徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「マルタのやさしい刺繍」―遅咲きの乙女たち―

2009-08-29 09:00:00 | 映画

新作ではないが、これはまためずらしい、スイスの映画だ。
遅咲きの乙女たちが紡ぎだす、どことなく心あたたまるハートフルストーリーだ。

スイスという国は、多くの公用語があって、映画のヒットしにくい国なのだそうだ。
そのなかにあって、この作品は、同じ年に公開された「ダ・ヴィンチ・コード」「パイレーツ・オブ・カビリアン」を次々と抜いて、観客動員数NO.1に輝くなどの社会現象まで起こした作品だそうだ。
スイスの“グレート・レディ”こと、88歳になるお茶の間の人気女優・シュテファニー・グラーザー主演、新鋭ベティナ・オベルリ監督の作品だ。

スイスの小さな村トループに住む80歳のマルタ(シュテファニー・グラーザー)は、最愛の夫に先立たれて、生きる気力をなくし、意気消沈の毎日をただ何となく過ごしていた。
そんなある日、彼女は、忘れかけていた若かりし頃の夢を想い出すのだ。
その夢とは、自分でデザインして刺繍をした、少しでも華やいだランジェリーの店をオープンさせることだった。

しかし、万事に保守的なこの村では、そんなものは破廉恥だと大騒ぎになり、マルタの夢は、ただ周囲から冷笑され、軽蔑されるだけだった。
それでもマルタは、そんなことにはくじけてはいない。
3人の友だちと一緒に、夢を現実のものとするために動き出すのだ。

スイスの、伝統的な小さな村に、マルタとその仲間たちの夢と希望の輪が広がっていく。
夢に向かって頑張るマルタの刺繍が、人々の心を、やさしく、あたたたかく紡いでゆく・・・。

この作品を彩るのが、スイスの豊かな自然と、可愛い小物たちだ。
物語の舞台は、穴あきチーズで有名なエメンタール地方の小さな村である。
大きな屋根、美しい花々で飾られた小さな窓という、この地方独特の農家が立ち並ぶ、のどかで豊かな牧歌的な風景は、観ているだけでどこかほっとさせて、心を癒してくれる


弱冠33歳のベティナ・オベルリ監督は、この作品で、エメンタール地方に住む自身の祖母の生活からヒントを得て、小さなコミュニティが抱えるいろいろな問題を風刺しながら、心あたたまる作品に仕上げた。
映画は、少々滑稽で大げさな部分もあるが、大して気にはならない。
実際は88歳で、ヒロインのシュテファニー・グラーザーは、意外にもこれが初主演だそうで、老いてなお、そのキュートな演技は穏やかでヒューマン、それでいて存在感もある。
珍しい役者だ。

作品は、ほんわかと、しかしどこか可笑しくて、スクリーンを越えて、老いてますます盛んな、人生の輝きと歓びを教えてくれているようだ。
よみがえる思い出と未来が、ランジェリーに紡がれるマルタの刺繍・・・、夢と希望があれば、人生の晩年も捨てたものじゃない!
遅咲きの乙女たちは、いつまでも健在で、知的なのだ。
女性監督の感性が、細部にまでゆきとどいている。
このドラマでは、男たちは誰もが脇役だ。
おろおろする男たちをよそに、どうしてどうして、乙女たちの、老いてもなお生き生きとしていること!

80歳を超えても、人生はまだこれからだ。
いまから何かをしようとしても、決して、決して遅くはない。
ただし、生きていればの話だが・・・。
ここに登場する、お年寄りたちの、それも女性のエネルギーは大したものだ。
何ら臆することなく、元気一杯、堂々と大らかにいつまでも輝いていて・・・。
夢みるパワーとは、何事もあきらめないで、前向きに生きるココロのようで・・・。


映画「嗚呼 満蒙開拓団」―惨!国家の無責任―

2009-08-25 22:00:00 | 映画

中国残留孤児たちの悲劇は、ここから生まれた。
記録映画界の第一人者、羽田澄子監督が、平和への強い祈りを込めて作り上げた渾身の作品だ。
秀作といってもいいのではなかろうか。

満蒙開拓団とは、1931年の満州事変以後、日本政府の国策によって、中国大陸の旧満州、内蒙古に入植させられた、日本移民のことだ。
太平洋戦争敗戦までに送り込まれた開拓団員は、約27万人と言われている。
しかし、そのうちの約8万数千人が、ソ連参戦後、日本の敗戦によって、祖国の土を踏むこともできず亡くなっている・・・。
中国・ハルビンから170キロのところに、方正(ほうまさ)という町がある。
かつて、関東軍の補給基地だったところだ。
この地に、周恩来によって、1963年日本人公墓が建立されたのだった。

満州に行けば、広大な土地がある。
「王道楽土」「五族協和」などの標語に固く守られて、国民に知らされることはなかったが、開拓団の送出は限りなく「ソ満国境」に近づいていたのだった。
日本人開拓団は、ソ連軍との戦いに備えた屯田兵的な役割を担っていた。
それでも、そこでは関東軍が人々を守ってくれると信じて、<行け行け満州へ>の謳い文句の下、日本人は夢を抱いて入植していったのだ。
中国農民のもつ肥沃な土地を、実際のところは、奪い取るように安く買いたたいて手に入れたことは、ほとんど知られていない。

1945年8月9日、ソ連軍が一気に国境を突破してくる。
いち早く、将校、幹部とその家族たちは逃亡した。
男を兵隊にとられ、女、子供、老人たちが、その開拓地から一ヶ月もかけて避難の場所方正(ほうまさ)にたどり着いたとき、守ってくれるはずの関東軍は、もぬけのからだった。
ここまで来て、しかし生きるすべを失い、息絶えた人たちの累々とした屍の山を、県政府は三日三晩石油をかけて焼いたと言われる。
人々は零下40度の酷寒に晒され、発疹チフスに見舞われるなかで、年寄りは捨てろと言われ、空腹や恐怖に泣くわが子を手にかけ、川に流し、集団自決していく逃避行は、無残で、死者は8万人にも達したそうだ。
何ということだろう。
生きて、捨てられ、親を失った赤子や幼いこどもたちは、心温かい中国人の家に救われ、日本人孤児として育てられたのだった。
見知らぬ異国の地で、人柱とされた彼らの無念とやり場のない怒りは、命からがら帰国しても、それから数年経った今もなお続いている。消えることなく、今もなお・・・。

