徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「百年の時計」―どこか切なく愛おしい記憶をたどって―

2013-07-29 08:00:00 | 映画


 高松琴平電気鉄道(ことでん)は、現在も四国高松市内を走り続けている。
 大正時代に製造された、貴重な車両が今でも運行されている。
 そんなレトロな電車で生まれた、切ない初恋の記憶がよみがえる・・・。

オ ール香川ロケ、低予算で作成された「ご当地映画」は、何だかとても温かい映画だ。
 「デスノート」「ばかもの」金子修介監督は、人生の豊かさに気づかせてくれる、ハートフルな物語を、香川発のドラマとして誕生させた。
 ・・・「私のこれまでの時間を、あなたに捧げます」・・・。











      
高松市美術館学芸員の神高涼香(木南晴夏)は、まだ新米ながら、憧れの芸術家である安藤行人(ミッキー・カーチス)の回顧展を担当することになった。

しかし、年老いた行人はすでに創作意欲がなく、回顧展の開催には消極的だった。
涼香は幻滅を感じる。
そんな涼香に、行人は、百年の時を刻みつける、古い懐中時計を取り出して見せた。
それはかつて、この故郷を離れた彼の若き日に、列車で見知らぬある女性(中村ゆりのち水野久美)から貰い受けたものだと打ち明け、その元の持ち主の女性を探してほしいと頼むのだった。

涼香はその話に戸惑いながらも、人探しを始める。
「持ち主がわかれば、新しいアートが生まれるかもしれない」と、行人が語ったからだ。
涼香は母を亡くしてから、ぎくしゃくしていた父(井上順)や、幼馴染みの健治(鈴木裕樹)の助けを借り、時計の元の持ち主を突き止めることができたが・・・。

・・・列車が授けた出会い、その女性は若き人妻で、許されぬ恋に落ちた男女、百年の時計に秘められた叶わぬ初恋の物語が、静かに解き明かされていく。
時計に刻まれていた百年の記憶がよみがえり、止まっていた時間が、ゆっくりと動き出すのだった・・・。

美術館の中に電車を運び入れることはできないから、電車を美術館に仕立て、その中でアート展を開くというアイデアが面白い。
その舞台こそ、香川県のローカル鉄道「ことでん」(高松琴平電気鉄道)だ。
のどかな風景の中を、古い車両がとことこ走る。
どこか心に残る、懐かしい風景である。

小さなな駅から駅へ、ゆっくりと走る二両の電車が、この映画の主役だ。
行人は走る“ことでん”を、「百年の時」「記憶」に関する作品、記憶の立ち上がる作品として作り上げる。
行人は、遠ざけようもない記憶をたどって、故郷に帰って来た。
登場人物たちが、過去に入っていく数々の場面が、時の流れを感じさせる。
走る列車の内部と、人々の記憶の断片、それらを丁寧にすくい上げながら、想い出の懐中時計というたったひとつの小道具を切り口にして、かたや現代アートを追求しつつ、その可能性の奥に、運命の女性を登場させたのだ。

金子秀介監督のこの映画「百年の時計」は、製作委員会が一口1万円で製作費を募り、完成させた。
その時点では、配給も宣伝もなく、自主映画同然だったそうだ。
昨年10月、香川県内3館で上映されたのをきっかけに、国内40カ所での上映にまでこぎつけたいきさつがある。
大作などとは程遠く、小さな映画だけれど、鉄道の歴史遺産“ことでん”に紡がれてきた、切なく愛おしい百年の記憶が、そこはかとなく心にしみる佳作である。
2011年、“ことでん”は路線開業100周年を迎えたそうだ。
ノスタルジックなレトロ電車が、何とも現代人に心地よい一作だ。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「シャニダールの花」―人の胸に寄生する美しい花の狂気―

2013-07-27 07:00:00 | 映画


イラクのシャニダール遺跡で、埋葬された骨とともに、花の化石が発見された。
野蛮とされたネアンデルタール人も、死者を悼み、花を捧げていたそうだ。
そんなところから、“人間の心の発生の瞬間”という説を唱える人がいるらしい。
このドラマの着想は、そこから生まれたようで、人が初めて生んだ花として、この名がつけられたとする‘仮説’である。

石井岳龍監督は、花はエロスと死の象徴といわれるところから、それに侵される男女の生命力の在り方をとらえなおすべく、人間と花の関係性にこだわり続けた。
それは、人の胸に花が咲くという寓話のような設定で描かれる、男女のある愛の形であるという。
二人を狂わす愛の花とは、どんな花なのか。






