徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「パーマネント野ばら」―無造作な、日常の断片の猥雑さ―

2010-06-29 21:25:00 | 映画

海辺の町の小さな美容室を舞台に、女性群像の一種の恋模様(?)を描いている。
若手の吉田大八監督が、西原理恵子の原作を映画化した。
女たちが遭遇したり、引き起こしたりする、日々の出来事・・・、それらを、無造作かつちょっぴり奔放に綴っている。

小さな美容室‘パーマネント野ばら’は、その町の女たちのザンゲ室のようなものだ。
主人公のなおこ(菅野美穂)は、離婚をして、一人娘を連れて出戻った。
美容室は、母まさ子(夏木マリ)が切り盛りしている。
町の女たちは、日々ここへやって来ては退屈な日常を過ごしている。

女たちは、いろいろな想いを抱えており、お互いの小さな嘘を交えながら、悲喜こもごものおしゃべりに興じる。
・・・自分の男が惚れてしまった女を車で轢こうとしたり、ギャンブルに狂った夫が山で野垂れ死にしたり、一目ぼれした男を追い回したり、といった具合だ。

なおこの友人で、フィリピンパブを経営しているみっちゃん(小池栄子)は、店の女の子と平気で浮気し、金の無心ばかりする夫ヒサシ(加藤虎ノ介)に頭を悩ませている。
みっちゃんと同じくなおこの友だちのともちゃん(池脇千鶴)は、男運のないダメ男たちから散々な仕打ちを受けてきたし、なおこ自身は高校教師をしているカシマ(江口洋介)と恋をしているが、その恋にも秘密が隠されていた・・・。

物語は断片的だ。
ときにどぎつい騒ぎがあったり、それが、何と健康的な力強さを放っていることも事実だ。
女たちは、それぞれが悩みを抱えながらも、生命力に溢れていて、元気な塊のように見える。
ただ、彼女たちの持つドラマのディテール(細部)になると、何故、どうして、それから・・・?といった展開も帰結も、突込みが浅くどこかバラバラではっきりしない。
これも、一種の「女の子ものがたり」なのだろうか。

ドラマは、猥雑で粗野で、しばしばやたらと騒々しい。
たったひとことの台詞や情景によって、ドラマはいろいろと変わりようを見せるものだが、底辺にあるのは、少しばかり哀切なラブストーリーだ。
なおこを演じる菅野美穂には、女の持つ微妙な曖昧さがあるし、彼女たちの誰もが生きているその生き方の中に、小さな嘘があり、小さな狂気がある。
ほかの女のところに転がり込んだ内縁の夫とか、ギャンブルに溺れて行方不明の男とか、登場する女たちの相手は、総じてろくでなしばかりだ。
だからといって、もう男はこりごりだとならないあたり、女たちの業の深さものぞく。
逆に、そんな女たちが可愛く見えてきたりするから、妙だ。(笑)

作品の組み立ては、きわめて無造作だ。
無造作な秀作だという人もいるから、作品の評価は別れるのではないか。
もちろん、それが演出であっても、強い言い方をすれば、投げつけるような人物の描かれ方も、気になるといえば気になる。
女たちに比べて、男の影はもっと薄い。
吉田大八監督
パーマネント野ばらは、女性映画のように見えて、むしろ男どもが見るべき映画かもしれない。
吉田ワールドには、憎めないが、どこか人間の業の深い、ハミ出し者たちがよく登場するらしい。

映画は、美容室に集まる小母様たちの、炸裂する(?)‘ガールズトーク’を中心にすえて、涙目ながらも笑い飛ばそうとする日々の移り変わりを、野放図に描いている。
主要な女性登場人物たちは、そろいもそろって男運の悪い女たちだ。
それはそれでよろしい。
笑わせてやろう、泣かせよう、ほろりとさせようといった演出がみえみえなのは、これも若手監督のこだわりか。
ふざけた話、奇想な演出は、ドラマをぶち壊してしまうことだってある。
美しい空と海に囲まれた、小さな田舎で起こった、ある哀切で断片的な物語というと、いかにも情感があって聞こえは綺麗だが、そんな体(てい)のいい上出来の作品といえるかどうか。


映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」―凄絶な流転の生涯―

2010-06-26 10:00:00 | 映画

少し前に公開され、現在も全国縦断公開中の作品だ。
16世紀のイタリアを代表する、バロック絵画の巨匠カラヴァッジョの生涯を描く、アンジェロ・ロンゴーニ監督の、イタリア・ドイツ・フランス・スペイン合作映画だ。
天才画家の破天荒な半生を綴って、美しくも罪深いドラマである。

名撮影監督ヴィットリオ・ストラーロによる、カラヴァッジョの絵画そのものの陰影の濃い映像は、見事につきる。
天才画家のゆがんだ人生に、美しさがだぶって、物語はなかなかドラマティックで面白い。

