徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

マンガオタクのお坊ちゃん内閣

2008-09-26 06:00:00 | 雑感

麻生内閣が誕生した。
お仲間は、「改憲タカ派文教族」のようですが、これが総選挙を戦う内閣なのですね。
新味の、全く感じられない内閣です。
まあ、はじめから期待などしていません。(おそらく、国民も・・・)
内閣のメンバー18人中、6割の11人までが世襲議員で、庶民の生活もわからないお坊ちゃま集団とは・・・。
おそれいりました。

新総理は、毎日マンガばかり読み漁っていて、ろくに新聞にも目を通さない人だそうで・・・。
へ~え、そんなものなのでしょうか。
いかに華やかな経歴の持ち主であろうと、一国の宰相として、本当にそれなりの資質が問われます。

一日も早く国会を解散して、総選挙を行うことを、国民の誰もが望んでいます。
秋の色が、だんだん深まっていくようです。
政局も、まだまだ波乱含みです。
新聞からも、目の離せない日々が続きそうです。


映画「アキレスと亀」ー芸術って、何だ?ー

2008-09-24 17:00:00 | 映画

売れない画家の夫と、寄り添って励ます妻・・・。
成功をつかむことが出来なかった男が手にした、かけがえのない幸福感・・・。
夢を持ち、その夢を追いかけることは大切だ。
でも、その夢がかなわないこともある。
夢がかなわなくて、得られるものもある・・・。
この映画は、夢ははかなくとも、それをひたむきに追いかけるだけで、人生にとって本当に大切なものを見つけようとする夫婦愛の物語、という触れ込みである。

幼い頃から絵を描くことが大好きだった、少年の真知寿(まちす)は、父の会社の倒産、両親の自殺、生活の困窮という辛い経験を経て、画家になることだけを人生の指針として生きるしかなくなってしまった。

ひたすら芸術に打ち込んでいくが、現実は厳しかった。
そんな、愛に見放された真知寿の前に、一人の理解者が現れる。
絵を描くことしか知らない、彼の純朴さに心惹かれた幸子であった。

やがて二人は結婚し、真知寿の夢は夫婦の夢となった。
健気に芸術を続ける真知寿の人生を、田舎町で大らかに絵を描いて暮らした少年時代、アルバイトで芸術に明け暮れ、恋をした青春時代、夫婦ともども創作活動に励み、絆を深めていく中年時代と、三つの時代に渡って、静かに綴った作品だ。

愛と希望に満たされ、様々なアートに挑戦する二人だった。
まるで狂ったように、創作を続けていく。
しかし、作品は全く評価されない。
二人の創作活動は、街や警察をも巻き込むほどに、エスカレートしていく。
家庭崩壊の危機に直面しながら・・・。

もうこうなると、芸術だ何だと言ったって、生活破綻者、いや性格破綻者である。
ハチャメチャな生き方は、周囲をも巻き込む‘悪ふざけ’で、「あんた、何やってんだ!これ、何なのさ?」てなことまで人に言われるようになる。

真知寿は、並みの才能しかないないのに、軌道修正ができない。
幸せと不幸せの間をぐるぐると回って、<アキレス>のパラドックスに入っていく。
アキレスは亀を追い越せないという逆説から、このタイトルは生まれたそうだ。

美術史も知らない。
筆で書くのをやめて、メーッセージを出せなどと画商が真知寿に助言する。
現代の絵画への痛烈な風刺が、笑わせる。
北野ワールドに登場する人物は、心情を吐露するでもない。

主人公の画家は、妻や娘まで無視して、‘芸術’に毒された怪物みたいな男だ。
北野武は言う。
 「芸術というのは、そうした人でなしを崇高に見せたりする。主人公が他の職業だったら、こんな映画に
 はならない」
主人公真知寿には、何かが足りないのだ。
画商に言われた通り、評された通りのことしか出来ない。
人がやっていないことは、やろうとしない。
全然評価されなくても、独自のものを編み出した方がいいのだ。
新しいものを創造出来なければ、終わりだ。
結局、破天荒な生き方は出来なかった。

この作品で、主人公(ビートたけし)と積極的に交わる魅力的な女性像・幸子を演じる樋口可南子、若い頃の幸子役の麻生久美子のほか、中尾彬、大杉漣、伊武雅刀、柳憂怜ら個性豊かなキャストが揃った。

全体に、北野的モチーフを前面に出して、爆笑を買うドラマだが、作品の性格とはいえ、どうも度を越した‘悪ふざけ’は気になる。
北野武監督のこの作品
アキレスと亀は、確かに芸術というものに対する、一種の風刺(アイロニー)を強く感じさせる作品だが・・・。

この作品は、人気を博しながら、ベネチア国際映画祭では賞を逸した。
他の作品のことは知らない。
ただ、この北野作品を観ると、とてもではないが、世界レベルとは言えない。
人気と評価は、全く別なのだ。解っている。
無名の新人監督だって、いきなりグランプリということもめずらしくないのだから・・・。
世界の映画祭は、必ずしも著名な監督の作品など望んではいない。
新人監督でいい、いまやそれでも新しい「発見」を求めているように見える。
そうなのだ。
かつて半世紀以上も前、黒澤明が登場し、世界に与えたあの時の衝撃を・・・。


