徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「アントキノイノチ」―失われてゆく命と残された者の生―

2011-11-27 22:51:00 | 映画


     さだまさし原作の小説をもとに、瀬々敬久監督が映画化した。
     いまの時代、人間関係が希薄になっている。
     そんな現代の社会で生まれた「遺品整理業」という仕事を通して、もがき苦しみながら成長する若者の姿が描かれる。
     しかも、心に闇を抱える人間同士が、心を通わせる物語だ。

     「遺品整理業」は、様々な理由で身内の遺品整理のできない、遺族のためのサービス代行業だ。
     現在も、各地で広がりつつある。
     これは、ひとつの社会現象でもある。







       
高校時代にいじめに苦しんで、親友を‘殺してしまった’ことがきっかけとなって、永島杏平(岡田将生)は、固く心を閉ざしていた。
彼は父親の紹介で、遺品整理業「クーパーズ」で働くことになる。
そこで、先輩社員の佐相(原田泰造)や久保田ゆき(榮倉奈々)と、遺品整理の仕事に携わることになった。
ゆきから、仕事の手順を教えられている最中に、杏平は彼女の手首にリストカットの跡を見てしまった。

ある日、ゆきは仕事中に男性に手を触れられ、悲鳴を上げて激しく震えた。
心配した杏平に、ゆきはためらいながらも、少しずつ、自分の過去に起きた出来事を告げた。
彼女は、高校時代にレイプされて妊娠して流産したことや、リストカットを繰り返し、自らの人生を終わらせようとして、自分を責め続けていたのだった。

一方、杏平は生まれつき軽い吃音があって、同じ山岳部の松井(松坂桃季)たちから、陰でからかわれたり、陰湿ないじめに悩まされていた。
同級生たちは、表面では仲が良いふりをしながらも、どこかいらいらし、見えない悪意の中で毎日を過ごしていた。
そんな中、やはり松井による陰湿ないじめと、周囲の無関心に耐えられなくなった同級生の山木(染谷将太)が、校舎から飛び降り自殺するという事件が起こったのだった・・・。
死の直前、杏平に向かって、「君は、見方だと思っていたんだけどなぁ」という言葉を残して・・・。

杏平は自分のことはともかく、ゆきの話を聞き、自分も何かを伝えたかったが、言葉が見つからなかった。
そして、ゆきは杏平の前から、突然姿を消してしまったのだ。
・・・ゆきがいなくなってから、2カ月がたった。
杏平は、遺品整理の仕事を続けていくうちに、イノチについて、いま生きているということについて、どうしてもゆきに会って伝えたい言葉を見つけた。
杏平の心の中で、何かが変わろうとしていた。
そして杏平は、ゆきのもとへと向ったのだが・・・。

いじめに苦しんだ杏平と、忌まわしい過去が忘れられないゆきは、遺品整理の仕事を通じて、それぞれの「失われた命」に対する服喪の思いを深めつつ、傷ついた心を少しずつ修復していくのだった。
・・・若者たちの心の闇に、焦点を当てているものの、ドラマは現在と過去が目まぐるしく転換し、観ている方も戸惑う。
回想シーンで、学校内の暴力事件を、大勢の生徒たちが遠巻きにして見ているだけで、誰もそれを止めさせようとしないなど、正直首をかしげたくなる。
それから、少しずつ心を心を開いていこうとしている、ゆきの心理状況もいまひとつ解りにくい。
人と人とのつながりが大事な要素なのだが、瀬々監督は、かなり丁寧に描いてはいるようでいて、そのあたり十分に描き切れていないのだ。

このドラマには、校内暴力やいじめ、介護福祉や高齢者の問題、孤独死や人間同士の絆の希薄さなど、様々な問題が内包され、提起されている。
そのどれをひとつとっても、大きなテーマとなるのに、全部が一緒くたになっているものだから、まとまった整理された脚本構成とは言い難い。
若者たちのこともかなり描かれているが、「遺品整理」という仕事の中で、この映画「アントキノイノチ」が人間の生と死を見つめていくのであれば、もっと焦点が絞られてよい。
かなり、内容を膨らませ過ぎて、欲張ってしまった感は否めない。
それと、この作品のタイトルは、この物語にふさわしいかどうかも疑問だ。

「おくりびと」という映画があったが、よく似ている。
納棺師のかわりに、遺品整理を持ってきて、自分を捨てた父親の死化粧をするのと、最愛の人の遺品整理は、なるほどよく似ている。
この映画のラストは、原作を書き換えていて、榮倉奈々の命が、彼女が事故から救った女の子に受け継がれるという語りを加えた理由もわからないし、無理なこじつけみたいにも感じられる。

超高齢化社会を、いままさに迎えつつある時代だけれど・・・、無縁というのは何も高齢者だけの問題ではない。
隣人の顔も知らず、人知れずひとりで死を迎えてしまうことになる。
若い魂のやりきれなさや、無関心が原因で心を病んでしまう若者たちに、まず生きる希望と勇気を持ってほしいと、強く呼びかける作品だ。

ドラマの中で、終盤近く、ゆきは介護施設で働いているところを杏平に見つけられるのだが、この時の、彼女の無表情な心理も理解しにくいのだ。
いずれにしても、介護職員として働くというのは大変なことだ。
自分が世話をしていた、おじいさんやおばあさんが、目の前で亡くなるのである。
そうしたことが、年に何人も続くとなれば、その悲しみに耐えられない、ヘルパーさんもいるといわれる。
驚くなかれ、30年先には、90万人が死に場所を探す時代になるそうだ。
人は、どこに終の棲家を求めたらいいのだろうか。
家族、病院、老人ホームに見捨てられたら、行くところはないのだしと・・・、この映画の遺品整理の作業を見ながら、思った。
ひとは、死ぬときはひとりなのだ。
死は、ひとりで迎えるしかない・・・。

