パリやブリュッセルで活躍中の現役道化師カップル、ドミニク・アベル&フィオナ・ゴードン夫妻が監督、脚本・主演を兼ねている。
優美な名演技を、体いっぱいに使って表現している。
息の合ったパフォーマンスが、あちらこちらで笑いを誘う。
映画的な身振りとはこんなことを言うのだろうか。
それにしても、身体を通して人の魂を描くとすればそれも大したことで、人間の持つ本当の自由や生きる歓びについて語られる、めずらしい映画といえるだろう。
ドタバタ喜劇のように見えて、ほろ苦い人生のままならぬ哀歓をそっと謳い上げている。
カナダの雪深い町から、未婚の中年女性フィオナ(ゴ-ドン)がパリにやって来る。
真っ赤な大きいリュックサックに、カナダの国旗をちょこんと立てて、おのぼりさんみたいだ。
フィオナは、何年も前に分かれたマーサおばさん(エマニュエル・リヴァ)との再会が目的だ。
そのフィオナがセーヌ川に架かる橋で、記念写真を撮ろうとして川の中に落ち、大事なリュックを失くしてしまう。
ホームレスのドミニク(アベル)がそのリュックを拾った。
彼はフィオナに一目惚れし、迷惑も顧みずマーサ探しを手伝ってやろうとする。
だが、マーサは亡くなったことがわかり、二人は葬儀場に行くのだが・・・。
くすくすと笑いを誘われるコメディだ。
古めかしさや懐かしさに斬新さを盛り込んで、パリを舞台に、軽妙で皮肉の利いた笑いが全編を包んでいる。
フィオナとドミニクが出会う場面での絶妙なダンスなども、お互いに言葉も通ぜず、それを逆手に取って、動きの良さで笑わせようとする。
彼らは本来現役の道化師だから、自分たちの頭のてっぺんから足のつま先までを使って演技することを心掛けているのだ。
人間の持つ深い部分というものについて、そうしたことで十分表現ができると監督は考えているようだ。
主演の二人はもともと舞台俳優だ。
二人のコンビの、歩く姿から身なりひとつまでが絵になっている。
それが、映画で情感あるアクションとして成り立っている。
リズム感があって、生き生きとしている。
身のこなし、ささやかな仕草のひとつひとつまで、よく見ていると面白く魅力的だ。
物語は一見単純に見えるが、細かい伏線が張られており、それなりの効果を期待していると意外な展開を見せたりして・・・。
マーサを演じるエマニュエル・リヴァはこの時88歳で、この作品が遺作となったそうだ。
フランス・ベルギー合作映画「ロスト・イン・パリ」は、サイレント映画のような趣を持ったリアルな作品で、なかなか面白く観られる。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
いろいろありましたが、今年も、もう間もなく暮れていこうとしています。
どうぞ、どちら様も良い年をお迎えになってください。
次回はフランス・アメリカ合作映画「女神の見えざる手」を取り上げます。
カトリーヌ・ドヌーヴとカトリーヌ・フロの、フランスの二大女優が母娘好演する人間讃歌のドラマだ。
可愛らしくてほろ苦い物語が、人生を彩るメッセージを観客に送り届ける。
もしも、何もかも正反対の相手が突然現れて、自分を予想外の未来へと導いてくれるとしたら・・・?
