徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「紀元前一万年」ー見たことのない世界ー

2008-04-27 14:00:00 | 映画

誰も見たことのない世界は、「過去」にあった。
この映画は、「インデペンデンス・デイ」「デイ・アフター・トゥモロー」など、ハリウッド超大作のヒットメーカー、ローランド・エメリッヒ監督の太古スペクタクルである。

エメリッヒ監督は、今度は「未来」ではなく「過去」に照準を向けて、新たな未体験ゾーンをど派手に描いて見せた。

紀元前一万年・・・。
地球時間をさかのぼるスケールの大きさだ。
マンモスの毛筋一本までよみがえらせる最新のCG技術、巨大なピラミッドを復元した、映画史上最大規模となるセットが組まれた。
構想十五年、圧倒的なスケールと最先端の映画技術、そのすべてが、遥かなる「過去」へと注がれる。
そして、そこにとてつもない世界が出現するのだ。

こういうのを、体験型アクション、アドベンチャーとでも言うのだろうか。
まあ、息を呑む冒険とアクションのストーリーである。
見る者を、壮大な過去への旅が待ち受ける・・・。

それは遥か遠い昔、予言の神々の時代であった。
精霊が地を支配し、巨大なマンモスが大地を揺るがしていた。
山奥に住む若いハンター、デレー(スティーブン・ストレイト)は、美しい娘エバレット(カミーラ・ベル)と、子供の頃から惹かれあい、将来を誓っていた。
だが或る時、正体不明の男たちが、彼らの村を襲い、エバレットたちをさらっていった。
デレーは、彼女を救うため、ティクティク(クリフ・カーティス)ら少数の仲間を率いて、最果ての地まで、謎の男たちを追っていく。
その途中で、デレーたちは、“牙”と呼ばれるサーベルタイガー(大虎)に遭遇し、
獰猛な野獣と闘い、様々な民族がいることを知る。
そして、その危険に満ちた旅の最後に彼らを待っていたのは、天まで届くような壮大なピラミッドの並ぶ、想像を絶するような文明の地であった。
そこでは、絶大な力を持つ“神”が、さらってきた人々を奴隷として酷使していた。
デレーは、とらわれのエバレットを救うことが出来るのだろうか。
そして、奴隷たちを解放し、真に男の勇者となりえるのだろうか。

・・・村が襲われ、連れ去られた仲間たちを、当時の文明国家から奪還するために冒険に旅立つ青年と言えば、メル・ギブソン監督の「アポカリプト」に似ているが、当時の現地語とリアリズムにこだわったギブソンと違って、エメリッヒ監督はあくまでもハリウッド流だ。
太古の物語のはずなのに、しっかり英語で、妙に小ぎれいだ。
終盤は、なるほどと思うようなご都合主義だけれど・・・。

マンモス狩りのシーンや、サーベルタイガーとの対決といった、血の騒ぐシーンもふんだんにある。
総じて、何だか無邪気な(?)作品ではある。

この作品が傑出しているとすれば、荒涼とした原始の大陸を旅する民族大移動や、画面を埋め尽くす大群衆と、マンモスによるピラミッド作り、さらにはクライマックスの奴隷たちの反乱など、スペクタクルシーンの圧倒的な迫力であり、それはまた、原始時代といえども、巨大な権力によって、個人の意志や生活が押しつぶされてしまう悲劇、その時代を超えた人類の宿命を物語るものだ・・・。

この作品、アフリカとニュージランドのロケが見ものだ。
それに、エンディングに流れる勇壮な音楽(ハラルド・クローサー、トマス・ワンダー)が何とも心地よい。
映画音楽のいいところだ。
聴いているだけで、その場を離れたくない。
アメリカ映画「紀元前一万年」 http://wwws.warnerbros.co.jp/10000bc/ の、未知なる世界を覗いて見るのは、いい気晴らしになるかも知れない。
頭の中で、あれこれ妙に考えることもなく、たまにはこんな映画もいいか。


それは違憲(いけん)!!(続)ー「そんなの関係ねえ!」ー

2008-04-24 21:00:00 | 寸評

自衛隊のイラン派遣をめぐる控訴審は、「空輸先は戦闘地域」であることを認めた。
イラクに、「非戦闘地域」などあるはずもない。
名古屋高裁の判決は、航空自衛隊の活躍するバクダッド(イラク)は、間違いなく「戦闘地域に該当する」としたのだ。
“傍論”とは言うが、司法裁判官が合議の上で判決(判断)を下したのだ。
それを茶化した人間がいる!
 「そんなの、関係ねえ!」
イラク空自の違憲判断に対して、こう言い放ったのは自衛隊航空幕僚長である。
この捨て台詞(ぜりふ)を、何と聞くか。

この言葉は、裏を返せば、自分たちは、裁判所の判断も憲法も知ったことではない、そんなものは守らないと言っているに等しい発言だ。
裁判所も、裁判所に訴えを起こした国民も、自衛隊に文句を言うなというわけだ。
こんな理屈が通るようであれば、自衛隊なら何をやってもいいということになりかねない。
自衛隊は武器を持っている。
その自衛隊が、暴走したらどういうことになるか。
民主主義はおかしくなる。
戦前の日本みたいなことになる。

福田総理も、町村官房長官も、石破防衛相も、高村外相までもが、名古屋高裁の判断について、裁判所に誤りがあるとして、空輸活動を継続する方針だ。
陰湿な口裏合わせ・・・?
このままだと、自衛隊のイラク派遣の「違憲判断」は、確定する見通しなのに・・・。

今回の判決理由を読めば、判決を下す前提として検討していることは明らかだ。
合憲性の審理に長い時間を割き、三人のベテラン裁判官が合議の上に出した結論だ。
このまま、高裁判決が確定したら、政府は、今回の高裁判断に従って、具体的な指摘を受けた「違憲」と見られる活動は差し控えてほしいものだ。

憲法を含む、各種の法令の最終的な解釈権は、国会にあるのではなく、司法府にこそあって、行政府がこれに従うのは当たり前の話なのだから・・・。
日本は、三権分立の国だ。

名古屋高裁の判断が間違っているなどと、どうして言うことが出来るのだろうか。
自衛隊員たち自身が、イラクを戦闘地帯であると認めているのだ。
だから、イラクへ派遣される輸送機のパイロットも、
 「私たちは覚悟しています。もしかしたら、撃たれるかも知れない」
と言っている。
彼らは、地上からの攻撃を避けるために、機体の色を空色にしていると説明した。
小牧から派遣された200余人は、週5回、多国籍軍の兵士、物資を運んでいるそうだ。
拠点は、クウェート空軍基地で、空自が輸送したアメリカ軍物資は、国連関係の50倍以上だと言われる。