     
ごく少数の、限られた少女の胸にだけ、いまだかつて誰も見たことのない、美しい花が咲く・・・。

そんな、不可思議な現象が起こっている。
満開の時に採取されたその花の成分は、画期的な新薬の開発につながるとされ、億単位の価格で取引されていた。

シャニダール研究所に勤める植物学者の大瀧(綾野剛)は、セラピストの響子(黒木華)とともに、日々、選ばれた女性たちの胸に宿った謎の小さな蕾“シャニダールの花”の研究に追われていた。
彼らの使命は、提供者の胸に芽吹いた花を育て、最も美しい形で採取させること、つまりゲストハウスに収容されている彼女たちは、やがて咲くであろう自らの花を、研究所に高額提供することを義務付けられていたのだった。
また今日も、周知の大人たちには違和感を抱えて生きる、ハルカ(刈谷友衣子)という少女が母親に連れられて、新たに入院することになった。

一途な研究に没頭する大瀧と響子は、花の成長に誘われるように、次第に恋に落ちていく。
しかも、花を採取するときに、提供者の女性が謎の死を遂げるという事件が相次ぎ、大瀧は研究所に不信感を抱き始めた。
一方で、響子はそれが危険な花だと知りながらも、その花の魅力にのめりこんでいく。
そして、互いに惹かれあっていた二人の運命の歯車も、少しずつ狂い始めていくのだった・・・。

世にも美しい花といわれる、伝説のシャニダールの花が、二人の愛を狂わせていく。
研究所の施設(ゲストハウス)にいる女性たちの悦び、哀しみ、戸惑い、様々な感情は、花の成長に影響を及ぼしている。
花が人間を支配しているように・・・。

ドラマは、ときにミステリアスな展開を見せながら、登場人物たちの言葉少ないセリフとともに、静かな狂気がホラーのように漂う、何とも言えない不可思議で謎めいたシーンが続く。
これは、あくまでも虚構の物語である。それはそれでよろしい。
が、それにしても、登場人物たち、とりわけゲストハウスに収容されている、実験人間のような花を提供する立場にある、若い女性たちの心が読めないし、こじつけっぽい脚本も粗雑で安易な感がある。
かなり練られた脚本だというけれど、力量不足は否めない。

主役の大瀧と響子の関係も何だかよくわからないし、ここに出てくる少女たちを含めた登場人物たちの素顔とか、何故彼女たちがこの施設に入らねばならなかったか、何がどうして起こったのかなど、説明、描写不足で理解しにくい。
・・・というより、どうも理解できぬ。
とにかく、「人間」が描かれていないことには、どうしようもない。


石井岳龍監督作品「シャニダールの花」は、一風変わったドラマで、おやっと目を向けたくなるが、テーマ自体もはっきり見えない。
この作品を楽しめた人には申し訳ないが、いやいや、スクリーンの中の出演者たちも、どこか人形のように見える。
はっとさせるような、どんな思いつきであれ、着想だけでよい映画などできるはずもない。
映画のラストも、一見破滅へ向かうように描かれながら、永遠の世界観を暗示させるシーンになっているが、これとて通俗的でとってつけたようで・・・。
総じて、期待外れの一作である。
     [JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点


映画「汚れなき祈り」―修道院で実際にあった悪魔憑き事件とは?―

2013-07-21 13:30:00 | 映画


 これはまためずらしい、ルーマニアの映画だ。
 クリスティアン・ムンジウ監督は、過剰な集団心理が生む現代の悲劇を、衝撃的に綴った。
 2005年、ルーマニアの修道院で実際に起きた事件を題材にしている。
 お互いに、深い絆で結ばれたはずの若い女性が、信仰と愛のはざまで揺れ動き、葛藤する姿を描いている。
 全編にわたって、緊張感の溢れるワンシーン・ワンカットの映像をつないで、宗教の名の下に行われる犯罪を描ききった。
 重厚な闇をはらみながら、深く、知性と感情に訴えてくるドラマである。

 慈悲ある修道院で、どうしてこのような事件は起きたのか。
 映画は、特殊な社会で起きた事件を扱っているが、現代の孤立、閉塞感の進む世界中のどこにでも起こりうる悲劇かも知れない。


        
アリーナ(クリスティナ・フルトゥル)とヴォイキツァ(コスミナ・ストラタン)は、同じ孤児院で育った仲だった。

ドイツで暮らすアリーナが、その幼少時代を一緒に過ごしたヴォイキツァに会うために、ルーマニアへ帰国する。
ヴォイキツァは、修道院で神の愛に目覚めて、信仰一色の満ち足りた生活をしていた。

アリーナの願いは、世界でただひとり愛するヴォイキツァと一緒にいることだった。
だが、愛を得られないアリーナは、彼女を取り戻そうとするのだが、自身が次第に精神を病んでいく。
修道院の人々は、秩序を乱すアリーナの病が悪魔の仕業とみなし、秘儀を施すことになった。
そして、そのことがやがて大きな悲劇を招くことになろうとは・・・。