あるときは時代の寵児に、あるときは反逆者の烙印を押された画家カラヴァッジョは、華やかなルネッサンスが終焉を告げた時代に、徹底した写実描写、劇的な感情表現で、数々の傑作を遺したといわれる。

映画なのに、さながら動く名画(絵画)を観ている趣きが溢れている。
作品も非常に芸術的な作りで、この点は納得だ。
決して安っぽい作りではなく、衣裳から風景、小物にいたるまで、描写も緻密である。
芸術(アート)好みには、これくらい徹底しないと楽しめないし、よく出来ている。



16世紀のイタリア・・・。
ミラノで絵の修行をしていたカラヴァッジョ(アレッシオ・ボーニ)が、芸術の都ローマに出るために援助を依頼した相手は、コロンナ侯爵夫人(エレナ・ソフィア・リッチ)であった。
幼い頃から恋い焦がれてきた美しき夫人は、彼のために何でもすると約束してくれた。

・・・やがて絵の評判をききつけた、デルモンテ枢機卿(ジョルディ・モリヤ)の援助まで受けて、カラヴァッジョは教会の絵に着手することになる。
完成した聖堂の絵は、多くの人々の賞賛を浴び、彼の名声は一段と高まる。
その一方で、無名時代の友人たちとの、放蕩三昧、喧嘩、娼婦たちとの付き合いに、眉をひそめる者たちもいた。
そうして権力者の庇護を失い、決闘で相手を殺してしまったカラヴァッジョは、死刑の判決を受け、ローマから逃亡することになる。

カラヴァッジョの作品は、観るものに強烈な印象を与える。
本作は、女性との恋愛も絡め、ほぼ順を追って年代記風に彼の生涯を追う。
光と影のコントラストが強く、彼の絵を再現した映像は見応えがある。
当時の人たちの生活ぶりも、カラヴァッジョの色彩にアレンジした。

映像が絵画そのもので、構図が見事に決まっている。
さすがに、イタリア・バロック芸術の巨匠カラヴァッジョの絵画そのままである。
天才画家カラヴァッジョの、数奇で変転極まりない人生は、こんなにもドラマティックだったのか。
作品は、美術映画としても十分楽しめる。
リアリズムに徹底した独創的な表現は、当時はもちろん現代でも根強い人気を保っている。

才能を信じ、情熱的に愛し、友を愛し、権力や金よりも自己の信念を貫き通した、カラヴァッジョの生涯は短かった。
そして彼は、やがて破滅への道をたどることになる。
カラヴァッジョは、その破天荒な人生を急ぎ足で駆け抜け、逃亡の果てに38歳の若さで野垂れ死にする。
残酷なエンディングだ。
命までも削って描かれた彼の絵画に宿る、光と影、美しさと醜さ、痛苦と快楽、それらはすべて彼自身ではなかったのだろうか。

アンジェロ・ロンゴーニ監督伝記映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影」は、ドラマのはじめの部分で、ややかったるいところもあるが、中盤からラストにかけて一気にひきつけられる展開だ。
この作品、結構残虐なカットも容赦なく含まれているので、気の弱い人は要注意だ。


「結果責任」―あるテレビ・ドキュメンタリーを見て―

2010-06-24 15:35:00 | 随想

沖縄戦後65年、「慰霊の日」に菅総理が就任後初めて沖縄を訪問した。
しかし、沖縄の基地負担に対して、謝罪と感謝がいまの沖縄の人たちにどう伝わったであろうか。
菅総理を迎えたのは、群衆の怒号と罵声であった――

去る19日夜、サッカーW杯日本対オランダ戦が日本全国を熱狂させていた、ちょうどその時間帯である。
この時間、NHKテレビは、「密使 若泉敬 沖縄返還の代償」というドキュメンタリーを放送していた。
この貴重な番組を見た人は、どの位いただろうか。
番組を見たという、ある主婦は、とてもサッカーどころではない話だったと述懐している。

14年前、沖縄にある国立戦没者墓苑に跪いて、ひたすら祈り続ける男の姿から、このドキュメンタリーは始まる。
佐藤栄作首相の時代に、沖縄返還問題で、アメリカと「密約」の交渉をした、若泉敬氏である。
若泉氏は、自分の努力が報われなかったことで、沖縄に対する「結果責任」をとるという「遺書」を残して、その1ヵ月後自死した。

当時、若泉氏は佐藤栄作首相の「密使」として、沖縄返還交渉にからむ、条文の作成に携わっていた。
いわゆる、沖縄の「密約」だ。
これには、有事の際に、核兵器を日本に持ち込むことを承諾し、沖縄米軍基地を期限の定めなく米軍が使用できることを取り決めた、恐るべき内容が記されていた。
それこそが、アメリカの日本への沖縄返還の条件であった。
沖縄返還から38年経ったいま、在日米軍基地の74%が沖縄に集中しているのだ。
米軍にとって、この沖縄の基地は不可欠のものだった。
これからも、そうなのか。

