初公開時、ソ連が崩壊し、混乱の中で小規模な上映となり、長い間幻の映画であった。
日本では、待望の初公開の作品である。
フランス写実主義文学を確立した、フローベールのこの傑作は、モーパッサンをはじめ多くの後世の作家に影響を与えた。
現実に起こった事件を題材に、綿密な取材にもとづき、5年の歳月をかけて完成した小説だ。
この作品「ボヴァリー夫人」は、フローベール没後130年にあたる2010年を迎え、「太陽」で知られるロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督が、1989年の自作をディレクターズカットした作品である。
リアリズムを貫きつつも、独自の解釈を施し、不吉なエロティスズムをたたえた新たなエマ像を生み出した。
エマの衣装は、すべてクリスチャン・ディオールだそうだ。
エマ(セシル・ゼルヴダキ)は、甘い感傷と夢のような人生に憧れを抱いて、医師シャルル・ボヴァリーと結婚するが、凡庸な夫との田舎での生活は、ひたすら単調で、退屈な毎日だった。
失望したエマは、鬱状態になるが、そんなエマの状況を夫は意に介さない。
そんなときに出会ったレオンとの恋も成就せずに終わる。
失意のエマの前に現われた、ドンファンのロドルフは、エマを弄ぶだけだった。
時を経ずして、エマはレオンと再会し、満たされぬ感情に身をやかれ、ひたすら夢を追って不倫の恋に沈み込んでゆく。
逢引や高価な買い物など、浪費を重ねたエマは、とうとう莫大な借金を抱える身となり、裁判所から差し押さえ処分を受けることになる。
エマは、レオンに金を貸してくれるように懇願するが、エマの贅沢とその愛を重荷に感じ始めたレオンは、ついに彼女に別れを告げる。
仕方なく、ロドルフのもとに助けを求めにいくのだが、あっけなく断られてしまった。
絶望したエマは、ひとり静かに毒をあおいで、自らの命を絶つのであった。
ヒロインのボヴァリー夫人は、多くの夢を抱いて、ロマン的な世界に生き、しかも現実の中でその夢をひとつひとつ壊されていく人物であるが、これはまさしくフローベールの精神の悲劇なのであって、夢多い彼が醜悪な現実にしいたげられていく悲しさが、主人公に託されていると見ることができる。
フローベールは、この作品の中で抒情を一切しりぞけて、しかも客観的な没我の文学の中に、より高い次元の抒情を求めたのではないか。
エマが感じる周囲の俗物への嫌悪は、フローベール自身の血にたぎるものをつぎ込んでいる。
人間性に絶望した、その現実嫌悪の深刻さは救いようがなかったのだ。
映画は、フローベールの純文学の‘精緻’を、サウンドを使い、特異な光景、繊細な手足、窓辺を飛ぶハエなどを怪物じみた巨大さで映像化し、しきりと視覚に訴えようとしている。
それが、エマの心象風景であり、存在の特異性なのだ。(と、思う)
物語の終盤、崖の麓の野辺を、エマが三重の棺に納められ、鈍く重い音を響かせて、巨大なコンテナのような霊柩車を、二頭の痩せ馬がゆっくりと引いていく。
もしかして、このラストシーンのために、映画は作られたのか。
まさか・・・?
いや、そうかもしれない。
そして最後の埋葬シーン、それは恐怖と終焉の、確かに静謐感に満ちた、でも猛々しいが印象的なエンディングとなった。
ボヴァリー夫人の夫・シャルル・ボヴァリーは、善良だが愚鈍なヤブ医者だし、薬剤師・オメーは、作者がこの人物によって、平生彼が嫌悪していた市民階級の愚劣さを徹底的に嘲笑している。
レオンは小さな知識人で、恋人が死に直面しているときでも、悪事をおしてまで救おうとはしない意気地なしの男だ。
ラ・リヴィエール博士は名医で、威厳と英知をもって医術を施す哲人的な医者で、作者フローベールはこの博士を登場させて、自分の父の面影を伝えたのだといわれる。
それと、さらに彼自身が「ボヴァリー夫人は私だ」と語ったこともあまりにも有名な話である。
出演は、ほかにR.ヴァーブ、アレクサンドラ・チェレドニクらで、作品はモントリオール国際映画祭、ダンケルク国際映画祭でグランプリを受賞した。
これまで、フローベールのこの作品の映画化は、ジャン・ルノワール(フランス)、クロード・シャブロル(フランス)、マノエル・オリヴェイラ(ポルトガル)らの名監督が試みている。
しかし、原作の真意を伝えようとするには、フローベールの思想、哲学、美学の理解が不可欠で、そうでないと、それは単に官能的な作品を思わせるだけのもので、『ボヴァリー夫人』の映像化(映画化)は不可能かとさえいわれてきた。
映画は、展開に何の説明もないし、人物の造形は理解できても、物語の展開を理解しようとするには、かなり骨が折れるかもしれない。
今回公開の、ソクーロフ監督の新バージョンは、日本のファンのために再編集され、ドラマに潜む悲劇性、普遍性をかなり突っ込んで描いている点に注目だ。
官房機密費(内閣官房報償費)が、国会対策や外交上必要だということは理解できる。
しかし、前麻生政権は、最後までデタラメでいい加減だった。
衆院選惨敗で、政権交代が確定した直後に、残りの2億5000万円の官房機密費を支出していたというのだ。
ドサクサに紛れて、こんな持ち逃げ(食い逃げ?)みたいな汚い手を使っていたのか。
黙って見ていていいのだろうか。
もう、あいた口がふさがらないとはこのことだ。
自公政権時代には、毎月1億円前後の支出があったらしい。
でも、この最後の2億5000万円は、あまりにも突出した金額だ。
鳩山政権が発足したときは、金庫の中がカラッポだったというから、驚愕だ。
こうなると、あきらかに横領行為ではないのか。
国民に対する、重大な裏切りだ!
