徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

検察の狂奔―小沢事件余聞―

2010-01-31 13:00:00 | 寸評
小沢事件のあおりを受けて、困ったことに、民主党政権の支持率が急落している。
振り返れば、昨年3月の西松建設事件を発端に、世論の支持を受け、高まりつつあった政権交代のムードに、検察が介入し暗い陰がさした。
検察が、である。
あれは、そもそも、総選挙で民主党に政権を取らせたくなかったからではないのか。
しかし、結局西松事件では何も出てこなかった。

・・・あれから一年、検察は焦ったのかどうか知らないが、小沢氏の資金管理団体の土地購入疑惑に手をつけたのだった。
どうも、そこから水谷建設側の証言をもとに、裏金が使われたかのような(?)筋書きとなった。
それを、マスコミと自民党が躍起となって後押しする。
ここに、恐るべき世論‘捜査’が生まれる。

しかも、一週間前の日経新聞、読売新聞の夕刊が、石川議員から押収した手帳に問題の5000万円の授受があったとされる場所についての記事でも、供述による日付が一致しないという大誤報で、両紙は翌日ひっそりと訂正記事を掲載し、当該部分を取り消すという赤っ恥をかいたのだ。

土地取引疑惑だって、現金で土地を買うようなケースでは、購入日と所有権移転登記の日付が1年ずれたって、何ら問題はないはずだ。
発行日から3ヶ月以内の売主の印鑑証明が得られれば、足りることだ。
そんなことは、売主と買主の事情で、不動産取引ではよくあることだ。
それから、定期預金を担保に銀行からわざわざ借り入れをするのも、預金が多ければ多いほど銀行サイドでは解約など進言しないものなのだ。
銀行は大歓迎だ。

商売人は、いつだって運転資金を手元に置いておきたいものなのだ。
金があれば、すぐに返せる。だから、金利なんて、少々高くてもどうということもない。
金持ちには、金持ちのちゃんとした常識がある。
庶民が、ローンでマイホームを購入することとは、全くわけがちがうのだ。
それを、普通の感覚では到底理解できないとか何とか言っているが、それこそ業界の常識なのだ。
何も変ではないし、おかしくもない。
マスコミまでが、的外れなことを言っているだけだ。

2月4日で、逮捕されている石川議員の勾留期限が切れる。
この日が、事件の第二幕の始まりとなるのか。
新聞という新聞は、どれもこれも、小沢氏が幹事長を辞職し、離党となって、民主党政権へ決定的なダメージを与えるというようなことを、連日書き連ねている。
以前から、検察は小沢憎しだから、これは検察の描く当たり前のシナリオだ。

そうなったら、民主党はどうなるか。
剛腕の司令塔が消えると、政局はおかしなことになる。
政治主導、脱官僚は絵に描いた何とやらで、旧態依然の抜け殻みたいな政権になる。
かつて、マスコミによって(?)日本が戦争へと駆り立てられ、太平洋戦争へと突き進んだのだったが、あのときのようにはなってほしくない。

政権は、国民の民主主義で選ばれながら、これを否定する勢力に潰される。
どこか、戦前と似たような、嫌な構図が見えてくる。
一行政機関である検察の、勝手横暴な強引捜査はきっと行き詰まるのではないか。

民主党は、取調べの可視化法案や、検事総長人事を国会承認案件にすることに積極的だ。
このことは、検察や警察は避けたいのが本音だ。
もし、民間人が検事総長になったら・・・。
元大阪高検の公安部長の言っているように、検察と小沢氏の捜査は戦争みたいなもので、検察は積極的にマスコミに情報をリークし、あらゆる策略を使って捜査を自分に有利に進めようとするだろう。

民主党小沢幹事長は、一連の事件について、「近々決着する」と自信を示しているが、さあどうなるか。
昨年の西松事件直後に、大物検察OBが、捜査の舞台となった西松建設に天下っていた事実もあるのだ。
これだって、驚きだ。

いま、そんな政治とカネの問題より、国民がもがき苦しんでいるのはデフレ不況のはずだ。
国民の暮らしは、そっちのけである。
それなのに、カネ、カネ、カネのことばかりで・・・。
どうしてくれるのだ。
鳩山総理、愛や命の尊さはよく解った。
お母様を敬愛するも結構、詩人みたいなロマンあふれる美辞麗句より、もっと喫緊の現実を直視して、政権が交代したことの意味を考えて頂きたい。

・・・閑話休題・・・。
それにしても、国会は何をやっているのか。
あの、与野党のヤジの応酬は何なのだ。
「ヤジ禁止令」が聞いてあきれる。
それだって、いつも火をつけるのは自民党だ。
「バカ」とか「うるせいババア」などと・・・。
「うるさい!」
「なにがうるさいだ!」
「うるさいからうるさいと言っただけの話だ」
これまた、大臣ともあろうお方が・・・!
閣僚のヤジに、「品位を欠く」と叫んでかみついた自民党の「品性」も、まあどっちもどっちで・・・。
情けないですねえ。みっともないですねえ。
ヤジの応酬をする前に、もっと大事なことがあるのではないか。
梅がほころんだといっても、本格的な春は、まだまだ先のようで・・・。

