徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

ー禁断の愛ー映画「中国の植物学者の娘たち」(一部改訂)

2008-01-29 07:30:21 | 映画

厳寒の日々が続くなかで、清冽な詩情に溢れた心地よい映画と出会った。
タイトルは硬いが、中身はすこぶる官能的である。

フランス、カナダ合作の、中国人監督ダイ・シ-ジェのこの作品は、1980年代に、中国四川省で実際に起きた事件を題材にした異色作と言える。
美しく、どこか儚い、女性の同性愛を描いた禁断のラブスト-り-である。
ダイ・シ-ジェ監督が、禁断の愛に敢えて挑戦した意欲作だ。
テ-マはともかく、心癒される作品となっている。
何よりも、映像の美しさに目をみはる。

厳格な植物学者の父チェン教授(リン・トンフ-)と暮らすアン(リ-・シャオラン)と、幼い頃に両親をなくしつつ、植物学を学んでいるミン(ミレ-ヌ・ジャンパノワ)が、孤独という共通点から、姉妹のように親しくなる。
やがて、二人の友情は一線を越えるが、その描き方が自然で、また実に繊細かつ丁寧である。

湖に浮かぶ植物園に迎えられたミンは、そこでアンと知り合い、姉妹のようなかけがえのない喜びを見出すが、二人の関係は許されない愛へと高まっていく。
むせかえるほどの緑に包まれた楽園に、秘めやかな陶酔が咲き乱れる・・・。

アンには軍人の兄がいて、彼が家に戻って来る。
永遠の愛を誓い合うアンとミンであったが、アンはミンに秘密の提案をする。
 「単身赴任する兄と結婚すれば、二人はいつも一緒に暮らせるわ」
ミンに好意を抱いていたアンの兄とミンは結婚することになる。
しかし、それは長く続かなかった。

その頃、ミンはアンの父との確執を感じ始め、アンはミンに同情する。
そして、それは二人の娘と父チェンとの対立の始まりでもあった。

美しい二人の女性、アンとミンが初めて愛を交わすシ-ンがある。
夜更け、アンが敷き詰めた薬草の上に、一糸まとわぬ姿で寝ている。
その、薬草の香りに誘われるようにやってきたミン・・・。
彼女は優しくアンを愛撫し、やがてミンも全てを脱ぐ。
艶やかに輝く二人の裸身が、優しく重なり合う・・・。
その二人の白さが眩しい。

ところが、二人が戯れるその場面を、父親のチェン教授がはからずも目撃する。
チェンは激怒して、手を振り上げた。
 「この魔物め!」
この一言が悲劇を呼ぶ。
・・・そして、激しくも純粋に求め合い、永遠の愛を願う二人だったが、彼女たちに残酷な運命が待ち受けていた・・・。

この異色のテ-マを扱ったダイ・シ-ジェ監督は、中国で生まれ、フランス在住十五年になる人だが、この作品では、自由に人を愛することが許されない偏狭の祖国中国を見つめながら、そのきめ細かな心理描写と映像で、許されざる禁断の愛の物語を、まことに感動的に、きわめて自然なタッチで描いてゆく。
2006年、モントリオ-ル世界映画祭では、エキゾチックな香りの漂うこの作品が、観客賞を受賞、撮影を担当したギイ・デュホ-も最優秀芸術貢献賞を受賞している。
シ-ジェ監督は、母国語ではなくフランス語での作家活動も盛んで、フランス五大文学賞のひとつ<フェミナ>賞を受賞している。

シ-ジェ監督は語っている。
 「愛を貫くために、兄弟と結婚する発想は男にはない。天真爛漫な二人の愛の裏に、濃厚な
 ロマンが隠れている。男女の愛は、すぐに現実的になるだろう。僕にとって、同性愛はどうで
 もよい。要はロマンなのだ」

女性同士の愛を描くことがタブ-な中国では、この映画の撮影許可が下りず、風景が中国と似ているベトナムで撮影された。
そうした中国政府の対応について、シ-ジェ監督は、腹の虫がおさまらなかったようだ。
前作「小さな中国のお針子」で、主演の美人女優ジョウ・シュンを起用したかったらしいが、彼は、「中国政府に妨害された。あんな映画に出るんじゃないと横やりを入れてきた」と言って、口をとがらせたというエピソ-ドもある。

足の指の爪まで娘に切らせる父親や、相手の意思もろくに聞かずに結婚を決める兄の姿は、いかにも中国社会の男尊女卑を皮肉に示すし、個人の自由を許さない文化に対する鋭い批判も、この作品の随所に現れている。

とにかく、中国国内ででの撮影が認められなかったと言うのだから、中国当局の不寛容さは残念ながら変っていないらしい。
とはいえ、二人の娘の織り成すドラマは、国や時代の制約を越えて羽ばたく。
愛を信じることで、二人は自分たちを解き放ち、力強く変貌する。
おびただしく生い茂る樹林や草花が、二人を祝福し、包み込む。
緑したたる光景の、豊かな官能に圧倒される・・・。

