徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「神々と男たち」―苦悩する人間の尊厳を描いた力作―

2011-06-29 05:00:00 | 映画

                       

                       
     1996年にアルジェリアで、フランス人修道士たちの、誘拐殺人事件が起きた。
     武装イスラム集団による犯行だった。
     この事件にもとづいて、15年たっていま明かされる真実の物語だ。

     2010年、カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ受賞作品である。
     グザヴィエ・ボーヴォワ監督の、フランス映画だ。
     事件はサルコジ政権によるイスラム文化排斥と、アルカイダ系テロ組織によって揺れるフランスで起きた。

     そこには、宗教や国籍に関係ない、「信念」と「人間の尊厳」の姿があった。
     さよならを言わなければならない時に、ともに生きるという・・・。
   
    
               


   
1990年代、アルジェリアの山あいの人里離れた小さな村に、その修道院はあった。
そこでは、カトリックの修道士たちが、奉仕と祈りの敬虔な共同生活を送っていた。
修道院は、診療所としても機能していて、毎日地元の住民が訪ねてきていた。
修道士のひとり、リュック(マイケル・ロンズデール)は医者でもあり、多くの患者の診療にあたっていた。

修道士たちは、イスラム教徒の地元住民との間に友愛関係を築いていた。
しかし、アルジェリア内戦に伴う暴力行為やテロが、ここにも押し寄せて来ていた。
イスラム過激派は、多くの善良な市民を虐殺しただけでなく、彼らとアルジェリア軍との衝突からも、多数の犠牲者が出た。

ある日、修道院からそう遠くないところで、クロアチア人労働者が殺される。
軍が、修道士たちの保護を申し出たが、修道院長のクリスチャン(ランベール・ウィルソン)は、それを辞退する。
クリスマスイブの夜、ついに過激派のグループが修道院に乱入する。
彼らは、負傷した自分たちの仲間を手当てさせるために、リュックを連れていこうとするが、クリスチャンは、診療所を訪れてくる患者を診療するためにここにいるのだからと、きっぱりと断る。
彼は、コーランを引用して、キリスト教徒とイスラム教徒が隣人であると説く。

一難去ったあとで、この際アルジェリアを立ち去るべきではないかという話し合いがもたれる。
でも、暴力に屈して、この村や住民を見捨てることはできない。
残れば、修道士たちは標的にされるだけだし、出ていけば、地元住民たちの支えは失われることになる。
地元住民たちから、「私たちは枝に止まった鳥に過ぎない。枝が無くなれば私たちはどうすればいいのか」と、強く残留を求められて、苦悩する修道士たち・・・。
間違いなく殺される恐怖との戦いと、断ちがたい人生への執着・・・。
それぞれが、異なる考えや事情を抱え、ひとりの人間として、修道士たちは悩み苦しんでいた。
この地を去るべきか、残留すべきか。
しかし、やがて彼らは採決の時を迎える・・・。

1996年3月、アルジェリアで、悲しくも、フランス人修道士7人が誘拐、殺人事件に巻き込まれたのだった。
彼ら修道士たちが、死の直前、万感の思いを込めて交わす盃・・・。
ここのところは、実に印象的なシーンだ。
敬虔な祈りと生きる魂の輝きが、そこにあった。
私心を捨て去って決心した人間の、ひとりひとりの、この場に及んで、これほど穏やかで美しい表情があるだろうか。
最後の晩餐のシーンで、不意をついて流れる、チャイコフスキーの「白鳥の湖」の耳馴染みの旋律も、観る者に大いなる感激をもたらすのだ。

修道院に押し入った武装グループは、罪なき7人の修道士を誘拐し、残酷にも殺害したのだ。
フランス政府が、人質救出のための交渉にあたっていた2か月後に、最悪の結果を迎えてしまったのだ。
ほどなく、アルジェリア政府は、斬首された7人の修道士の遺体の一部を、近くの路上で発見することになる。
といっても、頭部のみで、それ以外は見つかっていない。
誘拐犯も殺害犯も特定できないまま、どういう状況下で修道士たちが殺害されたか、テロの真相は今日まで明らかになっていない。
彼らの死の真相は、依然として謎に包まれている。
2003年からフランスでは、この事件に関する裁判が進行中だそうだ。
フランス映画「神々と男たち」の背景には、アルジェリアのキリスト教問題や当時のGIA(武装イスラム集団)、フランスの複雑な関係が横たわっている。
この映画は、群像劇のかたちをとった、まことにヒューマンな社会派映画の力作だ。


映画「ブルーバレンタイン」―凡庸だが純粋で厳しいある愛の形―

2011-06-25 09:00:01 | 映画

 
     デレク・シアンフランス監督
による、アメリカ映画だ。
     いろいろな事情で、中断を繰り返しながら、11年もかけて製作された。
     実際の撮影期間は、30日前後だったようだ。

     ・・・男と女、愛と憎しみを、過去と現在を交錯させながら描いている。
     脚本もかなり緻密だ。
     愛というものがいかに変わりやすく、どうしようもないほどに儚いことの現実を突きつけつつ、愛を知 る誰もが経験する
     ラブストーリーが綴られる。    
     お互いに、心の本音を明かし切れず、また理解しえないでいる。
     そんな夫婦や、家族はいるものだ。





