徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

検察審査会の怪―呆然、‘魔女狩り’の恐怖―

2010-10-28 17:00:00 | 寸評

疑わしきは罰せずではなくて、疑わしきは起訴という‘暴論’が、マスコミ世論にまかり通っている。
政治と金の問題は、何も小沢一郎氏ひとりに始まったことではない。
古い自民政権時代から、延々と続いてきたことだ。
自分たちのことを棚に上げて、何をいまさらと言いたい。

検察審査会なるものによる小沢氏起訴を、鬼の首でも取ったかのように、新聞は号外まで出して、欣喜雀躍としている。
呆れて、あいた口がふさがらない。
世間へのこの大PRは、「小沢辞めろ」の大合唱となった。
何が何でも、小沢一郎大悪人の構図を描きたいかのような、大騒ぎである。
それは、怖ろしいほどに、滑稽でさえある。

政治家が、検察審査会によって強制起訴される初めてのケースだ。
検察は捜査のプロだ。
その検察が、証拠にもとづいて行なった起訴と、素人の集団に過ぎない検察審査会が‘感情的に’行なった起訴は、同じものではない。
検察の起訴と、検察審査会の強制起訴は、あくまでも異質のものだからだ。
それなのに、検察による起訴を、あたかも推定有罪であるかのような報道がなされている。
かりに起訴されたからといっても、有罪になるとは限らない。
不可思議なことだ。

それでもって、小沢氏が辞めなければならない理由とはならない。
わずか11人の判断が、衆院選で13万票余りを獲得した小沢氏を辞職に追い込むとすれば、その13万人余りの有権者の民意をどう判断すればよいのか。
これは、議会制民主主義の根幹にかかわる問題になってくる。
特捜部は、無理な捜査をがんがんやって、さすがにもうこれ以上は進めないといって力尽きたのだ。

大体、問題視されている政治資金規正法違反の容疑とやらは、04年の土地取得を翌年の報告書に記載したという程度のものだった。
その程度の‘疑惑’を、「市民感覚」とやらを追い風に、検察審査会が蒸し返そうとシャカリキになっている。
かつて、戦争へと突き進んだ日本の「狂気」を思い起こさせる。

これまで、検察審査会はいくつもの「冤罪事件」を引き起こしてきたことを、ご存知ですか。。
1974年、兵庫県の児童施設で園児2人が死亡した「甲山事件」とか、「岡山遊技場放火事件」とか、それらがいかにズサンであったかということだ。
起訴強制については、検察が独占した公訴権の実行には、民意を反映させるという趣旨があるそうだ。
その民意とやらは、どのように反映されたのか、検察審査会の会議録を検証する必要がある。
それなのに、それを公開しようとしない。
情報公開は、民主主義の基本中の基本だ。
いくらだって、個人情報を保護したうえで、公開することはできるはずだ。
秘密主義だから、いったい何をやっているのか、中身が全く見えてこない。
故に、検察審査会って、いったい何なのだ?ということになる。
不明朗この上ない。

そして、マスコミは、‘魔女狩り’みたいなことを平然とやっている。
テレビを見ていても、検察審査会の議決について、出演者でさえ正確にその内容を把握している人がどれだけいるだろうか。
世論は、ときには狂気にだってなる。
だから、冤罪も起きる。
罪とは、そして罰とは、何だろうか。
人が、人を裁くのである。
断じてあってはならないことだが、それがもしも人間の‘狂気’であったとしたら・・・?
怖いことである。

今回の検察審査会の議決にだって、大いに問題ありだ。
憲法31条には、刑罰を課すには適正な手続きによると規制し、検察官が起訴する場合も、きちんとした理由を示している。
ところが、検察審査会には判断基準のようなものもなく、‘多数決’で起訴を決めるという完全な自由裁量だ。
感情だけで、どうにでもなってしまうのだ。
今回のように、犯罪事実が勝手に加えられた、いわば理由なき起訴が許されるようだと、憲法違反ともなりかねない。
強制起訴制度そのものに対する、、違憲論が登場してくるのだ。
多くの有識者も言うように、要するに、強制起訴とは問題だらけなのだ。

マスコミは、延々1年半にわたって、小沢一郎氏を「犯人扱い」し、世論を煽った。
この責任は重いはずだ。
マスコミは正しかったか?
本当に正しかったか?
小沢氏に対する強制起訴議決は、「国民が、裁判によって、本当に無罪なのか、それとも有罪なのか、判断してもらう権利がある」からだとしている。
嫌疑不十分で二度とも不起訴とは、検察官の行政権行使に対しては、疑いのある人は100%有罪の確信がなくても、裁かれるべきだとする論理か。