よりどころのない身の上ながら、芯の強さを持ったミン役のミレ-ヌ・ジャンパノワは、豊満な美しさを持つ、西洋と東洋の血をひく神秘的な緑の瞳で、フランスで最も注目されるミュ-ズとして、映画の枠を超えて活躍している。
一方、父親との絆を断ち切れないアン役に、中国国外の映画に初めて出演するリ-・シャオランは、華奢で、色白で、東洋的なエキゾチックな美しさをかもし出している。
二人の女優の存在は、、作品のしっとりとした詩的な情景のなかで、際立って光っている。

ゆったりと時間が流れる田園地帯、植物園の草花におおわれた濃密な香り、空に羽ばたく百八羽の鳩の群れ・・・、切ないまでに高まりゆく女性の愛を演出して、シ-ジェ監督の面目躍如たるものを感じる。
秘密の花園に足を踏み入れてしまったような、一種幻惑的なエロスの綾なす演出とともに、全編に紡がれるカメラワ-ク、映像の美しさはさすがである。
この作品のラストシ-ンに映し出される、北ベトナム・ハノイ近くの奇岩、奇峰の密集するハロン湾の絶景(世界遺産)は圧巻であった・・・。
珠玉の小品である。

   *この作品の詳細はこちらへ。→「http://www.astaire.co.jp/shokubutsu/

 





  

 

 

  

          

 





  


映画「殯(もがり)の森」ー人間の生と死ー

2008-01-25 20:00:00 | 映画

カンヌ国際映画祭で、グランプリ、審査員特別大賞に輝いた日本の映画である。
先日、NHK衛星放送でも放映された。

「殯(もがり)」とは、敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間のこと、またはその場所の意味だ。
仮埋葬と言う意味で使われることもあるようだ。
「殯の森」は、以前「萌の朱雀」でも、カンヌ映画祭でカメラドール賞を受賞、世界から注目されている、河瀬直美監督の作品だ。

人は死んでから、何処へ行くのだろう。
昨日、今日まで生きていた人が亡くなったとき、その動かなくなった人を見つめて、人は、一体何を思うだろうか。
亡くなった人との交流が、生まれることなどあるのだろうか。
目に見えないものの存在を、確認できるだろうか。
人は、いつか死ぬ。
人が逝ってしまったとき、遺されるも者と逝ってしまう者との間に、結び目のようなものがあるとすれば、それは何だろうか。
あるとも無いとも思えるような、その結び目のようなあわい(間)を描いた<物語>を、河瀬監督は見せてくれている。

映画は、重く、暗いテーマに敢えて挑戦した。
この作品は、娯楽性を求める一般の映画ファンからは、多分ばっさりと切って捨てられる作品かもしれない。
そういう映画だ。そう思って観ないと、落胆する。
実に、静謐な映画である・・・。

山間の地に、軽い認知症の人たちと、介護する人たちが共に暮らしている。
その中のひとり、しげき(うだしげき)は、妻を亡くしてから、ずっと33年間も彼女との日々を自分の心の奥にしまいこんで、仕事一筋に生を捧げて生きていた。
それは、誰も立ち入ることのできない、自分と妻だけの世界であった。
そこに現れた、介護福祉士真千子(尾野真千子)も、つらい過去を抱えて、心を固く閉ざしたまま、毎日を懸命に生きていた。
この、心を閉ざしたまま生きている、しげきと真千子の二人が、日々の生活の中で、やがて心をうちとけあっていく・・・。

或る日、二人は「殯の森」に踏み込んで、道に迷い遭難する。
そして、二人の間に不思議な交流が生まれるのだが・・・。

確かに、意味不明のシーンや会話も多々ある。
作品はある部分ではドキュメンタリータッチである。
ハンディカメラの多用も大いに気になるところだし、人物の動き、自然の描き方にも理解しにくいところがないわけではない。
森の中で、大雨が降り出して、突然鉄砲水が発生したり、しげきの冷えた身体を寒さから守ってやるめに、、真千子が裸になって自分の肌で温めてやる衝撃的な場面も、やや唐突な嫌いがある。

河瀬監督自身の故郷である奈良を舞台に、要は、人間の生と死を描いた。
うだしげきは全くの新人で、役者初挑戦だと言う。
真千子役の尾野真千子は、過去に河瀬作品に出演の経験があり、ここでは透明感のある演技を見せている。

あらすじは単純でありながら、内容は大変深く、濃い。
少なくとも、上質の映画と言える。
登場人物の音声は、時として聞き取れず、またまるで必要ないくらいなのだ。
まあ、普通の物語映画の体をなしていないと言った方がいい。
生と死。喜びと哀しみ。
生命の根源に近い感性を、緑いっぱいの森の中で描いている。
物語ということを考えれば、構成上の問題があるかも知れない。
しかし、大事なのはテーマだ。
製作上の、多分の不自然はあっても、生と死を描いて、十分鑑賞に価する。
作品としての評価は、極端に分かれるだろうが、プロ筋の評価は非常に高い。
溢れる緑の森にはじまる映像の美しさは、特筆ものである。

 *この映画の詳細はこちらへ。→ 公式サイト「http://www.mogarinomori.com/



映画「シルク」ー秘められた愛の抒情歌ー

2008-01-22 06:07:31 | 映画

底冷えのする厳しい寒さ・・・、いつまで続くのだろうか。
昨日も、今日も、そして明日も・・・?