それはそうだ。
どんなひとにも、自分の遺体を自分で始末することはできない。
死の現場には、そのひとの生きてきた過去が凝縮されて詰まっている。
死の現場が、再生の現場となるのかもしれない。
では、どんな死に方がよいのだろうか。
そのためには、どんな生き方をすればよいのだろうか。
この作品は、そんなことを考えさせる映画だが・・・。


映画「明りを灯す人」―中央アジアのスイスといわれる神秘の国キルギスのお話―

2011-11-24 19:00:00 | 映画


     こういうキルギスの映画など、滅多にお目にかかれない。
     天山山脈のふもとの、聖なる湖のほとりの小さな村のお話だ。
     アクタン・アリム・クバト監督、主演の、名もなき電気工の夢を綴った、ほのぼのとした作品だ。

     1991年ソ連が崩壊して誕生したキルギス共和国は、独立宣言から20年たった今も、政治や経済状況は不安定だ。
     そこで、厳しい生活を余儀なくされている人々の、詩情豊かな、小さな物語である。
     原題「THE LIGHT THIEF」は、邦訳では「明り泥棒」だが、はて・・・?








        
ドラマの冒頭、どう見ても、決して立派とは言えない風車を、男が手入れしている。
その風車で、電気を起こそうというのだろうか・・・。

聖なるイシク・クル湖のほとり、キルギスの小さな村に住む電気工を、人々は‘明り屋さん’(アクタン・アルム・クバト)と呼んでいた。
明り屋さんは、アンテナの調節や電気の修理など、どんな些細な用事でも気軽に引き受けて、自転車で乗り付ける。
時には、裕福でない家に、本当は違法なのだが、無料で電気を使えるように細工をしたりもする。
村人からは、彼らの暮らしを第一に考える、愛される男だった。

明り屋さんの夢といえば、風車を作って、村中の電力を賄うことと、自分に息子が授かることだった。
そんな中、ラジオからは政治の混乱のニュースが流れ、田舎の村にも、ある変化が起きようとしていた・・・。

高齢者の多い豊かな村には、容赦なく、開発の波が押し寄せてきていた。
村の土地を買占め、議員に立候補し、不当な金儲けをたくらむ者たちが、村にやってくるのだ。
中央アジア一帯の、草原の輝きがいい。
明り屋さんは、子供のような、純粋な心で村人に接している。
そこに、小さな救いがある。
時代に迎合しようとせず、お金に媚びるでもなく、少年のような心を失わずに生きようとする彼の目には、故郷を愛し守ろうとする優しさがある。

頭に野の花を挿した、少女が行き過ぎる。
スカーフを巻いた女たちが、河の水を汲んでいる。
日に焼けた、老人たちの優しい笑顔が並んでいる。
それらが、どこか美しい絵画のように見える。

しかし、一見この穏やかな映画から見えてくるものは、キルギスという国のおかれている、厳しい現実だ。
農村部など高齢者の多い地帯では、食料はあっても、電気代などの光熱費を払えない人々が多い。
貧困と過疎と出稼ぎと、それに税関や警察までが浸透していると思われる、汚職問題をかかえている。
そうした悲観論を見つめながら、明るい未来への希望を静かに訴えているようだ。

強い風が吹き、明り屋さんの風車が力強く回り出すと、電球に明かりが灯る。
明確なメッセージはなくても、何とも言えないラストシーンが印象的だ。
映画「明りを灯す人」(キルギス=フランス=ドイツ=オランダ合作)は、心に安らぎをもたらす小品だ。
いま日本でも、原発に頼らない自然エネルギーが見直されようとしている。
風の強い日に備えて、沢山の風車を作り、村の電力を賄おうとする、この非凡な夢はどう映るだろうか。
明り屋さんを演じる、アクタン・アリム・クバト監督の飄々とした演技も味わいがあっていいが、キルギスの実情を切り取る社会的視点も鋭い。


映画「ミケランジェロの暗号」―ナチス・ドイツの戦況を左右する名画の行方は―

2011-11-22 19:00:00 | 映画


     その鍵を握るのは、ひとりのユダヤ人画商であった。
     ナチス・ドイツが、イタリアとの同盟のために、国宝級のミケランジェロの絵の行方をめぐる、ミステリーだ。
     このサバイバル・サスペンスは、爽快なラストへと紡がれるドラマだ。

     ヴォルフガング・ムルンベルガー監督の、オーストリア映画である。
     「ヒトラーの贋作」のスタッフが、今度は、謎と緊張のサスペンスを送り出した。
     前作同様に、ナチスと命がけの駆け引きをする、ユダヤ人の物語だ。
     そこそこ、面白く観ることができる。







     
芸術の都、オーストリアのウィーンに住む、ユダヤ人画商一家が、ミケランジェロの絵を密かに所有していた。
それは、イタリアの独裁者ムッソリーニも欲する、世界的な名画だった。
ある日、一家の息子ヴィクトル・カウフマン(モーリッツ・ブライトブロイ)は、使用人の息子である、リディ・スメカル(ゲオルク・フリードリヒ)に、絵の隠し場所を教えてしまう。
ナチスに傾倒していたルディは、親衛隊での地位を得るため、その絵のことを密告する。
一家は絵を奪われ、強制収容所へと送られる。

・・・数年後、ナチスは、カウフマン家から奪った、ミケランジェロの絵を取引の材料に利用して、イタリアとの同盟を確固たるものにしようとする。
しかし、その絵が贋作であることが判明した。
本物の絵を、どこかへ隠した一家の父はすでに収容所で死亡し、ヴィクトルに謎のメッセージを残していた。
ヴィクトルは、絵の在りかを知らないまま、母の命を救うために、ナチスを相手に危険な賭けに出るのだった。
彼の作戦は成功するのか。
本当のミケランジェロの絵は、どこにあるのか・・・。

