徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「華麗なるアリバイ」―フランス料理風アガサ・クリスティー―

2010-09-29 12:45:00 | 映画

映画「ランジェ侯爵夫人」の脚本家として知られる、パスカル・ボニゼール監督の6作目の映画になる。
1946年に発表された、アガサ・クリスティーの「ホロー荘の殺人」を下敷きにした、現代版フランス映画
生誕120年だそうだ。
ここでは、名探偵ポワロに代わって、ひどい頭痛もちの警部が登場する。

作品は、総じて洒落たつくりだが、手堅く描かれているわりにどこか軽い。
それは、イギリス版と違ってフランス版だだからなのか。
洗練されたミステリーでありながら、女たちの恋愛模様が中心に描かれている。
確かに、愛は永遠のミステリーとはよく言ったものだ。
・・・それは、9人の男女の楽しく華やかなパーティのはずだったが、一発の銃声と悲鳴が、事件の幕開けを告げることになる。

フランス・パリ郊外の、小さな村が舞台である。
広大な敷地に大邸宅を持ち、上院議員アンリ・パジェス(ピエール・アルディティ)と妻エリアーヌ(ミュウ=ミュウ)は、週末になると、親しい友人たちや親戚をっ招いて、上質なワインに舌鼓をうちながら、おしゃべりに花を咲かせていた。

しかし、この週末は妙な緊張感に包まれていた。
原因は、妻クレール(アンヌ・コンシニ)がありながら、女性関係の絶えない精神科医ピエール(ランベール・ウィルソン)にあった。
彼の現在の愛人は、彫刻家エステル(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)で、ピエールを真剣に愛し始めたエステルは、クレールと話し合いたいと思っている。
一方のクレールは、周囲から哀れな妻と思われながらも、夫の浮気浮気に関しては沈黙を通していた。

他にも、エステルに思いを寄せている酒浸りの若い作家フィリップ(マチュー・ドゥミ)彼を愛しているマルト(セリーヌ・サレット)ら…、と様々な愛が絡み合う中、さらにイタリア人女優レア(カテリーナ・ムリーノ)ら、サプライズゲストが到着する。
彼女が、ピエールの昔の恋人だと知ったエリアーヌは、彼を驚かそうと秘密にしていたのだ。

こうして、総勢10人が集まる中で、人間関係のごたごたが、いつしかくすぶり始めていた。
そんな中で、まず殺されたのはピエールだった。
しかしまた、全員に“アリバイ”もあった。
犯人が誰なのか、動機が何なのか、操作は暗礁に乗り上げ、互いに誰もが信じられなくなった頃、第2の殺人が起きる・・・。

このドラマは、ミステリーのはずなのに、登場人物の感情や犯罪行為は表から隠れて、加害者と被害者、男と女を追いながら、事件の核心に迫っていく。
ただ、ドラマの細部が甘く、犯罪の陰にいる男や女たちの本性がどこまで描き切れているか、疑問も残る。
登場する人物全員にそれぞれ動機があり、上質で、かなり危険な男女の恋愛模様を描いた作品だ。

フランス映画「華麗なるアリバイは、男女の複雑な恋愛心理と、彼らの駆け引きを描きながら、その下で渦巻く愛と憎しみ、冷静に仕組まれたトリックをひもときながら、真犯人に迫っていくのだ。
それは、しかし危険なひと時なのだが、映画のタッチが軽すぎて、ミステリーとしての物足りなさも・・・。
まあ、複雑な女の性(さが)を表現する、豪華な女優たちの競演が見ものだ。
彼女たちの本心をのぞく怖さもあるが、ストーリーをいまのフランスに置き換えたあたり、一風変わった妙味を醸し出している。


映画「ミレニアム2 火と戯れる女」―作品のえぐい面白さ―

2010-09-27 10:25:00 | 映画

過去が真実の口を開き、女の存在は脅威となる。
スウェーデンの、ベストセラー小説「ミレニアム」の3部作の第2弾だ。
前作の第1弾は「ドラゴンタトゥーの女」で、40年前の少女失踪事件の解決までだった。
あの天才ハッカー、リスベットが本編にも登場する。
「ミレニアム2」とそれに続く「ミレニアム3」は、その1年後の物語である。
ダニエル・アルフレッドソン監督の、北欧発のスウェーデン映画は極上のミステリーだ。