 「・・・あなたの幸せのためなら、ためらわずに私を忘れてください。」
 一通の日本語で書かれた手紙が、秘められた愛を導いていく。

映画「シルク」を観た。
日本、カナダ、イタリア合作の映画、フランソワ・ジラール監督作品「シルク」は、海を越えてめぐり逢う愛の物語と言う触れ込みである。
・・・愛は運命に紡がれ、そして永遠となる・・・。

原作は、イタリアの作家アレッサンドロ・バリッコの叙事詩的小説「絹」で、世界26ヶ国に翻訳され、ベストセラーになったそうだ。

映画「シルク・ドゥ・ソレイユ」「レッド・ヴァイオリン」の演出でも知られるジラール監督が、<人間が、人や国、物事にめぐりあうこと>をモチーフに、はかなくも切ない愛と運命を、一種壮大なスケールで映画化して見せた作品である。

人は、生きて何にめぐり逢うのか。
愛する人、見知らぬ場所、かけがえのない真実・・・。
人は、思いがけず、何かに出会うことで、その出会いで運命の変ることもある。
この映画は、一人の男の“邂逅”を、ロマンティックにかつミステリアスに描く。

十九世紀、フランス・・・。
男は、愛する妻を残し、遥か極東の地日本へ。
そして、美しい一人の少女との出逢いが、彼の人生を変えてゆく。


戦地から故郷の村に戻ってきた、若き軍人エルヴェ(マイケル・ピット)は、エレーヌ(キーラ・ナイトレイ)と出逢い、恋に落ちて、二人は結婚する。
そんな矢先、二人の住む村では、蚕の疫病が発生し、エルヴェは世界一美しい絹糸を吐く蚕を求めて、日本へ旅立った。
愛する妻を一人残して、彼は、見たことも聞いたこともない異国の地へ、砂漠を越え、大陸を横断し、海を渡り、遠く険しい道程を進む。
東へ東へと向かったエルヴェの前に、ついに異郷の光景が広がる・・・。

日本は幕末である。
その日本で、青年エルヴェは何を見たか。
彼を待っていたのは、謎めいた神秘的な少女(芦名星)との出逢いであった。
それは水墨画のように、静謐な雪国の村の湯けむりのなかに揺らめいて、まるで、日本の古い民話の世界の“夕鶴”や"雪女”を想いださせる、絹のように美しい少女の姿であった。
詩情が溢れている・・・。
多くのカットの中でも、とくに冒頭のこのシーンは、何とも言えない見事なカメラワークで、秀逸な映像を見せてくれる。

その少女は、ゆっくりと振り返り、こちらに漆黒の瞳を向けて・・・、しかし言葉はなかった。
遠い、遥かな幽玄の世界が、そこにあった。
少女は、<幻影>だったのかもしれない。
少女は、何も語らず、見知らぬもう一人の少女を、エルヴェの夜の床に差し出すのだ。
このもう一人の少女も“少女”の分身であり、幻影なのだ。

この謎めいた少女に魅せられたエルヴェは、在仏日本人マダム・ブランシュ(中谷美紀)の協力を得て、幾度か、命がけで、非日常的な日本への旅を繰り返すのだ。
作品は、非日常かつドラマティックな邂逅から、もっとも身近で平凡なものにめぐり逢うという、深いテーマを綴っていく。

青年エルヴェの運命を一変させるのが、“少女”から届いた手紙である。
日本語で書かれたその手紙は、こう結ばれていた。
 「あなたの幸せのためなら、ためらわずに、私を忘れてください。」
その言葉には、秘められた想いが綴られていた。

エルヴェの東洋幻想は、この映画のラストで、思いがけない結末を迎えることになる。
彼の旅は、すべてが儚い幻想だったのか。
ここに描かれるエルヴェの目に映った日本は、敢えて言うなら、西洋人の東洋的なエキゾティシズムへの憧れの象徴なのかも知れない。

周到に準備された美術や衣装、ロケ地の背景はなるほど美しい。
馬車、汽車、馬、徒歩、アルプスの山脈、ウクライナの平原、舟による旅、庭や工場、幕末の日本の北国の村・・・。
これらの映像は、飽きさせることなく楽しい。

・・・時が流れ、エルヴェは、母国でエレーヌと平和に包まれた穏やかな暮らしをしていた。
だが、突然エレーヌの死という悲劇がエルヴェを襲う。
数年後、スエズ運河の開通(1869年)により、日本への道のりはわずか20日余りの旅となっていた・・・。

