徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

写真展「100人の写真家がみたアフリカの一日」

2007-08-30 08:00:00 | 日々彷徨

 世界最大のスケールで鮮やかに記録された、21世紀のアフリカ大陸と銘打った、注目の写真展だ。
 横浜市栄区のアースプラザで開かれている。
 かながわプラザへ立ち寄ったついでに、覗いて見た。

 ピュリツァー賞の受賞者ら、世界26ヵ国100人のプロ写真家が、アフリカの同じ一日を撮った写真展
 「A DAY IN THE LIFE OF AFRICA」で、これがなかなか見ごたえがあった。
 2002年2月28日(限定)に撮影された、総計5万枚以上の作品の中から、一挙に約200点を公開、
 展示している。
 2500万人にも上る、エイズウイルス感染者がいるという、アフリカに目を向けてもらうのが狙いだ。
 これまで、アフリカ全体で1200万人ものエイズ死亡者が記録され、エイズの蔓延で60万人の子
 供たちが孤児になったという。
 
 「慈悲と絶望」と題するタペストリーは、トム・ストッダートという写真家の撮影だが、ザンビアの首都近
 郊にエイズの蔓延したひどく貧しい村があって、その地で、ポーランド人修道女が、末期のエイズ患者
 たちに尊厳と癒しを与えている。
 ホスピスで暮らすエイズ患者の姿などを、ありのままに写しだしている。

 また、アフリカ大陸第二の大河コンゴ川を行く、すし詰め状態の「リバーボート」という乗り物もすごい。
 一見、集団難民かと見間違えるほどで、日常的になんと数千人もの人々や動物、それに雑貨品を積
 み込んで、3週間から4週間という時間をかけて移動を繰り返しているのだ。
 この巨大な船は、まさに浮いている「村」そのものであり、場であり、ショッピングモールなのだ。
 いやぁ、驚きだ・・・。
 ジャングルの町々と、二つの首都、キンシャサとブラザヒルを結ぶ主要ルートだそうだ。
 パトリック・ロバートという写真家の作品である。
 
 悲しみの底で打ちひしがれている人、しかし一方で生き生きと目を輝かせている子供たちも・・・。
 作品は、豊かな文化や自然、明るく暮らす人々に加えて、それぞれが、忘れてはならない、見過ごすこ
 との出来ない、アフリカの「現実」を写し出していて、大変興味深い。
 私たちには、これらの写真を通して、人間、地形、風習など、信じがたいほどの多様性に満ちたアフリ
 カの姿が、改めて見えてくることだろう。

 アフリカが、植民地時代の圧制がもたらした、さまざまな苦難を乗り越えて、抗しがたい公衆衛生問題
 などにあえぎながら、民主主義と民族自決を求めて、世界に発信する貴重なメッセージといえる。
 それらは、或る種の、美しく深い感動をともなって・・・。

 「アフリカの美」をテーマに活動する、東京都在住の写真家五十嵐太二さんは、タンザニアの山々を空
 から撮影していて、これもまた素晴らしい。
 アメリカ在住のジョン・アイザックさんは、チャド共和国の市場でトマトを売る女性を撮った。
 9月30日(日)には、五十嵐さんとアイザックさんの対談も予定されている。
 9月8日(土)には、ジンバブエ・ショナ族の楽器「ムビラ」の演奏で紙芝居が、また9月16日(日)には
 民族楽器のワークショップも紹介される。

                                        平成19年10月8日まで(10:00~18:00)開催中。
                                         JR本郷台徒歩3分 アースプラザ3階で。入場無料。
                                         < 問い合わせ >  TEL 045-896-2899 

 
 