「ミレニアム」で、少女売春の記事を担当していた記者が殺され、現場からリスベット(ノオミ・ラパス)の指紋が見つかる。
社会派雑誌「ミレニアム」の発行人ミカエル(ミカエル・ニクヴィスト)や、その妹の弁護士、ハッカー仲間の協力で、冤罪を晴らす同時に、前作「ミレニアム1」で謎のように取り残された、リスベットの過去が明かされていく。

ミカエルは、忽然と姿を消したリスベットの身を案じながらも、「ミレニアム」誌の編集に追われていた。
最新号の特集記事は、ある人身売買と少女強制売春の闇であった。
若い記者ダグ(ハンス・クリスティアン・トゥーリン)は、事件の背後で糸を引くザラ(ゲオルギ・スタイコフ)と名乗る人物の存在と、彼が公安警察の一部の人々とつながっていることを突き止めていたのだ。
同じ頃、リスベットの後見人ニルス・ビュルマン(ペーテル・アンデション)のもとを、ザラの代理人ロナルド(ミッケ・スプレイツ)が訪ねていた。
ザラが探している“ある資料”を持つビュルマンは、リスベットが保管しているビデオと交換するならば、それを渡すと告げた。
その“ある資料”とは、リスベットを暴行した時の隠し撮りの映像だったのだ。

一方リスベットは、世界各地を放浪して、ストックホルムに戻った。
ところが、彼女を待っていたのは殺人の嫌疑だった。
記事の完成を目前にしていたダグは、アパートで射殺され、現場に残された銃の持ち主であるビュルマンも、自宅で惨殺死体で発見された。
その銃から、リスベットの指紋が検出されたことから、警察は彼女の指名手配に踏み切ったのだ。
リスベットは、なぜ事件に巻き込まれたのか。

すべての謎を解き明かし、リスベットの無実を証明するため、ミカエルはザラの身元割り出しに全力を傾ける。
巧みな変装で素性を隠したリスベットも、得意のハッキングを駆使して、真相の解明に乗り出していた。

やがてミカエルは、ザラが、スウェーデンに亡命してきた元ソ連のスパイであることを突き止める。
さらに彼は、精神病院に収監されていた、少女時代のリスベットにも深いかかわりのあることがわかる。
その頃、ロナルドの痕跡をたどっていたリスベットは、ザラの隠れ家を突き止め、彼と決着をつけるため、敵地に乗り込んでいた。
だが、リスベットを追ってザラのもとに向かったミカエルは、そこに衝撃の光景を目の当たりにするのだった・・・


この映画には、いくつものミステリーがある。
もうおなじみの厚底靴に革ジャン、少年のようなか細い体に掘ったタトゥーと鼻ピアス・・・、そのリスベットは何故命を狙われるのか。
陰で糸を引く、公安警察の黒幕ザラとは何者か。
そして、少女のころ、何故彼女は精神科病院に収容され、後見人をつけられたのか。
現在の事件は、彼女の暗くおぞましい過去、父なる男へとつながっていく。
そこに浮かび上がってくるものは、女性への蔑視と性的虐待、さらにその背景にある平和国家スウェーデンの暗部(恥部?)だ。

「ミレニアム2」は、ザラ支配下の金髪の大男との死闘が、ドラマの中心に据えられている。
そして、これが「ミレニアム3」になると、リスベットを少女時代に苦しめた、卑しい男たちを断罪する法定編ということになる。
作品は、今回も前作同様に、残虐な場面や露骨な性描写もあるが、リスベットという何とも特異なキャラクターが、そのどぎつさと拮抗し、映画作品全体に怪しげなパワーと緊張感をかもし出している。

悲しみをたたえ、片や怒りをたぎらせ、あくなき暴力や脅迫に屈することなく、自前の正義を貫く。
傷だらけになりながら、復讐の鉄槌を下す女リスベット・・・。
誰にも媚びることはない。
時には、純情なまでにまっすぐな女を演じている。
ドラマは、確かに蘞(えぐ)い。
濃厚な描写とともに、その個性の鮮烈さが、このドラマを観るものを最後まで引っ張っていく。

