日本の原子力政策に翻弄された、四世代一家族の12年間にわたる物語が綴られる。
福島県出身の菅乃廣監督にとって、この作品が監督ビュー作である。
20数年前、死が迫っている父親が、自分の奇病は、昔、原発で浴びた放射能が原因かもしれないと呟いたひとことが、いつか原発について描こうと思っていた菅乃監督の心を揺り動かしたのだった。
菅乃監督は、3.11でその思いを新たにする。
監督自身が流した汗と涙で、この映画は作られた。
脚本は「戦争と一人の女」(13年)で監督デビューを果たした井上淳一で、四世代にわたる家族の軌跡を錯綜させ、交錯させ、ラストに奇跡の収斂をもたらすシナリオには、震災からたった3年で忘れ去られようとしている(?)福島の怒りが、静かにたぎっている。
この作品は、他の3.11映画とは明確に一線を画している。
・・・怒りを込めて、振り返れ、という。
菅乃廣監督が渾身の力を込めて描く、鎮魂のドラマである。
敗戦間近い1945年、福島県石川町の山奥で、天然ウランの採掘が行われていた。
このことを知る人はあまりいない。
ウランは、もちろん原子爆弾を作るためのものだが、その採掘は学徒動員の中学生によってなされていた。
しかし5月の空襲で、原爆を研究する早稲田の理化学研究所が焼け、計画は事実上頓挫した。
それでも彼らは、敗戦まで来る日も来る日もウランを掘り続けた。
自分たちが、何を探しているのかを知らぬままに・・・。
東京オリンピックの2年後の1966年(昭和41年)、福島県双葉町は原発建設をめぐって揺れていた。
建設派と反対派に町が二分され、揉めていたのだ。
反対派の理由は、原発が危険だからというのではなく、住んでいる土地を奪われたくないからだった。
やがて、反対派も、昔のように出稼ぎのいく必要がなくなるからという説得に応じ、徐々に賛成派へと転じていった。
少年時代からウラン採掘をしていて大人になった草野英雄(沖正人)は、最後まで反対していて村八分にされる。
彼は、どうしても原発建設に賛成できず、町の家族からも孤立し、家族はバラバラになっていく。
2011年、その娘西山愛子(夏樹陽子)は、小さいながらも幸せな家庭を作り、還暦を迎えていた。
そこに現れる少女時代の恋人奥村健次(勝野洋)は、原発労働者だった息子を失ったばかりだった。
愛子は、男の心の穴を埋めるために身体を投げ出すが、やがてそれは孫娘の知るところとなる。
孫娘は、あのときどうしてもそれを許すことができなかった。
そのことが、悲劇を招いた。
そして2011年3月11日・・・。
津波で祖母を失った少女は、それを自分のせいだと思い込み、自らを傷つける。
世間が3.11を忘れても、少女は忘れることができない。
少女は自分を許すことができるのか。
全てを失った家族の再生はあるのだろうか・・・。
原発をめぐり、深く傷ついてきた福島の人々・・・。
それぞれの思いを抱えた、福島の過去、現在、未来へと、70年にわたる日本の歩みを描いた、愛と希望の物語(?)だ。
しかし、このドラマを観る限り、愛も希望もまだまだ程遠く、夢のような話だ。
映画のタイトル「あいときぼうのまち」は、大島渚監督の傑作「愛と希望の街」(1959年)を平仮名にしたものだ。
だが、このタイトルは、日本の現状に対する痛烈な反語ではないか。
本編に出てくる、実際に福島県樽葉町を襲った津波の映像は生々しく、3年前のことがまだ昨日のようだ。
日本の原発政策は、再稼働推進へと舵を切った。
原発に100%安全はありえない。
本当にこれでいいのか。これで・・・。
これから先、日本はどうなっていくのだろうか。
「あいときぼうのまち」は、「愛と希望の街」として、いつの日か再生の日を迎えることができるのだろうか。
原発問題がテーマだけに、キャスティングも難行したようだ。
しかし、シナリオと監督の熱意が通じ、有名無名を問わず志と骨のある俳優陣が揃って、バラエティに富んだ70年にわたる骨太なドラマを彩った。
欲を言えば、もう一歩踏み込んだ鋭い切り口を期待したのだが・・・。
この映画は2012年に企画されたが、当時はもちろん、いまだって原発を扱う作品はタブー視されているきらいがある。
この作品が、その殻を敢然と打ち破ったスタッフの勇気だけは讃えたい。
作品に流れるホルンの音色が、鎮魂の曲のように聞こえる。
映画の主張は小さな叫びかも知れないが、ドキュメンタリータッチを散りばめた、社会派映画の佳作である。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)