徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

「長江にいきる~ビンアイの物語~」―私は、留まる―

2009-04-29 22:00:00 | 映画

フォン・イェン監督の、中国ドキュメンタリー映画だ。
長江・三峡ダムの建設による、国の移住計画は様々な問題を引き起こした。

ミカン園とトウモロコシの畑、その大地に根ざした生活を貫く女性の生き様を、カメラは丹念に追った。
一人の、ごく平凡な女性の物語である。
その目に、痛切な悲しみを湛えながら・・・。

・・・私は、何があっても、ここに留まる・・・。
長江のほとりで、家族とともにつつましく生きている一人の女性がいた。
ビンアイである。
働き者の彼女は、畑を耕しながら、育ち盛りの子供たちと暮らし、病める夫と連れ添うことは、滔々と流れる川のように、それで充分な生活であった。

しかし、政府から降ってきた、三峡ダム建設に伴う移住命令は、彼女の平穏な生活を否応なしに崩壊していく。
役人の横暴、理不尽、脅迫、甘言に、ビンアイは頑なまでに抵抗を試みた。
 「何としても生き抜く。わたしは強情なのよ」
彼女の強気の笑顔とは裏腹に、一家は次第に追い詰められていくことになる・・・。

オリンピックと並ぶ、300億ドルと言われる国家プロジェクト・・・。
名だたる三峡ダムの建設、それは2009年に完成を見る。
140万人の、住まいと田畑を代償にして・・・。

長江の底辺に暮らす農民が、世界のメディアに注目されるのは、移住前後の一日だけれども、国の決定は、彼らの人生の中に、どのような位置を占めるのか。
ジャーナリズムやマスコミが、政治経済の動向や、社会現象としての中国現代社会を大きく捉える中で、このドキュメンタリーは、ひとりの個人の生活に7年間向き合って、その日常を受けとめた。

中国の最も貧しいとされる内陸部の、農民の暮らしの現実と生き様を見せる。
登場する、実在の人物の現実と向き合う表情は、固く険しい。
作品そのものは、人間の内面を抉ってリアルだが、役人とやり合う政策論争などが延々と続く場面には辟易する。
長々とした理屈は、御免である。

こころして観ないといけないことは、個人的な苦難を時代の変遷と結びつけて、権力と自由、生存の厳しさと向き合って、‘生きる’勇気を表現していて、三峡について描いた映画ではないということだ。
この作品の優秀さは、数々の映画祭でも受賞に輝いたことからも、認めないわけにはいかない。

母なる河、長江の水面に見守られ、人としてのプライドとやさしさに満ちた、人間本来の姿を活写した作品が誕生したのだ。
この作品は、その国の発展の陰に取り残されてきた人々と、権力に立ち向かう凛とした女性の姿を見つめる。
フォン・イェン監督は、日本に13年間も滞在して、ドキュメンタリー映画と出会い、初めての長編「長江の夢」以来、中国の底辺を見つめ続けてきた一女性である。
ドキュメンタリー映画「長江にいきる~ビンアイの物語~は、力強く、いきる勇気を表現しながら、中国人の精神の歴史を描いている。


映画「グラン・トリノ」―異彩を放つヒロイズム―

2009-04-26 07:00:01 | 映画

人が、人生において、それまで目を向けていなかったことについて考えさせられ、社会に貢献していく。
そんなドラマを描きたい。
クリント・イーストウッド監督は、その想いを抱きつつ、この映画を製作したということだ。

男は迷っていた。
人生の締めくくり方を、考えていた。
そんなときに、少年と出会った・・・。

妻に先立たれ、独り身となったウォルト(クリント・イーストウッド)は、偏屈な老人だった。
彼は、すべてのことが気に入らない。
あらゆることを拒絶することで、己の誇りを維持している男なのだ。
自分は、老いぼれてなどいない。
自分のことは自分で出来るし、腕っぷしだって自身がある。
不満を平気で撒き散らし、平気で毒を吐く。
彼には、自分の息子や孫たちも寄りつこうとしない。
そんな、意地悪じいさんの日常を、映画はおおらかにして、精密な笑いに包んで差し出して見せる。

