徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

―朗 報!―日本映画「さよなら渓谷」がモスクワ映画祭で審査員特別賞受賞!

2013-06-30 09:00:40 | 映画

前日6月29日 映画「さよなら渓谷」関連追記

梅雨の中休みというのか、晴れたり曇ったり、降ったりやんだり、すっきりしない空模様が続いている。

とうに立夏を過ぎて、本格的な夏がそこまできて足踏みしている。

そんな中、今朝早く、テレビニュースを見ていたら、タイミングよくスカッとするような朗報が飛び込んできた!
昨日(6月29日)、本欄の拙いブログで取り上げたばかりの、大森立嗣監督映画「さよなら渓谷」が、日本時間の今日30日未明、世界的な映画祭のひとつである第35回モスクワ映画祭で、何と審査員特別賞に輝いたのだ。
日本映画での受賞は、羽仁進監督「手をつなぐ子ら」の1965年以来、48年ぶりの快挙だそうだ。

個人的には自分としても高く評価していた作品が、しかもブログを立ち上げたすぐ翌日の報道で、モスクワでの受賞を知らされ、ああなるほどと納得した次第で・・・。はい。
忌まわしい、過去の呪縛から逃れられない二人の姿がリアルに描かれ、「洗練された演出と人間関係の深い理解」が、審査員の高い評価を受けたと伝えている。
この感想は、自分の感想とそっくりではないか。
何か、映画賞を取ってもおかしくない作品だと思っていた。


この映画「さよなら渓谷」はさる6月24日に鑑賞したばかりだった
ブログでは、他にも触れたい上映中の作品があったものだから、気になりながら取り上げるのが後回しになってしまっていた。

日本で作られた小さな映画ではあるけれど、国際舞台で脚光を見たことは素直に喜ばしい。
大森立嗣監督作品は、問題作も多く、賛否両論に分かれる作品もあって難しいが、本作は非常によくできた作品だと自分も自認していただけに、他人事とは思えず嬉しい。
とても気持ちの良い朝である。

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映画「さよなら渓谷」―忌まわしい憎悪の過去から生まれる究極(?)の愛の行方―

2013-06-29 20:00:00 | 映画


 「悪人」などで海外でも評価の高い、芥川賞作家吉田修一の長編小説を、大森立嗣監督が映画化した。
 ストーリーの展開の巧みさは言うまでもないが、映像化は難しいとされてきた作品だ。
 大森監督は、残酷な愛の問題作ととらえ、痛ましいレイプ事件の被害者と加害者を大きく浮き彫りにする。
 それが憎しみであれ、償いであれ、それとも愛であれ、ここに登場する男と女は15年の時を経て夫婦となった。

 運命の相手と残酷な出会いをしてしまった男と女の、どうしようものない心情をいまある現実に突き付けて、夫婦の心の奥へと迫っていく。
 ねっとりとした夏の暑さの中で、ともに“罪”を抱えた男女の道行きの果てに、異常な緊張感がほとばしる。
 スクリーンから伝わってくるものは、ひりひりとするような痛みである。
 その言い知れぬ痛苦を包み込んだ、これは、ありえないがありうるかもしれないドラマなのである。




     
製材所で働く夫の尾崎俊介(大西信満)と妻のかなこ(真木よう子)は、緑豊かな渓谷の近くにある市営団地の一室に住んでいた。

必要以上の生活用品がない部屋には、夏の暑さがこもっている。
普段はのどかなこの場所で、しかも隣家で突如起きた幼児殺害事件は、その実母が実行犯として逮捕されるという、ショッキングな結末で収束へ向かっていた。
しかし、事件はひとつの通報から、新たな展開を見せるのだった。
実行犯である母親の共犯者として、俊介に嫌疑がかけられたのだ。
そして、この通報をしたのは妻のかなこであった。

事件を張っていた記者の渡辺一彦(大森南朋)は、事件の犯人が「尾崎と不倫関係にあった」と話したことから、落着しかけた事件を取り調べることになり、彼は俊介の過去を洗い始める。
そして行き着いた先は、俊介が今から15年前、大学時代野球部に在籍中に、他の部員たちとともに、女子高生を集団レイプした事件で逮捕されていたという事実だった。
渡辺は、俊介が幼児殺害事件の共犯者というのは、本当ではないかと思った。
さらに渡辺は、そのレイプ事件の被害者だった水谷夏美のことを調べていく。

夏美は、その事件によって婚約破棄、転職、結婚した夫からのDV、そして自殺未遂を繰り返したあげく、現在失踪中だと知る。
そんな中、俊介の妻、かなこが俊介と夏美の不倫関係を認める証言をした。
一方で、黙秘を続けていた俊介は、かなこの証言を受け入れたが、渡辺は何か腑に落ちない。
俊介が起こしたレイプ事件、夏美の行方、かなこの証言、そして渡辺は驚愕の真実にたどり着くことになる。
それは、俊介とかなこの奇妙な関係にあった。
過去に、俊介の起こしたレイプ事件の被害者、水谷夏美は実は「かなこ」だったのだ。
そのかなこが、俊介と一緒に住んでいる!
事件から15年が経っていたが、いま夫婦となっている二人の間に一体何があったというのか。
二人を結ぶつけている本当の理由は、何だったというのだ・・・。

