徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「ランジェ公爵夫人」ー悩める愛の深淵ー

2008-08-30 23:30:00 | 映画

19世紀フランス文学の巨頭と言えば、オノレ・ド・バルザックだ。
バルザックは、生涯を通じて、90篇以上の小説と2000人以上の登場人物を創造し、19世紀のフランス貴族や市民の生活を、いきいきと描いた偉大な作家だ。
そのバルザックの同名小説 「ランジェ公爵夫人」 を原作に得て、ヌーヴェル・ヴァーグの巨匠ジャック・リヴェット監督が、 「美しい諍い女」(91)に続いて、力強い、堂々たる風格の文芸作品を世に放った・・・。
ベルリン国際映画祭正式出品作品である。

交わされる言葉が紡ぎだす官能と悦楽、息詰まるような愛と途方もない情熱、そして業火の苦しみ・・・。
これを、恋愛心理の妙を突く、愛の深淵と言おうか。

19世紀初頭、パリの虚飾と欺瞞に満ちた貴族社会を舞台に、最初は戯れのように見えた二人が、いつしか激しく恋愛に陶酔してゆく姿を通して、男と女の普遍的な関係を描き出していく・・・。
そこに、徹底したデティール(細部)へのこだわりと冷静な眼差しが注がれ、‘恋’に身を焦がす男女の心情を際立たせて、知的で甘美な幻想世界を醸し出している。
それは、男と女の、かなわぬ恋の数奇な運命の心理ドラマを構成する。

文豪バルザック の小説は、ただでさえ描写においても奥行きが深く、読了するには多大な忍耐を要することもしばしばで、作風に慣れないとついてゆけない。
この作品とて、当時のフランスの貴族社会についての考察が延々と語られたり、小説の読破には力も必要だ。
これを映像で見せられると、文学に関心が薄い観客は、たちまち眠りに陥るかもしれない。

貴族社会を、忠実に再現した美術や衣装もあって、映画の方は格調高い香気を放つ・・・。
とくに、蝋燭の灯などの自然光を生かした、美しい映像は魅力的だ。
主演バリバールドパルデューの、相手に一歩も譲ることのない、緊張感あふれる対決は見ものである。

将軍は手負いの獅子のように激しく、公爵夫人は気高い薔薇のようであった・・・。
1818年、パリの華やかな舞踏会で、ランジェ公爵夫人(ジャンヌ・バリバール)は、ナポレオン軍の英雄モンリヴォー(ギヨーム・ドパルデュー)と出逢った。
公爵夫人は、思わせぶりな振る舞いで、彼を翻弄し続ける。
追い詰められたモンリヴォーは、たしなみや信仰を理由に、彼女の身体に指一本触れさせない夫人に対して、逆に夫人を誘拐するという手段に打って出る。

それを機に、恋に目覚めた公爵夫人は、熱烈な手紙をモンリヴォーに送り始めた。
しかし、モンリヴォーは今度は徹底的に彼女を無視し続けた。
公爵夫人は、自分の想いが拒否されたと思い込み、最後の手紙を友人に託し、突然姿を消した・・・。

モンリヴォーは、失意のうちに世俗社会から去った、ランジェ夫人を探し続けた。
・・・5年後、彼は、ランジェ夫人が、スペインのマヨルカ島の厳格な修道院で、テレーズと名を変え、修道女となっているらしいとの情報を得た。
モンリヴォーは、武装した帆船と共に、マヨルカ島に向かった。
しかし、そこで彼を待ち受けていたのは・・・?

フランス心理小説は、日本人には読み解きにくい一面もある。
単純に言えば、男が女を追う。追われた女が逃げる。
男は、逃げる女を相手にしなくなる。一切を無視する。
すると、今度は女が男を追いかける。
しかし、男は見向きもしない。
そこに、恋愛の陥穽(おとしあな)が潜んでいるのだ。
そして悲劇が・・・。
愛の深淵というゆえんだ。

恋愛は、恋の駆け引きだ。
低俗であれ、上品であれ、恋はひとつのゲームなのだ。
そして、それは時と場合によっては、まことに危険極まりないゲームだということだ。
だからこそ、ランジェ公爵夫人が愛の魔力から開放されるためには、リヴェット監督の、愛と死という永遠の謎、修道院を愛の牢獄とたとえれば、その閉鎖空間からの開放というテーマを持ってきて、ここにフランス文学の伝統にのっとった恋愛心理を、鋭利に解剖しえたということになるのでは・・・。

ジャック・リヴェット監督、フランス・イタリア合作映画「ランジェ公爵夫人は、むしろ恋愛心理の不可解さ、神秘的な魔力を強調するものになっているようだ。
ともあれ、ジャンヌ・バリバールギヨーム・ドパルデューの、心理的演技はそれだけで見ごたえ十分である。

この心理劇のクライマックスで、いたずらに振り回されるモンリヴォーが、彼女に向かって言う台詞が、ランジェ公爵夫人の心を打ち砕く。
 「これで、もうお別れしましょう。・・・お別れです。私はもう何も信じない。
 私は苦しみ、あなたは公爵夫人のまま、いや・・・、何でもない、さようなら。」
フランスの恋愛術は大変興味深い反面、巧妙、深遠で難解な要素が一杯だ。
 ・・・何が難しいかと言えば、愛することではなくて、愛されることである。 (ゲーテ)
 


べらぼうめ!ー年寄りいじめの‘酷税’ー

2008-08-28 15:00:00 | 寸評
老夫妻は、部屋の片隅で向かい合っていた。
夫は72歳、妻は68歳だ。
夫は、年金生活をしながら、警備員として働いていた。
給料は7万円で、そこから半分も税金を天引きされたと言って、怒っている。
 「ふざけた話だよなあ。こんなに少ない給料から半分も持っていかれてるんだぜ」
 「収入が多いわけでもないのに、税金てそんなに高いの?どうして?」
 「どうしてなんだか・・・」
生活が立ちゆかなくなったので、夫はさらに別の会社でも雑役として働き始めた。
年金だけでは、暮らしてゆけない。
いまだに、住宅ローンを抱えていた。
それに、持病があって病院にも通っているし、いろいろとかかる。
最近になって、妻も2ヵ所をパートでかけもち、働き始めた。
 「あたしたちみたいの、ワーキングプアっていうのね」
 「そうだ」
夫婦は、顔を見合わせると悲しそうに笑った。