それは悪魔祓い(エクソシスム)といわれ、「悪魔に憑かれた」と判断された者から、悪魔を祓い、魂の浄化を行う儀式で、かつてイエス・キリストが悪霊を追い払い、病を癒し、弟子たちに悪霊を追い出す権威を授けたとされることにもとづく。
悪霊祓いをするために、ドラマの中での神父(ヴァレリウ・アンドリウツァ)の行為は、恐るべきものであった。
それを、神父は精神的に不安定になった幼なじみのアリーナ助けるために施したといい、ヴォイキツァら修道女たちも神父にただ従っただけで、悪気があったわけではない。
そこに、善悪の判断の危うさがあり、集団となった人間たちが、極端に暴走してしまうことの怖ろしさを、見せつけられるのだを
ドラマの内容は、ルーマニアで起きた事件を、ほとんど事実に即して描いている。
クリスティアン・ムンジウ監督は、このルーマニア映画「汚れなき祈り」で、事件をただセンセーショナルに扱うのではなく、渦中にいた人々の姿を、緻密な脚本と圧倒的な表現力で描ききった。

どんどん暴走していくアリーナに対して、それを受けて困惑するヴォイキツァとの対比は、世の中によくあるシュチエーションだし、ムンジウ監督の言うように、ここで扱われているのは普遍的なテーマだ。
このような題材が、映画にふさわしいかどうかは別として・・・。
作品では、本当の事件と同じくらいに、ディテールや小さな出来事を、ひとつひとつ大事に的確にとらえていて、それも彼らの生活している世界や、彼らの信仰を理解しようとするために必要だったからだ。

しかしそれにしても、アリーナが閉じ込められていた部屋に火を放ち、修道女たちに抑え込まれ、縛られ、教会に運ぶために彼女を板に乗せ、身動きできないように、横渡しにした細木に腕を括りつけるという、この姿を見ると十字架に磔にされたようで、鬼気迫る場面ではないか。
そして、外は冷たい雪が舞っている荒涼としたシーンだが、全編にわたって、無駄を極力省いた重厚な世界を作り上げている。

アリーナ役のクリスティナ・ワルトゥルと、ヴォイキツァ役のコスミナ・ストラタンは、キャスティングの際難航の末に選ばれた二人だそうだが、カンヌ国際映画祭では脚本賞とともに、新人ながら迫真の演技に対して二人に女優賞が与えられた。
重く、暗いテーマだが、映画としての質の高さを感じさせるに十分な作品とみた。

2007年に長篇2作目の「4か月、3週と2日」で、パルムドール受賞しているクリスティアン・ムンジウ監督だが、それに続く快挙ということになる。
1968年ルーマニア生まれだから、まだまだこれからが期待される楽しみな俊英だ。
          [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


「被災者が語る関東大震災」展―横浜開港資料館にてー

2013-07-21 13:20:00 | 日々彷徨


今から90年前の、大正12年9月1日午前11時58分、相模湾を震源域とするM7.9の地震が発生し、横浜も大きな被害を受けた。
関東大震災である。
この時の地震による建物の倒壊や火災で、わずか一日で横浜市内は一面の焼け野原となり、最終的には死者、行方不明者は2万6000人を超えた。
当時の壊滅的な惨状を伝える、貴重な資料展が、10月14日(月)まで横浜開港資料館で開かれているので、ふと立ち寄ってみた。

当時難を逃れた人々が、日記や回顧録、書簡、写真など、自らの体験記録を残している。
猛火を避けて横浜港の船に助けられた外国人や、住む家や学校を失い、急ごしらえのバラックで過ごした子供など、大震災の体験は人それぞれだ。
そうした貴重な体験者の残したものは、いま生きている人々に、多くの示唆を残してくれている。
この展示は、震災を生き抜いた人々の記録やエピソードを紹介しつつ、横浜の被災から再起までの過程をたどっている。
これらの被災者の言葉に耳を傾けてみることも、決して意味のないことではないだろう。
この関東大震災関連の企画展は、この資料館のほかに、横浜都市発展記念館などでも同時開催されている。


映画「孤独な天使たち」―内なる世界から自己解放を叫ぶ思春期―

2013-07-17 10:00:00 | 映画


 「ラストタンゴ・イン・パリ」(1972年)、「ラストエンペラー」(1987年)などの大作でも知られる、イタリア巨匠ベルナルド・ベルトルッチ監督が、9年ぶりに発表した作品がこれだ。
 周囲の環境になじめない、孤独な14歳の少年が、大人びた姉と自宅地下室で過ごす一週間を描いた。