かつてのレイプ事件の被害者の女と加害者の男、二人は15年の時を経て夫婦となっていた!
この大森立嗣監督映画「さよなら渓谷」には、サスペンス的な要素が散りばめられており、そこにいる男女の心の繊細な揺らぎとリアリティが痛いほどに見えてくる。
男と女の「襞(ひだ)」のようなところで向き合っている、二人の関係が熱いドラマの骨格をなしている。
二人はまともに見る限り、普通の夫婦なのだ。
俊介とかなこの心模様が描かれながら、かなこ役の真木よう子は非情に難しい演技に挑戦している。
冒頭のいささかショッキングなシーンから、彼女はかなこの複雑な過去と関係性を、俊介と絡みながら、どこか微妙なぎごちなさというか、実はかみ合っているのにかみ合っていないような残像が、随所に散見される。
しかも今まではアイドルのような印象もあった彼女が、この作品では、まるで化粧気のないノーメイクで本格的な演技を見せている。

レイプ事件の、加害者と被害者が一緒に住んでいる。
そんなシュチエイションなど理屈では到底考えられないことが、小説ではつぶさに描かれていて、映画は二人の生身の体を投げ入れて、一緒にいることの理由を、論理や言葉ではなく体現させている。
この残酷なドラマの中に、一歩も二歩も踏み込むことで生まれてくるもの、それが究極の愛であったとしたら・・・?
真木よう子、大西信満の二人は、ねっとりとした夏の空気の中で、奇跡のような瞬間瞬間をスクリーンに焼き付けていった。
はじめかららラストまで、観客はぐいぐい引きつけられていく力が、この作品にはある。

夏美というひとりの女の魂の孤独な叫びが、真木よう子の生々しい肉体を通して語られていくわけだ。
再会した二人のあてどない道行を、殺風景な部屋での暮らしが物語っている。
幼児殺しの母親の話を中心に展開するのかと思ったら、あっという間に、物語は隣の家に住む若い男女の、ミステリアスな過去を含んだドラマにすり替わってしまうのである。
こうした意外な場面の転換手法は、外国映画などではよくみられる。
それから、渓谷のグリーンや自然物に繊細な色を捉えるにはフィルムが向いているからと、わざわざ16ミリフィルムで撮影され、エンディングテーマ椎名林檎作詞・作曲)も主人公かなこに寄り添うような形で、真木よう子自身が歌っている。
この作品を観ていると、心が千々に裂かれそうになるという感じもよくわかろうというものだ。
あまり期待しないで観た作品だったが、これが案外良く出来ていたので、見終えて深いため息が出た。
それほどに重い映画だ。
テーマはテーマでも、そこらの安っぽい通俗映画とは違って、重厚な心理描写にかなりの苦心と努力のあとがうかがえる、究極の愛憎劇だ。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

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映画「華麗なるギャツビー」―夢を追った男と夢に消えた女―

2013-06-27 23:00:02 | 映画


 アメリカが好景気に沸いていた「狂乱の時代」とは、1920年代のことである。
 20世紀アメリカ文学を代表する作家、F・スコット・フィッツジェラルドの同名の小説が原作だ。
 バズ・ラーマン監督アメリカ映画は、ニューヨークを舞台に、19世紀のヨーロッパ貴族を模倣したかのような、退廃的なブルジョワ世界を豪華絢爛に描いている。

 貧しさゆえに、愛する人に裏切られ傷ついた男は、好景気によって実現したアメリカン・ドリームの恩恵で、金によって再び愛を取り戻すのだ。
 だが、つかみかけたその夢は、いとも簡単に打ち砕かれる運命にあった。
 時を経て、いままた甦るアメリカ文学の名作は、謎と愛憎に満ちたかりそめの人生模様を、鮮やかに浮き彫りにする・・・。





     
1922年、ニューヨーク・・・。

札束が飛び交い、世の中は狂乱の中に浮かれ騒いでいた。
そんな中に、ひときわ目を引く大富豪ジェイ・ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)がいた。
ギャツビーは、宮殿のような大邸宅に暮らし、そこでは毎夜のように豪華絢爛なパーティーが開かれていた。
一足踏み込めば、まさにそこは夢の世界で、誰もが憧れと好奇心に満ちた目で見つめていた。
大勢の人が訪れるが、ギャツビーの素性を知る者は誰ひとりいない。