周恩来は、この方正の地に、開拓民は軍国主義者の犠牲者だとして、亡くなった多くの日本人のために、立派な墓を建立したのだった。
それは、いかにも、周恩来という偉大な人の懐の深さを思わせる。
そして、このドキュメンタリーの核となるのが、この方正の日本人公墓だ。
いまは、黒龍江省の行政機関が、つまり中国人が、日本人の墓を管理しているのだ。
周恩来といえば、日中国交回復の立役者である。
日中国交回復、それは、この日本人公墓建立から9年後のことであった。


羽田監督は、中国残留孤児の裁判問題に端を発し、日本人公墓の存在を知る。
敗戦後の、過酷な運命に晒されたさまざまな人生を取材する。
彼女自身が引揚者の体験を持ち、冷静で熱い視線は、平和のありがたさとその陰の犠牲(弱者皆殺し)について問いかけるのだ。

生き残った人々は、日本人でありながら、日本語を話すことができない。
羽田監督自身のナレーションは、このドキュメンタリー映画の最後で、静かにこう結んでいる。
 「どうして、このような悲惨な状況が生まれたのでしょうか。その責任はどこにあるのでしょうか?」
痛ましい、運命の民衆の負の歴史である。
日本人公墓について、日本政府の最高責任者から公に語られたことはまだ一度もない。
「満蒙開拓団」のことは、日本人なら、誰もが、こういうことがあったことを忘れないでほしいと思った。

・・・日本の近現代史を振り返るとき、こんな悲劇がどうして起きたのか、胸の痛みを禁じえない。
嗚呼、思えば思うほど、痛哭、きわまりない。
この衝撃の記録映画、いま横浜、大阪をはじめ全国各地で順次公開中だ。


「選挙の自由」と言うけれど―ムダと迷惑!―

2009-08-23 06:00:00 | 雑感

厳しい残暑の中、選挙戦たけなわだ。
毎日、‘騒音’を撒き散らして、選挙カーが住宅街を駆け抜けていく。
これに苦しむ住民の‘犯罪’が、頻発しているということだ。

「家で食事をしていたが、演説がうるさくて腹が立った」と、自宅の近くで街頭演説中だった、候補者の男性運動員からいきなりマイクをつかみ取って、拡声器を通じて「うるさいんだ」と大声で怒鳴った50歳の会社員が、警察に逮捕された。
選挙演説を妨害した疑いだ。

そうかと思うと、「選挙カーの声がうるさかった」からと言って、演説中の候補者らにバケツの水をかけたアルバイト男性や、選挙運動のビラを配っていた運動員につばを吐きかけた男も、公職選挙法違反の容疑で現行犯で逮捕された。
彼は、「ビラを差し出され、邪魔だった」と述べているというから、とにかくいろいろあるものだ。

選挙の時期になると、毎度のことながら、候補者の名前を大音響で連呼し続ける、あの選挙カーに悩まされる人がいかに多いことか。
「あと少しです。頑張ります!」と絶叫する相手に、「おい、頼むから頑張らんでくれ!頑張らんでいいんだ!」と悪態をついて窓を閉めたという、男の話も聴いた。

選挙カーって、いたってうるさいものなのだ。ほんとうに・・・。
すぐに通り過ぎるので、はて何を言ってるのかと耳を傾けても、容易には理解できない。
言葉が、とにかくよくわからないのだ。
人に聞いても、やっぱりよくわからないという。
それに、あの騒音で、テレビの音などはほとんどかき消されて、迷惑と言えば迷惑な話だ。

いつも夜勤の人たちは、貴重な睡眠時間を妨げられる日が、何日も続く。
そんな選挙運動って必要なのかと、疑問を呈する善良な市民もいる。
今回の衆院選に、市長、市会議員の三つの選挙が予定されているところは、これに各党の候補者が何人も入り乱れて、かなりの騒々しさである。

だから、選挙の時期にイライラがつのる人は多い。
まったくだ。
あの選挙カーの宣伝(?)に、何ほどの効果があるのか。
苦情も多く、腹立たしく思っている人のいかに多いことか。
手を振って、大声で名前を連呼する日本の選挙制度(?!)は、そろそろ改めてもいいのではないか。

あの選挙カーの、借り上げ費や燃料費、運転手代など、みんな公費で支払われる。
過去の選挙では、候補者が実際に使った分以上の金額を水増し請求していたことが、次々と明るみに出て問題となったことがあった。(領収書なしというのもおかしい)
2005年の都議選のときは、過大請求が発覚した60人が、総額352万円を都に返還したそうだ。
同じような不正請求が、全国各地の地方選でも、衆院選や参院選でも繰り返されているらしい。(いまでも?)

テレビで大事なニュースが放送されているときに、選挙カーの演説が邪魔になって、肝心のところがよく聞こえなかったことは幾度もあるし、うるさいなあと思ったことだって数え切れない。
近所の知人が、いみじくもこぼしていた。
「自分の少ない稼ぎの中から払った税金で、しかもいい加減な過剰分まで負担させられているとしたら、やってらんねえや・・・。ふざけんなよ!」

あるテレビのアンケート調査では、「選挙カー廃止」を支持する視聴者は9割近くもいると紹介していた。
選挙のための個人演説会だってある。
政府広報もある。
テレビ、ラジオの政見放送もある。
それで、十分ではないだろうか。
そうすれば、莫大な選挙費用はかけずにすむのではないか。
ビラやチラシだって、ポストに入れられて迷惑だという声もある。
人の迷惑になるばかりか、国民の税金のとんでもないムダ遣いはやめたほうがいい。
いたるところにバラ撒かれている、税金のムダ遣いをなくすだけで、「子ども手当て」の財源ぐらい確保できる。
投票所ごとの看板やポスターも、一考の余地があるだろう。