それとも、あの前田検事ではないけども、検察はあらかじめ有罪にすべきシナリオを作っておいて、何が何でも小沢氏を起訴→有罪へともっていこうとするのか。
一歩間違えると、大変なことになる。
強制起訴議決で、被告とされてもし無罪が確定した場合、基本的人権はどうなるのか。
(たったひとりの政治家の政治生命を奪うことで、何が変わるのだろうか。)
そのとき、だれが責任をとるというのか。
いろいろ考えると、怖ろしいことだ。

‘魔女狩り’裁判の手続きが進んで、小沢裁判で検察官の役を務める三人の弁護士がやっと決まった。
本当にやっとだ。
普通なら引き受けることもない、貧乏くじを引いたからか、彼らの顔色はどう見てもあまりよくはなかった。(それもそうだろう。)
この裁判の行方も気になるところだが、国会はといえば、だらだらといまだにこんなことで小沢潰しをやっていて、国民の生活や景気はいったいどうなるのだろうか。
いい加減にしてほしい。


「川端康成と三島由紀夫」展―鎌倉文学散歩―

2010-10-24 10:00:00 | 日々彷徨

秋の日の文学散歩は、鎌倉へ。
久しぶりのことであった。
鎌倉駅西口を出て、御成小学校の裏手、中央図書館の前を通って住宅街に入る。
いくつもの路地を通り抜けて、吉屋信子記念館を過ぎれば、鎌倉文学館への道はこれが一番近いように思われる。
大人の足で、15分ほどの散歩道である。

鎌倉文学館が、開館25周年だそうだ。
「川端康成と三島由紀夫 伝統へ、世界へ」と題する記念特別展が開かれている。
日本人初のノーベル文学賞作家川端康成と、彼の推薦によって文壇に鮮烈なデビューを果たした三島由紀夫、この二人の文学者を知らぬ人はいない。
二人の偉大な作家の軌跡をたどる、特別展である。

二人は、師弟関係というよりは、師友関係にあったといった方が適切だけれど、心の交流を通じて、その中の見えざる魂のふれあいに、偉大な作家の隠された真実が垣間見える。
この特別展では、二人の間に交わされた多くの書簡を中心に、資料が展示されている。
鎌倉文学館は、三島由紀夫の晩年の作品「春の雪」の舞台となる、侯爵邸のモデルとなった場所である。

いま、この二人の純文学作家を想うとき、その文学、思想、美学あらゆる点で、ともに稀有な才能の豊饒に驚くばかりだ。
また、それぞれの人生の終焉を想うとき、「自死」という道を選択しなければならなかった、大きな衝撃の事実に、感慨無量だ。
川端康成という人は、手紙をまめに書き、受け取った手紙も大事にする人であったことがわかる。
三島由紀夫との間に交わされた書簡の、いかに多いことか。
この書簡を読み解くだけでも、25歳という年齢差のある二人の作家の出会いが、どのようなものであったかがうかがわれる。

三島由紀夫夫妻の結婚式に媒酌を務めた川端は、三島が自衛隊で自決したとき、真っ先に市ヶ谷の自衛隊駐屯地に駆けつけ、その死を心から悲しんだ。
昭和45年11月25日、小説「天人五衰」の最終稿を託した直後のことであった。
まだ、45歳であった。
川端はこのとき、横光利一と並ぶ三島を「師友」と呼び、「私はこの二人のあとに、また生きた師友にめぐりあへるであろうか」とも述べている。

川端康成は、20歳の時の三島の作品に触れ、まばゆいほどの才能のきらめきを感じたと賛美している。
昭和21年のことだ。
以来、四半世紀にわたる交流が続くのだが、ノーベル文学賞受賞の知らせを受けたとき、それを「三島由紀夫君のおかげだ」とも語っている。
手紙や原稿などのほかに、小林秀雄、大江健三郎、吉永小百合、それからノーベル賞作家パール・バックといった人たちからの、ノーベル賞受賞に対する祝電なども披露されている。

川端康成も三島由紀夫も、海外での出版点数が増え、ともに評価は高まっていた。
三島がノーベル賞を受賞しても、不思議はなかった。
二人の偉大な作家が、大きな文学賞を競ったとも言われている。
川端は三島の作品を丹念に読んでいて、自分が瞠目したことを隠そうとしなかった。
そして、三島がかなり早い時期に、自分の死までも川端に打ち明けていたとは・・・。

川端康成は、自身のノーベル文学賞受賞後の三島由紀夫と伊藤整との対談の中で、日本の文学が、日本語ではなく外国語に翻訳されていて、正確な評価が得られるものだろうかという思いを語っているのは、興味深いことだ。
確かに、その国の言語で読んでいなくては、その国の文学を理解することは難しいかもしれない。
その川端も、昭和47年4月16日夜、仕事場にしていた逗子マリーナのマンションで、衝撃の「自死」をとげた。

生前川端は、谷崎潤一郎の「源氏物語」に誤訳の多いことを指摘し、自ら現代語訳をライフワークにと考えていたようだ。
それは、生前の彼の「源氏」に関するメモや、谷崎の著書への朱筆での書き込みからもうかがえる。
だが、それはついに果たされることはなかった。