「エスカレーター」ー油断は禁物ー

2007-08-29 04:30:00 | 寸評

 暑い日盛りの中に、夾竹桃の花が映えて、去りゆく夏を惜しむように降りしきる蝉時雨・・・。
 それでも、朝晩はひんやりとした秋の風を感じるようになった。晩夏である。
 
 その駅のエスカレーターは、いつものように順調に動いていた。
 今日も、多くの人たちが利用していた。
 エスカレーターは、上りも下りも共に二列に並ぶことができるわけだが、左側コース(普通)、右側コー
 ス(特急)と分かれているようだ。
 このルール(?)、一体誰が決めたのか知らない。
 上りエスカレーターの左側は、上から下まで切れ目なく人の列が続いていたが、、右側は空いていて、
 左側の人たちを追い越して駆け上がっていく人たちがいる。
 この右空けルール(?)が、マナーというのか、慣習というのか、いつのまにか定着してしまった。
 ところが、いまだにこのことをよく知らない人もいる。
 このルール(?)を知らない老婦人が、動いているエスカレーターの右側にぽつんと立ち止まっていた。
 そこへ、その右側コースを急ぎ足で上ってきた青年がいた。
 青年は、前がつかえて足止めされるかたちになった。老婦人は、気がついていない。
  「どいて下さい」とは言えない。
 たとえ言われても、その老婦人は身をよける場所がない。
 青年は、仕方なく待つことにした。エスカレーターは動いている。
 その時、左列(普通コース)にいた中年の女性が、何の弾みか、足を踏み外して転倒しそうになった。
  「あっ、危ない!」
 右列で、前がつかえて足止めされていた青年が、叫んだ。
 と、ほとんど同時に、左列のすぐ後ろにいた男性が、その中年の女性をうまく抱きかかえるようにした
 ので、彼女は転倒もせずに、よろめいただけですんだ。
 女性は、両手に大きな荷物をかかえていた。
 一瞬の機転で、女性を転倒から救った男性は言った。
  「大丈夫ですか」
  「御免なさい、すいません。有難うございました」
 彼女は、少し青ざめた顔で頭をさげた。
  「ああよかった」
 その男性のすぐ後ろにいた私も、右側にいた青年も、思わずほっとした。
 エスカレーターは降りるところに着いて、私たちも、何事もなかったように、エスカレーターを降りた。
 ほんの、数秒間の出来事だった。
 
 この時、中年女性のすぐ後ろにいた男性が、転倒しかけた彼女を支えきれなかったら、その後ろにいた
 私は、どうなっただろう。
 その男性が、女性を支えられずに弾みででよろめいたら、私もまたあおりを受けて、自分の後ろの人に
 ぶつかり、多分列の下の方の人まで将棋倒しになったかもしれない。
 そう思うとぞっとした。
 それに、それは状況から見て十分起こりうることだった。
 それが、大事に至らなかったのは幸いであった・・・。
 
 何も、エスカレーター本体の故障に限ったことではない。
 事故は、自分の不注意でだって起きる。自ら気をつける必要があるという教訓だ。
 ひょっとした弾みで、いつでも起こりうることだ。
 もしかして、一歩前に足を上げようとして、その足が上がらず、躓く(つまづく)なんていうことも・・・。
 

 エスカレーターの、空いている方の右側コースを普段からすいすい歩行し慣れている人も、勿論左側に
 立ち止まっている人も、要注意だ。
 右側コースの人は、一分一秒を争って(?)、急ぎ足で上り降りするわけだ。
 これは、皆が結構やっている。大きな声では言えないが、自分にも経験がある。
 つい右側に立ち停まることになっても、後ろから急(せ)かされているみたいでやってしまう・・・。
 ただ、ラッシュ時などに、急ぎの利用者のために、片側を空ける配慮を良き慣習だという側面は、勿論
 問題がないわけではない。
 とくに、エスカレーターの左側(普通コース)に並び損ねた高齢者が、やむを得ず右側(特急コース)をゆ
 っくり歩いている姿は、後ろから追われているように見えてつらい。

 このことは、駅に限らず、デパート、スーパーでも言えることである。
 或るデパートでは、エスカレーターでの歩行は大変危険だから、二列に並んで立ち止まって乗るように
 呼びかけているそうだ。
 本当は、その方が望ましいにきまっている。
 急ぐ人の気持ちも分からないではないが、右側を追い越されて、怖い思いをした人も多いことだろう。
 利用客の重大な転倒事故の防止のために、商業ビルや鉄道各社には、早急な安全対策を望みたい。

 事故が起きてからでは遅い。
 エスカレーターには、見えない危険がひそんでいる。
 気をつけたい。
  ・・・「逸る(はやる)心のエスカレート」・・・
 
 

 
 
 

 
  


「怪談」と「薬指の標本」ー映画新旧二作ー

2007-08-25 06:00:00 | 日々彷徨

 朝晩は、秋の風を感じるようになったが、残暑もまだ当分は続きそうだ。
 猛暑を逃れたいのと、この映画の二作については、原作をどう映像化したかに関心をもっていた。
 作品の評価は別として、やはり映画は映画館でと、日本映画とフランス映画の新旧二作を鑑賞した。

 炎暑の日だったこともあって、実は、身も心も凍えるような戦慄の恐怖を期待したのだったが・・・。
 昔、新東宝映画で見たときは、子供心もあって、夜も眠られぬほどの、もっと凄まじい怖さがあった。
 映画「怪談」は、おなじみ三遊亭円朝の、安政6年の名作古典落語「真景累ケ淵」が原作だ。
 円朝作としては、中国の「剪灯新話」からとった、怪談「牡丹灯籠」と共に並び称される。
 実際に演じると8時間はかかる物語の「真景累ケ淵」は、その美味しいところだけを取り込んで、「怪談」
 として現代に再現した。
 歌舞伎では二世竹芝金作、新派では木村錦花という人の脚色で、劇化上演されたのが初めてらしい。
 