国民健康保険料は、月々18000円を支払っていた。
妻は吐き捨てるように言った。
 「それがね、先月末に通知が来たのよ。区役所から」
 「何て?」
 「あなたの保険料は、この次から36000円になりますって」
 「何だい、それ?」
 「ほら、見て頂戴」
と言って、妻は区役所から届いた青い封筒を夫に見せた。

翌日、勝気な妻は区役所の窓口へ出かけていった。
どうしてこんなことになるのか、問い合わせた。
簡単な答えが返ってきた。
担当の職員は、まともに妻の方も見ずにぶっきらぼうに言った。
 「あなたの収入が増えたからです」
 「えっ!収入が増えたって、いくらでもないわ」
 「ええ。たとえいくらでも、増えた分が新たに加算されるんです」
 「何ですって?あたし、何も好き好んで働いてるんではないんです」 
 「・・・」
 「この年で、まだ住宅ローンも残っているし、借金もあるんです」
 「・・・はあ?」
 「でも、わたしは幸い病院にはかかっていないわ。保険証をどこかに失くしてしまったくらいなのよ」
 「・・・」
 「それで、この前には、住民税だったかしらね、一期分、6万7500円を6月中に払えなんて、通知もきたわ」
 「はい。そういうご通知を差し上げました」
 と担当の職員は、涼しい顔をして平気で言うのだ。
 「だって、あなた、年度全額で26万2500円もですよ!」
妻は声を荒げ、ワナワナしながら、職員にたてついた。
これには、一緒について来ていた夫もびっくりした。
 「そうですね。5%から10%に税率が上がったから、そうなったんです」
 「それじゃあ、あんまりにもべらぼうすぎやしませんか?」
 「いいえ。ちゃんと計算して、皆さんに平等に納めて頂いてるんですよ」
 「働かずに、病院通いをしろと言うんですか!」
思わず、大声になっていた。
 「それは・・・、ご自由にどうぞ」
 「・・・」
妻はあきれて物も言えず、夫の顔を見た。

帰り道で、妻は夫に言った。
 「どうぞご自由にですって。何でしょう、あの言い草!・・・聞いてたでしょう?」
 「ああ。いやな役所だな」
 「まったくだわ。それにね、あなた、次から二人分の介護保険料がまた大幅に上がるのよ」
 「何だって?!この間も上がったばかりじゃないか!」
 「そうよ。もう滅茶苦茶よ」
 「う~む」と、夫の顔が険しくなった。
 「年寄りは、早く死ねと言ってるのね」
 「そうだ、そうだな」
そう言って夫は空を見上げた。
冷たいものが、顔に落ちて来た。
大きな雨粒であった。
夫は、妻の方を向いて、苦虫をかみつぶしたような顔になって、ぽつりと言った。
 「涙雨だ。天も泣いてるんだ・・・」
 「いやな世の中ね。税金の無い国に逃げ出したいわね。無人島でもどこでも・・・」
 「ああ。だけど、そんなに、どうせ俺たち生きていやしないよ」
 「それもそうね。・・・となると、やっぱり我慢しかないのね、あと少し・・・」
夫は黙ってうなずき、妻はため息をついた。
夫は自分の痩せた手を、妻の痩せた肩にあてると、
 「さあ、早く姥捨て山へ帰って、安い焼酎でもやろう」


「やかましい」発言ー口はわざわいのもとー

2008-08-26 09:00:00 | 雑感

先日の太田農水相の、「消費者がやかましい」発言をめぐって、自民党の麻生幹事長が、「騒々しいという意味ではない。よく知っているという意味だ」と言って擁護した。
さらに、こういう言い方を、関西以西の人はみんなすると言ったそうだ。
このことが波紋を呼んでいる。
二人とも九州人だそうだ。

どちらも、明らかに適切を欠く表現だ。
撤回するか、謝罪をしたらいいのだ。
それも、政治家の面子が許さないのか。

大臣たるもの、日本の北から南まで、国民が正しく理解できる、もっと解りやすい、正確な日本語を話さなくてはいけない。
こういう人には、日本人として、国語(日本語)の再教育が必要になる。

太田農水相の発言も発言なら、それを擁護する麻生幹事長も、変なことを言う人だ。
妙なかばい方は止めたほうがいい。
まことにもって、おかしな言い方だ。
「やかましい」は「やかましい」という意味でしかない。
方言もへちまもない。
九州出身者も、国語学者も、おかしいものはおかしい、間違いは間違いだから改めるべきだと言っている。
九州弁にあるなど、とんちんかんもいいところだ。
間違えていることを、間違えてかばうのだから、こんなに見苦しいものはない。
政治家は、恥を知らなければいけない。

憲法学の先生までもが、麻生幹事長の擁護は、農水相を弁護したいがためで、でっちあげ論だと怒っている。
こういうのを、恥の上塗りと言うのだろう。
民主党をナチスに例えるなども、論外だ。

太田農水相は、以前「集団レイプする人は元気があるからいい」などと、穏やかではない失言騒ぎもあった。
閣僚の舌禍事件はあとを絶たない。
彼らは、決して非を認めて謝ることをしない。
見苦しい言い訳ばかりである。
屁理屈はいい加減にして欲しいものだ。

言葉は政治家の命だ。
公人たる閣僚が、消費者の発言を牽制する表現したことに責任を感じないなら、政治家失格だ。
おまけに、総裁候補とまで目されている幹事長が、その発言を弁護し、人を食った発言をした。
どちらも、政治家として資質に問題があると言われても仕方がない。
日本人なら、日本語の勉強をもう一度基礎からしっかりとなさってはいかがだろうか。

二人のものの言い方について、国立国語研究所も、「かしこまった公的な場で使う表現ではない」とまで断言している。
それでも、発言を修正も撤回もしない。反省も謝罪もない。
そんなに偉いのか。
間違いを平然と押し通そうとする、いい加減な閣僚ばかりだから、これでは日本の政治もよくなるわけがない。

どんな時でも、人間は過ちを正す気持ちが大切だ。
論語に曰く、過って改むるに憚ることなかれ・・・。


映画「SEX AND THE CITY」ー輝く女たちの讃歌ー

2008-08-24 09:00:00 | 映画

ニューヨークを舞台に、キャリア女性4人の生き方を描くアメリカ映画だ。
人気テレビドラマの続編というかたちらしいが、ストーリーの展開にもまして、ヒロインたちがまとう最新のモードが、かなり関心を集めているようだ。
女たち4人の恋愛と友情を描いて、これが結構楽しめる作品となっている。