今、この地球上で、イラクが最も危険な「戦闘地域」であることを、空自隊員が一番よく知っている。
そして、今回の違憲判決(判断)で、誰もが、自分たちの行っている活動が本当に違憲かどうか、正しいのか間違っているのか、苦渋の思いで「戦場」に向かっているのだ。
 「私たちが、今までやってきたことが違憲だと言われるは、複雑な思いだ」
彼らに対しても、十分納得のいく、説明はなされていない。

今後も、派遣活動が続く状況下で、何かあった時、「違憲」の判断にそっぽを向いた政府要人たちは、一体どう責任を取るのか。
イスラム人権委員会の、ムバラク・モタワ事務局長はこう述べている。
 「どの国においても憲法は尊重されるべきだ。
 憲法違反を犯してまで、米軍などイラクへの武力行使を支援するべきではない。
 空自の撤収
もやむをえない」

イラクに派遣される空自隊員の家族は、
 「そんなの、関係ねえ!」
と言う、幕僚長の言葉をどう受け止めているだろうか。
そんな暴言を吐く航空幕僚長を、即刻クビにしろと言う人までいる。

自衛隊員は、「戦闘地域」にもかかわらず、「戦闘地域ではないんだ」と派遣され、不安を抱えていることは事実なのだ。
それは間違いなんだと指摘されても、「関係ねえ」と派遣を続ける。
暴言ともとれる、傲慢なトップ発言だ。
航空自衛隊イラク派遣部隊の、隊員たちの複雑な心中を考えたとき、とても人ごととは思えない。
本当に、これでいいのか。


映画「王妃の紋章」ー華麗なる王家の崩壊ー

2008-04-20 22:00:00 | 映画

中国史上、最も豪華絢爛たる唐王朝後の時代の、王家一族の愛憎の物語が誕生した。
中国映画「王家の紋章」、「HERO」「LOVERS」巨匠チャン・イーモウ監督の最新作だ。
これまた、壮大にして、華麗な映画が製作されたものだ。
この人の製作する映画は、いつもダイナミックだ。
とにかく、ずいぶん派手な映画が出来たものだ。(笑)

チャン・イーモウ監督は、かつてない豪華さ、そして壮大なビジュアルで、この作品を世に放った。
北京オリンピックの総合演出も務める、文字通りアジアの巨匠が、この作品で、さらなる頂点を見せつけようと言うのか。

中国唐時代の直後の王宮が背景で、中国の伝統文化の真髄を披露したかったと言うチャン・イーモウ監督の言葉通り、この作品のコンセプトは「豪華」そのもの・・・。
あらゆるセットに金箔の瑠璃が貼られ、軍隊の鎧兜までもが金ピカという作りだ。
しかも、金糸をふんだんに織り込んだ、王妃や女官の衣装がまた凄い。
西洋のローブデコルテを意識してのデザインらしいが、女性全員が、まるでメロンのように大きく強調された、胸の半分を露出している。
男性は、いやが上にも、目は白い胸に釘づけになるだろう。

「HERO」「LOVERS」も面白かった。
これは、その後に続く歴史大作で、王家一族の愛憎のドラマが展開する。
チャン・イーモウ監督は、公私にわたるパートナーだったコン・リーを13年ぶりに主演に迎えたのも話題になっている。

唐代の末期・・・。
美貌の王妃(コン・リー)は、継子の皇太子(リウ・イェ)と密通していた。
王(チョウ・ユンファ)は、素知らぬ顔で王妃に毒を盛り、皇太子も隠れて侍医の娘と情を結んでいた。
外地から帰って来た第二皇子(ジェイ・チョウ)は、やつれた王妃の姿に宮廷内の策謀を感じ取る・・・。

原案は、中国のシェイクスピアと賞せられる、劇作家ツァオ・ユーの「雷雨」という作品で、革命前の資本家一家の崩壊を描いた戯曲が下地になっている。
この戯曲は、絶対的な父権を柱とした資本家一族の崩壊を、宮廷の悲劇へと見事に昇華させた。

チャン・イーモウ監督は、この物語を時代劇にしたいと周辺の人に語ったとき、無謀なことは止めたほうがいいと言われたそうだ。
しかし、彼はこう語っている。
 「誰もやっていないことだからこそ、挑戦のしがいがあるんだ。
 王朝絵巻にしたのは、外は華やかだが、内実は荒廃した家族の姿を際立たせたせたかったから。
 この手の虚飾は、いまもある。
 舞台は過去だが、作品の精神は現代劇に近い。」

王家の掟とは・・・。
憎しみあうことであり、愛しあうことであり、殺しあうことだった。
表面だけは綺麗に取り繕いながら、家族全員が、それぞれに策謀をめぐらし、殺意を抱き合うという、凄まじい人間模様が延々と描かれる。
絡み合う愛憎は、次から次へと幾つもの悲劇を生み、やがて国をも揺るがす壮絶な惨事へと発展する!

金の円柱600本、延べ1kmのシルクの絨緞、アカデミー賞にもノミネートされた豪奢な衣装3000着、宮廷エリアを埋め尽くす300万本の菊の花々・・・。
どこをとっても、息を呑み込むほどの壮大なビジュアルは、驚愕のクライマックスとともに、さらに全身総毛立つほどの圧巻のシーンを創出する。
まあ、とにかく凄い!

これほどのスケール、これほどの絢爛、そしてこれほどの修羅・・・、それはまさにあらゆるスケールを超越した、この国でしかありえない中国版「華麗なる一族」だ。
外は金、中は毒というわけだ。
贅の限りを尽くした宮廷で、無数の女官にかしずかれ、並ぶものなき栄華の頂点に君臨する、まばゆいばかりの王家の一族であった。

絶対の権力者たる王の権威、あたりを払うような王妃の気品、真面目で心優しい皇太子、父に武力を見込まれた第二皇子の逞しさ、そして、まだあどけなさの残る第三皇子の無邪気な笑顔・・・、それが、黄金の一族の穢れなき肖像であった。
・・・しかし、その裏で、王が企てる王妃の毒殺、それを知りながら、毎日毒入りの薬を飲み続ける王妃がいた。
さらに、皇太子は王妃との不倫に苦しみ、第二皇子は母の計略に引き込まれ、第三皇子の心にはどす黒い闇が広がっていく・・・。

人々が見上げる高殿から、国中を巻き込んで、奈落の底へと堕ちていく。
華々しいまでの、王家の崩壊である。
決して、覗いてはならない黄金の裏側・・・、その禁断の秘密が、絢爛に暴かれる時が訪れる。