政権交代が決まり、麻生政権が下野する直前のことである。
一体、どんな必要な支出があったのだろうか。
このときの、衆院選直後の麻生総理は仕事らしい仕事はなにもしていなかった。
それなのに、それまでの倍以上の機密費を使わなければならない理由は何か。
河村前官房長官も、平野官房長官も、どちらもとんちんかんなことばかり言っていて、一向に要領を得ない。
言っていることが、よくわからない。
うやむやで、スットボケていて、何も知らぬ存ぜぬだ。
両人の弁を聴いていると、自民党も民主党もそっくり似たもの同志だ。
ふざけた話だ。
以前から、官房機密費の問題については、鳩山総理も透明性が大事だというようなことを明言していたはずだ。
どころがどうですか。
金庫がもぬけのからになったといっても、「政権交代時にはこういうことが起こる」と、トーンダウンしたのだ。
そういうものですか。
自民党は、選挙で惨敗し、政党助成金も大幅に減る。
これはまずいとふんでか、大急ぎで手を打ったというわけだ。
引き出せるだけ引き出して、自分たちの派閥や金庫に放り込んでしまったのか。
立つ鳥あとを濁して、自民党はそこまで腐りきってしまったのか。
自民党は、年末になると毎年モチ代と称し、議員たちに100万円単位の金が配られていたが、今年は取りやめになったそうだ。
(政党助成金をもらわない、共産党を見習ってはどうですか。)
09年予算でも、14億円も計上されている機密費だ。
以前は、マスコミ対策として野党議員や記者たちとの飲み会、議員の出身校の同窓会費や芋煮会などもあったそうだ。
最近では、外遊議員の餞別、随行議員の土産代や飲み代に使われたようだ。
やましいことがないなら、何も隠すことはない。
それがいやなら、官房機密費といえども「事業仕分け」の対象にと言いたい。
使途を明示する必要はないといわれる機密費だが、どうせ選挙で負けたのだから、最後に全部使ってしまえと考えたのか。
国のために使ったのなら、いっそ堂々と説明してはいかがなものか。
それかあろうか、民主党までが、鳩山政権発足後9月と10月の2回に分けて、合計1億2000万円の機密費を内閣府に請求し、受け取っていたが、使途などについては明らかにしなかった。
おかしいではないか。
民主党は、もともと官房機密費は公表すべきだという立場ではなかったのか。
内容(使途)を、基準をもうけるなりして、明確に国民に公表すべきではないか。
民主党は、与党時代の自民党のようにならないでほしい。
官房機密費といえども、何に使ったか、国民に納得のいく説明をする義務がある。
それは、このお金が、国民の税金だからだ。
映画芸術への、ひとつの実験(試み)のように見える。
1970年代、やるせない空気が漂っていた時代だ。
東京の阿佐ヶ谷に、井伏鱒二、太宰治らが文学コミュニティを形成していた頃である。
漫画界に君臨していた永島慎二のもとに、彼を慕う若者たちが次第に集まり、地元文化を題材にした作品を次々に発表していた。
その中のひとりが、安部慎一だった。
この頃、彼は、伝説の雑誌「月刊漫画ガロ」の次世代の作家として、注目を集めていた。
しかし、創作の不安、焦り、絶望が彼を蝕み、精神を病んでいた。
一時筆を置いたこともあったが、私生活に根ざした創作活動を続ける彼の作品は、日々の愛情、友情、挫折や疑念までも赤裸々に描き出した。
数ある短編のモデルは、ただひとりの恋人であり、のちの妻となった美代子だった。
坪田義史監督の本作は、そのひとりの私漫画家の実像に迫っていく。
オープニングは、漫画のコマから実写にもっていく、変わった作りだ。
70年代初頭だった。
漫画家安部慎一(水橋研二)と、恋人の美代子(町田マリー)は、阿佐ヶ谷で同棲生活を送っていた。
彼女をモデルとして、月刊漫画ガロに発表した「美代子阿佐ヶ谷気分」は、彼らの一番美しい青春の季節を切り取っただけでなく、当時の若者たちを取り巻く時代の空気感をもすくい取り、安部の代表作となった。
しかし、自らの私生活の中で、創作の糧を見つけようとする安部は、次第に行き詰まり、焦りと絶望は、やがて狂気をはらんでいく。
その傍らで、美代子は自らの性(さが)を強く意識し始めるのだった。
「私たちだけ幸せなら、それでいいじゃやない」
