徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「あいときぼうのまち」―原発再稼働反対の声どこ吹く風だが―

2014-11-29 17:00:00 | 映画


 日本の原子力政策に翻弄された、四世代一家族の12年間にわたる物語が綴られる。
 福島県出身の菅乃廣監督にとって、この作品が監督ビュー作である。
 20数年前、死が迫っている父親が、自分の奇病は、昔、原発で浴びた放射能が原因かもしれないと呟いたひとことが、いつか原発について描こうと思っていた菅乃監督の心を揺り動かしたのだった。
 菅乃監督は、3.11でその思いを新たにする。
 監督自身が流した汗と涙で、この映画は作られた。
 脚本「戦争と一人の女」(13年)で監督デビューを果たした井上淳一で、四世代にわたる家族の軌跡を錯綜させ、交錯させ、ラストに奇跡の収斂をもたらすシナリオには、震災からたった3年で忘れ去られようとしている(?)福島の怒りが、静かにたぎっている。

 この作品は、他の3.11映画とは明確に一線を画している。
 ・・・怒りを込めて、振り返れ、という。
 菅乃廣監督渾身の力を込めて描く、鎮魂のドラマである。


敗戦間近い1945年、福島県石川町の山奥で、天然ウランの採掘が行われていた。
このことを知る人はあまりいない。
ウランは、もちろん原子爆弾を作るためのものだが、その採掘は学徒動員の中学生によってなされていた。
しかし5月の空襲で、原爆を研究する早稲田の理化学研究所が焼け、計画は事実上頓挫した。
それでも彼らは、敗戦まで来る日も来る日もウランを掘り続けた。
自分たちが、何を探しているのかを知らぬままに・・・。

東京オリンピックの2年後の1966年(昭和41年)、福島県双葉町は原発建設をめぐって揺れていた。
建設派と反対派に町が二分され、揉めていたのだ。
反対派の理由は、原発が危険だからというのではなく、住んでいる土地を奪われたくないからだった。
やがて、反対派も、昔のように出稼ぎのいく必要がなくなるからという説得に応じ、徐々に賛成派へと転じていった。
少年時代からウラン採掘をしていて大人になった草野英雄(沖正人)は、最後まで反対していて村八分にされる。
彼は、どうしても原発建設に賛成できず、町の家族からも孤立し、家族はバラバラになっていく。

2011年、その娘西山愛子(夏樹陽子)は、小さいながらも幸せな家庭を作り、還暦を迎えていた。
そこに現れる少女時代の恋人奥村健次(勝野洋)は、原発労働者だった息子を失ったばかりだった。
愛子は、男の心の穴を埋めるために身体を投げ出すが、やがてそれは孫娘の知るところとなる。
孫娘は、あのときどうしてもそれを許すことができなかった。
そのことが、悲劇を招いた。

そして2011年3月11日・・・。
津波で祖母を失った少女は、それを自分のせいだと思い込み、自らを傷つける。
世間が3.11を忘れても、少女は忘れることができない。
少女は自分を許すことができるのか。
全てを失った家族の再生はあるのだろうか・・・。

原発をめぐり、深く傷ついてきた福島の人々・・・。
それぞれの思いを抱えた、福島の過去、現在、未来へと、70年にわたる日本の歩みを描いた、愛と希望の物語(?)だ。
しかし、このドラマを観る限り、愛も希望もまだまだ程遠く、夢のような話だ。
映画のタイトル「あいときぼうのまち」大島渚監督傑作「愛と希望の街」(1959年)を平仮名にしたものだ。
だが、このタイトルは、日本の現状に対する痛烈な反語ではないか。
本編に出てくる、実際に福島県樽葉町を襲った津波の映像は生々しく、3年前のことがまだ昨日のようだ。