オリジナル脚本(ポール・ヘンゲ)の、小技のきいた展開と演出が、ナチスを背景にした物語を面白くしている。
本物の絵の在りかは、収容所で死亡した画商の父が、息子ヴィクトルに託したメッセージにこそ隠されているのだが、ヴィクトル自身もどこのあるかは知らなかったのだ。
二転三転する脚本は、はじめの部分では説明が多くて退屈するが、後半に入ると、ルディの裏切りのシーンのあたりから、興味津々たるドラマに変わっていく。
ただ、ドラマのはじめのところで、軍用機墜落のシーンがあるが、あの場面でいきなり必要だったかどうか。

ユダヤとナチスというと、どうしても暗鬱なムードを連想するが、この映画の雰囲気は極めて明るい。
登場人物たちは、誰もがかなり深刻な状況下にいて、生死の境をさまよったりしているというのに、前向きの明るさがあって、ユーモアさえ感じさせるではないか。
ドラマを、深刻なものとして扱っていないということだ。

幼なじみとして育ったヴィクトルと、かつてはその家の使用人の息子で、のちにナチスの軍人となるスメカルだが、この二人が、ユダヤ人青年とナチス軍人の青年となって入れ替わるという前代未聞の展開には、あらあらと驚かされる。
でも、こういうドラマのつくり方に、妙に魅了されてしまうし、いままで幾度となく見てきた、第二次大戦時のナチス・ドイツとユダヤ人の悲劇のドラマを、笑いで一掃してしまうような作りなのだ。

ユダヤ人のアート感覚を象徴するかのような、イタリア・ルネッサンス期の巨匠ミケランジェロの幻の名画が、見事にこの映画の陰の主人公なのだ。
ムッソリーニが熱望してやまなかった、、ミケランジェロの名画の行方をめぐる、ミステリーもどきの展開は、時を経て、戦後のカウフマン画廊のオープニングパーティーで迎えるどんでん返しの終幕が鮮やかではあるのだが、いかにもこれがあっけないのは残念だ。
ともあれ、ヴォルフガング・ムルンベルガー監督オーストリア映画ミケランジェロの暗号」は、軽妙洒脱な、とても洗練された知的な歴史ドラマとしても、楽しめる。


映画「恋の罪」―頽廃と蠱惑の中で炎上する女たちの闇―

2011-11-18 15:35:31 | 映画



     朝夕冷え込むようになって、冬の訪れは急ぎ足だ。
     街路樹の梢が冬枯れて、北風に震えているようだ。

     この映画は、禁断の地獄を描く、衝撃のドラマだ。
     底の見えない闇の奥に、女は堕ちていく。
     どこまでも・・・。

     鬼才として知られる、園子温監督の新作である。
     97年に、東京渋谷円山町で実際に起きた、東電OL殺人事件をインスパイアした、大変センセーショナルなサスペンスだ。






   
激しい、大雨の降る夜のことだった。
渋谷区円山町の、廃墟と化したような古い木造アパートで、女性の死体が発見される。
それは、マネキンと接合されている、凄惨な切断死体だった。
女性刑事の吉田和子(水野美紀)は、優しい夫と可愛い娘に恵まれながら、密かに心と体に渇きを抱えていた。
彼女は、事件の被害者女性に私的な関心を持ちながら、捜査を進めていく・・・。

作家の菊地由紀夫(津田寛治)を夫に持つ菊池いずみ(神楽坂恵)は、清楚で貞淑な妻として静かな毎日を過ごしていたが、平凡な日々に寂しさと虚しさを感じ始めていた。
そして、彼女は近所のスーパーマーケットで働くようになった。
そんなとき、いずみは、モデルプロダクションのスカウトだという、尾沢美津子(冨樫真)と、道玄坂で運命的な出会いをする。
美津子は、昼間は大学の助教授で、夜は街角に立つ売春婦であった。
誰もが、エリートとして認める才媛の裏に隠されていた、美津子の本性が次第に明らかにされていく。
 

美津子との出会いによって、夫に秘密を持つ妻の立場で、女の歓びと堕落という、いずみの屈折した生活が始まる。
やがていずみは、昼と夜の二重生活を送る美津子に、どうしようもなく惹かれていく。
 「わたしのとこまで堕ちてこい」
美津子の、そんな悪魔のようなささやきに導かれながら、いずみは男たちに体を売り、彼女と行動を共にするようになった。
その一方で、美津子と彼女の母親に隠されていた戦慄の家族関係や、いずみと夫との予期せぬ出来事など、人間関係の澱みが全て白日の下にさらされ、そこから生まれた激しい愛憎は、殺意となって互いに向けられていくことになるのだった。

境遇や職場も全く異なる、3人の女たちの表と裏が、怪しげな混沌の中に描かれる。
女優陣の誰もが熱演だ。
園監督は、本来、芸術性の高い作品で海外でもそれなりの評価を得ているし、ここに集まってきた女優陣は、そろいもそろって全裸シーンをもいとわず、きわどいシーンに挑戦していることで、その極限ともいえる演出にカンヌ国際映画祭でも騒然となったそうだ。
これはもう、女たちの本性むき出しの演技バトルだ。

この園子温監督作品「恋の罪は、見方によっては狂気の映画だ。
逃げ場のない、地獄を描いている。
容赦なくあぶりだされたその地獄に、女たちは、本当は何を求めたかったのか。
狂気が、快楽に変わることもあるのだろうか。
近頃、めずらしくインパクトの強い、香りと毒を盛った作品の登場だ。