この特別展は、12月12日(日)まで開かれている。
また、10月26日(火)、11月5日(金)には、別会場(鎌倉生涯学習センター)で、それぞれ記念講演なども予定されている。
いま、文学館から眺める湘南の海を前に、庭先に、色とりどりのバラが秋の日差しをいっぱいに受けて咲き競っている。


映画「桜田門外ノ変」―春の雪を鮮血で染めた朝―

2010-10-20 11:15:00 | 映画

いまの日本は、どういう人たちの思いで成り立ってきたのだろうか。
そんなことを考えさせる、重厚な時代劇だ。
現代と、そして150年前の日本と・・・、そこに歴史の真実を描こうとする、佐藤純彌監督のなみなみならぬ意気込みが感じられる。

1860年3月3日に、この事件は起きる。
世にいう「桜田門外ノ変」である。
この映画では、襲撃のシーンが前半に描かれ、水戸藩の下級武士たちの苦悩と、のちの彼らの壮絶な運命を後半に描いている。
映画の作り方にも、なかなか現代的な工夫が凝らされている。

冒頭に、2010年の国会議事堂と桜田門がスクリーンに映し出される。
それから、150年前の桜田門に移るという手法である。
白い雪の上に散る鮮血、そこに見えてくるものは、歴史を動かした、無名の武士たちの存在の証しそのものだ。
佐藤監督は、ドラマを実に丁寧に描いている。
黒船来航、そして明治維新まで14年間、歴史の激変期に生きて、若くして散って逝った男たちの生き様は、この物語を通して、はかなくも切ない。

安政7年(1860年)2月18日早暁、水戸藩士・関鉄之介(大沢たかお)は、妻ふさ(長谷川京子)と息子の誠一郎(加藤清史郎)に別れを告げ、故郷から出奔した。
鉄之介は、この年の1月、水戸藩の有志たちと徳川幕府の大老・井伊直弼(伊武雅刀)を討つ盟約を結び、それを実行するために江戸に向かった。

大老襲撃は3月3日に決まり、鉄之介をはじめとする水戸藩の浪士17名と、薩摩藩士1名を加えた、襲撃の実行部隊18名が集結する。
そこで、襲撃計画の立案者で、水戸尊王攘夷派の指導者・金子孫二郎(柄本明)から、鉄之介が実行部隊の指揮を執るよう言い渡される。

・・・予定通り、井伊大老の首を刎ね、その成功を見届けた鉄之介は、京都へと向かった。
この大老襲撃計画は、彼らの計画の序曲に過ぎず、薩摩藩が挙兵をして、京都を制圧し朝廷を守るはずだったが、藩内の慎重論が強く、この計画は頓挫する。
そして、幕府側からはもちろん、かつての同胞である、水戸藩士からも追われる立場となった鉄之介は、「桜田門外ノ変」に至った歳月を思い返していく――。
彼は、述懐するのだ。
 「我らは、井伊直弼の首一つを奪うのに、どれだけの命を道ずれにしたのでしょうか」・・・

季節はずれの雪降りしきる、春3月3日、その白い雪を鮮血で染めたこの事件は、のちに「桜田門外ノ変」と呼ばれるようになる。
この事件が、幕末の歴史の動きに大きな影響を与えたのは確かで、国際関係の中で、日本の立ち位置を問われている日本が、この事件から150年にあたる今年、それを見つめ返す必要を訴えているのではないか。
佐藤監督は、だからこの作品を、政治テロを賛美したり承認する映画にはしたくなかった。

水戸市民たちの尽力もあって、市内の巨大なオープンセット中に再現された、桜田門や井伊邸、濠などのセットがリアルな迫力を見せている。
これは、まるで時代をタイムスリップしたかのようである。

映画の構成として、事件を描く襲撃シーンを少し前に持って来て、その事件がなぜ起こったのかという歴史的な流れと、襲撃した人たちがどのような運命をたどったのかということを、二重構造のようにまとめる形をとった。
政治テロを美化したのではないという、佐藤監督の演出だ。
この映画の原作は、史実を丹念に調べたといわれる吉村昭で、以前の舟橋聖一の「花の生涯」とは異なる。
十分、大人の鑑賞に応えうる作品といえる。

…世の中を変えなければ、日本は滅びる!
よく知られている物語ではあるが、佐藤純彌監督力作「桜田門外ノ変」を観て、このメッセージを噛みしめるとき、あれから150年の歳月を経たいまとて変わらぬ、‘憂国’の時代を生きる現代人は、何を想うだろうか――。