世界で唯一の核被爆国である、日本が提唱していた非核三原則は無視され、核が日本に持ち込まれていたという厳然たる事実・・・。
当時のしたたかなアメリカの対応は、敗戦国としても、腹立たしさを感じない日本人はいない。
若泉氏は、そのときの日米交渉の模様を記した文書とともに、200通の手紙を残していた。
それは、政府をはじめ、沖縄の問題に真直ぐに目を向けようとはしなかった人々への、静かな叫びであった。
若泉氏は、その他に3万点にも及ぶメモや書類を、死の直前にきれいに処分していた。

故佐藤栄作首相は、このときの「密約」を墓場まで持っていくつもりだったのだ。
そこまでしなければ、沖縄返還はならなかったのだ。
しかし、「返還」は本当にこれでよかったのか。
ドキュメンタリーは、そのことを鋭く問いかける。

日本の総理大臣が、誰に代わろうとも、日本政府が沖縄の米軍基地をなくすことは不可能に近いことなのだ。
「NHKスペシャル」は、沖縄の返還をもたらした「悲劇」をあからさまにする、非常に貴重な番組を放送してくれた。

沖縄返還といえば立派に聞こえるが、実体は名ばかりで、38年間何も変わっていない。
38年間ですよ。
これから先のことなど、誰にも分からない。
基地を持つ日本の、いや沖縄の悲劇がここにある。
そして、一体いつの日までそれは続くのか。
佐藤首相は、どのような気持ちでノーベル平和賞を受賞したのだろうか。

私たちは、いまでこそ実り豊かな本土の、死の盾となった沖縄について、もっと関心を持つべきではないかと思った。
20余万の人々の霊に、何をもって答えればよいのか。
この感動的なドキュメントを見終えたとき、目頭が熱くなった。
昨日も今日も、間違いなく日本の国の沖縄の空を、民家の屋根すれすれに、すさまじい轟音を響かせて、戦勝国の軍用機が飛行している。
沖縄は、何も変わっていないし、何も終わっていない。


映画「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」―飢える魂の慟哭!―

2010-06-22 08:00:00 | 映画

希望もない。救いもない。
それでも、この地に、この国に、とどまるしかないのか。
過激で、生々しい青春映画の登場だ。
大森立嗣監督が、閉塞の人生を生きている若者たちの姿を果敢に描いた、注目作だ。
彼の描く、破壊と生、死と希望の向こうに一体何が見えるのか。

現代という時代が、だらりと弛緩しているような時代だとすれば、その表皮を引き剥がすような、反時代的な作品といえる。
反時代的・・・、それはそれでよいではないか。
強烈な作品である。
青春というのは、本来強烈なものだし、だから面白い。
ゼロ時代の若者たちの叫びは、もはや怒りを忘れてしまった日本という社会への、大きな問いを投げかける。
そうなのだ。
このままでは、若者たちには生きる場所すらなくて、生きようにも生きられないのだ。

ケンタ(松田翔太)とジュン(高良健吾)は、同じ施設で兄弟のように育った。
工事現場で、ひたすら壁を壊す“はつり”と呼ばれる仕事をしている。
低賃金で、働く環境は劣悪であった。
職場では、先輩格の裕也(新井浩文)による、理不尽で執拗ないじめがあった。

ある日、二人はナンパに出かけ、ブスな女の子カヨちゃん(安藤サクラ)に出会った。
それ以来、ジュンはカヨちゃんの部屋に転がり込んでいた・・・。
裕也の腹には、消えずに残る何本もの傷痕がある。
その傷は、ケンタの兄カズ(宮崎将)によるものだった。
ケンタが13歳の時、カズは幼女誘拐事件を起こしていた。
事件のことを馬鹿にした裕也の腹を、カッターナイフで幾度も切りつけたのだ。
その賠償金として、裕也はケンタの給料を天引きし続けている。

ある夜、ケンタとジュンは仕事場へ向かった。
カヨちゃんは、そんな二人に付いていった。
今夜、二人はある計画を実行するのだ。
それは、裕也の愛車をハンマーで破壊し逃げることだった。
二人は裕也の車の上にとび乗り、力いっぱいハンマーを振り下ろした。
その光景に、カヨちゃんは歓声を上げて喜んだ。

二人は、カズのいる網走に行くことを決めた。
仲間は、ケンタとジュンとカヨちゃんだ。
彼らには、お金も知恵もない。
車はひたすら北を目指した。
すでに、後戻りの出来ない旅が始まっていた。

いまもっとも輝いているといわれる、三人の俳優陣のぶつかり合いは、それぞれが強烈な印象で青春のドラマを繰り広げるのだ。
ケンタとジュンは、誰からの愛情も感じることなく育った二人だ。
二人は友情を持つでもなく、家族でいるのでもなく、二人の間には独特の距離感があった。
カヨちゃんは、「ブス」なところが可愛い女だ。
彼女は、誰でもいい、ひたすら誰かから「愛されたい」という願望を、本能的に抱いていた。
女とは、そんなものなのだろうか。

