徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「懺 悔」―自由と人権、粛清の悲劇―

2009-03-30 21:00:00 | 映画

・・・私は見た。なすすべもなく・・・。
罪のない人間はいない。

旧ソビエト連邦の厳格な検閲のもとで、グルジア共和国で製作されたこの映画は、1984年に完成していた。
「懺悔(ざんげ)」は、二十余年間の沈黙を経て、日本公開に至った幻の名画だ。
そして、それはペレストロイカ(改革)の象徴となった、伝説的な映画でもある。
カンヌ国際映画祭では、審査員特別大賞に輝いた、テンギズ・アブラゼ監督の秀作だ。

物語は、架空の地方都市で、ひとりの女ケテヴァン(ゼイナブ・ボツヴァゼ)が、教会をかたどったケーキを並べるシーンから始まる。
傍らにいた客の男が、新聞を広げて、「偉大な男が死んだ」と叫ぶ。
「偉大な男」とは、その街で、長らく市長として権力を振るっていた男ヴァルラム(アフタンディル・マハラゼだ。

ケテヴァンにとって、かつて両親を粛清した上に殺害し、彼女の人生を大きく狂わせた張本人であった。
そして、ケテヴァンの長い回想をとおして、ヴァルラムへの告発と、独裁政権下の粛清によって、彼女の家族や市民がたどった苦難の道のりが明らかになり、ときに幻想的に、力強く描かれてゆく・・・。

粛清の日々は、絶え間なく続く。
かつて、活気に満ち溢れていた街は、刺々しい冷気に覆われ、静まり返っている。
人が人を監視し、笑い声も子供たちの遊ぶ声ももはや聞こえない。
生気が消えた、灰色の街であった。

市長ヴァルラムの遺体が、何度も墓から掘り出され、その邸宅の庭に置かれるというセンセーショナルな事件が起きる。
逮捕された犯人は、ケテヴァンであった。

裁判で、彼女は毅然とした態度で法廷に立つ。
市長就任式の日、その大騒ぎをよそに、市庁前の広場に面した二階の窓から、シャボン玉を飛ばす8歳の少女ケテヴァンの姿があった。
そこに寄り添う母ニノ(ケテヴァン・アブラゼ、窓を閉め喧騒をさえぎる父の芸術家サンドロ・バラテリ(エディシェル・ギオルゴビアニ、これを見とがめ窓を見つめる市長ヴァルラム・・・。
すべては、そこから始まる。
独裁者であったヴァルラムと、その時代の抑圧と恐怖の実相、ケテヴァンの両親も犠牲となった粛清の悲劇が明るみに出されていくのだ・・・。

・・・最後のシーンは、再び冒頭の場面に戻る。
ケテヴァンに、老女が道を尋ねている。
 「この道は教会堂に通じていますか」
 「いいえ、これはヴァルラム通りです。教会に通じるのはこの道ではありません」
 「教会に通じない道が、何の役に立つのですか」
老女は、そう言い残し、再び旅を続けるのだった・・・。

この作品には、歴史の真実の発見がある。
それは、犯罪の激しい告発だ。
そのことこそが、ペレストロイカの時代を象徴するものとなった。

独裁下の不合理、不条理をありえないような幻想として炙りだしていく。
しかも、教会堂爆破にいたる顛末、逮捕、抑圧と恐怖、粛清裁判での荒唐無稽な偽りの告白などは、歴史的な事実を揺さぶり起こす映像の表現として使われている。
収容所から輸送されてきた大量の丸太に、粛清犠牲者の刻んだあかしを求めて、妻や子がさまようシーンがあるが、何という鮮烈な悲劇の映像だろう。

テンギズ・アブラゼ監督のグルジア映画「懺悔は、独裁者の普遍的な存在を描き、そこには自由と人権のメッセージが強く投げられていて、黙示録的な作品となっている。
世界を大きく揺るがした時代の、極めて重要な作品と位置づけられるこの映画は、不運な事情によって、長らく日本での上映がかなわなかったが、奇しくも東欧の民主化から二十年以上も経ったいま、遅ればせながら、その全貌をあらわしたといっても言い過ぎではない。
鮮烈にして、重厚な力作だ。
神ならぬ、人間の人間に対する粛清は、いつの日かこの地上からなくなる日は来ないのであろうか。