血のつながらない二人が、30年ぶりに再会し、そこに二人が見つけたものは何だったのか。
マルタン・プロヴォ監督の洒落たフランス映画である。
ほら、風まかせに生きる女が、笑いと涙をつれてやって来る。
パリ郊外・・・。
生真面目な助産師クレール(カトリーヌ・フロ)のもとに、30年前に父を捨てた継母ベアトリス(カトリーヌ・ドヌーヴ)が現われる。
父を裏切った身勝手なベアトリスを、クレールは許せずにいた。
ベアトリスが現われたのは、末期がんのためだった。
仕事のこと、息子のことなどで、クレールには悩みが増える。
娘は継母の失踪が原因が父が自殺したことを根に持ち、二人の関係はぎくしゃくする。
だが、ベアトリスとクレールは次第に相手のことがわかってくると、お互いに心を開き始めるのだった・・・。
この作品のテーマは、ひとつには理解と共感だ。決して大それた問題を扱っているわけではない。
ベアトリスは限られた時間を精一杯生きるため、今までの溝を埋めたいと考えている。
何のことはない、二人の女性が大人になって再び出会ったことで、互いに理解し合えるようになっていくというお話だ。
1943年生まれのパリジエンヌで、10代から映画出演の長かったカトリーヌ・ドヌーヴの存在感は断然だ。
彼女は、アルジェリア戦争を背景に若者たちの恋と別れを切なく描いた「シェルブールの雨傘」(1963年)に主演して、スターの座に就いたのだった。
そうだ。この人、世界的な女優としてすでに半世紀以上のキャリアを持っている。
まあずいぶんとお年を召した感じはする。
いかに、今という時間を濃密に生きているかがわかろうというものだ。
この作品は、カトリーヌ・ドヌーヴはまり役の作品であり、過去の恋に思いを馳せる女、強がりでいて孤独な女とか、女性が一生のうちで経験する様々な感情を繊細な表現で演じている。
母娘の絆の変化、切ないラストシーン・・・、行き詰まった日常から心を解放していく様子が、まるでドヌーヴ自身の生き方そのもののように人生を謳歌する‘母’役を演じているではないか。
真面目すぎるほどの娘役のカトリーヌ・フロともども、〈二人のカトリーヌ〉がこの作品を涙と笑いで彩っている。
マルタン・プロヴォ監督のフランス映画「ルージュの手紙」は、やや深刻な題材を扱いながら、ポジティブな脚本もあってコメディ要素たっぷりの軽やかなドラマとして仕上がった。
この映画によれば、生きることは決して後悔せずに自分の道を歩むことだ。
それが、プロヴォ監督の人生讃歌だ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
木枯しの吹きすさぶ、冬の本格的な訪れだ。
今年も、間もなく暮れてゆこうとしている。
時の流れのままに・・・。
この映画は、内戦の激化に伴う、シリアの深刻な内戦問題がテーマだ。
フィンランドを代表するアキ・カウリスマキ監督が、 「過去のない男」(2002年)、「ル・アーブルの靴みがき」(2011年)に続いて、優しさにあふれた人間讃歌を描き上げた。
この作品は今年のベルリン国際映画祭で、銀熊賞(監督賞)を受賞した。
難民問題をユーモアで味付けした独特の作風で、意外性があって面白い。
社会の片隅で、ひっそりと慎ましやかに生きる庶民の哀歓は、ここでも独特の手法で切り取る方法は生きており、人間の持つ小さな善意に心の救われるヒューマンドラマだ。
青年カリド(シェルワン・ハジ)は内戦の激化するシリアを逃れ、北欧フィンランドの首都ヘルシンキにたどり着いた。
望みはひとつ、生き別れになった妹のミリアム(ニロズ・ハジ)を捜し、フィンランドに呼び寄せることだった。
一方、現在の仕事と家庭に嫌気がさしていた初老の男ヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)は、レストランの経営を始める。
ある日、店の外でカリドと出会い、一発ずつなぐり合ったのち、カリドを店に雇い入れることにする。
カリドは差別や暴力にさらされていたが、ヴィクストロムの救いの手で、自分の人生に希望の光がさし始めるが・・・。
気の遠くなるようなテーマを扱いながら、これが意外に温かな映画なのだ。