王妃の気高さから、悲哀、憎悪、執念、その全てを圧倒的な迫力で演じきったのは 「さらばわが愛/覇王別姫」「SAYURI」のコン・フリー、冷徹な王を演じ、これまで見せたことのない“悪役”を極めたのは「パイレーツ・オブ・カビリアン」のチョウ・ユンファで、女王と帝王~、ともにハリウッドでも活躍する不動の二大スターが共演を果たしている。
コン・リーは、禁断の恋と母性の板挟みになる、女の苦悩をあますところなく体現して、圧倒的な存在感があった。
豊艶な、熟女の魅力も十分だ。
彼女は、今が黄金期かも知れない。
緩急自在の演技で、孤独や葛藤の表情は十年前とは別人のようで、チャン・イーモウ監督も舌をまくほど、凄い(!)女優になった。

とにかく、超絶のバトルも健在で、度肝を抜くようなアクションシーンの連続だ。
「HERO」「LOVERS」でも見慣れているだけに、個人的にはいささか食傷気味だ。
まず、時代考証がどうとか言わずに、文句なしに迫力満点の、胸躍るアクションを五感で堪能しろと言わんばかりである。

長らく文芸映画の巨匠と言われていた、チャン・イーモウ監督だが、武侠大作「HERO」が、驚異的な興行成績をたたき出したのを転機に、いきなり中国映画史上ナンバーワンヒットに、続く「LOVERS」も大ヒット、この「王妃の紋章」も自己記録を更新と、彼は商業映画の世界でもトップ監督となった。
アジアの人気スターたちの豪華な共演とともに、脚本、美術、衣装、音楽、アクション、CGにいたるまで、一流のスタッフの総力を結集した賜物だろう。
一言付け加えたいのは、アジアを中心に国際的な舞台で、数多くの映画音楽を担当してきた日本の梅林茂は、「LOVERS」でも素晴らしい音楽を披露してくれたが、それ以来二度目となるこの作品でも、チャン・イーモウ監督と組んで、力強い、人間の持つ内面的な辛さを惜しみなく発揮した才能である・・・。

中国映画「王妃の紋章」 ( www.ouhi-no-monsho.jp は、娯楽映画として見れば、近頃出色の出来映えだ。


    ~ 閑 話 休 題 ~
    「河瀬直美監督特集」
    カンヌ国際映画祭グランプリを受賞した、河瀬直美監督の特集上映が
    4月26日から、横浜市中区若葉町の映画館・ジャック&ベティで始まる。
                          (TEL: 045-243-9800)
    グランプリ作品「殯(もがり)の森」のほか、劇場未公開作品を含む17作
    品を一挙公開する。
    26日夜には、河瀬直美監督のトークショウがある。
    上映される作品は、「萌の朱雀」「火垂」など長編もあり、河瀬監督の
    これだけの作品を一挙に見られる機会はそんなにないだろう。
    5月2日まで。

    河瀬作品グランプリ「殯(もがり)の森」については、当ブログ欄(1月25日)
    にて感想を書かせていただいた。

 

 


 


それは違憲(いけん)!!ー自衛隊イラク派遣ー

2008-04-18 18:00:09 | 寸評

イラクに「非戦闘地域」などありえない。
武装したアメリカ兵を輸送していて、それでもなお「武力行使」に関わっていないと言い張ってきた。
航空自衛隊の派遣差し止めの請求は退けられたが、 「イラクでの航空自衛隊の空輸活動は、憲法九条に違反する」・・・。
これが、名古屋高等裁判所の違憲判決だ。
イラク派遣をめぐる訴訟での、違憲判断は初めてで、その意義はとても大きい。
画期的な判断である。

首都バクダッドでは、多数の戦争犠牲者が出ている。
ここが、イラク特措法の定める「戦闘地域」ではないなどと、一体誰が言ったのだ。
立派な「戦闘地域」ではないか。

それなのに、小泉元首相は実に変てこなことを言った。
 「自衛隊が活動する地域だから、非戦闘地域なのだ」
開き直って繰り返された、この答弁は何だったのか。
国語学者は、小泉首相は日本語を知らないとまで言って、切って捨てた。
無理に無理を重ねて、勝手に、自分に都合のいいねじれた解釈で、多くの国民を騙してきた。(?)
悲しいことに、本当に日本語を知っている(理解している?)人とも思えない。

・・・しかし、政府は、名古屋高裁の判決はイラクの自衛隊派遣に影響しないとの立場から、航空自衛隊による輸送活動を継続する方針だ。
福田総理は、「判決自体は国が勝った。違憲判断は、判決そのものには直接関係ない」とまで言った。

戦争の大義が崩れ、戦争状態は続いているのだ。
そんな中へ派遣を続けることへの疑問は、拭い切れない。
納得のいく、政府の説明が欲しい。
町村官房長官も、派遣続行をさらりと表明した。
最高裁による最終判断ではないからか。

でも、名古屋高裁の司法判断は、重く受け止めなくてはいけない。
与野党は、速やかに、自衛隊撤収へ向けての、真剣な論議を始めるべきなのだ。

日本の裁判所は、違憲か合憲かとなると、いつだって大事なところで憲法判断を避けてきた。
これでは、まるで行政の追認と言われても仕方がない。
司法が政治や国会を監視し、チェックしなくてどこがやるんですか。

今回の高裁判決は、小泉政権から安倍、福田政権が、自衛隊イラク派遣について踏襲してきた論拠を、明確に否定したのである。
だからこそ、“納得のいく”政府の説明が欲しい。(重ねて言う)

戦地へ自衛隊を派遣することと憲法とを、何としてもつじつまを合わせるために、政府がひねり出した理屈には大きな矛盾があった。
そこを、裁判所が突いてくれた。
それでも、町村官房長官は不満をあらわにした。
 「総合的な判断の結果、バクダッド飛行場は、非戦闘地域の用件を満たしている。
 高裁判断は納得できない」
さらに、高裁判決は、バクダッドに多国籍軍の武装兵員を輸送することは、「武力行使と一体化する」と指摘しているのに、政府は、「そもそも非戦闘地域なのだし、武力行使と一体化するものではない」と、シャアシャアと今でもシラを切っている。

小泉元首相は、「戦闘地域」と「非戦闘地域」について聞かれると、「自分が分かる筈はない。自衛隊が活動しているところは非戦闘地域だ」の繰り返しである。
自衛隊やアメリカ軍が、攻撃を受けて反撃しても、「国家」とかそれに近い「組織」が相手でなければ、その地域は「戦闘地域」ではないと言う。
さすれば、「たとえ弾丸が飛び交う状態でも、戦闘地域ではない」と言う論法も成り立つわけで、今回の名古屋高裁の判決は、この点の矛盾を指摘しているのだ。
その意味においても、この判決は新鮮な驚きでもあったし、一歩踏み込んだ司法の前進と見たい。

「違憲」の判断が、傍論であろうとそうでなかろうと、こうした判断について、裁判所がそこまで言及するのは如何なものかと言う論調があるが、それはおかしい。
判決文をしたため、、定年前に退官した青山邦夫裁判長の気迫と危機感は、福田総理にどう映っただろうか。(関係ないか)