スウェーデン映画「ミレニアム2は、まことに見ごたえのある面白さだ。
このあとすぐに、最終編「ミレニアム3」が待っている。
いったん見始めると、その展開から結末まで観ずにはいられない。
あまり過去に例を見ないエンターテインメントで、こうした作品が、北欧からやって来たこと自体歓迎ものだ。


映画「終着駅 トルストイ最後の旅」―隠された愛の悲喜劇―

2010-09-22 07:30:00 | 映画
文豪トルストイ没後100年になる。
この人の名を知らない人はいないはずだ。
この作品は、マイケル・ホフマン監督の、ドイツ・ロシア合作映画である。

世界の三大悪妻といえば、トルストイの妻ソフィヤ、ソクラテスの妻クサンティッペ、モーツアルトの妻コンスタンツェだそうだ。
一体、そんなことをだれが言い出したのか、さだかではない。
悪妻、つまり悪い妻・・・、文豪トルストイも、愛すべき人生の連れ合いにはさんざん手を焼いたと伝えられる。

そのトルストイは、晩年、あろうことか夫婦の確執から、突然家出をしてしまい、放浪先の駅で亡くなった。
この話はかなり衝撃的だ。
この映画「終着駅  トルストイ最後の旅」は、トルストイの家出から死に至るまでの出来事を、秘書になったばかりの青年の目を通して描かれている。

トルストイ(クリストファー・プラマー)の妻ソフィヤ(ヘレン・ミレン)は、結婚しておよそ半世紀になる。
ソフィヤは情熱的な妻であった。
1910年代、妻ソフィヤと夫を信奉するトルストイ主義者たちとの対立が深まっていた。
二人は寝室を別々にし、伯爵らしからぬ粗末な身なりで、民衆のために精力的に仕事を続けていた。
私有財産制を否定する彼を、人々は賢者と呼んでいた。
彼は、友人チェルトコフ(ポール・ジアマッティ)とともに、トルストイ運動を展開していたのだ。

ソフィヤは、夫が爵位も財産もすべてを放棄するつもりであることを知って、大いに憤慨する。
それを率先して勧める、友人であり弟子のチェルトコフを激しく憎み、トルストイを挟んで二人は対立を深めていた。

さらに、チェルトコフが、トルストイの著作権も国に遺贈するという遺書にサインをさせようとしているのを知り、ソフィヤの怒りは頂点に達する。
板挟みにあって苦悩する、トルストイ・・・。
ついに彼は82歳にして、娘のサーシャ(アンヌ=マリー・ダフ)を連れて家出する。
ソフィヤは、ショックのあまり自殺を図ったが、トルストイを崇拝する青年ワレンチン(ジェームズ・マカヴォイ)に救われる。

トルストイは、主治医と娘サーシャ、ワレンチンとともに、列車で南へと向かった。
しかし、途中で病に倒れ、アスターポヴォ駅で途中下車する。
ワレンチンから知らせを受けたソフィヤは、特別列車で夫のもとに駆けつけたのだったが・・・。

ここでの妻ソフィヤは、夫の偉大さを理解できず、強欲をかいて夫を追いやった悪い妻として、“世界の三大悪妻”の一人として描かれるが、女性側からみると彼女の言動に共感できる部分も多いのではないだろうか。
彼女は、トルストイを深く愛していたし、家族を守ることに必死だったからだ。

だって、驚くなかれ、夫妻には何と子供が13人もいたのである。
トルストイは名誉や財産、そして性欲を含むすべての欲を否定していたはずだったが・・・。
それでも、老齢の夫妻が、二人してベッドの上ではしゃいで笑い転げる姿は、まことに微笑ましい。
この作品を観るかぎり、トルストイもまたソフィヤを深く愛していたのだ。

その複雑、デリケートな関係が、ともにオスカーにノミネートされた、ヘレン・ミレンクリストファー・プラマーの絶妙な演技で観客をひきつける。
二人の演技は、さながら舞台劇を観ているようで、素晴らしい。
ドイツ・ロシア合作映画「終着駅  トルストイ最後の旅」は、文豪最晩年の、妻との知られざる愛の葛藤を描いた、稀有な一作だ。
・・・「愛のある人生は困難だが、愛なき人生は不可能だ」
マイケル・ホフマン監督の言葉である。
彼によれば、創造され、破壊され、再び創造される、愛の持つばかばかしさ、狂気、そして求め続けてやまない人とのつながり、そうしたすべてをこの映画の中で探求したかったようだ。