映画「いとしい人」―いい大人の女の崖っぷち―

2009-03-28 22:00:00 | 映画
オスカー女優のヘレン・ハントが、監督・脚本・製作・主演という、アメリカ映画だ。
‘しあわせ’を探し求める、39歳の小学校教師が、自分の‘いとしい人’を見つけるまでの物語である。
ハートウォーミングなラブストーリーというか、ほのぼのと心温まるような、ちょっぴり知的で、ちょっぴり繊細なコメディタッチの作品だ。
・・・女の‘しあわせ’って、一体何だろうか。

小学校教師のエイプリル(ヘレン・ハント)は、年下の同僚ベン(マシュー・ブロデリックと結婚して10ヶ月になるが、一刻も早い懐妊を望んでいた。
ある日突然、彼女はベンから別れを告げられる。
その翌日には、養母が他界する。
さらには、騒々しいテレビタレントのバーニス(ベット・ミドラー)が、実母だと名乗り出て、“スティーブ・マックイーン”がエイプリルの父だと言うのだ。

ここで唯一の救いは、生徒の父親で妻に逃げられた作家、フランク(コリン・ファースの存在だ。
フランクはエイプリルに急接近するのだが、その矢先に、彼女がベンの子供を妊娠していることが判明する。

しかし、エイプリルの宿した子供は不幸にも流産してしまった。
彼女の恋の行方は、一時はふたまたかける危ない綱渡りだ。
エイプリルは、本当の女のしあわせをつかむために、決断をする・・・。

とにかく、こうと決めたら融通のきかない、頑固者のエイプリルの人生は、期待していた幸せな結婚生活が破綻し、妊娠もできず、いわば飛び降りてはすっ転びの連続だった。
人生の様々な皮肉に翻弄され、39歳という女の崖っぷちにいるわけだ。

家族のゴタゴタなども描かれているが、前夫との破綻の理由など、よく解らない。
その夫と、もう一度やりなおしたいような、そうでもないような、煮えきらない戸惑いを抱きつつ、二人の幼い子供を育てているフランクとも添いとげたいという恋心・・・。
どうも、そのあたりふわふわとした軽い描き方で、世の中そんなものかなというような設定なのだ。
女心の、微妙な不可思議さというか・・・。
まあ、そんなところが、見方を変えれば、ほんわかとしたアンサンブルなのかも知れない。

ヘレン・ハント監督は、このアメリカ映画「いとしい人に女性たちの温かな眼差しをこめて、笑いのセンスも散りばめながら、春の風のような小品を紡ぎ上げたのだろう。
物語に、これといった強いインパクトもない。
病院で、エイプリルが元カレと新しいカレとが立ち会うベッドで、自分のお腹に宿った胎児のエコー写真の影像を見せるシーンがあったりして、現実には信じられないおかしさだが・・・。
ほどほどのテンポ、ウィットの富んだセリフはいただけるとしても、構想10年のアメリカ映画にして、味付けはこんなものかと少々落胆をかくせなかった。

映画「ワルキューレ」―独裁者への決死の反逆―

2009-03-26 19:00:00 | 映画

ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーは、国内のクーデターに備えた危機管理オペレーションを、<ワルキューレ作戦>と名づけていたそうだ。
かつて、ヒトラー支配下のドイツに、国家のために戦う決意をした軍人や政治家たちがいた。
独裁者ヒトラーの暗殺計画は、ドイツ国内で数十回も企てられたとされる。
そのヒトラー暗殺の全貌を描く、ブライアン・シンガー監督アメリカ製レジスタンス映画である。

祖国か、生命か・・・。
世界に悪夢をもたらした独裁者、アドルフ・ヒトラーを葬り去る危険な計画は、当然のことだが、僅かなミスさえも許されない大きな賭けであった。

シュタウフェンベルク大佐(トム・クルーズ)は、世界の秩序を取り戻すために、過去40回もの失敗が繰り返された、ヒトラー暗殺作戦の指揮を執ることになる。
自らの信念を貫き、世界を変えようとする男、陰謀を企む男、その行方を見守る家族・・・。

連合軍との死闘によって、ドイツの敗色が濃くなった、第二次世界大戦末期のことである。
この時代、絶対の忠誠を誓うべき、ヒトラーの思想や政策に強い疑念を抱いたシュタウフェンベルクは、祖国の未来を憂えて反逆者となることを決意するのだ。

彼の計画は、ただ単にヒトラーの抹殺だけでなく、その混乱に乗じて、一気にナチス政権の転覆までをも成し遂げようとするものであった。
それは、冷酷非情な独裁者を、この世から葬り去るという、大胆極まりないものだったのだ。
出演は、トム・クルーズのほか、ケネス・ブラナー、ビル・ナイ、トム・ウィルキンソンら、豪華なメンバーだ。