 様々な想いに揺れ動く、、多感な少年の思春期を綴っている。
 ベルトルッチ監督デビュー50周年を飾るにふさわしい、メモリアルな青春映画だ。
 作品は、閉塞的な、見方によってはあるいはそれが開放的な、地下室という空間での生活描写がほとんどを占めている。
 だが、光と影、カメラの移動と角度、登場人物のアップなど、実写にはかなりの工夫が凝らされている。
 映像にも、鋭い切込みが感じられる。



         
口うるさい母親のアリアンナ(ソニア・ベルガマスコ)や、学校から問題視されているロレンツォ(ヤコポ・オルモ・アンティノーリ)は、思春期まっただ中にいて、単独行動を好む14歳の少年だ。
精神科医のセラピーにまで通わせられていることもあって、あらゆる世間のしがらみから解き放たれたいと願うロレンツォは、秘密の計画を実行に移すことにした。
学校のスキー合宿に参加するといって、母親に嘘をつき、自宅のあるアパートメントとの地下室にこもって、一週間を過ごすことにしたのだ。

食糧も寝床も暖房も確保されたその空間には、ロレンツォの大好きな本と音楽、そして誰にも邪魔されることのない静寂が完璧にそろっていた。
ところが、ロレンツォの至福の時は、2日目にして、意外な闖入者によってかき消されてしまったのだ。
美しく奔放な、異母姉のオリヴィア(テア・ファルコ)が、転がり込んできたのだ。

アーティストの卵であるオリヴィアは、自分をモデルにした写真作品を売って、小銭を稼いでいるらしかった。
ずうずうしい姉を厄介払いしたいロレンツォだったが、オリヴィアは出てゆく気配もなく、ずっとドラッグに依存してきた彼女も、いままさにヤク断ちの真っ最中で、彼女の体調はここにきて悪化する一方だった。
・・・こうして波乱含みで始まった孤独な姉弟の“共同生活”は、ロレンツォの内に潜む、思いがけない無垢な感情を呼び覚ましていくのだったが・・・。
そうして、ロレンツォの14年間の人生で、最も奇妙で混乱した一週間がやがて終わりをつげ、真新しい日々がまた始まろうとしていた。

イタリア映画「孤独な天使たち」は、二人の若者の憧れ、希望、失望、苦悩、そして夢を描いている。
社会からの疎外感を抱える14歳の少年の精神性を、ベルトルッチ監督はみずから共有しようとしたのだろうか。
しかも、解放を求める少年は、地下室という、これまた自由かもしれないが、きわめて閉塞的な空間に自分を閉じ込めて、何を想い続けたのだろうか。

映像描写も音楽も、二人の若者の内面に分け入るかのような演出が随所に目につく。
このドラマは、ロレンツォとオリヴィアの内面の動き、潜在意識に注目だ。
母親も友達も、ロレンツォの潜在意識の中に入り、そこに存在する。
それが、しかし突然侵入してきた、美しいブロンド娘オリヴィアによって妨害される。
しかも、彼女は彼の姉である。
二人の父親は同じでも、母親も家族も違う。
二人はお互いを嫌い、口論となり、お互いを破壊する。
でも、最後に、二人の気持ちが通じ合う瞬間が来る。
お互いに認め合い、彼らの間に愛情が開き、それは二人の間で大きくなり、彼らは夜明けの光とともに地下室を後にし、また新たな人生に向かっていく。

少年は蟻を飼っていて、そのアリの巣をいつもガラスの外から観察していた。
そのガラスを姉がぶち壊してしまい、二人はともに小さな異空間を結局は後にする。
はじめ闖入者であった姉も、弟とは別の次元で孤独の闇に苦しんでいたのだ。
弟は弟で、自我の閉塞感から脱却したいと願っていたはずだ。
二人がこの地下室で過ごしたことで、それぞれの潜在意識、あるいは深層心理の底に澱んで滞留していた‘澱(おり)’のようなものは、彼らが反駁し合い、叫び、泣き、音楽を聴いて踊り、喋りまくり、沈黙することで、吐瀉物となって、あるいは体外へ出て昇華され、ほとんど光の届かない地下空間から抜け出ることになる。
原作では悲劇的な最期が描かれるが、この作品では真逆の演出が成功を招いていると見た。

1941年生まれのベルナルド・ベルトルッチ監督は、過去の転落事故がもとで車いす生活を余儀なくされ、10年近く映画界から遠ざかっていた。
この作品で、久しぶりの復活を果たしたことになる。
まだこれからも、活躍の余地は残されている。
それは、彼自身がまた走り出したことを自覚し、いまも、若いキャラクターやその生命力や好奇心を捉える難しさに魅了され続けていると、自身が語っているように・・・。
ベルトルッチ監督「革命前夜」(1964年)、「暗殺の森」(1970年)など初期傑作選も、いまひそかに人気を呼んでいる。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「欲望のバージニア」―密造酒をめぐる荒くれ男たちの熱き闘い―