憲法の番人は最高裁だ。
この現実を、最高裁はどう受け止めるか。

福田総理は、違憲判断への感想を聞かれて、こう答えた。
 「それは、判断ですか。傍論、脇の論ね。自衛隊の活動、問題ないんだと思いますよ」・・・
憲法論議が高まる中、日本の至宝とも言われる「憲法」を、正しく読み解きたいものだ。
まもなく訪れる5月3日は、憲法記念日である。
 





映画「つぐない」ー嘘は罪、されどやがて悲しくー

2008-04-16 12:30:00 | 映画

 あなたを愛しています。
 だから、私のもとに帰ってきて・・・。
 一生をかけて、償わなければならない罪があった。
 命をかけて、信じ合う恋人たちがいた。

この作品は、ジョー・ライト監督のイギリス映画だ。
イギリス現代文学の、イアン・マキューアン原作のベストセラー「贖罪」をもとにしている。
その文学性の高さゆえに、映像化は困難と言われていたそうだ。
特に、作品の心理描写をフィルムに焼き付けることにどれだけ成功したか。
アカデミー賞をはじめ、ゴールデングローブ賞など、数多くの映画賞受賞歴を持つ精鋭スタッフが、「人は罪をあがなえるのか否か」という、普遍のテーマに立ち向かった作品だ。

1930年代、戦火の忍び寄るイギリス・・・。
夏の或る日、政府官僚の長女に生まれた美しいヒロイン、セシーリア(キーラ・ナイトレイ)は、自分が、兄妹のように育てられた、
使用人の息子ロビー(ジェームズ・マカヴォイ)を、身分の違いを越えて愛していることに気づく・・・。
生まれたばかりの二人の愛は、しかし小説家をめざす多感な妹ブライオニー(シアーシャ・ローナン)の、哀しい嘘によって引き裂かれることになる。

ロビーは、生と死が背中合わせのフランス・ダンケルクで、ドイツ軍との激戦の中にいた。
イギリスで犯罪者として収容され、刑期を短縮するための手段として、従軍することを選んだのだ。
セシーリアは、彼の帰りをひたすら待ち、「私のもとに帰ってきて」と手紙をしたためる。
ブライオニーは、自分のおかした罪の重さを思い知らされ、苦悩する。
三人三様の運命が、無情な時代の中に呑み込まれていく・・・。

運命に翻弄されながらも、愛を貫こうとするヒロインのセシーリア役は、「パイレーツ・オブ・カビリアン」「シルク」などで人気を博し、「プライドと偏見」でアカデミー賞主演女優賞にノミネート、名実共にトップスターに登りつめたキーラ・ナイトレイで、新たなステージの一歩となる作品だ。
恋人ロビーには、「ラストキング・オブ・スコットランド」で好演のジェームズ・マカヴォイ、そして、二人を引き裂く結果になる妹には、少女時代はシアーシャ・ローナン、娘時代はロモーラ・ガライ、大作家となった晩年は名女優ヴァネッサ・レッドグレイヴと、時代ごとに三女優が熱演する。
この三人が、まことによく似ている。たいしたものだ。

アカデミー賞作曲賞の、全編に流れるピアノのメロディーが優しく響く。
光と音楽と映像としぐさ、その全てがどこか切なく、そこはかとない静謐な余韻をもたらしている・・・。
とても映像化不能と言われた、傑作小説を映像化して見せてくれた、ジョー・ライト監督の才能は、或る程度は評価できる。
「贖罪」と言う難しいテーマを抱えて、かつて少女だったブライオニーが77歳になって、残酷なエピローグを迎える・・・。

聡明で、自信家の少女のおかした罪が、どんな未来をも望めた、若く魅力的なカップルの恋を呑み込んで、闇に葬ってしまう・・・。
・・・セシーリアとロビーが、図書室の暗がりで、情熱的に愛し合っているところを目撃したショックのなかで、ロビーを色情狂と確信した妹のブライオニーだった。
だから、その日、母親の家出で、双子の弟と一緒に彼女の家に来ていた、ぽちゃぽちゃと可愛い姉娘のローラが、広大な庭園で何者かに暴行された時、その現場から逃げる犯人を目撃した少女は、犯人はロビーだと証言した。
ロビーは逮捕され、無実を明かされぬまま、刑務所か、すでに戦争が始まっていて出征かの選択を迫られたのであった。

ロビーは戦線に送られ、重傷を負って帰国を心待ちにするが、戦況は悪くなる一方だった。
彼を愛しながら、身分違いの彼との関係に一抹の不安を抱き、絶対的にかばいきれなかったことを悔やむセシーリアは、家にいるのが耐えられず、傷病兵の世話をする看護婦になる。

ロビーが大好きで、彼の心を試そうと無茶をしたこともあるブライオニーは、幼い思い込みだけで、一方的に彼に裏切られたと信じてしまった。
その結果、家に来た兄の友人や、暴行を受けたローラの不安や怯えと同時にあった現実的な計算が理解できるはずもなく、ロビーを犯人と決めつけてしまったのだ。

この映画は、その罪に対する贖罪=「つぐない」の気持によって染め上げられた、悲しい恋人たちの物語なのである・・・。

お互いに、電流が通じた瞬間のように、愛が通じ合ったセシーリアとロビーだったが、キーラ・ナイトレイが演じるイギリス上流家庭の奔放な娘が、真実の愛に気づいて、一途な恋に生きる女へと変身していくのが見ものだ。
かたや、家政婦の母に育てられ、優しい青年に成長したロビーを演じるジェームズ・マカヴォイと、そんな演技派でもある二人の悲劇を軸にして、映画は、彼らの愛を葬った少女が成長し、自分の罪を認識して後悔に身を焦がす姿を描き出す。
おかした罪への償いの気持ちで、小説「つぐない」を書き上げ、これが最後の作になると言って、ブライオニーは年老いた姿で登場するのだが・・・。

償えることと、償えないこと・・・。
その、人の心の闇に迫る、激しいが、しかし静謐な葛藤が、この作品「つぐない」 tsugunai.com  )の底には流れているようだ。

ジョー・ライト監督は、キーラ・ナイトレイに最初ブライオニーの役を演じて欲しかったようだが、彼女の方はどうしてもセシーリアにこだわり、監督を説得して、結果的にセシーリア役に落ち着いたと言う話だ。
注目すべきは、この物語は、セシーリアの目を通して描かれているのに、実際にはブライオニーの視点でも描かれていると言うことだ。
この映画の主役は、セシーリアではなく、ブライオニーではないかと思った。
ブライオニーの目線が、原作者イアン・マキューアンの目線なのだ。

作品はコンパクトによくまとまっているが、そこに無理があるのか、文学作品に見られるような、登場人物の心理描写、潜在意識の映画における描き方には、どうしても物足りなさが残った。
「贖罪」と言うからには、人間の苦悩、懊悩はもっともっと深い筈であろうから・・・。