    
ディーン(ライアン・ゴズリング)とシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)夫婦は、娘のフランキー(フェイス・ウラディカ)と三人暮らしだ。
妻のシンディは、長年の勉強の末資格を取り、病院で忙しく働いていた。
それとは対照的に、夫ディーンの仕事はペンキ塗りであまり芳しくなかった。
二人はお互いに、相手に対して不満を抱いているが、口に出したら平和な生活が壊れてしまうことを、よく知っている。
娘のこと、仕事のこと、夫婦のこと・・・、同じように大事に思っていても、立場の違いから相手の意見を受け入れられないでいる。

ディーンとシンディ、はじめて出会った頃の二人は若く、夢があった。
二人はお互いに相手に夢中になり、毎日が青春のように輝き、幸せな日々であった。
シンディには、ほかに付き合っているボーイフレンドがいたが、彼は彼女の遊び友達でしかなかった。
シンディが医学生で、ディーンは引っ越しのアルバイトで日銭を稼いでいた頃だった。

二人は、家族の反対にあいながらも、町役場でひっそりと結婚式を挙げ、永遠の愛を誓った。
そんな二人の、愛の終わりと誕生が重なり合った、リアルでありながら夢のようなラストは、それぞれの過去と“愛の思い出”を呼び起こしてやまない。
…シンディは、ディーンがかつて自分を残してだまって家を出て行ったことに腹を立て、激しくののしり合い、一度は家に戻っても、二人の話は平行線だ。
それでも、出会った頃と変わらずに、ディーンはシンディを愛していた。
その頃には形を変えた愛はあったが、いまのシンディは心が空っぽになってしまっていた。
どんなにディーンが懇願しても、シンディは、もう忘れることができない。
去っていくディーン・・・、その後ろ姿を娘のフランキーが追いかけていく・・・。

愛とは、移ろいやすいものである。
強い絆で結ばれているようでいて、一度亀裂が生まれると、これはもうどうにもならない?!
たとえ、女がどんなに献身的であっても、男は自分の身勝手に気付かず、相手の心を傷つける。
わかっていながら自分でどうすることもできない弱々しさがある。
気づいてみれば、そこには、忘れえぬ妻への愛がくすぶっている。
アメリカ映画デレク・シアンフランス監督「ブルーバレンタイン」は、ドラマの最終展開が気になるところだが、以前の夫ディーンのもとへ戻れるのか、あるいは新しい彼のもとへ走っていくのか。
あえかな期待を持たせながら、映画は幕を閉じる。
彼女は、結局どの道を選択したのだろうか。

余談になるけれど、シアンフランス監督の両親も、ずっと不仲で夫婦喧嘩を繰り返したそうで、そのこともこのドラマの下敷きとなっているようだ。
シアンフランス監督は、この映画の脚本を夫人と一緒に書くことで、お互いを理解したのだろうか。
だって、二人は離婚の危機を克服し、いまは家族仲良く暮らしているといわれるのだから・・・。
女は、たとえかつて愛した男であっても、一度嫌いになったら、そんな男には触れられるのも嫌になるものだと、憤然と嘲笑する女性の声もある。
巷間、よくある話ではないか。


映画「テンペスト」―復讐と創生の壮大な物語―

2011-06-22 21:30:01 | 映画


     この作品は、シェイクスピアの晩年に書かれた、ロマンス劇の頂点を飾るものだ。
     「テンペスト」は、復讐の怒りを象徴するらしい。
     そして、何はともあれ、それは赦しのドラマなのである。

     ジュリー・テイモア監督アメリカ映画だ。
     ここでは、主人公を女に仕立てているのだが、原作には忠実だし、台詞もシェイクスピアの書いた通りだ。




   
ナポリの王アロンゾー(デヴィッド・ストラザーン)は、娘の婚礼からの帰る途中、海上で突然の大嵐に襲われる。
難破船に乗っていた、王弟セバスチャン(アラン・カミング)忠実な老顧問官ゴンザーロー(トム・コンティ)ミラノ太公アントーニオ(クリス・クーパー)らは、命からがら孤島へ流れ着くが、アロンゾーの息子、ファーディナンド(リーヴ・カーニー)を見失っていた.

この嵐、実はこの孤島に住むプロスペラ(ヘレン・ミレン)が、魔術を使って起こしたものだったのだ。
プロスペラは、かつて名君と呼ばれたミラノ太公の妃であり、夫の亡き後は女主人公として、民に愛されていた。
しかし12年前、彼女の腹黒い弟、アントーニオとその謀略に乗ったアロンゾーらは、プロスペラと一人娘のミランダ(フェリシティ・ジョーンズ)を、粗末な船に乗せて追放したのだ。

孤島に住みついて、魔術の腕を極めたプロスペラは、空気の妖精エアリエル(ベン・ウィショー)を操り、魔女から生まれた邪悪な怪物、キャリバン(ジャイモン・フンスーに雑事をさせながら暮らしていた。
・・・そしていま、裏切り者たちに復讐を果たそうと目論んでいたのだった。