映画「牛の鈴音」―老いた農夫と一頭の牛の物語―

2010-01-29 17:00:00 | 映画

ひきつづいて、このドキュメンタリーは、イ・チュンニョル監督による韓国映画だ。
それも、ドキュメンタリーらしくないドキュメンタリーに注目だ。

生きることの素晴らしさと、共に生きるものがいることの素晴らしさを伝えてくれる。
故郷、両親、忘れ去られた記憶・・・、15年の寿命といわれる牛が、40年も生きたなんて奇跡ではないか。

この作品には、ドキュメンタリーの定番であるナレーションがない。
大きな事件も起こらない。
政治的なメッセージもない。
観ているスクリーンに映し出されるのは、韓国の田舎の四季の美しさと、無愛想で頑固なお爺さん、口喧しいお婆さん、山のような薪を背負い働く、一頭の老いた牛である。
よろよろとした足取りで、荷車を引く老いぼれ牛・・・。
その‘彼’が、もうすっかり忘れていた、何かとても温かいものを感じさせるのだ。

79歳になる農夫のチェ爺さん(チェ・ウォンギュン)には、30年間も共に働いてきた牛がいる。
この牛は、40年も生きている。
今では、誰もが耕作機械を使うのに、頑固なお爺さんは、牛と働き、牛が食べる草のために、畑に農薬を撒くこともしない。
そんなお爺さんに、長年連れ添ってきたお婆さん(イ・サムスン)は、不平不満がつきない。
・・・しかし、ある日、かかりつけの獣医は、「この牛は、今年の冬を越すことはできないだろう」と告げる。

チェ爺さんは、毎朝起きたら、牛の顔を見て餌をやり、自分も朝飯を食べ、共に畑へ出ていき、帰ってきて夕飯を食べる。
そんな、単調な日々の繰り返しである。
お爺さんが、牛を手放さなければならないと知って、牛市場へ連れていく。
しかし、老いぼれた牛を安く買いたたこうとする連中に、お爺さんは腹を立て、牛を手放すことを止めた。

その時、本当に、老いぼれ牛の目から涙が落ちたのだ!
本当なのだ。
感動的な瞬間だった。
(聞くところによると、牛も馬も犬も、悲しいときに本当に涙を流すのだそうだ。)

・・・やがて、老いぼれ牛は立ち上がることもできなくなる。
お爺さんは、30年の間ずっとつけていた鼻輪を外し、鈴を外した。
ちりん ちりんと鳴っていた鈴の音が止んだ。

牛の亡骸は、土に還した。
お爺さんは寂しげだ。
横になることも多くなった。
あんたが死んだら、やっていけない。
すぐに、私も後を追うよ。
お婆さんの声は、優しく温かだった。

疲れきった現代人には、こんな生き方もあるんだなと語りかけてくる。
ひたむきに生きるということが、人の心を揺さぶるのだ。
清貧に生きることの尊さも、合わせて心に訴えてくる。
イ・チュンニョル監督の父は、いつも牛と共に畑で働いていたそうで、その父の援助で大学進学の夢がかなった監督が、自分の父親に対する申し分けなさから、この牛の鈴音を作ったのだと語っている。
この映画としては、めずらしく固定カメラの映像が多く、一見ドキュメンタリーらしくないのが成功している。

韓国映画史上、累計300万人を超える観客を動員し、ドキュメンタリー部門で初めて興行成績1位に輝いた。
感動的な小品である。


映画「オーシャンズ」―生きものたちと人間の一体感―

2010-01-28 22:00:00 | 映画

「海ってなんだろう?」
こんな問いかけから、このドキュメンタリー映画オーシャンズは始まる。
「WATARIDORI」の、ジャック・ペランジャック・クルーゾー両監督によるフランス映画だ。
二人の前作は、大空を飛ぶ渡り鳥を軽飛行機で併走するかたちで撮られた。
今回は、この作品のために開発された、最新の撮影機器と熟練したカメラマンたちが、時には3年もの時間をかけて撮影した、大自然の驚異が映し出される。

魚群をすべて飲み込む勢いのザトウクジラの集団、セイウチが示す子供への愛情、1万8000フィートの深海で、太古の姿のままで生息する生きた化石たち、5万匹ものクモガニが重なり合って交尾する場面など、迫力ある映像が一杯だ。

生命の奇跡に出会うための旅が、広い海に繰り広げられる。
世界50ヶ所、100種の生きものたちが登場する。
動物が動物を襲う狩りのシーンは衝撃的だし、見たこともない、愉快で可愛らしい魚や、巨大な魚まで・・・。
いままでにあまり見たことのない、驚くような、海の光景かも・・・。

ペラン監督は、「この作品はシンフォニーなのです」と言っている。
そして、動物たちが、自分たち人間と一体なのだということを伝えようとしている。
海ってすごいなあという、畏敬の念が生まれる。
有人潜水艦の限界に迫る、1万8000フィートの深海での撮影も興味深い。
スタッフの苦労もわかろうというものだ。
映像には、圧倒的な臨場感がある。
環境問題が叫ばれているけれど、この作品には、地球温暖化への警鐘もこめられている。

