徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「ラスト・タンゴ」―人生に引き裂かれあるいは人生を引き裂いた愛と憎しみのアルゼンチン・タンゴ―

2016-09-26 17:00:00 | 映画


 アルゼンチン・タンゴの伝説的なペア・ダンサーといえば、マリア・ニエベスフアン・カルロス・コペスの名前を知らぬ人はいない。
 ドイツ名匠ヴィム・ヴェンダースが製作総指揮に当たり、アルゼンチンヘルマン・クラル監督が、二人の愛憎に満ちた50年の歩みを映画化した。
 彼らは50年を超える時の流れの中で、パリ、ブロードウェイと、世界をタンゴで征服しながら、1997年に「タンゴ・アルヘンティーノの日本公演を最後にコンビを解消した。

 名曲「バンドネオンの嘆き」「リベルタンゴ」などの旋律に乗せて、老ダンサー二人が交互に過去を回想する。
 若い日の二人を青春時代、壮年時代に分け、それぞれ時代きってのダンサーが演じて踊る。
 二人の歩んできた若い日のマリアアジェレン・アルバレス・ミニョ(青年時代)、アレハンドラ・グティ(壮年時代)、そしてコぺスフアン・マリシア(青年時代)、パブロ・ベロン(壮年時代)がそれぞれ演じている。
 この構成は、このドラマティック・ドキュメンタリーに効果的なキャスティングだ。


タンゴは、男女が決して目をそらすことなく、お互いの目を見つめ合いながら踊るのが鉄則だ。
二人はタンゴの革命児だ。
二人のタンゴは、いつの世にもままならない、男女関係そのものだ。
14歳と17歳で出会ってから、50年も踊り続け、結婚と離婚を挟みながら、マリアフアンも80歳を超えて今も現役である。

マリアが、自分を裏切ったフアンを憎しみながら、体を密着させて踊る。
男女のペアが成立しなければ、タンゴの魅力はない。
そのタンゴに取り憑かれた二人が、愛も憎しみも、あらゆる感情を閉じ込めながら一緒になって踊るところは圧巻である。
マリアの語りが主軸に据えられ、アルゼンチン・タンゴの歴史と本質に迫りながら、男と女の宿命の出会いと確執を見つめる。

アルゼンチン・タンゴは、イタリア人の移民から生まれて、政情不安、貧困など幾多の時をかいくぐって、庶民に愛されてきたのだった。
男を愛し、裏切られ、憎んでも、二人はコンビを続けた。
それは、あくまでもプロのアーティストだからこそだ。
マリアの一瞬の心の揺らめきを切り取るカメラ、彼女のその目の奥に見えるものは、嘘と真実だ。
1950年代から60年代に結婚、離婚・・・、この時期であったか、彗星のように現れた日本人タンゴ歌手・藤沢嵐子・・・。
素晴しい歌姫だった。

その名は、日本よりもアルゼンチンで轟いた。

70年代前半、フアンマリアに隠して若い女性と再婚し、マリアを激怒させた。
あとにも先にもない最高のパートナーと解っていても、憎い女と断じフアンは苦悶する・・・。
このアルゼンチン・ドイツ合作ドキュメンタリー・ドラマ「ラスト・タンゴ」は、マリアがタンゴそのものであることを熱く叫んでいる。
人生に引き裂かれ、タンゴで結ばれた二人を、鮮烈に浮かび上がらせた作品だ。
映画全編に流れる音楽は、二人の人生に寄り添うタンゴの名曲ばかりで、これがまた実に素晴らしい。
セステート・マジョル、アニバル・トロイロ楽団、ファン・ダリエンソ楽団など、各様なスタイルのアルゼンチン・タンゴが使われている。
極上のダンスと極上の音楽、これまさに至福の時である。
激しく情熱的なタンゴの世界に、しばし引き込まれる。
鑑賞時、上映館は満席を超えて補助椅子が用意されたほどの賑わいよう(!)に、圧倒されました。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はフランス映画「奇跡の教室  受け継ぐ者たちへ」を取り上げます。