プロスペラを演じるヘレン・ミレンは、芸歴40年を超す英国きっての名優で、さうがに貫録といい、存在感たっぷりだ。
主人公プロスペラを、ここでは女に仕立てているあたり、思い切ったキャスティングだ。
このことは、ジュリー・テイモア監督が、このアメリカ映画「テンペスト」にオリジナルな視点を持ち込んだということで、ヘレン・ミラーという大女優が、シェイクスピア劇の男性主人公を演じること自体は、そんなに珍しいことではないようだ。
この作品では、そのことを差別構造の明快な反映とも見ることができる。
亡夫のあとを継ぎ、女太公となったプロスペラは女性ゆえに、権力にまみれた義弟の嫉妬を一層掻き立てる。
彼女は女性であるがために、娘以外のすべてを奪われてしまう存在として、描かれている。

さらに、植民地主義とも、政治的な陰謀とかの寓意があって、これまで映画化されてきた「テンペスト」に比べて、哀しみの無常感とともに寂寥感が全編に漂っている。
舞台劇を、映画で観るような感じだ。
魔法が作品中の道具立てになっていて、冒頭の嵐の部分から見せ場たっぷりである。
復讐の物語のはずだが、これは愛と赦しのメッセージでもある。

魔法、苦悩、怒り、人種差別と、様々なテーマを内包している。
ファンタジックに仕上げられた映画は、悲劇と喜劇を縒り合わせて、大いなる結末へと突き進むのだ。
シェイクスピア劇のラストメッセージとして、見応えは十分である。


映画「引き裂かれた女」―古典的で老獪なみずみずしさ―

2011-06-17 12:00:00 | 映画

     愛は追うものか、追われるものか。
     愛ゆえに狂っていく、恋愛劇のサスペンスである。
     昨年死去した、クロード・シャブロル監督フランス映画だ。
     かつて、ゴダール、トリュフォーらと並び称された、ヌーベル・ヴァーグの旗手である。
     これまでも、彼らの華々しい陰に隠れていた感じだった。
     しかし、死の直前までに、54本もの長編作品を遺している。
     ただ、残念ながら、日本未公開の作品が多い。
     これも、その貴重な一作だ。

     この作品は、ニューヨークの社交界を騒然とさせた、実際の事件にもとずいている。
     シャブロル監督は、80歳になるまでヌーベル・ヴァーグの若々しさを保ち続けた。
     この映画は、簡単に言えば、どこにでもある、ありふれた男女の三角関係の物語だ。
     二人の男の間で、ヒロインを演じるリュディヴィーヌ・サニエをはじめ、女優陣は極めて官能的だ。
     しかし、それも‘匂い’だけといったらいいか。
     過激な描写があるわけではなく、すべて‘匂い’なのだ。
     スクリーンに見えていなくても、その部分の奥行きが、このフランス映画のもつ豊かさではないだろうか。




高名な作家シャルル・サン・ドニ(フランソワ・ベルレアン)は、リヨン郊外の田舎町で静かに妻と暮らしていた。
あるときシャルルは、ローカルTV局のお天気キャスターをしている、若い娘ガブリエル(リュディヴィーヌ・サニエ)と出会い、すぐに恋に落ちる。
二人は、書店のサイン会の帰りにオークション会場に立ち寄ったが、そこでガブリエルは、ハンサムな大金持ちの御曹司ポール(ブノワ・マジメル)に言い寄られる。
はじめから、ポールを無視していたガブリエルは、彼のあまりのしつこさから逃げ回っていた。
ポールは、10年前に亡くなった父の遺産を相続し、毎日仕事もせずにぶらぶらしていた。

老作家シャルルは、オークション会場で競り落とした一冊の本を、その場でガブリエルに渡した。
父娘ほども年の差のある、シャルルとガブリエルは、ともに諍いを挟みながら、ますます離れがたい関係になっていく。
そんなときに、TV局にいるガブリエルのもとに、突然ポールが花束を届けに現れる。
彼はガブリエルに求愛するのだが、折しもシャルルのカード付きの花束が届く。
メッセージを読んだ彼女は、ポールを置き去りにして、TV局を飛び出してしまう。

シャルルとガブリエルの順調な愛の日々が続いていたが、ふとしたシャルルの気まぐれに、ガブリエルを落胆させる出来事が起きる。
シャルルは、黙って長い海外旅行に出かけてしまい、ガブリエルが彼の仕事場を訪ねると、鍵も替えられていて、中に入ることもできなかった。
彼女は、ショックのあまり寝込んでしまう。

元気のないガブリエルを見舞いに、ポールが気分転換に海外旅行を提案する。
ガブリエルはポールとともに旅をしながら、徐々に明るくなっていった。
そして、ある日彼女は酔ったはずみで、ポールからの求婚を受けてしまった。
シャルルは、ガブリエルを決して忘れていたわけではなく、こうして二人の男に愛されているガブリエルには、また過酷な運命が待ち受けていたのだった・・・。

・・・一人の女と二人の男の話である。
ガブリエルは無邪気な娘で、老作家の百戦錬磨に翻弄される。
フランスの“ヒッチコック”の異名を持ち、2010年9月に惜しくもこの世を去った、ヌーベル・ヴァーグの巨匠クロード・シャブロル・・・。
フランス映画「引き裂かれた女」は、この映像作家が到達したサスペンス・スリラーだ。