全編を見終わって、内容的には、よくお目にかかる、<模範的>なNHKテレビの映像の様にも思えたりして、特にこの作品だけが、格別の目新しさを感じさせるというものではないが・・・。
文部科学省選定のお墨付きだ。
スクリーンの中で、ワクワクするような、海中探検を楽しむのも悪いものではない。
小学生や中学生の、理科(生物)の副教材に(?)、是非おすすめしたい映画だ。
ここには、きっと何か、発見がある。
日本語ナレーションを、女優の宮沢りえが務めている。


映画「Dr.パルナサスの鏡」―めくるめく異次元の世界―

2010-01-27 09:00:00 | 映画

これはまた、摩訶不思議な鏡の世界へようこそ、といった壮大なエンターテンメントだ。
テリー・ギリアム監督の、イギリス・カナダ合作映画だ。
幸せとは何かという問いかけを込めて、無限大の人間の想像力が、世界を救う可能性を持つことを、いまの時代に示唆するものだろうか。

主演のヒース・レジャーの撮影半ばでの急逝で、一時は製作中止とまでいわれたが、彼の友人たちによる豪華なキャストの実現で、奇跡的に救われたいきさつがある。
人間の持つ夢のまた夢、願望を追い求めた、幻想世界を描く。
それは、めくるめく饒舌と騒擾の、常識をくつがえす、まさにスーパーファンタジックな世界だから驚く。

現代のロンドン、石畳の舗道・・・。
1000年の時を生きた、パルナサス博士(クリストファー・プラマー)の率いる、劇場仕立てのいまにも壊れそうな馬車が巡業していた。
座員は、博士の美しい娘ヴァレンティナ(リリー・コール)彼女に思いを寄せる曲芸師アントン(アンドリュー・ガーフィールド)頭の切れる小人パーシー(ヴァーン・トロイヤーたちであった。

パルナサス博士一座の出し物は、不思議な鏡によって、客自身の欲望を具現化した、幻想の世界を体験できるという「イマジナリウム」だった。
博士の鏡をくぐり抜けると、摩訶不思議な迷宮が待っている。
その気になれば、世界を動かす力だってあるのに、博士は元気がなかった。
かつて博士は、“不死”と引き換えに、娘が16歳になったら、悪魔のMr.ニック(トム・ウェイツに差し出すというとんでもない約束をしていたのだ。
博士は、娘を守れるのだろうか。

ヴァレンティナはといえば、彼女は普通の家庭に憧れ、いつか一座から逃れ出したいと願っていた。
16歳の誕生日が近づいたある晩、ヴァレンティナは、橋の下に吊るされた記憶喪失の青年トニー(ヒース・レジャー)を助ける。
そのトニーが巡業に加わったことで、一座はにわかに活気づくのだが、そこにMr.ニックが現れ、博士に賭けを持ちかける。

鏡の向こうの世界に、先に5人の観客を‘獲保’したら、娘を渡さないでもいいというのだ。
それを聞いて、機転をきかせ、博士のピンチに協力するトニーだった。
それから、次第に彼の真の姿があらわになっていくのだが・・・。
・・・幻想の世界に入場した観客に、悪魔の歪んだ欲望の道か、博士の節度ある道かを選択させるのだ。
鏡は、魔法の鏡だ。
鏡をくぐり抜けると、迷宮が待っている。

トニーは、次から次へと女性客を鏡の中へ誘導していく。
実は、もうこの時トニーの記憶はほとんど戻っていた。
そして、橋の下で自分を殺そうとした男たちの姿に気づいた彼は、客と一緒に鏡の中へと逃げ込んだ・・・。

めまぐるしく変わる舞台、饒舌なドラマの展開、荒唐無稽なバラエティのような騒がしさだ。
トニーに変身する男たちの、変わり身に気づく暇もない、ドラマのテンポに遅れそうだ。
どこまでが現実で、どこからが幻想なのか。
鏡を抜けるたびに顔が変わる、謎の青年トニー・・・。
彼を演じたヒースと、ジョニーデップら3人の友人たちの演技も見逃せない。
変幻自在、欲望を映す迷宮「イマジナリウム」をかけぬける、トニーの正体は誰なのか。
トニー役のヒース・レジャーが、撮影半ばで急逝したことから、客と、トニー自身と、ヴァレンティノの三人の願望を形にしたトニーを、ジョニー・デップジュード・ロウコリン・ファレルらが演じていて、もう誰が誰だか分からないほど賑やかなのだ。

これは、人間の欲望、願望を描く、奇跡の世界というか、異次元の幻想世界なのである。
テリー・ギリアム監督の作品Dr.パルナサスの鏡は、現代のロンドンを行く旅芸人の一座をめぐる、世にも奇怪なブラックファンタジーというべきか。
妖しい幌馬車、ファンタジックな衣裳、趣向の限りをつくした世界観に加えて、不死を得た老人や悪魔、そして、彼らをとりまく人たちの皮肉な運命に、何やら奇抜と風刺と諧謔が絡み合って、しばし、この騒然とした映像世界に翻弄されっぱなしとなる。
まあ、登場人物たちの熱き気迫の伝わってくる、話題作ではある。


映画「サヨナライツカ」―遊び心が真実の恋に―

2010-01-24 08:00:01 | 映画

人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すのか、それとも愛したことを思い出すのか。
愛されることがすべてではない。
愛することがすべてなのである。
永遠の幸福なんてないように、永遠の不幸もない。
いつかサヨナラがやってきて、いつかコンニチワがやって来る。
果たして、25年の歳月の彼方に、人は、いや女と男は、どんな愛を見つめることになるのだろうか。