国民や市民の、政治のための代表を選ぶ「選挙」に、そもそもお金がかかることが、根底からおかしい。
何故、お金のかからない選挙ができないのか。
公職選挙法も結構だが、いつまでたっても、おきまりの日本の選挙制度は、後進国みたいだ。
考え直すべきではないだろうか。


天下分け目の決戦!―政権の継続か交代か―

2009-08-20 07:00:00 | 雑感

朝夕は、冷たい秋の風を感じるようになってきた。
それでも、日中は、まだまだ残暑が厳しい日が続きそうだ。

二大政党が政権をかけた衆院選が公示され、暑い夏の‘決戦’がスタートした。
自民党の「責任力」か。
民主党の「チェンジ」か。
自民党は、何が何でも日本の国民の生活を守る(?!)と強調し、民主党は、日本の歴史を塗り変える日がいよいよやって来たと訴える。
暑い、熱い、戦いだ。
この暑さのなかで、案じていたように、早くもダウンした大物議員もいる。
戦も命がけだ。
くれぐれも、御身大切に・・・。

総選挙の序盤情勢の調査では、依然として民主党の優位が続いていて、それも単独で過半数(241)を大きく超え、300議席台をうかがう勢いだ。
自民党は、選挙前の議席(300)の半数にも届かず、それよりもさらに後退する可能性のあることがわかった。
つまり、明らかに、政権交代が国民に大いに期待されているということだ。
民意は、正直だ。
この4年間を振り返ってみて、どうか。
小泉政治はどうだったか。
あれほどに吹き荒れた小泉旋風で、郵政民営化はどうなったか。
そして、景気はどうなったか。
社会保障はよくなったか。
すべて、公約にうたった自民党政治はどうだったか。
果たして、政治はよくなったか。

麻生総理からは、これまでの総括の声も、反省の弁も聞かれない。
確かに、自民党の支持率低下については、自身の一連の発言が、多くの人々の信頼を失ったことだけは、素直に認めざるをえなかったようだ。
それだけだろうか。

自公政権の、これまでやってきた失政は棚上げだ。
それで、最後の最後まで、民主党に対する批判ばかりを繰り返している。
首相として、きわめて情けない姿だ。
いま、テレビで大写しされる画面に見る麻生総理の表情は、一段と険しい。
何かに怒っているようでもあり、憤っているようにも見える。

よく聴いていると、「ザイゲン♪、ザイゲン♪」「セキニン♪、セキニン♪」と鳴き続けている鳥がいるのです。
この残暑のさなか、短い夏を惜しむように、降りやまぬ蝉時雨と重なって、それはもう消え入りそうな声で・・・。
聞くところによれば、どうもアホウ鳥の新種らしく、アソウ鳥ではないかと言われているそうです。(?!)
ひぇ~っ!そうでしたか。存じませんでした。

・・・今回の衆院選、自民党の三役経験者はもとより、長老、大物も、夥しい民主党の刺客と対峙し、厳しい選挙戦をくりひろげている。
まるで、小泉選挙の逆の様相を呈している。あのときの、ささやかな(?)お返しのようだ。
自民党の立候補者たちは、誰もが、厳しい選挙だと口々に言い合っている。
あの絆創膏大臣も、絆創膏を貼って出陣した。
手首に貼ったその絆創膏には、願掛けのミッキーマウスの図柄が入っていた。
ある小泉チルドレンは、大勢の面前で土下座をして、頭を地面にすりつけて聴衆に訴えていた。
ほとんど、涙声だった。
「私は、あなた方とは違うんです!」と言い放って、首相の座を投げ捨てた長老も、今回ばかりはドブ板選挙で、ひとりひとりに自ら握手を求め、頭を下げてまわる姿がテレビに映し出されていた・・・。
そして、民主党の放った若き女刺客たちの、平成の熱つ姫様のバトルも、一段と凄まじさを増すばかりだ。
日本の北から南まで、列島を縦断、「男なにする者ぞ」と戦乱の世に立ち上がった女たちからも、がぜん目が離せなくなってきた・・・。

自公政権が、自ら総括を行わないから、代わって、国民が彼らのこれまでの総括をするのだ。
政権交代が、ごく普通に行われるような、日本ならではの、そういう政党文化が育つべきだ。
民意の力が、新しい民主主義をつくる。新しい民主主義を生む。
政権交代の時代の流れは、逆戻りしてはならない。
これで、もし自民党が敗者となったら、潔くこれまでの奢りを捨て、野党に徹することだ。

麻生総理は、「政権交代のあとには、明るい未来はない」と、大言壮語している。
果たしてそうか。
この半世紀あまり、日本で、野党が選挙戦で第一党を奪って政権についたことはない。
政権党に失政があれば、別の政党に取り換える。
当たり前のことではないか。
それが出来るような、国でなくてはいけないはずだ。

国民のための、庶民のための政権選択の選挙戦が、最終ラウンドに入ろうとしている!
誰もが、みんなが見ている。
何かが、変わる。何かが・・・?
日本が、変わるか。日本を、変えるのか。
それとも、何も変わらないのか。
いや、変わってほしい。
国民の一票が、国を変える。
期待は、高まるばかりだ。


権謀術策いつまで―悪政の目くらまし!―

2009-08-15 09:00:00 | 雑感

・・・何も考えないで、文章の上っ面だけを追いかけているから、おかしな誤読をする!
麻生総理が、長崎の原爆祈念式典の挨拶で、「一命をとりとめた方も、癒すことのできない傷跡を残すこととなられました」と読み上げたが、「傷跡」を「きずあと」と読むところを「しょうせき」と読み違えた。
人の心の痛みなど、何も考えていない証拠ではないかと、多くの人が呆れている。
漫画読みの漢字知らずで、よくやってくれました。まったく、最後まで・・・。