 ・・・親子三代の怨念を描く物語にしては、この映画「怪談」はさほどの恐怖感を感じさせなかった。
 親を殺された娘と、殺した男の息子という二人が、運命の糸にあやつられるように、しんしんと雪の降る
 夜に結ばれる。そこから、この怖ろしい物語は始まるのだ。
 中田秀夫監督は、まことに<身の凍るような>凄絶な美しい映像を見せてくれる。
 ことに、台詞の無いシーンでの、ぞくぞくするような映像美は圧巻で、特筆物と言ってもいいだろう。
 円朝の作品といえば、今でも脚本家になりたければ、シェイクスピアと三遊亭円朝を必読せよと言われ
 るほどのヒットメーカーだったそうだ。
 「怪談」は、猛暑を吹きとばすには、迫力の点でいささか不満の残る作品であった。
 ただ、主題歌を歌っているのが、人気女性シンガーの浜崎あゆみだったとは、サプライズであった。

 
 一方、フランス映画「薬指の標本」は、芥川賞作家小川洋子原作をフランスのディアーヌ・ベルトラン監
 督が、日本の文学小説を外国で映画化したことが、大変興味深い。
 小川洋子は、どの小説でも、まずは場所と手がかりとなる事実のみから始めて、空間がはっきりしたと
 ころで人物を登場させる。
 そして、物事や肉体を決して分析するのではなく、ほとんど無感情に観察する。
 こうした作者の作品の意図をくみとって、ヒロインの経験する出来事のすべてを、彼女の肉体を通して
 描いた。
 
 「薬指の標本」は、人間の底の知れない欲望を、あまりにもひそやかで、奇妙な二人の愛のかたちを
 通して描かれている。原作にこれほど忠実な映画も珍しい。
 この映画は、いかにもフランス映画らしい、小気味のきいた佳作と言えそうだ。
 主役は、演技経験のないウクライナ出身のモデル、オルガ・キュリレンコという女性で、見知らぬ世界
 へ戸惑いながら、足を踏み入れてゆく主人公を演じ、無垢と成熟とを併せ持つ、生身の女の存在感を
 感じさせてとてもよかった。
 この映画の公開は去年のことで、まあ旧作ということになるが、これまで見る機会がなかった。
 原作の小川洋子は、「博士の愛した数式」も日本で映画化され、好評だったようだ。
 この人も、平成3年「妊娠カレンダー」で芥川賞デビュー以来、数々の賞を受賞し、翻訳された作品も多
 く、海外での評価も高い、不思議な魅力をもつ作家の一人である。


    * * * 閑 話 休 題 * * *
 映画館で、上映中に隣同士でお喋りをしている人たちがいました。
 さすがに、携帯電話の電源だけは、切っているいるようで・・・。
 上映の前に、どこでも「周囲のお客様の御迷惑にならないようにお願いします」と言っています。
 それでも、前の席でくちゃくちゃ飲食をしている御婦人もいらっしゃった。
 紙の袋やビニール袋を、がさごそがさごそさせて、とにかくいつまでたっても終わらないのです。
 これって、家庭で、DVDでも見ている感覚なのでしょうか。常識は・・・?
 とくに、心理劇的な場面や、サスペンスに満ちた場面、静謐なシーンなどのときは、不快に感じること
 があります。
 上映が終わって、館内が明るくなったとき、思わず、前のご婦人の顔を見てしまいました。
 おや、まあ・・・!
 ファッショナブルな衣装のよく似合う、なんとも気品の感じられる、妙齢の御婦人でした。
 ああ、と・・・深いため息とともに、ある失望感が、脳裡をよぎりました・・・。
 いつでしたか、或る映画館では、男性が、少し静かにするようにと、注意していました。
 
 
 

 


騙し、騙されー「羊頭狗肉」ー

2007-08-22 18:00:00 | 寸評

 残暑が、また猛暑となって戻ってきた。
 冷房のよくきいた、大手スーパーの食品売り場で、若い夫婦の会話だ。
  「国産の牛肉なら大丈夫さ」
  「あら、国産だって怪しいものよ。本当に国産かどうか」
  「じゃあ、どうすればいいんだ。何を信じればいいんだ?」
  「それもそうなのよねえ」
  「やっぱ、俺たちはさ、最後は表示に頼るしかねえなあ」
  「その表示にだって、賞味期限やなんかごまかしがあるんだから・・・」
  「おいおい、冗談じゃねえぜ。いい加減にしてくれよ」
 ・・・巷のあちらからもこちらからも、怒りの悲鳴が聞こえてくる。

 あの不二家の不祥事から、ミートホープの偽装事件、そして「白い恋人」よ、お前もか。
 何故、騙したのだ・・・?
 発覚しなかったら、最後まで騙し続けるつもりだったのか。そんな下心があったのか。
 ため息が出てくる。
 ひと昔もふた昔も前、幾度かお世話になったことがある。
 フランシス・レイの音楽と映画「白い恋人たち」・・・。
 それにあやかった、白いチョコレートに、想い出のある人は多いだろう。
 それが、ふたを開けてみたら、「黒い恋人」だったというわけだ。
 アイスキャンディーからは大腸菌、バウムクーヘンからブドウ球菌も・・・。
 