映画「レンブラントの夜警」ー名画に隠されたミステリ-ー

2008-04-14 04:30:00 | 映画

西洋美術史に燦然と輝く、画家レンブラント・・・。
オランダの至宝といわれ、門外不出の名画『夜警』をめぐるミステリーである。
カナダ・フランス・ドイツ・ポーランド・オランダ・イギリス合作映画だ。

レンブラントという画家の絵筆は、後世に残る幾つも至高の芸術を生み出したが、現世の勝利を生み出せなかったと言われる。
鬼才ピーター・グリーナウェイ監督は、彼独自の解釈によって、本物の芸術の美に酔いしれながら、美の生贄となった画家の人生に光をあてたのだった。

「レンブラントの夜警」では、三人の女性の、全く違う愛の形が描かれる。
一人目はサスキアで、レンブラントを成功へ導いた妻であった。
二人目は復讐のために送り込まれた家政婦のヘールチェで、彼女は彼を堕落させた愛人だった。
そして、三人目もやはり家政婦のヘンドリッケだったが、彼女は純粋無垢な女神(ミューズ)であった。
画家レンブラントは、この作品では、愛と欲に溺れ、正義と悪に引き裂かれる男として描かれている。

1641年、市民が社会を動かすほどの力を持つ共和国オランダで、画家レンブラント(マーティン・フリーマン)は、35歳にして人生の絶頂期にいた。
一流の肖像画家として、彼の名声はヨーロッパ中に響き渡っていた。
妻サスキア(エヴァ・バーシッスル)との仲も、円満であった・・・。
彼の栄華には、一片の翳りもなかった。
しかし、『夜警』の完成後、彼の人生の転落が始まる・・・。

レンブラントは、アムステルダムの市警団から、集団肖像画を依頼され、あまり気が乗らなかったが、承諾する。
注文主の、人となりを画家がよく理解してから肖像画を描いたこの時代、レンブラントは、とくにその才能に長けていた。
注文主の隠された一面を暴き出し、訴訟騒ぎを起こしたこともあった。

レンブラントは、まず軍曹のロンバウト・ケンプの身辺に踏み込み、汚らわしい罪の臭いを嗅ぎつける。
彼の表の顔は孤児院の院長だったが、裏では子供たちに売春をさせ、養女にしたマリッケとマルタの姉妹には、自ら虐待を加えていたのだった。

或る日、隊長のハッセルブルグが、右目を撃たれて死んだと言う報らせが入る。
訓練中の事故だと発表され、発砲命令を下した副隊長は逃亡した。
次期隊長に就任したバニング・コックは、イギリス王女の来訪を控えていて、隊長として護衛の任務にあたれば、栄誉と利益が待っていた。

一連の動きに陰謀を感じたレンブラントは、心に決めた。
市民を守るどころか、金と欲望のために、殺人も恐れず、弱者を踏み台にする権力者たちを許すわけにはいかなかった。
世の中のために、自分にできることは、絵筆で彼らの罪を“告発”することだった。
創作意欲に満ち溢れたレンブラントは、まさかそれが転落の第一歩になるとは思いもよらなかった。

レンブラントは、絵を完成するために、殺人事件の真相の究明に乗り出した。
調べれば調べるほど、市警団はスキャンダルだらけだったのだ。
絵がほぼ仕上がったと聞いた妻のサスキアは、自分の命が長くないことを知っていた。
レンブラントは、絵の中に陰謀と不正を、随所に実に巧妙に描き込んでいった。
これは、ものの見事と言う他はない。

“真相”にたどり着いたレンブラントを待っていたのは、妻サスキアの死であった。
妻が亡くなって、初めて自身の深い愛に気づいたレンブラントは、涙にかきくれた。
 「俺を置いていくのか。今すぐ戻って来い!」

制作中の肖像画を垣間見た伯父のヘンドリックは、葬儀の席で、レンブラントに警告した。
 「あの絵は、お前に災難をもたらす。破って、描き直せ」
・・・しかし、その予言が当たるとも知らず、レンブラントは肖像画『夜警』を完成させたのであった・・・。

この作品は、しかし導入部から舞台劇を観ているような感じで、前半のシーンでは、多くの登場人物がいて、彼らは誰もが饒舌で、その上長い台詞がぽんぽんと飛び出し、さすがに辟易した。
すぐには理解できないところもあって、これには疲れた。
いや、まったく・・・。
物語が錯綜し、難解な組み立て方になっているのだ。
かなり、話がややこしい。
ここまでやるのかと思うほど、台詞という台詞がやけに先走っている。
でも、それらはやがてミステリアスな展開となっていく。
名画『夜警』には、主要人物だけで、何と34人もの人物が登場しているのだから。
まるで、その全員がキャンバスから抜け出てきて、壮麗な舞台劇を観せられているかのようだ。

ヴェネチア国際映画祭正式出品作品、ミンモ・ロテッラ賞受賞作という触れ込みだ。
あの世界的な名画『夜警』の謎は、ピーター・グリーナウェイ監督の独特の解釈によって、350年の時を経て、解き明かされるのだが・・・。

愛に去られ、愛に滅び、それでも愛に救われる。
でも、レンブラントは破滅した・・・。
この映画「レンブラントの夜警」( http://Nightwatching.jp ) は、十七世紀絵画の巨匠レンブラントの光と影を、強烈なタッチで描いた異色作だ。


 ~閑 話 休 題~
レンブラントの話で、モディリアーニのことを思い出した。(モディリアーニ展2008開催中)
古い話で恐縮だが、こちらは、エコール・ド・パリを代表する画家モディリアーニを描いた、忘れもしないフランス映画「モンパルナスの灯」だ。
この映画は、今は亡きフランスの二枚目ジェラール・フィリップ主演で、生前不遇で没後名声の高まったモディリアーニが、彼に乗り移ったかのような名演であった。
ジェラール・フィリップも、モディリアーニも共に早世してしまった。
献身的な妻の役を演じた、確かアヌーク・エーメもまだ健在のはずだけれど・・・。
ジェラール・フィリップもよかったし、アヌーク・エーメもよかった。(彼女は、この作品で一躍有名になったのだった。)
学校の帰りに、校則を破ってまで観にゆき、あとで叱られた。
いい映画だった。


「かわいそうなくらい、苦労しているんです!」

2008-04-11 16:31:22 | 寸評
福田総理と民主党小沢代表の、党首討論が行われた。
討論は真っ向から対立し、福田総理の嘆きとぼやきに終始した内容だった。
さしもの委員会室でも、福田総理の泣き言に、失笑に包まれたようだ。
この討論、一国の総理の討論としては、醜態をさらして、今の政権の情けなさを見せつけた。