映画「悪人」―絶望的な愛と旅の始まりと終わり―

2010-09-15 10:30:00 | 映画

善と悪の狭間に揺れる人間を通して、その人間の弱さと欲を、大胆に鮮烈に描き出そうとしている。
そういう努力を、十分にうかがわせる作品ではある。
李相日監督が、芥川賞作家吉田修一の原作を得て、映画化した。

小説は、120万部を超える大ベストセラーで、映画化権をめぐって、20社以上が名乗りを上げた話題作だ。
出来ばえも悪くはない。
鮮やかな演出にも注目だが、モントリオール映画祭では、ヒロインを演じた深津絵最優秀女優賞に輝いた作品だ。

土木作業員の清水祐一(妻夫木聰)は、長崎郊外の寂れた漁村で生まれ育ち、恋人も友人もなく、祖父母の面倒をみながら暮らしていた。
車だけが趣味の、何が楽しくて生きているのかわからない青年だった。
佐賀の紳士服量販店に勤める、馬込光代(深津絵里)は、妹と二人暮らしで、アパートと職場を往復するだけの退屈な日々を送っていた。

孤独な魂を通して、二人は偶然出会った。
そして、刹那的な愛に、その身を焦がしていく。
しかし、祐一には、たったひとつ、光代に話していない重大な秘密があった。
彼は、殺人事件の犯人だったのだ。

そんな祐一の自首を止めたのは、光代であった。
殺人犯との、許されることのない愛・・・。
生まれてはじめて人を愛することを知り、喜びに満たされる光代は、祐一とともに、絶望的な逃避行へと向かった。

やがて、地の果てとも思える灯台に逃げ込んだ二人は、幸せなひとときを迎えるが、それもつかの間のことであった。
その逃避行が生んだ波紋は、被害者の家族、加害者の家族の人生をも狂わせ、飲み込んでいく・・・。
絶望の底に突き落とされた人間たちが、善悪の葛藤の中でもがき苦しむ。
その先に生まれたひとつの謎は、誰が、本当の“悪人”なのかということで、その答えが明かされるとき、この物語は、思いがけない衝撃のクライマックスを迎える・・・。

祐一の祖母の房江(樹木希林)は、祐一が殺人犯だと知らされ、家の周辺は、連日マスコミに追い立てられる騒ぎになる。
このシーンは、どうも少しくどくはないか。もっと整理して、カットした方がいい。
劇中で、深津絵里妻夫木聰の濃厚な濡れ場シーンがある。
殺人を犯した男の鬱屈した感情と、愛ゆえに高まる気持ちを抑えきれない、女の心情が激しくぶつかり合って、二人の苦悩を浮き彫りにする。
犯人の虚ろに泳ぐ眼差しや、女の情念の哀れさがにじみ、救われがたい二人の心象風景をおもわせる、海辺の景色とともに印象的である。

ともあれ、李相日監督映画「悪人は、そんな男と女それぞれの複雑な心理を描きながら、原作に忠実なドラマに仕上げている。
二人の体当たりの演技も、見応えがある。
切ない、ラブストーリーである。

原作の吉田修一氏、この作品では、李相日監督と一緒になって議論を重ねながら、、難しい脚本作りに参加していることはとても興味深い。
例えば、祐一という人物を描くといっても、、映画の祐一はいい意味で説明などなくて、実存(実像)だけがゴロンと転がっているといった感じだ。
もう、それだけで小説とは違う。
監督の演出は、感情移入している個々の登場人物の表情を、必ずしも観客には見せていないのだ。
ひとつの例が、殺人の告白をする人の顔を正面から撮るというのではなく、観客に見せるのは背中の部分であったりする。
さらに、小説で言うところの、いわゆる行間の読ませ方には、シナリオにもかなりの苦労をしたようだ。
小説で書かれた物を、同じ作家がそれを脚本に書き直す作業は難しいと、吉田氏の言う通りだ。
要するに、小説と脚本は同じではないからなのだ。