全編、息つく暇もないほどの緊迫したドラマの展開だが、このドラマのように、小さな爆弾を用意しただけで、ヒトラーの暗殺計画が実行されたのだろうか。
どうも、合点がいかない。
<ワルキューレ作戦>における、レジスタンス側の登場人物、ヒトラー側の登場人物も多彩で、良心に従い世界を変えようと努力する者、作戦を阻止しようとする者、陰謀を企む者、それぞれの複雑なな想いが交錯する。

作戦の計画から、指令、実行にいたるまでの道筋は、実はもっともっと困難なものではなかったのではないか。
世界の独裁者をターゲットにしている作品としては、暗殺計画の中身がこころもとない。
シュタウフェンベルクの、切羽詰った緊迫した危機感が十分に伝わってこない。
計画が実行されたあとで、ヒトラーの死は何故確認されないのか。そのシーンもない。
アメリカ映画だから、ヒトラーが英語をしゃべるのは仕方ないにしても、全体にサスペンスは希薄だ。

・・・自ら暗殺の実行者となったシュタウフェンベルクは、最愛の妻ニーナ(カリス・ファン・ハウテンと子供たちを残し、運命の1944年7月20日を迎える。
爆弾の作動から脱出までを、わずか10分で遂行しなければならない。
ヒトラーの暗殺は成功するのか。
そして、歴史を揺るがすとまで言われた<ワルキューレ作戦>は、いかにして発動されるのか・・・。

歴史劇でもあり、娯楽サスペンスの作りでもあるが、実際には、ヒトラーはこの作戦から9ヵ月後のベルリン陥落時に自殺を遂げている。
ブライアン・シンガー監督アメリカ映画「ワルキューレは、実在の歴史上の人物が大勢登場してスクリーンをにぎわしており、、歴史の暗部に追いやられたドイツのレジスタンス運動の一端は伝わってくる。
勝手だが、この映画、アメリカ人のアメリカ映画ではなく、ドイツ人のドイツ映画であったらとの思いを強くした。


WBC日本対韓国 決勝戦 優勝!―世紀の一戦―

2009-03-24 21:00:00 | 寸評

日本対韓国の決勝戦は、延長戦の末5対3で日本が優勝を飾った。
サムライ・ジャパンがやってくれました。
韓国に同点に追いつかれて、はらはらするゲーム展開だった。
苦悩する天才選手、イチローの神がかりとも思える打球がもたらした、完璧な勝利だった。
日本の歓声、韓国の悲鳴、狂喜乱舞するスタンド・・・。
最後の最後に、勝利の女神は微笑んだ。
日本の野球ファンは、誰もがその感動に酔いしれた一日だった。
  
名実ともにサムライ・ジャパンの世界一はうれしいかぎりだが、このWBCとやらは、変てこなルールがあって、これが野球なのかと思いたくなることもあった。
それは、野球の本質を疑いたくなるようなルールだからだ。
例えば、日本と韓国が、今回のように5回も試合をしなくてはならないことだ。
アメリカは、日本やキューバ、韓国といった強豪国と準決勝まで当たらないという、自分の国有利の組み合わせだ。
さらに、国際大会なのに、メジャーから派遣されたアメリカの審判が、常に球審と二塁塁審を務める。
準決勝の日本-アメリカ戦も、球審はアメリカ人だ。
第一回のときだったか、日本-アメリカ戦で、アメリカのデービッド球審が「世紀の誤審」をしたことは、まだ記憶に新しい。
審判は、自分の国のジャッジをしないというのが、国際大会のイロハなのではないか。

投手の球数制限について、一次ラウンドで70級、二次ラウンドで85球、準決勝と決勝では100級までと決まっていて、50球以上投げたら、次の登板まで中4日空けなければいけないのだそうだ。
球数って、投げれば投げるほど、グングン調子を上げていくタイプの選手だっているわけだし、民族によっても身体機能や特徴は異なるのではないか。
選手の起用は、監督が決めるのがスジというものだ。
WBCというのは、本来の「野球」と異なる競技というわけか。


日本が連覇を果たした、WBCのこの盛り上がりには素直に喝采を送りたい。
この大会連覇による経済波及効果は、何と550億円と言われるから、驚きである。
このサムライ・ジャパン効果で、不況にあえぐ日本をいくらかでも元気づけてくれることだろう・・・。