映画「オーバー・フェンス」―純粋で不器用な者たちが人生を見つめる港町函館の哀愁―

2016-09-22 16:00:00 | 映画


 人生はこれからどうなるかわからない。
 それでいいのだ。
 愛おしくも狂おしい青春を生きる若者たちがいた。
 美しく壊れかけた男と女も・・・。

 「マイ・パック・ページ」(2011年)、「苦役列車」(2012年)山下敦弘監督が、佐藤泰志の原作をもとに映画化した。
 熊切和嘉監督「海炭市叙景」(2012年)、呉美保監督「そこのみにて光輝く」(2014年)に続く、佐藤泰志の小説映画化で、この函館三部作の今回が最終章といえる。
 今回の作品は、前二作とはまた違ったフラットな作品を、山下監督は現代的な作品に仕上げている。
 社会の底辺で生きている人たちを描いているのだが、漂う空気は前二作に比べて救いの見える明るさがよい。







結婚生活が破綻し、妻子と別れ、勤めも辞めて、単身故郷の函館に帰って来た白岩(オダギリジョー)は、何の希望もなく、職業訓練校に通いながら、失業保険で細々と暮らしていた。
訓練校とアパートの往復、2本の缶ビールとコンビニ弁当という、惰性の日々だった。
何の愉しみもなく、ただ働いて死ぬだけ、そう思っていた。

ある日、同じ職業訓練校に通う、仲間の代島(松田翔太)にキャバクラに連れて行かれ、そこで鳥の求愛のポーズをダンスのように舞う、一見風変りで、無垢な若い女性聡(蒼井優)と出会い、強く惹かれていく。
そして、自由と苦悶の狭間でもがく女の、一途な魂に触れることで、白岩の鬱屈した心象は徐々に変化していくが、それでもままならない時間を過ごすしかない、一組の男と女だった。
ふと隣りを見れば、孤独と絶望しか知らない男たち・・・。

社会の底辺に漂う若者たち。
何の変哲もない、どこにでもいそうな人間を扱っているのに、豊かな感情の揺れとともに、実に陰影に富んだ作品となっている。
函館に暮らす人々の普通の視線で、町や人々が描かれ、普遍性のある映画になった。
函館はいつも哀愁の街である。
作品には乾いた空気感があり、湿った感じはない。
自責の念を胸に秘めたままの白岩、そして小さな町で周囲に蔑まれ劣等感と反発心の塊となった聡、女も男も現実とうまく折り合うことができずにいる。
でも、愛の流れとはとめどないものだ。

キセントリックな言動を繰り返す聡に戸惑いつつも、どこか惹かれていく白岩の心の動きも手に取るようにわかる。
「ぶっ壊れている私!」と言って、白岩に毒づく女を演じる蒼井優が、過剰なまでの体当たりの演技で突出している。
彼女の純粋無垢と、陰影に富んだ冴えない中年男のオダギリジョーの、二人の絡みはこのドラマの圧巻だ。観ていて圧倒される。
聡がまねる鳥のダンス、動物園にいるハクトウワシなどのアイディアは原作にはなくて、脚本の高田亮がイメージを膨らませたものだ。
舞い落ちる雪のように、鳥の羽が大量に降ってくるシーンは、現実を超えた虚構で、登場人物の心象風景を映し出している。
そう思って見ると、壊れかけた男と女の愛の物語だ。
そして41歳で夭折した作家佐藤泰志に捧げる鎮魂歌かとも思われるのだ。

北海道函館市で撮った、山下敦弘監督映画「オーバー・フェンス」は、小説が発表された1980年代は日本がバブルに上りつめる時期で、その文学が古臭いものとして受け入れられなかった感がある。
しかしその後、経済の低迷、格差社会の拡大などで、社会の底辺に生きる人々や、どこにもいそうな市井の人々にスポットを当てて、ドラマにはしみじみとした哀愁がにじむ。
普通の日常を綴りながら、気負った主張や誇張もなく、誰かが誰かに寄り添って生きている。
ここに描かれる人生の苦しみや愛の悲しみについていえば、全作品を見たわけではないが、これまでの下監督作品の中では、一段と深まったのではないか。
・・・そして、やはり、函館は哀愁の街なのである。
人間の孤独を感じさせて、小品ながら心に残るいい作品だ。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はアルゼンチン・ドイツ合作映画「ラスト・タンゴ」を取り上げます。


映画「怒 り」―人は人を信じられるか信じられないか、さまよう魂の交差するとき―

2016-09-19 14:30:00 | 映画


 原作吉田修一、脚本・監督李相日、音楽坂本龍一のコンビネーションによるヒューマンドラマだ。
 小さな地域や共同社会に、見知らぬ闖入者がいる。
 誰とでも親しくなるが、その人間に全幅の信頼をおけるものだろうか。
 この作品では、その信頼は揺らぎ始める。
 その先に、ひとつのテーマを見据えている。
 映画は3人の容疑者をめぐるミステリーだが、ただの謎解きドラマではない。