小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)展―横浜文学散歩―

2010-10-15 12:00:00 | 日々彷徨
小泉八雲=ラフカディオ・ハーンといえば、「怪談」などの民間伝承や、古典にもとずく再話文学で、日本人にはおなじみだ。
今年は、彼の生誕160年、来日120年にあたる。
明治23年に、初めて日本の地を踏んでから54歳で亡くなるまで、日本に帰化し暮らした。
永住の地とした、日本での14年余りの日々を中心に、港の見える丘公園にある、奈川近代文学館で展覧会が開かれている。

来日の第一歩が横浜だからだろうか。
小泉八雲は、古都鎌倉や江の島といった神奈川ともゆかりが深い。
彼はギリシャ生まれで、16歳の時左の目を失明し、以来正面から撮った写真がほとんどなくて、顔の右側から撮られている写真が多いことに納得できた。
彼の「顔写真」の不思議は、こういうことだったのですね。

八雲は少年のころから、父母の不仲を目のあたりにして、母への思慕、父への憎悪の感情を抱き続けていたそうだ。
彼の作品を全部読んだわけではないが、 「雪女」「耳なし芳一」の話などは、日本人ならよく知っている。
物語の中で、雪女が茂作に息を吹きかける場面の絵や、挿絵の原画を本展で興味深く見た。
また、妻のセツにあてたカタカナ書きの書簡など、草稿、、写真、書簡およそ400点の展示だ。
八雲は山陰の松江で暮らしたこともあり、こちらには昭和8年に記念館が開館し、今回出品のいくつかはそこの収蔵品だ。
八雲のことを、グロテスクな優しさを持った多面立方体作家だという文学者もいるが、どうだろうか。

小泉八雲=ラフカディオ・ハーン展は、11月14(日)まで開催中だ。
期間中、俳優佐野史郎氏による「耳なし芳一のはなし」「雪女」ほかの朗読会(10月23日)や、文学館主催の秋のカルチャーイベントということで、別会場(はまぎんホール・ヴィアマーレ)で、女優有馬稲子の「源氏物語(若菜)」の朗読なども予定されている。

――ここへきて、駆け足で紅葉が始まっている。
今年2010年は、国民読書年だとか・・・。(知っていました?)
読書の秋でもある。
こんな秋の夜長に、こころ静かに、ゆっくりと良書のページをひも解くのも、またよきかなである。

映画「シルビアのいる街で」―視線の冒険を映像で―

2010-10-13 04:30:00 | 映画

斬新な手法で描かれる、これもまたひとつの映画芸術の世界だ。
ホセ・ルイス・ゲリン監督の、フランス・スペイン合作映画だ。
どこか甘美な戦慄を感じさせる、フィルムのもたらす吐息・・・。
ドキュメンタリータッチの映像で綴る、「人」と「街」なのだが、それが観るものをどうとも知れぬ異空間へと誘っていく。

画家志望の青年(グザヴィエ・ラフィット)は、6年前に愛しあった女性シルビアの面影を求めて、フランス・ストラスブールの街をさまよっている。
それだけの、シンプルな物語なのだ。
だから退屈かというと、そうでもない。

街の中のざわめき、探し求めている女性とよく似た女性との出会い、カフェでビールを飲みながら、物思いにふける青年自身・・・。
そうしながら、流れる時、歩く人を眺めている。
カフェの客たちを目で追っている。
スケッチをしている。
髪をいじる女の後姿、キスを交わしているカップルの横顔、黙って遠くを見つめている中年男女・・・と、カメラは、男の視線と同化し、かなりの時間、彼らの動きをじいっと観察している。


何か起きてくれないか。少し胸がときめく。
そんな期待は、ものの見事に裏切られる。
人との出会いがある。別れがある。
カメラは、青年の表情を執拗に追う。その変化を追う。
それだけで、カメラに撮られている人の息遣いを感じとっている。

視線をずらしていくと、青年は追い求めていた(?)女の姿を発見する。
その女を追って、どこまでも街を歩き始める。
このシーンはかなり長い。
30分ぐらいもかけて、あえて、そういう風に撮っているのだ。
それが、この映画だ。

女は、別れた女によく似ている。
いや、似ているように見えるだけかもしれない。きっとそうだ。
歩を進めるうちに、新鮮な街角の風景が現れる。
女は見え隠れを繰り返し、後でわかるのだが、青年が自分を尾行していることに気づいている。
・・・そうして、とうとう意外な結末を迎える。
女は、曲がりくねった道をたどりながら、再び街角に消えていく。

観ていると、自分がストラスブールの街を歩いている感覚にとらわれる。
この感覚は、不思議と壮快感がある。
物語といえるような物語でもない。
とくにドラマティックなものはない。
ありふれた話である。
ただ、次に何が起こるか。何が映されるか。
それだけで、小さな作品としてのまとまりは感じられる。