多くの欧米ハイブランドが協力し、主役4人の衣装だけで300点を越すと言われる。
華やかなニューヨークモードと共に、愛と笑いと涙のグラビアドラマも上出来の部類(?)だ。

マイケル・パトリック・キング監督は、四通りの人生、愛のかたちをこの作品で描いて見せた。
女性の生き方を、考えさせる作品だ。

欲しいものは、何でも手に入れてきた。
転んでも、ぶつかっても、確かな友情があるからこそ、美しく勇ましい4人のニューヨーカーたちは、今日も輝き続ける・・・。

全く新しい視点から、スキャンダラスに、そしてキュートに、4人の主人公を通して、女たちの本音をさぐる。
生き方も個性も、それぞれに違う彼女たちが、傷つけ、傷つけられながらも、友情という絆に支えられていつも前向きに立ち上がっていくところに、女の勇ましさが見える。

女たちは、みんな個性的である。
そして、誰もがわがままで貪欲だ。
幾つも失敗を繰り返しながら、自分の手で今の仕事や生活を手にし、それぞれの愛を見つける。
でも、その‘ハッピーエンド’のその後はどうだろう。
人生は、おとぎ話のようにはいかない。
時間と共に変わるものもあるし、失うものもある。
しかし、さすが彼女たちは、絶対に裏切らない確実なものを手に入れている・・・。
いい言葉がある。
 「人は、ブランドでは決まらない」

ファッションアイコンで、コラムニストのキャリー(サラ・ジェシカ・パーカー) 、美貌とパワーを兼ね備えたPR会社社長サマンサ(キム・キャトラル) 、母親かつ敏腕弁護士ミランダ(シンシア・ニクソン) 、理想の結婚を果たしたシャーロット(クリスティン・デイヴィスの4人が繰り広げる物語だ。

キャリーは、ニューヨークで幸せな生活を送っている。
長年くっついたり離れたりを繰り返した、理想の男性ミスター・ビッグ(クリス・ノース)との仲も順調だった。
結婚していなかった二人は、結婚する約束をするのだが・・・。

そのことを喜んだシャーロットは、自分の夫との間に子供ができずに悩んでいた。
彼女は中国から養女を取り、立派に母親をこなしていた。

サマンサは、恋人スミス(ジェイソン・ルイス)の仕事の関係で、彼のマネージメントに徹している。
彼女は、海辺の街で一応幸せな毎日を送っていた。

ミランダだけは、あまり幸福ではない。
子供の世話、アルツハイマーを患った義理の母の世話、そしてキャリアとのバランスをうまく取れずに奮戦している。
しかも、そんな彼女に、夫のスティーブ(デヴィッド・エイゲンバーク)は浮気をしたことを自ら白状したものだから、激怒したミランダは、息子を連れて家を出てしまうのだった。

そんな合間に、キャリーの結婚式の準備は着々と進んでいく。
そして著名ライター、キャリーのこの結婚を「ヴォーグ」誌が取り上げることになったりして、マスコミに注目される派手なウエディングになった。
その展開に困惑したビッグが、結婚式当日式場まで来ていながら、突如姿を消してしまったのだ・・・。
大騒ぎになった。
絶望のあまり、キャリーは花嫁衣裳のまま式場を飛び出した。

自責の念と屈辱感に苦しむキャリーを、サマンサミランダシャーロットは、彼女がハネムーン用に予約していたメキシコ旅行に連れ出す。

サマンサも、恋人のためにつくす毎日の中、いつしか自分らしさを喪失しつつあって悩んでいた。
ミランダスティーブの別居状態も続いていた。
一方で、シャーロットは、思いがけず念願の妊娠をした・・・。

それぞれの苦しみ、悩み、喜びを、強い女同志の友情に支えられた4人は、一緒に笑い、泣きながら様々な体験をしていく。
そんな彼女たちを待っていたのは、これまた思いがけない“ハッピーエンド”の‘続き’だった・・・。

女性が新しい服(ファッション)を探して、雑誌をぱらぱらと眺めるようなスピード感がある。
派手な格好を良しとするセレブりティー風な服を、普通の人たちが着る設定もある。
おしゃれとは、本来あまり目立たぬシックなものだったではないか。

主人公の4人とも大人で、ファッションを見せることに徹した。
高齢化社会に、年齢を重ねた人に、ファッションで気分を変える楽しみがあることも伝えてくれている。

本編冒頭、キャリーのナレーションはこんな台詞を語る。
 「20代の女性が大勢ニューヨークにやって来る。お目当ては二つの“L”。
 ラベル(ブランド)と愛(ラブ)だ。20年前、私も同じだった。」
女流作家という‘肩書’をものにした、キャリーのさらなる目標は、運命の男性とゴールインを決める“愛”であったが・・・。

アメリカ映画「SEX AND THE CITYは、当然女性の人気も高いようだ。
かなり欲張った内容だが、面白い映画だ。
まあ、大人向けのハッピーコミックかも・・・。
上映時間2時間24分、眠くなることはなく、目の保養にはなった。
甘さも、可笑しさも、ほろ苦さも、涙もありで、これは女性必見かも知れない。
女性は比較的よく描かれているが、男性の方は、やや描き方が希薄で物足りなく感じた。
やはり、こういう映画ではどうしても男性は影が薄くなるのだろう。(?!)

作品の中で、「ヴォーグ」誌のベテラン編集者を演じるキャンディス・バーゲン を見つけた。
もうかなりの年になってしまったが、 「パリのめぐり逢い」「ある愛の詩などを想い出し、懐かしかった。


映画「ベガスの恋に勝つルール」ーありえぬ恋のはじまりー

2008-08-22 10:00:00 | 映画

アメリカ映画トム・ボーン監督のこの作品は、全くふざけたラブコメディだ。
頭で考える理想から、心が欲する理想の男性を見つける物語だと言ったのは、誰だったか・・・。

フィアンセにこっぴどくふられたキャリアウーマン、ジョイ(キャメロン・ディアス)と、父親が経営する工場を解雇されたジャック(アシュトン・カッチャー)の二人・・・。
気晴らしに出かけたラスベガスで、出会った二人は意気投合する。
ハデに飲み明かし、その勢いで結婚までしてしまうのだ。