隣に住むのは、アジア系の一家だ。
その家の息子タオ(ビー・バン)が、ウォルトの愛車‘グラン・トリノ’を盗もうとしたことから、二人の間に奇妙な友情が芽生える。

老人は、少年を一人前の男に鍛え挙げようとする。
少年タオは、しかし愚かな争いに巻き込まれ、家族と共に命の危険にまでさらされる。
タオの未来を守るために、ウォルトはある決心をする・・・。

現代社会は、一老人が考えているほどシンプルではない。
ことは、彼の思うようには進まない。
こうしたギャップを含め、イーストウッドは、ぎりぎりの時点まで、勇気あるユーモアを継続する。
そこに、イーストウッドの痛快な演出が効を奏して、独特のヒロイズムが異彩を放っている。

この物語は、刻々と移り変わりゆく世界を否定し、過去に生きてきた老人が、あえてその世界を受け入れようと決断するまでの、道のりだったことに気づかされるのだ。
映画の衝撃的なラストまで、イーストウッドの演出は冴えている。

出口のない不安、お互いが理解しあえない時代・・・、暗澹とした新しい世代を生きる人たちに、主人公の突きつけるメッセージは、強烈なものがある。
「誇りを失わずに、自己改革する方法がある。おれはもう準備した。おまえはどうだ?」

この気骨あふれる主人公の姿は、まさにイーストウッドそのもので、無名の脚本家の執筆したシナリオをすくい上げて、知名度の低い俳優たちにキャスティングする。
そこに、彼ならではの演出を見ることができる。
決然として、我が道を行きながら、変化に動じない。
ひねりの効いた笑いが、大人の映画になった。

79歳になる老監督が、自作自演するアメリカ映画「グラン・トリノは、‘男’の生きる姿を描いて、見応えのある骨太のドラマだ。
この作品が、クリント・イーストウッドにとって、45本目の主演作で、29本目の監督作品だといわれるが、半世紀に及ぶ彼の映画世界における集大成と見ることが出来そうだ。


逆転無罪―「この人です!」痴漢冤罪事件―

2009-04-25 03:00:00 | 寸評

電車内で女子高校生に痴漢をしたとして、懲役1年10月の実刑を受けた大学教授が、最高裁で、逆転無罪の判決となった。
先日の話だ。
こんなことは、最高裁では異例のことだ。
最高裁が、自ら判決で、一審、二審の有罪判決を破棄して、無罪を言い渡したのだ。
五人の裁判官が審理し、3対2の小差だった。
何ということだろう。

「この人が犯人です!」・・・
この事件は、もともと目撃証言もなく、物証もなかった。
証拠は、女子高校生の「被害を受けた」という供述だけだった。
しかし、大学教授の一貫した主張は、一審、二審では認められなかった。
それを、今回は「女子高校生の痴漢証言は信用できない」と断じたのだ!

これまで、被害証言があれば、自動的に逮捕→起訴→有罪となる、滅茶苦茶(?!)が横行してきた。
科学鑑定や目撃情報もなくて、犯行を強く否定しても、痴漢被害者が証言するだけで、駅長室へ連行され、警察に通報される。
これで、もう人生がアウトなのだ!
無罪を主張し、長期にわたって身柄を拘束されると、誤認逮捕を承知で、容疑を認める人までいた。
異常なことだった。

教授は、先日テレビの会見の席上で、晴れて無実の歓びを語りつつも、失ったものの大きさに無念の涙をにじませていた。
司会の女子アナまで、涙声になっていた。
女子高生のあいまいな言い分ひとつで、人生を台無しにされるわけにはいかないのだ。

ただ、逆転無罪といっても、3対2で2人の裁判官は無罪に反対だったのだ。
これが、2対3で逆だったらどうだろう。
天国と地獄の違いだ。

被害者の供述しかない裁判で、判定がいかに難しいか。
こんな事件は、いいかげんにしてもらいたい。
満員電車に乗ることが、どんなに怖ろしいことか!
女子高校生は、何を見て犯人だと言ったのか。
痴漢事件の捜査には、人違いによる冤罪の危険が常につきまとう。

教授は、獄中で妻との離婚まで考えていたという。
自分の正しい主張が認められなかったら、どうすればいいのか。
立場を置き換えて考えてみると、こんなに怖ろしいことはない。
痴漢行為は、確かに卑劣な犯罪だが、被害者は、犯人を間違えたら、冤罪によって人生が大きく狂ってしまう人もいることを忘れてはいけない。