この隣家の煌びやかな光景を目にした、ニック・キャラウェイ(トビー・マグワイア)のもとにも、ギャツビーから招待状が届く。
パーティーに参加した彼は、ギャツビーとすぐ親しくなり、その華麗なる生い立ちに驚かされる。
ある日、ギャツビーから、彼の元恋人のデイジー・ブキャナン(キャリー・マリガン)と再会させてくれるように頼まれる。
デイジーはニックのいとこで、大金持ちのトム・ブキャナン(ジョエル・エドガートン)の妻であった。
ギャツビーは、デイジーとの再会を果たすが、既に夫がいる彼女との禁じられた恋が、少しずつキャツビーの華麗な仮面をはがしていくことになり、その下に隠されていた彼の秘密が明かされていく・・・。

原作の方は古典的な恋愛物語だが、この映画の中でのデイジーは、ギャツビーにとって一種の幻想ではなかったか。
デイジーはトムの妻になったが、ギャツビーにとっての彼女は、つまずく石のような存在だった。
彼女を手に入れようとすれば、彼の思い描く成功は手にすることができる。
現実に対して、素直に目を向けることのできないギャツビーは、この時妄想の中に生きていたのだった。

実はこの作品は、1974年にジャック・クレイトン監督、ロバート・レッドフォード主演で同じ原作が映画化されている。
今回のラーマン版は、原作にある回想や失われた時や人の心を継承しながら、あくまでも前作とは一線を画している。
物語のディテールも熱く切なく描かれており、美女と夜を楽しむムードがいっぱいだ。
そして、華麗なるギャツビーの世界は、極上の悦楽に満ち溢れている(?!)。
・・・だがそれさえも、ひょっとすると妄想と幻想の世界だったのかもしれない。
絢爛な映像と、目の覚めるような優雅な衣装・・・、それだけでも結構目の保養にはなるが・・・。

物語はやがて、ギャツビーの暗い過去とデイジーへの狂おしい恋心が、彼を取り巻く者たちに悲劇的な運命を呼ぶ。
誰が観ても、それまでのパーティーの狂乱ぶりは、実に賑やかで華やかだ。
その後に訪れる、悲劇と寂寥を予兆するかのような舞台だ。
強い意志と多くの謎を持つ男、ギャツビーを演じるディカプリオは貫禄たっぷりだし、こういう役はぴったりだ。
本人はなかなか姿を見せなくて、かなり後になってから、思わせぶりに登場するのだが・・・。(笑)

この作品の中では、過去と現代の境界など存在せず、輝くばかりの映像世界は万華鏡のようだ。
まあ、これだけの華麗さと豪華さには頭が下がる。
大型スクリーンでなければ、それも味わえまい。
拝金主義に踊り狂う、1922年のニューヨークで、これが、原作者フィッツジェラルドの人生そのものだと思わせるに十分だ。
バズ・ラーマン監督によるアメリカ映画「華麗なるギャツビー」は、実に贅沢な作品だが、あまりにも現代の世相とはかけ離れている。
ふと、思った。
遥か1世紀近くにもなるのに、1922年のこのゴージャスでミステリアスなエンターテインメントが、何故‘いま’なのであろうか。
まあ、映画としての面白さはあるので、御代を払って観ても、損はない映画ではある。
個人的には、どうもやや甘め(!)の評価になってしまったか。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

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映画「ファインド・アウト」―リアルな誘拐事件に挑むスリラー・サスペンス―

2013-06-26 17:00:00 | 映画


 それは現実なのか。狂気なのか。妄想なのか。
 「ミッシング・パーソン」という言葉がある。
 日本では、あまり聞きなれない言葉だ。
 失踪、誘拐などの理由の判明しないまま、人が消えてしまう現象のことを、そう呼ぶのだそうだ。
 全米では、実は毎年70万人以上が理由もなく姿を消しており、FBIには捜索専門の部署を設けるなど、大きな社会問題化しているといわれる。

 エイトール・ダリア監督によるアメリカ映画だ。
 この“人が消える”という不条理な現象は犯罪なのか、当事者の意思によるものなのか。
 それとも、想像を超えた別の理由が存在するのか。
 この事件は、証拠の見つからないある事件を通して描かれる、衝撃的な“ミッシング・スリラー”である。




       
オレゴン州ポートランドで暮らすジル・コンウェイ(アマンダ・セイフライド)は、時間があると森林公園を訪れていた。

一年前、ジルは家に押し入った何者かに連れ去られ、遺体の転がる穴に監禁されるという、忌まわしい体験をしていた。
必死になって逃げ出した彼女は、公園をさまよっているところを保護された。
そして、大がかりな捜査が行われたが証拠は見つからず、警察ではジルを彼女が昔から持つ精神病と断定し、事件の幕を閉じた。

