗なカメラワーク、デジタルの派手さのない色調がこの作品の特徴だ。
鮮烈に、しかし丁寧に描かれる二人の女性の心象風景・・・。
トッド・ヘインズ監督のアメリカ映画「キャロル」は、優雅でうっとりする様なメロドラマでもあり、二人の女優の織り成す女同士のラブストーリーだ。
女は女に目覚め、目覚めさせられる。
夫の単なる飾り物ではなく、偽善の仮面をかぶって生きてゆくべきか踏み迷っているキャロル、そして初々しく新たな人生を歩み出そうとしているテレーズの画面展開も素晴らしいが、ブランシェットには色気と凄みさえも感じられ、ルーニー・マーラが許されぬ恋に悩む姿の切なさも伝わってくる。
ここに登場する二人の女性は、ことに男性社会から見ると疎外感にさらされている。
だからこそ、女と女二人がお互いを思いやるベッドシーンは、全裸をさらしての濡れ場となっている。
ケイト・ブランシェット46歳、ルーニ・マーラ30歳だから、ブランシェットにはかなり勇気のいるラブシーンだったようだが、どうしてどうして堂々としたものだ。
しっかりした実力派の演技も頼もしく、日本の女優は見習ったほうがいい。
プロ意識は日本の女優とは確かに段違いだし、日頃から見ている日本の女優は綺麗だがちまちましてちっちゃくて、何とかならないのかと思えてくることがある。
まあ、日本ではこのような作品はなかなか撮れないだろう。
映画は女性向きの作品だ。
こういう作品を観ると、つくづく男って何だろうと思う。
この作品は、ブランシェットも言っているように、1945年の名作恋愛映画、デビッド・リーン監督の「逢びき」へのオマージュだ。
映画のラスト、二人の女性の目と目が合ったときの、心の揺らぎを見せる表情の演技は出色だ。
二人の女優の視線は、初めから終わりまで目が離せない。
少し大げさかもしれないが、視線を強烈に意識させる作品だ。
ブランシェットは今年のアカデミー賞にノミネートされていたが、残念ながら受賞は逸した。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回は日本映画「女が眠るとき」を取り上げます。