大事なことは、被害を未然に防ぐ手だてを社会全体が考えていくことだ。
そうでないと、二重の悲劇を防ぎようがない。
難しい問題だ。

今度のことでは、DNA鑑定の結果も何もなかったようだし、検察は自己に不利な証拠は何も提示しなかったというのだから、こちらも許しがたい。
これでは、犯人にされた方はたまったものではない!
この最高裁の判決を、当の女子高校生はどう感じたのだろうか。聴いてみたい。

いろいろな問題を孕みながら、裁判員制度もいよいよ始まろうとしている。
・・・失われた時は、もう帰らない。
過ちを、犯さない人間はいない。
人間なんて、愚かなものだ。
そして、愚者が賢者をも裁く。
誰かが、誰かを、神ならぬ、人が人を裁くのだ・・・。


映画「大阪ハムレット」―生きとったら、それでええ―

2009-04-23 08:00:08 | 映画
生きるべきか、死ぬべきかって、生きとったら、それでええやないか。
悩み、笑い、そしてすべてを受け入れる。
そんな人生讃歌もある・・・。

光石富士朗監督が、森下裕美の傑作コミックを映画化した。
人生いろいろあるけれど、生きとったら、それでええやん・・・。
みんな、誰だって、真剣なのだ。
不幸や不運は笑顔で吹き飛ばし、ありのままの日常を受けとめて生きていく。
大切なことは、お互いを思いやり、認め合うことだから・・・。

大阪のとある下町で・・・。
三人の息子をかかえ、久保家の働き者のお母ちゃん房子(松坂慶子)は、精いっぱいに生きている。
突然、お父ちゃん(間寛平)が亡くなり、四十九日も済まないうちに、お父ちゃんの弟と名乗る叔父さん(岸部一徳)が転がりこんでくる。
・・・が、天真爛漫な房子は、なぜかすんなりと受け入れる。
こうして、5人の奇妙な家族生活が始まる。

兄弟たちは、様々な悩みをかかえている。
中学生の長男は、恋する年上のファザコン女性に「私のお父ちゃんになってほしい」と頼まれ、困惑している。
ヤンキーの次男は、自分が例えられた“ハムレット”が、近所のペットでないことは解決したものの、ふと自分の顔がお父ちゃんに似ていないことに気づき、家族と人生について悩み始める。
小学生の三男は、将来の夢を聞かれ、「女の子になりたい」と宣言する・・・。

さらに、お母ちゃんが、誰かの子を妊娠していることがわかり、兄弟たちの悩みは深まるばかりだ。
・・・不器用でも、生きることに一生懸命な三兄弟は、それぞれの悩みをふっとばし、前向きな一歩を踏み出していこうとするのだったが・・・。

子どもたち三人の喜怒哀楽が、生き生きと描かれている。
それぞれ個性の豊かな兄弟たちと、そんな息子たちを温かく包み込む肝っ玉かあさん、そしてなぜかそこに同居する“おっちゃん”が織りなす、笑いと涙の物語だ。
彼らのエネルギッシュな人間模様は、観ていておかしい。
ドラマの進行中には、馬鹿馬鹿しいドタバタも、説明不足や不自然な描写も随所に目につくし、筋立てにかなり無理もあるが、それも我慢するしかないか。

この作品は、すぐ近く、どこにでもにいそうな人たちを扱っている。
人は、誰でも小さな悩みをいっぱいかかえている。
そんな悩みや悲しみを、お互いにぶつけあっていきながら、小さな喜びや幸せを期待する。
生きていくということは、そういうことの連続だ。
光石富士朗監督映画「大阪ハムレットには、そんな想いがこめられているのだろう。
日本映画というのは、いつだって伝統的に庶民の話が得意だ。
そうした味わいだけは、この作品にも現われている気がする。

「ホルテンさんのはじめての冒険」―いつも前向きに―

2009-04-21 21:00:00 | 映画

何事も、いつだって遅すぎるということはない・・・。
ノルウェーのベント・ハーメル監督は、人生の新たなる一歩を踏み出す主人公を通して、静かに謳いあげる。
ここでいう新たなる一歩とは、会社を定年退職して、生活と仕事が一体化した人の、その後の人生のことだ。
ベント・ハーメル監督は、この命題に、この作品を通して、ユーモアとペーソスを交えて答えている。