映画「地球でたったふたり」ー少女たちの叫びー

2008-09-22 08:00:01 | 映画

究極の孤独というものがあるとしたら、その中で生まれた究極の愛情を描いてみたい。
そんな願望をこめて、俊英・内田英治監督がオリジナルストーリーを書いた。
毎日のように、いま、痛ましい幼児虐待事件が報道されている。
・・・この作品は、虐げられた少女たちの叫びだ。

愛情のかけらもない、生みの親からの暴力に、二人の少女の悲痛な叫びが聞こえてくる。
残虐で、冷酷に追いつめていくしかない若者がいる。
銃口の先にかすかに見えるのは、二人だけを待つ青い海だった・・・。

ユイ(寉岡萌希)が6歳の時、再婚した母(菜葉菜)が、新しい夫とともに連れ子の少女アイ(寉岡瑞希)と一緒に家にやって来た。
しかし、父親の暴力、母親の子供への無関心が二人の少女の心を深く傷つけていく。
アイは2歳年上の8歳だった。
大人になりきれない父親は、仕事もせず、家族に当り散らし、何かあるとすぐ暴力を振るった。
やがて、二人の少女は中学生へと成長する。
そして、誰よりも強い絆で結ばれるようになっていった。

或る日、両親の離婚によって引き裂かれようとした二人は、逃げるようにして家出をする。
生まれて初めて、田舎を出て東京に出た。
生活をするすべを知らない二人は、新宿で路上暮らしを始めた。
いつしか金は底をつき、アイは、売春目的で声をかけてきた中年男の鞄を盗む。
男は暴力団の会計士で、盗んだ鞄の中には組織の裏帳簿が詰め込まれていた。

幼い少女たちは、このことから、知らず知らずのうちに組織から追われることになる。
そんな中、さえない中年のヤクザ谷田(菅田俊)と出会い、助けられる。
いつしか、三人は家族のように暮らすのだが、そんな幸せも長くは続かなかった。
谷田が、二人をかくまっていることが組織に知れて、彼は惨殺される・・・。
とうとう、組織の手が、二人の少女ユイとアイへ伸びてきた。

心身ともにぼろぼろに傷つきながら、新宿の街を疾走する二人・・・。
手には、谷田に渡された拳銃を握りしめて・・・。
ついには、警察までが、拳銃を所持する危険な少女二人を追跡しはじめた。
大都会新宿で、地球でたった二人の少女は、次第に行き場を失い追いつめられていくのだった。

少女をかくまう、中年男の優しさが光る。
二人の少女の見せる、感情の爆発も見ものだ。
地上には、きっとどこかに希望がある。
彼女たちは、小さな幸せを求めて、必死に生きようとする。

子供貧困大国とまで呼ばれ、子供の格差が問題になっている。
ひとり親世帯の統計では、貧困率は57%と、世界第2位だそうだ。
心ない親のストレスから虐待が行われ、国に寄せられる相談件数もうなぎのぼりだと言わている。
この作品は、いわばそんな少女二人を主人公にしたドラマだ
閉ざされた地方社会で、生みの親にないがしろにされ、愛情を注がれることもない。
明るい未来など、どこにあるというのだろうか。
 
いつも寂しく家に残される6歳の少女ユイ・・・。
台所を探しまわっても、食べるものはない。残っているパンにはカビが生えている。
干からびたお菓子をポリポリと食べる音が、静まり返った室内に響き渡る。
少女の、空っぽな心にある孤独の叫びだ。

リアリティを求められたヒロインには、オーディションで選ばれた寉岡萌希(つるおかもえき寉岡瑞希(つるおかみずき)の二人が抜擢された。
二人は実際の姉妹で、新人らしからぬ演技を見せる。
シンプルな娯楽作品が主流を占める日本映画で、異色の社会派ドラマだ。
ドラマの中で、谷田の父親役で菅原文太がどん尻に控えて、内田作品に重厚感を持たせている。

人の痛みを知らないいまの世の中、他人を平気で殺傷するような事件があとを絶たない。
群衆の中で倒れ、叫んでも誰も助けてくれない。
人は、他人に無関心だ。
この作品ににも、痛みを知らない人間が登場する。
親は、子供たちのことをもっと知らないといけない。
子供たちは、孤独とたたかいながら、必死になって生きようとしている。
それも、親がいても、一応家族があっても、彼らは孤独の地獄を生きている・・・。
そういう子供たちが沢山いるのだ。
この
内田英治監督作品地球でたったふたりは、前半少々かったるい部分もある。
後半はよくまとめてあるようにも感じられるが、筋立てには無理がないでもない。
確かに荒削りなところもある。
それでも、幼児受難の時代に、メッセージ性を感じさせるには十分な意欲作だ。



映画「純喫茶磯辺」ーダメ男の白日夢ー

2008-09-20 08:00:00 | 映画

確かにノスタルジックだけれど、どこか新しい。
可笑しいのに、何故か切ない。
ありそうでなさそうな、日常がある。
ほろ苦く、ちょっぴり爽快な、コメディタッチのドラマと言ったらいいだろうか。
一杯のコーヒーから何が変わる?