苛酷な労働現場から脱け出した彼らは、ロードムービーの旅を続けるのだが、それはあくまでも見せかけでしかない。
行き場を失ってしまった三人の若者が、そこへ行けば何かがあるかも知れないと思うだけだ。
彼らの言うセリフの中に、<地の果て>という言葉が出てくる。
そことは、<地の果て>を目指す逃避行か。

男二人が、虫けらのようにカヨを捨てる場面は、まがまがしく実に悲しい。
社会の底辺を漂流する者同志が、意識しないままに、お互いに傷つけあう無残さは、逆にこのドラマを重々しく締めている。
主要登場人物三人が、生き生きとし、生々しく素晴らしいのだ。
男たちの悲しさも伝わってくるし、男にまとわりつく女の強さも画面を引き締めている。

登場人物たちは犯罪に手を染めており、どうにも生き方を選択できない。
あるいは、どこにも行くあてのない人々なのだ。
そんな、出口の見えない閉塞状況の中に、どんなリアリティがあるだろうか。
衝撃的なラストシーンで、ケンタとジュンは水平線の彼方を目指して消えてゆき、カヨちゃんはこの国の地平にとどまって、虫のようにはいずりまわっている。
この地から、それぞれの<地の果て>まで脱け出していこうとする二人と、とどまることしか出来ない一人・・・。
現代に生きる彼らを描くリアリティに、若者たちのおかれた今の日本の社会の縮図を見る思いもする。

ドラマのなかで、裕也が二人を追いかけてくる過程が省略されているのは、少し不満だ。
それから、バイクで突っ込むケンタが裕也と正面からぶつかるが、ケンタが撃たれたのか、裕也が撃たれたのか分からぬまま、画面が真っ白になる。
撃ったが当たらなかったということか。
よく分かりにくい場面だ。

いかにも切れ味のシャープな、これも日本映画のヌーベルバーグか。
どこかに希望を求めようとしても、ままならぬどん詰まりの人生を生きている若者たちの、反社会的で、ずっしりと重いテーマを扱っているが、ドラマの見応えは十分である。
大森立嗣監督映画「ケンタとジュンとカヨちゃんの国は、かなり粗削りな部分は気になるところだが、最近の日本の青春映画としてはよく出来ており、高い評価が与えられていい。
男たちはよく描かれていて、松田翔太、高良健吾、宮崎将らの個性的な演技が光っている。
俳優奥田瑛二を父に持つ、ブス女役の安藤サクラも好演だが、作品の中での女の描かれ方には、もう一押し突っ込んだ工夫があってもよかったと思われる。


映画「やさしい嘘と贈り物」―ある愛の奇跡―

2010-06-19 18:00:00 | 映画

・・・私を忘れてしまった夫、もう一度、私はあなたに恋をする。
ニック・ファクラー監督の、アメリカ映画である。
ひとり住まいの老人が、ほぼ同年齢の女性と知り合い、ほのぼのとした付き合いを始めるのだが、単に、それだけのやわなドラマではない。
映画に描かれるのは、老いや病の悲哀ではなく、年老いても、病になっても、変わらない愛があるというお話だ。

ニック・ファクラー監督は、自らが始めて恋をした17歳の時に書いた脚本を、弱冠24歳で初めて映画にしたのだ。
これも、若さと純真が描いた、<不朽>の愛の形かも知れない。
夢のような、しかし厳しい現実の物語、切ない大人の寓話なのだ。



アメリカの田舎町で、ロバート(マーティン・ランドー)は独り暮らしをしている。
昼間は近くのスーパーで働いているが、孤独の影が濃い。
彼は、それでも毎日身なりだけはちゃんとしている。
クリスマスが近くても、プレゼントを贈る相手はいない。
ロバートからロバートへ、と自分宛のプレゼントを包んでいる。

クリスマスを間近に控えたある日、ロバートが帰宅すると、家の中に見知らぬ女性(エレン・バースティン)がいた。
メアリーと名乗るその老婦人は、通りの向こうに住んでいて、この家の扉が開いているので、心配になって見に来たのだと言った。
最初は、驚きと怒りでロバートは身構えたが、メアリーに食事に誘われると、まんざらでもなさそうに、戸惑いながらも承諾する。

ロバートは、スーパーの若い店主マイク(アダム・スコット)に相談し、クリスマスの贈り物まで買い込んだ。
メアリーが、自分に行為を抱いていると、彼女の娘アレックス(エリザベス・バンクス)に聞かされ、まるで十代の若者のように胸をときめかせるロバートであった。

何だか奇妙で、どこかしら嘘っぽい。
話が出来すぎている・・・。
やがて、ちょっとしたサスペンスも手伝って、二人の恋が成就する頃になって、真実が明らかにされる。
実は、メアリーはロバートの妻で、マイクとアレックスは二人の子供なのだ。
どうやら、ロバートは認知症で、記憶を喪失していて、妻子のことも忘れてしまっていたのだ。
メアリーとの出会いは、ロバートを愛してやまない家族ぐるみの‘やさしい嘘’だったのだ――