それにしても、韓国との5回戦はいかにも多すぎる!
同一カードの多くなった大会形式には、問題もあるのではないか。
観戦する方も、あきてくるだろう。今回も、いささか食傷気味だった。
五輪競技としての野球は、昨年の北京で取りやめになった。
五輪がないなら、WBCって、もっと‘完全な’形にする必要があるのでは・・・。

・・・アメリカの大都市のレストランでの、若者同士の会話だ。
 「ねえ、WBCって何なのよ?」
 「ワーナーブラザースのことじゃねえのか」
 「何だ、そうなの。映画のことだったの」
 「知らなかったのかよ」
 「・・・!」
先日のテレビニュースが伝えていた。
とぼけた(?)話だが、それだけ覚めていて、WBCにはアメリカ人の関心が低いということだ。
ともあれ、日本では街中が沸きかえり、あちらこちらでお祭り騒ぎだ。
2013年には、第三回WBCが開催されるようだ。
国際的にもフェアなお祭りは、大いに結構なことで・・・。
4年後は、アジアで勝手にやってくれと言うようなことにならなければよいが・・・。
もし、アジアだけの野球なら、こんなものいらないという声が聞かれるのも、事実だからだ。


映画「ポチの告白」―警察犯罪の恐怖―

2009-03-22 22:00:00 | 映画

この国は、イヌだらけだ。
日本映画の大作である。文句なしの面白さだ。
良心に従う警官の、悪徳への漂流・・・、無常観に満ちた演技が冴える。
高橋玄監督の作品だ。製作、脚本、編集までこの人だ。
警察犯罪というタブーに、果敢に挑戦した、重厚な社会派エンターテインメントドラマだ。

日本で多発する、警察犯罪の数々の実例をもとに、良識ある巡査が警察の犯罪機構に巻き込まれながら、悪徳に染まり、やがて自滅するまでを描いた、3時間15分の大作だ。
警察ジャーナリスト、寺澤有の資料と原案協力を得て、実際に起きた警察犯罪事件に正面から切り込むストーリーだ。
それは、警察犯罪を報道できない、日本の記者クラブのあり方をも照射しながら、同時に、日本の警察、検察、裁判所、報道の癒着による、国家ぐるみの犯罪が現実に存在するという、警察支配社会の恐怖を描いている・・・。

交番勤務の巡査・竹田八生(菅田俊)は、タケハチと呼ばれ、市民と上司に信頼されている、実直な警察官だった。
タケハチは、妻・千代子(井上晴美)との間に、待望の娘も生まれ、幸せに満たされた生活を送っていた。
しかし、刑事課長・三枝(出光元)に認められ、刑事に昇任したタケハチは、実直のゆえに三枝の不透明な命令に盲従し、後輩刑事の山崎(野村宏伸)とともに、やがて、気がつかないうちに、警察犯罪の主犯となっていく。

5年が過ぎた日、タケハチは組織犯罪対策課長に昇任し、三枝に代わって、暴力団と共犯で巨額の裏ガネ作りに暗躍していた。
その矢先、タケハチの所轄で、警視庁の現職刑事が殺害されるという事件が起きる。
殺された刑事は、三枝が指揮したかつての麻薬事件の黒幕であった。
同じ頃、5年前にタケハチらに痛い目に遭わされた草間(川本淳市)が、フリージャーナリストとして舞い戻る。
草間は、新聞記者の三枝とタケハチたちの警察犯罪を掴み、インターネットでゲリラ的な報道を開始するのだった。

・・・ここに、組織的な警察犯罪が、大きく社会問題化する。
山崎は検察、裁判所と共謀し、タケハチをすべての首謀者にデッチ上げ、彼の人生を抹殺していくのだ。
裁判所に被告として立ったタケハチは、果たしてその全貌を告発できるのだろうか。
冷たい鉄格子の向こうから、タケハチの叫びが、いつまでも空しく響いてくる・・・。
この物語のすべては、彼のうめくような叫びに凝縮されている。
衝撃的なラストである。

国家警察といえども、暴力団と変わりない姿に驚かされる。
恫喝あり、暴行あり、捏造あり、何でもありのやりたい放題だ。
恐怖の実体を、ここまで見せつけるとは・・・!
映画完成からすでに三年、封印されていた衝撃の真実が明らかにされるのを観ていると、カネのためには事件まで捏造する、‘日本警察機構’の巨大な組織の信じがたい事実を見せつけられて慄然とする。