動く映像の芸術として、観ることに耐えられないと、この映画はつまらないもので終わってしまう。
だが、決してそうではない。
このシルビアのいる街でという作品は、単純に見える男と女の動きを通して、動態の映像を追った、ドキュメンタリータッチの小品だ。
路面電車の走る、曲がりくねった、ストラスブールの街を歩くのも、またパリとは違った趣きがあって楽しい。
ストラスブールの街って、映画で撮影されるのも、めずらしいのではないだろうか。

この作品には、映画とは何だろうか、という問いかけに対する答えがあるような気がする。。
ホセ・ルイス・ゲリン監督という人は、現実と虚構の境界線上で映画製作を心がける、野心的な映像作家だということは容易にうなずける。


映画「メッセージ そして、愛が残る」―心を閉ざした男の物語―

2010-10-10 15:00:00 | 映画

フランスで、120万部を突破したベストセラー小説の映画化作品だ。
新鋭ジル・ブルドス監督は、この作品で、愛することと生きることをミステリアスなドラマに作り上げた。

どんな人間にも、死は必ず訪れる。
もし、その前に心の準備をする機会を与えられたら、人は何をするだろうか。
そんな問いかけをはらんだ、ドイツ・フランス・カナダ合作のユニークなドラマだ。
アジアを代表する、リー・ビンビンの詩的な映像も物語を深めている。

ネイサン(ロマン・デュリス)は、ニューヨークの法律事務所に勤める敏腕弁護士だ。
幼い息子を突然の病で亡くした彼は、そのショックから立ち直ることができず、妻のクレア(エヴァンジェリン・リリー)や娘のトレイシー(サラ・ウェイスグラス)を遠ざけて、逃避する日々を送っている。

そんな彼の前に、ある日、ジョセフ・ケイ(ジョン・マルコヴィッチ)と名乗る人物が訪ねてくる。
病院の医局長の肩書を持つケイは、少年時代のネイサンが、交通事故から奇跡の生還を果たしたとき、研修医としてそばにいた人物だった。
そんな事情を、ネイサンは知らない。
そのケイが、地下鉄のホームで見知らぬ青年の死を予言したことは、不気味な話であった。
彼は、次々と人の死を予見する、不思議な力の持主だったのだ。

ケイの勤め先の病院で、ネイサンは、死期の迫った人間に、その運命と向き合う時間を与える、メッセンジャーの役目を果たしていると教えられる。
そして、そのケイの言葉を裏付ける出来事が起こった。
ケイから「死が近い」と予告された、ネイサンの友人が銀行強盗の巻き添えになって亡くなったのだ。
このときネイサンは、ケイが自分に近づいてきたのは、死と向き合う準備をさせるためであると確信した。

一体、自分に残された時間はどのくらいあるのだろうか。
自分にも、死期が迫っていると直感し、ネイサンは最期の時を迎える前に、やらなくてはならないことがあると思った。
その思いに駆られたネイサンは、ケイを伴って、別れた妻との絆を取り戻そうと、クレアとトレイシーの住むニュ―メキシコへむかった。
そして、彼の行く手に待ち受ける新たな試練と、自分を取り巻く運命の過酷さに、大きな衝撃を受けることになる・・・。

主人公のネイサンは、映画の中では、ささやくような話し方をする不器用な男である。
だが、このドラマの持つ愛の‘本質’を、彼は眼差しで語っている。
医師のケイという男は、まるで死の天使のようで、とにかく謎めいている。
ジル・ブルドス監督の、この作品「メッセージ そして、愛が残るでは、死と生という不思議な奥行きを、現実として見つめるとき、やや理解しにくいが哲学的な側面を見逃すことはできない。

ネイサンの妻を演じるエヴァンジェリン・リリーの、内面から滲み出てくるような透明感が光っている。
生きている「時間」というものを、しみじみと考えさせる作品だ。
でも、小説を映像に置き換えるという作業の過程で、主人公が人生の中で自問する疑問とか、内面の心理を描くにあたって、苦心の跡もうかがわれるが、死生観のこととなると、難しいテーマに挑戦している。
主人公の追想の中に宿る、家族と暮らした時間、緑豊かな森、綿毛の舞う時空の懐かしさ・・・、美しい映像とともに、寓話的な要素もたっぷりだ。


映画「瞳の奥の秘密」―失われた時を求めて―

2010-10-08 16:00:00 | 映画

すべてを知っていた・・・。
しかし、もの言わなかったその瞳は、最後に、一体何を語ろうとするのだろうか。
ファン・ホセ・カンパネラ監督の、スペイン・アルゼンチン合作映画だ。

この物語が抱く‘秘密’は、確かに殺人やその真実に関してに違いないが、ミステリアスでありながら、これは何よりも愛についての物語だ。
アルゼンチン・アカデミー賞13部門の受賞作であり、アカデミー賞最優秀外国語映画賞受賞作品だ。