被害妄想もあれば、突然訪れる夢のような興奮もある。
ロバートとメアリーの、思い出の品である、スノードームに象徴される愛の絆・・・。
クリスマスのイルミネーションが輝く、雪の夜のダンスシーンも、実にファンタジックである。
マーティン・ランドーエレン・バースティンは、ともにアカデミー賞俳優だ。
この二人の、名優カップル、品のある演技と存在感が、美化された映画の嘘をゆるし、観る者の心を癒してくれる。

ヒッチコックやスコセッシといった、数々の巨匠たちの作品に出演してきた名優二人が選んだのは、まだ24歳の若手監督だったのだ。
しかもニック・ファクラー監督にとって、本作の脚本を書き始めたのは高校時代で、何とこの作品「やさしい嘘と贈り物で、長編作品のデビューを飾ったのだ。
人生の大先輩である名優を相手に、新しい息吹を吹き込んで、家族のやさしさをみずみずしく描ききった。

妻から夫へ、娘そして息子から父へ、願いをこめて、もう一度向き合えるように家族はやさしい嘘をついた。
どこか切なく、きらめくような時間が、ひとときでも人生を豊かに演出する。
現実は苛酷だけれど、決して人生を諦めてはいけないというメッセージを、この映画は発信している。
孤独な老いに訪れた、ある愛の奇跡を描いており、やがて観ている者たちを優しい愛の再生へと誘ってゆく・・・。
観ても、損のない作品であることだけは確かだ。


映画「FLOWERS フラワーズ」―懐かしくて、新しい女たち―

2010-06-16 06:00:00 | 映画

いよいよ梅雨に入った。
この季節、そぼ降る雨の小径に、人知れず咲く紫陽花が美しい。

さて映画の方は、昭和の初期から現代まで、およそ70年間の、一家三世代にわたって交差して描かれる、女たちのドラマである。
主演級の女優を6人も登場させて、一本の糸のように、歴史を紡いでいく。
爽やかに、ときには力強く・・・。
それは、まるで6本の日本映画を撮るような、贅沢な試みだ。

世の中の環境が、大きく変化していた時代・・・。
結婚や出産、仕事に、誰もが恵まれていたわけではない。
離別や悩みを乗り越えて、自らの生き方を自らの力で切り開いていった女たちを、小泉徳宏監督は、難易度の高い映像表現を使い分けて、あまり違和感もなく撮り続けていった。

初期の場面ではモノクロで、アングルといい演出といい、小津安二郎木下恵介調だし、全編に渡り、色調や音楽、小道具にいたるまで、工夫が凝らされている。
戦前のシーンでは、真正面や真横から撮っている画面のすみずみにまで焦点を合わせている。
カメラを覗いて「絵」を決める、それこそが本物の映画作りだといわれる。
日本映画史ヘの、オマージュを観ているようである。

昭和11年、桜満開の春・・・。
旧来の慣習が残る古き時代の日本では、親同士の決めた、会ったこともない相手との結婚に悩み続ける女・凛りん・蒼井優)がいた。
父親(塩見三省)は絶対であった。
婚礼当日、凛は花嫁姿のままで家を飛び出してしまった。

それから時は流れて、昭和30年代・・・。
凛の長女・薫かおる・竹内結子)、次女・翠みどり・田中麗奈)、三女・慧さと・仲間由紀恵)は、日本が未来に向かって高度経済成長する中で、それぞれが大人としての第一歩を歩み始めていた。

薫は大学進学のために上京し、卒業と同時に教授であった夫と結婚、尊敬する夫に対する愛情は時が経っても色あせることはなかった。
翠は大手出版社に勤務し、歯に衣着せぬ言動で、男社会の職場で働きながら、フリーライターの恋人からのプロポーズを受ける。
慧は三人姉妹の末っ子だが、皆から愛されて育った。
短大を卒業して結婚、郊外の団地で慎ましくも幸せに暮らしている。
でも身体が弱く、2人目の子供の出産は医師から反対されていた。

昭和から年号が変わって21年の冬・・・、日本は混迷の時代を迎えていた。
慧の長女である奏かな・鈴木京香)は、ピアニストになる夢を抱いていたが、才能の限界を感じていた。
彼女は、付き合っていた恋人とも別れ、シングルマザーとして自らの人生を見つめなおす岐路に立っていた。
慧の次女・佳けい・広末涼子)は、奏の5歳年下の妹だが、結婚して可愛い男の子に恵まれ、どんな時でも笑顔をたやさず、前向きに生きていた。

凛が花嫁姿で走り出した昭和11年代から、奏が自立を決意する現代までの三世代・・・。
時代が変わっても、同じように悩み、人を愛し、ひたむきに生きている6人の女性たち、彼女たちはこうして一本の糸で結ばれていた。