芥川賞作家・辻仁成の人気小説を原作に得て、「私の頭の中の消しゴム」の韓国のイ・ジェハン監督が、スケールの大きなラブストーリーを完成した。
ときに淫らであっても、いたって叙情的な、詩情あふれる切ない大人のドラマとなった。

純文学の辻仁成の原作もよくできた物語だったし、一体どんな映画になるのだろうかと興味を持った。
あまり期待をしないで観たのだが、まずまずの出来ばえに感心した。
完璧主義者といわれるだけあって、イ・ジェハン監督の演出は、実に繊細で美しい。
それで、大人が観るにたえうる、このような作品を描くことができたのかも知れない。
舞台はバンコク、東京、ニューヨークと・・・、一瞬の熱情が25年の時を超えて、女と男のドラマを綴っていく。

1975年、灼熱のバンコク・・・。
お金、美貌、愛に不自由なく暮らし、ただ愛されることを求めて生きてきた真中沓子中山美穂)は、ある日、バンコクに赴任してきたエリートビジネスマンの東垣内豊(西島秀俊)と出逢った。
二人は互いに惹かれあい、恋に落ち、熱帯の夜に溺れていった・・・。

二人が過ごすその時間の中で、沓子は、‘人を愛すること’こそが本当の愛だと気づく。
しかし、豊には、結婚を目前に控えていて、日本に尋末光子(石田ゆり子)という婚約者がいた。
かなわぬ恋であった。
それをわかっていながら、それでも豊を愛し続けると決める沓子は・・・。

豊と沓子の結婚式は、刻一刻と迫っていた。
出逢ったときは、ただ欲望に流されていた二人だったが、別れの日が近づくにつれ、葛藤は深まっていった。
あと腐れなく別れられると思っていた豊は、ますます沓子に惹かれていく自分を抑えられない。
しかし、一方の沓子は、ついに自分がバンコクを去ることを決心する。

・・・そうして、二人は25年の歳月を経て、バンコクで、運命の再会の時を迎えることになったのだが・・・。

完璧主義のイ・ジェハン監督は、英語、日本語、韓国語、タイ語の4ヶ国語にもこだわり、ラブストーリー映画では類を見ない、スケール感のある映像を完成させた。
タイのロケーションは、実にエキゾティックで情熱的だし、祈りにも似た抒情性が織り成す、紋様のようにドラマが綴られていく。

シューベルトやバッハをイメージしたともいわれる映画音楽は、全編を悲しみと喜びで彩り、登場人物たちの感情の起伏にまで入り込んで、どこまでも切ない。
なかなか凝った音楽だ。
余韻の残るカットも、ひとつひとつ、丁寧過ぎるくらい丁寧にに撮っている。

中島美嘉の歌う主題歌「ALWAYS」もいい。
エンディングに用意された、この彼女の歌も印象的だ。
原作が、主演の中山美穂の夫である辻仁成というのも、面白い取り合わせだ。
今年でパリ暮らし7年、長男も6歳になるという‘アラフォー’ミポリンも、しばらく見ぬ間にアイドルからは完全に大人になっていて、女優業への意欲満々というところか。
映画会心の濡れ場では、むせかえるような大胆奔放な演技に、称賛の声しきりだそうである。
もっとも、一部彼女のどぎついメイクはどうにかしてもらいたいが・・・。

愛は、実に官能的に描かれる。
そして、それはやがてプラトニックなまでの純愛に昇華する。
このあたりのプロセスには、監督の心憎いこだわりのようなものさえ感じられる。

豊が沓子にじゃれつくシーン、怒りと別れの感極まる演技、誘惑から逃れようもない人間の性(さが)と、かなわぬ恋の苦悩・・・、愛はそれを否定しようとすればするほど、大きなうねりとなって激しく襲いかかってくる。
つくづく、男というのは罪つくりで、ずるいなあと思う次第で・・・。はい。

画面に匂い立つような官能をも、ここまで繊細に描ける監督は日本にはいないのではないか。
どうも、こうしたラブストーリーになると、外国の女優は物怖じせずにすすんで自分を売り込んでくるが、日本の女優は臆病(?)で、キャスティングを知らされると、
なり手がいなくて逃げ出してしまうという説が本当らしい。

ラブストーリーの旗手、イ・シェハン監督の作品
サヨナライツカは、幾つになっても燃える思いを抱いて決して忘れることのなかった、女と男の物語だ。
上映時間2時間15分は、少し長い気がする。
後半、豊の長男との確執なども、エピソードとして描かれるが、男女の愛をテーマにしているのだから、原作に忠実にといっても、無理をして描く必要のないシーンだ。
思い切って、割愛してはどうか。
演出も丁寧すぎて、冗長に感じられる場面もある。

しかし、何といっても、原作の力が大きい。
ひたひたと寄せてくる心の切なさは伝わってくるし、映画としては、この春とくに女性向きの一作といえそうだ。
ファッショナブルな衣装やセットなど、隅々に行き届いた演出へのこだわりぬいた画面作りには脱帽である。
女と男の愛に、愛という究極の美的世界に幻想的な仕掛けまで施して、光と影のある切ないリアリティはファンタジックで、そのさじ加減の上手さには感心させられる。
これも、人間の悲しみを語る映画だ。