不器用な父娘の、ハートフルなコメディの味だ。
そう思えば、どうやら納得のいく大人の青春映画である。

吉田恵輔監督のこの作品は、ホンワカとした肩のこらない話が面白い。
8年前に妻が家を出て以来、中年メタボ親父の渡辺裕次郎(宮迫博之)と、高校生の一人娘咲子(仲里衣紗)は、公営団地でずっと二人暮らしだった。
裕次郎は、世間でもよく見かける、あまりにもテキトーな性格ながら、どこか憎めないダメ男なのだ。


裕次郎は、父の急死で、まとまった遺産を自分の手にした。
彼は、ふと立ち寄った喫茶店で、そこのマスターが美女と楽しげに会話している光景を目撃する。
それを機に、彼は遺産を元手に喫茶店経営を始めることにした。
経営も接客もズブの素人だ。
それでも、地元の商店街に店をオープンした。
しかも、娘の意見など耳に傾けず、勝手に決めた店の名が<純喫茶磯辺>だ。
開店にこぎつけた店は、内装もダサい。
そんな、ダメ親父の行動にあきれ返りながらも、放っておけない性格の咲子は、夏休みのあいだ店の手伝いをすることになった。

勢いで開店した喫茶店は、客の入りがさっぱりだ。
そんな中、バイト先を探していた素子(麻生久美子)が来店した。
明らかに美人の素子を雇うことにした裕次郎は、彼女にメイド・ゴスプレを着させて働かせた。
ところが、素子は会話も男口調でぶっきらぼうだ。
店に集まってきたのは、ダンディで遊び人風の老人、ナンパ的なセクハラ野郎、ウラがありそうな売れない小説家らで、ひとくせもふたくせもある常連たちだった。
アルバイト美女素子の存在は、マスター裕次郎の男心を大いに揺さぶった。
そして、人それぞれの、心のひだに忍び込むほのかなぬくもりが、やさしく(?)ドラマを綴っていく・・・。

娘の咲子には、父親の下心がミエミエで、なにか苛立ちをかくせない。
別れた母親のもとへ行って、、もう一度家に帰ってきてくれと、落ち着かない。
父と娘、過去ある女素子、そして集まってくる常連たち(ミッキーカーチス、ダンカン、斎藤洋介ら)のドタバタやらも、どこか憎めない。
ダサくささが加わって、作品はいかにもアトホームだ。
多少の耳ざわりなギャグが気にならないこともないが、監督の若さゆえだろう。
役者も、結構一筋縄ではいかない個性派をよく揃えた。

人は誰もが孤独で、淋しいのだ。
皆が誰かを求めている。誰かに寄りかかりたい。
男も女も、そんな淋しい連中が、あたたかな温もりを求めて集まってくる。
夢を追い、いとおしさを胸に抱いて、孤独をかみしめる男の姿がある。
何かを求めて、身を投げ出したくなるような、女の切なさがある。
それもこれも、この世のどこにでもありそうな、一見頼りない風景だ。
その風景のなかで、人は出会いと別れを繰り返していく・・・。
人生の小さな離合集散には、いつでもどこでも、何かドラマがあるようだ。

下心と下心がすれ違う。
そして、やがて可笑しき男と女・・・。
何気ない会話から、ユーモアがあふれてきて、笑ったと思ったら切なくなる。
ダサいのはダサいなりに、だからそれが妙にいとおしい。
小さな喫茶店に、心のあたたまる世界が広がっているような・・・。
たとえ上手くいかなくても、人に寄りかかりたくなる。
気にかけてくれる人がいれば、少しは楽になる。
同じ方向を見ながら、でもどこかチグハグで、それでもお互いに元気をもらい受ける・・・。

人によっては、胸にキュンとくるドラマかも知れない。
勘違いと勢いから始まった、ひと夏の出来事だ。
それも、何とも不器用な人間たちの・・・。
そうなのだ。
それは、裕次郎の見た、たぶん、夏の日のほろ苦い白日夢だったのだ。
映画「純喫茶磯辺」は、文字通り、午後の紅茶でもすすりながら観る、大人のコミックである・・・。


映画「おくりびと」ー愛と生と、感動とー

2008-09-18 08:00:00 | 映画

モントリオール世界映画祭の、グランプリ受賞作品だ。
この映画は、さらに中国最大の映画賞「金鶏百花賞」観客賞で、作品、監督、主演男優賞まで受賞した。
アカデミー賞外国映画賞の、日本代表選出にも決まっているそうだ。
日本映画も、どうして捨てたものではない。
ここに、素晴らしい作品が誕生した。


「お葬式」とか、死者を送る儀式を題材にした作品は古今東西様々だけれど、“納棺師”にスポットをあてた点は何とも斬新だ。
滝田洋二郎監督は、小山薫堂の脚本を得て、異色の感動作を世に送り出した。

納棺師・・・、遺体を棺に納める、一見地味で、触れ難いイメージの職業をテーマに描きながら、ユーモアを絶妙に散りばめて、愛すること、生きることを紡ぎだすドラマだ。
ひょんなことから納棺師になった主人公が、様々な死と向き合うことで、そこに息づく愛の姿を見つめる。

人は誰でも、いつかおくりびと、おくられびととなる・・・。
この普遍的なテーマを通して、夫婦の愛、わが子への無償の愛、父や母、肉親への想い、友情や仕事への矜持などを描き出していく。

