徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」―海賊たちの愛と裏切りの戦い―

2011-05-28 07:30:00 | 映画


     少しばかり早い気がするけれど、梅雨に入った。     
     この季節、これからは、雨降りの日が多くなることだろう。

     ところで、 この映画、もうおなじみの、自由を愛する孤高の海賊の物語だ。
     今回の作品は、そのド派手な海賊伝説シリーズ第4弾というわけだ。
     あまり、期待しないで観た。
    
     「しかご」「NINE」で才能を発揮した、ロブ・マーシャル監督映画ということで・・・。
     本編は、第3弾の幕切れから期待を持たせて4年、野望と欲望の渦巻くドラマは、ここでも二転三転の展開だ。
     この作品では女海賊に扮する、地中海のミューズ、スペインの女優ペネロペ・クルスに注目した。
     映画自体は、シリーズの前作、前々作あたりから比べると、さして高揚感はない。
 
孤高の海賊キャプテン・ジャック・スパロウ(ジョニ・ーデップ)が、禁断の宝の地図を手に入れてから4年・・・。
潮は満ちて、ついに新たな冒険へと船出する時が来た。
今回目指すのは、永遠の生命をもたらすといわれる、伝説の‘生命の泉’だ。

史上最悪の海賊・黒ひげ(イアン・マクシェーン)が、‘生命の泉’を狙って動き出した。
ジャック・スパロウの前に、かつて愛した女海賊アンジェリカが現れる。
アンジェリカは、ジャックを呪われた海へと誘う・・・。

時同じくして、相棒のギブス(ケヴィン・R・マクナリー)の前に姿を見せたのは、不滅の海賊魂を持つあのバルボッサ(ジェフリー・ラッシュ)だ。
だが、スペイン王に対抗して、‘生命の泉’を探し求める英国王に忠誠を誓い、いまは英国海軍将校となっていた。
こうして、史上最恐の海賊たちが、禁断の宝を求めて一斉に動き出した。
泉への地図は、ジャックただひとりが手にしている。
永遠の生命を手に入れるべく、波乱の航海の幕は開ける・・・。

壮大なアドベンチャーだ。
黒ひげ、ジャック、バルボッサの三つ巴の先陣争いが繰り広げられる展開だ。
それに、美しい女海賊アンジェリカ(ペナロペ・クルス)と、人食い人魚のシレーナ(アストリッド・ベルジェ=フリスベ)が加わり、激しい戦いが始まる。
同時公開の3Dも評判だが、今回は2Dにした。それで十分だ。

ロブ・マーシャル監督アメリカ映画「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」には、個性の強いキャラクターが勢ぞろいだ。
そして、誰が敵か味方かわからない、戦いの場面が続く。
ギブスはジャックから地図を奪い、よりを戻したジャックの元カノのアンジェリカも、その本心をなかなか見せない。
欲の皮が突っ張った連中を相手に、自由をこよなく愛するジャックが、どう立ち向かうかが見どころだ。
ジョニー・デップは、渋い、もの静かな男を演じた「ツーリスト」より、こちらの方がもちろんはまり役といえる。
「NINE」ロブ・マーシャルと組んだ、初登場のペネロペ・クルスの妖艶さが、アダルトなテイストを加えている。
日本でも 「エレジー」「抱擁のかけら」などでおなじみのペネロペ・クルスは、「それでも恋するバルセロナ」で、スペイン女優としては初めてアカデミ賞助演女優賞を受賞しているが、彼女もいつの間にか、ハビエル・バルデム(「ノーカントリー」でアカデミー賞助演男優賞受賞)と結婚し、一児の立派な母親になった。
時の流れは早い。

観る人にもよるけれど、このドラマの演出は割合にシンプルで、アクションはまだいいとしても、緩急のつけかたが一本調子なのはあまり感心しない。
それに、やたらとアトラクションのような演出が目立つ。
音楽はいいのだが、BGでのかぶせかたというか、パターンが決まっていて少々物足りない。
敢えて言えば、海面から群れを成して飛び上がる、人魚のシーンなどは子供騙しのおとぎ話もいいところで、どうにも噴飯ものだ。
人気シリーズのエンターテインメントも、新監督に代わると、こうも変わるものだろうか。
なお前シリーズと同じように、この映画のエンドロールの最後に数秒間のワン・シーンがあるので、鑑賞の際はお見逃しなく・・・。


映画「悲しみのミルク」―魂の飛翔する詩的世界―

2011-05-25 10:00:00 | 映画

     大変めずらしい、南米・ペルーの映画だ。
     クラウディア・リョサ監督は、この作品で一種夢幻的な世界を描いてている。
     それでいて、極めてリアルである。

     故郷を捨てたものたちの、魂が流浪する。
     そこに、詩と歌と生命の力がある。
     この作品は、いわばペルーの歴史の傷跡を、その身に引き受ける娘をめぐる寓意劇だ。
       