運命の二人の愛の変遷が、綴られていく・・・。
どこか、妙に悲しい映画なのだ。
あまり好きな言葉ではないが、アングラ映画ともいえそうな、一種幻想のドキュメンともいえる。
坪田監督が、この作品でそれを試みたかったのか、漫画家・安部慎一とその作品、安部と美代子との年月を描くために、破滅の淵まで堕ちるぎりぎりの生活をドラマとして描きながら、この映画は、安部の日常を破壊する幻想を描き出している。
安部は、精神病院への入退院を繰り返しながら、断続的に執筆活動を続け、現在も小説にまで創作活動を広げている。
作品に描かれる美代子のヌードシーンも、下世話な演出ではないから、ときに生きている彫像のようで、エロティックでもないし猥褻感もない。
坪田監督の言葉によれば、「もっと記号的に、その身体自体がそこにあるような、妄想の中の異界の風景に溶けこむことの出来る裸の表現」を、美代子役の町田マリーに要求し、彼女もこの新鋭監督によく答えたそうだ。
出演は、『ガロ』ゆかりの人々が多数ゲスト出演し、一方佐野史郎が存在感を見せている。
この映画は、いま日本の各地を縦断公開中で、今回も監督自らのトークショウがあって、撮影の裏話など聴く機会があったが、熱っぽく語る彼の眼は、いきいきとしていた。
どうやら、映画を学んでいる大学生や専門学校生あたりに、女性も交えてかなりの人気があるようだ。
概して彼らは、誰もが映画論や芸術論が好きなようで・・・。
物語の中で、安部は、目の前の現実としての美代子の瞬間の表情をカメラで撮り、そこから彼自身が幻想の物語を紡ぎだしているように見える。
たとえば、卓袱台に顔を押し付けた安部の目の前に、小さな人差し指くらいのサイズの裸体の美代子が歩いてきて、「まだ、あきらめないの」と言うショットがある。
時々、おやっと思うような、一瞬理解されにくい前衛絵画を見せられているようなシーンもありで、そんなところをとらえて、シュールレアリスティックだという人もいるが・・・。
確かに、この作品はドキュメンタリー風だ。
人物の表情や動きも、当たり前のように自然だ。しかも、どこまでも一途に・・・。
純愛への狂的な陶酔か。
他者への偶像的な賛美か。
観る人によって様々な顔を見せる、坪田義史監督の作品「美代子阿佐ヶ谷気分」は、青春劇画を映画化したものだが、映画そのものは、まだまだ実験的な色彩が強く思えてならない。
坪田監督は1975年生まれ、「でかいメガネ」でイメージフォーラム・フェスティバル2000グランプリ受賞、これからの作品に期待がかかる。
想像を絶する、未知のディザスター映像が登場した。
ローランド・エメリッヒ監督の、アメリカ映画「2012」だ。
大規模なスペクタクル、地球上に起こる、あらゆる天変地異を網羅しているのだから、凄い。
エメリッヒ監督をして、「もうこれ以上のものは作れない」と言わしめた超大作だ。
2012年に起こるとされる、地殻変動について記された古代マヤ歴を始め、地球上のあらゆる文明に共通する地球滅亡の伝説をもとに、この映画の構想は生まれた。
次から次へと繰り出されるディザスター映像は、驚きのリアルさで観客をうならせる。
人々が、車や飛行機で逃げまどうなか、足元が崩れ落ちてゆくロサンゼルス崩壊のシーンは、ジェットコースターに乗っているような臨場感溢れるエキサイティングなものだ。
映画は、まるで現代版「ノアの箱舟」だ。
子どもたちとイエローストーン公園にキャンプに訪れたジャクソン(ジョン・キューザック)は、謎の男チャーリー(ウディ・ハレルソン)から、“地球の滅亡”の日が訪れることを知らされる。
さらに、その事実を世間に隠している各国政府は、密かに巨大船を製造し、限られた人間だけを脱出させる準備に着手していた。
初めは信じなかったジャクソンだったが、ロサンゼルスで史上最大規模の大地震が発生し・・・、そして相次いで大地震、大津波、大噴火がアメリカ全土へと拡大する。
ジャクソンは、別れた妻・ケイト(アマンダ・ピート)と二人の子どもを守るため、家族とともに巨大船のあるところをめざすのだが、彼ら一家を追うように、未曾有の大天災が次々と地球を呑み込んでいく・・・。
タイムリミットは迫っている。
しかも政府が造っ巨大船はたったの4隻、全員は乗れない!