正面から見れば、どうも三面記事的なスキャンダルだが、練り上げられた脚本の効果もあり、性格や年齢の異なる二人の男に愛される、ヒロインの思い込みの激しさゆえに、ゆがんだ恋愛関係に溺れ、自分を見失って行く様を実にスリリングに描いていて、サスペンスフルなラブストーリーである。
‘80年代’のトレンディドラマを想わせる設定なのだが、官能的な心理描写と細部(ディテール)まで行き届いた演出が、いかにもフランス映画らしいエレガントな恋愛劇に仕立て上げられている。
このあたり、シャブロル監督のお家芸というべきか。
主要な登場人物は三人だが、それぞれがなかなかの演技派ぞろいだ。
ひねりのきいた、おやっと思わせる、意外性のある最後など目の離せないシーンもあり、さすがにクロード・シャブロルの面目躍如である。


    *****  閑 話 休 題  *****

《クロード・シャブロル未公開傑作選》と題して、6月25日(土)から2週間限定で、横浜のミニシアター<シネマ・ジャック&ベティ>で、彼の日本未公開作品「最後の賭け」「甘い罠」「悪の華」の三本が上映される。
フランス映画ファンならずとも、クロード・シャブロル作品の知られざる傑作に期待が高まる。 

また、 《フランス映画祭2011》として、6月23日(木)から26日(日)まで、東京有楽町で、フランス映画祭が開催される。
「美しき棘」(レベッカ・ズロトヴスキ監督)、「消えたシモン・ヴェルネール」(ファブリス・ゴベール監督)など長編12作品が上映される。
一方、関連イベントとして、 『クロード・シャブロル特集~映画監督とその亡霊たち~』が、東京ユーロスペースで6月25日(土)から7月1日(金)まで、また東京日仏学院で7月2日(土)から7月24日(日)まで、それぞれ催される。


映画「軽蔑」―獰猛で破滅的な愛の寓話―

2011-06-14 22:00:00 | 映画


     梅雨明けの待ち遠しい、この頃だ。
     この映画は、愛と狂気の狭間で揺れる、男と女のドラマである。
     それは、破滅的で命がけの純愛だったのか。
         芥川賞作家・中上健次最後の長編を、廣木隆一監督が映画化した。

     中上建次は、1992年に46歳で夭折した作家だ。
     原作は朝日新聞に連載され、死の1ヵ月前に単行本として刊行された。
     文学の、重層的な底力を体感させる作家だ。
     この作品には、敢えて若い女性の目線から紡ぎだす、不思議な清冽さがあって、一種獰猛な恋愛小説だ。

新宿歌舞伎町で、カズこと二宮一彦(高良健吾)は、兄貴分の伊藤(村上淳)から、600万の借金を帳消しにする代わりに、ポールダンスバー‘ニュー・ワールド’の強襲を命じられる。
伊藤はそこで、自分の属する組に断わりもなく、賭博を行っていた。
カズは、そのダンスバーを襲った。
その店には、カズが恋焦がれていたダンサーの矢木真知子(鈴木杏)がいた。
混乱のさなか、そこから真知子を連れ出したカズは、その勢いのまま駆け落ちを提案する。
そして、孤独な二人は、一瞬にして恋に落ちた・・・。

カズの衝動的な情熱に流されるまま、二人はカズの故郷で、新しい生活を始める。
カズはまじめに働くことを知らず、好き勝手に生きてきた、地方の資産家の一人息子だった。
だが、真知子は、田舎町での生活にうまく溶け込めない。
その上、カズとカズの家族らとの確執などもあって、「ここじゃ、五分と五分でいられない」と、真知子は、引き裂かれる想いでカズのもとを去る。
愛すれば愛するほど、運命が二人を隔てていく。

真知子はひとり東京に戻り、再びダンサーとしての生活を始める。
傷心のカズは、真知子を追って新宿のクラブへ・・・。
カズの熱心な説得で、ふたたび故郷に舞い戻った二人は、お互いだけを信じて結婚する。
周囲からも祝福されて、今度こそ固く結ばれたはずの男と女だった。
ところが、真知子の不在時に、カズがこしらえたカジノ賭博での借金は、想像以上に膨らんでいた。
・・・やがて、幼い頃からカズを知る高利貸しの男、山畑(大森南朋)の魔の手が二人に近づいていく・・・。

非情な現実から逃れようともがく、二人・・・。
それは、破滅的で、命がけの愛であった。
廣木隆一監督作品「軽蔑」は、確かに獰猛だが、ピュアな核心を持った愛の寓話ともいえそうだ。
人間は、行き場を失ったとき、どうなるか。
人間は、どこまで動物的になれるか。

瞬間瞬間を、生身で行きたいとするカズのような男もいる。
どんなに強い愛が貫かれていても、この作品でよく使われる五分と五分の関係を保とうとしても、それは次第に崩れていくのだ。
結局、二人は、身を滅ぼしていくことしかできなかったのか。

廣木監督という人は、82年の監督デビューだそうだが、映画「軽蔑」では、男と女の剥き出しの複雑な関係を、鋭くも優しい眼差しで切り取っていく。
原作の持つ雰囲気は生かされているが、人物描写はどうも子供っぽく、俗っぽ過ぎるし、安易だ。
相思相愛というにしては、決して添い遂げることができない男と女の運命と逆境のラブストーリーで、脚本を手がけた奥寺佐渡子「八日目の蝉」もそうだが、陰影のエモーションが、もつれ合う物語の呼吸をよくつかんでいる気はするのだが・・・。
ドラマは、原作に沿って破局から破滅へと突き進むのだが、それはあくまでも大筋だ。
撮影現場は、すさまじいまでに過酷だそうである。
ただ、この作品と出会ったことで、高良健吾鈴木杏も、この若手二人は、それなりにひとまわり成長したのではないか。