南米・ペルーの貧しい村で、ひとりの老女が息をひきとる。
その死の間際に、娘に歌を託して・・・。
それは、かつてその村に暴力が吹き荒れていた時代に受けた、壮絶な仕打ちを物語るものだ。
残された娘のファウスタ(マガリ・ソリエル)は、母の苦しみを母乳から受け継いだと信じつづけている。
そのため、美しく成長したいまでも、ひとりで外を歩くことができない。

しかし、母を故郷の村に埋葬しようと決めたファウスタは、その費用を稼ぐため、町の裕福な女性ピアニストの屋敷で働き始めた。
ピアニストは、ファウスタが口ずさむ歌に心をひきつけられる。
ピアニストとファウスタは、一粒の真珠と引き換えに、歌を一回歌うという取り決めを交わしたが・・・。

他人の心を開けない、ファウスタの気持ちとは裏腹に、彼女の美しさは人をひきつける。
親戚の若者や、屋敷の窓を修理に来た業者の若者が、ファウスタに言い寄ってくるようになった。
ファウスタは、今までにない他人との関わり合いに戸惑った。
彼女が、家族以外で心を許せる唯一の人物は、屋敷に出入りする庭師のノエだった。
彼は父親のような年齢で、慎ましくも、ファウスタの心の奥を見抜くかのようなノエに、ファウスタも安心感を覚え始めていたのだった・・・。

・・・過去の記憶と、未来の予感が交差する中で、ファウスタは、心の開放を求めていた。
それが、彼女の本当の旅立ちだ。
ひところ、この国では過激な政治勢力の暴力が荒れ狂い、この作品のヒロインであるインディオの娘ファウスタは、自分の母親がその犠牲になったのだが、母親は亡くなる前に、自分が受けた無残な仕打ちを歌にして、娘に伝えていたのだった。
そのことが、ずっと彼女のトラウマになっていて、年頃になったいまでも、男たちと付き合うことができない。
そんな彼女のことを、インディオたちは恐乳病だといい、深い悲しみが母親の乳によって子どもに伝わるというのである。

可憐なファウスタは、そんな悲運を背負って、それでも懸命に生きて、母親を埋葬する旅に出ようとするのだ。
悲惨な経験があっても、歌と踊りの愉しみを誰も奪うことはできない。
どんなに、その歌や踊りが陽気なリズムを刻んでいたとしても、その背後には重い歴史がある。

クラウディア・リョサ監督は、このペルー映画「悲しみのミルクを、情感の豊かさで救いあげている。
かつてテロの時代に生まれ、母から深い恐怖心を受け継いでしまった、主人公の物語だ。
ベルリン国際映画祭で、大賞(金熊賞)に輝いた秀作だが、この映画は、強靭な詩の力と圧倒的な生命の力を宿していて、ラテンアメリカの側面を見る想いがする。
目を覆いたくなるような受難がある一方で、いかにもあっけらんかんと明日がやってくる。
この世界は、ときにグロテスクでも、残酷さを笑い、悲しみと喜びが共存する。
そう思って観ると、極めて芸術性の高い作品だ。


映画「わたしを離さないで」―儚い青春の残酷さ―

2011-05-22 11:00:00 | 映画



これは、ある痛切な運命を背負って、日々を懸命に来ている若者たちの物語だ。
カズオ・イシグロの原作を得て、マーク・ロマネク監督が、困難といわれる映像化に挑戦した。
イギリス・アメリカ合作映画だ。

真実は、残酷なまでに切ない。
ラブストーリーであって、哀しくエモーショナルな作品だ。
  

1978年のイギリス・・・。
緑豊かな自然に囲まれて、“ヘイルシャム”呼ばれる寄宿学校があった。
きゃしー(キャリー・マリガン)ルース(キーラ・ナイトレイ)トミー(アンドリュー・ガーフィールド)の3人は、小さい頃から、そこでずっと一緒に過ごしてきた。
しかし、外界とは隔絶したこの施設には、いくつもの謎があった。

厳格で、保護官と呼ばれる先生のもとで、絵や詩の創作に励む子供たちには、帰るべき家がなかった。
18歳になると、その寄宿学校を出て、3人は共同生活を始める。
そして、3人ははじめて社会の空気に触れる。
ルースとトミーが恋を育む中で、キャシーだけが孤立していた。
3人の感情は複雑に絡み合って、彼女たちの関係を微妙に変えていく。

…その後、コテージを巣立って、離れ離れになった3人は、逃れられない過酷な運命を全うしようとする。
若者たちは、純粋培養さながらに大切に育てられていて、見知らぬ誰かのために、この地に生を受けた<特別な存在>だったのだ。
やがて、再会を果たしたルースとトミーとのかけがえのない絆を取り戻したキャシーは、ささやかな夢をたぐり寄せるため、ヘイルシャムの<秘密>の真実を確かめようとするのだが、3人に残された時間はあまりにも短かかった。
それは、あまりにも痛ましい、残酷な真実であった・・・。