日本の原発政策は、再稼働推進へと舵を切った。
原発に100%安全はありえない。
本当にこれでいいのか。これで・・・。

これから先、日本はどうなっていくのだろうか。
「あいときぼうのまち」は、「愛と希望の街」として、いつの日か再生の日を迎えることができるのだろうか。

原発問題がテーマだけに、キャスティングも難行したようだ。
しかし、シナリオと監督の熱意が通じ、有名無名を問わず志と骨のある俳優陣が揃って、バラエティに富んだ70年にわたる骨太なドラマを彩った。
欲を言えば、もう一歩踏み込んだ鋭い切り口を期待したのだが・・・。
この映画は2012年に企画されたが、当時はもちろん、いまだって原発を扱う作品はタブー視されているきらいがある。
この作品が、その殻を敢然と打ち破ったスタッフの勇気だけは讃えたい。
作品に流れるホルンの音色が、鎮魂の曲のように聞こえる。
映画の主張は小さな叫びかも知れないが、ドキュメンタリータッチを散りばめた、社会派映画の佳作である。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「紙の月」―平凡な主婦の人生が狂気に変わるとき―

2014-11-19 18:00:00 | 映画


 ひたすら、ただひたすら走り続ける女がいる。
 角田光代原作を、吉田大八監督が映画化した。
 真っ当な人生を歩んでいたはずの主婦が起こした、巨額横領事件を描いている。
 人間の心に忍び込むしたたかな邪念は、倫理や道徳を超えて狂気に近い。
 堕落するまで堕落する。
 背徳的な‘欲動’のたちこめる中で・・・。

 主人公には薄倖さと儚さがにじみ、女の業とか、金銭の価値観といったテーマを抱えながら、この作品では、本能の赴くままに、自由で優雅なお芝居を自作自演しているように見える。
 ヒロインの内面に迫ろうとする意欲は認められても、どうも作品のテーマの掘り下げは弱く、底が浅い。
 通俗的である。
 ・・・前評判の割には、期待したほどの作品ではなかった。
 この女性の破滅が、果たして原作者の言うような爽やかなものかどうか。


梅澤梨花(宮沢りえ)は、子供には恵まれなかったものの、夫の正文(田辺誠一)と穏やかな日々を送っていた。

契約社員として働く銀行でも、丁寧な仕事ぶりで上司の井上(近藤芳正)からも高い評価を得ていた。
平林孝三(石橋蓮司)は、梨花に信頼を寄せている顧客の一人で、裕福な独居老人だ。
支店には、厳格なベテラン社員の隅より子(小林聡美)、若くてちゃっかり者の窓口係の相川恵子(大島優子)らが働いている。
そんな中で、梨花は一見何不自由のない生活を送っていたが、自分への関心が薄く鈍感なところがある夫との間には、言い知れぬ空虚感が漂い始めていた。

ある夜、梨花は平林の家で孫の光太(池松壮亮)と再会したことから、急速に彼との逢瀬を重ねるようになる。
梨花は、外回りの帰り道に立ち寄ったデパートの化粧品売り場で、支払い時にカードもなく現金が足りないことに気づき、そこで、顧客からの預り金のうち1万円に手をつけ、銀行に戻る前にすぐに自分の銀行口座から引き出して預り金の中に戻したが、これが、すべての始まりであった。
学費のために借金をしていたという光太のために、顧客から預かった200万から300万の金額に手をつけ、横領する金額は日増しにエスカレートしていった・・・。

主人公梨花は、一気に坂道を下り始める。
罪悪感はどこかに消え失せてしまい、手口は大胆になり、半ば常習化し、自由と解放感まで謳歌するようになる。
行き先に待つ破滅はわかっている。
その不安と重圧も膨らんでいき、もはや立ち止まることも、振り返ることもままならなくなる。

光太との快楽に耽溺していても、顧客の人生がどうなろうとも、彼女には‘暴走する’しかない。
梨花を否定するものすべてをはねのけて、彼女は前しか見ていない。
大胆不敵な女の犯罪だ。
こうした事件は、巷の金融機関で実際によく起きている。
別に新しいドラマでも何でもない。
この作品は、事象の展開にサスペンスフルな要素を取り入れていてよいのだが、難を言えば、心の底に潜む深い部分の心理描写が弱く、平面的で浅い。