ノルウェーの首都オスロと、第二の都市ベルゲンを結ぶ、“ベルゲン急行”・・・。
雪原を縫って走る、この列車に乗務する運転士ホルテンさん(ボード・オーヴェ)の話である。
線路沿いのアパートで、小鳥と一緒につつましく暮らし、毎日決まった仕事をこなしている。
でも、それもおしまいとなって、定年退職を迎えるのだ。

ところが、明日がいよいよ退職の日という夜から、規則正しかったホルテンさんの日常は脱線していくのだ。
退職日のその日の朝に、運転するはずの列車に乗り遅れ、何故かサウナに入って、思いもかけず赤いヒールを履く羽目になり、挙句の果てには“目隠しドライブ”をする男の車に乗ってしまったのだ!
この辺り、ドラマはやや出来すぎのきらいがあって、抵抗もあるのだが・・・。

定年を迎えても、彼には大きな心配事はない。
ひとり住まいで、こぎれいな生活をしている。
年金暮らしは安泰である。
行きつけのレストランのウエイター、常連客とも顔見知りだが、酔っ払って一緒に騒ぐこともなく、節度のある生活が崩れることはない。
こうした、何も起こらない静かな日常に、ホルテンさんの‘冒険’がもたらすこれまた静かな躍動が、観客にも伝わってくる。

しかし、ホルテンさんは、何か自分でも新しいことをしたい。
心機一転のつもりでいる。
愛用のヨットも手放し、“目隠しドライブ”をする男と知りあったことで、これまで知らなかった世界までのぞく羽目になる・・・。

全編の要ともいうべき、スキー場のジャンプ台から見下ろす街の灯がズームアップ、トンネルを出るベルゲン急行の運転台へと広がる、この時空転換の妙は実に上手い映像だ。
その、さりげなく彫琢された細部の演出が、何とも不思議な効果を上げている。
詩情がある。

淡々とした随想をひもとくように、ときにスケッチブックをめくるように、静かに主人公の時は流れていく・・・。
何事も、終わりということはない。
新しいことにチャレンジする、すべての人々への応援歌のようで、人生での出会いとは、このドラマでは、常に前向きに生きようとする人々へのエールとなるのだ。

この物語では、偶然は偶然を呼び、脈絡も関連もないはずの場面が次々と現われて、主人公をまどわせる。
そこに、この映画の妙な面白さがある。まあ、あり得ないような話も含めて・・・。
そうしたハプニングを監督が演出し、自ら楽しんでいるかのようだ。
それでいて、あまり違和感がないのはどうしてだろう。
役者も、味のある演技者ぞろいだ。

ホルテンの旅立ち’は、そこはかとない勇気を与えてくれながら、ちょっととらえどころのない、あわやかでほんわかとした温もりを感じさせてくれる。
北欧のベント・ハーメル監督の、ノルウェー映画というのも珍しい。
このホルテンさんのはじめての冒険は、よく観ていると、ドラマらしくないユニークなドラマだ。
一種の人間讃歌である。
北欧風というのか、スカンジナビア的なユーモアが効いていて、なかなかよろしい。
カンヌ国際映画祭、ノルウェー映画祭、フランドル国際映画祭ほか数々の映画祭で、多彩な受賞に輝いたというのもうなずけなくはない。
冬、灰色の空の下に浮かび上がる街の映像、そこに息づく元気な人々を描いて、いかにも、北欧らしい雰囲気を充分に感じさせてくれる作品である。


映画「スラムドッグ$ミリオネア」―普通ではない人生―

2009-04-19 10:00:00 | 映画

アカデミー賞で、作品、監督賞など最多8部門を受賞した作品だ。
イギリスのダニー・ボイル監督は、全編にわたって、この映画をインドで撮った。
学校にも通わず、スラムで育った少年が、悲惨な貧困のなかで、生き生きと成長する姿が描かれる。
そこに内在する、あらゆる矛盾と極端が、インドの現実を映し出しているようだ。

この作品に登場する俳優たちは、国際的には無名だし、少ない製作費で、撮影はインドである。
条件的なことを考えれば、アカデミー賞候補としてはありない作品かもしれない。

大人気番組「クイズ$ミリオネア」に出演して快勝する、主人公ジャマール(デーヴ・パテルは、史上最高の賞金を目前にして、不正を疑われ逮捕される。
無学の青年が、どうして難問が次々と解けるのか。
ジャマールは拷問まで受けるのだが、この場面など唐突な気がする。