その頃、ウィルソン大統領(ダニー・グローヴァー)は、アメリカ国民と最後の運命を共にしていた。
そして、娘のローラ(タンディ・ニュートン)と科学顧問のエイドリアン(キウェテル・イジョフォー)に、最後の別れを告げる。
一方、ジャクソンたちは、何とか巨大船のところまでたどり着いていた。
しかしそこには、何億人もの人々がすでに押し寄せていたのだった。
船は出発できないまま、空前の大津波が間近まで迫っていた。
生きている人々に残されたタイムリミットは、たったの15分しかなかった!
2012年12月21日、ついに地球を、いや世界を、未曾有の大天災が呑み込んでいく・・・。
ここまでやるかというばかりの、最先端の特殊撮影技術を駆使して、見事な出来ばえだ。
それでいて、娯楽映画の醍醐味を思う存分に堪能させてくれる。
さすがに、エメリッヒ監督の面目躍如たるものだ。
あれもこれも、危機一髪のシーンの連続だ。
ドラマは、当然だが、科学的、論理的にはありえないと思われるシチュエーションを展開しながら、一方で人類愛、家族愛といった、人間社会の恒久の絆を物語の随所に散りばめていることも忘れてはいないが・・・。
まあ、いま疲弊し始めている(?)、地球の余命があと3年といわれても、まったく説得力はない。
映画の中の、この巨大船に乗り込めるのは、限られたVIPと金持ちのみで、全人類を救出できるわけではない。
このノアの箱舟みたいな巨大船が、いまの格差社会の象徴のように見えてくるのはどうしたものか。
世界に終わりが本当に近づいているとしたら、どうするだろうか。
この作品は、観客が自分の目を疑ってしまうほどの、レベルの高い視覚効果を演出して、興趣はつきない。
生か、死か。
究極の選択を迫られるなか、人間は最後に何を思い、何をするか。
家族、恋人、仲間、愛する者のために、人は何ができるだろうか。
この迫力ある、見どころ満載の娯楽映画は、そんなことも語りかけている。
まあ、お代を払って観ても損はない作品だ。
劇場の大画面で観てこその、迫力とスリリングを存分に味わうことができる。
新政権の浮沈をかけて、行政刷新会議の「事業仕分け」が注目を浴びている。
政治家、民間人たち仕分け人は、連日、各省庁の‘聖域’に勇ましく踏み込み、「廃止」「見直し」の連発である。
頼もしくもあり、世論の関心だって、いやがうえにも高まるというものだ。
だが、役所側は「あまりにも荒っぽい」「まるで公開処刑だ」と、反発している。
制度上の問題もいろいろとあろうが、一般有識者や国民の評判はすこぶるよい。
こんなことが、自民党政権下で何故出来なかったのか。
不思議でならない。
これを見て、自民党の参院幹事長は何と言ったか。
「皆勝手に言いたいことを言っている。こらおもろいわな。新鮮に映る。非常にヒットしている」
どうだ。こう言って褒めちぎったのだ。
おまけにたいそう残念がって、「なんで自民党のときにせなんだか」と言ってぼやいていたそうな・・・。
現在、第一段階の仕分けが終わって、第二段階に入ろうとしている。
無駄とか不要不急の予算は、結構出てくるものだ。
それを何とか切り込むのが、新政権の義務であり、国民の期待感もそこにある。
鳩山総理は、「聖域なき見直し」を盛んに主張しているが・・・。
確かに、1時間程度の審議で、事業をバッサリ切ってしまうことや、法的権限を持たない民間仕分け人への疑問がないわけではない。
仕分け結果に対する巻き返しも、当然出てくるだろう。
現に、早速ホームページなどで、つるし上げにさらされた官僚たちの不満をぶちまけている!
しかし、なんと言ったって、歳出カットや埋蔵金の活用で、総額1兆円規模の財源確保にいたったのだ。
この事業仕分けは、国民の予算や事業に対する関心をひきつけた。
もろもろの危うさはあるにしても、予算編成の過程を公開する事業仕分けが、これだけ関心を呼べば成功だ。
賞賛の声もあがっている。
広く公開された場で、誰もが自由に見られるのだ。
画期的なことではないか。
自民党は悔しがっている。
何だかんだ言いながら、切り捨てる民主党を見て、実に羨ましくて仕方がないのではないか。
たとえ、削減理由がきちんと説明されていないとか、やり方がただのパフォーマンスだと言われようが、民主党はやるべきことをやればいい。
こういうときの、自民幹部のぼやきは何だかネチネチしていて、いただけない。
困った問題もある。
事業仕分け人に、‘反抗的な’大臣だっていないわけではないからだ。
仕分けの現場を見て、怒りにふるえた大臣がいる。
そんなことだと、自民党時代と一緒になってしまわないか。
行政刷新会議(自民党時代は財務省)が予算を削ろうとして、各省庁、大臣(同=役人、族議員)が抵抗する構図になる。
たとえばこうだ。
関西に伊丹、関空、神戸と三つの空港があって、客を奪い合っている。
行政刷新会議は、三空港のあり方を見直すまでは、関空への補給金の凍結を打ち出したが、こんな当然の決定にも国交相は否定的だ。
仕分け人に反抗的なのだ。
そんなことで、今後どうなっちゃうの?