ドラマ自体もかなり無理をしている。
梨花と光太の出会いもいきなり唐突に始まるし、演出上の工夫だろうが、やたらとスローモーションを多用し、煽情的なバック・ミュージックもきこえよがしで、気にならぬことはない。
スピード感やスリル感はあるが、それも強烈なインパクトはない。
吉田監督の人間観察の確かさといっても、平凡で、ヒロインが狂気へと堕ちていくプロセスも掘り下げが弱く頼りない。
善悪を超えた奥行や深さは、ドラマの中に思っていたほど感じられず、物足りなさが残る。
ドラマの終盤で、隅より子に追い詰められた梨花が、銀行の窓ガラスを突き破って外の路上に降り立って疾走する場面は荒唐無稽で、こういうシーンは、まあ安直なハリウッド映画のような爽快感がないとは思わないが・・・。
しかし、少なくともこのヒロインにかっこよさは微塵もない。

物語は、1994年という、いわゆるバブル崩壊直後の時代設定で描かれていることに注意だ。
インターネットもないし、いまのような紙幣勘定器もない時代だ。
20年前の銀行は、あんな風だったのだ。             

ヒロインは、自分の恋のためでも、夫との生活に不満を感じた(?)からでもなく、横領をした。
彼女は自分で自分を追い詰めていく。
その何かが、この作品では確かな形となって描かれたか疑問だ。
主人公の行為について、何と、ある評論家センセイはしたたかで美しいとおっしゃたが、とんでもない。
俗っぽく、野暮ったいだけだ。
どこが美しいか。

吉田大八監督作品「紙の月」を観て、確実に解ったこと、それは、女性って怖いなあということだけだ(笑)。
主演の宮沢りえは熱演だが、先の東京国際映画祭では最優秀女優賞受賞した。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「マルタのことづけ」―生きることを引き継ぐ出会いと別れの物語―

2014-11-16 12:00:00 | 映画


 1982年生まれの新鋭メキシコクラウディア・サント=リュス女性監督が、「母親の死」という自らの実体験をもとに、人の命に関わる重いテーマを軽やかに描いて見せる。
 人と人とのつながりから、生きる力をやんわりと・・・。
 光に包まれた映像で、かけがえのない命と何気ない日々の生き様を、慈しむように見る視線がどこまでも優しく温かい。
 だからといって、お涙頂戴といったファンタジーではなく、抑制のきいた脚本が、押しつけがましくない、そこはかとない感動をもたらしてくれる佳作だ。

 生きるということ、死を迎えるということ、その中で家族を思いやる深い温かさが、このメキシコ映画の主軸となっている。
 しみじみとした感慨がいつまでも残って・・・。
 クラウディア・サント=リュス監督の、強烈なデビュー作である。




メキシコ第二の都市、グアダラハラの病院で、虫垂炎で入院した一人暮らしのクラウディア(ヒメナ・アラヤ)は、4人の子持ちの老女性マルタ(リサ・オーウェン)と偶然出会う。

マルタはHIVで入退院をくりかえしていて、余命わずかなシングルマザーだ。
友人も恋人もなく、愛を知らないクラウディアを、マルタは自宅に誘い、自分の娘のように扱う。
一家は賑やかで、そんな中で、心を閉ざしていたクラウディアも、家族の一員のように暮らし始める。

だが、マルタの命があとわずかだとわかる。
そのことを知っている子供たちは、その日が来るのを恐れて、不安な日々を暮していた。
そこへ現れたクラウディアが潤滑油のようになって、家族の絆が強まっていく。
燃え尽きようとする命と、それをじっと見守る4人の子供たち、そしてそこに関わったことで自らも希望を見出すクラウディア・・・。
彼女の中で、何かが変わり始めていた。