やがて、彼の過去の過酷な人生が明らかにされていくというわけだ。
テレビのクイズ番組から、突如それも絶え間なく回想シーンに変わり、ムンバイの貧民街のリアルな生活をカメラは映し出すのだ。
これは、まことに凝った演出である。
あきさせることのないこの演出は、一種ドキュメンタリー風な社会派映画ととらえることもできそうだ。
確かに、ダニー・ボイル監督の才気を感じる。

それとともに、このドラマは、幼い頃に生き別れになった少女ラティカを捜すために、テレビのクイズ番組にジャマールが出演したことがわかってくる。
ジャマールは、彼女をどうしても見つけたい。その一心から番組に参加したのだった。
広いインドのどこかで、ラティカ(フリーダ・ピント)が見ていて、自分を見つけてくれるかも知れないという希望に賭けるためだった。

スラムの負け犬ジャマールは、彼に出された最後の質問(ファイナル・アンサー)にのぞむ。
正解すれば、番組史上最高額の20,000,000ルピーという賞金を手に入れるのだ・・・。

イギリス映画「スラムドッグ$ミリオネアの、パワフルな構成は万華鏡のようだ。
テレビスタディオ、警察、過去の回想・・・、それらが互い違いに織りなされる構成は充分楽しめる。
だが、この作品の内容にもよるのだろうが、ダイナミックなサウンドは、ときには耳に痛いほどに騒々しい(!)
これには参った。

この作品は、単にスラムに育った少年が、億万長者になるといった夢物語ではない。
それだけは確かだ。
貧困や犯罪、宗教問題など、深刻な社会状況が織り交ぜられながら、観ている側が突き動かされるのは何か。
それは、このドラマの究極に、ピュアなラブストーリーが大きな軸となっていることだ。
主人公ジャマールが生き抜いてきた、過激であまりにも過酷な人生と、そこから這い上がっていく負け犬の強さだ。インドのスラム街で育った彼が、「愛」と「希望」だけに生き、運命を勝ちとっていく。

インド・ムンバイの街は、その街自体の持つエネルギーと生命力、スピード感をいかんなく見せつけて、この国の混沌を切り裂く。
興奮と冒険と運命が・・・。
パワーだけを見れば、さすがである。
ダニー・ボイル監督は語っている。
 「インドのスラムに感じるパワーは、皆がひとつの家族のように生きていて、全然貧しさを感じなかった。ムンバ
 イは制御不能の街だ」

よく出来た作品ではあるが、インドの格差社会を考えるとき、日本の麻生首相ではないが、演出の目線が高所(上から目線)にあるように感じられてならなかった。
一言付け加えれば、インド国内では、自分の国の恥部を世界にさらすことになって、非常に不快だと感じるかなりの人たちのいることも確かなようで、アカデミー賞を素直には喜べないそうだ。
この作品は、インドを舞台に描きながら、イギリス人の監督によって作られた作品だ。
インドでは、こうした作品は生まれにくいとも言われている。


映画「ニセ札」―拝金主義をあざ笑う ―

2009-04-17 07:00:00 | 映画

昭和26年、日本史上最大のニセ札偽造事件が、実際に起こった。
お笑い芸人の木村祐一監督は、この事件を題材にして、はじめて長編映画に挑戦した。
村ぐるみで計画されたこの事件は、ニセ札に託された‘痛快’な夢は、お金がすべてという、現代社会への風刺でもあるのだが・・・。
作品全体が上辷りで、淡い期待も裏切られて、肩から力が抜けてしまった。

まあ、それはともかくとして、・・・昭和25年1月、戦後初の新千円札が発行された。
コロッケが一個5円の時代だ。
「チ-5号事件」
と呼ばれるこの事件は、山梨県下の小さな小学校の元校長や元軍人など、村の名士が集まって、“ひと村挙げて”計画されたものだった。
村人総勢21人が逮捕されるという、史上最大のニセ札偽造事件であった。

昭和20年代というと、軍国主義から民主主義へ、国民の価値観が一変した時代のことだ。
紙漉き産業の盛んな、山間の小さな村があった。
小学校教頭として、人々から慕われている佐田かげ子(倍賞美津子)は、かつての教え子から、新千円札のニセ札作りを持ちかけられる。