翌朝、正気に戻って結婚を取り消そうとしたものの、ジョイの25セントをジャックが投入したスロットマシンで、300万ドルが大当たりときた!
ニューヨークに戻った二人は、互いに賞金の所有権を主張する。
裁判の判決で、6ヶ月間の結婚生活を送るはめになる。
財産の取り分をめぐって、‘仮面夫婦生活’を送るうちに、何かと衝突ばかりしているジョイジャックの関係に微妙な変化が訪れる・・・。

ヒロイン、ジョイは計画的で、完璧主義者で、週80時間働いても満たされない仕事の鬼だ。
一方のジャックはと言えば、プレッシャーに弱いお気楽者で、負けが見えると逃げ出すガサツな男だ。
共通点ゼロの、二人の共同生活はうまくいくはずがない。
部屋の掃除のことから、トイレの便座の上げ下げまで、あらゆることで衝突ばかりしている。
けれども、賞金をゲットするためには、‘理想の結婚相手’を演じることが、 「ベガスで恋に勝つルール」なのだ・・・。

パーティーを開いて、浮気するように計画したり、お互いが嫌になるようにしかけたり、個性豊かな親友や、冷静な精神科医まで巻き込んでの、まああれやこやの蹴落としバトルが、しっちゃかめっちゃか、リズム感たっぷりに描かれる。

そして、ハチャメチャな駆け引きの先に見えてくるものは、ジョイジャックは性格もライフスタイルもまるで正反対だけれど、恋に不器用なところはよく似ているということだった。
ジョイという女は、パワフルさの中に、繊細な素顔を隠し持っている。
ジャックという男は、いかにもちゃらんぽらんな中に、誠実さをあわせ持っている。
二人が、お互いが飾らずに過ごせる運命だということに気づいて、素直になれる日が果たしてやってくるのだろうか・・・。

このドラマは、ありえない恋のはじまりと、ハイテンションなバトルに思い切り笑って元気を与えようという、最初はハートがじんわりと温かくなる物語だ。
いただけないのは、大げさなジョークと騒がしさだ。
かなり、気ぜわしい上に、けたたましいコメディのゆえんか。

世に言う“お騒がせセレブ”と話題になるのが、シンガーのブリトニー・スピアーズだそうで、その彼女が勢いでラスベガスで幼なじみと結婚、1日も経たないうちに結婚を解消した話は、彼女の奇行として芸能欄をにぎわせた。
いまは、セレブの真似事でも、一般人がすぐにしてしまう世の中だ。
ラスベガスで、酔った勢いで電撃結婚し、酔いがさめたらとたんに後悔するという話を聞いても、誰も驚かない。

この物語のヒロインは、突飛な行動ばかりしているお騒がせ娘ではない。
むしろ正反対の、完全主義者の優等生だということなのだが・・・。
キャメロン・ディアス演じるジョイ・マクナリーは、ウォール街で働く威勢のいいキャリアウーマンだ。
スタイルもよし、性格も明るい。おまけに美人だ。
世間でも見かけるパーフェクトな女性なのだが、その完璧さがアダにもなる・・・。
恋愛の機微は、まことに難しい!!

華やかというより、騒々しい(!)‘事件’に彩られた、はちゃめちゃなコメディだ。
もちろん、核となるストーリーはきわめてシンプルな恋愛ドラマだ。
ちょっとどころか、大いにありえないと思えるような出来事とリアリティを、すれすれのきわどい線で混在させながら、物語を展開させている。

うさ晴らしのために、ベガスでハメをはずすことも、カジノで大金を当てることも、婚姻を解消するために6ヶ月間男女が同居するなんていうことも、脚本というのは、すべて、ありえない話をさもあり得るかのように、創り上げてしまうものなのか。
‘全否定’から始まる恋もある。
いがみ合う男女が、渋々行動を共にすることで恋に落ちる。
奇抜で、おどけていて、ありえないから可笑しいのか。

ドラマとはいえ、くどいジョークも、笑いを求めてのみえみえの演出も、度が過ぎると嫌味になる。
それは、明るく楽しいドラマにという計算ずくだろうが、ややもすると、凡百のテレビのあの芸のない、低俗なバラエティと同じドタバタ番組と紙一重の危うさを痛感する。
アメリカ映画「ベガスの恋に勝つルールは、右手でポップコーンをぱくつきながら、手に手を握り合って、シネコンあたりで、きゃあきゃあくすくす笑いながら、若い男女が楽しむ暇つぶしのドラマだ。

朝夕の吹きすぎる冷たい風に、このところ少し秋の気配がしてきました。
・・・ごめんください。


映画「休暇」ー懊悩する心の向こう岸でー

2008-08-20 17:00:00 | 映画

生きることにした。人の命とひきかえに・・・。
吉村昭の短編集「蛍」のなかにある、30頁ほどの小説が原作だ。
吉村昭と言えば、徹底した考証や取材にもとずく資料を駆使して、作品を執筆する作家だ。
門井肇監督のこの作品、佐向大の脚本によるところも大きいが、よく映像化できたと思った。
非常に困難な題材を、かなり大胆に描いて見せている。
おしどり作家の津村節子(吉村昭夫人)も、難しいと思われた、この小説の映画化には驚いたそうだが、
出来上がったドラマティックな作品を鑑賞して、原作のテーマを損なうことなく、観客にとっても受け入れやすい形になっていると言って、ことのほか満足していたという。

「休暇」は、とくに重苦しいテーマで、天井が開いて落ちてきた死刑囚の身体を支える役目をする刑務官の話で、息絶えてもなお反応する肉体を克明に描写している。
活字と映像は異なるが、その点も考慮された作品だ。
この作品の中心にあるものは、人間の命はどれほど重く尊いかという極めてシンプルなことだ。
刑が決まり、死刑囚は死を待つだけだ。
彼と関わらざるを得ない、刑務官(執行官)たちの苦悩は・・・。
そして、その影をひきずりながら、対比して新婚旅行が描かれる。
映画では、原作にないエピソードやキャラクターも登場し、ドラマにふくらみを持たせている。

門井肇監督は、前作「棚の隅」では、普通の市民の哀歓を実に温かな視線で描いたが、この作品でも、生と死の間で揺れ動くひとりの人間を、限りない優しさで包むような演出を見せる。
重いテーマを扱いながら、あえかな悲しみの先に、ほのかな希望もさして、本当の幸せとは何だろうかを問いかける。