物語の舞台は、山形県庄内平野である。
名峰月山を背景に、美しい自然を四季の移ろいとともに叙情的に描いている。

東京でオーケストラのチェロ奏者をしていた小林大悟(本木雅弘)は、楽団の解散で、演奏家への道をあきらめ、故郷の山形へ帰って来た。
求人広告を頼って採用された先は、安らかな‘旅立ち’のお手伝いをする納棺師の仕事であった。
思いもよらない仕事に慌てふためく大悟だったが、社長の佐々木(山崎努)に言われるがままに引き受けてしまい、妻の美香(広末涼子)には冠婚葬祭関係の仕事についたとごまかしてしまう。

佐々木とともに、大悟の新人納棺師としての日々が始まる・・・。
そして、様々な境遇の死や別れと向き合ううちに、戸惑っていた大悟も、いつしかこの仕事に理解を示すようになっていった。
そんな矢先、結婚式場ででも働いていると勝手に勘違いしていた美香に、本当のことがばれてしまった。
彼女は、嫌悪感をあらわにして、「汚らわしい!」と言い残して、実家へ帰ってしまった。
数年前に母親を亡くし、幼い頃に父親が失踪してしまった大悟にとって、唯一の家族であった美香が離れていったことは大きなショックだった。
それでも、真摯な態度で仕事に臨む信念だけはゆるがなかった。
彼は、彼女がいつか戻ってくるのを待つことにした。

季節は移ろい、庄内平野に春が訪れようとしているとき、納棺師として充足感と誇りを胸に刻みはじめていた大悟のもとに、いろいろな知らせが舞い込んできた。
美香の懐妊、幼なじみの母親の死、そして、30年間行方知れずだった父親の死であった!
大悟は夫として、人として、身近にいるかけがえのない人々の生と死に、嫌でも真正面から向き合ってゆかなくてはならなかった・・・。

出演者はほかに、銭湯のおばちゃん(吉行和子) 納棺会社のワケあり事務員(余 貴美子 、銭湯の常連客で本来は火葬場の職員(笹野高史)らのベテランがわきを固めて、それぞれがいい味を出している。
納棺会社のクセ者社長(山崎努)も、いつもながらの渋い演技には感心させられるし、最初は偏見を持ちながら、のちに心から納棺師に感謝する遺族の喪主(山田辰夫)も、個性派が揃ってみんなうまい。

笹野が、銭湯の女将が亡くなったとき、棺の中に眠る彼女の顔に呟く台詞がいい。
 「いってらっしゃい。また、会おうのう」・・・
人生は輪廻転生であるとすれば、死はその過程であり、新しい旅への出発点である。
見送る旅立ちは、死者の‘再生’を祈る。

主人公大悟(本木雅弘)の納棺の所作は、手や指の使い方、作法までこれはと思わせるほどで、儀式のように流れるシーンは厳粛で、静謐な感動さえ漂う。
エンドタイトルの、納棺技術の丁寧なワンカット長回しも、この仕事がいかに神聖で深奥なる作業かを描き見せてくれる。

作品の発想は、主演の本木雅弘によるところが大きいらしく、脚本を書いた小山薫は、「山形」と「納棺師」の二つのキーワードで原稿に着手したが、第一稿は3時間以上の長さになってしまったそうだ。
それを、最終的には2時間10分できちんと書き上げた実力もなかなかだ。

この作品の中には、一度夢破れながらもなお生き続ける人へのエールもある。
死者に対するいたわりの心もある。
ブラックユーモアや、戯作者精神じみたものは極力抑えて、人間の営みそのものへの深い共感を前面に押し出している。
くすくす可笑しい話もあれば、涙のにじむシーンもあって、素晴らしいカットが随所に散見される。
これが、オリジナルだというのも少々驚きだ。
死者の整顔から始まって、着付け、メイク、納棺と進むのが、一連の納棺師の仕事なのだが、これほど丁寧に整然と、厳かに執り行われるのを見たことはない。

映画というと、今は何かと説明過多の作品がやたらと多い。
そんな中で、この映画は説明ではなく、登場する人物の行動とニュアンスで感じさせ、いかにしゃべらないで良いものを描けるかを貫いていて成功した、大変稀有な作品と言えそうだ。
不要なセリフを排して、本当に必要なセリフだけが生きている・・・。
そんな感じがする。

滝田洋二郎監督 おくりびとは、今どきお値打ちの一作と言える。
この秋の、日本映画の静謐な秀作だ。


映画「アフタースクール」ー小細工を弄した演出ー

2008-09-16 21:00:00 | 映画

内田けんじ監督が、大人たちの放課後(アフタースクール)を描いた。
かつての同級生たちが、大人になって起こす出来事には、すべて裏があり、建前があり、嘘があった。
人を信用できない男がいる。そして、変わった男も・・・。
そんな‘昔の’同級生たちが巻き込まれてゆく仕掛けの中で、彼らが驚きの展開に翻弄され、一種爽快な(?)物語に一応は仕上がった。

この作品は、コメディあり、サスペンスのタッチあり、甘やかなラブストーリーの展開もありで、一見、一筋縄ではいかない頭の回転が必要かもしれない。
時には、信じていたものが、ひっくり返るような、想像もできない、お膳立てが用意されていたりする。