マーク・ロマネク監督イギリス・アメリカ合作映画「わたしを離さないで」では、恋や友情を育みながら成長する、若者3人の、長く続く心理的な関係が細やかに描かれている。
ただ、彼らが特別な子供であり、ヘイルシャムというところが、特別なところだということだ。
そのことは、徐々に明らかにされていく。
子供たちには、完全な「自由」が許されず、ひたすらたったひとつの道を歩む以外、「生きる」道はない。
そのたったひとつの道とは、、ドラマの中で語られる「提供者」とか「介護人」とか「終了」といった言葉から、衝撃的に見えてくることになる。

キャリー・マリガンアンドリュー・ガーフィールドらの演技には、震えるような、哀しいまでの繊細さが漂っている。
青春の宿命というべきか。
宿命の青春というべきか。
宿命に抗うことはできず、美しく、気高く、切ない・・・。
ひたむきに生きようとする、若者たちの眩いまでの輝きは、それは、純粋な、あまりにも純粋な奇跡のようだ。

この、しんしんと冴えわたる、静けさは何だろうか。
このドラマが、どこまでも宿命の物語だからなのか。
命のモルモットのように見える、トミーの壮絶な叫び、魂の叫びだ。
人間であることの証だ。
原題の「never let me go」とは、「殺さないで」という意味である。
この作品には、あまり比類のない、崇高で衝撃的な世界観がある。


映画「ジュリエットからの手紙」―美しき愛と再生の奇跡―

2011-05-18 11:00:00 | 映画

きらめく陽光と、芳醇なワインの香り・・・。 
イタリアを舞台にした、ゲイリー・ウィック監督の素晴らしい作品だ。
これは、50年前の愛の行方を追って綴られる、極上のラブストーリーだ。

ドラマは、老若二つの世代を巧みに対照させた展開を描く。
イタリアの世界遺産が、実に甘美で爽快なロマンティシズムを漂わせている。

北イタリアの古都ヴェローナから、トスカーナ地方にかけて・・・。
シェークスピア「ロミオとジュリエット」の舞台となった、あの地である。
ジュリエットの生家のモデルとなったと伝えられる、古い屋敷には、いまでも、ジュリエット宛てに自分の愛を綴った手紙が、世界各国から届くのだそうだ。

ここに描かれるのは、二つの恋である。
50年前に留学先で出会った、英国人留学生クレアとイタリアの青年ロレンツォ、その顛末を取材する米国人女性ソフィと婚約者ヴィクターの恋だ。
この、過去と現在の二つの恋の行方に、英国からクレアに同行する孫のチャーリーが絡んで、複雑な恋愛模様を綴る。
   


    

若い女性ソフィ(アマンダ・セイフライド)は、ニューヨークの出版社で、記者を目ざして働いている。
彼女の婚約者ヴィクター(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、レストラン開業のため、イタリア現地のワインや食材をリサーチする大きな目的があって、ソフィとともに、ヴェローナに婚前旅行に出かける。
その旅先で、ソフィは「ジュリエットの屋敷」で、世界中から彼女宛に届けられる手紙に、返事を書いている女性たちと知り合った。
そして、そこで50年前に書かれた1通の手紙を発見し、彼女がその返事を書かせてもらうことになった。

ソフィの書いた手紙は、ロンドンに暮らすクレア(バネッサ・レッドグレーブ)のもとに届く。
それは、クレアが「ジュリエットの生家」に送った、恋の悩みに対する返事であった。
反応は、意外にも早かった。
ソフィの手紙を読んだクレアは、かってイタリアで出逢ったロレンツォと恋に落ちていたが、彼との愛を貫けず、“ジュリエット・レター”に綴っていたのだった。
長い時を経て、思いがけず届いた手紙に背中を押され、クレアは懐かしいロレンツォとの再会を決意し、イタリアへ向かった。

クレアは、孫の青年チャーリー(クリストファー・イーガン)を伴って、英国からすぐやって来たのだ。
そのことを知ったソフィは、それを記事にしようと思い、自分の仕事に熱中しているヴィクターのOKをもらい、クレアとともに初恋の人捜しの旅がヴェローナから始まった。
名前だけを頼りに、何人ものロレツォを捜し当てる。
だが、すべて人違いで、次第に不安と後悔とあきらめで、イタリアを去ろうかと考えていたクレアを最後に待っていたものは・・・。