よくここまで描ききったものだ。
3時間15分に耐えられるかと思ったが、導入部分はゆるやかだが、後半たたみこむような演出の冴えは、時間の長さなど忘れさせてしまった。
警察官らの不正や汚職を曝したテーマだけに、一般公開まで長い時間がかかったようだ。
この映画の配給元は、あの「靖国 YASUKUNI」を配給したアルゴ・ピクチャーズというところで、内容も現実の資料をもとに構成されただけに、リアリティが強く迫ってくる。
上映館も、さぞかし腰が引けて、この作品を取り上げることに大きな躊躇があったに違いない。
主演の、菅田俊の強烈ないぶし銀の演技がひときわ光る。
また、徹底した反警察ジャーナリズムで知られる、作家・宮崎学が、警察犯罪を隠蔽する裁判長役でも出演している。
この作品、映画賞を受賞しても、おかしくはない。
高橋玄監督作品「ポチの告白」は、現職の警察官、裁判官はもちろん、日本人に観てほしい社会派映画の傑作だ。


憂うべき失望の日々―一日も早く民意を問え―

2009-03-20 22:00:00 | 雑感

テレビ放送で、麻生総理が、下がりっぱなしの内閣支持率について、あまり気にしていないと述べていた。
もともと、民意など無視して、何かと言えば、景気対策だとか言って平然と居座り続けている。
国民にとっての優先順位の第一は、景気対策だといって憚らない。
だから、当然解散どころではない。
この調子だと、任期満了までなんていうことにもなりそうだ。

世界中が経済出動を言っている時代だから、きちんと対応していかなくてはならないと繰り返し述べている。
これは、怖くて選挙もできない、非力な政権の呆れた居直りとしか見えない。
亡国の政治などという言葉すら、ささやかれ始めているのだ。
世の中に、不平、不満が充満しつつある。

国民の信任を得ないまま、麻生政権の迷走続きで、政党政治への不信、閉塞感がかつてないほどに高まっている。
麻生総理は、そのことを十分ご存知だろうか。
そこに、経済恐慌が襲いかかってきている。

英雄待望論、強権政治待望論が生まれる。
そういうときに、ファシズムにつながりかねない、暴力的な動きが出てくるものだ。
歴史は繰り返すというではないか。
誰もが、いま政党政治の危機を嘆いている。
物騒な世の中になってきたから、何が起きても不思議ではない。

民主党の小沢代表は、政権交代のために献金を集めたと言われている。
日本の政治には、カネがかかる。
それを賄うには、政治資金をもらわないとやっていけない。
(共産党は政治資金などもらっていないのだが)
この言葉に嘘はないだろう。
同じことをやっている政治家は、与党だって大勢いるのに、小沢代表だけがどうして検察の捜査を受けているのか。
どうも釈然としない。
多くの人が、不快な恐怖を感じている。

小沢代表秘書の逮捕は、前代未聞のできごとで、どう見てもかなりの無理がある。
国家権力の持つ、底知れぬ何かを感じざるを得ない。
異例ずくめのことではないだろうか。
そして、この逮捕劇をめぐって、総選挙が迫っている日本の政治情勢を一変させてしまった。

民主党はガタガタとなり、国民だって検察の捜査に不信が強まった。
では、6000万円もの「裏ガネ」疑惑が浮上している、二階大臣の捜査はどうなっているのか。
小沢代表側の話は「表ガネ」で、二階大臣の方が「裏ガネ」なら、悪質なのはどっちか誰が見ても明らかだ。
それなのに、どうも、二階大臣側の捜査はなされていない(?)ような雰囲気だから、これもおかしい。
お咎めありというなら、双方の立件をすべきで、そうでないと公正、公平とは言えない。

小沢代表は、とことん検察とやり合う姿勢を崩していないように見える。
野党側が逮捕され、与党側が無罪放免では納得できない。
いまはまだしも、いずれテロや暗殺が横行するような、いやな社会になることが怖い。

そんなときに、何故か一時死んだふりをしているように見えた麻生総理が、どうやら元気を取り戻しているらしいのだ。
え~っ!どうして?
何か、ラッキーなことでもあるというのだろうか。
誰も鈴をつける人がいなくなって、麻生降ろしもなく、ボンボンは桜の花の開花を待って勢いづいてはいませんか。