モントリオールは、カンヌ、ヴェネチア、ベルリンの世界三大映画祭に次ぐ映画祭だ。
この映画祭での、深津絵里最優秀女優賞は、83年の「天城越え」での田中裕子以来だそうで、今年はベルリンの寺島しのぶ とともに、この大きな金星は日本人女優の当たり年ともいえそうだ。


検察の横暴―恐ろしい事件の虚構(でっち上げ)―

2010-09-11 07:00:00 | 雑感

「郵便不正事件」は、やはり検察当局のデッチ上げだった!
検察はここまでやるかという、憤りさえ感じる。
厚生労働省の元局長に、無罪の判決が言い渡された。
大きな冤罪事件の判決だ。

裁かれるべきは、検察だったのだから・・・。
客観的な証拠を完全に無視して、強引に事件をデッチ上げていく。
否認も認められない。検察は聴く耳も持たない。
ありえもしない虚構を、積み重ねていく。
よくも、そこまでやるものだ。
事件には、必ず動機があるものだ。
その動機だって、矛盾だらけである。
検察調書とやらは、シナリオのように作られていく。作文だ。
何という恐ろしい、ずさんな捜査だろうか。

本来、証拠となるべき調書が捏造されていた!
確かに、‘一定の条件’を満たした供述調書であれば、証拠としての価値は高い。
その調書がいい加減でデタラメなものとわかって、信用性は完全に失われた。
もうこれで、勝負はあったわけだ。
検察は、様々な憶測や推測だけで、いい加減な起訴にもっていったことが明らかになった。
検察官のデッチ上げと、のちに翻された供述の誤った証言・・・、それらが、事件そのものが壮大な虚構だったことを物語る。

担当検事は、あらかじめ作ってあった調書を持ってきて、取調室で尋問を始めたというではないか。
そんなことが、まかり通っているのだ
密室で、どんなやりとりがあったか、想像に難くない。
(こうなると、取調べの可視化は必要になってくる。)
平然と嘘を強要し、罪のない人間を恫喝する。
今回のこの画期的な判決は、検察の落日をまざまざと見せ付けた。
検察って何なのだろう。
司法の正義が泣いている。
検察は、己自身を知るがいい。

何も信じられない。何も信じられなくなる。
検察の、国民に対する信頼は崩れた。
いままでも、数々の冤罪事件があった。
どれも、戦前の“特高”を思わせるような事件だ。

踏みにじられた人権を思うとき、「被告人」とされた当事者の無念は拭いようもない。
この事件で裁かれたのは。検察だ。
巨大な国家権力の座にあって、冤罪を生み続けるような司法のあり方こそ、これからも厳しく糾弾されてしかるべきだ。
地検特捜部のリークを垂れ流しする、マスコミにだって責任がないとはいえない。
正義を踏みにじる、検察の横暴を許してはいけない。

・・・朝夕、どうやら秋風の冷たさが感じられるようになってきた。
アスファルトの舗道に、銀杏が落ちていた。
まだ暑い日は戻ってくるだろうが、季節は確実に秋に向かっている。
それとともに、なにやら騒がしい時もすぐそこまで来ているようだ。


映画「ボローニャの夕暮れ」―セピア色の苦悩と甘美な郷愁―

2010-09-06 06:00:00 | 映画

ブーピ・アヴァーティ監督の、イタリア映画だ。
いつの時代も変わらない、家族の絆の不思議さである。
ファシズム時代という、抑圧された時代の重さ・・・。
そんな時代の波に煽られて、平凡な暮らしをしている家族がいる。
人間の機微をすくいあげた、愛と再生の物語だ。

映画は、静かなシーンが多いが、心情はかなりドラマティックに描かれている。
社会派作品として見れば、父親の復権をテーマにしている。
ファシスト政権の世相を背景に、ひとつの家庭の崩壊と再生を、優しい眼差しで見つめているのがいい。

1838年、第二次世界大戦前夜のイタリア・・・。
ジョバンナ(アルバ・ロルヴァケル)は、繊細で引っ込み思案の女子高校生だ。
父親のミケーレ(シルヴィオ・オルランド)は、高校の美術講師をしている。
ミケーレは、一人娘のジョヴァンナを溺愛していた。