検察は正義なのか―似非民主主義(?)の闇―

2010-01-21 17:00:00 | 雑感

検察は正義なのか。
そんな言葉が、巷間ささやかれている。

小沢問題で、説明責任が問われている。
説明責任を云々するのであれば、特捜部とてそうすべきではないのか。
地検が強制捜査に踏み切る以上は、捜査の理由を十分に開示しなければおかしい。
このことは、国家公安委員会の委員長までが、明言しているのだ。

検察による、マスコミに対する情報操作が公然とささやかれている。
本当だとしたら、由々しい問題だ。
ついに民主党は、「捜査情報の漏洩問題対策チーム」なるものを党内に設けることにした。
結構ではないか。
一連の報道について、情報源をはっきりさせるべきではないのか。

国会開会の直前に、確たる証拠もない(?)状態で、逃げも隠れもしない国会議員を果たして逮捕する必要があったのか。
疑わしいからといって、証拠はあとからでいいということか。
いまになって、今度は特捜部は中堅ゼネコンへの強制捜査に着手した。
「怪しい」と睨んだら、徹底的にやるのか。
裏献金の、証拠探しをあたふたと始めて何とする。
検察は、何をあせっているのか。
見ていると、秘密警察みたいだ。

今回の検察の捜査は、誰の目にだって恣意的に映る。
民主党が、もしも参院選で圧勝したら、小沢民主党の政治基盤はより強固なものとなる。
そうなれば、官僚(=検察組織)にまでも、民主政権は手を突っ込むことができるようになる。
だから、小沢民主を倒すのだというような、検察ファッショの恐怖はないといえるだろうか。
考えるとぞっとする。

これまで表舞台に出てこなかった、千葉景子法務相は、予算委員会の席上で、検察の捜査を見守っていると言うにとどまった。
何か、もっと期するところを語るかと思ったが、それはなかったので少しがっかりした。
いまの段階で口を挟むことは、立場上控えたのかも知れない。

衆院本会議は、政治とカネをめぐって舌戦がスタートし、舞台は今日から予算委員会の場に移った。
与野党のヤジが飛び交い、一種異様な光景を見せている。
本会議では、野党の誰かが声高に叫んでいた。
 「はっきり答えろ、ドラ息子!」
 「贈収賄だぞ、責任を取れ!」
いやはや、お坊ちゃま内閣総理大臣もたまったものではない。
当分、与野党間の激しい攻防が続くことになるだろう。

ただ、景気をこれ以上冷え込ませてはならない。
政府は、たとえ強行採決をもってしても、国民のための前向きな法案については、一日も早く国会を通さなくてはならない。
やるべきことは、断固としてやるべきだ。
それこそ、信念を持って・・・。

・・・いま、政治不信は広まるばかりだ。
息のつまりそうな世の中だ。
市民オンブスマンが立ち上がって、この際検察の業務を徹底的に仕分けし、チェックしてはどうか。(苦笑)
検察の、暴走を許すようなことがあってはならない。
いまは、民主主義の世の中だ。
まさかとは思うが、もしかすると、地検はみずからも知らずして、重大な犯罪を犯しているのかも知れないのだ。
神ならぬ人間が人間を裁き、その裁判も冤罪を生んでいるのだ。
正義をかざすのはいい。
しかし、間違った正義はないか。
検察の手法が、本当に民主的と言えるのかどうか。
密室の取調べを明らかにするために、‘可視化する’ことは大きな意義がある。
是非そう願いたいが、鳩山総理はいまのところ、これには慎重だ。

民主党に、肩入れするつもりなどさらさらない。
しかし、検察のふりかざす「正義」なるものがどうもよく理解できないだけだ。
国家の権力者をチェックするマスコミまでもが、どうやら検察の言うままのようだから、それを正義とはき違えて、次第に国民まで‘洗脳’されてしまってはいないか。
怖ろしいことだ。
真の犯罪者は、一体誰なのか?

民主主義の名の下で、真実こそ明らかにされる必要がある。
小沢氏も検察も、国民が納得できるよう説明をつくしてもらいたい。
くれぐれも、憶測や仄聞による報道の垂れ流しはすべきではない。
小沢氏は、今週中にも検察の事情聴取に応じ、捜査には協力するという方向だ。
それはそれでいい。
小沢氏は、そこではじめて検察と対峙し、何を語るのか。
・・・マスコミは、ことの真実を、包み隠さず正確に伝えて頂きたい。

今日は、日中の寒さが一時的に和らいだ。
昨日に続いて、4月の陽気だった。
でも夕方になって、また冷たい北風が吹き始めた。
今夜は冷え込みそうだ。


戸惑いと憂慮―政治の暗澹のさなかで―

2010-01-19 10:00:00 | 雑感
朝晩の冷え込みは相変わらずだけれど、日中はときに温かな春めいた日射しが嬉しい。
雪の便りにまぎれて、花の便りもちらほらと・・・。
国会が開会になった。
こちらは、冒頭から波乱含みである。