病と闘いながらも前向きに生きようとするマルタと、母親の死を受け入れられずもがく子供たち。
そんな家族に、クラウディアがあくまでも他者として向き合う。
どこか互いにぎごちないのだが、少しずつ心をほどいてお互いに信頼していく。
その関係性に救いがある。
人の人生はあっけないものだが、それだけに輝きがある。

クラウディア・サント=リュス監督メキシコ映画「マルタのことづけ」は、ドラマとして特別なことは何も起こらない。
物語は、落ち着いたリズムで、ユーモアを散りばめ、過去に何があったかなどほとんど触れずに、人間像をさらりと描いている。
そのさり気なさがいいのかもしれない。
俳優たちの演技も自然体だ。
繊細な映像と演技が見せる、どこかとても儚くて愛おしい「さようなら」についての物語で、ドラマとコメディの中間に位置するような作品だ。
なかなかお目にかかれない、メキシコ映画だ。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札」―伝説の女優の知られざる真実の物語―

2014-11-13 04:00:00 | 映画


 ハリウッドのトップ女優から、モナコ公国のプリンセスへ。
 おとぎ話のような人生を歩んだグレース・ケリーの、知られざる実話が綴られる。
 モナコはフランスに囲まれた世界第二の小国で、日本の皇居の2倍ほど2.02平方キロメートルの国土しかない。

 人気の絶頂期にモナコ大公と結婚し、26歳の若さでハリウッドを退いたグレース・ケリーだったが、文化も風習も異なる皇室になじめず、公妃としてだけでなく、一人の女性として苦難の日々を送っていた。
 モナコ大公レーニエ三世と1956年に結婚、華麗な婚礼の模様はニュース映画になって世界を駆け巡った。
 それから6年、1男1女の母となったグレース公妃が、驚くなかれ、政治、外交に優れた手腕を発揮していく姿を重点に、この物語は描かれる。






「エディット・ピアフ~愛の讃歌~」
オリヴィエ・ダアン監督は、保守的な王室になじめなかったグレースが、ハリウッド復帰の誘いや、モナコが直面した国家的危機を乗り越えて、自分が本当に果たすべき役割を見つけ出すまでを丁寧に描いた。
女性の持つ情熱と自立の難しさを核心に据えて、ヒロイン役ニコール・キッドマンの熱演が見ものだ。

グレース妃(ニコール・キッドマン)はいつもよそ者扱いで、国になじめず、政治的にも多忙な夫レーニエ大公(ティム・ロス)との仲も不安な彼女は、ヒッチコック監督(ロジャー・アシュトン=グリフィス)の来訪で、女優復帰の話を持ちかけられ、心が揺れる。
この時期、アルジェリアでの戦争で戦費(大金)が必要なフランスのド・ゴール大統領(アンドレ・ペンヴルンが、無税のモナコへ流出したフランス企業から税を徴収するよう、執拗に迫っていた。
これを拒めば、軍隊の出動もありうると脅しをかけていたのだ。

レーニエ大公は、妻の映画出演は止めないが、極秘だったはずの映画出演の情報が漏れ、アメリカから来た女優上がりの公妃は容赦なく叩かれた。
グレースは、本格的にフランス語や宮廷マナーを学んで役作りをし、フランスによるモナコ合併の危機から、独立の自由と家族を守るため、一世一代の大芝居に挑むのだった・・・。

モナコに直接的な圧力をかけるフランスのみならず、アメリカ、ヨーロッパ諸国を巻き込んだ政治の駆け引きのさなか、そうした外的脅威はもちろん、王室内にちらつくスパイの影といい、当時のグレースがいかに追い詰められていたか、またモナコという小国がかに危機的状況にあったかが、つぶさに描かれる。
このフランス映画は、むしろ政治サスペンス、あるいは女性の再生ドラマの側面を見せ、そこそこ楽しめる作品だ。
フランスの圧力、大公との出会い、国民の反発、王室内の異様な確執と・・・、様々な葛藤を乗り越えて、主人公がまさに世界を動かした(!?)歴史的瞬間が、世界の要人を招いて開かれたパーティーのスピーチでついに花開く。