ヘルシンキの港にたどり着いたシリア難民、カリドの話と、初老のセールスマン、ヴィクストロムの話が並行して進められていき、可愛げのないこの二人の表情も飾り気がなく、ドラマでも結構強引な展開で彼らを引き合わせ、どこか可笑しくて優しい物語に仕上がっている。
こんな話が映画になるのかと思うと、案外ちゃんとそうなっている。
そもそもカウリスマキ監督という人は、登場人物など無表情で必要最小限の話しかさせない。
カメラも美術も、何となく無表情で無愛想で素っ気ない。ぶっきらぼうに見える。
それでいて、精緻な演出を見せ、ほんわかとした笑いを呼び込む。
現代の闇を笑いで包もうというわけか。
ヨーロッパに行きさえすれば希望がつかめるはずだと、難民の多くは地上の楽園を夢見ているかもしれない。
戦禍にのまれる前のシリアは、2011年各地で大規模な反政府デモが繰り広げられるようになるまで、シリアは中東地域の中でも治安の安定した国で、世界中から旅行者が集って来るほどだったのに・・・。
しかし、7年近くの月日、人々の生活は粉々に打ち砕かれてしまった。
人に優しさは大切だ。
収容施設で出会ったイラク人難民は、自分も苦しいはずなのにカーリドを助ける。
一方で、貧しいはずのカーリドは、物乞いの女性に金を恵む。
困っている人がいたら手を差し伸べる。それが人間だ。
名匠アキ・カウリスマキ監督のフィンランド映画「希望のかなた」は、可笑しくて優しい映画だ。
この映画、とぼけたエピソードも挟まれている。周囲の中に怒りだってある。
日本料理を真似てお寿司屋さんが登場するが、この寿司の姿がもうとてつもなくでたらめもいいところで、馬鹿馬鹿しくて・・・。
去れど、難民問題は日本は遠い国だが、これは他人事ではない。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回はフランス映画「ルージュの手紙」を取り上げます。
それは愛か、贖罪か。
「8人の女たち」(2002年)、「危険なプロット」 (2012年)、「17歳」 (2013年)の、フランソワ・オゾン監督がエレガントなちょっとしたミステリーを完成させた。
モノクロとカラーの映像美が仕掛ける待望の最新作は、なかなかよく出来た映画だ。
大戦の狭間で生まれる、切ない愛の行方が気にかかる。
第一次大戦後のドイツとフランスを舞台に、謎と嘘が交錯する物語を、アート色に綴って興味深い。
絶望し惑乱して、再生への希望に目覚めるとき・・・。
長いこと挑戦的な作品を撮り続けてきた、フランソワ・オゾン監督の最新作だ。
ミステリアスなドラマの展開は大いに気にかかる。
手紙、音楽、色彩を巧みに使い分けて、映画としては秀作に近いが・・・。
1919年、戦争に傷痕に苦しむドイツ・・・。
今やっく者のフランツ(アントン・フォン・ラック)をフランスとの戦いで亡くしたアンナ(パウラ・ベーア)は、悲しみの日々を送っていた。
ある日、アンナがフランツの墓参りに行くと、見知らぬ男が墓に花を手向けて泣いていた。
戦前にパリでフランツと知り合ったと語る男の名は、アドリアン(ピエール・ニネ)と名乗った。
アンナの両親は、彼とフランツの友情に感動し、心を癒やされる。
だが、アンナがアドリアンに“婚約者の友人”以上の思いを抱き始めたときアドリアンは自らの“正体”を告白するのだった。
しかしそれは、それから次々と現れる多くの謎の幕開けに過ぎないのだった・・・。
フランスの若手俳優の中でも突出した存在のピエール・ニネが、繊細さの中に情熱を秘めたミステリアスな青年像を見せてくれる。
アンナ役はドイツ映画期待のパウラ・ベーアで、降りかかる謎と嘘を乗り越えて、自らの生きる道を見つけようとする姿を力強く演じている。
ヴェネツィア国際映画祭では新人俳優賞(マルチェロ・マストロヤンニ賞)を受賞した。
映像はモノクロとカラーが交錯し、美しい仕掛けが何とも心地よく感じられる。
衣装と音楽にも凝っていて、ロマンティックでミステリアスだ。ドラマの根底には償いがある。
フランスの酒場で、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を大合唱するシーンがある。
この歌詞のなかに、「敵は我らの女房と子ののどを掻っ切る」という文句がある