大臣と刷新会議(仕分け人)は、同じチームでなければならないのに、いつのまにか対立してしまっている。
そうなると、仕分け作業は変てこなものに見えてくる。
くれぐれも、いつのまにか自民党政権と同じ構図にならないように願いたいものだ。
忘れないでもらいたい。
俎上に上がった予算は、すべて私たちの血税なのだ。
「二次喫煙」までは、耳慣れた言葉ですが、「三次喫煙」となるとどうでしょうか。
喫煙者の紫煙を、直接吸い込まなくても、「受動喫煙のキケン」があるということです。
それが、忘れてはいけない「三次喫煙」ですよね。
たとえば、前の日に、誰かがタバコを吸った部屋に入ると、カーペットやカーテン、その他調度品類の表面にくっついている、タバコの発ガン性物質を吸い込むことになって、とても有害だということなんですが・・・。
どの位の人に、この認識があるでしょうか。
その部屋の空気を吸うことで、健康被害を及ぼすキケンが大いにあるというわけです。
とくに、乳幼児のいる家庭では、要注意です。
「受動喫煙」というのは、車のウィンドウをちょっと開けて、タバコの煙を逃したり、子どもを外に連れ出し、その間に家の中にいて吸うという「配慮」をしてもなおダメということで、要するに、喫煙の習慣そのものをおやめなさいということのようです。
タバコの煙には、猛毒物質(ブタン、鉛、砒素、シアン化水素、それにポロニウムとかいう放射性物質まで)が結構あって、それを聞いただけでも怖い話です。
このことは、ハーバード大学医学部のグループが発表しています。
「三次喫煙」(残留受動喫煙)については、日本のメディアもほとんど取り上げていないのが実情です。
「三次喫煙」に要注意、侮ることなかれです。
会社の帰りにパチンコをやって、そのまま帰ってきたサラリーマンのスーツには、嫌な臭いと、有害物質がいっぱいしみこんでいることになります。
喫茶店や居酒屋だって同じでしょう。
もちろん、会社の喫煙室だって・・・。
それを、家庭に毎日持ち込んだりしているのでは・・・?
自分は喫煙しないから大丈夫だなどと、安心してはいられません。
家に帰るや、出迎えに飛び出してきた、可愛い坊ややお嬢ちゃんを玄関先で抱き上げる、マイホームパパちゃまがいますけれど、そうしたスキンシップは禁物(!)ですねえ。
ところで、タバコの税金を大幅に上げてはどうか、そんな議論が始まっています。
健康問題を考えて(!?)のことだそうです。
タバコは、肺ガンばかりでなく、さまざまな病気を引き起こすといわれています。
喫煙する本人はもちろん、周囲の人の健康、とりわけ子どもへの影響が心配ですね。
鳩山総理も、環境や人間の身体の面から、「増税ありうべしかなと思う」と言いました。
日本人の喫煙率は非常に高く、喫煙天国とまでいわれています。
タバコの値段が安いということにも、一因があるようです。
20本入りのタバコ1箱で、英国で約850円、フランスで550円といいますから、それと比べれば、日本の300円はいかにも安い。
300円のうち、174円余りが税金だそうでして・・・。
喫煙率を下げるためには、価格を上げることだという意見があります。
この論理が、まかり通っているようです。
人々が健康になることを考えると、タバコの消費が減っても、タバコによる病気の治療費などがおさえられることになり、はるかに得られるものは大きいとされるのです。
喫煙者の8割は、現に禁煙を望んでいるそうです。
価格を、600円から段階的に上げる案も検討されているらしい。
本当の効果を考えたら、もっと高くてもという意見だってあるのです。
その昔、日本では種子島銃を伝えたポルトガル人らによって、タバコは広められたといわれています。
慶長年間には、全国各地でタバコの栽培が行われ、喫煙の風習が広まって今日に至ったといわれます。
それがよかったのか、悪かったのか。
日本たばこ産業(JT)の大株主は、いわずと知れた日本政府です。
いっそ、株を売却してしまったら、その財源が国民の生活を少しは潤し、国民の健康対策の一助になる(?!)なんてことには、ならないのでありましょうか。
どう転んでも、タバコには、褒められるような、よい話はないようで・・・。
たかがタバコ、されどタバコ・・・。
今年は、松本清張の生誕100年に当たる。
この作品も、半世紀ぶり、再度の映画化だ。
清張の数多い作品の中でも、傑作のひとつといわれている。
現代でも、色あせない魅力的な小説だ。
松本清張の作品は、推理小説の体をなしていながら、単なる謎解きではなく、登場人物の境遇や、犯罪の動機、社会的な背景の描写に力が入れられている。
ミステリーでありながら、さながら社会派ドラマの観がある。
この物語もそうだ。