映画はロマンティックで、とても気持ちがいい。
クレアのロレンツォ捜しと並行して、ソフィとチャーリーの若い二人の仲がどう進展するか、はらはらさせられる。
ロレンツォを演じるのは、かつてのイタリアの大スター、フランコ・ネロである。
彼も老いたりとはいえ、堂々とした存在感がある。
1967年、名女優バネッサ・レッドグレーブは、「キャメロット」で共演して熱愛関係となり、40年後の2006年に結婚した。
だから、二人は実生活上の伴侶で、この配役の妙はどうしてどうして、なかなか心憎いではないか。

この映画では、50年ぶりに発見された手紙の主のクレアが、生き別れの初恋の人をを捜すという物語を軸にして、ソフィにヴィクター、それにクレアの孫のチャーリーという三人の関係を掘り下げていく、その描き方が巧みだ。
三人の恋愛模様が前面に躍り出てくるところから、映画が、にわかに精彩を放つ展開だ。
実は、ソフィには9歳の時の両親の離婚で、母親に捨てられた辛い過去があり、チャーリーも10歳の時に交通事故で両親を亡くして、祖母のクレアに育てられた。
ソフィとチャーリーの心の傷を癒やせるのは、クレアしかいないわけで、二人にとっては、彼女は紛れもない「母親」だ。
チャーリーは、あるとき不用意な言葉でソフィを傷つけてしまうが、そのあと、クレアが実際には他人であるソフィを抱きしめんばかりに、彼女の長い髪に櫛を入れる場面が、たまらなくいいのだ。
年老いたクレアが、優しくソフィに語りかける。
 「髪をといてもらうのは、人生の喜びのひとつなのよ」
それには、母心がにじんでいて、この映画のもつ主題と構造が如実に表れる、胸の熱くなるシーンだ。

人は誰でも、少しの勇気を持てば、真実の愛を貫き通すことができる。
真直ぐに、自分の気持ちを相手に伝えることこそが、真実の愛を相手に伝えうる。
そして、この物語の中で、こうも語られる。
 「愛は、決して遅すぎることはない」・・・。

イタリアの美しい自然の中で、多彩で甘やかな、ゲイリー・ウィニック監督傑作「ジュリエットからの手紙」は誕生した。
このドラマは、イタリアがよく似合っていて魅惑的だ。
古くは、 「ローマの休日」(53)、「旅情」(55)、「旅愁」(50)といった映画も忘れ難い。
「ロミオとジュリエット」の本場ヴェローナが舞台とくれば、お膳立ては申し分ない。

ゲイリー・ウィニック監督は、長い闘病生活の末に、最近49歳という若さで死去した。
はからずも、この作品が遺作となった。
胸がきゅんとなるような、そんな珠玉のような、至福のラブストーリーである。
いい映画を観せてもらった。



映画「マーラー 君に捧げるアダージョ」―愛と情熱の哀しき深淵ー

2011-05-15 05:00:00 | 映画



     世紀末ウィーンを代表する大作曲家というと、グスタフ・マーラーだ。
     パーシー・アドロン&フェリックス・アドロン監督の、ドイツ・オーストリア合作作品である。
     生誕150年、没後100年にあたる、記念的な映画が作られた。

     この映画は、甘美な名曲を生み出した夫婦の愛と、情熱の深淵に迫っている。
     音楽の世界に生き続けるマーラーの、緊張感に満ちた、芸術的な映画だ。
     わたしは、あなたの音楽の中で生きつづける。
     音楽と人生が交差する、深遠な領域から見えてくるものは何だろうか・・・。        





                             
1910年、作曲家マーラー(ヨハネス・ジルバーシュナイダー)に、、一通の衝撃的な手紙が届いた。
それには、マーラーの妻アルマ(バーバラ・ロマーナー)に対する、新進建築家グロピウス(フリードリヒ・ミュッケ)の、熱烈な愛が綴られていたのだった。
グロピウスはアルマより5歳も年下だし、マーラーはアルマより19歳も年上であった。
二人の関係を知ったマーラーは、精神科医フロイト(カール・マルコヴィクス)に、苦しみを打ち明けた。

妻のアルマは、類いまれな美貌と音楽的才能で、画家クリストらの芸術家を魅了し、社交界の華でもあった。
マーラーはアルマに作曲を禁じ、まず妻であり女であり、ミューズであることを、彼女に強く求めた。
そのことで、夫婦の間に亀裂が生じ、アルマは、療養先で知りあったグロピウスに、慰めを求めていたのだった・・・。
そもそも、マーラーとアルマの二人は、誰もが羨むほどの理想の夫婦であったはずなのに、その亀裂は愛娘の死によって一段と悪化するばかりだった。