母校の中学で働く教師、神野(大泉洋)は夏休みだったが、部活動があって出勤していた。
彼のもとに、同級生だと言う探偵(佐々木蔵之介)が訪ねてくる。
探偵は島崎と名乗るが、神野は何となくしか覚えていない。
同じクラスだったこともないし、それほど親しくもなかった。
探偵は、やはり同級生の木村(堺雅人)を探していると言う。
木村は二枚目サラリーマンだ。
神野と木村は、中学時代から親友同士だ。
今朝も、産気づいた木村の妻を、仕事で忙しく昨夜から全くつかまらない彼に代わり、病院へと連れて行ったばかりだった。
そのことを探偵に告げると、今朝撮られたものだという一枚の写真を渡される。
そこには、若い女と親しげにしている木村が写っていた。
ショックを受けている神野に、探偵は木村を探すべく手伝ってほしいと言う。
返事に迷っているうちに、探偵の強引なペースにのまれ、神野は木村探しを手伝うことになってしまった。

神野は、顔が知られ身動きできない探偵の代わりに、木村探しを探偵に依頼してきた男の尾行をするはめになった。
そして、男は、木村が働く梶山商事の上層部の人間で、その背後には社長の存在があることが明らかになる。そこには、たちの悪いヤクザ片岡も絡んでいる。

捜索活動を続けていると、片岡の経営するクラブで働いている女、あゆみの行方を捜しているという情報が入り、そのクラブは、梶山商事の人間が頻繁に利用していたことがわかった。
クラブの別の女に聞くと、あゆみが消えた日に、木村が店に来ていたという。
神野はショックを隠せない。

探偵は、ヤクザの女に手を出した木村が、女房子供を捨て、女と一緒に逃げたのだと結論づけた・・・。
しかし、そんな話はよくある話で、実は、信じていたものがひっくり返るような、想像もできない展開が待っていたのだった・・・。

出演は、ほかに田畑智子、常盤貴子、山本圭、伊武雅刀らが揃い、物語の進行につれて、登場人物の印象もめまぐるしく変わる。
こういうキャスティングもあるのかと思った。

ドラマとしては、少々懲りすぎ、ハナシを創り過ぎ、演出過剰のきらいは否めない。
ミステリアスな人物の登場もあって、当初台本を読んだ俳優陣には、文字を追っていて、誰がどんな状態でセリフを言っているのか、なかなか理解できなくて頭に入ってこなかったとは、堺雅人の弁だ。
カットのひとつひとつを理解して演じるのに、ベテラン役者が監督にそのたびに確認を繰り返したという話もあるくらいだそうだ。
この内田けんじ監督作品「アフタースクールは、脚本も筋立ても荒削りの部分が多く、もっと推敲され、整理されてもいいのではないか。
どんでん返しの奇をてらったのかも知れないが、ナンセンスだ。
あれもこれもと、盛りだくさんの伏線をはりめぐらして、作品として必要でもない(?)カットがやたらと多くなったのが気になる。
深夜のレストラン、客たちが、申し合わせたように麺を音を立てて啜るシーンなど要らないのではないか。
観客を一瞬は煙に巻いたつもりで、とことん騙そうとした企みの演出、でもその演出のくどさ、わざとらしさが、いかにも青臭いと言ったら、内田ファンは怒るかも知れないが・・・。

 


映画「ウォンテッド」ー暗殺者、その光と闇ー

2008-09-14 20:00:00 | 映画

孤を描きながら標的を射止める弾丸、弾力性のあるアクロバティックなモーション、車同士のランデブーと呼べそうな見事なカーチェイス・・・、これまでのアクションの常識をくつがえすビジュアルが満載だ。
いやはや、たいそうな映画が登場したものである。

・・・はるかなる昔、機織り職人たちは、糸の目に秘められた暗号を発見した。
それは、放置すれば人々に善をなす悪人の名を示すものであり、職人たちは秘密裏に組織を作ると、悪人たちは抹殺すべく動き始めた。

そして・・・、1000年という時が経った。
フラタニティと名づけられた機織り職人の組織は、今や最大の危機に瀕していた。
組織で名うての暗殺者、クロス(トーマス・クレッチマン)が裏切り、次々と仲間を殺戮し始めたのだった。
そのクロスを倒せるのは、ただ一人、腕利きの暗殺者だった父親の血を引く青年ウェスリー(ジェームズ・マカヴォイ)だけだった。

ウェスリーは全くさえない若者だった。
彼は、買い物中の店先で、謎めいた美女、フォックス(アンジェリーナ・ジョリー)に声をかけられる。
とその時、クロスが襲撃してきた。
フォックスはウェスリーを守って応戦し、さらに激烈なカーチェイスを展開して、何とかクロスの追跡を振り切った。
二人の着いたところは、フラタニティの本拠地の紡績工場であった。
ウェスリーは、組織の指導者スローン(モーガン・フリーマン)から、自らの血の秘密を知らされる。
暗殺者だった父、その父を殺したクロス・・・。
ウェスリーには、信じられない話だった。
だが、銃を手にしたとき、ウェリーの中に眠る‘才能’の片鱗が目覚めた。