だがある朝、妹のモリー(エミリー・ウィッカーシャム)が失踪し、ジルは戦慄する。
一年前の恐怖が甦ったジルは、すぐに警察に駆け込み、姿なき犯人を捕らえるように訴えたが、誰にも信じてもらえない。
モリーの恋人ビリー(セバスチャン・スタン)が妹と一緒でなかったことを知り、ジルは孤立無援の状況下で、決死の覚悟で妹の捜索に乗り出す決心をし、単身、恐るべき事件の真相に迫っていくのだった・・・。

こうして、ジルはどんどん暗闇に踏み込んでいき、彼女の心は混乱し始める、
真相に届くのか。それとも、あくまでも彼女の狂気なのか。
このリアルな難局に挑戦するのが「ジュリエットからの手紙」(10)、「親愛なる君へ」(10)、「レ・ミゼラブル」(12) アマンダ・セイフライドで、彼女の意欲溢れるサスペンスが見ものである。
これまでの彼女の可愛らしさや朗らかさとはうって変わり、両親を失ったことで精神のバランスを崩している上に、警察から要注意人物の烙印まで張られている。

ドラマは、終盤に向かっていくにつれ、アマンダの鬼気迫る演技にも拍車が加わっていく。
一年前の事件による、トラウマを引きずるジルの振る舞いには危うさがあり、観ている方も現実と妄想の判別がつかず、絶えず揺さぶられながら、緊張感あふれるストーリーに引き込まれていく。
エイトル・ダリア監督アメリカ映画「ファインド・アウト」は、暴力的なシーンは少ないにもかかわらず、思わずぞっとさせるような恐怖を演出し、新鮮でスリリングなドラマだ
人はこのスリラーを観て、誰の身にも起きている、現実と隣り合わせの恐怖を体験する。
ヒロイン、アマンダ・セイフライドの熱演が光る一作だ。
余談だが、ちなみに日本で警察に届けられる行方不明者の数は、1年間におよそ8万2000人だそうだ!
これも驚きだ。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

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「フレンチ・フイーメイル・ニューウェーブ」―フランス女性映画監督たちの台頭!―

2013-06-25 06:00:00 | 映画


 いまフランス映画界では、気鋭の女性監督たちが目覚ましい活躍を続けている。
 この10年間で、20人を超える彼女たちの才能が、一躍注目を集めている。

 1950年代後半から、フランソワ・トリュフォーら数多くの映画作家たちが、ヌーベル・ヴァーグ(新しい波)と呼ばれ、次々と斬新な作品を生み出した。
 それから半世紀、いままた女性監督たちが“女性映画”の枠を超えて、注目される作品を発表している。
 それを「フレンチ・フイーメイル・ニューウェーブ」と銘打って、フランス人女性監督3人の作品が、一挙同時公開された。
 彼女たちの作品は、初恋、すれ違い、家庭生活の不和、家族とのふれあいといった、自分にとって身近なテーマを繊細な演出で表現したものが多く、どちらかというと、女性層の熱烈な支持を受けているようだ。

 ミア・ハンセン=ラブの「グッバイ・ファーストラブ」、ジュリー・デルビーの「スカイラブ」、エリーズ・ジラールノ「ベルヴィル・トーキョー」の3作品である。
 いずれも甲乙つけがたい、上質な作品に仕上がっている。
 今回、この3本を立て続けに観た。

       

「グッバイ・ファーストラブ」
 (監督・脚本:ミア・ハンセン=ラブ)

永遠に消えることのない、初恋の記憶を綴ったみずみずしい青春映画だ。
監督自身の、十代の頃に経験した初恋がモチーフになっている。
1999年のパリ・・・。
高校生のカミーユ(ローラ・クレトン)と、ジュリヴァン(セバスティアン)の、南仏で燃え上がった二人の恋も、ヴァカンスとともに色褪せて・・・。
若い二人は別々の人生を歩み始めたはずなのに、何故か彼女の心は彼の面影を求めてしまうのだ。
精神と肉体の、微妙なバランス中で揺れ動く多感な少女が、大人へと脱皮する瞬間を美しくとらえた秀作である。
ヒロインが同時に二人の男を愛し、そのアンバランスな関係に、バランスを見出せるのか。
作品は、人間の持つ矛盾を、むしろ積極的に容認している。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

「スカイラブ」 (監督・脚本・出演:ジュリー・デルビー)
1979年のフランスブルターニュ地方を舞台にした、ちょっと可笑しな大家族の群像劇だ。
祖母アマンディーヌ(ベルナデット・ラフォン)の誕生日に集まった、親類縁者たちの繰り広げる、底抜けに明るく、細やかでユーモラスな人生模様が、ここでは少女の目線を通して描かれる。
監督ジュリーの、子供時代の想い出がベースになっている。
映画では、とくにドラマティックなことは何も起きないが、ひとつひとつシンプルな瞬間に、アドリブのようなセリフがポンポンと飛び交い、個性的なキャラクターの登場が、観客を笑わせっぱなしにする。
賑やかで、家族が一番大切なことを教えてくれる、楽しさいっぱいの作品だ。
さすがに、脚本も練れていて実に上手い。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