ヒロインが婚約者の父母につく嘘が胸にこたえる。
だが、これが非戦のメッセージを込めたドラマといえるかどうか。
1919年というと、背景にはナショナリズムの台頭があり、終戦を迎えているというのに、ドイツとフランスは憎みあったままだ。
その中で、ドイツ人娘とフランス人青年はどう向き合ったか。そこが最大のポイントだ。
映画の中、アンナが口ずさむヴェルレーヌの詩、フランツの形見のヴァイオリンでアドリアンが弾くショパンの調べ、そして映画の謎のようにアンナがアドリアンと出会うエドゥアール・マネの絵「自殺」・・・。
ささやかな芸術が、絶望の渕に立つ心に寄り添うように、忍び込んでくる。
ややもすれば、人間らしさを失う戦争の時代、人は一篇の詩、ひとつの旋律に救われることもあろう。
円熟の俊英監督フランソワ・オゾンのフランス・ドイツ合作映画「婚約者の友人」は、どこまでもその眼差しに慈悲の深さがこもっている。
芸術性もたっぷりな好感のもてる作品だ。
秀作だとの評もある。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回はめずらしいフィンランド映画「希望のかなた」を取り上げます。
「ヘヴンズストーリー」(2010年)、「64-ロクヨン 前編/後編」 (2016年)などの大作を世に問うた瀬々敬久監督が、骨太で誠実な家族の映画を丁寧に織り上げて見せた。
それも、AV業界に生きる女性の悩みや痛み、女性の心理を赤裸々に描いている。
人気AV女優の名を欲しいままにしている、紗倉まなの同名小説を映画化した。
どんな作品だろうかと思われる向きもあるだろうが、AV撮影の現場の場面も絡みよりも女優の表情に焦点を当て、怒り、屈辱、悲しみ、あきらめといった、現代に生きる女性たちに共通のごくありふれた感情を素直に浮き彫りにする。
これはもう、女性のための女性映画だ。
34才の美穂(森口彩乃)は子どもが欲しいと思っているが、夫にその気はなく、満たされない日々を埋めるため、AVに出演することを決意する。
祖母と母親と三人で暮らす高校生のあや子(山田愛奈)は、学校にもなじめず油絵ばかり描いていたが、ある日、母親の孝子(高岡早紀)がもとAV女優だったとのうわさが学校で広まる。
AV女優の彩乃(佐々木心音)は故郷と距離を置いていた・・・。
映画では、三つの物語が錯綜しながら進んでいく。
AV映画に出演する女性たちと、その事実、内容を知った家族の葛藤を絡ませて、あくまでも外面からそれらを俯瞰するかたちで映し出していく。
いまの日本で、この種の作品に出演することが、本人や家族にどんな影響をもたらすか。
そしてまた、職業の区別はないとしている、地方の問題性もしっかりととらえて社会的風俗批評を交えながら、瀬々監督は、もがきながら生きる女性たちを終始温かい視線で描き続けた。
群像劇の得意な瀬々監督は、観客を徐々に登場人物に寄り添わせていく。
三つのドラマをクロスさせていく構成も悪くない。
ただ、登場する女性たちが何故AVに出演したのかという点については深堀りがなく、彼女たちのちょっとした家族らとの会話の中など、示唆に富むエピソードが紹介されているだけだ。
もちろん、家族のショックの大きさとかその反応によって、傷ついていく女性たちの姿もたっぷりと描かれている。
これは重い話である。
周囲の視線を気にしなければ生きてゆけない、日本という国の息苦しさがのぞいている。
閉塞感のある社会で、いかに自分たちの生き方を模索していくべきか。
偏見のつきまとうこの世界で、そこに考えさせられる問題をはらんでいる。
瀬々敬久監督の作品「最 低。」は、重層的に描かれる女性映画だ。
抱擁シーンとあれば不運(?)とは、この作品で納得だ。
それが男女ではなく、母と娘の抱き合うシーンが感銘を誘う場面だからだ。
映画の中、美穂とあや子が運命に導かれて出逢い、抱き合ってのち縁側に並んで横たわるシーンは印象的だ・・・。
出逢い、交わり、重なり合う女性たちの葛藤を描いて、見応えは十分である。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回はフランス・ドイツ合作映画「婚約者の友人」を取り上げます。