 伊勢に、三百年の伝統をもつ「赤福の餅」がある。今でも、人々に愛されている。
 「赤福」は、絶対にごまかすことのできない、「製造日限りの、その日だけの販売」だと言うではない
 か。立派なことである。
 ブランド商品とは、並々ならぬ努力で、それほどまでして伝統を作り上げてきているのだ・・・。

 賞味期限の問題だけではない。
 或るメディアによると、国内でスーパーなどで販売されている、数百種類の商品名を実際に挙げて、有
 機農薬の物質や、わけの分からぬ混入物が、多量に含まれていると警告している。
 その食品は、魚、肉、野菜、果物等あらゆる加工食品のほとんどに及ぶ。
 ウーロン茶も、マンゴーもだそうだ。枚挙にいとまがない。
 中国産(東南アジア産)もアメリカ産も危ない。それどころか、日本産が本物かどうか怪しくなってきた。
 製品の表示が改ざんされ、中身が偽造されていたのでは、何も分からないではないか。
 看板に偽りあり、羊頭狗肉とはこのことだ。
 一般の消費者には、それを、容易に見破ることなんて出来やしない。
 調理人や販売員さえも知らないで、平然とまかり通っている。それが、現実のようだ。
 勿論すべてのとは言わないが、生産者、製作者が、それこそまこと秘めやかに、偽造、捏造、改ざんを
 繰り返し、長い間にわたって、消費者を欺いてきたのだ。
 報道されているのは、ほんの氷山の一角だ。きっとまだあるに違いない。
 誰もが思っている。
 ・・・毎日毎日、何を買わされ、何を食べさせられているのだろう。
 スーパーも生協も、デパートまでも、残念ながら100%信用できるとは言えない。

 最近、中国製の子供服から、発がん性物質が見つかった。これも、ゆゆしき問題だ。
 日常の、生活自体の何もかもが脅かされている。
 以前、牛肉と称される肉に、中国の犬、もしくは犬に似た動物の肉が混ざっていると言う、衝撃的な噂
 が一部に流れたが、まさかとは思うけれど、どうだったのか。

 肉より魚と、美味しい刺身でも食べたいと思うと・・・。
 ところが、刺身(さしみ)という表示は、「そのまま食べられる」と言う意味で、他に何も入っていないと言
 う意味ではないそうだ。
 それは、例えば、日持ちや味を良くするために、マグロのぶつや切り落としに油脂や添加物が入ってい
 たり、イカそうめんに環元水あめが使われていたりする商品もあると言われる。
 このことも、必ず表示されていないといけない。
 安かろう、うまかろうですまない。値段が高いからいいとも限らない。いろいろチェックしないと、大変だ。
 インチキ食品には騙されるな、ということだ。。
 真贋を確かめる、究極の術(すべ)はないものだろうか。

 チョコレートを好きな人は多いだろう。
 美味しいので、つい手が出そうになるが、気をつけないといけない。
 賞味期限ばかりでなく、勿論メタボリックも・・・。

 もともと、北海道地区だけの限定販売の「白い恋人」は、店頭から姿を消した。
 別離の時は突然やってきた。
 ところが、おかしなもので、手に入らないとなると欲しくなるらしい。
 ネットオークションで、定価の4倍の高値で、いま人気急上昇中とは・・・!
 愛してくれた多くの人たちを裏切った、そのツケは大きい。
 「白い恋人」との「再会」のメドはたっていない。
 黒い影だけを残して去っていった、裏切り者の「恋人」に呼びかける・・・。
  「 北の国の裏切り者め、白い恋人よ、さらばだ・・・。
   禊(みそぎ)を済ませて、またいつの日か、戻って来い。(俺は) 待ってるぜ 」

 


 

 
 
 
 

 


 


「品格」って・・・?

2007-08-18 09:00:00 | 寸評

 すさまじい猛暑のあとに、雷鳴と夕立があって、今朝方の冷やりとした風に秋を感じました。
 立秋を過ぎて大分たちますが、これで秋に向かうのでしょうか。
 ・・・ところで、最近、政治家や力士の「品格」があれこれ言われているようですが、「品格ある著名人ラ
 ンキング」というのがあるらしいのです。
 それによるとですね、こういう結果だったそうです。

 男性部門では、米大リーグ、シアトル・マリナーズのイチロー選手が、第1位に選ばれたそうです。
 「品格」ですよ、「品格」・・・。驚きますね。
 彼の「実力、行動、言動」どれひとつをとっても、模範となるんだそうです。
 「模範」ですか。
 ふむ、ふむ・・・。なるほど、そうですか。
 「模範」と「品格」と・・・はて?
 ・・・まあ、その努力と実績を兼ね備えた点が、審査員(?)の高い評価を得たのではないかと言われ
 ていますけれど・・・。