アルマという女性は、天性の美だけでは我慢できず、彼女はマーラーに、自分の芸術的才能を開花させてもらうことを期待していたのに、マーラーの方はといえば、彼はそんなことは微塵も考えていなかった。
マーラーにとってのアルマは、自分に欠けている若さと美を補ってくれる存在以外の、何ものでもなかったのだ。
彼女の美と若さは、マーラーの芸術をますます完璧なものにしていったが、一方でアルマはそれを捧げることだけでなく、家庭を守ることを押し付けられたのだった。
ジャムを体になすりつけて、化け物ごっこに興じるマーラーと、娘を見る時のアルマの絶望的な眼差しは、二人の結婚が失敗であったことを物語っている。
アルマは、あくまでも自分が芸術家であること、女であることを望んだが、妻であること、母であることを望みはしなかった。
そこに、マーラーの苦悩があった。
マーラーは、アルマの不倫に苦しみながら、交響曲10番の第一楽章未完のまま、50歳の若さで他界した。

映画「マーラー 君に捧げるアダージョ」は、音楽映画だ。
マーラーとアルマが結婚してから、仕事は順調だったのだが、才媛アルマには欲求不満が募っていく。
男女平等という、彼女の信念はないがしろにされ、芸術的な人々に囲まれながら過ごすバラ色の日々は、幻想でしかなかった。
そのことが、牢獄で暮らしているような感覚を彼女にもたらし、おのずと夫婦関係は冷えていったのだった。
そして、彼女と自分より年若い男性との情事が、マーラーの芸術を一変させてしまうのだ。

天才音楽家のエゴイスティックな本能、妻の疑惑に対する動揺がもたらす心の葛藤を、ヨハネス・ジルバーシュナイダーが演じて緊張の場面が続く。
一方、アルマの芸術を捨てきれない情熱と、母であり女性としての理性と本能がぶつかり合う難しい役を、バーバラ・ロマーナーは堂々と演じている。
お互いを求めながらも、すれ違う夫婦の葛藤と、天才にすべてを捧げたひとりの女性の決意・・・。
この芸術家のドラマにはドラマには、少々理屈っぽいところもあるが、繊細と奔放のなかに病み果てていく、大音楽家の後半生を描いていて、なかなか興味深い。
マーラー最後の、未完の楽曲「交響曲第10番」に秘められた、真実が見えてくる一作だ。


映画「ブラック・スワン」―せめぎあう純白の野心と漆黒の狂気!―

2011-05-12 06:00:01 | 映画



     可憐で繊細な白鳥の女王と、自由奔放にして妖しい悪女を演じ分ける。
         アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞した、ナタリー・ポートマンの渾身の演技が見ものだ。
     いま話題の、ダーレン・アロノフスキー監督アメリカ映画だ。

     女の魔性を描いて、実に緻密な心理ドラマが誕生した。
     見応え十分の、楽しめる作品ではある。








ニューヨークのバレエ団に所属する、美貌のバレリ-ナ・ニナ(ナタリー・ポートマン)は、元ダンサーの母親エリカ(バーバラ・ハーシー)の寵愛のもとで、バレエに人生のすべてを捧げていた。
その彼女に、新作「白鳥の湖」のプリマを演じるチャンスが訪れる。
しかし、演出家のルロワ(ヴァンサン・カッセル)から、ニナは純真な白鳥の女王には申し分ないが、同時に演じなければならない、邪悪で官能的な黒鳥役には物足りないと指摘される。
それは、優等生タイプのニナにとっては、ハードルの高すぎる難役への挑戦であった。

ハードな練習に明け暮れるニナの前に、黒鳥の似合う、小悪魔的で奔放な新人のリリー(ミラ・クニス)が現れる。
ルロワがお手本として指し示したリリーは、エキゾティックな色気を発散して、大胆で予測不可能な踊りを見せ、まさに黒鳥の魔性を宿したかのようだったのだ。
ニナは、徐々に精神的にも追いつめられていく。

やがて、役作りに没頭するあまり、ニナは極度の混乱で迷宮に陥る。
そして、彼女は、次から次へと自分に降りかかる不可解な出来事に心をかき乱され、現実と悪夢の境界を越えて、狂気へと走り始める。
ニナは、大役を担う重圧、黒鳥になりきれない焦燥感で、耐えがたい孤独と苦悩に、自らの心の闇に囚われていくのだった。
・・・そうして、公演初日、さらなる心身の異変に見舞われたニナは、危うい足取りで会場へ向かい、純真な白鳥から妖艶な黒鳥への変身を成し遂げるべく、多くの観衆の見守る中で、晴れのステージに立ったのだが・・・。

白鳥(オデット)は、悪魔によって白鳥に変えられた可憐な女性だし、黒鳥(オディール)は、悪魔がオデットと王子の仲を引き裂くために送り込んだ官能的な女性で、この二面性を描く、スリラーのような要素もある。
狂気に満ちた黒鳥の舞いは、妖しい悪女の踊りだ。
芸術を極めるためには、孤独や狂気を自ら焦がし、命まで投げ出しても悔いはない・・・。
めくるめく官能の映像美と、荘厳なチャイコフスキーの音楽も、ダイナミックにかつ繊細にそれを表現する。