国会が機能しないのは、何故だったのか。
自民も民主も、よく考えないといけない。
ただ、政治の混乱の元凶は、自民党にある。
自民党が蒔いた種だ。

そもそもが、選挙の結果、民意で過半数を制した参議院の野党が、与党と対決するのは、議会制民主主義として当然のことだし、福田総理が野党の抵抗に困って、苦労していると言うなら、辞めるか、衆議院を解散して、どちらが支持されるか、民意を問えばいい。それだけのことだ。
こんな簡単な話はない。
それをしないで、国の最高指揮官が泣き言を並べたところで、何の解決にもならない。
ただただ見苦しい。

前回の、何とも頼りない党首討論からすれば、、今回は、政権に揺さぶりをかける民主小沢代表の心変りも明らかで、福田総理もそのことを批判した。
あのときの、二人の大連立構想は何だったのか。
ついこの間まで、想像もつかなかった変化が、政治の舞台で相次いでいる。
なかなか進まない、「ねじれ国会」への恨み節をよそに、ガソリン暫定税率が失効して、スタンドで満タンに入れるとガソリン代が1200円も安いと、ユーザーは大喜びだ。
これだって、久しぶりの減税である。
先頃、定率減税を召し上げられたお年寄りには、してやったりの思いだ。

既成の古い秩序(?)に乗って、自らの地位保身や利権に関わる人たちが、国民多数の抵抗勢力になるという構図が見えてきた(!)。

奇しくも、参議院の「ねじれ」が、国民を政治に近づけることになった。
それによって、積年の自民政権の「ウミ」が一気に噴き出した。
国会の空白や停滞はあったにせよ、その意味では、この「ねじれ現象」はまことに大きな改革の「意味」をもたらしたといっていい。
ある意味では、民主党の成果でもあろう。

財務省役人の天下りは認めないとして、日銀副総裁を民主党は不同意にした。
自民党は、党利党略だとして怒り狂っているらしいが、実際に財務省幹部の天下り人事は、目に余るほどひどい。
天下りが、財務官僚の既得権益になっていることは、まぎれもない事実だ。

ノーパンしゃぶしゃぶ騒動以降、財政と金融の分離ということが言われ、財務省は一時鳴りをひそめていたけれど、どっこい完全に復権している。
財務省の天下りリストを見てみると、これがまた凄まじい。
大手銀行、証券、生保といった、自分たちの所管業界だけでなく、予算を握ることで他の省庁にまで影響力を及ぼし、あらゆる業界に天下り先を確保している。
宇宙開発や、原子力研究所までもですよ。

そして、実にしたたかに、財務官僚たちは、公取委や金融庁といった重要なポストに返り咲いて、日銀の総裁ポストを自分たちの復権の総仕上げにしようとねらっていたわけだ。
財務省の天下りがなくならないのは、霞ヶ関で絶大な権力を握っている証拠だ。
民主党の幹部でさえ、「本当は、財務省を敵に回したくなかった」とテレビで本音をもらしている。
敵に回すと、何をされるか分からないからだ。
日銀人事は、財務官僚四人も蹴った小沢代表も、覚悟の上のことだろう。
その小沢氏が、そうした財務官僚の既得権益をなくそうとした意義は大きい。
民主小沢代表の余裕の対処が際立った、党首討論だった。
福田総理の泣きに、まるで総理の泣き言が、
 「俺の気持ちも、少しは分かってくれよ」と、昔の未練にすがる嘆きともとれる一幕であった。

党首討論の翌朝のことだった。
いつも乗るバスで、いつもの二人の女子学生に会った。
一人はいつものように、化粧をしながら話していた。
 「ねえ、ニュース見た?」
 「何の?」
 「福田首相と、あの民主党の小沢さんの討論よ」
 「あ、見た、見た。両親が見てたので、あたしも見た」
 「あれさあ、総理大臣がさあ、何だか目下の人にぺこぺこ頭を下げてるみたいだったよ」
 「そう言えば、そうだね」
 「何をお願いしてたの?」
 「権利の乱用をしないでって、怒ってるのよ!」
 「そうよ。福田首相は、自分はかわいそうなくらい苦労していますって、言ってたわ」
 「泣いてた?」
 「まあ、涙声みたいだったわよ」
そう言うと、彼女はまたぺたぺたと化粧を続けた。
もう一人の女子学生も、眉毛をひきながら、鼻先でふふんと笑って言った。
 「まあ、日本の総理大臣て、その程度なのよ。みじめったらありゃしないわ。要する
 に、あれが、日本の政治の姿なのよ、ねっ!」
と、ほ、ほ、ほ・・・!

 猛烈な強風と雨をもたらした、春の嵐が去っていった・・・。

    花に嵐のたとえもあるぞ
    さよならだけが人生だ。
                ( 井 伏 鱒 二 )


映画「モンゴル」ー強くあれ、敗れれば死、あるのみー

2008-04-10 05:30:00 | 映画

アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品である。
ドイツ・ロシア・カザフスタン・モンゴル四ヶ国合作の大作だ。
ロシアのセルゲイ・ボドロフ監督、日本人俳優浅野忠信主演で、13ヶ国のスタッフとキャストが結集し、約50億円を投じて製作された。

闘って、生きた。
守るべきは、この愛しきもの・・・。
遊牧民の頭領の息子が、モンゴル帝国の盟主チンギス・ハーンとなるまでが描かれる。
壮麗な、モンゴルの大自然を舞台に、全編モンゴル語による闘いの叙事詩である。

陰謀が渦巻く時代、一部族の頭領の息子として生まれたテムジン・・・。
彼を待ち受けるのは、父の毒殺、裏切り、復讐、異国での投獄という壮絶な運命であった。
テムジンは、さらわれて他部族の子を宿した妻を救い出し、次第に統率者として頭角を現してゆく。
ついに、“兄弟”にして宿敵の、勇士ジャムカが大軍を率いて襲って来たとき、迎え撃つテムジンのもとには史上最強の軍団が生まれようとしていた。

テムジン(浅野忠信)は、9歳の時敵対するメルキト部族から花嫁を選ぶため、父に連れられ旅に出る。
父のイェスゲイには、かつて、メルキト部族から一人の女性(テムジンの母)を略奪してきた過去があった。
テムジンの花嫁選びは、敵対関係になった部族間に、平和をもたらすための政略であった。

テムジンは、少女ボルテ(クーラン・チュラン)と運命的な出会いをし、彼女を妻とする。
部族間の友好を望んだ、テムジンの父イェスゲイは、空しく、別の敵の部族に毒殺される。
父を失って、テムジンの人生は暗転する。
過酷な自然の中に、小さく身を潜め、生き抜く彼が凍てつく池に落ちたところを、たくましい少年ジャムカに助けられる。
のちに、このジャムカ(スン・ホンレイ)が、テムジンの宿敵となるのだが・・・。