 「品格」の意味を国語辞典でひくと、「気品のあること。品位。どことなく、その人に備わっている品位」と
 あります。
 それで、「気品」をひいてみると、「人間の顔、容姿などについて感じられる崇高な美。それとなく感じら
 れる上品なおもむき」とありました。
 べつに、四角四面ぶって言うつもりはないのですが・・・「品格」の意味たるや、いやあ、すごいですね。

 ちなみに、女性部門では、第1位は女優の吉永小百合さんといえば、納得できるでしょうか。
 日本女性の「鑑(かがみ)」とも評されて、「あのように年齢を重ねたい」といったような理由があげられ
 たそうです。
 なるほど、分かるような気もします。
 でも他にも、頭の回転のよさ、世の中を良く知っていて、いつもよく勉強している、或る知識人のあの方
 の名(?)もあがったそうです。

 どうでもいいと言えばどうでもいいのですが、男性の第2位は、渡哲也だったそうで・・・。
 あとは、よく存じません。
 
 もちろん、これは暇つぶしの、遊び心のスター人気投票(好感度投票?)というわけでありましょう・・・。
 ただし、人気=品格ではないことは確かなことのようで・・・。
 では、「品格ある政治家さん」は、どこにいるのでしょうか?
 なお、「品格ある著名人」・・・この調査をした、調査機関の「品格」については詳細不明です・・・。

 


「我一粒の麦とならん」ー生命を賭ける男ー

2007-08-14 06:00:00 | 寸評

 先日の参議院選挙で、民主党比例区の最後に滑り込んだ人がいる。
 末期がん患者山本孝史氏(58)である。
 その山本孝史、ゆき夫妻の最近の手記を読んだ。

 山本氏は、44歳の時初めて国会へ立候補し、これまで福祉政策を中心に活動してきた。
 その彼が、去年5月みずから国会で、周囲が驚く中で、胸腺がんの末期であることを告白した。
 そして、国会では「がん対策基本法」「自殺対策防止法」など法案の成立にも寄与した。
  「天から与えられた出番を大切にして、6年は無理かもしれないが、命あるかぎり仕事をしたい」
 今回の選挙に出て、彼はそう言って、弱い人たちへの優しさを自らに課した。
 立候補には、異論もあっただろう。

 ・・・医師の非情な宣告は、「余命半年」ということであった。
 いま、余命あと半年の生命に、いのちを見つめる「いのちの政策」として、それを、やれるところまで精
 一杯やる。この生命ある限り・・・。
 抗がん剤治療で生み出された、少ない時間をいかに使うか。彼に出来ることは・・・?
 それが、彼に残された人生の一頁だった。

 山本氏は、交通遺児育英会の仕事をはじめ、年金問題にも積極的に取り組んだ。
 昭和48年、「ユックリズム運動」で、自転車で日本を一周したのは、彼の青春時代のひとつの世直
 し運動でもあった。
 そして、それはお金のかからない選挙へのきっかっけともなっていった。

  「我一粒の麦とならん」
 これが、彼の座右の銘である。
  「一日一生、一日一善、一日一仕事」
 この言葉で、一日が始まる。
 いのちをかけて、いのちを守る。
 これまでも、ずっと日本の医療制度の見直しを推し進めて来た、彼の信念に変わりはない。

 ・・・山本氏は、自身の母を61歳で乳がんで亡くしている。
 彼は、がんイコールリタイアではなく、がんイコール挑戦だと言う。
 政治家が、自分の病気を告白するなど、「政治生命の危機」と言われることを、彼はあえて公表した。
 いい加減な政治家(いや政治屋というか)の多い中で、自らの生命を賭けて闘う彼の姿がある。
 いま山本氏の周辺には、ボランティアの人たちが、大きな支援の輪を広げつつあるという。

  「あなたの余命は、半年です」
 そう宣告されたら、人は、何を思い、何をするだろう。
 簡単に一口で言うが、生命を賭けるということが、どんなに重いことか。
 
 本人の健康を気遣う多くの人々は、彼に療養生活をすすめた。
 しかし、彼の選択した道は、病院のベッドでもなく、家族と穏やかに過ごす日々でもなく、自分に課せら
 れた、政治家としての使命を全うする道であった。
  「誰もが人間らしく生き、普通に暮らせる社会を!」
 生命を賭けた男の闘いが始まった。
 山本氏は、週一回抗がん剤の投与を続けながら、休むことなく政治活動を行っている。

 多くの人たちが、凄まじいまでの彼の活動と生き様を、見守っている。
 そして、毅然としてその宿命を受け入れ、共に生きようと頑張っているゆき夫人(56)との二人三脚で、
 山本孝史夫妻は、限りあるいまの人生を、必死の思いで生き続けていくことだろう。
 ときには、手放すことの無い、あの可憐な野の花を思わせる、金子みすずの詩集を愛読しながら・・・。