でも、一国の首相が、消費者行政の‘みかじめ’やりますなんて、平気で暴力団用語を公言するなどもゆゆしいことだ。
字が読めない、書けない。
言葉の正しい使い方も・・・。
漢字能力はおろか、言語能力まで問われる。
いや、そんなことより、一日も早く総選挙を行って、日本の政治を正常な状態に戻していただきたい。


映画「ジェネラル・ルージュの凱旋」―人気マンガのような―

2009-03-18 12:00:00 | 映画
救命救急医療の現場と、そこにある深い闇(?)を描いたドラマだ。
映画なのに、テレビドラマを見ているような感じがした。
医療の実際の現場を見たことはないが、この作品でも、リアルな描写も手伝って、そこはまさに戦場だ。
そのことは容易に理解できる。
ただ、期待となるとどうか。

『チーム・バチスタ』シリーズ映画化の最新版だそうだ。
海堂尊原作による、中村義洋監督作品だ。
この作品、どうも人気先行の感が強いようだ。

東城大学医学部付属病院の窓際医師、田口公子(竹内結子)は、院内における諸問題を扱う倫理委員会の委員長にはからずも任命される。
その彼女のもとに、一通の告発文が届く。
その内容は、「救命救急のセンター長の速水晃一(堺雅人)は、医療メーカーと癒着していて、看護師長は共犯だ」という衝撃的なものだった。

ところが、告発された医療メーカーの支店長が、院内で自殺(?)するという事件が起きる。
田口は、院長(國村隼)から、病院内を密かに探るよう指示を受ける。
そこに、骨折をした厚生労働省の切れ者役人、白鳥(阿部寛)が運び込まれ、二人は嬉しくもない‘再会’をする・・・。
しかも、白鳥のもとにも、同じような告発文書が届いていたのだった。

こうして二人は、救命救急医療の深いヤミを探り始めることとなった。
速水センター長は“ジェネラル・ルージュ(血まみれ将軍)”の異名を持つ男だ。
なかなかの切れ者だが、冷徹で、非情な面を持っている。
それに、何かとよからぬ噂も多い。
彼の主張するドクターヘリの導入についても、それが何かしら彼の利益誘導になるからだと陰口をたたく者もいる。
 「支店長は自殺なんかではない。殺人だ。そして、速水は告発どおり収賄をしている!」
そう口走る白鳥の言葉に、田口は首を捻る・・・。

エンターテイメント性の高さ、昨今社会問題化する救急医療の問題を、リアルにスリリングに大きなスケールで描く。
完成度の高い、現代医療の最前線をスクリーンに見るのは、見応えもある。
そこから聞こえてくる悲痛なメッセージは、いくつかの深いテーマと綾をなしている。
迫力もある。見どころも満載(?)だ。

でも・・・。
人気度の高い、中村義洋監督ジェネラル・ルージュの凱旋に水をさすつもりはないけれど、はやりのテレビドラマを見ているようで、それはまた、よく売れている大衆マンガの別冊版のような気がしてならない。
確かに、十分な娯楽性があって、結構面白くは出来ている。
でも、それはそれだけのことだ。
田口公子役の竹内結子は、役柄のせいもあるのだろうか。
存在感が薄く(?)、どうもぱっとしないのはどうしてか。

救命救急医療ともなれば、様々な問題提起がある。
例えば、この作品の中でも、街で大きな災害が発生し、多数の重傷患者が次々に搬送されてくるが、治療に当たる医師は足りない、時間との勝負の中で患者や家族、苦悩する医師らの葛藤についても、十分に描かれているとは言えない。
何がどうと言って、立派な(?)筋書き(ストーリー)があるのに、とくに速水センター長以外の登場人物については、とことん人間が描ききれていない。
通り一遍の現象をなぞるだけではなく、さらに踏み込んで鋭い<メス>を入れることができたら、一段と深みと重量感のある、硬質な社会派ドラマとなったことだろう。

映画「プラスティック・シティ」―闇の世界の血の絆―

2009-03-16 21:45:00 | 映画

南米・ブラジルを舞台にした、闇の世界の激しいドラマだ。
原始のジャングルと、進化し構造化しすぎた街が混在する国、ブラジル・・・。

ブラジルの多民族都市を舞台に、闇の世界に生きる男たちの、「血の繋がりよりも深い絆」を描いている。
寓話的な色彩の強い作品である。
中国・香港・ブラジル・日本合作のユー・リクウァイ監督作品だ。