園監督は、この映画に役者人生をかけて出演した神楽坂恵とは、互いになくてはならない私的パートナーでもあり、19歳の年齢差を超えて年内にも結婚すると報道されている。
女優と監督と・・・いえば、よくある話だ。
それにしても、17歳で詩人としてデビューし、ジーパンをはいた萩原朔太郎という異名を持つ園子温監督は、そもそもが文学青年だったようだ。
この映画に、詩人の田村隆一「帰途」という詩が挿入されているのだが、これは園監督が少年の頃からあたためてきた詩だそうだ。
園監督は、昔から自分が一番大切にしてきた詩を、いつか自分の映画の中で使おうと考えていて、今回ついにそのとっておきを使ったのだと言っている。
ここには記さないが、この詩が、また実にいい詩なのだ。

とにかく映画祭が好きと見える園監督だが、今年の9月、ヴェネチア国際映画祭で、日本人初の最優秀新人賞(マルチェロ・マストロヤンニ賞)を、染谷将太、二階堂ふみ の二人がW受賞したことは、朗報である。
受賞作品は、園子温監督の「ヒミズ」で、誰も見たことのない脅威と感動の青春映画という触れ込みだ。
日本では、来年1月14日、全国でロードショー公開される。


映画「アンダーグラウンド」―15年ぶりにスクリーンに蘇った奇跡の伝説―

2011-11-16 09:30:00 | 映画


     昔、確かに、ある所に国があった。
     国が・・・。

     映画界の超異端児、エミール・クストリッツア監督の、フランス・ドイツ・ハンガリー合作のファンタジックな群像劇だ。
     祖国ボスニア・ヘルツェコビナ(旧ユーゴスラヴィア)の、50年にわたる悲劇の歴史を、ブラックユーモアとして再構築した。
     国が崩壊してしまった現実を前に、愛と狂気で生き抜いた人々たちの姿を描く。
     祖国、旧ユーゴの苦痛から解放されてゆく、ラストシーンもさることながら、映画史に残る貴重な大作だ。
     DVDは現在入手困難といわれ、この作品が、デジタルリマスター版で見事に蘇ったことは、喜ばしい。
     映像も思っていたより綺麗だし、画質も美術も音楽も、まず申し分のない見応えなので・・・。
     1995年、カンヌ国際映画祭パルム・ドール大賞受賞作





      
物語は、1941年4月6日の日曜日の朝、ユーゴスラヴィアの首都ベオグラード(セルビア)から幕を開く。
ドイツ軍の、最初の空爆が行われた頃、「同志」マルコ(ミキ・マノイロヴィッチ)の大活躍が始まった。
大混乱に乗じて、マルコは、純朴で短気な友人クロ(ラザル・リストヴスキ)を、ロビンフッドさながらの冒険に引き込んでいく・・・。

・・・戦禍を逃れ、“アンダーグラウンド”に潜った人々は、50年後の1991年地上へ出た時、祖国ユーゴスラヴィアが、失われていた真実を知る・・・。

ナチス・ドイツ占領下のセルビアを舞台に、レジデンス(?)として活躍するマルコは、敵の目を欺くため、広い地下空間(アンダーグラウンド)へ避難し、戦争後も、人知れず50年もの間、そこで生活を続けていたのだった。
1944年、ドイツの侵略は終止符を打ち、ベオグラードは廃墟と化した。
ようやく平和な日々が一応は戻るが、政府要職についていたサギ師、武闘派の電気工事技師、美貌の女優3人による恋と裏切りに満ちた半世紀を軸に、地下生活者たちの時空を超えた世界が展開する・・・。

そうして、いろいろなことが起きるが、この映画の最終場面はとくに、印象的である。
広大な地下トンネルを抜け、ドナウ河に出て、かつての避難民たちが‘再開’を果たすのだが、彼らは陽気に酒を飲み、踊る。
そこは、小さな半島が、彼らを苦しめてきた祖国から切り離され、優しい、ゆったりした流れに乗って流されていく、小さな小さな楽園の島だった。
その島は、ドナウ河の流れの中をゆっくりと流れ始める。
そこに、「この物語に終わりはない」という、エンディングを残して・・・。

・・・映画は、1992年の場面で終わるのだが、今はなき国家・ユーゴスラヴィアの先にあるかすかな希望を示唆しているかのようだ。
この映画は、1995年に初めて公開された時、政治的な批判を浴びて、クストリッツア監督はセルビア擁護者だというレッテルを張られたそうだが、セルビアで始まり、ユーゴスラヴィア各地で、セルビア人が主導的な役割を果たしたパルティザン闘争を、ここまで痛烈に皮肉った映画もめずらしい。
かつてのユーゴ王国は、ヒトラーの攻撃を受け、占領下で共産党主導のゲリラ=パルティザン闘争が本格的に始まって、ドイツからの開放が進むとチトーが中心的な指導者となって、ユーゴはソ連との対立をも乗り越え、アメリカの援助を得ながら、一時は経済の高度成長を遂げたこともあったようだ。

1990年初頭、社会主義が大衆の支持を失って、ユーゴは崩壊へと向かっていく。
そして、この年、世界地図からひとつの国が消える。
その過程で、民族同士の凄惨な殺し合いが相次ぎ、経済危機や政治的不安に加えて、指導者の不安心理が、さらなる殺戮の連鎖を拡大していった。
・・・というような、旧ユーゴの崩壊と内戦という複雑な背景を、直ちに日本人が理解するのは困難というものだ。
社会主義という大きな物語が失われた時、国力も乏しく、複雑なユーゴの崩壊は、必然だった(?!)。

映画「アンダーグラウンド」は、そうした時代を背景に50年の軌跡を、現実と非現実の世界を行きつ戻りつしながら描いている。
クストリッツア監督の演出は、それも強烈な風刺で、人々の希望と解放を、哀しくも高らかに謳い上げている!
その奇想天外な着想といい、観る者を圧倒する映像感覚は類を見ない。
まさに、時空を超えた3時間近い映像空間は、超一流といってもいい映画芸術の粋を極めたスペクタクルで、かつてない映像体験ができる。