残暑厳しいさなかで、駅前や街頭で、衆議院選挙立候補者の舌戦が盛んだ。
まだ政権交代もしていないというのに、公約や政策のアラ探しばかりしても・・・。
大体、マニフェストの枝葉末節をあれこれ批判したところで、訳が解らなくなるばかりだ。
選挙の争点は、何もマニフェストの優劣ではないはずだし、自民、民主のそれを比較したところで、いたずらに混乱をまねくのがおちなのに・・・。

そもそも、自公政権の失政、悪政を断罪(?)すべきなのに、大事なところから有権者の目はそらされてしまうではないか。
どちらの手当てが得か、財源はどうするのかと、皮算用にばかり話が集中する。
そんなことを、あまり大ごとに扱うのはいかがなものだろうか。

政権公約の検証となれば、確かに大事なことには違いない。
だからといって、これまでの自民政権、自公政権が、公約を忠実に守ったことってどれだけあるだろうか。
思い出されることが、多々ある。
選挙が終わったとたんに、消費税アップを強行した橋本内閣、後期高齢者医療や裁判員制度導入について、小泉内閣の選挙で問われたこともなかった!
安倍内閣はどうだったか。
北朝鮮の拉致問題の全面解決、消えた年金の名寄せ完了はどうなったのか。
はっきり言って、何もかもが、ほったらかし状態だ。
こういうことを、デタラメというのでは・・・?
いかに、自民党の公約がいい加減だったか。
それで、他党のことなんか言えたものではない。

民主党の財源論が、いろいろと問われている。
民主党は、まだ野党だ。
財源の明細書なくして、正確なものは出来っこないし、そんなことにいま労力を費やしている暇などない。
何をどう充実させるか、政策の優先順位が大切だ。
政党にとって重要なことは、どういう社会が生まれるかといった、思想や理念ではないですか。
思想なくして、数値目標なんて・・・?

官僚と癒着している自民政権ならともかく、いまはまだ野党である民主党に、官僚が手の内をみせるか!
150兆円といわれる特別会計の中身も、官僚は隠したままだと言うではないか。
ひどい話だ。
そんなことも分かりきったうえで、財源の詳細を明らかにしろと、矢の催促だ。
これでは、まるでヤクザみたいだ。

自民党と民主党では、理念が全然違うし、予算の組み立て方も、配分の方法も全然違うはずだ。
自民党は、過去60年以上も、官僚の協力のもとに、各種の団体に予算を流し、代わりに票や献金をもらってきたのではないか。
それでもって、庶民の暮らしは二の次だ。
だからこそ、庶民の不満が積もり積もって、政権交代の声が高まっているのでは・・・。
民主党は、予算の組み替えも、配分先も、団体ではなく個人に切り替え、国民生活本位の政治を目指そうとしている。
目指す政治の尺度が、自民党とは違うわけで、大体比較のしようがないのではないか。
著名な評論家も言っているように、こういったことを同じ土俵上で点検、議論するのは自民党的発想で、もう要するに政権交代させたくないだけなのだ。
有権者は、だまされてはいけない。

麻生総理は、民主党を経済の成長戦略がないと批判している。
そして、日本を守り、国民生活を守る、景気を回復させると息まいている。
でも、この20年、自民党が景気を回復させたことがあったというのだろうか。
不況をここまで悪化させたのは、自民政権では・・・?
それこそ、経済失政だ。

そして、驚くなかれ、国の借金は600兆円から800兆円にまで膨らんでしまった!
これで、民主党に対して、成長戦略がないなどと言えますか。
一握りの大企業を優遇した自民政権が、庶民の個人のふところを寂しくしてしまって、それでは景気がよくなるはずもない。


自民政権は、10年間で、家庭の可処分所得を100万円増やすと謳っている。
しかし、厚労省の統計だと、1世帯あたり平均所得は100万円もダウンしているそうだ。
それを、この先どうやって増やすというのだろう。
選挙前になると、飴玉をちらつかせて、子供をだましているみたいな・・・。
だから、悪政の目くらましと言われても仕方がない。

自民、公明のマニフェストをご存知ですか。
年金政策で、受給資格の加入期間を現行25年から10年に短縮すると、突然言い出した。
そんな大事なことを、いままで何で放置していたのか。
国会で、とうに審議を終わっていてあたりまえの話だ。
これもまた、選挙目当てなのか。
100年安心と言って、手をつけていなかったのは自公政権だ。
この4年間に、実現できなかった政策までマニフェストに載せて、ひとことの説明とてない。
自民党もいろいろと言うが、おのれのこれまでの失政の反省も総括も棚上げして、野党を突っついている。
こんなことで、国民、有権者が納得するだろうか。

先日の党首討論も、いささか物足りない内容だった。
これからも、テーマを絞って中身の濃い討論を期待したい。
今の政治の閉塞状況を招いたのは、間違いなく自民政権だ。
重ねて言いたい。
800兆円もの財政赤字を積み上げて、歴代の自民党政権はその責を負わないのか。
その総括と反省はどうなっているのか。
たとえ、民主党政権ができても、この膨大な国家の借金は引き継がねばならないのだから・・・。
・・・間もなく、有権者の審判が下る。


記録映画「妻の貌(かお)」―64年目の夏―

2009-08-12 07:00:00 | 映画
よく撮られた、ドキュメンタリー作品だ。
広島在住の、今年82歳になる映像作家、川本昭人はアマチュアでありながら、半世紀にわたって、カメラを回し続けてきた。
長男誕生を機に手にした、8ミリフィルムカメラが、きっかけであった。
川本氏はそのカメラで、原爆症と宣告され、死と向き合って生きてきた、妻の日常を丹念に映し取ってきた。
それは、どこにでもあるような、静かに流れる日々の暮らしだった。
しかし、そこには決して癒しえぬ、ヒロシマのあの暗い影がさしていた・・・。