かつての父の配下タルグタイの裏切り、獰猛なメルキト族の奇襲・・・。
しかし、テムジンは家族を愛し、戦士たちを守った。
彼は、死を覚悟で、数ではかなわぬ戦いに挑む。
次々と死にゆく、テムジンの戦士たち・・・。
ひとり死闘を続けるテムジンに、幾本もの槍が襲う。

・・・やがて、テムジンは捕えられて、奴隷として売られてゆく。
極寒の荒野に、テムジンの無力と苦悩が広がる。
遠い異国の地タングートで投獄され、すさまじい幽鬼のような姿になりながら、鋭い眼光を放ち、それでもなお彼は生き続けるのであった・・・。
そして・・・、また決戦の時は訪れる。

俳優浅野忠信の活躍が、目ざましい。
人気スターやうまい役者の多い中で、これだけ大国小国を問わず駆け巡って、勢いに乗って、威勢よく豪放に、その役を演じきるというのはなかなかのものだ。
彼は、「座頭市」で身につけた日本の殺陣を捨て、モンゴル剣でのアクションにt挑戦した。

モンゴルでは、社会主義時代には、チンギス・ハーンを英雄視するのはタブーだったそうだ。
当時、支配的な力を振るっていたロシアが、昔モンゴルに苦しめられた、長い歴史を持っていたからである。
セルゲイ・ボドロフ監督は、そのロシア人だけれども、この作品では、テムジンの人格的成長に重点を置いたドラマにしているところが、大変興味深い。
チンギス・ハーンと言えば、ロシアにとっては、残酷な侵略者だ。
ハーンについて、「蛮行」「凶暴さ」を教えられたと言うボドロフ監督は、
 「アジアでは、英雄だと知って驚いている。
 何故、対照的な人物像が生まれたのか興味を持った」と語っている。

クライマックスは、大群衆の合戦の場面である。
大平原を轟かす、騎馬戦や死闘など見どころ満載で、息つくひまもなく楽しませてくれる。
ハリウッドのアクション大作を思わせるものもあって、凄みのあるスペクタクルシーンは圧巻だ。
映像も音楽も素晴らしい。

今回は、「ヒトラーの贋札」と競って、惜しくもオスカーを逸したが、出来るものなら、この作品の続編を期待したいものだ。
浅野演じるテムジンは、やがてモンゴル大草原の覇者となるのだが、希代のカリスマにふさわしい俳優を探して、ボドロフ監督は、ロシア、中国、韓国、アメリカを回ったが空振り続きで、悲観的になりかけていた時に、浅野忠信と出会ったと言う。
 「言葉を発せずとも、独特の威厳と風格がある。一目で、彼だ!と思った」
セルゲイ・ボドロフの目にかなって、台詞はすべてモンゴル語で、役者としても、俳優浅野にとって、大きな転機であった。

それにしても、国籍の違うスタッフたちは、旅をしながらロケ地に集まり、この映画を創るという創造の旅は、文化の違い、言葉の違いを乗り越えて、全てを享受しながら、大きなひとつのキャンバスに絵を描くように、カットを生んでいったのだろう。
構想から完成まで、撮影だけで2年、合わせて4年の歳月をかけた映画だ。
映画って、本当に大変ですね。

映画 「モンゴル」 ( http://www.mongol-movie.jp/ ) は、荘厳な大自然の中に、スケールの雄大な臨場感をもって、かつて実在した一人の人間の壮絶な生き様を、今に甦らせてくれる、感動的な力作となった。


頑迷固陋ー暫定税率はどうなる?ー

2008-04-06 12:45:00 | 寸評

景気が悪化している。
株価がどんどん安くなる。
社会不安は増大している。
国政はマヒしている。
・・・国民は、ひたすら耐えている。
福田内閣の支持率は25.6%を切ったと言うではありませんか。

ガソリン代値下げは現実となり、道路国会は次のラウンドに突入した。
今月末、暫定税率復活(?)の衆議院再議決が待っている。
さあ、ガソリン再値上げに踏み切るのか、どうか。
早くも、自民、公明与党内部には、「造反」の動きも出て来ている。
その数、百人を超えた(?)とも言われているが、果たして・・・?
そうでなくても、値上げラッシュの中、ガソリン代まで再び上げる気かと、庶民からは嘆きと怒りの声が聞こえてくる。
造反が出て当然である。

道路特定財源は、自民党の血液であり、動脈だ。だから、やっかいなのだ。
福田総理の、09年度からの「特定財源の一般財源化」と言うツルの一声は、そう簡単に実現できるものなら、とうの昔にカタがついていただろう。
黙っていても、特別会計に10年で59兆円もの財源が転がり込み、それを国会のチェックもなく、道路建設だけに使える特定財源の仕組みは、根本から見直した方がいいに決まっている。
一般財源化すれば、使途が透明になり、マッサージチェアや慰安旅行に横流しもできなくなるし、福祉や教育にだって予算を分配できる。
だが、うまみがありすぎるからこそ、道路族と道路役人は、道路財源の利権を絶対に手放さないのだ。 
それこそ、自民党が壊れなければ実現不可能な荒療治だ。

世論を味方につけた小泉元首相ですら、道路族の抵抗に屈して妥協に走り、ほとんど手がつけられなかったではないか。
安倍前首相は、触ろうとしただけで、猛反発を招いた。
支持率が低い上、道路族に担がれて誕生した福田総理が、党内の反対を押し切って、まとめられるわけがない。
本気でやると言うなら、もっと早い段階で提案し、国民の前で堂々と議論するのが筋というもので、突然切羽詰ってから打ち出したとて、どうなるものでも・・・。
福田総理は、一般財源化について、閣議決定もしていないし、自民党内の総務会の決定だって経ていない。理由は、党内がまとまらないことを知っているからだ。
まるで「担保」のない、総理個人の発言など信用に足らない、空手形なのだ。
前向きに検討する、などと言う言葉に、幾たび国民は騙されてきたことか・・・。
出来なければ、それでお終いだ。
福田総理の発言を、「歴史的な英断だ」と言って持ち上げる、マスコミも如何なものか。
本当に、罪作りな話だ。

今月27日、福田政権になって初めての国政選挙となる、衆議院山口二区の補選が行われる。
ここで、暫定税率維持の是非が問われるが、自民党が落とせば、ガソリンの再値上げは難しくなる。

ガソリンの値下げを待って、スタンドに行った人は、定量の給油で料金が安くなったのを、素直に喜んでいる。
スタンドの係員も、特に困っている様子はない。
福田総理は、国民生活が混乱に陥ると言った。
何が、混乱したか。
麺類、醤油、ビール、電気料と、値上げラッシュの中で、ただのひとつも値下げとなれば、小さいながら明るいニュースだ。
値下げによる、国民の混乱などない。
値下げは、「善政」なのだから。
それを、また元に戻すようなことは、厳に謹んで欲しいものだ。