他人の命を奪うことで得られる幸せとは、果たして本当の幸せと言えるのだろうか。
死刑囚を収容する、拘置所に勤務する刑務官たち・・・。
彼らは、常に死と隣り合わせの生活を余儀なくされている。
ベテラン刑務官の平井(小林薫)も、その一人だった。
心の平安を乱すことには背を向けて、決まりきった毎日を淡々とやり過ごす男、そんな平井がシングルマザーの美香(大塚寧々)と結婚することになった。
しかし、なかなか打ち解けない連れ子との関係を築く間もないまま、挙式を迎える。
その直前に、死刑囚・金田(西島秀俊)の執行命令が下る。
執行の際、支え役(死刑執行補佐)を務めれば、一週間の休暇を与えられると知った平井は、新しい家族とともに生きるため、究極の決断をすることになった。
それは、誰もが嫌悪する支え役に自ら名乗り出ることだった。

主演の小林薫は、生きることの意義を見出していく不器用で寡黙な刑務官に扮し、なかなか好演だ。
死刑囚役の西島秀俊も、あらかじめ未来を失った青年を圧倒的な存在感で体現する。
平井の上司大杉漣、平井を本能的な優しさで受け止める妻役の大塚寧々と、多彩なキャストを揃えた。
「刑務所の中」「13階段」にも参加した元刑務官・坂本敏夫が、アドバイザーとして名を連ねている。

これまで、無為に過ごしてきた男が、人生を見つめなおすために乗り越えなければならない壁・・・。
そして、希望を奪われた死刑囚の抱える闇の苦悩と、彼の未来をも奪う使命を託された刑務官たちの苦悩・・・。
そこににじむ厳しさは、決して尋常とは言えない。
さらには、彼らと関わりを持つ者たちの深い哀しみと愛情・・・。

死刑にいたる日々と、親子三人のささやかな新婚旅行を通して、それぞれの幸福、家庭の絆が浮き彫りにされる。
生死と直面した人々の、骨太だが、繊細な人間心理を描いて、それなりに見ごたえのある小品となっている。

これは、言ってしまえば、死と背中合わせの場所で、身も心もすり減らしていく男たちの話でもある。
それは、どこか寂しい男たちの登場する物語だ。
門井監督のデビュー作でもあった、前作「棚の隅」もよかったが、少しばかりメロドラマのような風情もあって、血のつながりだけを絆にしない男と女と子供が、一から本物の家族を作ろうと再出発するエンディングもよろしいではないか。

門井肇監督作品「休暇は、拘置所という苦悩の空間に宿る孤独な魂が、新しい家族の誕生とともに解き放たれていくような安らぎを、そっとあくまでも優しく差し出してくれている。
悲しみの向こう側に、小さな希望をほの見せる‘独房の詩’である・・・。
この人の作品には、どこか温かいヒューマニズムが感じられて、次作にも期待を寄せたくなる。


映画「アボン 小さい家」ースローライフ・シネマー

2008-08-18 22:00:00 | 映画
今泉光司第一回監督作品は、日本・フィリピンNPO合作映画である。
家族と共に生き、自然と共に生きる。
日系フィリピン人家族の絆の物語だ。

アボン(小さな家)は、実に多様な背景を含んでいる。
100年も前から、フィリピンに移住し、戦時中には日本軍にも米軍にもスパイ扱いされ、フィリピン人からも様々な虐待を受けてきた日系人たちがいる。
彼らは、今でも山岳地帯にひっそりと暮らしているのだ。
そこには、豊かな自然が残り、伝統的でつましい生活が息づいている。

確かに、文明の発達した社会だけが、決して人を幸せにするわけではない。
世界中に、いろいろな文化や風習を持った人々がいる。
地球が抱える問題も、加速しつつある。

太陽の光、空気、水、そして動植物など、地球環境があれば、人は生活していくことが出来る。
たとえ、お金がなくても、食物があり、いつも仲間がいて笑いが溢れている。
それだけで幸せになれる・・・。
そんなことを、この物語は静かに語りかけているいるようだ。

西暦2000年、フィリピン・ルソン島の北部・・・。
フィリピンの日系三世であるラモット(ジョエル・トレ)は、3人の子供をかかえ、バギオで乗り合いバスの運転手として真面目に働いている。
だが、生活費を稼ぐため、妻イザベル(バナウエ・ミクラット)は、海外へ働きに行くことになり、子供たちは実家のある山奥の村に預けられる。
電気も通っていない村に、子供たちは戸惑うが、自然に祈り、自然と共に生きる生活に次第に慣れていく。
しかし、妻は、不法斡旋業者の偽造パスポートが見つかり、逮捕されてしまった・・・。

出稼ぎ資金で、多額の借金をかかえたラモットは、一攫千金の算段をするがうまく行かず、子供たちと共に、不法居住地区の家も追われる。
路頭に迷った父子は、仕方なく祖父母が待つ故郷の村へ戻る・・・。
ラモットは、そこで家族が生きてゆく本当の場所を確認する。

物語の中には、小さな湧水がいくつも映し出され、それがやがて一本の沢となり、山全体を映し出すのだ。
それぞれの個性に満ちた登場人物の語る言葉、クローズアップされる自然界の生物たちの多様な形や色が、物語をあたたかな豊かさで優しく包んでいる。

地図で見ると、北部ルソンの急峻な山岳地帯は、山裾から海抜2000米あまりの高地まで続く棚田でも有名だ。
世界文化遺産である。
そこで暮らしている人々を総称して、イゴロットと呼ぶのだそうだ。
彼らは先住山岳民族で、低地域とは異なる独自の生活様式、社会、宗教、伝統を今でも保持している。
そこには、かつて植民地化したスペイン支配のあとがうかがえる。

この山岳地帯が、日本と深い関係があって、今なお多くの日系人が暮らしていることは、あまり知られていない。
彼らは、この100年の日比関係の歴史、とりわけその不幸な部分(戦争、出稼ぎ)に翻弄された人々であった。
1900年代初頭に、この地にたくさんの日本人がやって来て、急峻な山の斜面を切り開く道路建設の難工事に従事したと言われる。
彼らは、工事が終わっても、多くはこの地に残り、イゴロットの女性と結婚して家庭を築いた。
しかし、やがて日本帝国軍がやって来て、米軍との戦争が始まった。
戦争末期、同行を余儀なくされた日系民間人たちは、脱走する日本兵と共に飢餓線上をさまよい、多くの尊い命が失われたのであった。