 李相日監督の6年前の作品「悪人」と同じく、同じスタッフで映画化した。
 ある殺人事件に端を発するこのドラマは、大きなミステリーに対峙する李相日監督が、人間を信じられるかという問いかけと向き合って、追い詰められていく人間たちを描いた、重厚な群像劇だ。







ある夏の日、東京八王子で起こった夫婦殺人事件から物語は始まる。
殺人現場は、凄惨を極め、被害者の血で書かれたと思われる「怒」の文字が残されていた。
犯人は整形して逃亡し、行方は杳として知れなかった。
それから1年後の夏である。
千葉、東京、沖縄と三つの場所に、素性の知れない男たちが現われる。

千葉の港町で働く洋平(渡辺謙)は、家出していた娘・愛子(宮崎あおい)を連れて帰ってくる。
愛子は、漁港で働きはじめた田代(松山ケンイチ)という男と親しくなる。
東京のある大手広告代理店に勤める優馬(妻夫木聡)は、たまたま知り合った住所不定の直人(綾野剛)と親しくなり、同棲する。
直人は、末期がんを患う優馬の母・貴子(原日出子)や友人と親しくなっていく。
沖縄の離島に母親と移住してきた女子高生の泉(広瀬すず)は、島を散歩中ひとりでサバイバル生活をしている田中(森山未来)と会う。
泉は、気兼ねなく話せる田中に心を開いていく。
ある日、彼女は同じ年の辰哉(佐久本宝)と訪れた那覇で、事件に遭遇し、立ち上がれないほどのショックを受ける・・・。

この3つの物語は、犯人指名手配のポスター、警察からの連絡、また米兵によるレイプ事件などをきっかけに動き始める。
そして、親子やゲイ・カップル、地域内の密接な人間関係に、徐々に不振の芽生えを増幅させていく。
冒頭の殺人事件の犯人は誰か。
この犯人探しのサスペンスが、事件とまるで関係ないかのような三つの物語を一方で詳しく紡ぎながら、それらが、いかにも事件と関係があるかのように見せようとしている。
この作劇法はなかなかである。

三つの物語を縫い目なくつないでいく編集は、見事だ。
千葉、東京、沖縄と、三つのパートに分かれて交わることのないドラマが、並行して映し出される。
この三つのパートのドラマを、殺人事件という大きな闇が揺さぶり続けるのだ。
「怒」という血文字を残した犯人は、整形して逃亡する。
そして、前歴不詳の怪しげな青年が登場する。
各パートの物語を補完させ合うように、映画全体を貫いているのは感情のつながりだ。

身元不詳の男たち、田代も直人も田中も、どこかみんな怪しい。
愛子も洋平も優馬も泉も、みんなそう思っている。
そうした疑心暗鬼が、彼らの心を蝕んでいくとき、自分たちが築き上げてきた関係が崩れ始めていくのだった。
李相日監督映画「怒 り」は、映像的連想とともに、画面をテンポよく、三つの物語を横断しながら、つなぎ、展開していく。
観ている方は、3本分の映画を観ているような気分になる。

吉田修一の原作は、いまの時代にどういう問題が噴出しているかをきっちりとらえて、小説に落とし込んでいる。
映画は〈怒り〉について、特定の答えをどこにも出していない。
八王子の殺人事件について、詳述もない。
人を信じるとはどういうことか。本質的な問いかけがある。
各物語は揺らぐ信頼を核に、巧みにテーマを収斂していく。
信じることの困難と、尊さをテーマにした作品で、日本映画界を代表する実力派が多数出演とあって、見どころも満載、それだけでも壮観だ。
総じて演技、演出にも傑出したものを感じるし、骨太の圧倒的な力作と認めても、個人的な印象度はさほど深くない。
ミステリーとしての構造も、あまり前例がなさそうだし、この映画としての着地点は何だったのか。
少なからず、疑念の残る作品だ。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回は日本映画「オーバー・フェンス」を取り上げます。


映画「シリア・モナムール」―銃声と殺戮のシリアの惨憺たる自画像―

2016-09-16 12:00:00 | 映画


 痛々しくも、残酷な血で綴られる、文明の時代の映像詩である。
 内戦が続く中東シリアの、過酷を極める状況下で、何が起きているか。
 アサド政権と反政府勢力との内戦の悪化に、さらにイスラム国(IS)が台頭し、混沌、混迷の度を深めているシリア情勢・・・。