かげ子や、村の名士で元軍人の戸浦(段田安則)、神漉き職人の橋本(村上淳)らがグルとなって、かくして村ぐるみの一大ニセ札作りが始まった・・・。

お金に翻弄される人たちのドラマだ。
ニセ札に託されたこ希望が、彼らの心の中に広がっていく。
親子愛あり、冷酷な仲間割れありで、一見痛快(?)に見えるドラマ展開は、どうもいささか馬鹿げているようで、これが現代社会への痛烈なメッセージか。
お金は神か、紙切れか。

ドラマの中で使われるセリフがいい。
 「俺たちはニセ物を作るんやない。本物を作るんや」
そうかと思うと、女教頭のかげ子は、‘正義感’からニセ札作りに加担していく。
試作品は、一見すると本物そっくりだ。
かげ子が、試しに使ったニセ札は見破られず、成功する。
こうして、ニセ札は皆に配られることになった。
‘配当’を喜ぶ村のひとりひとりの顔を見て、かげ子は感慨にふける・・・。

もちろん、順調にいくかに見えた作戦は頓挫する。
「ニセ千円札現る!」という見出しが、新聞紙面をにぎわした朝、一味はあっけなく逮捕される。
・・・第一回公判の日、被告席には、満ち足りた表情のかげ子の姿があった。

吉本興業の木村祐一監督映画「ニセ札は、ちょっぴり風刺の味をきかせた、コメディタッチの作品だ。
ニセ札作りの一味のひとり、元陸軍大佐の戸浦は、戦争中、日本軍が中国でニセ札を作っていたことを引き合いに出して、こうも言っている。
 「ニセ札で誰が死にます?誰が損します?」
もっとも、いまだって北朝鮮などは、政府がニセ札(ドル)を作っていると言われるが・・・。
だから、こんなセリフも飛び出してくるのだ。
 「お国がニセ札作って、僕らが作ったらあかんという法はないでしょう」

新千円札が発行された翌年の昭和26年3月、最初のニセ千円札が東京で発見されたわけだが・・・。
当時、贋札作りに要した費用は300万円で、実際に偽造紙幣を使用したのは、僅かに23万円分だったそうだ。
ニセ札作りは、昔から割りに合わないと言われているように・・・。

どうも、お笑い芸人の映画製作への志向は、かなり強いものがあるらしい。
それはそれで結構なことだ。
しかし、演出にあたってはもっともっと工夫が欲しい。
物語が平板でのっぺりしていて、広がりがない。
話にふくらみが乏しく、薄っぺらで、小学校の学芸会でも(?)見ているみたいだ。
題材が題材だけに、破綻や脱線、葛藤があっていいはずだし、どうも弾(はじ)けていない。
わざとらしい、とってつけたような笑いも妙に気になる。
‘奇’をてらって笑いをさそうより、ニセ札作りにかける、一味の一種不思議なエネルギーを、もっと活発に燃焼させたらどうだったのか。
破天荒は、破天荒なりに・・・。

底辺にいる人たちが、国家や権力に抗う話なのだから、面白くなくてはいけない。
映画の表現とは、そういうものではないだろうか。
それが、さっぱり伝わってこない。
独りよがりで、遊び遊びドラマが展開していくようなこのどうしようもない軽さは、浮薄で単調で何とも中途半端な感じがする。
喜劇ドラマとしても、成功しているとは思えない。
これでは、退屈しのぎにもならない(?!)・・・か。


映画「ある公爵夫人の生涯」―美しき女の戦い―

2009-04-15 07:00:00 | 映画
華やかな生活の裏で、夫の無関心や裏切りに苦悩する女がいた。
自身の信念と愛を貫こうとした、実在のヒロインだ。
90年代に、あの衝撃的な事故死を遂げた、イギリスの元王太子妃ダイアナ ・・・。
この物語の主人公ジョージアナは初代スペンサー伯爵の長女で、ダイアナ妃もこのスペンサー伯爵家と縁続きだというから、直系の祖先ということになる。

フランス王妃として、フランス大革命のさなかに、断頭台の露と消えた悲劇のヒロインといえば、マリー・アントワネットだ。
ヒロインのジョージアナは、そのマリー・アントワネットとも親交があった。
マリー・アントワネットと同じ世代に、イギリスを震撼させた、衝撃的な醜聞が存在したのだ。
200年の時を経て、その血が受け継がれているというのか。