その殺人事件は、ブエノスアイレスを震撼させた。
それから25年の時を経て・・・、未解決の謎を小説にする男に、封印されていた愛が甦る――。

ブエノスアイレス・・・。
刑事裁判所を引退したベン・ハミン(リカルド・ダリン)は、忘れがたいある小説を書き始める。
それは、自分の身に実際に起きた物語である。

1974年、それは、結婚間もない女性が暴行されて殺害されるという、凄惨な事件であった。
妻を奪われた、銀行員の夫リカルド・モラレス(パブロ・ラゴ)の深い愛情に突き動かされ、ベン・ハミンは判事の制止を振り切り、犯人探しを始める。
そうして、ようやく犯人にたどりつき、犯人は逮捕される。
しかし、犯人は釈放された・・・。

…あれから25年、タイプライターを前に、自身の人生を振り返るベン・ハミンに、上司だったイレーネ(ソレダ・ビジャミル)の存在が鮮やかに甦る。
そして、数々の疑問が、憤りとともに彼の胸に去来する。
何故、真犯人が自由の身となったのか。
何故、捜査に協力した同僚が殺されたのか。
何故、人生のすべてであったブエノスアイレスを離れ、愛する女性とも、離れ離れにならなければならなかったのか。

いまだ、過去に生きる自分と決別するために、彼は、事件の裏側に潜む謎と、いまも変わらぬイレーネへの想いに向き合うことを決意する。
自分が失った歳月を、取り戻すために・・・。

完結されたかに見えた物語は、結末を迎えていなかったのだ。
しかし、最後に衝撃的な真実を知ることになる。
このスペイン・アルゼンチン合作映画「瞳の奥の秘密では、人生の終盤にたたずむ男が、いまだ過去に囚われ、前に踏み出せずにいる。
職を退いたいま、小説を書くことによって、彼はその過去を解き放ち、葬られた事件の真相究明に立ち上がる・・・。

この作品は、ミステリーであって、ミステリーではない。
ましてや、犯罪ドラマとも趣を異にする。
むしろ、ミステリーという形を借りた愛の物語だ。
犯人を追う男、妻を殺された男、全く立場の異なる二人だ。
主人公には、被害者の夫に対して共感にも似た感情が流れ、同じく愛するものの不在に耐えながら、その灯火をいまだ燃やし続けている・・・。

短く、気のきいたセリフもきわめて文学的だし、ドラマは緻密に練られた迷路のような映画作りだ。
知的なひねり存分の作品で、報われることのない愛と、未解決の犯罪とをクロッシングさせていて、映画らしい映画を作り上げているといえそうだ。


映画「アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち」―哀愁のバンドネオン― 

2010-10-06 17:00:00 | 映画

爽秋――、今年は、芒がいつもの年より30日も遅れて咲いたそうだ。
暑い夏があったからだそうです。
でも、日に日に秋は深まりを見せていくようです。

一夜限りの、世紀のタンゴコンサートが映画になった。
旅情をかきたててやまない都市、それこそがブエノスアイレス・・・。
バンドネオンの、あの郷愁を誘う、アルゼンチンタンゴの世界だ。

世界のミュージシャンを一堂に集め、音楽史に残るような作品を、ミゲル・コアン監督が作り上げた。
タンゴといえばバンドネオン、この音色に魅せられたのはいつのころだっただろうか。
あのブエノスアイレスの港町、場末の街角から生まれたタンゴが、国際的に大きく注目を集めたのは、1980年代のことだといわれる。

そしてのちに、クラシック音楽家たちを中心とした、アストル・ピアソラ作品の再評価で、タンゴの伝統を見直そうとする、多くの若手ミュージシャンが登場したのだ。
それからずっと、タンゴの伝統の再構築とともに、この‘伝統’の世界はなおも進行中だといわれる。

アルゼンチン・ブエノスアイレス・・・。
いずれもが、1940年代から60年代にかけて活躍したミュージシャンたち、そのビッグネームを聞いただけで、驚くのではないか。
さらに、楽団のリーダーとしての先輩格、ダリエンソ、ディ・サルリ、プグリーセ、トロイロの演奏した映像も挿入される。
トロイロの楽団には、のちの名手がぞろぞろ在籍だし、3度来日したプグリエーセの楽団にも、バンドネオン、ヴァイオリニストなど、名手、作曲家たちが勢ぞろいだ。

ミラノ・スカラ座、パリ・オペラ座と並ぶ、世界三大劇場のひとつがブエノスアイレスのコロン劇場だそうだ。
そのコロン劇場で、2007年夏に開催されたコンサートが、本編のクライマックスだ。
タンゴ・マエストロたちの、情熱のこもった演奏や歌が次々と披露され、胸熱くなる映画である。
タンゴの歴史を作った人たちの、奇跡の競演といってよい。
アルゼンチン映画「アルゼンチンタンゴ 伝統のマエストロたちは、何とも贅沢で、豪華なドキュメンタリーだ。