映画「テ ザ 慟哭の大地」―アフリカ大陸の光と影を描く壮大な叙事詩―

2011-11-13 16:00:00 | 映画


     エチオピアの映画を観ることなど、まずないから、大変貴重な作品だ。
     エチオピアの激動の70年代から20年にわたる、狂乱の歴史を映し出した作品である。
     太陽と水と光、そして流浪するひとりの男の目を通して、記憶と現実のかなたに見えるものは・・・。
     権力の支配と格差に苦しむ人々を描く、壮大なドラマだ。

     世界的にも評価の高い、エチオピア人監督ハイレ・ゲリマによる人間ドラマだ。
     わが母と祖国のために、私は還ってきた・・・。
     「慟哭の大地」・・・、このタイトルが鋭く胸に響く力作だ。





    
1970年代、医者を志し、故国エチオピアを離れ、ドイツに留学していたアンベルブル(アーロン・アレフェ)・・・。
しかし、彼は、外国での人種差別と、皇帝ハイレ・セラシェから軍事独裁政権に取って代わった故国の現実に失望し、荒涼とした故郷の村に帰ってきた。
片方の足を引きずりながら、疲れきった姿で・・・。
村では、母タドフェ(タケレチ・ベイエネ)と、同居するひとりの女性アザヌ(テジュ・テラファウン)が待っていた。
アンベルブルの兄をはじめとする、村人たちの視線は刺すように冷たかった。

・・・希望を抱いて、ドイツに留学していたアンベルブルには、同じ志を持ち夢を語る仲間たちがいた。
恋人のカサンドラ(アラバ・E・ジョンソン=アーサー)親友のテスファエ(アビュユ・テドラ)とその白人の恋人ギャビ(ヴェロニカ・アヴラハム)たち・・・。
カサンドラは、白人社会で黒人が生きる困難さを説いていた。
外国で暮らすエチオピア人の彼らにも、祖国の変化が、少しずつ忍び寄って来ていた。
そして、エチオピアの政変によって、独裁政権に取って代わり、「革命」を叫ぶ仲間たちもいたが、アンベルブルは懐疑的だった。

蘇ってくる幼少期の記憶と、大地の霊、忘れることのできない夢に導かれるように、アンベルブルは過去と現在を行き来する。
独裁と暴力の影は、身近に迫っていた。
紛争から逃れ、洞窟で密かに暮らす子供たちがいた。
それは、軍隊による子供狩りから逃れるためであった。
この国に、未来はあるのだろうか。
その先に見えてくる、希望の光とは・・・。
失望、そして絶望から始まる未来なんてあるのだろうか。

ドラマは、1970年代から1980年代にかけて、過去と現在を交錯させつつ、混乱の社会情勢を背景に、自分の居場所を探し求めるように放浪する主人公を追う。
付きまとう悲劇には救いもなく、それでも絶望より変革を求めようとする理想主義は、実現など困難だ。
信念を持って生きることなど、愚かに思えてくる。
しかし、そこには絶望の淵から必死で這い上がる、崇高な強い意志がある。
片足を失い、安らぎを求めて故郷の村に帰ってきたアンベルブルは、大地の霊のような悪夢にさいなまれながら、さまようのだ。

70年代のケルンで、アンベルブルと変革の志を共有するテスファエは白人女性と結ばれ、彼女は妊娠する。
それを誇らしげに告げる女性を、カサンドラという女性が避難する。
黒人の血を受けた人間が、どれほど差別に苦しんでいるか。
ここで顕在化する差別の問題は、やがてアンベルブルにも及ぶ。
カサンドラはアンベルブルと愛し合い、妊娠するが中絶して姿を消すのだ。

アンベルブルの母にかばわれ、彼女をも支えているアザヌという女性は、自分に子供を産ませた男が別の女と結婚したことに絶望し、子供を投げ殺してしまったために、彼女自身の心をも殺し、同時に、村人たちからは魔女のように憎まれてしまうのだ。
アンベルブルはそんな彼女を愛するようになって、アザヌはやがて彼の子を身籠り、洞窟の中で出産する・・・。

人種差別の話などは全編の一部で、アフリカのみならず、この作品に語られるドラマは、世界中に遍在する危機を象徴するかのようだ。
エチオピアでは、王制を倒してできた軍事政権が、左翼独裁の道を走ったため、知識人たちの自由は圧迫され続けた。
古い因習、支配体制下にある人々は、みんなもみくちゃにされる。
この国の歴史や政治情勢は、なかなか理解しにくい面があるが、この映画を観ていると、ゲリマ監督の母国の現実を吐露しているように見えてくる。
ドラマの展開にはフラッシュバックが多く、ストーリーを読むのに、戸惑いは隠せない。

ハイレ・ゲリマ監督エチオピア映画「テザ 慟哭の大地公式サイト)は、ヴェネチア国際映画祭など世界20以上の映画祭で絶賛され、多くの賞を受賞した作品だ。
エチオピアの現代史というと、今年は内戦の終結からちょうど20年だそうで、政争や内戦の生々しさが、いまだに多く残っていることを、静かに見つめなおす機会を、この作品は提示している。
エチオピア映画初の、劇場公開作品の傑作といえるだろう。
(日本での初公開は6月中旬でしたが、近くではなかなか観る機会がなくて、遅まきながら、今頃になって何とか鑑賞できた次第で・・・。)


映画「1 9 1 1」―‘辛亥革命’から新しい中華民国が生まれて100年―

2011-11-11 20:50:00 | 映画


     今から100年前、西暦1911年、中国で‘辛亥革命’は起きた。
     それは、それまでの清王国が滅びた、中国4000年の歴史の大きな転換点だった。
     これは、その時代に生きた、熱き男たちの物語である。
     革命の主導者・孫文から活動の指揮を託されたのは、黄興であった。
     彼は、様々な困難を乗り越えて、革命を遂行する。