「ベルヴィル・トーキョー」 (監督・脚本:エリーズ・ジラール)
名画座で働くヒロイン・マリー(ヴァレリー・ドンゼッリ)は、妊娠の時期をほとんどシンプルで過ごし、情緒不安定になっている。
父親になることを受け入れようとしない、夫ジュリアン(ジェレミー・エルカイム)とのすれ違いを、巧みな演出で描いた。
これも、監督自身の実体験をベースにした作品で、全体に硬質な映像でとらえ、パリの淋しい風景が心にしみる、切ないラブストーリーだ。
こうしたテーマでは、ふつう映画に取り上げられても、短絡的にしか描かれていないことが多く、この作品のように、妊娠中に非情にも夫から捨てられる女性の物語はめずらしい。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点

いずれの作品も、女性監督だからこそ描くことのできる「女の気持ち」を、巧みに表現している。
どうやら、いまやフランスは女性監督の先進国らしい。
国から認可を受けたフランス映画のうち、1911年は全作品の25%が、何と女性監督の作品だったそうだ。
日本やアメリカでも、女性監督の進出は注目されているが、作品の量は全体の1割にも満たないそうで、映画界はまだまだ男社会なのだ。
女性が監督になるのは、いろいろと困難も伴うだろうし、大作もとなるとなかなか任せてもらえないのが現状ではないか。。
それでも苦労して、語るべきテーマを真摯に選択し、どこまでも細やかな女性ならではの視点で、女性の等身大の人生を丁寧に描ける点では、男性はかないそうにない。

今年初来日したエリーズ・ジラール監督(39)は、「女性の問題は女性の視点でという現象が起きているのは、母親世代で実践できなかった自由な主張を、私たちは、言うべきことは言いなさいと育てられてきたから」だとも語っている。
戦う(?)女性監督たちによるフランス映画3作品は、いま全国で順次公開中だ。

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映画「ローマでアモーレ」―永遠の都で人生を謳歌するラブコメディ―

2013-06-22 10:00:10 | 映画


 前作「ミッドナイト・イン・パリ」が大ヒットした、ウディ・アレン監督の最新作だ。
 フランスの次はイタリアである。
 陽光眩しいローマが舞台で、オペラまで入れた楽しい作品になっている。
 ウディ・アレン監督は、最近はずっとヨーロッパの魅力いっぱいの街を舞台に、楽しい作品を撮り続けている。
 自分が、思いきり楽しんでいるようで、この作品では彼自身も出演を兼ねている。

 いつも辛口でシニカルな作風からすると、とびきりのユーモアの連発である。
 ローマの熱気に刺激された、監督のイマジネーションは多分膨らむ一方で、同時進行するちょっぴり奇抜で陽気なドラマが、観客をくすぐり続ける。
ウディ・アレンは、きらびやかな名声にあこがれる者、恋に盲目になって浮気に走る者など、様々な世代や性別の愚かで愛すべきキャラクターに、独自の人生観を投影しながら、予想もつかない運命に翻弄される彼らの行く末を、ひたすら軽やかに描いている。
      
ローマにやって来た若い女性ヘイリー(アリソン・ピル)は、ハンサムな弁護士ミケランジェロ(フラヴィオ・パレンティ)に道を尋ねたことから恋に落ち、婚約した。まるで恋愛小説の主人公のように・・・。
そんな幸せの絶頂のヘイリーに会うため、元オペラ演出家の父親ジェリー(ウディ・アレン)と母親フィリス(ジュディ・デイヴィス)がローマに飛んできた。
そして、ミケランジェロといまいち会話のかみ合わないジェリーだったが、葬儀屋を営む彼の父親ジャンカルロ(ファビオ・アルミリアート)が、何と驚くべき才能の持ち主だったことを知る・・・。

田舎育ちの純朴な新婚カップル、アントニオ(アレッサンドロ・ティベリ)とミリー(アレッサンドロ・マストロナルディ)がローマのテルミニ駅に降り立った。
ホテルにチェックインしたミリーが美容院に出かけたすきに、アントニオの部屋に、とんだ人違いで派遣されてきたコールガールのアンナ(ペネロペ・クルスが飛び込んできた。
そのさなかに、タイミング悪く親戚一同が現れ、初々しい自分の妻とは似ても似つかぬ、セクシーダイナマイトなアンナをミリーだと紹介してしまったことから、大きな騒動に発展してしまった・・・。

アメリカ人建築士ジョン(アレック・ボールドウィン)が、かつて住んでいた町を散策中、建築家志望のジャック(ジェシー・アイゼンバーグ)と出会う。
ジャックはこの街で、気立てのいい恋人のサリー(グレタ・ガーウィグ)と一緒に暮らしていたが、そのアパートにサリーの親友で売れない女優モニカ(エレン・ペイジが転がり込んでくることに。
小悪魔的な色気を備えたモニカに心を奪われたジャックはに、苦い恋の気恋を記憶を持つジョンは、「やめておけ。その女は嘘つき女の勘違い女だぞ」と警告するのだが・・・。