演奏される曲は、「ラ・クンパルシータ」「チケ」「タンゲーラ」などなじみの曲のほか、十数曲に上る。
この映画では、演奏や歌そのものに、長年の伝統や技を通じた素晴らしい魅力がいっぱいだし、一人一人の個性や人生が、言葉で語られなくても、全曲にそれがにじみ出ている。

映画のラストシーン・・・。
誰もいなくなったコロン劇場で、たったひとりで、バンドネオンをクラシカルなスタイルで演奏している、ガブリエル・クラウシに注目だ。
この映画撮影時、彼はなんと96歳だ。
本作で、唯一第一次タンゴ黄金時代(1927年から3年間位)に、一流楽団で演奏した経験を持つバンドネオン奏者だそうである。
96歳で、これだけ楽器を弾きこなすことだけでも、驚きだ。


あとにもさきにも、一回一夜限り、この音楽映画は、その激動の歴史を今に伝えてくれる。
アカデミー賞受賞の音楽家、グスタボ・サンタオラージャのプロデュースによる、その夜一夜限りのコンサートが幕を開ける。
時を重ね、人生の深みを増した歌声とともに、彼らはアルゼンチンに脈々と生き続けている。
そして、今夜もまた明日も、彼らは自らの思い出を語り始めるだろう。
なけなしの金で父が買ってくれたバンドネオン、街角のカフェから成功の階段を上がった仲間たち、亡き師への変わらぬ熱い想いが、人生のすべてがタンゴだという3分間のドラマに刻まれていく・・・。


  ―― 閑 話 休 題 ――
アルゼンチンタンゴは、あの独特のスタッカート、タンゴダンスが何とも言えないですね。
かつて日本にその名も「早川晋平とオルケスタ・ティピカ・トウキョウ」という、アルゼンチン・タンゴバンドがあった。
銀座や新宿(ラ・セーヌ)などで、毎夜のように、魅惑のステージが繰り広げられていたものだった。
専属歌手には、「ママ、恋人がほしいの」を実にうまい‘原語’で歌った藤沢嵐子もいた。
夫君の早川晋平亡きあと、あの歌姫はどうしているだろうか。
まだ、健在だろうか。


映画「七瀬ふたたび」―追いつめられる超能力者たち―

2010-10-05 23:15:00 | 映画

変わった作品を観た、というより、観てしまった(!?)と言った方がいいか。
筒井康隆のSF小説については、これまでも幾度か映画化されている。
これは、彼の作家生活50周年記念作品だそうだ。
人の心を読むことができる未知能力者、超能力者のことをテレパスと呼ぶらしい。
ここでは、そのテレパスであるヒロイン・火田七瀬の心の中に宿るトラウマと、彼女の生きざまとその謎が明かされる。
小中和哉監督作品だ。

七瀬(芦名星)は、同じテレパスの7歳の少年ノリオ(今井悠貴)と、テレキネシス(念動力)を持つ黒人青年ヘンリー(ダンテ・カーヴァー)と3人で、北海道の湖畔に暮らしている。
ある日、マカオの旅からの帰り道、現地で知り合った瑠璃(前田愛)とともに、七瀬は何者かに狙撃される。
追ってから逃れた七瀬は、かつて列車で出会った、予知能力を持つ了(田中圭)から危険が迫っていることを促される。

七瀬は、瑠璃の夜遊びに付き合って悪酔いし、男たちの欲望の餌食になりかけるが、その窮地を救ってくれたのも瑠璃だった。
だが、ホテルに戻った二人の前に、突然敵の狙撃者が現れ、瑠璃は七瀬の身代わりとなって、射殺された。
意識の流れが過剰な瑠璃のオーラを、狙撃者は能力者のそれと誤認してしまったのだった。

七瀬は、組織の特殊部隊に追いつめられ、タイムトラベラーの藤子(佐藤江梨子)に助けを求め、過去へ連れ戻してもらい、生き返った瑠璃に別れを告げる。
そして、敵に立ち向かう決意を胸に、ノリオとヘンリーの待つ北海道へと向かった・・・。

主演の芦名星は、「シルク」で好印象だったので期待したが、この作品での好演もまあまあだったのではないか。。
七瀬たちは、彼らを抹殺しようとする‘国家’と闘うわけだ。
タイムトラベラーとか並行世界とか、過去へさかのぼって人を救うとか、もとの世界に生きる仲間とか、かなりひねった無理な理屈と、あわただしい場面転換、紋切り型のセリフと相まって、この異常な荒唐無稽を描くことで、作品は成功しているといえるのだろうか。
大いに疑問がある。