ウェスリーの人生は一変した。
もう怖いものはなくなった。
意気揚々と、暗殺者修行の道を歩み始めたのだ。
やがて、彼はスローンが読み取った人物を次々と暗殺していく・・・。

ある日、父の形見の銃を取りに戻ったウェスリーは、クロスと遭遇するはめになった。
フラタニティのメンバーがクロスを追ったが、ロシア人が犠牲となってしまった。
だが、それと引き換えに、クロスが使っている銃弾が、銃弾職人のペクワースキー(テレンス・スタンプ)の手になるものとわかった。
スローンは、ウェスリーにクロスの抹殺を指示、同時にフォックスにウェスリーの始末を命じた。
そして・・・。

ウェスリーという男は、考える間もないうちに、壮絶な争いの渦中に身を置いて、暗殺者としてその潜在能力を開花させていく。
どうもよく解らないのは、そのことが世界の秩序を守るためだということだ。

原作は、グラフィック・ノベル(アメリカン・コミック)と言われているが、まことに荒唐無稽な話の連続だ。
何が起ったか解らぬうちに、次から次へと、衝撃のシーンが息つく間もなくつながってゆくのだ。
弾丸が、標的の前にある障害物を回避する変化球もどきも、疾走するシカゴの高速鉄道の屋根の上や、脱線転落する特急列車内の連続アクションも、これら新しいタイプの“新次元映像”と呼ぶらしい。
凄まじい映像が現れたかと思ったら、その意味を考える間もなく、立て続けに事件は起きる。

主人公ウェスリーは、初めさえない日々を送っていて、突如として訪れた暗殺者としての運命に翻弄されることになるわけだ。
彼の撃った弾は、百発百中する超能力の持ち主だ。だから、ヒーローになったのだ。
映画の中のフラタニティというのは、世界の平定のため、神の意思を解読し、暗殺を決行する秘密結社と言う設定だ。
作品の核は、ウェスリーという青年の成長物語なのだそうだが、どうもそれらしく思えない。

一見ハードボイルド風で、超過激な面白さがあるかも知れないが、奇想天外な展開に馬鹿馬鹿しくなる。
ひどく大げさな飾りつけのわりには、終わってみると中身は薄っぺら、というより空っぽだったという失望感を味わうかもしれない。
これも‘娯楽’(?)と思う人には、さして気にもならないか・・・。

ティムール・ベクマンベトフ監督アメリカ映画「ウォンテッドは、暗殺者たちを扱った異次元のスーパーアクション・ムービーといったところか。
ただ、映画の人気度は高いようだ。
こちらとしては、どうも全身に返り血を浴びたような感じが、いまでも拭えない。(苦笑)
 


映画「シャッター」ー女の情念の怖ろしさー

2008-09-12 08:00:00 | 映画

明るく楽しい映画のあとに、もう一本の映画は、身も凍えるような怖さを感じさせる作品だ。
一口で言うと、心霊写真を題材にした、スピリチュアルなサスペンス・スリラーだ。
落合正幸監督作品で、アメリカ発のハリウッド作品というのもめずらしい。
ほとんど全編に渡って、日本で撮影され、アメリカ映画として劇場公開された。
出演者、スタッフは日米混成だ。

結婚したばかりのアメリカ人夫妻が、夫の仕事と新婚旅行をかねて日本を訪れ、心霊写真を軸とした奇怪な現象に次々と見舞われる・・・。
心霊写真とは、撮影の時にはその場に存在しなかった(目に見えなかった)人の姿や影、身体の一部、奇妙な光などが移った写真を言うわけだが、中には霊が目撃された上で撮影されることもあるが、そうしたケースはごくまれだそうだ。
しかし、こうした心霊写真なるものは、欧米と日本では大きく捉え方も異なるようだ。
この作品では、日本的な霊の捉え方が、海の向こうのハリウッドで取り上げられた点で、この種の映画としては先駆的ではないだろうか。

・・・忘れたとは言わせない。
それは現実か、幻か。
幸せにつつまれたカメラマンのベン(ジョシュア・ジャクソン)と、新妻ジェーン(レイチェル・テイラーは、ハネムーンで日本を訪れていた。
しかし、車を走らせていた夜の山道で、彼らは、路上に不意に現れた女性を轢いてしまった。
慌てて車を降りると、奇妙なことに彼女の姿は忽然と消え去っていた。

その日から、彼らは奇妙な現象に見舞われるようになる。
彼らの撮った写真には白いモヤ、神経を逆なでするような風の音、ベンの身体の不調、そしてたびたび目前に姿を現す“あの時の”女性・・・。
ベンが仕事に追われている間も、異国の地で孤独を募らせながら、ジェーンは真相を探るべく手を尽くしていた。

そのうちに、“めぐみ”と呼ばれる女性の存在が浮かび上がって来る。
そして、ついに起る凄惨な事件・・・。
“めぐみ”(奥菜恵)は、一途な恋に破れた悲しい女だった。
彼女の復讐の念が招く惨劇は、ベンとジェーンを否応なしに巻き込み、物語は思いもかけぬハイテンポで、予想だにしない結末へと急展開していくのだった・・・。