川本氏は、ひとりの夫として、父として、家族に寄り添いながら、妻や介護の必要な老母、そして一家の歩みを、日常の記録として撮り続けた。
カメラを離すことができない川本氏は、手をかすこともできず、妻に優しく語りかけながら、カメラを回し続けた。
そノフィルムは、もはや彼の「個人」という枠を越えた、ひとつの「歴史」の証言ともなり、未来への希望をすくい取る映像作品となった。

個人の記憶が、この作品のなかでひとつの歴史に変わる。
川本昭人監督が、最初に手にした8ミリフィルムのカメラが、普段の家族の日常を撮るものだったが、いつしかヒロシマという、大きな歴史を少しずつ映し出すようになっていった。
核廃絶の世論が大きく高まる中で、彼の言うように、家族を撮ることが、家族への愛情の表現となった。
そして、そこには人間とは何であるかを問いかける、川本氏のメッセージがこめられている。

・・・お母さんが、心の支えだった。
原爆症を抱えながら、年老いた義母の介護をする妻の姿・・・。
被爆による甲状腺癌と診断された、川本監督の妻キヨ子さんは、自らの病と闘いながらも、寝たきりの義母の世話をし、二人の子供まで育て上げた。
愚痴ひとつこぼさない。
でも、孫たちとの心の通ったふれあいがあった。
日々の家事を淡々とこなしつつ、その姿は凛として観客の目に焼きつく。

どこにでも見られる、ありのままの家族の姿だ。
原爆への怒りや憤りは、確かに底流にはあるけれど、この作品は単純な反戦映画のたぐいではない。
黙々とアイロンをかける。縫い物をする。食器を洗う。
そうした、平凡な所作のひとつひとつに、どこかしら品格のようなものさえ漂っている。

現爆詩集「慟哭」の朗読が、テレビから流れている。
原爆で亡くなった、弟を思い出す妻の顔には、あの悲惨な戦争を二度と繰り返すまいという想いと、平和への希望がにじんでいる。
このホームムービーは、心までぬれるような、静かな感動を呼ぶ。
川本昭人監督ドキュメンタリー映画「妻の貌(かお)」は、おそらく優れた記録映画として、日本の映画史に残るのではないだろうか。
神奈川映像コンクールのグランプリ作品だ。

川本監督は、昭和19年の学徒動員令で、軍需工場に勤務、そのときの過労で結核を患い、戦後の8年間寝たきりの悲惨を体験した。
戦争が青春を奪ったとの怨念は、いまも深い。
しかし、彼にとって8ミリ映画は、「心の煮凝り」なのだそうだ。
今後も、命ある限り撮り続けると語っている。

・・・もう、いつのことだったか、過ぎ去った暑い夏の日のことだった。
ヒロシマを訪ね、あの原爆ドームの前に立って青空を見上げたときの、悲しく遠い記憶が、いままた私の胸によみがえってくるのだった。
そして、降りしきる蝉時雨の中で、今年も間もなく、あの忘れることの出来ない8月15日がやってくる。
64年目の夏である・・・。

映画「ココ・シャネル」―その嵐のような女の人生―

2009-08-09 12:30:00 | 映画

・・・もしも、翼を持たずに生まれてきたのなら
翼を生やすために、どんなことでもしなさい・・・。
世界中の、女性の憧れのブランドを生み出した女、ココ・シャネル・・・。
女は、モードの世界でいかに生きたか。

シャネルの<成功>は、女性が勝ち抜くための多くのヒントに満ちている。
大嫌いなものといえば、女を窮屈にしていた当時の大仰なファッションであった。
そんなものは流行遅れだといわんばかりに、他人との違いを切り札にする。
当時のあらゆる常識に反発し、自分の生き方を貫く。
コルセットから女性を解放することに力をつくし、100年後の今にいたるまで、スタイルの基準を示し続ける。
クリスチャン・デュゲイ監督の、イタリア・アメリカ・フランス合作のこの映画は、ココ・シャネルの伝説に満ちた作品だ。

・・・1954年の、フランス・パリ・・・。
ココ・シャネル(シャーリー・マクレーン、若き日のココバルボラ・ボブローヴァ)の、15年ぶりのコレクションは、大勢の著名人やマスコミの注目を集めながら、失敗に終わった。
ビジネス・パートナーのマルク(マルコム・マクダウェル)は、大損害に頭を痛める。
ココは、「失望は何度も味わっているわ」と、少女時代からデザイナーとして成功するまでを振り返る・・・。

ココは、母親を亡くし、父親に見捨てられ、田舎の孤児院で少女時代を過ごした。
姉とともに、地方のキャバレーで歌って生計を立て、そのときの持ち歌から“ココ”と呼ばれるようになった青春時代・・・。
歌手になる夢はかなわず、仕立て屋の奥で、スカートのすそを縫う日々が続いた。
しかしココは、自分はこんなことで終わるはずがないことを知っていた。

そして、機知と美しさと独特の魅力とともに、田舎から脱出した彼女は、自分にしかない才能を開花させていくことになる。
二人の男の力を借りながらも、かつての孤児が波乱に満ちた旅路の末に手に入れたのは、伝説のファッションデザイナーという称号であった。
ココは、現代女性とは何かを身をもって示し、成功、自由、そしてスタイルの自由を超えた象徴のようになった。

そこには、本当に愛した人ボーイ(オリヴィエ・シトリック)との永遠の別れもあった。
シャネルは、苦しみと悲しみを、仕事への活力に変えていくことに成功する。
コレクションの失敗ののちに、やがてもたらされる、莫大な富と眩いばかりの名声・・・。
シャネルが、そのか細い手でいかに栄光をつかみ取っていったか。

田舎のナイトクラブから、パリへ、そして世界へ。
何のコネクションも、財産も、教育もない、孤児院育ちの一少女が、世界の<シャネル>として成功するまでの物語だ。
彼女は、自分の人生を、意志の力だけで変えるしかなかったのだ。
世の中に、自分を受け入れてもらおうと、自分を変えるのが普通の人の考える成功への道だ。
しかし、ココ・シャネルは、自分の個性を受け入れさせるべく、大胆にも世の中を変えようとした。