ひとつの時代だけでも十分物語たりうるのだが、6人の主要ヒロインのお出ましともなると、ドラマの突込みがゆるくなって、アクセントや奥行きに甘い面も見られる。
全体に少し欲張りすぎてしまったのか、その分ふくらみがこじんまりとしてしまった感は否めない。
遊び心も十分なのはいいが、翠と作家(長門裕之)の出てくるシーンで原稿用紙が風に舞うところなど、ほとんど無意味な気もする。

ともあれ、凛とした6輪の花たちの競演も見ものだし、小泉徳宏監督作品「FLOWERS フラワーズは、どこか懐かしく、美しく、それでいて新しい映画だ。
時代ごとに、それぞれモノクローム、テクニカラーなど、当時の文芸芸術作品のような、照明設計も取り入れた構成はまるでタイムスリップしたようで、その時代の映画史を映し出している。
小泉監督はまだ29歳だというから、これだけのものを作り上げた才能には、目を見張る思いがする。
この作品を観て、もうひとつ思ったことは、女性は基本的に男よりもたくましく、賢いのではないかということだった。


映画「シーサイドモーテル」―爆笑!?キケンな夜の始まり―

2010-06-13 09:00:00 | 映画

守屋健太郎監督が、人間同士の騙し合いを描いた、爆笑群像コメディだ。
ある場所に集まった人々の、それぞれのドラマが同時進行していく。
いわゆるグランド・ホテル形式で、男女11人の騙し合いを、面白おかしく綴っている。
複雑に絡み合う、四つの密室での一夜の出来事である。
騙すつもりが騙されて・・・。

海もないのに“シーサイド”と名付けられた、山奥のさびれたモーテルが舞台だ。
サギ師失格(?)のインチキセールスマン(生田斗真)と、部屋を間違えて入ってきた、三十路前のコールガール(麻生久美子)との出会いでは、ミイラ取りがミイラになってしまう(?!)、恋と仕事の騙し合いだ。

追って追われて、借金取り(玉山鉄二)の修羅場に、賭場での借金3000万円を踏み倒そうとする、ギャンブラー(山田孝之)と好奇心旺盛な猫好き女(成海璃子)が絡む、金と命の騙し合い・・・。

その姿はエマニエル夫人か、はたまたシャロン・ストーンか、金髪のカツラに派手な下着姿の妖艶な妻(小島聖)と、夫婦問題で悩みを抱えるスーパー社長(古田新太)の、マンネリと束縛の騙し合い・・・。

馴染みの店に通い詰めること半年、下心丸出しのキャバクラ常連客(池田鉄洋)と、ムリヤリ旅に誘い出された、潔癖症のキャバクラ嬢(山崎真実)の、モーテルで危険な夜を迎えた、男と女のふてくされた物欲の騙し合い・・・。

映画「シーサイドモーテルは、一癖も二癖もある11人の男女が、四つの密室で繰り広げる、一夜のドラマだ。
とにかく、面子の濃いこと、さすがにコミックの原作(岡田ユキオ)だけに、ドラマの進行もハチャメチャ(?)で、役者陣も個性派がそろって、軽佻浮薄な男たちを熱演する。
インチキセールスマンを演じる生田斗真は、「人間失格」から数日後にこの作品を撮ったというのが嘘のようだ。
ED社長役の古田新太にいたっては、化け物みたいな女装姿という飛び道具まで出してきて、いやもう勘弁してほしいくらいだ。

登場する俳優たちは、恋や金、金や仕事、人生の駆け引きに、これまでのイメージには見られなかった強烈なキャラクターを発揮し、まさに最低なシチュエイションで、ハイテンションかつエキサイティングなドラマを作り上げている。
とくに、超キュートでセクシー、落ち目のコールガール役の麻生久美子は、ちょいふてぶてしいアラサーぶりで、新しい一面を見せて笑わせる。
怪優、珍優入り乱れての濃厚な競演に、観ている方もタジタジのゴージャス(?)なアンサンブルだ。

ワケアリ男女11人の騒動の一夜が明けて、朝を迎えたとき、彼らは無事このモーテルをチェックアウトできるのか。
この作品が長編二作目となる守屋健太郎監督は、エッジのよく効いたスタイリッシュな映像と音楽で、少々癖のある、独特の作品世界を演出する。
・・・この作品、面白く観る人は、面白く観るに違いない。
コミック好き人間にはこたえられない面白さ(?)だが、そうでない人にはちょっと耐えられない(?)かもしれない。


映画「モリエール 恋こそ喜劇」―伝記的なロマンティック・フィクション―

2010-06-11 19:15:00 | 映画

イギリスにシェイクスピア、フランスには喜劇の天才モリエールがいた。
・・・笑いの中に、人生がある。
おっとりした、少しおかしなロマンスである。
ローラン・ティラール監督の、フランス映画だ。

ルイ14世の信頼厚かった、17世紀のフランスの偉大な喜劇作家・モリエールが、まだ売れない一座を引き連れて、芝居をやっていた頃の、風変わり(?)なロマンスだ。
笑いのうちに、人間の本質だけを描き出した彼の名作は、どんな経験から生まれてきたのだろうか。