エレーヌが遺した庭園で、一人悲しみに暮れるエルヴェは、数年前のあの手紙について、全てが明らかにされ、驚くべき真実を知ることとなるのであった・・・。

演出について、言いたい。
映画の演出にあたって、ジラール監督はどれほど日本文化、伝統に認識があったか、かなり疑問だ。
それは、とくに映画の中で、大事な伏線として登場する“少女”をはじめとする、日本女性の描き方にある。
ぬめぬめと濡れ光る、女の唇の大写しによる、三文映画のような安っぽいエロチシズム・・・。
来客の接遇のさい、主人の膝に顔を埋める女性の態度、和装の乱れ、仕草、たたずまいの大ざっぱなこと、湯浴みのシーンに登場する女が、エルヴェの肩に湯をかけるシーンなど、日本女性を芸者か遊女のイメージでしかとらえていないように思える。

ふざけた、好奇の目で眺めていないか。
外国人が、日本文化、日本女性をどれだけ理解しているのか。
あまりに知らなすぎる。知っての演出なら、ひどすぎる。
日本の女性の持つ、深く、繊細な多様性をまるで分かっていない。
だから、どんなに美しい映像であっても、雑駁な演出が女性をだらしなく見せている。
清純で、至高の愛の物語のはずが、何だか一瞬汚らしいものに見えてならない。
画竜点睛を欠いている。大変残念である。
日本女性は、古来、手弱女と言われ、優雅で美しい筈だからだ。
この点で、ジラール監督には失望した。

出演は、ほかに、闇取引の権力者役の役所広司ら、「戦場のメリークリスマス」「ラストエンペラー」の坂本龍一が、優美な音楽を担当している。

重ねて言うけれど、大事な役どころだからこそ、女性の描かれ方は重要な筈なのだ。
日本女性として描かれる“少女”について言えば、映画の中で、この少女は一言の台詞もない。名前もない。
目と仕草だけの演技である。これは、成功だ。
このあたりは、大変よく描かれている。
そして、まさに、この“少女”はエレーヌ自身、エルヴェにとって“少女”はエレーヌの分身であり、幻影なのである。
あの湯煙のなかに、ひっそりとたたずむ裸身の“少女”と、印象派の絵画のような柔らかな光に包まれて、庭園に立つエレーヌが、映画のラストで溶けあうのだ。
年老いた、エルヴェの心に去来するものは何だろうか・・・。

女の無償の愛と、男の苦い悔恨の物語とも言えるかも知れない。
その向こうから仄見えてくるものは、女心の「あはれ」と、そしてもうひとつは、男心の「あはれ」ではないだろうか。

 *この作品「シルク」についての詳細はこちらへ。→ 「 http://www.silk-movie.com/ 」
                                             (公式サイト
                                             

 

 


邦画「魂萌え」ーゆれる女心の機微ー

2008-01-18 13:30:00 | 映画

寒いですねえ。いや、ほんとうに・・・。
早朝など、もう身も凍えそうな寒さである。
風邪をひかないようにしたい。

旧作だが、「魂萌え(たまもえ)」は、ゆれる女の心を描いた、小気味のよい作品である。
大変遅ればせながら、観る事になった。
原作は、2004年1月から1年間、毎日新聞に連載された長編小説で、のちに婦人公論文芸賞を受賞した桐野夏生だ。
この小説は、連載時から特に女性読者の圧倒的な共感や反響を呼んだ。
のちに、小説はベストセラーになった。

  「・・・あなたの妻でいて、幸せでした。
  今、私のもうひとつの人生が、
始まります。」

定年を迎えた夫隆之(寺尾聰)と妻敏子(風吹ジュン)の平穏な暮らしは、夫の急死によって、一変することになった。
夫の葬儀の日、亡くなった夫の携帯にかかってきた、見知らぬ女からの電話・・・。
しかし、やがて明らかにされる、長い間隠されていた夫の秘密・・・。
八年ぶりに突然現れ、強引に遺産相続と同居をせまる長男との確執・・・。
生まれて初めて、深い喪失感を味わう敏子の前に現れる男たち・・・。

敏子は、それまで平凡なひとりの主婦であった。
思い余って、プチ家出をする彼女は、街をさすらい、ふらりと泊まったカプセルホテルで、過去を持つ老女(加藤治子)と出会う。
老女は、自分の身の上話を聞かせて一万円、さらに敏子の話を聞くとまた一万円を彼女に請求した。敏子は、素直に老女に金を渡した。
・・・その老女の死にも、関わりあうこととなって・・・。

敏子は、自分だけの携帯電話とスケジュール帳を買い込み、潔く、自分の人生の再出発をはかろうとするのだが・・・。
そこへ、予期せぬ夜の行きずりの(?)男との情事、仏前に突然姿を現した女性との対決・・・。
その女性は、生前の夫が十年間も秘かに付き合っていた不倫の女昭子(三田佳子)であった。
敏子と昭子の、女同士のバトルはなかなか見ごたえがある。
この時、敏子は思ったのではなかろうか。
 「・・・私と言う女は、一体何だったのだろう?」