ダーレン・アロノフスキー監督の真骨頂は、ミステリアスで悪夢的な映像にあるといわれる。
でも、ドラマ中盤からのサイケデリックなホラーを見せられると、ちょっと首をかしげたくもなる。
狂気だ妄想だといっても、ナタリー・ポートマンが、決まっていじめられるシーンはまるでホラーだ。あそこまでやりますか。
こういう場面をしつこく見せつけられると、その俗っぽさに嫌気がさすものだし、安っぽいドラマに見えてくる。
演出も、なかなか大胆不敵だが、作品の良しあしは別として、敢えて言えば、いささかあざとい。
ノミネートされていたアカデミー賞作品賞はとても無理な話で、主演女優賞というならわかる気がする。

「白鳥」と「黒鳥」の、両方の舞踏シーンの大半をナタリー・ポートマンがこなしているのもさすがだ。
そのための訓練は、相当なものがあったようだ。
彼女は、何と、この作品「ブラック・スワン」の振付師でダンサーのベンジャミン・ミルピエと婚約中だったといわれ、オスカー授賞式には、すでに身重での参列だったようで、公私ともに至福のときであったわけだ。
彼女は、すでに撮り終えていて公開を待つ作品をのぞいては、しばらく出産と育児に専念する予定だそうだ。
そうなると、今後しばらくは、スクリーンでは彼女にお目にかかれないかも知れない。
この見応えのある本作が、一時的な見納めになるのでは・・・。

チャイコフスキーの流麗な旋律が奏でられ、幻想的な世界が繰り広げられ、女神も、また悪魔さえも固唾をのんで見守るクライマックスのステージで、何が起こるのか。
アメリカ映画、ダーレン・アロノフスキー監督バレリーナ物語「ブラックスワン」は、かつて誰も観たことのない、予想もつかない衝撃のラストシーンを迎える。
映画賞を総なめにした、ナタリー・ポートマンの鬼気迫る演技と、圧倒的な臨場感のみなぎる映像とともに・・・。


映画「孫文の義士団」―辛亥革命を舞台にした闘争アクション―

2011-05-10 11:00:00 | 映画

 
     

     身震いするような、壮烈なアクションだ。
     革命家・孫文を守るのは、年齢もキャリアもばらばらの義士団だ。
     向かう相手は、紫禁城の主・西太后の指令で動き出す、500人の大暗殺団である。

     テディ・チャン監督の、中国・香港合作映画で、熱き者たちが繰り広げる壮絶な闘争劇だ。
     名もなき者たちの凄まじいドラマは、とにかく迫力満点である。






           
      
    
1906年10月、清朝末期の香港・・・。
そこに、一人の男が来航するという、極秘情報が流れる。
彼の名は孫文、腐敗した清朝打倒を掲げる革命家だ。
孫文の目的は、武装蜂起のための1時間の会談にあった。

孫文の出発を知った北京の紫禁城では、西太后が、イエン・シャオグオ(フー・ジュン)に「国賊」孫文の暗殺を命じ、彼は500人の暗殺団を率いて、香港に潜入する。
孫文到着まであと4日に迫り、清朝最強の暗殺団に備えて、孫文を護衛する義士団が結成される。

義士団に集まったのは、自ら義士団を組織する大商人(ワン・シュエチー)一度は暗殺団の手先(スパイ)となった警官(ドニー・イェン)警官の元妻で大商人の妻となった(ファン・ビンビン)愛のために転落した物乞い人(レオン・ライ)中国同盟会支部長を務める新聞社社長(レオン・カーフェイ)暗殺団に元将軍の父を殺された娘(クリス・リー)少林寺出身の豆腐売りの大男(メンケ・バータル)らで、誰もかれもが名もなき市井の民たちであった。
ある者は愛する人のために、ある者は復讐のために、そしてある者はおのれの信念のために、それぞれの熱き想いを胸に秘め、中国10億の民の希望と未来がかかった、壮絶な時間の戦いに敢然と挑んでいくのであった。

映画「孫文の義士団」には、アジアの豪華なスターが結集した。
半端ではない、凄まじいまでの歴史アクション大作だ。
彼らのアクションのどれを見ても、心情を見事に伝えて、多弁だ。
これが、人間の演じることかと思われるほど、実に素晴らしい。

20世紀初頭の埠頭や街並みのセットは、エキストラの数やその風俗といい、映画の背景は贅沢なほどリアルで、立体感がある。
100年前の香港が、いまスクリーンによみがえる・・・。
テディ・チャン監督は、これら香港の巨大なセットを、300人のスタッフと8年もの歳月をかけて作り上げ、徹底してディテールを決めていったそうだ。
スピーディーな場面展開とともに、息をもつかせぬ2時間を超える上映時間だが、孫文本人が、最終場面にほんの一シーン顔を見せるだけだったのは残念だ。
それにしても、中国の近代化のために、どれだけ多くの人間の血が流されたことか。