思念といい、念動力といい、特殊メイク、特殊撮影、突然飛び込んでくる音楽、何が起こるかわからないカットの連続と・・・、観ているほうは面食らうばかりだ。
ヒロイン自身が、藤子の力によって過去へとさかのぼったり、新たな未来を創るために闘おうとするめまぐるしい展開だ。
小中和哉監督作品「七瀬ふたたびは超能力SF映画だが、まだまだ未成熟で、お子様ランチの域を出ない。
(これ、あまり適切な表現ではないかも知れません。ご容赦を・・・)
ただ退屈と疲労だけは、たっぷりと味わせていただきました。


映画「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」―三部作完結編―

2010-10-02 16:15:00 | 映画

天高く、すっかり秋の気配だ。
あの夏の猛暑は、まるで嘘のようだ。
これからは、日一日と秋は深まっていくことだろう。

さて映画の方は、第一弾、第二弾を受けて、これは三部作最終編というわけだ。
ついつい引きずられて、三作品を観たことになる。
作品全体から浮かび上がってくるものは、この事件の背景にある、平和国家スエーデンの恥部である。
この作品、あの「ダ・ヴィンチコード」をしのぐミステリーともいわれている。
この作品の日本語のタイトルは、どうもぴんとこない。(意訳しすぎか)

人口わずか900万人のスウェーデンで、「ミレニアム」3部作は、350部も売り上げるという驚異的なヒットとなったそうだ。
さらに、40ヶ国ですでに3300万部を突破し、犯罪小説としては、多数の賞を受賞するなど、作品の話題は尽きない。
しかも「ドラゴン・タトゥーの女」=リスベットという、圧倒的な存在感を持つ、過去に例のないヒロイン像に注目だ。
原作者であるスティーグ・ラーソンは、この「ミレニアム」シリーズ出版の直前に、心筋梗塞で急死したと伝えられる。
50歳の若さであった。

この人、彗星のごとく登場した巨星として、伝説の人となった。
彼の急死で、三部作までの出版にとどまっているが、第4部の草稿が、ラーソンの遺品のパソコンの中に残っていたとされる。
でも、現在出版の予定はないそうだ。

実の父アレクサンデル・ザラチェンコ(ゲオルギ・スタイコフ)との死闘の末、3発の銃弾を浴びて、リスベット(ノオミ・ラバス)は病院に運ばれた。
一命をとりとめたものの、父も無事だと聞かされた彼女の想いも複雑だった。
のちにザラチェンコも殺害されるのだが、裁判の場において、かつてのリスベットの主治医だったテレボリアン(アンデルス・アルボム・ローセンダール)は、偽りの精神鑑定をし、再び彼女は収監されることになる。
警察は彼女の回復を待ち、裁判で事実が解き明かされることになる。

一方、ミカエル(ミカエル・ニクヴィスト)は、リスベットの無実を証明するために、「ミレニアム」誌上に、ザラチェンコが起こした犯罪と、それを黙認してきた公安警察の癒着を暴露すべく準備を進めていた。
ところが、この「ミレニアム」誌は、編集長が生命の危険にさらされることになったため、やむなく発行禁止となった。

同じ頃、続発する不可解な事件の解決のため、公安警察は秘密裡に動いていた。
だが、捜査は難航していた。
やがて開廷した裁判では、人権派の弁護士、警察の息のかかった(?)検事、精神鑑定医らが、激しい戦いを演じていた。
リスベットが精神障害と判定されたら・・・?
残された時間が無くなる中、元公安警察官らの不正を示す証拠を求め、またもやスリリングな攻防が幕を開ける・・・。

ダニエル・アルフレッドソン監督の本編のミレニアム3は、ヒロインのリスベットを苦しめた、卑しい男たちを断罪する法定編といったところだろうか。
事件の裏に潜む、忌まわしい秘密を暴き出しながら、やがて真実が明らかにされる。
よくできていた「1」「2」に続いて、この「3」はややドラマの結末があっけないのはどうしたことか。
少し物足りなさを感じる。
まあそれにしても、北欧スウェーデンのミステリーというのは、一味違った輝きを放っていて、興味深く観せてくれる。

興味尽きないボリューム感のある三部作は(小説は読んでいないが)、極めて秀逸な構成を持っていて、謎めいた事件の展開をどう捜査していくのか、危機的な状況に陥った主人公たちが、いかにしてそこから脱出するかというサスペンスにそそられる。
たとえば、忽然と消えた少女の謎、異常な性格を持つ人物の犯罪をめぐるスリラー、政治の裏側を描くスパイ・ドラマ、追跡と逃亡の冒険小説のような展開、ヒロインの無実を証明しようと戦う法定小説の趣き・・・と、全編エンターテインメントとの要素が満載だ。

三部作を通して観てみると、スウェーデンの現代史の暗部だけではなく、現代社会の最も深い闇と思われる、大きなテーマを含んでいるように見える。
スウェーデンは高福祉の国だ。
その国でさえ、こうした問題は顕在しているといわれる。
とことん堪能できる面白さが、この作品にはあふれている。
まことに稀有なシリーズである。