貧乏劇団の情熱的な俳優であり、劇作家だった若き日のモリエールが身を投じた奇妙な冒険と、美しきマダムとの秘められた恋・・・。
この作品「モリエール 恋こそ喜劇」は、めくるめくような体験に、モリエールの作品のエッセンスを散りばめて、笑いと涙で綴るエンターテインメントだ。
「恋に落ちたシェイクスピア」という作品があるが、これはそれに並ぶモリエール(フランス)版だ。

1644年のパリ・・・。
22歳のジャン=バチスト・ポクランのちのモリエール(ロマン・デュリス)は、売れない役者だった。
仲間たちと旗揚げした劇団は、破産の危機におちいり、債権者に訴えられ、投獄されてしまう。
それを救ったのが、金持ちの商人ジュルダン(ファブリス・ルキーニ)だった。

ジュルダンは、貴婦人のセリメーヌ(リュディヴィーヌ・サニエ)の歓心を買おうとして、モリエールに演劇の指南役になってほしいと頼みこむ。
カモフラージュのため、聖職者のふりをして、彼の屋敷に住み込んだモリエールは、次第に、聡明で美しいジュルダンの妻エルミール(ラウラ・モランテ)に、心ひかれるようになる――。
(伝記でも空白となっている謎の数ヶ月があり、この作品は、その空白の時期に起きたことを創作したものだ。)

モリエールは、いやいやながら金持ちの道楽に付き合う日々の中で、ジュルダンの財力にすがる貧乏貴族、その息子とムリヤリ結婚させられそうになるジュルダンの娘、そして彼女の恋人とも出会う・・・。
そして、何より、彼の心に忍び込んだのが、侯爵夫人エルミールであった。
喜劇の王様モリエールは、世にいうところの、身を焦がすような恋に捕われてしまったのだが――。

この映画の脚本はなかなか上質だし、キャスティングも豪華だ。
時代を反映して、美術も絢爛だし、衣裳やジュエリー、フィルハーモニー管弦楽団による演奏も見事だ。
モリエール作品を少しでも知っている人なら、思わずニヤリとするような仕掛け満載の小気味よいストーリーだ。
人生とは何かを問いかけるこの作品「モリエール 恋こそ喜劇」は、笑いのうちに涙を誘う、フラン映画らしい小品だ。

ドラマは、キャラクターの扱いやひねりの利かせかたが、フランス流でとても上手い。
俳優たちの演技も大いに楽しい。
若き日の、少々調子のよすぎるモリエールを演じる、ロマン・デュリスの馬の身振りの物まねなど、なかなかのコメディアンぶりで吹き出してしまう。
おとぼけ演技の味わいで、金持ち役のファブリス・ルキーニも圧巻だし、ずるがしこい貧乏貴族のエドゥアール・ベールの小面憎さといったらない。
ラウラ・モランテの、身を引くと見せかけつつも、これまたモリエールに恋焦がれる侯爵夫人ぶりも、明るくしゃきっとしていて、全然嫌味がない。

ローラン・ティラール監督モリエール 恋こそ喜劇は、適度のスピード感もあるし、ロマンティックでほろりとさせ、モリエールの現代化に成功している。
古典劇の持つ、おっとりとした芝居気分が横溢していて、いうなれば<気分>を楽しむフランス映画である。


映画「告白」―静寂と喧騒の、実験的(?)衝撃作品―

2010-06-08 15:45:00 | 映画
本屋大賞に輝いたベストセラー、湊かなえの原作を中島哲也監督が脚色、映画化した。
実験的エンターテインメントだ。
告白小説の映画化ということもあって、製作にかなり困難のあとがうかがわれる作品だ。
自分の娘を殺された女教師の告白から始まり、殺人事件に関わった登場人物たちの、独白形式で構成される物語だ。

女教師・森口悠子(松たか子)には3歳の一人娘愛美がいた。
その娘が、悠子の勤務する中学校のプールで、溺死体となって発見された。
数ヶ月後、悠子は終業式後のホームルームで・・・。
彼女は、「私の娘は、1年B組の生徒二人に殺されたのです」と、衝撃の告白をする。

悠子は、語り始める。
・・・そして、ある方法で、娘を殺した二人の生徒に復讐する。
4月、クラスはそのまま2年生に進級する。
犯人のひとり生徒Aは、クラスのイジメの標的となっていた。
そしてもうひとりの犯人Bは、登校を拒否し、自宅に引きこもっていた・・・。

虚実が入り混じって、驚愕、戦慄、唖然の連続は、一種ホラーじみている。
この映画の主人公は、森口悠子を演じる松たか子しか考えられないと、中島監督からの熱烈なラブコールで、彼女は難役に挑戦している。
また、熱血過ぎてかなりウザい新人教師役には岡田将生、殺人者の過保護すぎる母親役には木村佳乃といった演技陣で、1年B組生徒たち37人は全国から1000人以上のオーディションから選ばれた。
騒々しいほど、賑やかである。
さらに言えば、賑やかなほどに、どうしようもなく退屈なのだ。