映画「ばかもの」―生きることの哀しみと愛することの歓び―

2011-05-06 05:00:00 | 映画


     
(5月6日 記事一部改訂)
     芥川賞作家・絲山秋子
の小説を、金子修介監督が映画化した。
     この作品では、絲山作品のもつ、どこか原始的な生命力みたいなものがいかんなく発揮されている。
     俗っぽく言うと、どん底にまで堕ちる、主人公の愚かさか。

     勝手気ままに大学生活を送る男と、強気な年上の女・・・。
     二人の、一途で不器用な純愛を描くラブストーリーだ。
     作品には、不思議な共感があり、愛しさがある。
     期待以上によくできた、青春物語だ。


      
    
19歳の大学生ヒデ(成宮寛貴)は、ぶっきら棒だけど率直な額子(内田有紀)に夢中になっている。
だが、勝気な彼女は、突然別の男との結婚を決意し、一方的にヒデを捨てる。
失意のヒデは、呆然としたまま大学を卒業し、就職し、新たな出会いも生まれ、恋もする。
それでも、満たされることもなく、虚しさだけが募ってくるのをどうすることもできない。
いつしか、ヒデは酒に溺れアルコール依存症になり、堕ちていき、周囲からも孤立してしまった。

一方、結婚した夫の会社で働いていたが、不慮の事故で大怪我を負って、離婚を経験する額子もまた、惨い運命の中を懸命に生きていた。
・・・そして、全てを喪失した絶望の果てに、十年という長い歳月を経て、ヒデと額子は片品で再会する。
二人の背後に、陽光きらめく緑の自然が美しい。

額子は、片腕を失っていた。
しかも、そんな年でもないのに、彼女は総白髪になっていた。
ヒデが彼女の前に立った時、額子のその白い髪がはらはらと風に揺れた。
ヒデは、その姿に思わずたじろぎながら、今もなお彼女に惹かれずにはいられないのだった。
そこに、変わり果てた姿で再会した二人の、むき出しの愛があった・・・。

いろいろとあったけれど、忘れたくても、忘れることのなかった二人の、十年にわたる純愛というものか。
結婚したあとの事故によって片腕を奪われ、そのことによって結婚生活をも失った額子と、もう二度とお酒を飲めないというかたちで、かつての自己を欠落させて自己の側に戻ってきたヒデの恋は、決して完全な自己などあり得ないということを知って結ばれる関係だが、言いようのない思いやりと気づかいに満ちていて、悲しくも切なく美しい。
そう、それはきっと無償の愛だ。
過ぎ去った青春の日々の蹉跌が、これからの彼らの人生に希望の暗示を与えている。

長い年月の物語で、映画は、登場人物に寄り添うかと思えば突き放しながら、撮っていっている。
単に、甘やかな物語とは言えまい。
ドラマの中に散りばめられる官能の香りも、陰湿さはなくむしろストレートな壮快さで、くすくす笑ってしまいそうなくらいあっけらかんとしている。
男であれ女であれ、若者たちの熱い想いは、存分に伝わってくる。
額子のような強烈な女に出会ったら、男はメロメロになってしまうかも知れない。
ヒデは、アルコール依存症から立ち直りかけるときに、別れた女、額子との再会の時を迎えるのだ。
そういえば、このドラマが、深い人間の物語になっていくのはこのあたりからである。

成宮寛貴は、19歳から29歳までの主人公を演じ、初めて女性を知る戸惑いや悦びに、かなりの気負いもあるが、彼がアルコール依存症になり堕ちていく姿は体当たりの演技だ。
額子を演じる、内田有紀も上手い。
彼女は、複雑な役柄をしなやかにのびのびと演じ、ずいぶん実力派女優に成長したものだ。

映画「ばかもの」は、絲山秋子金子秀介監督とのコラボレートがうまく結実した作品で、とても丁寧に作り上げられている。
小品だが、好感が持てる。マジで、案外よかった。
何といったって、男と女の十年の愛憎が、ここに凝縮されているわけなのだから・・・。
ドラマのラストに、胸が熱くなる、じんわりとした感動が待っている。
片品川の清流の上に張り出した一本の橅(ぶな)の木を、右腕を使って、無様な格好で必死になって登っていく額子・・・。
そんな額子を心配そうに見上げるヒデに、木々の緑を透かしてそそぐ陽射しと、照り返す川の水の眩しさは、優しい爽やかさであった。
カメラアングルも見事で、清涼感の溢れる、絵のような素晴らしい映像である。
・・・どうだろうか。
二人は、またさらなる高みを超えて、厳しくも、静謐な時間を取り戻すことができるだろうか。