伝説の女性の、ドラマティックな人生と、頑固ともいえる、高飛車で自由奔放なココの姿が、生き生きと作品に描かれている。
気になるのは、回想シーンが多いこと、ドラマの前半が少々かったるいことか。
上映時間138分で、後半の盛り上がりはなかなかいい。

二度の世界大戦のような歴史的大事件の際に、シャネルの選んだデザインとか、ャーリー・マクレーンと、バルボラ・ボブローヴァのために再現したシャネルのデザインは約70種で、脚本に描かれた時代ごとに作られた衣装は、見応え十分だ。
もちろん、帽子とかジュエリー、バッグ、香水などの小物とかも・・・。

シャネルの5番は有名だが、彼女のことについて知らなくても、いわゆる街着の走りが、フランスのオバジーヌ(孤児院)出身の聡明で、発想豊かな貧しい少女によって作られたことぐらいは、このドラマでもわかる。
クリスチャン・デュゲイ監督映画「ココ・シャネルを観ていると、19世紀から20世紀へ、彼女が87歳でその生涯を閉じるまで、一連の美術史(衣装史)を観る気がする。
一般に言われるように、シャネル・スーツというのも、1956年頃ココが大流行させたものだそうだ。
それから、アメリカにブレイクして、1963年にケネディ大統領が暗殺されたパレードの際に、ジャックリーン夫人が着ていたそうだ。
ココ・シャネルの残した、印象的な言葉がある。
 「人間は、成功ではなく失敗で強くなるの。私は逆流を遡って強くなった。」

              ******************************

 9月18日(金)に、フランス映画ココ・アヴァン・シャネルが、本編とは別に公開される。
監督はアンヌ・フォンテーヌ、出演はオドレイ・トトゥブノワ・ポールブールドアレッサンドロ・ニボラらで、こちらもココの生涯を描いていて、本作との競作に注目だ。


クリントン元大統領訪朝―拘束記者解放!―

2009-08-06 16:30:00 | 寸評

アメリカのクリントン元大統領の訪朝で、女性記者二人が解放された。
これは、何はともあれ朗報だ。
アメリカ人記者二人は、3月に中朝国境で取材中に、北朝鮮に身柄を拘束された。
そして、6月に労働強化刑12年という判決まで受けていた。

今回のクリントン氏の訪朝では、「深い謝罪の意」を表明したといわれる。
当然、人道的立場からの送還を求めたのに対し、金正日総書記が記者二人の特赦を伝え、釈放を命じたのだった。

金正日書記との会談で、六者協議や非核化の問題まで具体的に話し合われたかどうかは、明らかではない。
しかし、何かの話し合いが行われたであろうことは、察しがつく。
北朝鮮とアメリカの発表は、真っ向から食い違っている。
もともと、訪朝を仕掛けたのは北朝鮮で、特使にクリントン氏を指名するなど、したたかな戦略が見え隠れする。北朝鮮ならやりかねない。
北朝鮮が、米朝外交の正常化を含む、直接対話をつなげたいとの多大な期待があっただろうし、記者解放という問題で、既成事実化を図ったとも取れる。

いずれにしても、国家の体をなしていない国家、一筋縄ではいかない北朝鮮と対話の方法で、問題の解決に一致を見たことだけは確かだ。
この会談の席上で、クリントン氏は日本の拉致問題についても触れ、一日も早く家族を日本に帰国させて欲しいと要請したそうだ。
北朝鮮が、それに対してどう答えたかはわからない。
そうした申し入れを行ったことは、注目すべきことだ。

それで、ふと思った。
あの小泉訪朝の成果を思い出すのだが、日本の政治家が、勇気を持って北朝鮮に飛び込んでいくくらいの気構えもないのだろうか。
相手がこちらの要求に応じないからといって、正論を主張するだけでは事態は一向に解決しない。
北朝鮮に、正論が通じるはずもない。
外交は、正攻法ばかりが通るわけではない。
日本の、外交のお粗末は何としたことか。

米朝間が、水面下でどのような周到な事前折衝をしたか知らないが、クリントン元大統領は単身北朝鮮を電撃訪問し、女性記者二人を奪い返したのだ。
事件発生から4ヶ月で、難問を解決してしまった。
それに比べて、日本の政治家はどうだ。
膠着状態のままの拉致問題・・・、すべての拉致被害者の帰国まで鉄の意志で取り組むと言ったのは、どなたでしたか。
格好いいことばかり言っても、できなければ、それはやらないのと同じだ。
情けない話だ。
いたずらに、時間ばかりが過ぎてゆく。
どこまで、拉致の問題に日本政府は本気なのか。
自分の身を捨ててでも、誰か、政府高官が今すぐにも北朝鮮に飛んでいく人物はいないのか。

アメリカは、大統領経験者が訪朝した。
日本も、首相経験者が行けないのか。
北朝鮮が、指名してくることなど待っていても駄目だ。
そんな日は、おそらく来ない。
ならば、こちらから動くことだ。
そして、一日も早く、生きていると言われている横田めぐみさんを連れ戻すことだ。
麻生総理は、自分は外交が得意だと言っていなかったか。
それならば、この困難な使命を担ってこそ、日本の国の本当の意味での政治家といえるのではないだろうか。

「拉致問題」で、総理大臣の肩書きを手にしたものの、途中で投げ出したあの方の場合は・・・?
いま、何を思うのだろうか。
制裁や非難声明にばかり気をとられていては、いつまで立っても拉致は解決しない。
横田さん夫妻の胸中は、いかばかりか。
もう、いてもたってもいられない、その悲痛さがひしひしと伝わって来るようだ。
クリントン元大統領の訪朝の意味を、政治家は初心(?)に帰って、よくよく吟味してみて欲しいものです。


映画「そんな彼なら捨てちゃえば?」―男と女の美しき騙しあい―

2009-08-04 07:00:00 | 映画

恋に法則なんてあるのだろうか。
恋に指南書(バイブル)なんてあるのだろうか。
この映画、男子禁制のガールズ・トーク・ムービーなんていうふれこみだ。
・・・男が、それなりの言動に出れば、相手のことなんか真剣に想っていない。
そんな法則は沢山あるというのだ。