ストーリーにはかなり無理もあるし、告白体の映画構成自体、映像よりも長々と続く、退屈な登場人物たちのセリフはどうにかならなかったのだろうか。
心の内面を吐露する独白が、一心に語りかけようとする努力に徹していて、誰に何を、どのように言おうとしているのかは痛いほどに伝わっては来る。
しかし、あくまでも作品の出来不出来は賛否両論があるだろうが、実験映画の域を出ていない。
独創性ある労作までは認めても、成功作とは思えない。
率直な感想だ。

このドラマでは、女教師と生徒の間には、十分な意志の疎通がない。
先生と生徒が、バラバラの感じがする。
登場人物たちの独白は、いずれも真に迫って空疎であり、教室にはいいようのない閉塞感が漂っている。
そういう空気は、よく撮られている。

中島哲也監督のこの作品「告白は、暗鬱なテーマを扱っているだけに、ドラマから浮かび上がってくるイメージは切れ切れの復讐劇でも、結局、散りばめられた少ない映像のカットと、饒舌な独白にたよる負の連鎖を通して、何を言いたかったのか。
暗い内容の物語であるだけに、作品の成功のためには、、まだまだ映画表現において力量の不足が惜しまれる。

一家言ある専門家はともかく、映画庶民の目線で言わせていただくと、やたらと多い挿入歌やBG音楽にも、どれほどの効果があるのか、素朴な疑問を持つ。
それも、どういう選曲か、ポピュラーで勇壮なクラシックなんかがジャカジャカ聞こえてくると、くどくどとウザい。
実に鬱陶しい。かえって何ももないほうがよろしい。
陳腐で安っぽい、ホラー映画でもあるまい。
まあ、これも、お叱りを覚悟の、あくまでもほんの個人的な見解に過ぎないのだが・・・。

映画「SEX AND THE CITY 2」―女性たちのそれぞれの夏― 

2010-06-05 09:00:00 | 映画
マイケル・パトリック・キング監督アメリカ映画だ。
それぞれのハーッピーエンドを手に入れたはずの女たちの、あれから2年後の人生を描く。
彼女たちの人生に、今度は何が起きるのか。
浮気か。
家庭崩壊か。
まさかの結婚か。

この物語の設定は、前作からおよそ2年後である。
4人の女たちは、実生活では誰もが悩みを抱えていた。
あれほどドラマスティックに結ばれたはずの、キャリー(サラ・ジェシカ・パーカー)とミスタービック(クリス・ノース)の結婚生活には暗雲がたちこめる。
ミランダ(シンシア・ニクソン)と、シャーロット(クリスティン・デイビス)のファミリーにトラブルが発生する。
そして、サマンサ(キム・キャトラル)の独身生活には、予想だにしなかった驚愕の危機が襲いかかる・・・。

そこには、葛藤を抱える現代女性たちの姿がある。
そんな中、元カレの出演する映画のプロデューサーから、アラブの中心地アブダビへの超ゴージャスな旅に招待されたサマンサは、3人を誘って女だけの逃避行を企てる。
4人の女たちは、経済、文化、ファッション、すべてにおいてアラブ首長国連邦の中心であるアブダビの街で、おもいっきり羽を伸ばし、身も心も癒されていく。
そこでキャリーを待っていたのは、何ともうひとりの運命の男エイダン(ジョン・コーベットとの再会だった。
(これも、何だか無理に作り上げた偶然みたいで、少し馬鹿馬鹿しい話なのだが・・・)

華やかに見えるセレブライフを送っていても、4人の前に立ちふさがるのは、世の女性なら誰でも解る女としての悩みと苦しみ、心をぶつけ合う4人の本音のトークに、激しく共感するうちに、スクリーンの前にいる観客(女性)は、いつのまにか5人目の仲間になってしまっているという具合だ。

ここぞとばかりの、エキゾティックなファッションのオンパレード、駱駝に乗ってのドライブと、砂漠のど真ん中で思いっきり楽しむ姿が、何だかよく似合っているから不思議だ。
華やかである。
でも、彼女たちの長いおしゃべりには飽き飽きさせられるし、旅先でのハプニングの連続に面白おかしい場面もあるが、どうも冗漫で閉口気味だ。
削った方がよいのではと思われるカットも数々ありで、べた褒めはできない。

女たち4人のドタバタ道中を描いて、アメリカ映画「SEX AND THE CITY 2は、確かに彼女たちの‘ママ談義’を繰り広げるさまには切実さもあるし、4人の現実逃避は、いつしか現実を見つめなおす時間へと変わっていくのかもしれない。
主演女優4人が来日を果たし、ゴージャスな衣裳で登場したジャパン・プレミアムも大盛況だったし、興奮さめやらぬ女性も多い(?)のではないだろうか。