清張は、戦後の荒廃から復興、そして高度経済成長へと変化していった、昭和という時代に生きた人々の、夢や憧れ、悲しみ、不安を活写する。
社会の不条理や格差、男女の愛憎、金と名誉や権力に振り回される人々・・・、清張は、いつの時代にも変わらない普遍的な人間ドラマを描いた。
犬童一心監督は、清張の名作を得て、前作(61年)からさらに社会派の色濃い、時代性を鮮明に浮かび上がらせた作品として完成させた。
野村芳太郎監督の前作(出演は、久我美子、高千穂ひづる、有馬稲子、南原宏治、西村晃ら)から、もうすでに48年の時を超えている。
そうか。あれから、もう48年もたっているのか・・・。
サスペンス映画の、原点ともいえるこの作品の、新旧の傑作を見比べる機会が得られたことは喜ばしい。
何故ならば、映画というのは、観るたびに新たな発見があるからだ。
・・・真実は、ひとつしかない。
視点をずらすと、真実は別の顔をしていることもある。
・・・結婚式から、一週間後のことであった。
夫の鵜原憲一(西島秀俊)は、仕事の引継ぎのため、以前の勤務地であった金沢に戻った。
だが、彼はそのまま帰って来なかった。
見合い結婚ゆえに、夫の過去についてほとんど何も知らない妻禎子(広末涼子)は、まるで彼が失踪した理由も見当もつかない。
憲一の足跡をたどって、北陸金沢へと旅立った禎子は、憲一のかつての得意先・室田耐火煉瓦会社社長夫人の室田佐知子(中谷美紀)と、受付嬢の田沼久子(木村多江)という二人の女に出会う。
佐知子は、日本初の女性市長選出に向けて、支援活動に精を出していた。
久子は、教養がなく貧しい家の出だが、社長の目利きで入社したのだった。
決して交わされるはずのなかった、三人の女の運命が、ある事件をもとに複雑に絡み合ってゆくことになる。
一方、憲一の失踪と、時を同じくして起こった連続殺人事件に、ある共通の事実が判明した。
事件の被害者は、すべて憲一に関わりのある人間だったのだ。
夫の失踪の理由は何だったのか。
連続殺人事件の犯人は?
そしてその目的は?
すべての謎が明らかにされるとき、衝撃の真相が、禎子を待ち受けていたのだった・・・。
犬童一心監督の映画「ゼロの焦点」は、終始禎子の語りによってドラマが展開する。
冬の北陸の風土を、彼女の心理的陰影に沿って、実に丁寧に描いている。
雲低く垂れ込めた荒海、降り積む雪・・・、風土と人間と、そしてその時代とが響き合って、濃密な映像世界がスクリーンいっぱいにに広がる。
そして、昭和30年代のこの時代を知る人は、必ずや、そこに戦争の傷跡の残影を見るのではないだろうか。
ニュースフィルムも、敗戦直後の街を映し出して、時世を感じさせる。
ドラマでは、三人の女たちの、それぞれの悲しみが描かれる。
女たちの相克と葛藤は、ときに凄まじく、ときに哀切をきわめる。
これだけのドラマになったのは、やはり文豪松本清張の原作に負うところが大きい。
三人の女たちの競演も見ものだ。
時の流れを超えて生き抜く女の強さを、あの「地上の星」を思い出させる中島みゆきの歌う主題歌「愛だけを残せ」が、勇壮なエンディングで締めくくる。
もちろん彼女渾身の作詞・作曲だが、この歌が、また素晴らしい。
ドラマが終わったからといって、早々と席を立たないほうがよい。
犯人当て、動機の推理、衝撃の結末と、三拍子揃った清張の名作サスペンスが、犬童一心監督の手によって、また現代によみがえったといえそうだ。
日本の探偵・推理小説界を確立した、江戸川乱歩の生涯と作品を紹介している。
なかなか見どころの多い、内容の濃い、貴重な展覧会だ。
少年時代に、胸躍らせながら貪るように読み漁った、「怪人二十面相」「青銅の鉄人」等々、懐かしい作品群が想い出される。
欺瞞系譜とは、昭和23年頃、乱歩が得意とした、探偵小説のもろもろのトリックについて、分類を試みたものだそうだ。
外国のミステリー小説や学術的な論文などもよく研究している。
そうだった。
次から次へと、作品の中に生み出されるトリックは、まさに乱歩マジックだった。
乱歩は、大正12年(1923年)頃に、「二銭銅貨」を「新青年」に発表して、探偵小説作家のデビューを飾った。
以後、「D坂の殺人事件」「屋根裏の散歩者」など、傑作ミステリーを相次いで発表する。
東京池袋の旧江戸川乱歩邸の、二階建ての蔵の中には、入りきらないほどの膨大な資料が一杯で、よく戦火をまぬがれたものだ。
何事も、記録し、分類し、並べることに、明治大正の人々は情熱を注いだとはよく言ったもので、乱歩とて例外ではない。
幼少期から晩年にいたるまでの、スクラップから、書簡、メモ、あらすじを書いた原稿など、見事に整理されている資料は圧巻だ。
インクのにじんだノート、四百字詰めの原稿用紙、どれを見ても、ミステリー作家の往年の息吹が伝わってくる。