映画「再生の朝に―ある裁判官の選択―」~絶望から希望へ~

2011-06-11 10:30:00 | 映画


     中国河北省で、実際に起きた事件をもとに描かれた作品だ。
     刑法改正の狭間で、一体何が起きたのか。
     裁判官の勇気ある決断が、一筋の光明をもたらしたドラマである。

     大切なものを失い、絶望の中で光を見つけようとする人々の、喪失から再生までの道のりを綴る。
     実力派リウ・ジエ監督による、中国映画だ。
     リウ・ジエ監督は、いま中国でも最も期待される監督の一人だ。






 1997年、中国北部の河北省にある小さな町・涿州(たくしゅう)市・・・。
裁判官ティエン(ニー・ダーホン)は、一人娘を盗難車によるひき逃げ事故で亡くしてから、無気力に暮らしていた。
ティエンは、法に忠実に淡々と仕事をこなし、娘の死から立ち直れない妻とともに過ごしていた。
二人が、唯一顔を合わせるのは食事の時だけで、夫婦の生活には会話もほとんどなかった。

ある日、車2台の窃盗で捕まった青年チウ・ウー(チー・ダオ)を、裁判にかけることになった。
そんなとき、腎臓を患う地元の有力者・リー社長(ソン・エイシュン)は、チウ・ウーの腎臓が自分に適合すると分かり、死刑が執行されないよう手回しをする。
ティエンは、法に従い、チウ・ウーに極刑を宣告するが、その後に刑法が変わり、新法ではチウ・ウーは死刑に値しないということが判明する・・・。

だが、刑の執行日が訪れる。
何の罪もなく死んでしまった娘、自分のためなら他人の命など何とも思わない社長、残された家族のために臓器を売ることを選択する青年、そしてそばにいてくれる妻の存在・・・、そこには様々な想いが交差する。
大きなものを失い、初めて人の痛みがわかるようになった裁判官・ティエンは、被告の死刑執行の直前、決然として、ある行動に出るのだった。

この中国映画「再生の朝に―ある裁判官の選択―」は、中国での上映を皮切りに、ヴェネチア国際映画祭他、数ある映画祭にも出品され、表彰されている。
中国で、実際に、車2台の窃盗で死刑となった青年のニュースを元に作られた本作は、刑法改定の狭間で起きた人々の運命を、裁判官の葛藤を軸に、粛々と描いている。

1997年当時の、中国の刑法や司法の状況を知らないと、理解しにいく面があるかもしれない。
現在の時点でこの映画を観ると、確かにありえない話に見える。
しかし、1997年当時は、これが当たり前で、誰ひとりおかしいと思った者はいないそうだ。
同じように、いま起きていることを、今日当たり前と思っていることが、10年後にはおかしい事件になっているかも知れない。
そのあたりに、いまの社会を見るひとつのヒント、それも啓示的なヒントを、リウ・ジエ監督は提示している。

絶望の中に光を見つける。
それが、生きていくということだ。
多くの観衆は、感動的なラストシーンに納得する。
決して、明るいドラマとは言えない。
淡々とした描き方が、むしろこの作品には合っているようだ。
法に従い、裁くのか。
それとも良心に従うのか。
この小品は、家族の再生を描く、ヒューマンドラマだ。


映画「SOMEWHERE」―父と娘のかけがえのない時間―

2011-06-09 22:00:00 | 映画


     父親の忘れかけていた日常と、娘にとっての忘れられない時間・・・。
     親子の触れ合いを優しく見つめて、ソフィア・コッポラ監督が描く新境地だ。
     実際の父との思い出や、二児の母である自身の経験が投影されている。
     人生を見つめなおす、ヒューマンドラマではあるが・・・。

             ハリウッドの映画スター、ジョニー・マルコ(スティーヴン・ドーフ)は、LAにあるホテル“シャトー・マーモンド”で暮らしている。
毎日フェラーリを乗り回し、パーティーでは酒と女に溺れ、セクシーなポールダンサーを部屋にデリバリーする生活である。
彼のそんな日々は、表面的な華やかさとは裏腹に、実は孤独で、空虚なものだった。

ある日、彼のもとに、前妻と同居する11歳の娘クレオ(エル・ファニング)が訪ねてくる。
久しぶりに、娘と過ごす時間は、親密で穏やかななものであった。
ジョニーがまだ寝ている間に、朝食の支度をするクレオ・・・。
卓球、プール、読んでいた小説の話、それは本来の父であれば、父と娘が触れ合うごく普通の風景であった。

クレオと別れる日がやってきた。
ジョニーは、クレオとの別れ際になって、ようやく娘に傍らにいてやれなかった自分を謝った。
ひとりきりで帰ったシャトーの部屋は、いつもとまるで違っていた。
やがて彼は、自堕落な生き方が置き去りにしてきた、大切な何かに気付いていくのだった・・・。

このアメリカ映画「SOMEWHERE」で、これまで「ロスト・イン・トラストレーション」をはじめ、少女たちのうつろう心を繊細に映し出してきたソフィアが、次に描いて見せたのは、娘との触れ合いをきっかけに、ここではないどこかへと人生を歩きだす、不器用な父親の姿なのだ。
フランシシス・コッポラとの思い出を、娘クレオの視線と重ね合わせて、父の優しい想いを綴る、パーソナルな物語だ。