この映画に出てくる男たちは、まことに情けない。
たとえば、敏子を口説く気障りな男は、貞淑な人妻のよろめきが好みだと言う陳腐さだ。

平凡な妻であり、母であり、女である敏子に、次々と訪れてくる人生の荒波を前に、彼女の心はゆれ惑い続ける・・・。

監督は、あの「顔」「亡国のイージス」など骨太の題材をもとに、数々の作品を手がけてきた阪本順治で、ここでは女の足取りを繊細なタッチで紡ぎだす。
ときに、コメディセンスもあってよろしい。
もともとこの人、男のドラマが得意な監督の筈なのだが・・・。

音楽で彩るのは、「顔」では日本アカデミー賞音楽賞優秀賞を受賞し、リード楽器のグラミー賞といわれる「金のリード賞」を東洋人で初めて受賞したcoba、そして、旧ユーゴの国民的歌姫であるヤドランカの調べだ。

主演の風吹ジュンは、ときに強く、ときに儚げで、それでいて年を重ねてもどこか可愛げのある、そんな女の、ゆれる心の機微をうまく演じている。
この敏子のような女は、もしかすると世間のどこにでもいそうな女なのだ。

「魂萌え(たまもえ)」という言葉は、国語辞典にはない。
この題名は、「肉体は衰えるけれど、魂はますます燃え盛る」という意味なのだそうだ。
もちろん、作者による造語である。
“萌える”と言う言葉が、流行語のようになっているが、この言葉が、桐野夏生の原作にいち早く取り入れられたことが注目され、いまだにこの“~~萌え”があちこちで使われるようになった。
そういうことのようだ。
原作「魂萌え(たまもえ)」は、団塊世代の直面する状況を先取りして、夫の定年、夫の死、老年の性愛、自立できず、親にまといつく子供たちといった、いかにも切実な問題をとらえた作品として、評論家の世評は高かった。

・・・ともあれ、平凡に見える日常生活の中にこそ、なるほど意外なサスペンスが潜んでいるものである。
この映画、ほかに常盤貴子、豊川悦司らも出演者に名を連ねている。
公開から大分経っているが、映画作品としては、桐野夏生と言う作家の、すぐれた原作の味わいに大いに助けられたきらいがあることは否めない。
決して愚作ではないが、ちょっと面白い、そんな小品である・・・。

 *少し古くなりますが、この作品の詳細はこちらへ。→「 http://www.tamamoe.com/ 」



 


スペイン映画「ボルベール<帰郷>」ー明るさと可笑しさー

2008-01-15 10:00:00 | 映画

北風が冷たい。
底冷えのする日々、まだまだ寒い日は続くようだ。
・・・またひとつ、ヨーロッパの映画を観る。

女たちの、その流した血から、花が咲く・・・。
生きている声、母娘の血の濃さ、哀しさ、女性の神秘・・・。
 「ただいま、お帰りなさい」
強く、美しく、しかしわがままに、私の、女への帰郷<ボルベール>・・・。

地中海のような明るさが、全編にあふれている。
これまためずらしい、スペインの映画だ。
女性讃歌のスペイン版ということか。
カンヌ国際映画祭では、最優秀女優賞と最優秀脚本賞を受賞している。
ペドロ・アルモドバルという監督が、故郷ラ・マンチャを舞台に、何があっても尽きることのない、母の愛に見守られて、力強く生き抜く女たちを描いている。
スペイン映画「ボルベール<帰郷>」  この映画もまた、ミステリアスでサスペンスフルなムードに包まれながら、進展していく。

・・・十代の頃、ライムンダ(ペネロペ・クルス)は、母を拒んでいた。
理解しあえないまま、母は亡くなってしまった。
そして、思春期の娘を持つ母となったライムンダは、ある時「死んだ筈の母の姿を見た」という噂を耳にする。
母は、あの世から帰って来たのか。孤独な少女のように、いつになっても母の愛を求める女・・・。
ついに、彼女の前に現れた母には、もっと衝撃的な秘密があった・・・。

この映画のヒロインを演じるペネロペ・クルスという女優が、また素晴らしい。
こういうのを、地中海的な美しさとでも言うのだろうか。
文句なしに、圧倒的な存在感と演技力で迫ってくる。

ライムンダは、失業中の夫の分まで働き、一人娘パウラの母親の役目を果たしながらも、明るくたくましく生きている。
そんな彼女に、二つの死が降りかかる・・・。

娘のパウラが、「本当の親じゃないから」と言って、強く彼女に関係を迫ってきた父親を、包丁で刺し殺してしまったのだ。
パウラの身を守るために、動転などしていられない。
空家となっていた、隣のレストランの冷蔵庫に、夫の死体を隠すことにしたライムンダ・・・。
そして、その夜、彼女の両親が死んだ大火事のショックから、病気がちになっていた最愛の伯母も息をひきとった・・・。

その伯母の葬儀の席で、姉のソーレから、火事で死んだ筈の母親の姿を見かけたと言う話を聞く。何があったのか。
幽霊(?)なのか。生きていたのか。

死んだ母が、生きている筈がない。
が・・・、母と娘の再会の時が訪れる。
死んだ筈の母が帰って来た・・・!?
しかし、それは、ライムンダの秘密と、もっと衝撃的な母の秘密が明かされる瞬間でもあった。