 偉大な政治家の一人が、後世に残した素晴らしい言葉がここにある。
  「社会に対して、何を望むかではなく、自分が、社会に何を奉仕できるかを考えるべきである」
                            ( アメリカ合衆国第三十五代大統領 J・F・ケネディ )

 

 
 
 

 
 


朝青龍の「毀誉褒貶」に思う

2007-08-10 06:00:00 | 寸評

 横綱朝青龍が苦悶(?)して、赤子のように泣いている。
 仮病であれ、何であれ、ちょっとした身勝手な行動が、今回のような事態にまで発展してしまった。
 「日本武道」をどこまで分っているのだろうか。
 柔道でも剣道でも、武道の精神にのっとって、礼儀正しい作法があって、試合をし、勝負する。
 相撲は、強ければ、それでいいのか。
 今回の相撲協会の処分は、当然のことと思える。
 朝青龍は、以前から、横綱としての品格にいろいろと問題があった。
 あるまじき言動も多々あった。
 土俵では、ぷいと感情むきだしになって、自分が勝っているのに、相手を痛めつけんばかりに手を出し
 たりする。
 制限時間になって、塩を取るとき、左腕をしならせて、回しをたたく。
 相撲の王者が、これである。モンゴルの相撲はこうなのだろうか。

 「礼に始まり、礼に終わる」日本武道の精神が、どこかですすり泣いている・・・。
 彼は、日本文化の伝統を知っているのか、いないのか。
 誰も教えないのか、学ばないのか。
 そして、それでいいのか。
 一人横綱を、三年半もつとめた「英雄」が、土俵を湧かせていたことは、十分納得できる。
 ところが、今度のことで、心の中の驕りというか、それ以前に精神的にあまりにも未熟で幼いことが、は
 からずも露呈した。
 だからといって、「王者」にいたずらな同情は禁物だろう。
 このぐらいのことは、跳ね除けてゆくくらいの堂々とした横綱であってほしい。

 二十六歳の若者といえば、誰であろうと、人間として未熟なのはあたりまえだ。
 その「お山の大将」が男泣きしている。
 「心・技・体」とか「横綱の品格」とか言ったとて、それをいまの彼に求めるのは酷である。
 何かあれば泣いたり喚いたり、要するに、まだまだやんちゃ坊やではないか。
 でも、「横綱」は、少なくとも「横綱」らしく、心身共に強くあらねばならない。
 相撲部屋というところは、相撲の取り組み方だけしか教えないのだろうか。
 お相撲さんの師弟関係って、どうなっているんだろう?
 
 或る人は、朝青龍を大相撲の宝だと言う。
 しかし、これはちょっと別のはなしだが、ついこの間まで、大新聞こそ小さくしか報じなかったが、或る
 雑誌が、彼のきなくさい八百長事件を数回にわたってキャンペーンをはり、その記事の真偽をめぐって
 今裁判で係争中だ。
 これもまた、聞き捨てに出来ない話である。
 全勝を果たすために、他の力士(一部?)から、星を金で買ったと言われる、あの話だ。
 取材陣は、多くの疑惑にかかわる証言と写真などに自身を持っていると言い、相撲協会側は、事実無
 根だと反論に躍起となっていて、真相はいまだ闇の中である・・・。
 本当のところどうなのだろう。
 火の無いところに煙が立つのだろうか。

 それはともかくとして、朝青龍の強さは誰もが認めるところだ。
 しかし、いま人間横綱の、精神的な強靭さこそ必要だ。
 朝青龍に対して、年内本場所の出場停止処分が決まった以上、処分は処分として、それに沿った、本
 人の意思も十分考慮した上での対策こそが望まれる。
 彼の母親は、日ごろ息子にこう言っているそうだ。
  「その国の水を飲んだら、その国の習慣に従うのだよ」
 彼は、精神状態が不安定のさなかで、
  「俺は、おふくろの料理が食べたい」と、しきりに周辺にもらしている。
 
 朝青龍は、その勝負強さと裏腹に、精神的なあまりにも弱さ、脆さを、「急性ストレス障害」「神経衰弱」
 とか「鬱病」の一歩手前だとか言われているけれど、この際、自身の身の振り方も含め、異論もあろう
 が、一度祖国へ帰って、ゆっくりしてはどうなのだろう。
 処分を下したあとの、協会側の対応がぎくしゃくしてすっきりしないし、師匠の高砂親方もただあたふた
 するばかりで見苦しい。
 本人が嫌だと言っているのに、無理に入院させようとしたり・・・。
 協会側も、帰国なら即「引退」だとは、またずいぶんと飛躍しすぎでは・・・。
 相撲協会というところは、どうも、理知的に物事を判断出来る人が少ないように思えてならない。
 ともあれ、相撲協会には、大相撲の真の人気は勿論のこと、協会自体の格式、品格をも取り戻して、
 今後も日本の国技について、節度ある対応を求めていきたいものです。

 横綱朝青龍よ、何処へ行く・・・?