 ユーチューブにアップされた、シリア政府軍による市民への拷問や虐殺、無数の死体など、凄惨な映像が続く。
 このドキュメンタリー映画は、パリに住むシリア出身サーマ・モハンメド監督が、SNSで知り合ったクルド人女性監督ウィアーム・シマヴ・ペデルカーンが現地で撮影した映像をつなぎ合わせ、戦禍の中で生きる苦悩と希望を伝える、内省的で衝撃的な作品だ。








冒頭、政府軍に捕まって拷問を受ける少年の映像が映し出される。
そして、鮮血の飛び散る路上に、夥しい遺体、片足を失くし、顔を半分抉られた猫や犬がさまようスケッチ、廃墟と化した市街地と鳴り止まぬ銃撃戦・・・。
目を背けたくなるようなシリアを、シリア人が撮った映像の数々に目を奪われる。

クルド人女性シマヴは、オサーマ・モハンメド監督と知り合って彼の耳目となり、危険をも顧みずにカメラを手にし、シリアの現状を撮っていく。
そのシマヴ彼女自身が銃撃戦に巻き込まれ、みずから負傷した体をさらしながらカメラに向かって語りかけるシーンは、胸にしみる。
死の恐怖と向き合いながら、異常な日常を撮り続ける彼女の勇気と使命感に圧倒される。
そして一方で、祖国シリアを捨て、パリに亡命したモハンメド監督の自責の念も伝わってくる。
冒頭でも説明があるように、この作品が、監督と1001人のシリア人が撮影した映像から成ることが文字で紹介され、それに「私は見た」という言葉が重なる。

このドキュメンタリーのほとんどの素材は、無名の人々が家庭用のカメラで撮った断片である。
人間が、いとも簡単に虫けらのように殺されていく様子が、主として前半にまとめられている。
極めて粗い画質の衝撃的な映像が、次から次と流れていく。

シリア内戦は、停戦合意がなされているにもかかわらず、今でも銃声は消えない。
シリア人の悲しみ、苦しみという、痛苦きわまりないその現実から目を離せない。
レコードから流れるエディット・ピアフ「愛の讃歌」と、モハンメド監督クルド人女性シマヴの詩的な対話がいつまでも耳に残る。
シリア・フランス合作映画「シリア・モナムール」「モナムール」は、フランス語で「わが愛」という意味だ。
テロと戦争の世紀といわれる今世紀の初頭に、人間の愛と尊厳を失わずに生きてゆくために、どうしたらいいのだろうか。
映画は何ができるだろうか。
日本での初公開はかなり前のことになるが、遅ればせながら鑑賞に間に合った。。
多くの問いかけがずしりと胸にこたえる、貴重で稀有なドキュンタリー作品だ。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回は日本映画「怒 り」を取り上げる予定です。


映画「アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲(プレリュード)」―美しい風景の中でつきない大人の恋のはじめ方―

2016-09-13 17:30:00 | 映画


 美しい風光の中で尽きない、大人の恋の行方は・・・。
 クロード・ルルーシュ監督といえば、1966年のあの名作「男と女」をまず思い浮かべる。
 男と女の切ない恋物語だ。
 斬新な映像と、フランシス・レイの名曲が流れ、しっかりとフランス映画の世界へ陶酔させたよき映画だった。
 この今から50年も前の不朽の名作「男と女」も、デジタル・リマスター版で甦ることになったことは、喜ばしいことだ。

 ま、余談はさておき、今回の「アンナとアントワーヌ」は、その「男と女」の系列に位置する作品で、現在78歳の名匠ルルーシュ監督が、憎らしいほどにうまい手慣れた演出で、大人のラブストーリーを完成させた。
 しかも、またしてもフランシス・レイの哀愁たっぷりの音楽とともに・・・。
 ここでも映像と音楽は、終盤まで主人公に代わってなお饒舌なのである。
 詩情豊かな、瀟洒で洒落たラブ・ロマンスだ。



恋人アリス・アネル(アリス・ポル)から、結婚を迫られているフランス人の映画音楽家アントワーヌ・アベラール(ジャン・デュジャルダン)は、インドで撮影される映画の音楽を担当するため、ニューデリーを訪れる。
アントワーヌはフランス大使館の晩餐会で、サミュエル・アモン大使(クリストファー・ランバート)の妻アンナ(エルザ・ジルベルスタイン)と出会う。