霊が写るスピリチュアル・フォト(心霊写真)の、身も凍るほどの不気味さ、得体の知れないものへの恐怖、意外な過去が明らかになるミステリー・・・。
そして、復讐という形でしか体現できなかった、身を裂かれるほど切ない悲劇的なロマンス・・・。
これらの多彩なエッセンス(要素)が絡まりあって、ドラマはスリリングに進行する。
サスペンスフルな展開、ショッキングなビジュアルに釘づけになり、‘心の闇’が見えてくる結末まで目が離せない。

この作品は、ハリウッド作品だけど、ほぼ全編日本ロケを行った。
東京や箱根などの日本的な風景によって、そこでしかかもし出せないムードが活かされ、なおかつハリウッドならではの歯切れのよいリズムが保たれている。

俳優陣は日米からキャスティングされていて、注目は奥菜恵(めぐみ)の演技だ。
これが、凄い!
めぐみに扮した彼女は、セリフがほとんどない。
それでいて、謎めいた動き、情念、切なさ、嫉妬、愛憎を主に目の表情で体現する。
これはもう、ぞっとするほどの怖さがある。
他に、日本俳優陣では山本圭、宮崎美子らが共演し、ドラマに独特の空気を与えている。

アメリカからオファーを受けた落合正幸監督は、あちらで公開された「感染」が注目を浴び、今回の作品でも、現代性を敏感にとらえたドラマ作りの手腕がいかんなく発揮されているのではないか。

映画の中で、怪奇現象が現れるたびに怖さを感じる。
ベンとジェーンが、すべての謎を解くためにめぐみの実家に向かい、そこで直面するあっと驚く衝撃の事実に、まず一撃を受ける・・・。
それからは、次から次へと・・・。
とにかく、怖い。だから、ここまでにしておきます。はい。

落合監督の説明を借りると、
 「この作品は、悪の本質において、アジア的な考え方を伝える作品だ。僕はこの作品を手がけていて、
 何度も“天網恢恢疎にして漏らさず”という中国の諺を思い出した」と言う。
この言葉は、こう言いかえることも出来るだろう。
 「法や社会は許そうとも、決して許さない存在がそこにある。」

落合正幸監督、ルーク・ドーソン脚本によるアメリカ映画「シャッターは、悲劇のヒロインを描いた。
女性として初めての大恋愛が突然終わることで、心が傷つき、女はかくも変身するものでしょうか。
そうでした、そうでした。
女の怨念というものは、ずっと昔から大変怖ろしいものなのでした・・・。


映画「幸せの1ページ」ーハートフル・アドベンチャーー

2008-09-10 10:00:00 | 映画
誰しも、自然の豊かな南海の無人島で幸せに暮らせたら、どんなにいいだろう。
ありそうでなくて、ありそうな、ファンタジックな作品だ。
ファンタジックと言うと、子供向きかとも思うが、これは、大人にこそ輝くリアリスティックなファンタジーとでも呼ぼうか。

ジェニファー・フラケット、マーク・レヴィン監督・脚本による、アメリカ映画だ。
実生活では夫婦の二人が、共同で手がけた作品である。

冒険小説家アレクサンドラ・ローバー(ジョディ・フォスター)には、ある秘密があった。
それは、自分が書く勇気あるヒーロー、“アレックス・ローバー”とは正反対で、アパートに閉じこもって小説を書くにもスランプに陥っている、対人恐怖症で潔癖症の引きこもりだということだ。

だが、南海の孤島に住む少女ニム・ルソー(アビゲイル・ブレスリン)から、海洋生物学者の父ジャック・ルソー(ジェラルド・バトラー)が嵐の海で遭難したとの、SOSのメールを受け取って、アレクサンドラの人生は一変する。
ニムは、アレクサンドラ・ローバーの小説の主人公アレックスの大ファンだったのだ。
そして、アレクサンドラは、新しい自分が待つ、外の世界への扉を開けることになる・・・。

おてんばな少女ニムは、父ジャック(ジェラルド・バトラー二役)と、手作りのツリーハウスで二人暮らしをしている。
豊かな自然に囲まれながら、毎日を元気いっぱいに過ごしていた時の出来事であった。
ニムは学校にも行かず、友達は動物だけという、世間とは隔絶された生活を送っていることから、現実とファンタジーとの区別がつかないまま、頼れる冒険者でも何でもない、引きこもり作家に助けを求めてしまった・・・。
そんな思い違いが生み出す、まさかまさかの展開が、この映画に思わぬ意外性とほのぼのとしたユーモアを生み出しているのだ。

意を決して、ついに家を飛び出し、様々なトラブルに巻き込まれながらも、自分を生み出した小説の主人公アレックスに心の中で励ましてもらいながら、アレクサンドラは命からがらニムのところへやって来る。
ニムはそんな彼女を見て、それが自分の待ち望んでいたヒーローでないことを知り、愕然とする。
紆余曲折を経てつながった、遠く離れた別々の場所で、世界から‘孤立’した生活を送ってきた二人の出会いが、不思議な感動をもたらすことになる。

アレクサンドラを演じるジョディ・フォスターは、オスカー受賞歴2回という、ハリウッドを代表する名女優だし、今回は、これまでの「告発の行方」(88)、「羊たちの沈黙」(91)、「ブレイブワン」(07)と言ったシリアスな作品で、タフで強い女性を演じてきたイメージの強い彼女が新境地を開き、気弱で社会にうまくとけこめない人物をコミカルに演じている。