2013-07-15 13:30:00 | 映画


 禁酒法時代(1920年1月~1933年12月)の実話を題材にしている。
 「亡霊の檻」(1988年)、「ザ・ロード」(2009年)の、ジョン・ヒルコート監督が手がけたアメリカ映画である。
 命知らずの荒くれ男たちを描く、激情たっぷりの鮮烈なドラマだ。

 欲望の支配する地バージニアに、不死身と呼ばれる三兄弟がいた。
 実際にあったとされる復讐劇は、見せ場がいっぱいだ。
 今も伝説として語り継がれている、彼らがこの物語の主人公だ。











       
      
1931年、アメリカ東部バージニア州フランクリン・・・。

酒の密造が盛んな無法地帯だ。
酔いどれで凶暴な怪力で鳴らした長男ハワード(ジェイソン・クラーク)、意志堅固で非情な暴力を爆発させる次男フォレスト(トム・ハーディ)、独立心が旺盛で小心ながら野心は大きい三男のジャック(シャイア・ラブーフ)、彼らボンデュラント三兄弟が密造酒の製造を生業としていた。
ここでは、同業者や保安官からも、彼らは一目置かれる存在だった。

三男ジャックは密造酒ビジネスを、家族経営から大規模な取引への転向を望んでいたが、フォレストがなかなか許さない。
いつも上等なスーツを着て、お堅い牧師の娘バーサ(ミア・ワシコウスカ)に一目ぼれしても、全く相手にされない。
一方次男フォレストは、シカゴから流れてきた過去ある女性マギー(ジェシカ・チャステイン)の心奪われ、家に迎え入れる。
そんな時、新しい特別取締官レイクス(ガイ・ピアース)が着任、高額な賄賂を要求する。
周りが次々と彼に従うなか、フォレストは頑なに一切を拒否する。
その一言が、レイクスの非情な心に火をつける。
その日を境に、腐敗した権力からの想像を絶する脅迫が次々と突きつけられ、兄弟とレイクスのプライドをかけた、山間の密造酒をめぐるギャングと警察の抗争は、終盤、仲間をも奪われた彼らの激しい復讐へとなだれ込んでいく・・・。

ドラマは、三男ジャックの目線で展開し、三兄弟の個性の違いが、現われた強敵との闘いをめぐって二転三転する、実に男臭いドラマだ。
彼らと対照的なのが、流れ者の妖艶な女ジェシカ・チャステイン(「ゼロ・ダーク・サーティ」)と、牧師の清純な娘ミア・ワシコウスカ(「ジェーン・エア」)で、フォレストとジャックの屈折したロマンスは、この映画での華やかさで、暴力シーンが頻繁に出てくる中でかすかな救いでもある。

ジョン・ヒルコート監督アメリカ映画「欲望のバージニア」は、ギャング映画なのに、どこかノスタルジーを感じさせるのどかな雰囲気がよく、森や山といった自然の風景の中での銃撃戦も牧歌的で面白い。
無法社会の話ではあるが、愛と友情、その誇りを守るべく立ち上がった、ボンデュラント兄弟と密造業者たちが仲間意識で結束するなど、アメリカが最も危険だったとされる禁酒法時代の復讐劇は、大スクリーンでこそ楽しむべき映画ではないか。
三兄弟それぞれのキャラクターも面白いが、悪役ガイ・ピアースの怪演もなかなかだ。

禁酒法で大儲けしたギャングたちは、このドラマの三兄弟にとどまらない。
この時代、密造酒ビジネスはアウトローたちにとっては大きな収入源で、作品中のジャックも憧れるアル・カポネの名を知らない人はいない。
賄賂を要求する悪徳保安官も、多かったそうだ。
要するに、闇のビジネスに夢をかけたアウトローがヒーローだった時代のお話なのである。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「ある海辺の詩人 小さなヴェニスで」―それはある出会いと別れの物語―

2013-07-15 12:00:00 | 映画


 小さな漁師町を舞台に綴る、美しく儚い出会いと別れの物語である。
 アンドレア・セグレ監督イタリア映画は、作品全体を、詩のような穏やかな映像で描く。
 ロマンティックで静かなドラマだが、叙情を奏でるひそやかなスクリーンは、異国からやって来た二人の心の交流を細やかに綴っている。