アンナは夫との間に子供が欲しいと願い、フランス南部の村にいる聖者アンマ(マーター・アムリターナンダマイに会いにいく。
アンマとは「お母さん」の意味の愛称で、ひとりひとりを抱きしめる“ダルシャン”という行為で、人々に癒しや希望や勇気を与えることで、彼女との抱擁を求めて世界中の人々がこの地を訪れている。
近頃頭痛に悩まされているアントワーヌは、気分転換のために、アンナと一緒に2日間の旅に出かけるのだった。
列車や船を乗り継いで旅をするうち、二人はお互いに惹かれあっていく。
とりとめのない会話のやりとりの中に・・・。
この愛の前奏曲(プレリュード)は、あくまでも前奏曲に過ぎない・・・。(?!)

クロード・ルルーシュ監督は、今回も男女の心の機微を丹念に描く。
エスプリたっぷりの洒落たセリフと会話、詩情溢れる風景・・・、はじめから終わりまで大人の会話劇だ。
繊細な愛が語られる。
恋は透明感にあふれていて、そこヘフランシス・レイの音楽がいやが上にも追い打ちをかける。
「男と女」から50年たって、またここでも愛にさまよう作品が誕生した。

ドラマの中で、はじめひとりで南部へ旅立ったアンナが、列車を降りた夜霧のプラットホームで、何とそこで待ち受けていたアントワーヌと再会する。
いいシーンだ。
それにドラマ後半で、二人が別々の車に乗って走る場面がある。
二人は並走する車の窓越しに互いを見るのだが、そのガラス窓に雨滴が広がり、互いの表情を微妙にゆがめ、陰影をつける。
やや古風とも見える、手の込んだ演出も悪くない。
主役の二人もベテランの味をよく出していて、そん色ない。


そしてラスト・・・、実に洒落たラストが余韻をもって訪れる。
さすが名匠ルルーシュ、まだまだ若いと感じ入った。
クロード・ルルーシュ監督フランス映画アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲(プレリュード)」は、俗っぽく言えばいわゆる不倫の物語だ。
いろいろと今の世の中では非難されるが、ここに描かれる中年男女大人の恋は、ファンタジックで切ない。
男と女のどうにもならない関係を、微妙なさじ加減でルルーシュ監督の冴えた演出が描き切る。
1966年の作品「男と女」と比べてどうかだが、大人の恋愛模様“最終章”もその感性は変わらない。
       [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はシリア・フランス合作映画「シリア・モナムール」を取り上げます。

   * * * * *  閑 話 休 題  * * * * *

・・・この前のブログでも不倫の物語を取り上げたが、不倫のドラマというと眉をしかめる傾向が強いが、愛の物語に変わりはない。
ここで、愛についての意味深い言葉を紹介させていただく。
人を好きになる、ならないは、その人の自由だ。
参考までに・・・。

「愛に限界はない。
誰かが誰かを深く愛していても、別の人間を好きになることもある。」 (クロード・ルル-シュ)

「恋というのは、相手の素性をよく知らなくても、ぐっと惹かれるものがあれば、家庭を壊さない限り、倫とか不倫とかはないと思うんです。
週刊誌で騒ぐのは幼稚っぽい。」 (岸 惠子)

「人を不幸にしたその上に、幸せは成り立たない。
好きになるのは理屈じゃないから、人の夫でも好きになることはあると思います。
私も不倫をしたけれど、家庭を壊したと思ったことは一度もない。
たくさん本気で恋をすると、人間が深くなります。」 (瀬戸内寂聴)

( 追 記 )
女優・岸恵子は、69歳の女と58歳の男の間で始まる恋を描いた、一人芝居「わりなき恋」を、9月24日から全国6カ所で上演するそうだ。
2013年に発表した自作小説を戯曲化した朗読劇で、原作は彼女が心血を注いで書き上げた小説だといわれる。
この人、とても84歳とは見えない若々しさがあって、知性にも更なる磨きがかかった感じだ。
「わりなき恋」は、熟した男女の恋愛や別れを描いた作品で、彼女は映像化を望んだそうだが、ヒロインを演じる女優がなかなか見つからなかったということで、自ら脚本を10回以上も練り直し、自ら演じる一人芝居を完成させたという。
自分の恋愛についても、颯爽と語るところがいい。
小説「わりなき恋」の主人公は、ほぼ自分自身のことだと語っている。
年齢を重ねた者よりも、今は若者が中心の日本社会への不満が、筆を執る原動力となったようだ。
報道によると、次作の小説も恋愛がテーマだそうで、まだまだ創作意欲は衰え知らずだ。