だが、現代社会の、孤独感や悲劇をとらえようとした作品と見受けられても、どこかゆるい。
この作品、ヴェネチア国祭映画祭金獅子賞受賞作品と聞いても、いまひとつピンと来ないのだ。
物語が展開する中で、親権をめぐる争いに発展するような、人工的なメロドラマは一切ない。
大きな、ドラマティックな出来事は必要ないというのが、どうやらソフィア・コッポラ監督の言い分のようだ。
映画を観て、希望を感じられればそれでいいというのだが、どうも物足りない気持ちだった。
作品の出来栄えがどうしようもなく悪い、というほどでもないのだけれど・・・。

仲の良い夫婦がいて、その間に娘がいるという設定ではなくて、女の子というのは、両親がよりを戻してくれることをいつも心から願っているはずで、人間の心の移り変わりを通して、家族の絆を描いているわけだ。
詩的な哀しさに、優しい笑いを背景に、静かな切なさが映画のアクセントといったらいいか。
ただ、スクリーン上で観る父娘の関係に、十分な説得力やインパクトが感じられるかというと、そうでもない。
スティーヴン・ドーフの、ハリウッドでの自堕落な“生活”を、なんとなく格好よく描きすぎているきらいも感じる。
一方で、汚れない瞳でみずみずしい11歳の娘を演じる、エル・ファングが天使のように見える。
これはとてもよかった。
でも、ヒューマンドラマの意欲作のわりには、やや不完全燃焼の作品だ。


映画「マイ・バック・ページ」―激動の時代に翻弄された若者の敗北と挫折―

2011-06-08 06:00:00 | 映画


      実在の事件を通して、山下敦弘監督が描く、青春物語だ。
      高度経済成長期の安保反対闘争のさなか、ごく普通の若者たちの誰もが、危機意識を持っていた。
      学生たちは、何かを変えようと、学生運動に身を投じていた時代だった。
      この時代、彼らは暴力で世界を変えられると信じていた・・・。

      評論家の川本三郎が、40年前の体験を綴った原作をもとに、34歳の山下監督が映像化した。
      山下監督は、この時代にはまだ生まれていない。
      実際の学生運動や安保闘争を、見ているわけではない。
      この作品は、当時の空気感を伝えながら、今に通じる教訓もある。
      本作は、この事件が何故起こったかということと、事件に関わった二人の若者の話でしかない。
      でも、確かにこの時代に、何かがあった・・・。

 1969年、沢田(妻夫木聡)は、新聞社で週刊誌編集記者として働いていた。
彼は、激動する“今”と葛藤しながら、日々活動家を追いかけていた。
それから2年、取材を続ける沢田は、先輩記者の中平(古舘寛治)とともに、梅山(松山ケンイチ)と名乗る男からの接触を受ける。
梅山は言った。
 「銃を奪取し、武器をそろえて、我々は4月に行動を起こす」・・・と。

梅山は、怪しげな政治組織“赤邦軍”を名乗り、過激な事件を起こそうとしていたのだ。
沢田は、その男に疑念を抱きつつも、不思議な親近感を覚える。
そして、事件は起こる。
 「駐屯地で自衛官殺害」というニュースが、沢田のもとに届いた。
沢田は、社会に対して観察者である自分の仕事のうしろめたさを感じ、取材相手と直接関わりあいたいと考え始めていた。
・・・そうして、饒舌に熱っぽく語る梅山に、沢田は深入りしていく。

これまでも、学生運動や新左翼運動を描いた作品はある。
でも、山下監督は学生運動経験者の子ども世代だが、時代考証もその再現性も驚くほどしっかりしている。
個人的にも、学生運動や安保闘争に一時身を置いた人間として、この作品を観ながら、そうだったなあ、あんなことがあったよなあと、ほろ苦い記憶を呼び起こされる。
団塊世代が観ると、、きっとそう思うに違いない。

山下敦弘監督映画「マイ・バック・ページ」は、革命家の起こした殺人事件をめぐって急展開、主人公と革命家の“政治劇”は終わりを迎えるが・・・。
当時、革命を夢見た多くの青年たちは、その運動に挫折し、ほとんどはサラリーマンになった。
今でも、思い出すことがある。
国会議事堂前での安保デモ・・・、機動隊の車両の屋根にのぼって、「安保反対!」を叫んでいた若者の姿や、ラジオで実況放送中のラジオ日本(当時のラジオ関東)の男性アナウンサーの、「いま警官が警棒で私の頭をガンガン殴りつけています、まさに暴力です、恐ろしい暴力です」と、マイクを握って絶叫していたことを・・・。
あの狂ったような熱気、あの凄まじいエネルギーは、何だったのだろう。
そうだ・・・。
あの日、東大生の樺美智子さんが、このデモに参加していて機動隊と衝突し、不幸にも亡くなったのだった。

いまの時代より、ずっとずっと過激な時代の若者たちは、何を求め、何を手に入れたかったのか。
理想を追い求めた若者の、熱い青春ドラマを、いま勢いのある若手俳優二人が初共演している。
当時の先鋭的なマンガや、アメリカのロックやニューシネマ、若者たちが夢中になった文化や風俗が登場し、リアルな生活様式も見事に再現される。
描写には、説得力もある。
山下敦弘監督は、いまの自分たちが生きる世界の原点を、この時代の青春の蹉跌の中に見出したのではないか。