この作品、いくつか気になるシーンもある・・・。

物語は、マドリードから、ラ・マンチャにある両親の墓参りにやってきたライムンダと娘のパウラ、姉のソーレの三人が、村で暮らす伯母パウラ、そして彼女の面倒を見てくれている隣人の独身女性アグスティナと再会するエピソードから始まって・・・。

とにかく、久しぶりの再会を喜び合う、彼女たちのキスの雨、キスの音のすさまじさ、余りにも大げさな霰さながらのキスの応酬には度肝をぬく。
いやはや・・・、これには参りました。
アルモドバル監督の故郷は、小さな村で、そうした昔のスペイン風のキス(挨拶)は、アルモドバルタッチとでも言うのか。
よくあった習慣らしい。言ってみれば、田舎の「名産品」みたいなものだ。

さらに、舞台がマドリードに移る部分や、サスペンスフルな事件が綴られていくなか、注目すべきは、パウラの義父殺し、及び娘の罪をかぶる覚悟を決めたライムンダの死体処理の場面である。
ライムンダの赤いカーディガン、死体から流れ出た真赤な血、なんとなんとその血染めの包丁をキッチンの流しで、スポンジで洗い流すシーンが・・・!
まあ、現実には考えにくいシーンが続く。
・・・血で真赤に染まってゆくペーパータオル、ライムンダの首筋についた赤い血の線・・・、なにもかもを<赤>で塗りこめたイメージの連鎖である。

見ていて、荒唐無稽に思われる場面もあって、首をかしげたくなった。
人を殺しておいて、刑務所に入ることもなく、隠し通して逃げ回る。
 「人は、生きているだけで、それだけで倖せなのだ」
アルモドバルは、そう言っているようだ。
日本人的感覚では、なかなか理解しがたい。

光り輝くようなヒロイン、ペネロペ・クルスについて、アルモドバルは絶賛する。
 「彼女の顔、首筋、肩、胸・・・、世界の映画界を見渡しても、その胸の谷間は最高だ。ただひとつ残念だったのは、彼女のお尻だ。それほど、今回の作品のキャラクタ-としては、概してお尻の大きい女性が多いのだ。ペネロペのお尻は細すぎていけない。他は、もう言うことなしだ!」
 まあ、とにかく大変な賛辞なのである・・・。

ペネロペは、そのお尻の細さを隠すために、映画「ボルベール」では“付け尻”をつけて演技をしていたのだそうだ。そうして、お尻をとくに大きく見せていたわけだ。
クランクアップ後に、彼女は、「この“付け尻”を手放したくないほど、作品を愛している」と語っていたと言われる。
ほう・・・、“付け尻”とはねえ。・・・そんなこともあるんですねえ~。

そして、この女優ペネロペについては、さらにひどく感心したことがある。
たったのワンショットの中で、彼女の乾いた威嚇するような目に、突然涙が溢れてきて、まるで激流のように流れ出したのだ。
或いは、まるで零れ落ちない程度の涙が、ただ瞳の中に溜まってゆく。そのシーンはまことに印象的であった。

映画中盤あたりだっただろうか。
1930年代、カルロス・ガルデルのつくったアルゼンチンタンゴの名曲「Volver(帰郷)」が、ここではフラメンコのもっとも自由な形式で、エストレージャ・モレンテという歌手によって歌われている。

    「感じる・・・
     人生は風のひと吹き
     二十年はなかったと
     熱に浮かされたあの眼差し
     影の中をさまよいながら
     わたしの姿を探し求め
     あなたの名前を思い出させつづける
   
     ひとの生命はつかのまの花
     二十年はほんの一瞬・・・
     甘美な思い出にすがりつき
     再び涙にむせぶ・・・ 」

全編にわたって、溢れるばかりの色彩美と、アルゼンチンタンゴの名曲にのせて描かれるこの作品、日常の中の孤独や死を軽々と乗り越えて、「母」「娘」「女」と、めまぐるしく表情を変えながら生きる女性たちの姿が、躍如としてここにある。
ただ、繰り返し言いたい。
荒唐無稽で、いささか理解しがたい場面がないわけではない。
これも、「映画」だからだろうか。

 *この映画「ボルベール<帰郷>」について、詳しくは→「 http://volver.gyao.jp  」へ。
  タンゴの名曲にのって、この作品の世界を垣間見ることが出来ます。 



 

 


「キレた男に逆ギレ!?」ー携帯注意に節度?ー

2008-01-11 06:00:00 | 寸評

京都で、タンポポの花が咲いたそうだ。
まだまだ寒い日は続くだろう。
でも、冬来たりなば、春遠からじである。

・・・その女子高生は、電車の中でメールに夢中になっていた。
隣の空いてる席に、60歳代後半の男性が座った。
座るやいなや、彼は女子高生に言った。
 「おい、携帯止めたらどうだ」
女子高生は、はじめ驚いた様子で、それからすぐに恐縮して頭を下げた。
すかさず、彼女は電源を切った。
 「すみませんでした」
男性は、胸の辺りに手をあて、
 「私はね、心臓が悪くて、ここに機械を入れてるんだ」と言って、彼女の方をにらみつけた。
 「どうもすみません。すみません」と、彼女は繰り返し言った。