国民のガソリン税を、湯水のように浪費したあげくに、マッサージチェアまで買い込んで、その怒りを買って暫定税率が廃止されたのだ。
国交省は、反省しているのだろうか。
暫定税率が廃止になった4月1日以降、全国で次々と道路工事がストップしていると言う。
税金が入らないのだから、仕方がない。続行して欲しいなら、与党の再議決に賛成すればいいというのが、国交省の言い方だ。
その結果だろうか、47都道府県の7割までが、新規道路事業を一部凍結したり、入札決定を保留したり・・・。
4月27日の、山口二区の衆院補選をにらんで、全事業がストップしている状態だ。
国のサジ加減ひとつで、どうにでもなるという見せつけだ。
工事中止で、悲鳴を上げる県の道路関連団体が中心になって、道路は必要だ、道路を作ろうというローラー作戦が始まっている。

道路特定財源をもらえないと、地方は困る。
それはしかし、道路を作れないからではない。
借金が返せず、刻一刻、夕張市と同じような状態に追い込まれてゆくからだ。
地方の景気を刺激するためと、身の丈を越えた公共事業を抱えた結果、道路特定財源の8割から9割を借金返済に回している。
このままだと、地方は何処もかしこも借金まみれになる。
この機会に、土建業者を支える利益構造にメスを入れることこそ先決なのだ。
だから、そのためにも、野党は山口補選の与党勝利を許すことは出来ないわけだ。

福田総理は、腕組みをして空を見上げ、弱々しい声で、ぽつりと呟いた。
 「・・・困りましたねえ」
桜の花びらが、はらはらと風に舞っている。
桜吹雪である。
あたかも、散りぎわを知っているかのような・・・。


映画「悲しみが乾くまで」ー失うことと、生きることー

2008-04-03 12:00:01 | 映画

スサンネ・ビア監督の最新作である。
愛する者を失った二人が、互いに寄り添って、奇跡の時間が紡がれる・・・。
「ある愛の風景」「アフター・ウェディング」の、デンマークの女性監督スサンネ・ビアが、ヨーロッパ映画的な上質感を、今回はアメリカのドラマに盛り込んだ。
この作品が、彼女のハリウッド進出第一作というわけだ。

人間の内面に鋭く迫る、独特のカメラワークと、リアリティのある画面づくりだ。
これは、ビア監督の持ち味だろう。
アカデミー賞俳優ハル・ベリーとベニチオ・デル・トロの組み合わせによる、喪失と再生のドラマは、一種の心理劇のように仕上がってはいるけれど・・・。

・・・夫が死んだ。私には、彼が必要だった。
最愛の者の死・・・、それはいつだって、誰にだって起り得る、人生最大の悲しみだ。
この作品では、突然夫を失い、悲しみに打ちひしがれる女が、夫の親友だった男との奇妙な共同生活の中で、少しずつ、生きることへの希望を見出してゆく過程が描かれる。

オードリー(ハル・ベリー)は、夫のブライアン(デヴィッド・ドゥカヴニー)と二人の子供にめぐまれ、幸せに暮らしていた。
悲劇は突然やって来た。
ブライアンは事件に巻き込まれ、射殺されてしまったのだ。
葬儀の準備に追われる中、ふいに、オードリーは、夫の親友ジェリー(ベニチオ・デル・トロ)のことを思い出した。
ジェリーは弁護士だったが、ヘロインに溺れ、堕落した生活を送っていた。
周囲がみな彼を見放す中で、ブライアンだけが親身になって、面倒を見ていたのだった。
そんな夫の行動を、オードリーは、理解できず嫌っていた。
しかし、生前夫が大切にしていたジェリーとの友情を、彼女は無視することが出来なかった。
オードリーは、ジェリーを葬儀に呼んだ。

夫ブライアンの葬儀の席で、子供たちとすぐに打ち解けるジェリ-・・・。
彼は、初めて会ったはずの子供たちのことを良く知っていた。
オードリーは、ブライアンという大きな存在を失った日常生活で、喪失感にさいなまれ、眠れぬ夜々を過ごしていた。
子供たちにさえ、八つ当たりをした。
彼女は、誰かにそばにいて欲しかった。ひとりでは、とても堪えられなかった。

ジェリーが、自分と同じように夫を理解し、愛してくれていたことを知ったオードリーは、自分の家にしばらくの間住んでくれるように懇願する。
その日暮らしの自分を哀れんでの申し出と思い、それを断るジェリーにオードリーは言う。
 「違うわ。助けて欲しいのは、私の方なのよ」
二人の奇妙な共同生活が、こうして始まった・・・。
子供たちは、母親のオードリーよりジェリーを慕うようになっていった。

一見、何の問題もないかのような夫婦の日常にさえ、別れの種は潜んでいる。
いつだって、主人公たちを翻弄するのは、他者からの介入だ。
幸せであればあるほど、人はその環境を守ろうと、自分たちのまわりに壁を作る。
不器用で弱いからこそ、人を受け入れることのできる男だから、麻薬に手を出してしまうジェリーだった。誰もが皆、それぞれに違う種類の弱さや優しさを持っている。
スサンネ・ビア監督は、日常の中のささやかな悪意や、口にできない悲しみを、繊細な映像で掬いあげるのがうまい。
心理描写への気配りは、細やかなものがある。
手足の指先、つま先の動きから、大きなまばたき、瞳の動きまで、カメラがそこまで近づかなくてもと思われるようなショットには、目を奪われる。

共同生活の過程で、オードリー自身も、自分のどうしようもない葛藤をさらけ出し、添い寝の相手を頼んだかと思えば、一緒に住んで欲しいと言っておきながら、子供たちが彼になついていると感じるやいなや追い出してしまうのは、確かに子供っぽいとしか言いようがない。
痛々しい物語には違いないけれど、人はねじれてしまった感情のままでいると、いつしか純粋で素直な心までも失いがちになる。
ボロボロになったオードリーとジェリーが、互いに拒絶しあい反発しあうシーンには、「善は受け入れよ」という、当たり前の言葉が重く響いてくるようだ。

ただ、いつも悲劇から始まるのも伏線としてはわざとらしいし、やたらと回想シーンの多いのは気になるところで、見慣れてくると不満はないわけではない。
弁護士ジェリーの麻薬中毒というのも、物語の設定上、ぴんとこない。
多分、脚本(アラン・ローブ)のせいか。
あまりこなれた脚本とは思えない。
この人、この作品が初の劇場映画脚本だそうだ。(道理で・・・?)

・・・生命は強い。たとえ、どんな痛みを感じようと・・・。
アメリカ映画「悲しみが乾くまで」http://woman.excite.co.jp/cinema/kanashimi/は、人間の弱さとはかなさ、そして悲しみに立ち向かう強さを温かく謳いあげてはいるのだが・・・。
そして、それは、誰もが乗り越えなければならない痛みなのだからとも・・・。