様々な民族や価値観が混在する街を描くあまり、実に突飛で、サイケデリックな演出や映像が散りばめられている。
もう、それは呆れるほどの驚きで、これはときに鮮やかな‘喧騒’の彩りを観ているようだ。
そんな感じで見終わったとき、この種の映画に慣れていないことで、いささか疲労を禁じえなかった。

サンパウロのベルダーデ地区・・・。
そこは、世界でも最も大きな日本人街といわれる。
今では、アジア系をはじめとする、多民族が暮らす東洋街だ。

全身にタトゥーを入れたキリン(オダギリ・ジョー)は、ブラジルで育った日系ブラジル人だ。
アマゾンのジャングルで両親を殺された彼は、アジア系ブラジル人のユダ(アンソニー・ウォンに拾われ、息子として育てられる。
青年に成長したキリンは、ユダが経営するショッピングモールで、コピー商品を販売するなど、闇稼業に手を染めている。
裏社会のボスとして、大勢の取り巻きを従えるユダは、東洋街でダンスクラブを営む美女オチョ(ホァン・イー)と暮らし、地区一帯を牛耳っていた。
しかし、新たに東洋街に進出してきた、実業家のミスター台湾(チェン・チャオロン)ら、ユダの失脚を狙う勢力が、徐々に台頭してきていた。

ある日、商店街は警察の手入れを受ける。
コピー商品マーケットの黒幕であったユダは、身柄を拘束される。
監獄に閉じ込められたユダは、しばしば命を狙われ、彼の身を案じたキリンは、どんな手段を駆使してでもユダを釈放しようと奔走する。

キリンと政治家コエーリョ(アントーニオ・ペトリン)の裏取引で、ユダはようやく出所する。
ミスター台湾は、すでにショッピングモールの筆頭株主になっていた。
さらに、ユダが所有していた巨大な船と商品まで、すべてが没収されるという事態にまで発展し、抗争は一段と激しさを増していくことになる。
激しい抗争が勃発し、ユダに向けて銃弾が放たれたことをきっかけに、キリンはその凄まじいまでの過酷な運命に巻き込まれていくのだった。

アクションシーンも鮮烈だ。
自然の静と、人間の動が対照的だ。
・・・アマゾンの神秘な森で話が始まり、そして終わる。
アジア人の新しい悪党たちの話が、魅力あるものとは思えないが、彼らの弱さ、彼らを取り巻く不合理な社会の仕組みなどから、ユー・リクウァイ監督は、“生き残る人々”の話を思う存分描いてみたかったようだ。

それは、ギャングの快楽主義と精神的な現実感ということか。
一番重要に考えられたのは、父と息子の関係性なのかも・・・。
血の繋がりのない親と子の絆を、最後まで見届けてみたかったという、ユー・リクウァイ監督の本音はその辺りにあるのかも知れない。

映画「プラスティック・シティは、ブラジルが舞台だが、東洋の剣術、恋愛を含む様々な要素を混淆させ、その大いなる原始と現代の混沌の中に、血の繋がりをヴィジョンに再構築を試みた剛毅な作品だ。
ヴェネチア国際映画祭コンペテイション部門正式出品作で、ユー・リクウァイ監督が切り取るブラジルの姿は、厳しい現実の一面をのぞかせつつ、あくまでも寓話的だ。


映画「ノン子36歳(家事手伝い)」―ダメ女のせつなさ―

2009-03-14 22:00:00 | 映画

熊切和嘉監督による、初の女性映画だ。
夫なし、男なし、三十路半ばの女性のせつない日々・・・。
少し痛くて、少し甘くて、どうにもならない女心のせつなさが伝わってくる。
三十代も、まんざら捨てたもんじゃないという女の、青春恋愛映画だ。

東京で、芸能人をやってみたけれど、鳴かず飛ばずであきらめた。
マネージャーと結婚したが、即離婚のバツイチ出戻り・・・。
気がつけば、三十路半ば、実家の神社で家事手伝いのノブ子(通称ノン子・坂井真紀)は、やる気なし・・・。
頭ごなしに怒鳴りつける父親(斉木しげる) 、腫れ物に触るように彼女を扱う母親(宇津宮雅代)らに、結婚もして娘もいる妹(佐藤仁美)は、「このヒト終わってる」と痛烈だ。

逃げる場所も、飛び立つ場所もない。
狭くて、古ぼけた田舎町である。
ママチャリに乗って、バツイチ女友達が経営するスナックで酒を呑むのが、せめてものお出かけだ。
お洒落も、恋も、いつしたかもうわからない。