戦後は、残虐行為を行った日本軍に加担したということで、戦犯として処刑されたり、激しい憎悪と差別の対象となった。
日系人は、その後長い間日本名を隠し、山地で身を隠すようにして暮らし続けたのだ・・・。
ここ数年、日本国内で暮らす日系フィリピン人は急増しているが、彼らが被った苛烈な歴史を知る人はあまりいない。

今泉監督は、 「眠る男」小栗康平の助監督を経て、単身フィリピンの山岳地帯に移住、そうした日系フィリピン人の戦時中の苛烈な体験や、山岳民族イゴロットの独自性に触れ、丸七年の歳月を費やして、この映画を完成させた。

今回、今泉監督のトークショウに接し、物語の背景を知って、その奥深さに改めて驚かされた。
上演前、上演後の彼の解説と質疑応答が、この作品に対する生半可な理解を助けてくれたのだった。
それらをふまえて、この映画「アボン 小さな家を観るとき、途上国の様々な問題と共に、自然と共生する人々の逞しさと家族の絆に、ユーモアとペーソスを交えた、究極のスローライフ・ムービー誕生の意味が解る気がしたのであった。

この作品で、主役を演じるジョエル・トレは、フィリピンを代表する国民的俳優として有名だが、今泉監督は、映画製作の苦しい台所事情もあって、今でも約束の出演料の半分しか支払えていない実情を、申し訳ないように語った。
今泉監督は、主演俳優から、残りのギャラはもう心配しないで下さいと言われたそうで、自主制作の映画の厳しさを覗かせる一幕もあった。

スローライフの世界なので、鑑賞中に幾度か睡魔に襲われもしたけれど、後味は悪くなかった。
フィリピンは、国内だけで地方によって100以上もの言語があるそうで、今回の作品の中では、ほんの一部でタガログ語が使われているほかは、全編に渡って、英語で統一したという。
そのことで、俳優陣の英語のイントネーションなど、ややぎごちなさも気になって、違和感は拭えなかった。
ただ、複雑な背景をふまえて、難しいテーマをよくここまで丁寧に描いたものだと感心させられる。
一見、それは寓話的な世界だ・・・。


映画「4ヶ月、3週と2日」ー勇気ある苦悩の選択ー

2008-08-16 22:15:00 | 映画

めずらしく、ルーマニアの映画である。
記念すべき、第60回カンヌ国際映画祭で、コーエン兄弟、エミール・クストリッツァらの錚々たる映像作家たちを押しのけて、見事パルムドール(最高賞)に輝いた作品だ。
一夜にして、世界中のマスコミにその名が知れ渡り、ルーマニアの俊英(!)クリスティアン・ムンジウ監督が映画界に躍り出たのだった。

ルーマニアは、2005年から3年連続で、カンヌの主要な映画賞を受賞している。
いま、ヨーロッパの映画会では台風の目と言われているそうだ。
言って見れば、国際的な注目を浴びる、ルーマニアの“ヌーベルバーグ”ということになるらしい。
ムンジウ監督の受賞は、フランス国内にも飛び火し、当初20館での公開予定が、一挙200館での拡大ロードショウとなった作品だ。

1987年、チャウシェスク大統領による独裁政権下末期の、ルーマニアが舞台である。
望まれない妊娠をしたルームメイトの、違法手術を手助けするヒロインの、緊張感に満ちた<<一日>>を描く。
映画「4ヶ月、3週と2日」は、周到なリサーチと時代考証に裏づけされたリアリズムを基調に、衝撃的な場面を演出する。
カメラ・ワークも、かなり大胆だ。

・・・それは、二人だけの秘密であった。
大学生のオティリア(アナマリア・マリンカ)と、寮のルームメイト、ガピツァ(ローラ・ヴァシリウにとって、生涯忘れられない日が訪れて来ていた。
オティリアは、大学の構内で、恋人のアディ(アレクサンドル・ポトチュアン)に会った。
彼は、オティリアに頼まれていたお金を貸し、夜自宅で開く母親の誕生パーティーに来て欲しいと告げた。
心ここにあらずといった、オティリアの態度に不信感を露わにするアディ・・・。

オティリアは、今日の‘予約’を確認するため、ガビツァに言われたホテルに向かった。
そこで、そんな予約は入っていないと冷たくあしらわれ、仕方なく別のホテルを探し出して、部屋を取った。
予想外の出費になった。
寮にいるガビツァに電話を入れる。
彼女は、体調がすぐれないらしく、逆に、自分が会う約束をしていた男に会いに行ってくれないかと頼まれる。

・・・事は思ったとおりに運ばれず、とにかくガビツァに教わった待ち合わせ場所に行って、ベベ(ヴラド・イヴァノフ)という男に会うのだが、彼は無愛想な男であった。
代理人が来たと知って、ベベは機嫌が悪い。

ホテルの部屋では、ガビツァが二人を待っていたが、約束が違うと言って、ベベは二人を責めた。
ベべは、声を大にして言った。
 「これからやるのは、違法行為なんだ!妊娠中絶は、ばれたら重罪だ。分かっているのか?」
彼に厳しく詰め寄られ、萎縮するオティリアガビツァだった。
二人はお金が足りないことを言うと、それでは話にならないと、ベべ は帰ろうとした。
このチャンスを逃したら、二度と中絶手術が出来なくなるガビツァは必死になって追いすがった。
その時、オティリアは自らが行動を起こすことに、覚悟を決めたのであった・・・。

この時代、個人の自由など大幅に制限されていた。
ルーマニアでは、中絶が法律で禁止されていた。
1989年以降の自由国家となってからは、中絶が再び合法化され、その結果初年度には100万件もの中絶が実施されたと言われる。
女性は、最低でも三人の子供を産むことを押し付けられ、45歳に満たない女性は、子供を四人産むまでは中絶してはいけないとし、14歳から15歳の中学生にまで出産が奨励されていたのだ。
当時のルーマニアは、工業化に必要な労働力の確保のために、人口を2300万人から3000万人まで増やすことを目的として、この悪名高き政令を施行したのだという。

女性の妊娠については、定期的に職場単位でチェックする係まで、生理が始まった者に対しては、確実に出産したかどうかの調査までなされた。
妊娠チェックにひっかかって、出産しなかった者は、処罰の対象とされたと言うから怖ろしい。
当然、違法中絶には厳しい懲罰刑が科せられ、避妊も禁じられてきていた。
食糧事情が悪いこともあって、結果的にルーマニアでは、孤児や捨て子が大量に発生するという事態まで招いた。