ところが、男性は虫の居所が悪かったのか、ことはそれだけではおさまらなかった。
彼は、女子高生に向かって、大きな声で怒鳴り始めたのだ。
さあたまったものではない。
 「近頃の若者ときたら、全くもってマナーがなっていない。いい加減にしろよな、ええ!」
 「はい・・・、すみません」
 「俺はなあ、これまで何回もこういう目に遭ってきたんだ。あんた、学生さんよ!分かるか?この病人の俺がさ、どんな気持ちか・・・」
女子高生は、あまりの声の大きさにいまにも泣き出しそうであった。
 「電車の中で、するなよ!いいか!」
男性の方はもう一方的で、繰り返し謝っている彼女の言葉に耳を貸そうとしなかった。

その男性があまりに執拗なので、女子高生は逃げるようにその席を立った。
そして、車内の隅の方へ移動した。
彼女は、男性の方を二度と振り向かなかった。

彼女にとっては、こんなことははじめてのことだった。
屈辱であった。
しかし、どうやらその男性は、これまで幾度となく同じような経験をしてきて、さすがに腹の虫がおさまらなかったらしい。
彼女は、運が悪かったのかも知れない。

その女子高生は、ひどく不愉快な想いで自宅に帰った。
そして、彼女は怒りをあらわにして、このことを父親に告げた。
 「いけないことをしたのは私だから、だからね、私一生懸命に謝った。それなのに、いつまでも私だけに怒鳴り散らして・・・。もう、許せない!」
すごい剣幕で、父親に当たった。
 「だって、そうでしょう、お父さん!」
 「お前の気持ちもよく分かるよ。その人は、何度もそんな目に遭っていて、怒りが爆発したんだろう。それが、お前に、当たったんだよ」
 「でも、あんまりだわ」
 「運が悪かったな」
 「そんなこと言ったって・・・、あそこまで切れることないわよ。年をとると、男の人って皆あんなふうになるの?」
 「いや、そんなことはないさ。誰もが短気とは限らんよ」
 「キレ過ぎよ!」
 「その人は心臓が悪くて、必死になって自分を守ったんだよ。車内のメール禁止を知っているのに、お前がメールをやっていたことが、そもそもいけなかったんだ。だからって、相手の注意がどうであろうと、こちらに非があったんだ」
 「でも、言い方があるわよ。節度がないわよ。注意する側にだって、絶対問題があると思うわ。あれじゃあ、まるで日ごろの鬱憤を、全部私にぶつけてるような怒り方だわ」
 「節度ねえ・・・」と言いかけて、父親はちょっと考え込んだ。
 「まあ、そういう人もいるっていうことだな」
 「許せないわよ、そんなの!」
 「人間はな、誰でもやさしい人たちばかりじゃないんだ」
 「・・・」
娘は、黙ったまま口先をとがらせて、まじまじと父親の方を見ていた。

父親は、諭すように自分の娘に言った。
 「マナーを守っていれば、言いたいことも言える。大体、守るべきことを守らなかったのは、お前の方だよ。お前も悪いさ。はじめにマナーありきだ・・・。どうも、いかんなあ、最近の若者は・・・」
しかし、娘は、父親の言うことが半ば理解できても、釈然としない様子であった。
 「お前が、もっと大人になって、年をとって同じような境遇にあったら、怒りたくなる気持ちが、分かるかもしれない」
年を重ねれば、その男性のように社会に不満を持つことも多くなるかも知れないと、父は言いたかったようだ。

娘は、そんな父親に反論するように言った。
 「でもね、どんなに腹の立つことがあっても、私は、相手の心に傷を残すようなことをする大人にはなりたくないわ。ああいやだ。だって、それが、人間としての最低限のマナーでしょ?」
 「・・・じゃあ、お前のマナーはどうした?してはいけない携帯でメールをしていたことは?それこそ、最低限のマナーではないか」
 「だから、それは、何度も謝ったって言ったでしょ」
 「・・・それは分かる。だが、何でも、ことは謝れば済むというものでもないぞ。それを、いやそれでも、許せないと言う人間もいるからな。甘く考えてはいけない。人は、生きてゆくために、誰もがお互いにマナーを守らなければ、片手落ちだ。節度というなら、それはどちらも大事なことだよ。そうだろう?」
 「それは、そうだけど・・・。わかってるわ、そんなこと、私だって」
 「分かっていれば、それでいいじゃないか、もう・・・」
 「・・・」
 「相手がキレたからといって、逆ギレしてどうするんだ?」
父親はそう言って、微笑みながら、娘の肩にやさしく手をかけた・・・。
 
 




映画「題名のない子守唄」ー女は強し!ー

2008-01-08 07:00:00 | 映画

アドリア海から吹く風が頬に冷たい、北イタリアの港町トリエステに、長距離バスから、目立たぬ地味な服に身を包み、一人の女が降り立った。
この物語は、ここから始まる・・・。