ミケーレは、美しく闊達な母親デリア(フランチェスカ・ネリ)には憧れと劣等感を抱いていて、年頃なのにボーイフレンドはいても恋愛にも縁がない。
デリアはよき母、よき妻であろうと努力するのだが、どうも上手くいっていない。
彼女は、夫の親友にひそかに想いをよせていた。
一家は、お互いに不器用ながら、小さなわだかまりを持ちつつ、それを取り繕ってつつましく幸せに暮らしていた。

・・・しかし、ある日、ジョヴァンナはボーイフレンドへの嫉妬から、同級生の女子生徒を殺してしまう。
彼女は身柄を拘束され、精神を病んでいく。
そして、ジョアンなは精神病院へ送られることになる。
そんな事件に、追い討ちをかけるように戦争が始まり、戦火は日増しに激しさをを増していく。
そんな中で、娘を支えるために、自分の人生を犠牲にしようとする父親を中心とした、平穏に見えた生活は少しずつほころび始めていく・・・。

平凡な家族の愛情を通して描かれるのは、人の弱さ、可笑しさ、愛おしさである。
そのシリアスなまでの描き方を見る限り、上質な人間ドラマだ。
人は生きるのに不器用なもの、しかしどこか確かなぬくもりがある。
それは、愛おしさにも似ている。

娘に無償の愛を捧げる、父親役のシルヴィオ・オルランド(ヴェネチア国際映画祭主演男優賞)が、日常生活の中で起こりうる、小さな悲劇に苦悩する人物を、自然体で演じていて存在感がある。
ここでは、精神的に追い込まれていく父親は描かれているが、母親像の描き方が物足りなくもある。

劇中の出来事が、あたかも実際に起こった事件のように思えてくる。
そこには、監督自身の実体験が色濃く反映されているようだ。
1930年代のイタリア・ボローニャは彼の故郷であり、当時のファシスト政権の世相とともに、一家族の確執が語られる。

娘に無防備なまでの愛情を注ぎ込む父親、娘に上手く愛情を注ぐことのできないことに苛立ち、魅力的な夫の友人に想いを寄せる母親、美しい母親と冴えない自分を比べてコンプレックスを持つ思春期の娘・・・。
イタリア映画「ボローニャの夕暮れは、極めて地味な作品ながら、家族という小さな人間関係を下敷きに、普遍的な人間の本質を、繊細な心情とともに描き出した小品だ。


権力闘争の始まり―民主党代表選挙―

2010-09-02 20:30:00 | 雑感

暑い。寝苦しい夜が続いている。
酷暑・・・、今年の夏は、過去113年間で最も暑い夏だそうである。
そのさなか、さらに熱い戦いが始まった。

民主党代表選挙を控えて、菅、小沢両陣営の熱戦が繰り広げられている。
単純に見れば、与党のお家騒動だ。
ここで重要なことは、内閣総理大臣を決める選挙だと言うことだ。

菅政権は、この3ヶ月何をしたか。
鳩山首相の時代から、菅総理は国家戦略相として、財務相として、たとえば経済財政政策で、何をしたか。
民主党らしき政治は、何も出来なかった。
菅総理について、一国の宰相として見たら、疑問符をつけざるを得ない。
たとえ野党の党首たりえたとしても・・・。

本来の民主党政治の実現は、先が見えてこない。
下手をすると、政権はまた自民党に逆戻りだ。
それを黙って見ていてよいはずがない。
政権交代から、政治主導を唱えてきて、民主政権の行方すら危うい。

小沢前幹事長の出馬は、もうずっと前から決まっていたようなものだ。
この人の行動を見ていれば、素人でもかなり前からそのことは読み取れた。
しかし、新聞、テレビは、不出馬をあおるような(?)記事や番組ばかりを流し続けていた。
まさに言われている通り、操作される世論に国民は戸惑うばかりだった。

あるテレビ局のアンケート調査によると、求められる首相像の第一第二は強力なリーダーシップと実行力だ。
やっぱり、それはそうだろうと思った。
クリーンなイメージも大切だが、そんなことは三の次四の次なのである。
政治の世界は、決してクリーンなものではない。
ドロドロとした世界だ。
政治には毒だってある。政治家にも毒はある。
清廉潔白な政治家なんて、いない。