 

 


 
 
 
 


「北の宿から」ー作詞家阿久悠さん逝くー

2007-08-05 05:00:59 | 寸評

     あなた変わりは ないですか
        日毎寒さが つのります
        着てはもらえぬ セーターを
        寒さこらえて 編んでます
        女心の 未練でしょう
        あなた恋しい 北の宿 
            ( 昭和50年レコード大賞受賞  
              作詞阿久悠・作曲小林亜星 )

 この「北の宿から」の歌詞の女性は、どうして「着てはもらえぬセーターを編んでるのですか」と、音楽
 担当の記者が、阿久悠さんに聞いたそうである。
 阿久悠さんは、その時即座に説明してくれたと言う。
 女性は30歳過ぎで、東京で不倫して、信州あたりの温泉宿に、ひっそりと暮らしている・・・。
 そんな映像が、阿久悠さんの中では、きっちりと出来上がっていたと言われる。
 この歌、間違いなく、日本歌謡史に残る、数ある代表作のひとつであろう。
 この歌に関わる、古い想い出がよみがえってくる。
 もう30年以上も前の、忘れかけていた、色あせた小さな記憶である。
 その話は後にゆずるとして・・・。

 昭和を代表する、歌謡界の大御所阿久悠さんが逝った。
 文字通り、「昭和」という時代を、五千曲を超える歌の数々で紡いだ、とてつもなく大きな人であった。

 阿久悠さんは、歌手都はるみが、鳴かず飛ばずで低迷していた時に、彼女の第二のスタートのために
 この歌を書いた。
 最初、「北の宿から」は、たいそう威勢のよい女のイメージの歌詞だった。
 それを、彼女は、自分のイメージを壊したいからと、待つ身の女のイメージに書き直してくれるように、
 阿久悠さんに頼んだという経緯がある。
 こうして出来上がった「北の宿から」は、都はるみの大ヒットとなり、その年のレコード大賞を受賞して
 しまった。

 一口に五千曲というが、これもすごいことだ。
 そのジャンル、レパートリーの広さは勿論、多くのアイドルやトップスターを世に送り出した。
 まさに百花繚乱、一世を風靡した時期もあった。
 さらに、彼は作詞の他に、小説も書いて横溝正史賞を取り、直木賞の候補に挙がったこともある。
 旺盛な創作活動を続けて40年・・・。

 「北の宿から」のレコードの発売は、昭和50年12月であった。
 その翌年の昭和51年冬、私は、吹きすさぶ雪の日本海を見ながら、北陸本線を西へ向かっていた。
 世に言う「自分探し」の孤独な一人旅であった。だから、初めから宿などは決めていなかった。
 夜が訪れてきて、雪も激しくなって、ひなびた山間の小さな温泉宿に投宿した・・・。

 一風呂浴びて、炬燵にあたりながら、どういうわけか、宿の玄関先で逢った女と酒を飲んでいた。
 勿論、名前も知らない。しかし、女は旅の女ではなかった。
 これを、行きずりの縁というのか。
 そこで、二人がどんな話をしたのか、今となっては、詳しいことまでは想いだせない。
 ちびちびと地酒を酌み交わしていると、その時、つけっぱなしのテレビから、都はるみの歌う「北の宿か
 ら」が聞こえてきたのだった・・・。
      
   ・・・あなた変わりは ないですか
        日毎寒さが つのります・・・

 (この歌詞の女性のイメージについて、阿久悠さんが取材記者に話したことを、この時の私はまだ知ら
 なかった。後年それを知って、昔のことを思い出したのである。)

 女は、テレビに見入っていた。その目に、気のせいか涙のようなものが光って見えた。
 私は、どうかしたんですか、と言おうとしてやめた。
 その時、歌に耳を傾けていた女が、ぽつりと重い口を開いた。
  「あたし、泣き上戸なんです」
 そう言って、目頭をおさえて、
  「都はるみよね。いい歌よね、この歌」
  「いい歌だね」
  「あたし、この歌、好きなんです」
 うなずきながら、何となく、無口になっていた。
 女は、暗い、空ろな眼差しで、何かをしきりに想い出そうとしているように見えた。
 襟足から首にかけて、やけに細く白いのが印象的だった。
  「一人旅の夜なんて、寂しくありません?」
  「うん、まあね・・・」
 酌をする手が、弾みでふれた。小さな、冷たい女の手であった。
 女が、かすかに笑った。薄い影のある、淋しそうな微笑だった。
 どこか、身体の具合でもわるいのではないかと思われた。
 二人の会話はややぎごちなく、ともすればとぎれとぎれになった。
 きっと、この女性の身の上には、深い事情があるに違いないと、ふとその時思った。