映画「花芯」―性と恋の儚い深淵に見るただならぬ女の情念―

2016-09-10 12:00:00 | 映画


 瀬戸内寂聴が、まだ瀬戸内晴美(旧名)名乗って新進作家として活躍し始めていた頃の、1957年(昭和32年)に発表された小説「花芯」がこの映画の原作だ。
 「花芯」というのは中国語「子宮」の意味だそうで、この作品が文学雑誌「新潮」に掲載されたとき、作者は毀誉褒貶の激しい嵐を浴びて、その後5年間も、文学雑誌からパージされるに至ったといういきさつがある。

 この作品は「海を感じるとき」(2014年)安藤尋監督、ひとりの女性の生き様を通して、主人公の愛と性を描いて見せた初めての映画である。
 現在と当時の世相は当然大きく変わっている。
 当時の世相に反逆するかのように、傷だらけになりながらのヒロインが、ひたすら女としての性愛を貫いた、熾烈な恋愛ドラマがここではまこと秘めやかに綴られる。







終戦の翌年、昭和21年・・・。
古川園子(村川絵梨)は、親が決めた許嫁の雨宮清彦(林遣都)と結婚し、一人息子の誠をもうける。
雨宮に愛情を感じられないまま、よき妻として夫婦生活を営んでいた園子だったが、妹の蓉子(藤本泉)は彼女が幸せな女を装っていても、本当は満足していないことを見抜いていた。

昭和25年、転勤となった夫について京都に移り住んだ園子は、下宿先である北林未亡人(毬谷友子)の一軒家で、雨宮の上司・越智泰範(安藤政信)と出会い、男との恋に目覚める。
園子は初めての気持ちに戸惑い、苦悩する。
そしてある時、ついに園子は雨宮に越智を好きになってしまったと告白する。
それを聞いて激昂する雨宮は、園子をひとり東京へ帰らせようとするのだが、荷造りのすきを見て越智に会いに行った園子は、彼と再び会うことを約束する・・・。

安藤尋監督の映画「花芯」は文学作品の映像、翻案ということもあって、物語や登場人物の簡略化を施しつつ、原作にかなり忠実に描かれている。
ヒロインの村川絵梨がいい。
越智との恋に苦しむ園子はよく描かれてはいるが、彼女の表情はきりりとして厳しく、感情を押し殺したような演技がことのほか冴えている。
園子役の村川絵梨は、8歳で主演したNHKの朝の連続テレビ小説「風のハルカ」から10年、今回はセリフが少なく、多くを語らない中での表情の変化を迫られる大役に挑んだ。
目線や体のたたずまいなど、何を考えているのかわからないような場面は、その内面も観客に想像させるところや、下宿の大家役の毬谷友子のねっとりと絡みつくような演技も際立っている。
随分思い切ったキャスティングである。

小説の方は、発表された当時読んでいて少し驚いたりした部分もあったが、いま読み返してみると作品には古風なしなやかさが漂い、淡々と読めてあまり強いインパクトも感じないし、印象も薄い。
文学作品としてはむしろ物足りなさもある。

この映画「花芯」の核となるのは、女の〈業〉だろうが、総体的にはお世辞にも十分に描かれているとは思えなくて、残念だ。
やはり物足りない。
心理描写が主体となるべきこの種の文芸作品は、大体映像化そのものが難しいのだろう。
波乱のドラマのはずなのに単調で、画面のトーンの暗いのが気にかかる。
ひと皮むけたヒロインの熱演は賞賛したいが・・・。

瀬戸内寂聴「花芯」が活字になったとき、各界から罵詈雑言を浴び、まだ名もない時代の一作家が反抗したことから、5年間も文学活動がままならなかったことは、この一作がもたらした不幸な運命のためだと言っている。
しかしそれはまた、却って彼女の60年余りにわたる小説家の生活が続いたという、因縁の作品ともなった。
原作者は、映画化された「花芯」での、主人公の身体を張った捨て身の演技に拍手を送っている。
ここに描かれるヒロイン園子の恋は、単なる女の狂気などではなく、人が人を愛する上での深い悲しみであることをじんわりと表現しているといえるだろうか。
        [JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点
次回はフランス映画「アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲(プレリュード)を取り上げます。