では、菅氏がクリーンで、小沢氏がダーティーだと言うのか。
国家を主導する首相に、そんな短絡的な見方で通用するとは思えない。
実力ある政治家には、誰だって負の側面はあるし、毒も会わせ持つものだ。
政治の世界は、話し合いだけであっさり決着などつかないものだ。
その裏には、戦術(戦略)があり、駆け引きがあり、謀略だってあろう。
断じて、政治はキレイ事ではない。

理想は理想でしかない。
それだけで、政治が動いたことなどないに等しい。
古今東西、歴史を動かした政治家は、清濁併せ呑むものだというではないか。
国家観と倫理観を持ち合わせた、都合のいい立派な政治家が果たしているものだろうか。
日本という国が直面している未曾有の困難を、どうして切り抜けるか。
現政権の菅総理に、それだけの力量を期待できるだろうか。

民主党代表選が、小沢前幹事長と菅総理の対決となったのは、当然の帰結だ。
無投票などもってのほかで、両者は正々堂々と戦えばよい。
ただし、民主党員は、マスコミに操られた怪しげな世論に惑わされないことだ。
新聞やテレビは、困ったこと(?)に小沢一郎氏が大嫌いなのだ。
彼よりは菅氏に首相でいてもらいたいのは、長い間の自民政権下での既得権益を失いたくないからだ。
これだって、由々しい問題だ。

先日の、菅、小沢両氏の記者会見は、両者の際立った相違点もあったが、よくわからない点もあった。
印象では、菅氏は小沢氏の言葉をよく理解できていないように見えた。
小沢氏へのあてこすりや中傷、皮肉がやたらと目だって、現職の首相なのに見苦しさこの上なかった。
菅氏は何か言おうとすると、相手への批難になる。
こうも品性を欠くものか。
それだけで、菅総理の幼さ、稚拙さを感じるに十分であった。
こういう首相に、続投を期待してもいいものだろうか。

どちらが、首相としてふさわしいかという世論調査で、報道各社の結果は、どこもかしこも、菅氏が小沢氏に50ポイント以上の大差をつけている。
ところが、これがインターネットの世論調査だと、情勢は一変する。
小沢氏が菅氏を上回る数字を獲得しているのだから、まことに奇々怪々だ。
例えば、ロイター通信のネット調査では、小沢氏6309票、菅氏6195票で、小沢氏がリードし、ライブドアの調査では66.1%が小沢氏支持、スポニチの公式サイトでは小沢氏支持8割と、菅氏を圧倒する数字なのだ。
読売新聞にしても、ネット調査では結果は一変して、76%が小沢氏出馬を支持しているのだ。

それなのに、マスコミ調査だけが「民意」として絶対視され、その結果が政治の行方を左右するとなると、何だか空怖ろしくなってくる。
選挙戦は、中間派の切り崩しにやっきとなっているが、この多数派工作にガムシャラな姿は、見ようによっては醜悪だ。
世間の景気など、そっちのけである。

挙党一致というけれど、この言葉の持つ意味合いも、両者の乖離を際立たせている。
菅氏が無為無策だが、小沢氏は世人のいう悪人だろうか。
いや、もうどっちもどっちだ。
民主代表選は、国民不在、ただただ白けるばかりだ。

必ず、どちらかが勝ち、どちらかが負ける。
勝った者が次期総理大臣だ。
完璧な人間などいない。
民主党代表選で、二人のどちらが代表(首相)に選ばれても、たいして変りはない。
誰がやっても同じだ。
権力にしがみつこうとするだけであれば、それは所詮茶番でしかない。

人間、好きとか嫌いとかで、感嘆には片づけられない。
菅、小沢の両氏には、もっと踏み込んだ政策論争に期待したい。
そこから、何かがきっと見えてくる。
政治主導というが、菅氏の言う政治主導とはあくまでも官邸主導だし、小沢氏の言う政治主導とはあくまでも国民主導のことだ。
この言葉ひとつでも、意味合いは全く違うのだ。

インチキな報道に惑わされることのない、眼力も必要だ。
やっかいなことに、報道は、常に正しいとは限らない。
報道を、すべてそのまま鵜呑みには出来ないということだ。
まして、一国の首相を決める選挙である。
賢明な判断で、どちらかを選ばなくてはならない。
暑い日の、熱い戦いはまだ始まったばかりである・・・。