少女ニム役のアビゲイル・ブレスリンも、生き生きと自然体の演技で、画面に登場する友達の動物、アシカ、ペリカン、トカゲ、海ガメたちとの交流を描いたシーンは、へえ~とか、ほう~とか、何とも微笑ましい演出で楽しい。
彼女は、コメディとアクションそれに家族の感情をドラマティックに、そのフィーリングを同時に表現できる、小さな‘大女優’(?)かも・・・。
アカデミー賞にノミネートまでされて、一部では天才少女とまで呼ばれているそうだ。

ファンタジーとリアリティの境界線で、科学者であり、ニムの素敵なパパであり、そして想像上の冒険家、アレックス・ローバーの一人二役に挑戦するのは、「オペラ座の怪人」(04)ジェラルド・バトラーだ。
本来別の俳優がやる予定だったが、この作品の脚本に魅了されたというバトラー自信の提案で、彼の出演が決まったのだそうだ。

作品終盤、さてここから本当の幸せの1ページが始まるのかな、と思わせるところでエンディングだ。
おやおや・・・。
続編があってもおかしくない。
心やすらぐ、楽しい映画として印象に残る一作だろう。
何といっても、オーストラリアの大自然がとても美しい。


どんちゃん騒ぎー醜悪な茶番劇ー     

2008-09-08 22:00:00 | 寸評
朝夕の、風の冷たさにようやく秋を感じるようになってきた。
自民総裁選がにぎやかだ。
参戦に、立候補を表明した候補者は7人もいる。
乱戦状態ではないか。
20人の推薦人のメドさえたっていないのに、出馬宣言をした人もいる。
総裁に選ばれそうな人は、大体決まっているようなものだから、面白くも何ともない。

まあ、もっともらしく政策論争だとか、国民のためだとか言って、3人、4人ならいざ知らず、7人も立候補を表明するなんて、一体どうなっているんだろう。
当然、目前に迫った解散・総選挙のための売名行為でしかない。
何か、国民を愚弄してはいないか。
総選挙をド派手に演出して、国民の目をひきつけ、かくなるうえはそのままの勢いで解散・総選挙になだれこむしか残された道はないのかも知れない。
完全に末期的症状だ。

だから、五つもの政党を渡り歩いて、政治哲学もないと言われている女性候補がいたり、とにかく売名というか、ドタバタに乗じて右往左往している自民の姿を見ていると、もう嫌気がさしてくる。

毎日毎日、大新聞やテレビまでが見飽きた顔を並べて、ああでもない、こうでもないと、言いたいことを言って、まったくひどいものだ。
まるで、マスコミがこれでもかこれでもかと煽って、垂れ流ししているかのような印象で悪質だ。
マスコミが、はしゃぎたてればたてるほど、自民党の思う壺なのに・・・。
まことに情けない。

顔が売れていれば、いいというものではない。
この人ならばという、期待の持てる候補者がいるだろうか。
7人もの乱立というのは、これぞというエースがいないからだ。
いたずらに「露出効果」だけをねらった、醜い三文芝居か。
しかも、国民不在で・・・。
しかし、懸命な国民は、こんなどんちゃん騒ぎ、いい加減なパフォーマンスに惑わされることはない。
今度の自民党にとって、首相を選ぶ最後の総裁選になるかも知れない。
そのあとに行われる、総選挙の結果こそ注目である。

どのみち、総裁選など、党友はいざ知らず、一般庶民にとっては関係ない。
こんなものは、自民党内の三文芝居だ。
それも、かつて三角大福中という五人の首相とは資質とてこんなものではない。
いろいろあったが、何だかんだ言ったって、三十代の頃から首相を目指し、研鑽を積み、権力闘争を勝ち抜いてきたのだった。
二世三世のやわなお坊ちゃまとは、わけがちがうのだ。
一国の首相の重み、責任をよく理解していたはずだ。
戦争の苦労も知っていた。
荒廃した国家と国民のために、情熱を傾けて働いた。
その過程で、金を懐に入れる政治家もいたが、頭のレベルは今より数段高かった。

自民党の総裁選は、適任者のいない、今の自民党の断末魔だ。
ある政治評論家が、こんな風に揶揄している。
 「オンナ子供まで総出演させて、いよいよお笑い劇場にするしかなくなった」

北朝鮮拉致問題の解決もままならない。
誰か、命がけで北朝鮮にのり込んでいくくらいの、勇気ある政治家はいないものだろうか。
事務所経費をちょろまかしたり、うす汚い献金(?)を受けたり、セコい金儲けしか考えない政治家は国民のため何もしない。
悲しいかな、いまや国民のために、一身を投げ出すような立派な政治家はいないということだ。

もはや、一日も早く、総選挙で民意を問い、新しい政治の出直しをすべき時だ。
マスコミ・ジャーナリズムは、政権を平気で投げ出すような自民党の責任を徹底的に追及し、与党をもっともっと叩くべきなのにそれをしない。
何故なのだ。何故しないのだ。
マスコミだって、どこかおかしい。
正しいものを見抜くことも、堂々と主張することも出来ないでいる。
これでは、世の中までが、狂ってくるというものだ。
マスコミの責任も大きいと言わねばならない。