ソウル・ディブ監督の、イギリス・フランス・イタリア合作映画である。
アカデミー賞最優秀衣装デザイン賞を受賞作品で、当時のファッションの豪華さには目を見張る。

華やかな結婚の陰に、夫の裏切り、そして遅きに失した許されぬ愛があった。
この映画ある公爵夫人の生涯は、絵画的な美しさのなかに、女の強さと脆さ、そして悲しさを描いて、ドラマ性は豊かだ。
歴史絵巻を観るような、面白さもある。

18世紀後半のイギリス・・・。
貴族の家に生まれたジョージアナ(キーラ・ナイトレイ)は、裕福な貴族のデヴォンシャー公爵(レイフ・ファインズと結婚した。新生活には大きな期待もあった。
二人の結婚は、ロンドン中の注目を集める。
聡明で情熱的な性格のジョージアナは、輝くばかりの美しさを誇る公爵夫人として、英国中の人々に愛された。
しかし、ただひとり夫のデヴォンシャー公爵だけは、彼女を心から愛することができなかった。

公爵は、男子の後継者を望み、自身は、ジョージアナの親友で離婚歴のある女性レディ・エリザベス(ヘイレイ・アトウェル)と愛人関係となり、その屋敷では、奇妙な三人の同居生活が続いた。

華やかな生活と苦い私生活の、板ばさみになりながら、ジョージアナはあくまでも懸命に自分らしい生き方を貫こうとしていた。
そんな彼女の前に、魅力的な恋人が現われた。
相手は、新しい政治家をめざす野心家チャールズ・グレイ(ドミニク・クーパー)だった。
感情を、ほとんどおもてにあらわさない夫とは異なって、一途な情熱をぶつけてくるチャールズに、ジョージアナは心を奪われ、二人は激しい恋におちる。
それは、公爵夫人として許されない関係であった・・・。

強さと脆さを合わせもった女性を演じるキーラ・ナイトレイは、まさにぴったりの役どころだ。
それに、女性の衣装の美しさは、女のもつ性と生の葛藤を写し出しているようで、絵画的な華やかさがある。

情熱に身を任せるか、負った責任をどう果たすのか。
気品もあって、エネルギーに満ちている女性が、家というシステムの中で、精気を失いつぶされていく。
華麗なる世界に身を置いて、その卓越した資質ゆえに・・・。
ジョージアナは、屈辱と寂しさに必死になって耐えながら、黙って自らの品格を貫き通そうとするのだったが・・・。

それにしても、ダイアナ妃直系の祖先がジョージアナとは意外だった。
イギリスという国は、とかくスキャンダラスな話題と歴史にこと欠かない国のようだ。

映画「この自由な世界で」―幸せに生きたい―

2009-04-13 08:00:00 | 映画

ケン・ローチ監督が、「麦の穂をゆらす風」を発表してから二年、久々にしてロンドンの片隅で描いたこの作品は、声なき声が聞こえる、市井の人たちの涙と笑いを綴った物語だ。
イギリス・イタリア・ドイツ・スペイン合作で、ヴェネチアでは最優秀脚本賞に輝いた作品だ。

ロンドンの片隅で、必死に生きる女性と、ロンドンへ仕事を求めてやって来る移民たちのドラマである。
そこには、常に現実を深く見つめ、巷で生きる人々の姿を、みずみずしい詩情とたくましいユーモアが漂い、心が震えるような作品に仕上がった。

アンジー(キルストン・ウェアリング)は、一人息子ジェイミー(ジョー・シフリート)を両親に預けて働く、なかなか活発なシングルマザーだ。
仕事がうまくいったら、一緒に暮らすつもりでいる。
彼女は思い切って、自分で職業紹介所を始める。
外国人の労働者を、企業に紹介する仕事だ。
必死に、ビジネスを軌道に乗せるアンジーだが、ある日、不法移民を働かせる方が儲けになることを知る。
もっとお金があれば、息子と暮らせる。もっと幸せになれる。

アンジーは、越えてはいけない一線を越えてしまう。
そして、事件は起こった・・・。
主人公は、必死に生きているけれど自己本位で、自分の幸福のためには、誰かを犠牲にしても仕方がないと考えている。

この映画の背景となるのは、競争によってより大きな利益を追い続ける現代社会や、移民労働者の問題だ。
それこそが、「自由市場」と呼ばれる世界だ。
その世界で、人は誰もが必死で生き、そのためにしなければいけないことをする。
でも、果たして、それが真の「自由」なのだろうか。