そんなやる気なしのノン子の前に、神社の祭りで、ひよこを売って一山あてようという男が現われた。
若者マサル(星野源)
ノン子は、露店商を仕切る安川の家に、マサルを連れていくはめになる。
世間知らずで情けないけど、ひたすら一途で真直ぐな年下クンに、すっかり笑顔を忘れたオンナが、頑なに閉ざした心を少しずつ開いていく。
そこへ、別れた前夫、宇田川(鶴見辰吾)が現われた。
ノン子の心がゆれ始める・・・。

ダメダメ女の生態をリアルに描いて、ほろ苦いオリジナル・ストーリーだ。
ダメ女といえども、憎みきれない。
何だか、妙にせつないのだ。
のどかで、みずみずしく、どこか昭和の雰囲気の残る、日本の原風景が印象的で、不思議な空間を見せている。
撮影はリリカルで、なかなかよろしい。

ときに冷えきった、人の心と身体をやさしく潤して、自分らしさを実感させてくれる恋愛映画というのも面白い。
熊切和嘉監督の映画ノン子36歳(家事手伝い)は、「人生なんて捨てたもんじゃない」という前向きな余韻の残る「大吉映画」で、ちょっぴり明日の元気も見えてくる。

主人公の坂井真紀は、大胆で過激なシーンも体当たりで熱演し、陰翳に富んだ演技は自然で無駄がなく映る。
自分の心身の痛みを持つ過去や、それに伴う哀しみを滲ませていてよい。
飛びぬけた傑作とまでは言いがたいが、観てああ損したとはまず思わない、楽しめる一作である。
いささかの‘元気’をもらえそうな感じも手伝って、味わいは格別だ。


「おくりびと」が邦画ワースト1位に!!

2009-03-12 16:20:00 | 映画

アカデミー賞外国語映画賞を受賞した、「おくりびと」が、大変なロングランを続けている。
おそらく、興行収入は60億を越えるだろうと言われている。
その日本映画の秀作ともいえる「おくりびと」が、何とワースト映画の第1位に選ばれてしまったのだ。
この作品の特別なファンではないが、映画ファンならずとも、これには驚いたり、がっかりした人も多いのではないか。
選んだのは、戦前から続いている、硬派の専門誌「映画芸術」最新版だ。

この雑誌、日本映画の毎年ベスト10ワースト10を選出している。
全員で、31人の評論家、脚本家らが、08年の日本映画84作品を採点したのだ。
それによると、ワースト部門の1位は「おくりびと」、2位「少林少女」、3、4位が「ザ・マジックアワー」「私は貝になりたい」、5位が「トウキョウソナタ」となっている。

では、ベスト部門の方はどうか。
こちらの方は、1位は「ノン子36歳(家事手伝い)」、2位「実録・連合赤軍」、3、4位は「接吻」「トウキョウソナタ」、5位が「人のセックスを笑うな」となっている。
「トウキョウソナタ」などは、選者によって両極端の評価が下されているわけだ。

それにしても、人気抜群の「おくりびと」が最低の評価とは・・・。
ワースト部門で、辛い評価を下したある選者(編集者)は、
 「人の死を扱う職業に正面から向き合っていない。親子の話に逃げている。
 石の交換のエピソードも、父親がどんな気持ちで石を持っていたか、説明不足で、全体的にご都合主義の作品だ」
として、なかなか手厳しい。

まあ、批判は自由なので、人それぞれの意見をあまり気にしないことだろう。
「映画芸術」の編集部には、この記事が掲載されてから、連日のように、「こんな雑誌は廃刊にしろ」とか「ひどすぎるぞ」と言った批判が寄せられていて、アカデミー賞受賞後さらに激しさを増したそうだ。
それもそうだろう。
普通の映画ファンなら、怒るに違いない。
そのあまりの抗議、批判にも毅然(?)と主張を譲らないところに、敵も多いことだろう。
「映画芸術」という雑誌も、なかなか気が荒い。

「おくりびと」は、言われるようなそんな愚作ではないと思うし、大衆が広く支持する作品を攻撃する(?)姿勢を、一般の人々はどう思うだろうか。
造反有理といっても、人間が作る映画に、どんな優秀作といえども、完璧な作品などありえない。
ワーストであれ、ベストであれ、一位の‘勲章’に変りはないか。
いやあ、変わりがないわけはあるまい。
ちょっぴり、罪作りな話である。