      ジャッキー・チェンが総指揮をとり、チャン・リー監督のこの映画は、偉大な革命家・孫文の片腕として、‘辛亥革命’を支えた男・
     黄興の目線で、清朝を倒し、新しい中国を生んだ歴史的な革命を、圧巻の戦闘シーンを交えて描いている。





    
ラストエンペラーの時代、衰退の一途をたどる清王朝を憂い、新たなる国家建設のために立ち上がったのは、‘中国革命の父’孫文(ウィンストン・チャオ)であった。
日本と縁の深い彼の右腕として、戦地から戦地へと尽力した男、それは革命軍司令官の黄興(ジャッキー・チェン)だった。
この黄興のことは、いまでも日本ではあまり知られていないようだ。

黄興は、総督府(官庁)占拠に失敗し、激しい市街戦で大勢の部下を失った。
悲しみに打ちひしがれた彼は、戦場で知り合った愛する女性・徐宗漢(リー・ビンビン)と、同志たちの勇気ある行動に励まされて、再び立ち上がったのだった。
そして、1911年10月10日、湖南省・武昌区にとどろいた革命の銃声が、時代を大きく動かすことになる。
崩壊直前の祖国と愛する人を救うため、仲間たちと語り合った理想を勝ち取るため、さらに孫文との約束を果たすため、‘辛亥革命’の火ぶたが切って落とされたのだ。
激しい戦いの日々が繰り返される中、次々王朝から省区が独立していき、12年1月1日、孫文は中華民国の臨時大統領に就任する。
その翌月には、268年に及んだ清朝の歴史に幕が下されることになった。

この時代、夢を持つことをは許されなかった。
そんな中で、自由と愛を求めて立ち上がった人々によって、新しい歴史が動き始めたのだった。
革命のために、家族のために、友人のために、そして礎となる国家のために、自らの命を投げ出した若者たちがいた。
決してあきらめることのない信念が、世界をも変える変革をももたらすことになった。
‘辛亥革命’なくして、中国の真の独立はありえなかった。
その革命を導いたのは、孫文であり、黄興であった。

ドラマは、重厚な群像劇のようだ。
清朝軍から革命軍に寝返った黎元洪(ジャン・ウー)らの決起、清朝内で和平派の立場をとった隆裕皇太后(ジョアン・チェン) 、革命軍を鎮圧するために清朝から呼び寄せた軍人政治家・袁世凱(スン・チュン)は、希代の策略家だ。
構想10年、製作費30億円を費やしたといわれる作品だが、圧巻の戦場シーンは、スケールも臨場感も一級品で、見応えも十分だ。
そのあまりにも激しい戦場のシーンは、少々辟易する(!!)ほどだ。

孫文よりも、主役を黄興に置いているあたり、期待外れの感がないでもない。
個人的には、人間孫文をもっと掘り下げて描いてほしかった。
チャン・リー監督ら、「レッドクリフ」のスタッフも参加したことで、激動の時代に翻弄された人々の姿を描いて、壮大なヒューマンドラマとなった。
中国・香港合作のこのスペクタクル大作「1911」(公式サイト)では、ジャッキーが孫文ではなく、あえて黄興役を演じていることに注目だろう。
まあ、従来の中国映画でも、ハリウッド映画でもない、中国発信のニュータイプの大作映画が、こうして生まれてきている。
中国の映画産業も、頼もしいほど、このところ急成長を見せている。 


映画「ゲーテの恋~君に捧ぐ『若きウェルテルの悩み』~」―現代に蘇る傑作恋愛小説―

2011-11-09 17:45:00 | 映画


     ゲーテは、ドイツの詩人、小説家、哲学者、科学者、政治家、法律家という数多くの肩書きを持つ。
     ゲーテは、そんなに多くの才能に恵まれながら、自らも人を愛し、傷つき、成長していった。
     そのゲーテ若かりし頃の、代表作『若きウェルテルの悩み』を執筆するきっかけとなった、自らの恋愛体験を綴った作品だ。

     ドラマには、爽やかな青春の香りが漂っている。
     ここでは、男はピュアで、女の方がしたたかなのである。
     文豪ゲーテの青春を綴って、フィリップ・シュテルツェル監督の、近頃めずらしいドイツ映画だ
     


     
20世紀の男女は、『若きウェルテルの悩み』を誰でも一度は読んだことだろうし、タイトルを知らない人はまずいない。
時代は変わっても、小説には確かな青春の残影があるし、そこに歓びも悲しみもある。
天才ゲーテの恋愛秘話が、自分の体験をもとに、おおよそ事実にもとづいて書かれた。
1774年に刊行された時、若きシャルロッテへのかなわぬ想いを綴ったこの書簡体小説は、ヨーロッパの大ベストセラーとなった。
この作品を読んで、自殺する若者が一時急増したという、嘘のような本当のような話もある。
そんな社会現象を起こす中で、かの有名なナポレオンが、戦場まで持って行ったという逸話まである傑作だ。

23歳になったばかりのゲーテ(アレクサンダー・フェーリング)は、作家になることを夢見ていた。
しかし、才能は認められず、父親に命じられて、田舎町の裁判所で実習生として働くことになる。
ある日、ゲーテは友人と出かけ、舞踏会で酔った若い女性とぶつかり、服にワインをかけられる。
ゲーテは、何てがさつな女だと思ったが、礼拝堂のミサで歌う、別人のように気高く美しい彼女を見て、たちまち心を奪われる。
その女性こそ、シャルロッテ(ミリアム・シュタイン)だった。
のちに分かるが、シャルロッテはゲーテの文才の最初の発見者となる。