 中世さながらの建物が並ぶ町・・・。
 石橋、石畳、様々な漁船の行き交う運河、漁具を担ぐ男たちなど、素朴な雰囲気が伝わってくる。
 観光客の多いヴェニスとは違って、地元の人々が昔ながらの生活を活き活きと送っている。
 庶民的な空気も、心地よい。








      
海辺にたたずむ小さな酒場は“オステリア”と呼ばれ、毎晩のように地元の男たちが集まってくる。

彼らは酒を飲み交わし、カードゲームを楽しんだり、仕事の話やくだらない冗談話で盛り上がっている。
そこを覗けば、小さな町で生きる人々の暮らしが見えてくる。
「小さなヴェニス」といわれる、ラグーナ(潟)に浮かぶ漁師町キオッジャである。

心のどこかで孤独を感じている、オステリアの常連客ベーピ(ラデ・シェルベッジア)は、遠い昔故郷を離れ、この町にやって来た。
そんな彼が、同じく異国からやって来たシュン・リー(チャオ・タオ)と出会う。
二人は、優しく静かに綴られる詩を通して、二人にしか分かりえない孤独を分かち合っていく。
次第に二人は、かけがえのない存在となり、いつしか大切な心のよりどころとなっていた。

そんな二人に、思いもよらない悲劇が待ち受けていた。
時が過ぎ、シュン・リーが久しく訪ねてきたキオッジャにベーピの姿はなく、残されていたのはベーピからの胸を打つ思いの綴られた、最後の優しい手紙であった・・・。

中国人女性シュン・リーは、借金返済のため息子を故郷に残し、イタリアの漁師町の酒場で働いていた。
知り合った二人は、詩を通じて心の交流を重ねていくのだが、それは街の噂の的となり、酒場のオーナーからも交流を禁じられてしまう。
ベーピはベーピで、故郷に残してきた彼にしか分かりえない深い孤独があって、キオッジャに来て30年も経っていた。

人生には、出会いと別れがある。
その繰り返しの中で、誰かに心のよりどころを求めている。
誰かが、誰かを必要としている。
アンドレア・セグレ監督イタリア映画「ある海辺の詩人 小さなヴェニスで」は、どのワンシーンを切り取っても、叙情的な映像が美しく、登場人物の心情を投影しているかのような情景である。
とくにドラマティックな展開があるわけではない。
淡々とした作品だが、悲しげなピアノの調べも、この映画の風景にマッチしていて、風景と音楽が深い奥行きを添えている。
しみじみとした、いい作品である。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「3人のアンヌ」―異邦の地で始まるふとした偶然の断片的ロマネスク―

2013-07-10 11:00:00 | 映画


 韓国の海辺の街を訪れた、同じ名前を持つ3人のフランス女性が繰り広げる、恋のヴァカンスだ。
 心ときめくちょっとしたハプニングが、ユーモラスな吐息とともに、ささやかなドラマとなる。
 ホン・サンス監督韓国映画に、フランスの名女優イザベル・ユペールを登場させている。

 映画と現実が同化するような、奇妙な楽しみを感じさせる。
 でも、この作品は極めて異質で、ホン・サンスという人は、どこまで自由気ままに作品を作り上げれば、気が済むのだろうか。
 風変わりな映画作りに、戸惑いと混乱は隠せないが、そこには大人の感覚がある。
 この映画は、ひとりの女優に3人の異なる女性を演じさせて、自由奔放だが人生の不可思議な出会いを、いたずらで遊び半分(?)に描いた、憎めないオムニバス作品だが・・・。


     
初夏のゆったりした時間の流れる、海辺の街モハン・・・。

映画学校の学生ウォンジュ(チュン・ユミ)は、母親と一緒にこの街へやって来た。
そこで彼女は、フランス人女性の“アンヌ”を主人公にした、映画の脚本を書き始める・・・。

青いシャツのアンヌ(イザベル・ユペール)は、有名な映画監督で、友人ジョンス(クォン・ヘヒョ)と、その妊娠中の妻と一緒に、モハンへヴァカンスにやって来た。
赤いワンピースのアンヌ(イザベル・ユペール)は、浮気中の人妻で、夫の留守のうちに愛人の映画監督と会うために、モハンへやって来た。
そして緑のワンピースのアンヌ(イザベル・ユペール)は、夫と離婚したばかりの女性で、韓国人女性に夫を取られてしまった傷心のアンヌを、民俗学者の女友達パク・スク(ユン・ヨジョン)が慰めようとモハンへ連れてて来た。