オリヴィエ・ダアン監督フランス映画「グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札」は、「生涯女優」の悲哀と覚悟を描いて胸を突かれる部分もある。
実話をなぞるだけのドラマではないからだ。
グレース・ケリー(1929年-1982年)が、国の命運を左右する重大な任務に関係していたという話を知っている人は、少ないのではないだろうか。
往年の映画でざっと思い出される彼女の出演作品に、「裏窓」(1954年)、「泥棒成金」(1955年)、「上流社会」(1956年)などがあるけれど、もう一度観たいものだ・・・。
この映画のラストシーン、各国の要人の前での、グレースの愛情に満ちたスピーチは圧巻だ。
映画女優としての表舞台から姿を消した、その後のグレース・ケリーの感動的な秘話を、エレガントにまとめた佳作である。
        [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「美女と野獣」―その一輪の薔薇の花に秘められた真実―

2014-11-10 11:00:00 | 映画


 1946年製作のジャン・コクトーによる傑作や、アニメーション、ミュージカルなどでも親しまれたおなじみの物語だ。
 もともとフランス生まれのおとぎ話で、今回は鬼才クリストフ・ガンズ監督のもと、フランスのスタッフ、俳優によって実写化された。

 「アデル、ブルーは熱い色」カンヌ映画祭パルムドール受賞したレア・セドゥが、若々しい「美女」を演じ、スクリーン全体が絵画を思わせるような、重厚感あふれる映像世界を作り上げた。
 物語は、ミステリアスでやるせない背景を紐解いていく過程に、新しい解釈をほどこしている。
妖しくも幻想的な美しさが、衣装や美術の細部にも徹底していて、自然の神聖さを感じさせる描写も目をひく。
 霧にかすむ「メルヘン」の美しさに、ついついひきこまれる。






裕福な暮らしから一転、財産を失い、田舎へ引っ越してきた商人の娘ベル(レア・セドゥ)は、貧しい暮らしに不安を募らせる兄姉らに反し、のどかな生活に幸せを感じていた。

だがある日、父が吹雪に巻き込まれ、森の奥の古城に迷い込んでしまった。
そこで、愛娘ベルへの土産にと赤い薔薇を手折るが、その瞬間茂みから野獣が襲いかかる。
一日だけ命の猶予を与えられた父は、家族にことの全てを打ち明ける。
それを聞いたベルは、父の身代わりにと古城へ向かい、野獣(ヴァンサン・カッセル)の住むその城に囚われの身となってしまった。

姿は恐ろしいが、ベルには優しい野獣はかつての王子であった。
王子が野獣に姿を変えるまでに、何があったのか。
ベルは、心を惹かれながらその道を探っていく。
そして、野獣の過去が少しずつ明らかになるにしたがって、野獣の悲しげな表情とともに、ベルの気持ちも少しずつ変化していくのだった・・・。

夢と現実が入り交じる不思議なストーリーが、ファンタスティックに展開する。
野獣の姿を演じるヴァンサン・カッセルと、美しい娘ベルを演じるレア・セドゥ・・・。
華やかさと演技力を持つ、二人のスターが競演するドラマは、いろいろなドラマの要素を詰め込んでいて、満腹感をもよおすほどだ。
視覚効果十分、サービス精神たっぷりで、観ていて飽きない。
特殊メイクなしの野獣の演技は、洗練と凶暴の中に哀しさを漂わせており、このフランス映画「美女と野獣」は、童心に還って無心に愉しめる愛の物語だ。