・・・だが、シャルロッテには、父親の決めた結婚話が進んでいた。
大家族を養うために、裕福な相手ケストナー(モーリッツ・ブライトロイ)との婚約を承諾しなければならなかった。
事実を知り、打ちのめされるゲーテ・・・。
さらに、人妻に恋してしまった友人のイェルーザレム(フォルカー・ブルッヒ)の拳銃自殺が、ゲーテを追い詰めるのだった。
だが、絶望の果てにゲーテが握ったのは、拳銃ではなく、ペンであった。
ゲーテは、一心不乱に書き始めた。
それは、ウェルテルと名付けた、自らの分身とシャルロッテとの、胸を締めつけるような恋の物語だった・・・。

・・・あの人が私を愛してから、自分が自分にとって、どれほどの価値のあるものになったことだろう。(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)・・・

一度は絶望したゲーテに、再び生きる希望を与え、才能を花開かせたもの何だろうか。
ドイツ映画「ゲーテの恋~君に捧ぐ『若きウェルテルの悩み』~」(公式サイト)は、熱く魂に触れるようなゲーテの詩句と、流麗な音楽と映像に乗せ、そこはかとない切なさをにじませるラブストーリーだ。
終盤近く、恋人と婚約者が同席することになる夕食会で、居心地の悪そうなシャルロッテの心の痛みはよく伝わってくるし、ケストナーはそもそもゲーテから求愛のハウツーを教えられていたあたり、間合いの悪さといい、おかしみと切なさのこもった演出が笑わせるシーンもあるのだが・・・。

原作はゲーテの青春そのものであり、映画もそれを忠実に追っている。
甘やかな悲しみとともに、どこか頼りなげなところなど、現代から見れば、何とももどかしい恋の顛末だが、当時は男女が同じ部屋に一緒にいるだけで、スキャンダルとみられる時代であった。
しかし詩人ゲーテは、失われたわが恋を乗り越えて、25歳の時に発表したこの『若きウェルテルの悩み』の成功で、一躍有名作家となった。
その後も、幾たびか愛の遍歴を繰り返すが、長く生きて、晩年に不朽の名作『ファウスト』(1831年)を、着手以来58年にして完成させ、82歳で永眠した・・・。

小説はクラシカルでも、文学作品としても、青春小説としても傑作の誉れが高いものだ。
映画の方はどうかというと、全編とくに波乱(?)らしき波乱もなく、やや単調すぎて、どうも拍子抜けの物足りなさが残る。
詩人ゲーテの苦悩や悲しみが、もっともっと強く描かれてもよかったのではないか。
鋭い突っ込みもないし、上滑りの感は免れない。
ところどころの見せ場に、演出に多少工夫はあるが、浅すぎて不満だ。
それでも、ロケーションの、絵画のように美しい映像の素晴らしさは、特筆ものである。


映画「未来を生きる君たちへ」―憎しみを越えたその先へ―

2011-11-08 12:00:00 | 映画


     全く異なる二つの世界を舞台にして、二つの物語が同時に語られる。
     そこには、何ら変わりない人間の本質が映し出される。

     いま世界でも注目されている、デンマーク出身のスサンネ・ビア監督の秀作だ。
      アカデミー賞ゴールデン・グローブ賞の、最優秀外国語映画賞受賞した。
     予期せぬ事態に直面した、登場人物たちの感情、葛藤をリアルに描いている。
     







   
デンマークに家を持つ、スウェーデンの医師アントン(ミカエル・パーシュブラント)は、アフリカの地に赴任し、キャンプに避難している人々の治療にあたっていた。
そんな父親のアントンだけが、心の支えだった息子のエリアス(マークス・リーゴード)は、学校で執拗ないじめに遭っていた。
ある日、エリアスのクラスに、転校生のクリスチャン(ヴィリアム・ユンク・ニールセン)がやって来る。
そのクリスチャンによる、いじめっ子への復讐で救われたエリアスは、彼との距離を急速に縮める。

アントンはといえば、自身の離婚問題や、毎日のように搬送される瀕死の重傷患者に苦悩していた。
そんな時、“ビッグマン”と呼ばれる男が大怪我を負って、キャンプに現れる。
彼こそが、子供や妊婦までも切り裂くモンスターだった。
そんな世界と、確執を抱えた家庭との間を行き来する医師アントンであったが・・・。

ビア監督は、登場人物が直面する様々な問題と、世界で生じるグローバルな問題とを浮き彫りにし、それぞれの赦しと復讐、善と悪の狭間で揺れ動く様を、緊張感をもって描く。
原題には「復讐」という意味があり、それは、しかしやがて鮮やかな赦しへと反転していく。
憎しみを越え、その先に見えてくるのは、どんな世界か。

このデンマーク・スウェーデン合作映画「未来を生きる君たちへ(公式サイト)は、親子と夫婦それぞれの溝が負のスパイラルを生み出していく。
クリスチャンは父親と対峙するのではなく、エリアスを殴った男に怒りを覚える。
マリアン(トリーネ・ディアホルム)が、夫アントンの不貞を赦していれば、状況は変わっていたかもしれない。
しかも、彼女は、息子のエリアスを危険な目に遭わせたクリスチャンに、激しく詰め寄る。

かつて妻を裏切ったアントンも、決してゆるぎない信念を持って行動しているわけではない。
アフリカの避難キャンプで、自分を見失ってしまう弱さも持っている。
だからこそ、アントンはクリスチャンの心情を理解し、その命を救うことができた。
登場人物たちは、赦しと復讐、善と悪、生と死、愛と憎しみ、これらの境界ぎりぎりの線上で、揺れ動いている。
誰もが、懸命に生き、そして苦悩している。

スサンネ・ビア監督は、社会的な問題を取り上げながら、それをあくまでも家族の物語として描き切った。
大人の世界と子供の世界は対等に描かれ、子供の心の内面を掘り下げていく。
エリアスとクリスチャンは、母親の庇護から離れ、精神的に自立していく時期に、身近であるはずの父親との間にわだかまりがあり、自分の声が父親には届いていない。
しかし、そうしたわだかまりも、最期には消えて、クリスチャン父子ははじめて抱擁を交わすのだ。