映画「後妻業の女」―おかしくてばかばかしくもおもしろくやがてあざときかなしさよ―

2016-09-03 12:00:00 | 映画


 愛とお金と男と女、虚実を超えてこれがこの世のすべてだと・・・。
 日本は、いま婚活大国だそうだ。
 五十代以上の熟年婚活も活発で、それはそれで大いに結構なことだ。
 平均寿命が男女とも80歳超となって、還暦を過ぎてのパートナー探しとて、決して珍しいことではない。

 そこに目をつけ、金持ちで高齢の男性の後妻に入り、相手から財産をそっくりいただく。
 それが“後妻業”だ。
 直木賞作家・黒川博行原作を、「愛の流刑地」 (2007)の鶴橋康夫監督が映画化した。
 超高齢化社会の現実と欲にまみれた人間の業を、喜劇仕立てにして描き切った。
 善人はいない。
 悪人ばかりのドラマである。





大阪の結婚相談所が主催するパーティーで、淑女然と愛らしく自己紹介する武内小夜子(大竹しのぶ)の魅力に、独身の老人たちはイチコロになっている。
彼女に魅了されたそのひとり、80歳になる中瀬耕造(津川雅彦)は小夜子に惹かれ、二人は結婚する。
二人は幸福な結婚生活を送るはずだったが、2年後耕造は亡くなる。

小夜子は葬式の場で、耕造の娘・朋美(尾野真千子)と尚子(長谷川京子)に、遺言公正証書を突きつけ、全財産の相続を主張して譲らない。
朋美は納得がいかないので、探偵の本多(永瀬正敏)に調査を依頼する。
すると、小夜子は後妻に入り財産を奪う“後妻業の女”であったことが、発覚する。
しかもその背後には、結婚相談所の所長・柏木(豊川悦司)がいて、その周辺で老人たちが次々と不審な死を遂げていることがわかってきた。

朋美は、次から次と“後妻業”を繰り返してきた小夜子と柏木を追求する。
一方、老人を次々と手玉に取る小夜子は、タフな悪女ぶりを発揮して、次のターゲットである不動産王の舟山(笑福亭鶴瓶)を、本気で愛してしまうのだった・・・。

どこにでも咲く、高齢化社会のあだ花か。
少しでもいい暮らしをしたいと、金持ち老人に寄生を繰り返す小夜子は天性の悪女だが、柏木には妙に親切だし、所詮人間はひとりでは生きてゆけない。
金銭を最大のよりどころとする現代の社会のひずみと同時に、それでも夫婦や家族の絆を求めずにいられない、人間の愛おしさや業を感じさせる、ピカレスク・ロマンである。

とにかく、ひとくせもふたくせもあるクセ者揃いの戯画画面に、女の嘘と男のしたたかさがぶつかり合い、おぞましいドラマが展開する。
ときにハチャメチャな展開を見せ、欲と欲の一筋縄ではいかないドラマは、小夜子と朋美の取っ組み合いもなかなかリアルだし、作品中の脇役陣までにも存在感がある。
賑やかな映画だから、退屈はしない。

登場人物たちが関西弁をまくし立てるこのドラマは、人間臭さとユーモアに溢れていて、意外とあっさりとしている。
大竹しのぶの怪演にも圧倒されるが、テンポのよい演出に乗った結婚詐欺師の話は、観客にはバカ受けのようで、館内のあちらこちらから乾いた失笑と爆笑が絶え間なく・・・。

悪事を働いている悪い奴らなのだが、この欲の塊みたいな登場人物を何故か憎めない。
どうしようもない悪党ばかりなのだが・・・。
男と女、女と男、きつねとたぬきのばかし合いだ。
鶴橋康夫監督映画「後妻業の女」は、人間の弱さ、愚かさ、いとおしさをにじませた、愛とお金と欲望の痛快なエンターテインメントだ。
まあ、忌憚なく言えば、敢えて良識や品性を欠いたB級映画の怪作(快作?)だ。
原作小説がよいせいか、人物描写が巧みだし、俳優陣の演技バトルも見どころだ。
ラストシーンは原作と違った描き方だ。
かなり漫画っぽいが、この映画の最後のシーンには、まあびっくりだ。
      [JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点
次回は日本映画「花芯」を取り上げます。