3人のアンヌは、青、赤、緑の服で認識され、他の俳優たちも違う役で再登場するのだ。
同じアンヌという名前の3人は、それぞれが違う目的でこの海辺の街へとやって来たが、偶然にも同じ情熱的なライフガードと会う。
映画に描かれるのは、灯台のほかにこれといって何もない、異国の地で繰り返される、アンヌの恋のヴァカンスである。
アンヌの言葉は、韓国ではうまく通じない。
韓国語、英語、フランス語と、様々な言葉を使ったコミュニケーションで、言葉以上に想いを伝えようとする登場人物たち・・・。

旅の同行者や、旅先で出会う人たちとの、ぎごちないユーモアたっぷりのやり取り、中でもライフガードとの勘違いやすれ違い、ちょっとしたハプニング、ほのかな恋心が、それらのエピソードを面白おかしく紡いでいく。
遊び心に満ちた、さりげない仕掛けを施しながら、言葉の壁をも乗り越えた軽妙な会話で、ホン・サンス監督はドラマらしからぬドラマを撮っている。

ホン・サンス監督は、ここでは大げさな解釈も大きなメッセージも発せず、シーンのひとつひとつの反復、あるいは短い物語の連鎖にこだわりを見せつつ、3人のアンヌの重層的な物語を、まるでアドリブのように繋いでいくのだ。
奇妙な場所と思える小さな海水浴場で、出演者たちは、撮影直前にしか監督からセリフもストーリーも与えられない。
非常に類似したシーンが別のシーンに登場し、別の場面と呼応するという、それぞれの場面が反復の原理で構成されるという手法は、シンプルで軽妙で生き生きしてはいるのだが・・・。

だが、ロマンティックな出会いさえも、このドラマではかすんで見えるのは何故だろうか。
そうした演出に少し疲れを感じさせる頃に、ドラマは緩やかに終盤を迎える。
イザベル・ユペールが、確固たる足取りで、未知の未来に向かって遠ざかる姿を捉えるラストシーン・・・。
物語全体の構成は撮りながら考えるという、ホン・サンス監督韓国映画「3人のアンヌ」の中で、主演のイザベル・ユペールは難しい役どころをいとも軽やかに演じているように見える。
ホン・サンス監督が「どういう映画を撮ろうとしているのか、最初は自分でもわからない」と語っているように、やや独りよがりな、作品から感じるこの独自の作風をを理解することは、少々根気も要することだろう。
韓国人監督が韓国で、ひとりのフランス人女優を配置して、韓国映画を撮った。
実験的な作品としての、一風変わった面白さもあるが、ややかったるく、どうにもつまらぬ頼りなさも・・・。
    [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「海と大陸」―人間としていかに真摯に生きるか―

2013-07-07 17:30:00 | 映画


 青い海と青い空と、そして輝く太陽がいっぱいだ・・・。
 そんなある島の家族と、難民の母子との交流を描いている。
 明確な明日は見えないけれど、人間としていかに真摯に生きるかを問うドラマだ。

 エマヌエーレ・クリアレーゼ監督
による、イタリア映画である。
 主役のフィリッポは9歳の時、ベラージェ諸島のランペドゥーサ島で、クリアレーゼ監督にスカウトされ、その後この作品を入れて3作品に出演している。
 海の掟に生きようとする家族と、必死の思いで海を渡ってきた、母子の生きる様を描いて感動的だ。









     
地中海に浮かぶリノーサ島も、ペラージェ諸島のひとつで、夏の観光地としてにぎわうところだ。

20歳のフィリッポ(フィリッポ・プチッロ)は、代々漁師の一人息子で、父親を2年前に海で亡くし、いまは70歳になる祖父エルネスト(ミンモ・クティッキオとともに海に出ている。
叔父のニーノ(ジュゼッペ・フィオレッロ)は、衰退する漁業から身をひき、船を廃船にして老後を楽しむべきだとエルネストを諭すが、彼は耳を貸さない。
母ジュリエッタ(ドナテッラ・フィノッキアーロ)は、息子を連れて島を離れ、二人で新たな世界で人生をやり直したいと考えている。
そんな中で、フィリッポは自分の進む道が見えなくなっていた。

夏、島には観光客が訪れ、活気づく。
一家は家を改装して、観光客にレンタルし、自分たちはガレージで生活する。
ある晩、いつものように漁に出たエルネストとフィリッポは、アフリカからボートでやって来た数人の難民を見かけ、その中にいた妊娠中のサラ(ティムニットT)とその息子をガレージに匿った。
その晩、サラはジュリエッタの手によって出産した。
しかし、彼女たちが不法難民であることは紛れもない事実で、この人助けが、一家の生活を脅かす存在となるのだった・・・。