ローマ在住の中年男レオポルド(ロベルト・ベニーニは、さえないが実直なサラリーマンだ。
愛妻との間にふたりの子供があり、ひたすら堅実で地味な人生を歩んできた。
ある朝、レオポルドが出勤しようと自宅を出た途端、突然大勢のマスコミやパパラッチに囲まれ、テレビ局の車に乗せられてしまった。
何だかわけのわからぬまま、テレビのニュース番組に出演する羽目になってしっまった、ごくごく平凡なレオポルドは一躍有名になり、美女にモテモテ、夢のようなセレブ生活のできる、大スターに祭り上げられてしまったのだった・・・。

登場人物も多く、お話も盛りだくさんで、これら全て同時進行の4つのエピソードが織りなすコメディだ。
ウディ・アレン監督アメリカ・イタリア・スペイン合作映画「ローマでアモーレ」は、いとも軽やかにさしたる嫌味とてなく、前作「ミッドナイト・イン・パリ」よりはよくできている。
オペラの発祥地イタリアで、奇跡の声を持つ葬儀屋という、意表を突いた役どころで登場するのが、世界的なテノール歌手のファビオ・アルミリアートだが、彼のシャワー室での手のこんだ笑いにも、アレンの皮肉が利いている。

田舎からローマにやって来た新婚カップルのエピソードなどは、フェデリコ・フェリのデビュー作を髣髴とさせる。
ウディ・アレン自身は全く意識していなかったそうだが、イタリア映画界の巨匠には一目置いていただろうから、大きな影響を受けていないとは思えない。
全編イタリア尽くしで、幸福感溢れるラブコメディには、当然沢山の観光名所も登場し、ゴージャスな気分にもなろうというものだ。
まあ、いろいろと手の込んだつくり話が多いが、いやいや、馬鹿馬鹿しくも楽しい「アレン・ワールド」を堪能する(?)のもどうだろうか。。
昔、オードリー・ヘプバーン「ローマの休日」といった懐かしい名作があったが、いたって陽気でいたずらっぽいアレンのこんな映画を、旅する気分で観るのもまたよきかなである。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点

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映画「女生徒一九三六」―孤独であることの凛とした美しさ―

2013-06-20 18:00:00 | 映画


 6月19日は太宰治桜桃忌だったが、どうも狙いすましたメモリアル・ロードショーとなった。
作家太宰治の短編「燈籠」「女生徒」「きりぎりす」「待つ」の四作品を、福間雄三監督脚本も)が映画化した。
 これらは、日中戦争の始まる1937年から、太平洋戦争のさなか1941年にかけて書かれた作品群だ。

 この時代のヒロインたちが、独りで生きてゆく決意を抱き、彼女たちの感じる光と影、また当時の社会に対する諦念が色濃く漂っている。
 彼女たちのそこはかとない悲しみや苦しみは、時代の転換期に生きるいまの日本人に、どこかつながるものがあるのかもしれない。
 少なくとも、そういう想いがあればこそ、福間監督はこの作品を世に問うたのだ。
これは、彼の長編劇映画第一回作品である。





     
・・・あんなに慕ってくれる弟か妹があったならば、こんなに侘しい身の上にならなくてもよかったかもしれない。

下駄屋のひとり娘咲子は、年下の商業学校生(水野)のために、男物の下着を盗み、交番へ連れて行かれる。
そこで自らの思いを必死に訴えるが、近所でも笑いものになってしまう。
やがて、水野から手紙が届き・・・。

「盗みをいたしました。それに違いございませぬ。
いいことをしたとは思いませぬ。けれども、―いいえ、はじめから申し上げます。
わたしは、神様にすがって申し上げるのだ。私は、人を頼らない、私の話を信じられる人は、信じるがいい。
神様に向かって申し上げるのだ」(「燈籠」の咲子の声)

映画では、「燈籠」「女生徒」「キリギリス」のヒロインたちがひとつのイメージとなって、この時代を生きることのむずかしさが、象徴的に「待つ」の葉子へと収約される。
字幕、声、台詞、もうひとつの声(無声)、現実の映像、イメージとしての美しい映像が、映画としてのリズムを刻む。
繊細な言葉と音楽が作品を紡ぎだし、開戦時の昂揚感、敗戦を間近にした諦念など、主人公の心情を静謐な中に綴っていく。
戦後の作品「斜陽」も織り込み、福岡監督は、現代にも通じる普遍性を描こうとしたようだ。
孤独を恐れぬ女性たちと、その自由・・・。

「女生徒」は、佳子(河原崎未奈)と名付けた女性が一人語りをする構成だ。
彼女の言葉はそのまま太宰の言葉であり、太宰の思っていることを代弁する、
太宰は、自分の考えを佳子に語らせ、太宰が女性の口を借りて気持ちを述べている。