とりわけ、「貼雑年賦」と称して、自らに関する記事、文書、書簡、地図などを詳細に編年的に集大成したスクラップブックや、戦時下での創作活動の場を奪われるまでの、半生の記録も興味深い。
各種評論、内外の作家、作品はもちろん、旧乱歩邸に保存されていた蔵書や収集資料は、もうそれだけで貴重な資料館だ。
愛用のカメラもそうだが、映画にも強い関心を持っていた乱歩は、自分でも8ミリカメラを操って、家族や友人らを撮影して自ら編集し、その一部も公開されている。
とにかく、乱歩という人はいかに整理好きで、几帳面で、物事に研究熱心であったかがうかがわれる。
自分の年賦も、自分で編集した‘原型’が展示されている。
戦前戦後を通じて、昭和40年に70歳で死去するまでの、そしてのちに彼のあとを継いだ、横溝正史、松本清張ら、実に多くの推理作家たちの足跡を振り返るとき、巨人・江戸川乱歩の‘偉業’を思わずにはいられない。
どこか怪しげな香りで、多くの読者をひきつけてやまなかった、あまたの作品とともに・・・。
公開されてから、大分経ってしまった。
心温まる物語だ。
人は「いま」を生きている。
誰かを愛するために・・・。そして、幸せになるために・・・。
観光客でにぎわうパリの郊外に、ベルサイユ宮殿がある。
世界遺産である。
17世紀フランス繁栄の歴史の証である、この宮殿の周囲に森がある。
その森に、現在多くのホームレスが住んでいることを、知っているだろうか。
このドラマ「ベルサイユの子」は、その森から始まる。
ピエール・ショレール監督のフランス映画だ。
重い荷物を背負い、幼い男の子の手を引いて、パリの夜の街角をさまよう若い女がいた。
女は、子供の母親ニーナ(ジュディット・シュムラ)だった。
路肩の工事現場の奥に入り、雨風をしのげる場所を確保した二人は、そこを一夜の宿と決め、眠りについた。
母ニーナにそっと手をのばす子供の名はエンゾ(マックス・ベセット・ド・マルグレーブ)といった。
まだ5歳であった。
母子は、宮殿を臨む公園の陽だまりの中で、ゴミを漁って得た食事を分け合った。
住む家もないニーナは、自分の働く場所を探すのに懸命になっていた。
ある日、ニーナとエンゾの二人は、森の中で道に迷ってしまった。
気がつくと、エンゾがいない。
あわてて探したニーナの目に入ってきたのは、掘っ立て小屋の前で焚き火をする男と、傍らで男からもらったトウモロコシをほおばる息子の姿だった。
こうして、ニーナはその男と知り合った。
男は、社会からドロップアウトして、ベルサイユの森のはずれでひっそりと生きてきたダミアン(ギョーム・ドパルデュー)だった。
ダミアンは、世の中のすべてを諦めたような男だった。
ニーナは、ダミアンに道徳心のあることを感じとり、一夜を共にしたのち、エンゾを残して突然姿を消してしまった。
ダミアンは、見知らぬ5歳の子供の世話をしなければならない羽目になった。
エンゾはまだ幼く、何も分からない。
寒さと飢えをしのぎながら、二人はともに生活をするようになった。
そうして、他人であるはずの二人の間に、いつしか、本当の親子以上の情愛が生まれてくるのだった。
・・・歳月は流れ、そして・・・。
いま、世界的な不況が、現代社会を見舞っている。
このドラマは、単なる絵空事ではない。
母親と共に路上生活を強いられ、冬の夜のパリの街をさまようオープニングから、ダミアンと会い、心を通わせていく中盤での、エンゾの心情の変化は見事だ。
二人で暮らすうちに、病に倒れたダミアンのために、ベルサイユ宮殿に助けを呼びにいく健気さ、入院したダミアンの帰りをひたすらひとりで待つ切なさ・・・。
それを、映画デビューのマックス・ベセット・ド・マルグレーブという子役が、天使が舞い降りたかのような愛らしさで、見事に演じている。
無垢な笑顔と、強い意志を感じさせる目の力、リアリティに満ちたそのたたずまいに、名子役の誕生を見る。
ダミアンを演じるギョーム・ドパルデューは、「ランジェ公爵夫人」でおなじみだが、2008年10月、急性肺炎のために、37歳の若さで惜しくもこの世を去った。
とてもいい、俳優だった。
社会からはみ出して、自ら孤高の人生を選択したダミアンは、その繊細さゆえに問題児扱いされ、ギョーム自身の波乱万丈の人生そのものだ。
幼いエンゾを守るために、疎遠だった父を頼るくだりがあるのだが、このあたり、国民的俳優であった父ジェラールとの確執と和解を思い起こさせる。
守るべきものを得て、強く優しく変わっていくさまをスクリーンに見せて、突如消えてしまったギョームだが、彼の早世が惜しまれてならない。