時間の止まっているような島に、サラと息子は一縷の望みを求めて、決死の覚悟で海を渡ってきた。
海の掟を重んじる祖父は、法を無視して母子を救い、家に迎え入れる。
人間として尊い行為が、しかし波乱を招くことになる。
先細る生活に不安を抱える一家、圧政を逃れてあとさき顧みずに海を渡ってきた母子と、両者の葛藤を丁寧に掬い上げながら、エマヌエーレ・クリアレーゼ監督は、人間の持つ勇気、生命力、そして優しさと高貴な心を描いて、重厚な作品世界を創り上げている。

2009年夏、ランペドゥーサ島に80人の難民を乗せたボートで漂着し、3週間の漂流ののちたどりついたボートに生存者は3人だけだった。
サラ役のティムニットは、その時の生き残りの一人だったそうだ。
当時、撮影の仕事で島を訪れていた、クリアレーゼ監督の取材を受けたことをきっかけに、この映画への出演が決まったといういきさつがある。
フィリッポティムニットも、演技経験のないノンプロだったのだ。
それにしては、プロの俳優陣と互角の演技で、いやあ恐れ入りました。

地図を見たら、ベラージェ諸島はシチリアと北アフリカの中間にある。
そこで、北アフリカからヨーロッパに渡ろうとする、アフリカの人々を乗せた船が漂着するケースが、後を絶たないのだそうだ。
彼らは十分な装備も持たず、過剰な数人が乗るので、病気や遭難によって途中で命を落とす人が多く、この十年で死者数は万の単位に達していると言われる。

今でこそ、アフリカやアジア、中南米からも多くの移民がやってくるイタリアだが、19世紀後半から1960年代までは、ヨーロッパ諸国や南北アメリカなどに膨大な数の移民を送り出す立場にあった。
今でもイタリアのTVは、難民問題のニュースが流れない日はないといわれる。
日本に、もし北朝鮮からでも、多くの難民が押し寄せて来るようになったら、どうするだろうか。
エマヌエーレ・クリアレーゼ監督イタリア映画「海と大陸」は、ふとそんなことを考えさせる一作である。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


『中原中也の手紙~安原喜弘へ~』展―神奈川近代文学館―

2013-07-06 21:00:00 | 日々彷徨



 関東各地で、日中の最高気温が軒並み35度以上を記録した。
 これでは暑いわけだ。
 そして、やっと関東甲信地方は梅雨が明けて、いよいよ夏本番を迎えた。
 今日の文学散歩は、神奈川近代文学館だ。

     汚れっちまった悲しみに
     今日も小雪の降りかかる
     汚れっちまった悲しみに
     きょうも風さえ吹きすさぶ・・・(中原中也「白痴群」)

 








詩人中原中也は、普段から切手や葉書を持って歩いていた。
彼は知人や友人に、多くの手紙を書き送っては、 いつも自分が感じたり考えたりしたことを、誰かに伝えようとしていたので、手紙はそのため の大切な手段であった。
中也の手紙の中で、友人安原喜弘宛ての102通が、最も多く現存する手紙だ。

中原中也(1907-1937)は、1928年(昭和3年)安原と出会って、同人誌を通して活動を共にし、生涯にわたって文学を通じて交友した。
中也の没後、安原が著した『中原中也の手紙』は、中也研究の第一級の伝記資料もといわれている。
それは、短い生涯を生きた中也と安原の、青年期の友情を超えた魂の記録として、貴重な資料だからだ。
・・・中原が初めてその仮借なき非情の風貌を私の前に現したのは昭和三年秋のことであった。(安原喜弘)

今回、会場で初めて一堂に展示される、全102通の手紙で、二人の交流の軌跡がわかりやすく紹介されている。
7月21日(日)には詩人蜂餌耳氏の講演や、8月2日までの隔週金曜日にはギャラリートークも予定され、また7月13日(土)・27日(土)の両日には、1976年シネマ・ネサンス、岩崎寿弥監督(平成25年5月死去)の映画『眠れ蜜』の、記念上映会(入場無料)も行なわれる。
この映画『眠れ蜜』は、根岸とし江長谷川泰子吉行和子和田周岸部シローらが出演、「若」「熟」「老」と三世代の女性が‘自分自身’という役柄を演じるオムニバス作品である。
この映画の中で、中原中也のかつての恋人で、京都から上京後、中也からのちに小林秀雄のもとに走った長谷川泰子が「老」を演じている。

昭和11年11月16日中也の満2歳になる長男が亡くなり、それから49日間家から一歩も外出せず、悲嘆にくれながら、般若心経を詠んで暮らした中也だったが、翌年結核性脳膜炎を発症し、30歳の若さで死去した。
生前最後に住んでいた家は、鎌倉寿福寺の境内にあった。
何にしても、早逝を惜しまれる詩人である。
この企画展『中原中也の手紙』展は、8月4日(日)まで神奈川文学館で開催されている。