民主党小沢幹事長の、4億円虚偽記載問題は、3億円は小沢氏の個人資産であることが確認され、あとの1億円についての出所が云々されているようだ。
そんなこといったって、10億円位の金はいつだって自宅にあるといわれる小沢氏は、うなるほどの金持ちだ。
億単位のタンス預金が、いくつあってもおかしくはない。
いかようにもつじつまは合わせられる。
検察は、巧妙な「資金浄化」の疑いありと、ゼネコンからの「裏金」の可能性を特定したいのだろう。
やるなら、どんどんやればいい。
そうしたカネの問題など、国民にしてみればあまりさしせまった問題ではない。
そんなことよりも、大事なことは山ほどある。
国会で、貴重な時間を浪費している暇はないはずだ。

検察は、小沢氏側の3人の関係者を逮捕したが、これがもし検察の暴走とするなら、それは許されないことだ。
検察の思いひとつで、政治が左右されるなんていうことがあってはならないことだ。
国家支配者のような、思い上がりはないか。
小沢一郎という一個人を徹底的に追い詰めて、さて検察はどうしようというのか。
検察は、国民の味方なのだろうか。
そして、公開も公表もされていない疑惑ばかりを、推測や憶測で大々的に取り上げているマスコミは、誰の味方なのだろうか。

いま、日本の政治は異常事態といえる。
・・・どういう展開になるのか、先が読めない。
小沢氏は、ここへきて国民の意向を考えたのか、参考人として検察の事情聴取に応じる構えを見せている。
初めから言われているように、彼の説明責任こそ望ましい。
何を、もたもたしているのか。
政権交代になっても、政治とカネをめぐる不信が続き、国民は戸惑っているというのに・・・。

攻めの自民党は、またこういうときに足元がぐらぐらしていて頼りない。
小沢事件を批判する自民党は、与党を批判できるのか。
口先では偉そうなことを言っている大島幹事長は、かつて選挙資金を収支報告書に記載していなかったかどで、就任半年で農相辞任に追い込まれたのではなかったか。
小沢氏の不透明なカネの流れを力説する、菅元国務相は自分自身不透明な事務所費問題で追及されたのではなかったか。
収支報告書の記載漏れなどという形式的なミスは、訂正すればそれで済んできたのだ。

政治家たちは、ことほど左様に自分たちの前科を棚にあげ、小沢事件をここぞとばかりに総攻撃だ。
まるで、民主政権の敵失に歓喜するがごとく、小沢事件について、鬼の首でも取ったかのようなはしゃぎようだ。
言ってやればいい。
 「あなた方にだけは言われたくない」と・・・。

民主党小沢幹事長と検察との対立は、政治闘争のような意味合いすら帯びている。
小沢氏は、自ら挙証責任を負うことが出来るのだろうか。
いや、あそこまで啖呵をきったのだ。ちゃんとするべきだ。
小沢氏は、逃げていないで、自ら進んで国会や公開の場に出て、あらゆる質問や疑惑に自らの言葉で解るように答えることだ。
そうしたことさえも怠るというのであれば、民主党政権の政治能力までもがも疑われる。

国民の総選挙で、ようやく政権交代を実現させたのだ。
平成維新・・・、誕生してまだ4ヶ月だが、これを国民の期待に反して烏有に帰してはならない。
しっかりしてくれと言いたい。
政治資金規正法も結構だが、国民が真先に望んでいることはそんなことではない。
景気対策、雇用対策と、人々の暮らしに直結した、喫緊の重要な施策こそ急がれるべきなのに・・・。

いまどき、謙虚な女優魂―尾野真千子の場合―

2010-01-16 20:00:01 | 雑感

原石は、磨かれてこそ輝く。
玉磨かざれば、光なし・・・。
1月10日のこのブログで、映画「真幸くあらば」の感想文を綴った。
映画の主演は、尾野真千子という女優さんだった。

その彼女について・・・。
先頃の朝日新聞(1月15日)の夕刊で、かなり大きくスペースを取った彼女の記事に接して、ほほう、なるほどなあと思った次第だ。
記者は、私と同じような思いで記事を書いたのではないかと、少し嬉しくなった。
観た作品のヒロインについて、着目した点がよく似ていたからだ。
私は、期待を込めて触れたつもりだったが、その人が新聞やテレビで話題に上るということは実にほほえましいし、好感をもった。
記者さんと着目するところが、あまり違っていなかったということもある・・・。
人は、観るところは観ているということか。

1997年、河瀬直美監督は、「萌の朱雀」で尾野真千子を起用した。
このときは、まだ奈良の山奥の中学生だったそうだ。
学校の下駄箱の掃除をしているところを、監督にスカウトされたのだった。
新聞の記事によると、山奥だったから、映画の世界なんて全く想像もつかなかったそうだ。

田舎育ちの、ダサい女の子が変身してあまり綺麗になったとかで、家族や周囲は驚いたそうで、現代版シンデレラといったところだろうか。
当の彼女は、「監督に言われるままに動いただけ」と、本人はあくまでも謙虚だ。
そこが、またいいところだ。
十数年後には、再び河瀬監督と組んで「殯(もがり)の森」で、あのカンヌ映画祭のグランプリ受賞となった。