この物語の結末を明かしてしまうと、エンゾが生みの母親を探して会いに行くラストシーンは、家族の崩壊から家族の再生へという展開になるが、これとて、古典的な家族の崩壊から、複合的な共同社会への道筋を追及してきた(?)、フランス社会の現在のディレンマを率直に表現しているのかもしれない。
映画は、‘未完成’と言えなくもない。
パリのホームレスといい、日本と似たフランス社会の、ありのままの現実を映し出した側面を見る想いがする。
ともあれ、澄み切った幼い子供の目と、あくまでも爛漫な笑顔に、あたたかな救いがある。
そして、強く美しい、人間の絆を感じさせる一作である。
一言でいうと怖い映画だ。
今回、どういう風の吹き回しか、この種の映画を観ることは珍しい。
サム・ライミ監督のアメリカ映画である。
恐怖による興奮を、いやがうえにもかきたてる作品だ。
限りない理不尽、などというものではない。
いや、それよりかなり悪趣味の、どぎつい恐怖と戦慄に満ち満ちている。
おどろおどろとした場面の展開と、不気味に高まる音響効果と相まって、演出過剰(!)の衝撃作だ。
サム・ライミ監督は、日常生活に潜む、些細なきっかけの引き起こす恐怖を、主人公とともに体感させようとする、卓越した技(わざ)の持ち主なのかも知れない。
いやいや、これは凄い映画が誕生したものだ。
ここで凄いと言ったのは、この作品が優れているという意味では決してない。
銀行の融資係をしているクリスティン(アリソン・ローマン)のもとへ、ある日、ガーナッシュ(ローナ・レイヴァー)と名乗るジプシー風の老婆が、融資返済の猶予を求めて訪れて来た。
このガーナッシュの申し入れを、出世に目がくらんだクリスティンは、きっぱりと断ってしまった。
そのことに、老婆は態度を豹変し、クリスティンに飛びかかってきた。
クリスティンは、警備員とともに辛くも老婆を撃退するのだが、その時すでに老婆の呪い(スペル)がクリスティンにかけられていたのだった・・・。
その夜遅く、残業を終えて駐車場に向かったクリスティンを、あの老婆が待ち伏せていた。
老婆は、再びクリスティンに襲いかかった。
死にもの狂いで応戦する、クリスティンのコートから、老婆はボタンを引きちぎり、呪文のような謎めいた言葉を残して去っていった。
その日から、クリスティンの周囲で、奇怪な出来事が続発する。
自宅の家具がひとりでに動き出したり、心臓が縮み上がるほどの悪夢にうなされたり、さらには幻覚、幻聴に見舞われ、会社の上司や恋人クレイ(ジャスティン・ロング)の両親の前で取り乱してしまうほど、恐怖の連鎖に巻き込まれていく。
身の回りに、おかしなことばかり起こり始めたことを不安に思ったクリスティンは、老婆に謝罪し、気味の悪いそんな状況を元にもどしてほしいと請うべく、老婆ガーナッシュ夫人を探した。
住所を頼りに、老婆の家を訪ねると、何とそこでは老婆の葬儀の真っ最中だったのだ・・・。
数分間に1度のペースで繰り出される、激烈なショック描写が、アトラクション感覚のスリルをもたらすのだ。
ストーリーの展開の巧みさに、観る者はくぎ付けになる。
ヒロインに残された寿命は三日間で、呪文を唱える老婆は、もうこの世を去ってしまっている。
クリスティンは、呪縛から逃れる方法を発見できるのか。
三日間のミステリアスなドラマは、予測不可能なクライマックスに向けて、容赦なく恐怖は高まっていく。
とにかく、呪いの惨劇を引き起こす、老婆ガーナッシュのキャラクターは強烈だ。
いかにも怪しげな風貌に加えて、脅威のパワーと執念深さで襲いかかってくる、すさまじいまでの彼女の恐ろしさが、作品をリードしていくのだ。
そして、あっと驚くようなエンディングへ向かい、いかなるどんでん返しのインパクトをも凌駕するほどの、最終場面60秒の結末がまた凄い!
ここは、ハッピーエンドと思わせて、実は最悪の運命をたどる驚嘆のラストシーンだ。呪いは消えることはない。
人生を、根こそぎ崩壊させるまで・・・!
サム・ライミ監督のアメリカ映画「スペル」は、とにかく息つくひまのない、スリリングな展開に度肝を抜く。
あまりにも計算しつくされた恐怖に、この作品を観て、金縛りにあった女性が本当にいたそうだが、にわかには信じがたい話だ。
仕掛けは、想像を超えている。
深く切り込んだ心理描写は、もはや恐怖をも超越しているかもしれない。
この作品は、サム・ライミ監督の集大成か。
特筆すべきは、老婆ガーナッシュ役のローナ・レイヴァーで、まさに一世一代の怪演にして名演を見せる、彼女の姿は忘れることが出来ないだろう。
人間への、ほんの小さな不親切が逆恨みを買って、呪いのドラマとなった。
その地獄を描いて、ドラマは恐怖のグロテスクだ。
そして、脅かされたあとには、ちょっぴり笑いも・・・。
人生退屈なときに観る、悪趣味一杯のホラー映画だ。