ドラマの中で、オティリアが恋人の男性の母親のパーティーに招かれるが、ここに参加した親戚、知人らのおしゃべりが延々と続くのは、意味がないとも思える。
不安を抱えているオティリアがいらいらするように、観客もまたいらいらするのだ。

すべては、ヒロインであるオティリア(アナマリア・マリンカ)の目線で語られていく。
気がつくと、観客は、いつのまにかヒロインの目線でスクリーンを追っているではないか・・・。
主演の、期待の新人アナマリア・マリンカは好演が際立っている。
この作品が映画初出演(!)で、親友のために奔走する主人公を演じて、この映画がルーマニア初の国際映画祭パルムドールを受賞するのに、大きく貢献したことは言うまでもない。
困難な状況に直面したとき、その局面をいかにして乗り越えるか。
ルーマニア映画4ヶ月、3週と2日は、苦悩の中で勇気ある生き方を実行した若き女性の、社会派サスペンスとも言えるだろうか。

独裁政権下、自由を奪われた社会で、人間らしく生きるということはどういうことなのか。
たった一日の出来事が、女の人生を変えたのだった。
この作品は、絶望に耐え、前向きに強く生きようとする女性に、讃辞を贈っているようだ。
男など頼りにしていない。<女は強し>なのである。


「オリンピックもいいけれど」ー返りて見れば、地獄の暑さかなー

2008-08-14 21:00:00 | 雑感

厳しい残暑が続いている。
毎日、毎日、マスコミは五輪(オリンピック)一辺倒である。
それは、それで、大いに結構、まことに結構jなことで・・・。

しかし、その一方で景気が後退し、刻一刻と、こちらの方は深刻さを増しつつある。
ガソリン代は、190円どころか200円を超えたところも・・・。
それで、大方は、今年の夏の旅行は安・近・短・・・で、財布の紐をしめて、近場でちょいと身体を休めようということになる。
どうやら、それが現実なのだ。

東証一部上場のアーバンコーポレーションが、民事再生法申請に追い込まれた。
驚くなかれ、その負債総額たるや、何と2558億円というではないか。
想像もつかない、大きな数字だ。
今年最大の倒産だそうである。
日本経済の闇は、どこまで深いのだろう。

庶民の生活は、日に日に厳しさを増している。
物価はどんどん上がり、とどまることを知らない。

今年は、夏のボーナスさえ覚束ないサラリーマンは、ビールさえもおちおち飲んでいられない。
生活防衛最優先の夏を、あの手この手で凌いでいるのだ。

国会は、いまだに臨時国会の召集も決まっていないらしい。
景気対策を、早急に打たねばならない時だ。
そのことを分かっていながら、もっともらしいことを言っているばかりで、具体的なことは、まだ何も決まらない。
政府・与党は、1兆円規模の補正予算を臨時国会に提出しようとしている。
それとても、福田改造内閣の、景気対策への姿勢のただのアピールに過ぎないか。
この程度で、大型予算とは何とも情けない。

これまでも、一般庶民は、内閣の政権維持のために、目くらましの策に幾度となく騙されてきたではないか。
今の政権・与党で、選挙で闘っても勝ち目のないこと位は、誰でもわかりきったことだ。
国民の要求は何か。
一日も早い解散、総選挙のはずである。

ところがどっこい、福田政権は、そんな国民の声など全く耳を傾ける気はない。
とにかく、ひたすら政権にしがみつくことしか、頭にはないようだ。

一日たりとも長く、政権にしがみついていたい。
あわよくば、状況が好転するのをじっと待つ。
これが、国民のことを考える政権・与党の姿と言えるだろうか。

世間は甘くない。
いま、政府・与党がどんな手を打とうとも、一度壊れた状況を元に戻すことは容易なことでjはない。
内閣支持率なんて、そう簡単に回復するものではない。

新体制(内閣改造)が発足して、まだ間もない。
麻生幹事長の「ナチス呼ばわりの発言」といい、太田農相の「国民がやかましい発言」など、“暴言”も相次ぎ、国民を愚弄してはいないだろうか。
農相の発言を聞いていて、はっと思った。
「国民がやかましいことを言っている」とは、何事ぞ。
大臣は、消費者ではないのか。何様のつもりだろう。
官尊、民卑の発想で物を言っている。
閣僚の資質が問われるべきだ。
政治家の目線がおかしい。庶民とのあまりの乖離・・・。
国民、消費者の思いを逆なでするような、不遜な態度は相変わらずだ。

消費者重視と言っておきながら、「中国の毒入り餃子被害」を、1ヶ月以上も‘国益’の名の下に隠蔽していたことだって、許しがたいことだ。
バラマキ経済政策も、どれだけ効果があるものか、疑問符が付く。
株価は大幅に下落する。
一方で、値上げラッシュに次ぐラッシュで、庶民は苦しみ、喘いでいる。
ガソリン、食品に続いて、パソコン、自動車が値上げになれば、国民生活の困窮はますますひどくなるばかりだ。

本当に、このままいったら、パソコン教室に通う生徒も減ってしまう。
これから先、一体どうなっていくことか。

国民の声など、もう全く無視されている。(そうとしか思えない。)
政府・与党は、自分たちの保身を考えるのに必死だ。
騙されてはいけない。
世の中、いま先が見えない。
そして、犯罪が横行する・・・。

怖くて選挙さえもやれないと言うなら、政権・与党は下野するのがスジというものだ。
もう、総選挙しかない。
それなのに・・・。
1兆円規模の補正予算をバラまいて、何が出来ると言うのだろうか。
原油高や原材料高で、20兆円もの金が海外に流出してしまっているのだそうだ。
1兆円では、ヤケ石に水では・・・?
自民党政府の失政による罪と罰は、修復できぬほどあまりにも大きく深い。

経済対策の目安は、GDPの1%だというから、50兆円はあるという埋蔵金をこそ使えばいいではないか。
ちょっとやそっとの、しみたれた経済政策では、とても追いつけない。

北京五輪での、日本の「五輪特需」とやらは、平均以下、アテネのときの三分の二程度だという。
これもやはり、物価高による消費者の生活防衛が、最大の要因だろう。
景気対策は、超特大の対策を打ち出さなくて、何の効果があると言うのだろうか。