若者たちが、熱に浮かれたように学生運動に傾倒し、時代のヒーローになるという自己実現を夢見る男(梅山)と、スクープを取るという職務と個人的な感情の間で葛藤を重ねるナイーブな男(沢田)・・・。
そんな理想と現実の狭間で揺れる彼らの姿は、どこか薄っぺらな膜でおおわれたような、閉塞感の中で生きる現代社会の人間なら、きっと誰でも、身に覚えがあるのではないだろうか。

あるひとつの時代を描きながら、そこに、普遍的な青春の光と影を見て、そくそくと心にしみるものがる。
昭和の懐かしい香りは、決して古臭いものではないし、ひとつの時代を意識し考えるとき、非常に興味深いものがある。
激動の時代を生きた若者たちの、敗北と挫折のドラマである。
おやっと思ったのは、ラストシーンのひとこまで、不思議な感慨をもたらす上手い演出だ。


政治の迷走いつまで―怒号と罵声のペテン国会―

2011-06-05 11:00:00 | 雑感

参議院予算委員会は、菅首相の退陣をめぐって、大荒れとなった。
国会中継は、凄まじいものだった。
菅首相の悪名は高まる一方で、とうとうペテン師とまで呼ばれて・・・。
正体見たり、何とかというではないか。
菅政権発足から、間もなく一年になろうとしている。
しかし、政治は、依然として不毛の空白を続けている。

ここへきて、退陣表明しながら居座りを続けているように見えた菅首相に対し、身内からも早期退陣の強い声が起こった。
当然だ。
このままでは、野党の猛反発もあって、協力を得られるはずもなく、国会運営さえままならないからだ。
原発事故を隠れ蓑に、「これであと2年はやれる」と言って自らの延命を画した菅首相が、退陣の意向を固めたことを、閣僚に明言したと伝えられる。
まさか、これは誤報ではあるまい。

いま大切なことは、何をおいても、大震災と原発事故で惨憺たる状況下にある、東北の市民生活の復興だ。
何もかもが、遅々として進んでいない。
一刻の猶予もできない。政争をしている場合ではない。
しかし、いまの菅首相の手腕では、到底手におえるものではない。

大義がないとも言われる不信任案が否決されたことで、民主党の亀裂はまた一段と深まった。
むしろ、民主党が二分しようが、大連立を模索しようが、新党が生まれようが、かくなるうえは政界再編こそ必要だ。
きっと、そういう方向で動いていくに違いない。
自民も、民主も、あまりにも心もとない。国民は皆そっぽを向いている。
そうであれば、菅首相は速やかに辞任し(あるいは辞任させ)、一日も早く救国内閣を誕生させ、政策を強力に推し進めていくことだ。
やるべきことは、山のようにある。
それなのに、この体たらくである。
レームダック化し、瓦解寸前の政権にあって、誰がまともに政治と向き合うというのだろうか。
辞めると分かった首相を、誰も相手になどしない。

菅首相退陣論が相次いだが、ご本人も、いよいよ、これを受け入れざるを得ないと判断したのか。
特例公債法案やら、二次補正編成やら、そのほか諸々の法案を通す道筋も、ねじれ国会の状況の中で、いまのままでは立ち行かないだろう。
それは、もはや首相のリーダーシップなど全く期待できなくなっているからだ。
つまりそのことにも気づかずに、まだ何もめどが立っていない、自分はまだ責任を全うできていないといった理由で、今度もまたひたすら自分の延命を図ることはないだろうか。
これまで、散々詭弁を弄し、不毛な禅問答を繰りかえしてきた人の言葉を、誰が素直に信じるだろうか。


この世界は、いつも二転三転、急転があってもおかしくない。
何しろ、一寸先は闇なのだから・・・。
この未曾有の混迷、混乱から立ち上がって、国民生活を最優先の大転換を図って、不毛の政争に、いい加減に今度こそ終止符を打ってほしいものだ。
一説では、菅首相が8月までに退陣意向を固めたとされることで、後継首相を決める「民主党代表選」の駆け引きが、早くも水面下で慌ただしくなってきた。
この夏、迷走政治が大きく動く・・・?
いや待てよ、Xデーは、そう遠い先ではないともささやかれているが・・・。


内閣不信任案否決―姑息でふざけた田舎芝居―

2011-06-03 16:00:00 | 雑感

菅内閣不信任案は、採決直前まで、賛成と反対が拮抗していた。
予断の許されない、波乱が予想された。
決起の誤った情報が、騒ぎをいたずらに大きくしていた。
ところが、すったもんだの挙句ふたを開けてみれば、不信任案は反対多数で否決された。
民主党の大量造反は、ぎりぎりのところで回避された。
だが、これは実におかしいと言わざるを得ない。

衆議院本会議直前の、鳩山前首相と菅首相との会談で、菅首相は、震災対策のメドがついた段階で、退陣することをほのめかしたとされる。
しかし、ここで取り交わされた文書は「確認事項」であって、震災復興への取り組みについての覚悟に触れているものの、「退陣」「辞任」の一言も入っていない。
もちろん、両者の署名もない。
これは何なのだ。
いまになって、首相退陣の時期をめぐって、どうやら新たな火種がくすぶっている。