 阿久悠さんの思い描いた女性は、ひょっとしてこういう女性ではなかったのか。
 ・・・今回、阿久悠さんの訃報に接し、この歌が流れてくるのを聴いて、さらに今その思いを強くした。
 
 雪見障子の向こうに、夜の雪が間断なく降りしきっていた。
 女は、テレビに目をやりながら、時々何か想いにふけるようであった。
 都はるみの歌が終わった。
 少しの間、不思議な沈黙が流れた・・・。
 女がそっと立っていって、窓の外を見て、
  「今夜は、積もりそうだわ。冷えてきたわね」
 そう呟いて、ふうっと吐息を漏らした。
 その、あまりにも細い、痩せた背中が、女の身の上を語っているようで、旅の疲れと相まって、私のか
 なしみは深まるばかりだった・・・。
 ・・・雪が、しんしんと降る夜のことであった。

 「北の宿から」を書いた、阿久悠さんの心情は、分るような気がする。
 この歌が大ヒットしたのは、私が自分の記憶の中のこの「北の宿」に身を寄せた、昭和51年(1976
 年)のことだった。
 この年、田中角栄元首相が、ロッキード事件で東京地方検察庁に逮捕された。

 歌に歴史あり・・・。
 「UFO」を踊り、「宇宙戦艦ヤマト」に勇気づけられ、「北の宿から」で酒に酔い、「雨の慕情」に涙した、
 ひとつの確かな青春があった・・・。
 阿久悠さんの歌は、それはまた、その世代を生きた人たちの心に刻み込まれた、魂のフレーズ(歌詞)
 だった。
 歌には、その歌詞やメロディーから、いろいろな形で人々の夢をふくらませる、不思議な魅力がある。
 歌は小さな物語、三分間のドラマだと言う。
 強力なライバルであった、作家なかにし礼氏は言っている。
  「彼の持つ、古き良き日本人の感性が、大衆の心に共鳴して、多くの曲を残し、あれだけのヒットにつ
  ながったのでしょう」

 8月3日(金)夜、NHK総合テレビは、いち早く特別追悼番組を1時間半にわたって放送した。
 昭和史を髣髴とさせる構成で、歌のひとつひとつに、その時代の出来事のひとこまひとこまが、あらた
 めてよみがえってきて、楽しませてくれた。

 阿久悠さん、沢山の想い出を有難う。
 ご冥福をお祈りします。 享年70歳。 合掌。 
 

  
 
 
 
 
 
 




  


「人心一新」ーお友達クラブー

2007-08-02 04:50:11 | 寸評

 通称「お友達クラブ」とは、言わずもがな別名「仲良しクラブ」「仲良し官邸団」とも言われる。
 正式には、「安倍内閣」と言うのだそうである。

 姫の虎退治など、今回の参議院選挙はいくつもの波乱を巻き起こした。
 自民大敗、民主圧勝の結果を見て、民の声は天まで届いたのだろうか。
 安倍総理は、人心の一新をはかり、新しい人事で、内閣改造を行うという。
 「人心の一新」と言っても、将軍様は別なのだ。それでも、「人心の一新」・・・?
 まず、最高責任者が責任を取ることが、世間の常識では・・・?
 頭が代わらないで、すべてが一新されるのだろうか。何も変わらないのではないのか。
 もし、そうだとすれば・・・?
 しかも、選挙後の内閣不支持は60%と言うから、これは、もう「死に体」ではないか。
 国民の信任とは何だろう。有権者とは何だろう。
 政権選択の選挙ではないというのなら、いっそ衆議院を解散して、この際総選挙で、本当の意味での
 民意を問うて見たらいい。
 国民は、「選挙」でしか自分の意思を表明出来ない。
 民意とは、民の声・・・。この国の将軍様は、民の声をどう聞いたのだろう。

 安倍総理は、繰り返し語っている。
  「私の基本政策は、多くの国民に理解されており、間違っていない」
 それなら、参議院選挙での、国民の不信の声は何なのだろうか。
 総理大臣の言葉を聴いていると、どうも、民意との「乖離」を強く感じ、空しくてならない。
 世論調査では、有権者の56%は、総理の辞任を求めている。
 これが、民の声なのだから。
 
 自民党の大敗は、大体予想出来たことだが、こんなにひどいとは・・・。
 かばい合いの「お友達」が、今度は将軍様をかばって、なんだか不気味に沈黙しているように見える。
 或る評論家がこう言っている。
  「政治が、あまりにも稚拙だ」
  「仲良しクラブの学芸会は、もう終わりにしてはどうか」等等・・・。
 
 これから先、目の離せない、さらなる波乱の展開が予想される。
 自民党の建て直しと、民主党の天下取りと・・・。
 臨時国会は、7日から開かれる。