誰もが、本当はわかっている。
それなのに、怖くて誰も言えない。
女の勘違いと、男の本音、この二つに容赦なく迫るラブストーリーだ。
アメリカケン・クワピス監督は、ボルチモアを舞台に大変楽しい映画を作ってくれたものである。

彼が結婚もしてくれない。
彼が浮気している。
彼に奥さんがいる。
彼が電話をくれない。
じゃあ、「そんな彼なら捨てちゃえば?」なのである。
ちょっと切ないけれど、結構笑えるドラマだ。
男性の心理を徹底的に分析、次に素敵な恋を見つける技術(?)を教えてくれる。
多くの女性の共感できる、等身大の華やかな女性たちが登場して、なかなか面白い。

同じ会社に勤めるジジ(ジニファー・グッドウイン)ジャニーン(ジェニファー・コネリー)ベス(ジェニファー・アニストン)の三人が、仕事より盛り上がるのは恋愛話だ。
ジャニーンは、学生時代から付き合っているベン(ブラッドリー・クーパー)と、数年前に結婚、ベスは恋人ニール(ベン・アフレック)と同棲7年目だ。
ジジだけは、最高のパートナーを探していまだ迷走中だ。

たとえば、ジャニーンに紹介された男に、ジジは一目ぼれをするが、初デートの後にも連絡はないし、ジジは彼の友人に、女の勘違いが敗因だと指摘される。
男の行動を、都合よく解釈していたというジジの反省に、ベスも共感する。
そのベスはといえば、同棲7年目の恋人と、いつか結婚できると信じてきたが、例外は滅多にないと気づき、別れを宣言する。
幸せな結婚生活を送っていたはずのジャニーンも、夫の浮気が発覚する。
これも、思わぬ災難だ。
ベンが、ヨガの講師をしながら歌手を目指していたアンナ(スカーレット・ヨハンソンと恋におちるのだ。
話は、ややこしくなる。

勇気を出して、男の本音に向き合っていたはずの、彼女たちに見えてきた本当の幸せの道とは何だろう。
友だち以上、恋人未満・・・?
そして、それぞれが選んだ最高のパートナーは、誰だったのか。

ベンは、心の葛藤をおさえ、何かを恐れているかのように身がすくんでしまって、そんなときにめぐりあったアンナとの微妙な会話のやりとりには、女性はいろいろ考えさせられるところが多いのではないか。
ジャニーンの言うように、相手の嘘を許せない気持ちはよくわかるし、結局彼女は、それによって自分ががんじがらめになってしまうのだ。
結婚をすべてと思うか、思わないかで、女の安心とは一体何だろうかということになる。
でも、ベスは結局相手のあとを追っていかなかった・・・。

痛いほどの現実を見て泣き、笑い、そして何かを学び、幸せを探る。
そういう物語だ。
このアメリカ映画「そんな彼なら捨てちゃえば?は、相手が出しているサインを読み違える男や女たちを描いていて、面白い。
サインは、それぞれの恋のサインだ。
女が男からすげなくされるのと同じだけ、男も女に恋焦がれては、肘鉄をくらうのだ。
この作品では、男も女と同じように混乱し、同じように多くの過ちを犯すのだ・・・。

よく言うではないか。
「嫌よ嫌よも、いいのうち」とか、本当は好きなのに「あなたなんか、大嫌いよ」と言ってみたりとか・・・。
そうした女性の恋愛心理のデテールを、明るい台詞で表現するあたり、思わずくすくす笑ってしまうのだ。

男と女の、本音と建前の判断は、微妙に難しい。
相手に興味を持ってもらおうとして、逆に嫌われてしまうことも・・・。
或いは、その逆もありで・・・。
本当は、自分に最大の関心を持ってくれているのに、たいそうな無関心を装ってみたり、相手の出しているサインを読み間違えると、とんだことになるという恋愛の基本(?)だ。
まったく肩のこらない作品で、女優陣が華やかでいい。
とくに、あいかわらず華やいだ明るいキャラクターの、スカーレット・ヨハンソンが目につく。

恋とは、男と女の美しき騙しあいだと、よく言うではないか。
男の心理、女の心理さまざま・・・、強がりな女、完璧な女、情熱的な女、現実逃避の女、恋に踏み出せない女、誘いを待てども誘いの来ない女、浮気されやすいタイプの女、恋はしても結婚できない女や男・・・。
それぞれに、恋人や夫との悩みをかかえている。
それらを、男性作家ならではのシビアな視点で書いた小説が、原作だ。
一種の心理小説を映像で観ているようで、ほろ苦くも微笑ましい、恋愛群像劇である。

少し大げさな表現を借りれば、さしずめこういうことかも知れない。
・・・恋は決闘だ。
右を見たり、左を見たりしていては敗北だ。
あなたの前にいる、相手の目を真直ぐに見つめることだ・・・。(ロマン・ローラン)
                         


政権交代か、継続か―夏の選挙戦―

2009-08-01 07:00:00 | 雑感
豪雨やら、竜巻やら、各地で異常現象、天変地異が相次いでいる。
何かの前兆か・・・? とも思いたくなる。
激しい雨が降り続いたかと思うと、真夏の日射しが照りつけて、暑い。
夜になっても降り止まぬ、蝉しぐれ・・・。
どこかで、打ち上げ花火の音がする。
そういえば、今日も浴衣姿の若い女性を電車で見かけた。