自分に振り当てられた役作りに頭を悩ませ、人の気持ちになって理解するのには人一倍苦労するそうだ。
それを、ただあるがままに振舞うということで、リアリティのある演技につながる。
複雑きわまる人間の存在に対する、謙虚さなのだろう。
人間誰でも、この謙虚さが大切だ。
だから、複雑な難しい役をもこなせるということかもしれない。
難役をこなしてこそ、初めて一人前の女優なのだ。

「真幸くあらば」では、自分の婚約者を殺した死刑囚を愛してしまう難しい役どころだ。
これが、あるがままに自然なのだ。
自分では役作りは苦手だといいながら、なかなかのものである。

演技なんて、そうそう計算ずくで出来るものではない。
様々な気持ちや感情を総動員して、自分の中でそれらが交錯し、融合しあったときに自然と生まれてくるものだという。
人間の気持ちは、自分でも解らないものだから、それを表現することの困難さはおして知るべしだ。

これからも、難役に挑戦し続ける尾野真千子の成長が、ますます楽しみな女優だ。
主演作が、川口浩史監督「トロッコ」、一尾直樹監督「心中天使」と続き、3月には芸術祭大賞の主演ドラマ「火の魚」(NHK)が放送予定だ。


神経戦いつまで―政治とカネと説明責任―

2010-01-14 16:30:00 | 雑感

厳寒のさなか、北風吹きすさぶ冬の夕暮れのことである。
国会開会を間近にひかえて、民主党小沢幹事長の関係先に、一斉に東京地検の家宅捜索が入った。
小沢氏が、地検の事情聴取の要請を拒否したからだ。

4億円という、土地購入資金の原資をめぐって、政治資金規正法の疑いありということだ。
この問題、いろいろと解りにくい。
もしかして、意図的に解り難くしているのかも・・・?

小沢幹事長が、地検の捜査に協力的でないからか。
何か、証拠隠滅のおそれでもあるというのか。
どうも、一昔前の自民党みたいなことになっている。

小沢氏は、十分に説明責任を果たしていない。
何故、説明できないのか。
もはや、知らぬ存ぜぬでは通らぬところへ来ている。
余程、後ろめたいことがあるのか。都合の悪いことでもあるのか。
それとも、検察に対する、彼一流のひとつの‘戦略’なのか。

政権与党の幹事長としては、もっと堂々と誰にも解るように、何故意をつくして説明できないのか。
田中内閣以来の、長年の検察への遺恨か。
一方の、対する検察はどうだ。
あくまでも、自分たちの威信を世に知らしめたいのか。
犯罪として立件できるだけの、十分な証拠でもにぎっているのか。

こんなことで、18日から開かれる国会はどうなるのだろう。
検察には、何か筋立てでもあるというのか。
国民は、捜査の行方を、じいっと見守るしかないのか。
検察の狂奔にも、呆れるほどの驚きを禁じえない。

小沢氏に近い人の話によれば、小沢幹事長の自宅には、いつも10億円位の現金が用意されているそうだ。
4億のカネなんて、どうということのない、そんな金銭感覚か。
問題は、それが裏献金ではないかということらしい。
単なる不記載だというなら、謝って訂正すればそれで済むことだ。
人間、誰だって間違いや計算ミスぐらいある。
ことさらに、大問題化することはない。
あまりにも騒ぎすぎる。

疑惑の全容に迫ろうとする検察は、何を狙い打ちしようとしているのか。
いまさらここに至っては、振り上げたこぶしをおろすこともできまい。
もともと、マスコミは民主党政権に好意的ではない。
彼らが、小沢疑惑を連日のように報道することの、何という馬鹿馬鹿しさよ!
ここで大事なことは、肝心の検察側が、小沢疑惑について、何ひとつ公式には発表していないということだ。
それなのに、新聞やテレビのニュースはもちろん、ワイドショーまでが面白おかしく、小沢幹事長を悪者扱いのように喧伝している。

少々、様子が変だとは気づきませんか。
一体何なのだ、これは・・・。
小沢氏が、頭に来るのも分かる気がする。
こちらも、またかと苦虫潰した顔つきになるというものだ。

小沢氏は、明確な説明をすればいいだけのことだ。
騒ぎを大きくする、検察も検察だし、小沢氏も小沢氏だ。
今のところ、会見などでは当たり障りのないことを述べているが、民主党や鳩山総理にしても、内心はやりきれぬ思いではないだろうか。
こんな状態が、いつまでもぐちゃぐちゃ続いていたら、国会はどうなるか。
それこそ、野党自民党の思うツボだ。
いまから思いやられる。

検察が、疑惑追及にやっきになるのは分かるとしても、さてこの先何が出てくるというのか。
通常国会で、野党からの揺さぶりを受ければ、肝心かなめの予算や政策論争はそっちのけにされる。
地検特捜部の不退転の決意の表れだろうが、国民はたまったものではない。
こんな神経戦は、早く終わりにしてほしいものだ。
おお、寒い。
はぁ~クション・・・!