気鋭のクリストフ・ガンズ監督は、1740年に書かれたヴィルヌーヴ夫人原作小説を徹底検証し、この作品では隠され続けてきた野獣の過去に光を当て、スリリングな展開の物語に発展させた。
舞台装置の豪華さといい、優美な衣装といい、ため息の出そうな映像美は必見の価値は十分ある。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「ローマの教室で~我らの佳き日々~」―教師と生徒のほろ苦い人生模様―

2014-11-07 16:00:00 | 映画


 イタリアの人気作家で詩人でもあるマルコ・ロドリのエッセイを、ジュゼッペ・ピッチョーニ監督が映画化した。
マ ルコ・ロドリは、高校教師の経験もあり、この作品もローマの公立高校を舞台にしたヒューマンドラマだ。
 風爽やかな春から、緑豊かな夏へ、教師と生徒の学校生活を通した交流を描いて、人生の温かさを感じさせる。

 冷静な女性校長、熱血漢の補助教員、皮肉屋の老教師と、三人三様の教師が、個性的でときには手に余ることもある生徒たちと、自分なりのスタイルで向き合うのだが、この作品では先生が生徒に教えるだけの一方通行ではない。
 先生も教わり、変容し、成長していく。
 イタリア版金八先生みたいだ。
 登場人物たちは、先生も生徒もそれぞれ人間味が溢れている。





ローマの公立高校・・・。

新しく赴任してきた国語補助教員のジョヴァンニ(リッカルド・スカマルチョ)は情熱的で、授業中に教室を出ていってしまう女子生徒に事情を聴き、クラス全員で彼女を支えようと動く。
校長のジュリアーナ(マルゲリータ・ブイ)は、生徒の人生までは救えないと否定的だが、母親が失踪した男子生徒が入院するの見て信念が揺らぐ。
そして、教師への情熱を失った美術史の老教師フィオリート(ロベルト・エルリッカ)は、俗っぽくとくに気難かしく孤立している男だ・・・。

タイプも経験も全く異なる主だった三人の教師が、手に余るような生徒たちと関わり合って、教師は教師として、生徒は生徒として悩みながら、教育の奥深さや人生の真実に気付いていく。
人生は晴れ、時々曇り、なかなか一息に思い通りにはならぬものだ。
笑いあり、涙あり、それもため息交じりで、でもみんな輝いている。
それはそれでよいではないか。

教育現場のエピソードが、ピッチョーニ監督の確かな観察力と詩情あふれる演出とひとつになって、みずみずしいアンサンブルを見せている。
教育現場となるといろいろ解決の難しい問題もあるが、イタリア映画ローマの教室で~我らが佳き日~」は、演出にも膨らみがあり、平明で豊かな暗示に富んでおり、適度のユーモアもある。
教育とは、決して停滞することなく、日々変化していくもので、何年か先に振り返ってみれば、どんな経験も生きていく上での糧になっていたと気づかされることだろう。
気持ちよく観ることのできる小品だ。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「聖者たちの食卓」―訪問者に毎日無償で振る舞われる10万食!―

2014-11-06 21:00:00 | 映画


 この映画は、インド北西部の都市、アムリトサルにあるシク教総本山を舞台にした、ベルギーフィリップ・ウィチェス監督による、心解きほぐされるドキュメンタリーである。
 監督自身、自らも移動式キッチンのシェフとして腕をふるう。

 総本山ハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院)では、巡礼者や旅行者のため、毎日10万食が無料で提供されているというから、これはもう驚きである。












この無料食堂では、どんな手順で食事が準備されているのだろうか。

ここでは、宗教、人種、階級、職業も一切関係なく、誰もが公平にお腹を満たすことができる。
「聖なる場所」と呼ばれる。
調理場には、いくつもの超巨大な鍋があって、スクリーンに映し出されるキッチンに舞台裏を描く。
そこに携わる人たちの、一切無駄のない神々しい手さばきといい、勿論今ならどこでも見かけるような近代的な調理器具は、使用しない。
全てが手仕事で行われるのには驚く。