学校も職場も夏休みに入って、大人も子供も、街に人が溢れている。
そんな中で、各党の熱い選挙戦が活発に繰り広げられている。
今度の選挙は、政権交代か継続かが、焦点だ。
戦後64年たって、本当の民主主義が実現する可能性が、いやがうえにも高まってきた。
自民も民主も、各政党の公約のマニフェストが出揃った。
でも、自民党のマニフェストは、具体的な予算の額とか、手順などはほとんど書かれていないので、あいまいさを残したものとなった。
野党の民主党でさえ、子供手当てなどの分野を最優先に、所要額や達成の時期を明記した工程表まで掲げて説明している。
政権党である、自民党のマニフェストは、あまりにも大づかみで、これでもって民主党を、「財源が不明確だ」などとはよく言えたものである。
この点は、自民党とて、自党のことを棚に上げて、不明確のそしりを免れない。

まあ、どちらも一日でも早く実現して欲しい政策ばかり並んでいる。
国民への呼びかけも、必死だ。
どん底不況の長期化で、庶民の暮らしは日に日にままならない。
政権奪取を目指す民主党のマニフェストは、国民生活重視の内容だ。
教育、医療など国民生活に直結する内政を、新しい方向に持っていこうとする意欲が見られる。
要は、実行できるかだ。
民主党は、総予算207兆円の組み換えを、根幹とする。
予算編成を政治主導で行い、官僚のやりたい放題にストップがかかる。
国民のための政策決定が、期待できる。
利権と選挙のために、ムダと借金ばかり積み重ねてきた自公政権ではできない、画期的な政治改革となる。
是非、そうなってもらいたいものだ。
これに対して、自民党も民主党との対決軸を明らかにしようと懸命だ。
具体的には、よくわからないことが多い。

ここにきて、自民党の、口汚い、なりふりかまわぬ民主党批判はどうだ。
自民党の失政で、国と地方の借金はいまや1000兆円にも膨れ上がっている!
この責任をどう取るのかと問いたい。
他人や他党のことを、とやかく言う資格はない。
これを、破廉恥というのではないか。
バラまきはバラまきでも、自民党のそれは対象が個人ではなく業界だ。
個人に渡すと、パチンコに使ってしまうなんて、妙なことを言っている。
国民は、なめられているのだ。
それで、責任政党だと豪語している。
半世紀以上も、国民の税金を、政財官でいいように山分けして、湯水のようにその甘い汁を吸い続けてきたのではありませんか。
何が、どこが、責任政党なのか。
これこそ、もう噴飯ものだ。いい加減にしてくれと言いたい。

それにしても、麻生総理は、相変わらず高齢者を馬鹿にするような発言を繰り返している。
元気な高齢者は、働くしか才能がないなどとおかしなことを言って、顰蹙をかっている。
60歳を過ぎて、遊びや手習いを覚えても遅いから、元気な高齢者には働いてもらって、どんどん納税をしてもらえば、日本は全く違ったものになるなどと息巻いている。
お年寄りを、社会のお荷物ぐらいにしか考えていないのだ。
国のトップが、これである。
80歳を過ぎて遊びを覚えるのも、60歳を過ぎて社会人大学へ通ったり、パソコン教室に通う人は、馬鹿にされているのだろうか。
これとて、とんだ差別発言だ。
物事を始めるのに、遅すぎるということはないと言うではありませんか。

民主党の鳩山代表の85歳の義母は、韓流スターに会いたいからと、韓国語の勉強を始めたそうだ。
年をとって、向学心の旺盛な人は沢山いる。
65歳を過ぎて働いている高齢者の中には、生活のために働いている人も多い。
しかし、働きたくても、いまの世の中働くところもないのが現実だ。
高齢者を馬鹿にしていると、選挙のとき、有権者の票は、自民にそっぽを向き、みんな民主に流れていく。

その民主党の発表したマニフェストに、自民党が、ああでもない、こうでもないと言って、吼えまくっている。
確かに、財源論とか、いろいろある。
だからといって、野党を‘口撃’ばかりしていたってはじまらない。
相手の揚げ足を取るしか、攻め口がないのだろうか。
麻生総理には、何もしゃべらせないようにいした方がいいのではないか。
天下分け目の決戦を迎えようとしているときだ。
どうにも失言の止まらない、お粗末な(?)宰相を担いでいてどうするか。
国民を、馬鹿にしてはいけない。
何の経綸もなく、ただ首相になりたかっただけの人を担いで、どうするか。

民主党政権では不安だとかなんだとか言って、民主党に揺さぶりをかけるためには、自民党は何だってやる。
メディアまでが、それに加担することぐらい何でもない。
だって、彼らだって権力の一部だ。
何かの材料さえあれば、民主党の大勝を阻止するぐらい平気でやる。
投票日まで30日あるのだから、楽観はしないほうがいい。
まだ、この先何が起きるかわからない。

ここへきて、自民党を囲む状況は一変した。
これまでの、自民党の頼みのパートナーだった、賢明な(?)自民支持者たちも、そして無党派層の人たちも、一斉にそっぽを向き始めている!
選挙の結果は、やる前から見えているような気がする。

昨年の秋、早く国会を解散していればよかったのだ。
でも、それをしないで、ずるずると任期満了間際まできてしまった。
自民の候補者たちは、必死のドブ板をしたところで、目に見えて厳しい戦いになる。
これまで天国でも、明日からは地獄・・・、状況はどんどん悪化し、逆風の吹き荒れる今回の選挙戦だ。
勝利の女神は、どちらに微笑むか。

麻生総理は、自らを責任政党ととも言っているが、これまでどれだけ無責任の限りをつくしてきたことか。
国民は、過去を知っている。
決して、忘れてはいない。
4年前の小泉選挙で、公約した郵政民営化での「バラ色の未来」はどこへ・・・?
美しい国をずたずたにしてしまった。
あのときの、公約とは全く正反対の現実である。
郵政選挙で、自民が大勝した後の日本は、格差や貧困の拡大で、お先真っ暗な国になってしまった。
これが、現実の姿だ!

麻生総理は、政権交代は手段であって目的ではないと言っているが、今回は明らかに政権選択の選挙だ。
政権交代か、政権継続か、その一点だ。
善良な国民は、さんざん騙され続けてきたのだ。
これまでのような、政治家(?)の‘嘘’にはくれぐれも騙されずに、責任を持って一票を投じないといけない。