映画は、難民キャンプに運び込まれた妊婦と、クリスチャンの母親の葬儀という二つの死から幕が上がり、アントンらを乗せた車を追うアフリカの子供たちの映像で終わる。
これから新しい世界を切り開いていくかのように、彼らの笑顔が、未来を見出そうとしていることを暗示する。
90年代に映画界に登場したビア監督は、デンマークとスウェーデンの両方で活躍しているが、女性としてのその研ぎ澄まされた繊細な監視眼は、いつも人間の‘絆’を描きながら、人間の本質に迫ろうとする姿勢を貫いている。


映画「三銃士 / 王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船」―痛快!空中バトルアクションの面白さ―

2011-11-04 21:45:00 | 映画


     アレクサンドル・デュマの名作が、今世紀の壮大なアクション・ドラマとなって生まれ変わった。
     奇才といわれる、ポール・W・S・アンダーソン監督の、ドイツ映画だ。
     3Dカメラを8台も使って、新しい視点からの「三銃士」として、空中アクション・バトルの面白さを満喫させてくれる。

     友情と笑いとロマンスをたっぷり詰め込んで、物語はダイナミックな展開を見せる。
     息をのむアクションは、何もかもが常識破りだ。
     撮影は主にドイツで行われ、世界遺産での撮影も見ものだ。
     このヨーロッパ製の大型娯楽映画、ハリウッド製でないのはよかったが・・・。






 
主人公は、無鉄砲で気が強い田舎者の青年ダルタニアン(ローガン・ラーマン)だ。
17世紀フランス、若くてまだ無知な、ルイ13世が王位を継承した時代である。
みすぼらしい馬に乗って、パリにやって来たダルタニアンは、偶然にも、フランス最強の'三銃士’である、アトス(マシュー・マクファティン)ポルトス(レイ・スティーヴンソンアラミス(ルーク・エヴァンス)に出合った。
成り行きから、40人の相手を打ち負かしたダルタニアンと三銃士の4人は、若きフランスの王、ルイ13世の宮殿に呼ばれることになった。

ちょうどその時、宮殿では、ヨーロッパの覇権を争う、大きな野望と陰謀が渦巻いていた。
リシュリュー枢機卿(クリストフ・ヴァルツ)の企みによって、アンヌ王妃(ジュノー・テンプル)が所有するダイヤのネックレスが盗まれたとき、王妃の侍女コンスタンス(ガブリエラ・ワイルド)は、ダルタニアンに助けを求めた。
ネックレスが5日以内に戻ってこないと、アンヌ王妃は、とんでもない罠にはめられてしまうのだ。
コンスタンスに恋心を寄せるダルタニアンは、ネックレスを取り戻すために、イギリスに渡ろうと即座に決意する。

その陰謀は、やがては、全ヨーロッパをも巻き込む戦争へ発展すると読んだ三銃士も、彼に同行することになった。
一行を待ち受けるのは、イギリスのバッキンガム侯爵(オーランド・ブルーム)と、欲望のままに動く、二重スパイの悪女ミレディ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)であった。
この強力な敵に、ダルタニアンと三銃士は力を合わせ、知恵と剣、勇気と友情を持って、立ち向かっていく。
そして・・・、すさまじい最終決戦は、何と空へと移っていくのだった。

王妃のネックレス盗難事件が、大きな戦争を引き起こすなど突拍子もない展開だが、三階建ての巨大な飛行船の激突と砲撃合戦が、これまた凄い。
三銃士たちの華麗な剣さばきはもちろんだが、前代未聞のこの空中戦は、ドラマのクライマックスのために用意されたようなものだ。
観ていて、「パイレーツ・オブ・カリビアン」に似ていると思った。
オーランド・ブルームが初の悪役で、ジャック・スパロウに通じるキャラクターで、新しい味を発揮している。
新星ローガン・ラーマンは、瑞々しいダルタニアンを演じる18歳が、若さにあふれている。
欲望のおもむくままに、次々と寝返るミレディを演じるミラ・ジョヴォヴィッチは、この作品ではミステリアスな存在だ。
アンダーソン監督の、私生活のパートナーでもある彼女は、コルセットをつけて、派手なドレスで暴れまわるシーンがるが、面白いアイディアだ。
すべて、彼女自身の発想だそうだ。

王妃の浮気を疑っているはずの、嫉妬深いルイ13世が王妃に夢中になっていたり、飛行船戦争など、ドラマの展開には無理筋もあるけれど、おおむね原作には忠実なほうだ。
エンディングでも、次回作も作るようなことを示唆している。
三銃士というよりは、四銃士といったほうがいいかも知れない。
ポール・W・S・アンダーソン監督によるこのドイツ映画「三銃士」は、おそらくこれまで誰も観たことのない「三銃士」だろう。
フランス発祥のパルクールをはじめ、ロッククライミング、パンジージャンプやアクロバティックなアクションをふんだんに取り入れ、歴史的に欠かせないスピード感あふれる剣劇が、スクリーンいっぱいに繰り広げられる。

「三銃士」は、19世紀を代表するフランスの作家デュマの古典をいじくって、ファンタジックな冒険劇に仕上げた。
これまでも、幾度となく映像化されてきた古典だ。
今回の映画版は、悪女を英仏を股にかける二重スパイに設定したり、17世紀にはまだ存在しなかった三階建ての飛行船を登場させたりと、かなり自由な発想で、遊び放題の演出だ。
「三銃士」と映画の相性は、誰もが知るところだ。
これまで、折々の時代の人気キャストで映画化され続けてきたことは、日本で言えば「忠臣蔵」みたいだ。
ま、ちょっと無茶苦茶な(!?)、ヨーロッパ発のアドベンチャー映画だが、壮快感と洒落っ気たっぷりの娯楽大作である。