あらゆる差別や偏見を超えて、同じ鍋のご飯を頂くことで、大きな団欒の輪が広がる。
それを支える人々の無償の労働こそ、「食」という人の営みの原点を思い出させてくれるものだ。
寺院に入る前に、手を洗い、靴を預け、足を浄める。
食事は、残さず全部食べる。お替りは自由だ。
使った食器は、指定の場所へ戻す。
酒、たばこ、革製品の持ち込みは禁止。
一度の食事を5000人でとるので、お互いに譲り合いを忘れない。
・・・というようなことが、このグル・カ・ラングル(共同食堂)のルールで、500年以上も前から受け継がれる食卓の風景は、いまも変わらない。

ベルギー映画フィリップ・ウィチェス監督の聖者たちの食卓」は、独特の深い静けさをたたえ、組織化されたカオスなのだ。
「みんなで作って、みんなで食べる」
古くても新しい食卓を言いたいのだろう。
映像だけを切り取って、ナレーションもないドキュメンタリーで、いかにも神聖な場所にふさわしい作品だ。
異国の食文化を見て、自分の国の食文化を考えるきっかけとなるかもしれない。
原題の「Himself He Cooks(神自身で、調理なされる)」に、納得だ。
いや、いや何と素晴らしいことか。
無償の食卓、しかもお替り自由で、365日(毎日)ですからね。
500年も続いているんですって!
ああ、日本にこういうところがあったら、職はおろか食にもありつけない今なお多くのホームレスに、どんなに福音となるだろうかと・・・。
(国民の税金たる政治資金を食い物にして私利私欲につぎ込んではばからないハチャメチャな政治屋ばかりがのうのうとどエラそうな顔して跋扈しているこのご時世に・・・)
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「不機嫌なママにメルシィ!」―滑稽な自己分析と傑出した母親への賛歌―

2014-11-03 15:20:00 | 映画


 ママに女の子のように育てられたボクの、ちょっぴり痛快なサクセスストーリーだ。
 フランスが誇る、国立劇団コメディ・フランセーズ演技派俳優ギヨーム・ガリエンヌが、この自伝的作品で監督デビューを果たした。
 ギヨームはこの作品の中で、“ボク”はもちろん“ママ”まで演じてしまった。
 彼の実体験から生まれたこの映画は、フランスで300万人の観客を動員したといわれる。

 “ボク”には次々と苦難が降りかかるのだが、それらを笑いに変え、“本当の自分”を見出すという、つまり自己探求の物語なのだ。
 セクシャリティを交えた女性賛歌でもある。
 ギヨームは最初は自分を女の子だと思い、次にゲイではないか と考え、最後に異性として女性を愛するようになる。
 フランスでは同性婚が認められているが、この映画は、今の時代に逆行しているような異性愛に目覚めるというお話だ。





3人兄弟の末っ子で、ママに女の子のように育てられたギヨーム(ギヨーム・ガリエンヌ)は、ゴージャスでエレガントなママ(ギヨーム・ガリエンヌ二役)に憧れ、スタイルから話し方まですべてママを真似していた。

兄妹や親戚から100%ゲイだと思われていたが、何とか息子を男らしく方向転換させたいパパ(アンドレ・マルコン)に、無理やり男子校の寄宿舎に入れられてしまう。

そこでいじめにあったギヨームは、イギリスの学校に転校、親切にしてくれた男子生徒への初恋に敗れ、人生最初の絶望を味わうのだ。
自分のセクシャリティを見極めようとトライしたナンパも、とんでもない結末に・・・。
どうしてもうまくいかない人生に疑問を感じ始めたギヨームは、“本当の自分”を探す旅に出るのだが・・・。

主人公ギヨームは、優雅でクールな母親をお手本に育ち、仕草や話し方も彼女にそっくりだ。
男らしさにこだわる父や兄からは白い目で見られるが、本人は一向に意に介さない。
ところが、次第にそのままではいられなくなる。
様々な状況に直面し、そのたびに自分のセクシャリティを考えざるを得ない。
男子の輪にも入れないが、女子の輪にも入りにくい。