まことに暑い(!)地獄の“夏”だ。
日本が暑いのは、何も太陽のせいばかりではない(!)。
この“夏”は、まだまだ終わりを告げそうにない。



映画「ダークナイト」ー究極の狂気、凶悪、戦慄!ー

2008-08-12 20:30:00 | 映画
海の向こうのアメリカから、凄まじい(?!)映画が日本にやってきた。
クリストファー・ノーラン監督の、その名も「ダークナイト」だ。
とにかく、凄い‘奴’なのだ。

正義か邪悪か。善か悪か。生か死か。
理由もなく、理屈もなく、ただ退屈を紛らすために、‘極悪非道な犯罪’をおもちゃに遊び狂う男がいる。
平和を蔑み、愛を嘲笑い、破滅してゆく世界を見ることだけに、悦びを感じる男だ。
その男の名は、ジョーカーだ。

白塗りの顔に、耳まで裂けた赤い口、魂をえぐるように鋭く突き刺さる眼差しは、生まれ変わっても忘れられない。
このかつてない、イカれた‘最上級’の悪党が、この映画「ダークナイト」に登場する、バットマン最凶の敵なのだ。


クリストファー・ノーラン監督は、ジョーカーこそは、映画史上で究極の大悪党だと断言する。
彼が犯す罪には目的がない。
目的がない?そんなことってあるのか。
恐るべき破壊者には、そんな自分自身の残忍な性質が楽しくて仕方がない(?!)。
ハデで突飛な存在の、しかも現実味のある悪党が誕生した。

凶悪の主人公に扮するのは、この作品完成後に急逝したヒース・レジャーである。
彼は、セックス・ピストルズのジョニー・ロットンをイメージした衣装で登場し、まるで血管を破裂させているような戦慄の演技を見せる。
そして、作品全編に、異常なまでの高いテンションと、ただならぬ緊張感を漂わせているのだ。

莫大な制作費を注ぎ込み、全編にわたって繰り出される、これはまた度肝を抜く、息つく間もないほどのスーパーアクションの連続である。
次に何が起るか、誰も予測できない。
もう、それは恐怖だ。
しかし、その恐怖がいつの間にか快感に変ることも・・・?
ここは、ジョーカーの誘いの文句につい乗せられてしまいそうだ。
 「狂っちまうぜ、オレといっしょに。こんな世の中は、すべてジョークさ」
・・・お前がわたしを殺すか。私がお前を殺すか・・・。

強盗、殺人、爆破、空中戦、カーチェイスなど、次から次へと展開する、スケールアップされた超絶のアクション・シークエンスが、全編に渡って繰り出されるのである。
これは、本当に凄いのなんのって・・・!
映画館が揺れているような・・・。
ドキドキハラハラで、あっという間の2時間32分だ。

映像は、あくまでもシャープで、感心するほど切れ味は鋭い。
さすが、映画の世界もここまでやるか。
大幅に創りかえられたゴッサム・シティー、生身の肉体がぶつかり合う格闘シーン、容赦なき命のやりとり、二重三重にひっくりかえる展開で、クライマックスが幾度も訪れるような、かなり密度の濃いストーリーと・・・、それらは、人が恐れながらも‘魅了’される“悪”というダークなテーマと、大人が心を奪われるいわゆるエンターテイメントの結合があるのだろう。

ノーラン監督のこの壮大な企みが、ヒーロー・アクション・エンターテイメントに、新たな歴史を刻むというのか。
史上最凶のジョーカー、良くも悪くもとにかく傑出した存在感だ。
映画を観ていて、驚愕の連続で、身体のあちらこちらが本当に(?)痛くなったようだった。

ゴッサム・シティーに、究極の悪が舞い降りた。
ジョーカー(ヒース・レジャー)と名乗り、犯罪こそが最高のジョークだと不敵に笑うその男は、今日も銀行強盗の一味に紛れ込み、彼らを皆殺しにして大金を奪った。
この街を守るのは、バットマン(クリスチャン・ベール)だ。
バットマンは、ジム・ゴードン警部補(ゲイリー・オールドマン)と協力して、マフィアのマネーロンダリング銀行の摘発に成功する。
それでも、日に日に悪にまみれていく街に、一人の救世主が現れる。
新任の地方検事ハービー・デント(アーロン・エッカート)だ。
正義感に溢れるデントは、バットマンを支持し、徹底的に犯罪撲滅を誓う。

資金を絶たれて悩む、マフィアのボスたちの会合の席に、ジョーカーが現れる。
 「オレがバットマンを殺す」
条件は、マフィアの資産の半分だ。
しかし、ジョーカーの真の目的は金ではなかった。
ムカつく正義とやらを叩き潰し、高潔な人間を堕落させ、「世界」が破滅していく様を、特等席でとくと楽しみたいだけのことなのであった。
現金の札束が、ピラミッドのようにうずたかく積み上げられていて、笑いながらそこに平然と火を放つ・・・。

ジョーカーの仕掛ける、生き残りゲームが始まる。
開幕の合図は、「正体を明かさないなら、毎日市民を殺す」という、バットマンへの脅迫だった。
メインイベントは、暗殺のオンパレード・・・。
市警本部長を暗殺し、市長を狙撃するのだが失敗する。
代わりに、市長をかばったゴードンが銃弾に倒れる。
ところが、ハービー・デントは、バットマンは自分だと発表し、ジョーカー逮捕の囮になる。
猛スピードで激走するトレーラーから、バズーカ砲で撃ちまくるジョーカー・・・。
それを、バットポッドで追うバットマン・・・。
とうとう二人は、宿敵同士、正面から向き合った。
一騎打ちの結末は、暗黒の騎士(ダークマン)バットマンの勝ちかと思われた。
しかし、それはジョーカーの用意した、悪のフルコースの始まりに過ぎなかった・・・。

クリストファー・ノーラン監督アメリカ映画「ダークナイトの評価は、大きく別れるだろう。
このスーパー・アクションドラマは、スピーディーな展開と、全編に流れる音楽といい、ひとつひとつのカットの切れ味といい、確かに申し分ない。面白いことは面白い。
ただし、いささか馬鹿馬鹿しい、荒唐無稽な話であることを除けば・・・である。
悪ふざけのギャグとしても、ここまで徹底すると・・・。
まあ、このところの、厳しい暑さぐらいは吹き飛ばしてくれるだろう。