ヒロイン、アンジーは一線を越える。
それでも、この映画は彼女を裁くことをしない。
裁かれるべきは、彼女ではない。
作品は、静かにそう語りかけているようだ。
深い感慨を残す、ラストシーンだ・・・。

イギリスも日本も同じだ。
言葉は違うが、日本という国も、多くの出稼ぎ外国人を迎え入れている。
これとても移民である。
働き手は、いくらでもいる。
そのことが、不法入国者の温床をつくってしまうのだ・・・。

自分の娘を理解しようとする父親ジェフ(コリン・コフリン)や、アンジーを想う移民青年カロル(レズワフ・ジュリック)たちは、問いかける。
 「アンジー、本当にそれでいいの?」
彼らの想いが、沁みいるように伝わってくる。

ケン・ローチ監督の作品この自由な世界でに描かれている、イギリスの状況は、日本人にとっても決して遠い世界のことではない。
日本人とて、自由市場の世界に生きているのだから・・・。



映画「レッドクリフ Part Ⅱ」―未来への最終決戦―

2009-04-11 06:00:00 | 映画

 1800年昔の、中国戦乱の歴史を描くPartⅡだ。
ジョン・ウー監督のこの大作は、ハリウッドを凌駕する壮大なスケールで、大いに楽しませてくれる。
PartⅠ以上の、文句なしの面白さだ。
「三国志」の中で、最も人気の高い「赤壁の戦い」のクライマックスに、全編の二分の一以上を費やしている。

西暦208年、帝国を支配する丞相・曹操(チャン・フォンイー)は、対抗勢力を殲滅すべく、80万の大軍を率いて遠征に赴く。
これに対し、劉備(ユウ・ヨン)と孫権(チャン・チェン)の僅かに5万の連合軍は、長江の赤壁で対峙する。
劉備の軍師孔明(金城武)の才知と、孫権の司令官周瑜(トニー・レオン)の勇猛さで、はじめは曹操軍が大きな打撃をうける。
しかし、200隻の船を持つその主力は健在で、いよいよ決戦の時を迎える。
連合軍は、軍師孔明が、気象の変化(風向き)を読み、敵の心理を突く作戦で、大軍を撃破しようとする。

曹操軍80万の兵、2000隻の戦艦に対して、連合軍はたったの5万、200隻の戦艦で、絶体絶命のピンチに勝機を見出したのだ。
結果的に、それは、軍師孔明の奇策と知恵が功を奏したのだが・・・。

闘う心、忠義の心、野望の心、信じる心が未来を変える。
命がけで人を信じ、人を愛した男たちがいた。
彼らは、未来の見えない時代の、生きる希望だったと言いたいのか。

敵役の曹操を演じるチャン・フォンイーは、なかなか風格のある演技を見せてくれるし、孔明役の金城武も役柄といい、演技といい、いい仕事をしている。
もうこの作品については、百聞は一見に如かずである。
スケールの雄大なスペクタクル映画として、極上のエンターテインメント作品だ。

曹操、劉備、孫権という、三国時代を作りあげた人物やその子孫は、結局は一人として中国を統一することができずに滅んでいったのだが・・・。

アメリカ・中国・日本・台湾・韓国合作レッドクリフ PartⅡは、ある意味では痛烈な男の美学を追及しているような気もする。
凄惨な戦いをくぐり抜けて、生き残ったのは・・・。
この作品の底辺にあるのは、やはり‘義’と‘愛’ということになるのだろうか。
黒澤明を敬愛し、「七人の侍」を絶賛してやまない監督ジョン・ウー「三国志」への思いは、いやがうえにも伝わってくる。

日本人作曲家、岩代太郎の映画音楽もこれまたよかった。
楽曲は、全編フルオーケストラで、東京交響楽団の演奏だが、現代的なサウンドと琴、横笛など、「東洋の感性」を融合、駆使して、迫力満点の壮大な世界観を演出している。
この人、あこがれのジョン・ウー監督をわざわざ北京に訪ね、売り込みの直談判から一年半後に、オファーがあったのだそうだ。
撮影は一年三ヶ月余りに及び、監督とは、寝食を共にして、アジアの国境を超えて交流を深めたそうである。