福間雄三監督映画「女生徒一九三六」は、まことに律儀なまでに原作に忠実だ。
それにこの作品は、デジタル一眼レフカメラの動画機能で撮影されたということだ。
マーラーの交響曲第4番第4楽章をはじめとするリコーダー曲や、ピアノ曲を多用して、それらの時間と空間を超えた音楽詩のような趣きがある。
スクリーンの上で、非情に珍しい面白い試みではある。

自由な映画作りを目指して、本作を企画した幻野プロジェクトの言うように、なるほどなるほど、映画が一人の映画作家の表現であるとともに、参加するスタッフ、キャストによる集団創造として、成り立つ芸術でもあるわけだ。
ここでは、酒と薬と女で狂ってしまった(?!)、太宰治の文学を云々するつもりなど全くない。
単なる文芸映画とは違う、これまでになかった映画世界を、垣間見た気がする。
出演は、柴田美帆(二役)、川原崎未奈(二役)、真砂豪らで、とくにこの作品に登場する女性は、立ち居、振る舞い、丁寧な言葉など、日本女性古来の美徳を見せてくれて、久しく心の底で安堵するものを感じた次第で・・・。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点

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映画「さよならドビュッシー」―心洗われるミステリアスな音楽映画―

2013-06-19 06:00:00 | 映画


 少女の秘めた想いは、ドビュッシーの「月の光」とともに溢れる。
 中山七里の同名小説を、利重剛監督が映画化した。
 ミステリーをはらんだ、なかなかの音楽映画だ。
 2012年の生誕150周年を迎えたドビュッシーの美しい旋律が、この作品の中でいかんなく発揮される。
 利重監督は音楽には相当のこだわりがあるようで、数々の名曲を存分に聴かせる。

 大切な家族を失くして、過酷な運命に翻弄される少女の物語である。
 絶望の渕にさまよう主人公を救ったのは、ドビュッシーの音楽だった。
 胸熱くなる、珠玉のような作品である。









     
7歳の香月遥(橋本愛)は、同い年のいとこ片桐ルシア(相楽樹)と一緒に暮らしていた。

二人は、裕福な祖父の玄太郎(ミッキー・カーチス)に溺愛され、ともに遊び、ともにピアノを習い、双子のように成長した。
それから10年後、ピアニストを夢見る遥とルシアは、同じ音楽学校に通っていた。
ある晩、ルシアと祖父が暮らす離れで、火事に巻き込まれ、遥だけは全身に大やけどを負いながらも、奇跡的に生き残った。
遥は、幾度も全身の皮膚を移植する手術を受け、死の渕から生還したのだった。

しかし、祖父とルシアを守れなかった、罪悪感や全身の激痛に苦しみ続けた。
絶望的な状況の中で、彼女がすがったのは、生前のルシアと交わした約束だった。
それは、プロのピアニストになって、ルシアのためにドビュッシーの「月の光」を弾くことだった。
新しいピアノ教師の岬洋介(清塚信也)と二人三脚で、厳しいリハビリに打ち込む遥だったが、そんなときに、24億円にも上る祖父の遺産をめぐって
相続争いが勃発した。

それをよそに、遥は新しい一歩を踏み出していた。
だが彼女の周囲で、不可解な事件が次から次へと頻発するようになった。
遥は、岬の的確かつ情熱的な指導で、ピアノコンクールに学校代表として出場する日が迫っていた。
その直前に、母の悦子(相築あきこ)が、意識不明の重症で発見される事件が発生した。
遥は激しく動揺し、そんな遥が大きな秘密を抱えていることに、岬は気づいていた。
遥が大きな悲しみから解放されたとき、全ての謎が解き明かされる・・・。

この劇中では、いくつもの音楽が演奏されるが、遥の弾く「熊蜂の飛行」には大胆なアレンジを取り入れたりして、とくに音楽好きには答えられない仕掛けを施している。
いま音楽界でも盛り上がりを見せているといわれる作曲家、ドビュッシーの旋律の美しさは誰もが認めるところだ。。
主演の橋本愛は、青春群像劇「霧島、部活やめるってよ」でもヒロインを演じているが、本作では難しい役どころに挑戦し、彼女のクールなたたずまいと強い目力が生かされ、大きな障害を乗り越える少女を、入魂の演技で披露している。
誰にも打ち明けられない秘密を抱えた孤独な姿と、本編のクライマックスで見せる堂々たる演奏シーンは、熱演である。

利重剛監督「さよならドビュッシー」は、よくできた音楽映画であると同時に、意外な結末をもたらすミステリーでもある。
火事で死んだ祖父の残した莫大な財産をめぐって、ヒロインの周辺で不可解な事件が続発し、ヒロインの命が狙われている。
一体何者がという謎に、観客はひきつけられる。