女らしや男らしさとは、一体何だろうか。
この作品には、そんな現代的な問いかけがある。
「性とは」一体何だろうかと、問いかける。
ギヨーム・ガリエンヌ主演(二役)、監督、脚本をこなすこの喜劇「不機嫌なママにメルシィ!」は、テンポの速い展開で、ギヨームの喜怒哀楽が要領よく描かれている。
しかも、ママ役まで見事にこなすとは、ギヨームもなかなかである。
“彼女”の脚元を見ると、本当の女性みたいに見えるのだ(?!)。
他にも、個性豊かな演技陣が登場していて、シリアスなハッピーエンドに至るという、ちょっとした泣き笑いのコメディだ。
作品自体、いかにもギヨーム・ガリエンヌらしい演劇的なフランス映画だ。
       [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


須賀敦子の世界展―晩秋の神奈川近代文学館にて―

2014-11-02 05:00:00 | 日々彷徨


文学散歩です。
深まりゆく秋、「ミラノ  霧の風景」1990年)で彗星のように登場した、イタリア文学者でエッセイスト、作家の「須賀敦子の世界展」が開かれている。
須賀敦子(1929年~1998年)の文学者、翻訳家としての活躍は生涯にわたり、数々のエッセイは多くのファンを魅了した。
小説を書き始めた作家生活としては10年に満たなかったが、98年に惜しまれながらこの世を去った。
没後16年、彼女の足跡をたどる本や展覧会で、再び脚光を浴びている。

イタリア文学を日本に、日本文学をイタリアに、イタリア文学の優れた翻訳家としての須賀敦子は、とても几帳面な字で、誰が読んでもその平易な文体は優しい透明感にあふれている。
本当にいい文章とは、こういう文章を言うのではないだろうか。
書簡や蔵書、写真、愛蔵品が陳列されているが、9月24日からは一部展示を入れ替えて、新たに発見された友人夫妻への手紙の中から8通が選ばれ、その中で彼女は自分の文章の欠点を自ら嘆いている。
若き日の謙虚な須賀敦子の姿がそこにみられる。

作家の高樹のぶ子須賀敦子を、幸田文、白洲正子と並ぶ三大女性エッセイストにあげている。
それは「潔さと美意識」において共通しているからだそうで、どこまでも「書く人」になりたかった彼女の洗練された文章は、よく磨きぬかれ透徹した文体を形成する。
文学者として脚光を浴びるようになるまでの道のりは、決して平坦なものではなかったが、戦時下の青春、フランス留学、イタリア留学、べッピーノ・リッカとのわずか6年足らずの結婚生活と・・・、起伏と波乱に満ちた人生の軌跡をうかがい知ることができる。
彼女の息吹に触れる、数少ない機会である。
須賀敦子手書きの「イタリア中部地図」には、生前29歳から13年を過ごしたイタリアで、彼女がよく訪れた各地の地名が見られる。

神奈川近代文学館は、10月14日で開館30周年を迎えた。
本展は、須賀敦子と文学を総合的に紹介する初めての展覧会だ。
幼い頃から本に親しみ、「ものを書く人になりたい」という夢を抱き続けた彼女の人生は、深い思索から紡ぎだされたものだろう。
ものを書く、いや、書けるということは素晴らしいことで、そこにはいつも新しい発見と新しい刺激がある。
神奈川近代文学館の秋のこの特別展記念イベントしては、11月3日(月・祝)湯川豊文芸評論家講演、11月8日(土)には女優・竹下景子による「ヴェネツィアの宿」の朗読会、毎週金曜日にはギャラリートークなど、多彩な催しが予定されている。
本展は11月24日(月・振休)まで開催中だ。
枯葉が舞い、10月27日には東京で木枯らし1号が吹いたというから、寒い冬はもうそこまで来ているようだ。