久しぶりのイタリア映画である。
このジュゼッペ・トルナトーレ監督の「題名のない子守唄」は、イタリアアカデミー賞で五部門を独占した、いわくつきの作品だ。

・・・あなたが幸せになれるなら、私はどうなってもかまわない・・・。
イタリアに限らないが、かって若い夫婦が、実際に自分たちの子供が生まれる前に、その子供を売る契約をし、それが発覚して逮捕されたという実際の出来事にもとずいて、この映画は撮られるきっかけになったのだそうだ。

心に深い傷を負い、過去に囚われたままの女イレーナ(クセニア・ラパポルト)、彼女の心を支えているたったひとつの願いは、生き別れた自分の子供を見つけ出すことであった。
東欧の国から、再び哀しい記憶にまみれたイタリアに舞い戻った彼女は、素性をかくしてメイドになり、やがてその家の娘テア(クララ・ドッセーナ)との間に、ほのかな愛情を育んでゆく。
しかし、そのイレーナの心に秘めた想いは、忌まわしい過去からの魔の手によって掻きむしられ、悲劇が起きることとなる・・・。

この映画には、共感できる部分もあるが、正直言って共感できないような部分もある。
だから、観客はいたるところで驚きと戸惑いをかくせない。
でも、それも映画なのだと敢えて納得するか。(?!)
作品の中に描かれる、苦しみも悲しみも、そして愛もが、ほとんど息もできないほどに激しく、衝撃的なシーンが速いテンポで展開する。
トルナトーレ監督は、運命に翻弄される女、夢の女ではない、現実の女をとりあげる。

・・・新天地を求めていた、イレーナの夢は打ち砕かれる。
仮面をつけて、次々に衣装を脱ぐように命じられて、ついに全裸になる。
仮面と全裸、それは顔の美醜にとらわれず、冷酷に性の道具を見極める手段として、実にリアルに女の運命を突きつけてくるのだ。

自分の意志で選んだはずの、その人生の最初の試練が、終わりのない凌辱の人生の始まりなのであった。
彼女の人生はズタズタに切り裂かれて、もはや修復できないほどにキレギレになり、そんなイレーナがさらにさらに地獄に堕ちるのを見せつけられる。
目を背けたくなるような、衝撃的な場面が続く・・・。
それも、イレーナの強い視線に導かれるからか、視線は釘づけになった。
彼女の過去は、まさに「売られた」娼婦であった。

イレーナは裕福なアダケル家のメイドになるが、どこまでもつきまとう忌まわしい男の影は、払っても払っても彼女を追って来ていた・・・。

心を熱する母の愛、失われた時、悲惨すぎる自分の過去、それらを包むように、暗い主題を, 哀愁に満ちた、エンニオ・モリコーネの音楽が全編に奏でられる・・・。

作品は、ミステリータッチである。
物語全体が、愛と謎に満ちているのだ。
まるで、先の読めない展開・・・、オープニングの衝撃から、一瞬たりとも目が離せない、スリリングな物語を紡ぎだしてゆく。
ロケーションは、まことに陰影に富んでいる。
哀しみの中にも強さをにじませるヒロインを演じる、クセニア・ラパポルトはロシア出身の実力派女優だそうで、「母なる愛」の揺るぎない強さを見せてくれる。

イレーナと心を通わせる、アダケル家の一人娘テア役をクララ・ドッセーナは、ときに大人っぽく、イレーナとの会話は、大人の女同士のようでもある。

子守唄を歌って欲しいとテアに言われ、イレーナは、一曲だけ知っている故郷の子守唄を歌う。
・・・それは、切なく、美しい旋律であった。

他に、この作品では、イレーナの育った東欧の国ウクライナ、港町トリエステ、過酷な運命を辿ってきた彼女の想い出の象徴として使われている苺、からすみのスパゲティ、高級レジデンスの螺旋階段などもキイワードになっているように思える。
映画の冒頭で、トリエステに現れたイレーナが、スーパーマーケットで何パックもの苺を買うシーンがあるし、切り離そうとしても切り離せない、彼女の過去と現在を象徴する螺旋階段は、老家政婦ジーナが転落するシーンで使われるが、そのシーンの前後でも幾度となく登場する。

ラストになって、はじめて全てのシーンに納得できるのだけれど、それぞれのシーンは、説明しすぎることもなく、見た人がどんな受け止め方をするかの「余白」を残して、丁寧に仕上げられている。
ただ、個人的な見解を問われると、やはり気の重い作品ではある。

  ・・・復讐なのか、償いなのか。
  その愛が、心に突き刺さる・・・。

 *この映画についての詳細は是非こちらへ。→「http://www.komoriuta-movie.com/#read
     エンニオ・モリコーネの哀愁のメロディーが流れてきます。

 


ー頌 春ー

2008-01-03 15:00:00 | 日々彷徨

 ー頌 春 


(新春の富士)

初春に千古の夢をかえりみて
         富士の高嶺に雲のたなびく

 明けましておめでとうございます。
 旧年中は、いろいろとご指導、ご鞭撻を頂き、
まことに有難うございました。
 今年も、どうぞ宜しくお願い申し上げます。