映画「八日目の蝉」―本当の母子のように暮らして―

2011-05-02 10:00:00 | 映画


     ・・・まったく濁りのない目で、赤ん坊は彼女を見る。
     まつげが涙で濡れている。
     目にたまった涙がするりと耳の上に流れる。
     そうして、まだ目に涙をためているのに笑った。
     たしかに笑った・・・。
     直木賞作家・角田光代の原作のなかの一節である。

     社会派の成島出監督が、誘拐事件を扱った作品だ。
     よみがえる真実は、あまりにも切ない、ヒューマン・サスペンスである。
     おそらく、今年度の日本映画代表作のひとつに数え上げられるのではないか。




生後6カ月で誘拐された女の子は、誘拐犯の女を本当の母親だと信じて、生き、ともに暮らしてきた。
野々宮希和子(永作博美)は、妻ある男と不倫関係にあった。
ある日、妊娠が分かったが、男に反対され 堕胎した。
彼女は、妊娠できない体になった。

その頃、男の妻(森口瑤子)は女児を出産した。
希和子は、生まれた赤ちゃんの顔だけ見ればあきらめがつくと思い、男の家に侵入した。
(冒頭の一節が、その部分である。)
そこで、彼女は衝動的に赤ちゃんを抱いて、土砂降りの雨の中を逃亡する。
いつの日か、必ず終わりが訪れるに違いない、血のつながりのない「母子」の、4年にもわたる流浪の生活はここから始まった・・・。

ドラマは、緊迫の法廷シーンから始まる。
誘拐犯の希和子に、4年間愛情と慈しみをいっぱいにふりそそいでで育てられた女、秋山恵理菜(井上真央)・・・。
小説では、希和子の視点で進む過去と、恵理菜の視点で進む現在の二部構成なのだが、映画では現在と過去を交錯させながら、二人の心情を交互に丁寧に積み重ねていく。
脅えて暮らしながらも、一緒にいるような幸せをかみしめる二人の姿に、不思議な情感を抱かされながらも、同時に、いまだに大学生になった恵理菜は、
事件の呪縛から逃れられないでいる。

その恵理菜もまた、父と同じように不実な男を愛してしまうという皮肉が重なる。
そんな彼女が意を決して、かつて希和子と暮らした小豆島にわたり、おぼろげな記憶をたどる旅路は、優しかった偽りの母への複雑な思いを描いていて見応えを感じる。
身勝手な犯罪者とはいえ、無償の母性愛とは、母とは、女とは、そして家族とは何かを問いかける。
美しい小豆島の風景に、現在と過去の記憶が絡み合い、母なる性(さが)に導かれて、‘再生’のときを迎えるかつての少女は、自らもまた母になろうと決意する。

やがて、苦悩と葛藤から脱け出す恵理菜だが、何よりも過去を想い出そうとする彼女の旅の終わりに、島にある昭和のたたずまいを残す古い写真館を訪れることで、幼いころの記憶がはっきりと確かなまでによみがえる。
かつて、平穏な陽だまりのようなこの島で暮らしていたとき、本当の‘親子’のように寄り添って、二人で写した写真の原板が残っていた。
この写真館の登場する、終盤のクライマックスが涙を誘う・・・。
映画の中で、もっとも感動的なシーンである。

成島出監督映画「八日目の蝉では、無償の愛を演じる永作博美の演技が光っている。
いつわりの親子の二人の仲睦まじさとともに、彼女は、誰かに早く自分を見つけて捕えてもらいたいと、心の底でひそかに念じつつ、いつかその日の来るのを待っていたのだった。
それは、可愛い盛りの、まだ幼い4歳の恵理菜との別れを意味していた。
そして、ついにその日が訪れる。

ドラマの中で気になるのは、恵理菜のヒステリックな実母と実父の関係とか、恵理菜が犯人の女希和子と過ごした4年間の希和子の心情の軌跡なのだがは、このあたり、もっと踏み込んだ描かれ方がってもよかったのではないか。
作品は、おおむね原作に忠実だが、ラストの部分は原作通りとはいかず、結果がこれでよかったのかどうかはともかく、脚本(奥寺佐渡子のオリジナリティに従っている。

蝉は、何年も土の中にいて、地上に出て、七日間で死ぬという。
でももし、七日で死ななかった蝉がいたら・・・。
もし八日目まで生きた蝉がいたとしたら、その蝉は幸せなのだろうか?
何もかも失い自分は「空っぽ」だと、まるで他の人が知るはずもない八日目を生きているようなものなのだと思っていた女たちが、哀しみや孤独を乗り越え、自分の足で一歩を踏み出していく姿に、女性たちの等しい幸せを願ってつけられたタイトルだそうだ。