鳩山氏は、6月中をメドに菅首相が退陣するとの認識を持ったというが、どこまで正気なのか。
このことがあって、首相退陣と不信任案否決を引き替えに、大量造反は一応回避された。
ずいぶんとあっさりしたものだ。これまでの騒ぎは何だったのだろう。
二人とも大人同士で、一体何を約束したのか。

おかしいのは、菅首相が、具体的な退陣の時期については、一切明言していないことだ。
この後で、岡田幹事長は、記者団の質問に答えて、この会談はあくまでも確認事項であって、辞任の条件ではないとまで断言した。
鳩山氏は、嘘をついているといって怒りをあらわにしたが、時すでに遅し・・・。
何もわかっていない。どこまでお坊ちゃんなのか。
まんまとやられたというのは、この人のことをいうのではないか。
大体、鳩山氏が出てくるとろくなことはない。

確認事項(書面)に、「復興基本法」「二次補正」の文言はあっても、それは「復興」にめどが立ったら退陣するということで、首相が「まだ復興にめどが立っていない」と言えば、それまでだ。
菅首相は、いつまでも、言い訳をしながら続投できるということだ。
これでは、「だまし討ち」にもなりかねない。
鳩山氏も鳩山氏だ。あきれてものも言えない。
両者に、こうも齟齬があるとは・・・。
「辞任」の文字の一言もない、玉虫色の確認事項が、内閣不信任案を否決に導いた。
否決された時、菅首相は薄ら笑いを浮かべていた。
・・・実に、後味の悪い、ふざけた茶番劇である。ひどい話だ。

菅首相は、お遍路をまた続けるそうだが、‘早期退陣’で巡礼を再開する今度の札所は「延命寺」だそうで・・・。
まあ、そんなことはどうでもいい。
貴重な時間を費やした、とんだ田舎芝居に大震災被災地の人々は怒っている。
そして、こうも言っている。
 「総理大臣に、誰がなったって同じだ。国会ですったもんだやってないで、一日も早く復興させてほしい。私らは、そんなこと誰だっていいんだ」・・・。

 「急流で馬を乗り換えるな」という先人の言葉があるが、激流で立ち往生し、にっちもさっちもいかなかったら、いよいよ馬を乗り換えなければならない。
たとえ‘命がけ’の乗り換えになっても、その方が、このまま流されるよりはまだましだと思う考え方にも、一理ある。
究極の危機感、悲壮感は、そういうものだからだ。
野球でも、その他のスポーツでも、思うように実績が上がらず、無能な監督やコーチが失敗を重ねていたら、退陣を突き付けるのは当たり前のことだ。
そんなことは、子供だって知っている。
首相に代わる、人材がいないことはない。
少なくとも、彼以下(!)の人材はいないだろうし、極端だけれど、まだ他の誰かの方が・・・、とまで言われているからだ。
今の首相の仕事ぶりなら、出来ないわけがない。
頭を替えるくらいのことは、一日か二日あれば出来るといわれるし、現在の国難に立ち向かうには、菅首相でなくてもその気になればやれることだからだ。

原発情報は、隠蔽と訂正、嘘と真実が二転三転し、震災で避難している人たちの、本当の情報も100%伝えられていない現状だ。
まだまだ知らされていない情報が、いくらでもある。
いま、政府、官邸、東電、被災地どこに目をやっても、気の抜けない有事緊迫の日々だ。
国民から選ばれた国会議員は、身命を賭して、それこそ不眠不休で、国家国民のことを考えて頑張ってもらいたいものです。

世論調査によると、いま7割の国民が、一日でも早い首相退陣を求めている。
聞いて驚く、7割だ。
もし、国民を裏切るようなことがあれば、政権交代は何だったのかということになる。
いや、かなりの国民はそう思っている。
何故、いまの時期に不信任案だったのか、ということもわかる。
もう待てぬ、そこまでせっぱつまっているということの裏返しだ。
福島のある老人は、とにかく首相がすぐにも変わってもらって、それから本腰を入れて復興事業に取り組んでもらいたいとも言っている・・・。
そういう民の声を、菅首相はどう聞くか。

日本人は忍耐強いといわれる。
こんな国難のさなかで、政府の対応のまずさに怒りを覚えながらも、暴動ひとつ起きない。
デモもない。クーデターもない。
あまりにも静かである。あまりにも・・・。
あきらめだろうか。

嫌な言葉だが、メルトダウンは原子炉だけではないようで・・・。
菅政権も、いま日に日にメルトダウンしているのではないか。
先行きの全く見えない闇の中を、何もかも手さぐりでさまよい続けている。
国民は、それにどこまで耐えられるだろうか。
果たして、民主党政権は、この未曽有の大不況に対応できるのだろうか。

挙国一致も、挙党一致もできない。
強力なリーダーのいない、情けない政権だ。
こんな政権が、まだまだ続くのである。
6月2日、イギリスのフィナンシャル・タイムズの社説は、菅首相がとうとうレームダックになってしまったと報じている。

・・・やがて梅雨が明けると、炎暑の夏の訪れとなる。
東日本大震災の被災地では、発災から3カ月になるというのに、不自由な生活を強いられている避難者はは10万人を超える。
仮設住宅を建てるという公約も反故にされ、原発収束の見通しも立たない。
いつまでも不毛の政治が繰り返される中で、避難者の憤怒と怨嗟の悲鳴は、いまだ止む気配さえもない・・・。