JAL法的整理―驕れるものは久しからず―

2010-01-12 10:30:00 | 雑感

JALが、乱気流の中で、大揺れである。
どうするのか。
そして、どうなるのか
JALの再建策は、裁判所が選んだ管財人のもとで、再建が進められることとなった。
大揺れのさなか、会社更生法による、法的整理が決まった。
これは、債権者の制約がもっとも強い<倒産>手続きだ。
西松社長は、法的整理に強く反対していたが、自力で再生できるとでも思っていたのか。
いまの流れを知らないのか、ノーテンキとはこのような人のことをいうのかも知れない。
そういう人が、巨大企業の経営者だったのだ・・・。

こうしている間にも、刻々とJALの経常赤字は膨らんでいる。
航空ビジネスは、日銭商売だ。
客が乗らなければ、赤字だ。
国際線では、1ヶ月で100億円超の赤字が続き、昨年は半年で経常赤字が1290億円にまで拡大した。
もうとっくに、尻に火がついているのだ。

法的整理となれば、銀行も一般債権者も、基本的には債権を放棄しなければならない。
誰もが食いっぱぐれても、文句は言えないのだ。
企業再生機構とやらが、公的資金を注入する代わり、JALは今後3年間で、グループ社員の3割に当たる、1万5600人の人員削減を求められる。
大規模なリストラが行われるのだ。
これこそ阿鼻叫喚の人員整理だ!

民事再生とは違って、経営陣もすべて入れ替えだ。
豪邸に住んで、3000万の年収の機長がわんさかといるそうで、これなど論外の話か。
高給、贅沢、やりたい放題をやってきたJALのつけがいまの有様とは・・・。
それでも、今日も明日も、飛行機は飛び続けるか・・・!
公的資金の注入というが、すべて国民の税金なのだ。

現役社員は年金5割カットを泣く泣くのみ、、OBは3割カットさえ渋っていたが、待ったなしの期限ぎりぎりで、かろうじて3分の2以上の同意を得ることが出来た。
現役社員の説得も大きかったようだ。
このままOBが年金減額を認めなかったら、機構は企業年金基金を解散させる方針だった。
そうなると、積立金をOBと現役とで分配することになって、積み立て不足のために、OBは3割のカットよりも取り分はさらに減ることになるから、早く、腹を決めたほうがいいといわれていた。
日航を退職してもなお、ゆとりある月50万の年金生活への未練はあったにしても、この最終決断は正解だ。

JALは、日航株の上場維持を断念せざるをえない。
上場廃止ということだ。
市場での株式の売買が廃止になれば、市場取引はできなくなる。
株価はどんどん下がっていき、ただの紙切れになる・・・!?
すべては、自業自得である。

JALの経営不振は、何もいま始まったことではない。
15年も前に、3年連続の赤字無配が余儀なくされていた。
その時点で、このままではJALは生き残れないと叫び続けてきた、真摯なOBもいたのだ。
そうした、良識派の発言はことごとく無視されてきたといってもいい。
確たる信念を持った経営者不在で、やるべき社内改革から逃げてきた、長年の「負」の積み重ねが、いまのJALの姿だ。
本来、もっと早く大手術をしなければいけなかったのに、それをしなかった。

社長に対して、提言や諫言をしようものなら、嫌なら会社を辞めろと言われるのがおちであった。
親方日の丸で、絶対に潰れっこないという愚かな神話を、JALの上層部も社員も頭から信じていたのだ。
JALには、確かな経営哲学がなかったということだ。
最後には、政府が面倒を見てくれるとさえ豪語していたのだ。
とんでもない話だ。

JALのことを思いながらも、失望ばかりが先にたち、嫌気がさして辞めていく管理職も多かった。
JAL初の生え抜きの高木社長は、自分に擦り寄ってくる人間ばかりを重用していた。
側近偏重で派閥抗争を呼び、もともとなってはいけない人が社長になったりしたものだから、人事までも難しくしてしまったのではないか。

JALの代理店政策は、100億円の増収のために100億円の販売手数料を払っていたというから、ずいぶん馬鹿げたことをしていたものだ。
無茶苦茶な話だ。
それと、役所へのご機嫌伺いで、困ったときの神頼みだけは忘れなかった。
福島空港を造ったとき、需要予測の話が出て、担当者は年間20万人しかいないと答えたそうだ。
このとき、人数を80万人にしてもって来いと、上層部から激怒されたという。
すべてが万事で、いま全国に90を超える空港があって、そのうち60は不要な空港だとされる。
関連会社に1社1人から2人が天下って、60の空港で関連企業も含めると、何千人もの天下りを作ったと言われているのだ。

極端な言い方だが、安全で安くて便利なサービスを期待できれば、必ずしも日本航空でなくてもいいのだ。
社会や経済の情勢に応じて、会社経営というのは、適切かつ迅速な改善がなされてしかるべきなのに、残念ながらJALには、身を挺してまで改革を進めようとする気概ある経営者がいなかったのだ。

かくなるからには、経営者や乗員に、これまでいかに甘い汁を吸ってきたかを思い知らせる以外に、JALの再生など考えられない。
JALを見つめる人々は、そう思っている。
許すまじきは、お客に対して「乗せてやってるんだ」という意識である。
法的整理に入って、それでも延命という形で企業の<体質>をそのまま残すようでは、真の再生とはいえない。
不沈艦的で傲慢な発想と、ぶくぶくと肥大化した無責任体質から脱却しない限り、JALの生き残る道はない。
それこそ、一から出直す覚悟が必要だ。
JALは、存亡の危機に陥っている。
しかしいま、ここにいたって新しい局面を迎えた。
甘ったれている場合ではない。