遥の一人称で始まる原作では、可能なトリックを駆使しても、それは文章上のことだからできることだ。
映像では一筋縄ではいかないが、ピアニストである清塚信也とフレッシュさが売り物の橋本愛という女優によって、本物に近い説得力を持ち、映像を生き生きとしたものにしているからだ。
コンクール本選での、遥の演奏は必見ものだ。
とくにこの映画では、全力投球で演じた美少女橋本愛褒めたい。
ここは素直に、良かったと言わせていただく。
この作品、女性はきっと涙なくしては観られない(?)、感動作だ。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

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映画「ミステリーズ 運命のリスボン」―めぐる因果に翻弄される愛と憎しみの果てに―

2013-06-16 18:30:00 | 映画


 秘密と謎が、ミステリアスに交錯する。
 上映時間4時間半、型破りの大長編ドラマは波瀾万丈だ。
 時を忘れるほどである。

 本国フランスでは、1年間もの異例のロングランを続けたといわれる。
 ポルトガル名匠ラウル・ルイス監督快心の作品だ。
 絢爛豪華、幻想的な、常識をも超えたドラマが誕生した。
 迷宮へ迷い込んだような、錯覚にとらわれる。
 ポルトガル映画というのも初めてだ。
 ・・・人生は、いかに欺瞞と憎悪に満ちていることか。










     





                
19世紀前半のポルトガル王国・・・。

14歳の少年ジョアン(ジュアン・アライシュ)は、ディニス神父(アドリアヌ・ルーシュ)の修道院で、名字を持たぬまま育った。
ある日、神父の計らいで、実の母アンジュラ(マリア・ジュアン・バストゥシュ)と面会を果たした。
彼女は裕福な伯爵夫人だったが、結婚前に別の男子を身ごもって生んだことを知って激怒した、夫のサンタ・バルバラ伯爵(アルバヌ・ジェロニム)によって、8年間も屋敷に監禁されていた。
ディニス神父は、伯爵が国王軍に加わって遠征した留守に、アンジュラを連れ出しジョアンとともに匿った。

隠れ家に落ち着いたジョアンは、アンジュラの父親モンテゼロス侯爵(フイ・モリソン)の逆鱗に触れ、成就することのなかった母アンジュラの悲恋の顛末と、実の父親ペドロ・ダ・シルヴァ(アフンス・ピメンテウ)の無念の死を知る。
モンテゼロス侯爵は、次女の恋を不相応だとして許さず、ならず者を雇い、相手の男と生まれてくる子供を殺せと命じた、冷酷な男だった。
ジョアンは、母親とずっと一緒に暮らしたいと願うが、アンジュラは修道院に入る道を選び、ジョアンは修道院に戻ることになる。

・・・リスボンの修道院に身を置いた孤児の少年ジョアンについて、ディニス神父は、彼の出生の秘密を解き明かしうるものとして、謎解きのようなこの物語が幕を開ける・・・。
古い因習にとらわれる老貴族、過去の愛のために生きる修道士、日夜嫉妬に駆られる侯爵夫人・・・。
やがて情熱と欲望、嫉妬や復讐に駆られた無数の男女たちの人生を巻き込みながら、ミステリアスでドラマティックな幾つものエピソードが、パッチワークのように紡がれていく。

自分の出生の秘密を知った少年は、パリにわたり、名前を変え、夫に先立たれた年上の女に恋をするが、その彼女ももまた秘密を抱えていた。
幾つも人間ドラマが、縦横に交錯する物語である。
ラウル・ルイス監督ポルトガル・フランス合作映画「ミステリーズ 運命のリスボン」は、ポルトガル、フランス、イタリア、そしてブラジルと、目も眩むようなスケールで過去と現在を行き来しながら、登場人物たちが胸に秘める様々な秘密とともに、やがて深い謎に満ちた壮大なドラマは、驚愕の終盤へと向かうことになる。
ときに、幻想に彩られた、愛と憎しみの叙事詩を織り込みながら・・・。

優美で古典的な風格を漂わせながら、前衛的な演出も辞さず、自由奔放なカメラワークで、映画は極めてモダンな作品として仕上がっている。
ロマン主義最大のの作家といわれる、文豪カミロ・カステロ・ブランコの人気小説を原作に、「運命」の神秘が描かれる。
物語としては的確に撮られていても、いたずらに(?)あれもこれもと、ひとりひとりのエピソードを重ねていくのだが、心理描写に奥行きがないため、そのことがどうもドラマを解り難くしているきらいがある。
現実の回想の中に描かれる、さらなる回想の世界と、死者たちに迎えられる(?)幻想の世界と・・・。

登場人物は名前を、ときには身元さえも変えてしまっているのだ。
物語の中にさらに物語があって、整理していくと物語の全体像は一応明らかになる。
母親アンジュラが少年ジョアンを忌避するかのように見えるシーンにしても、少し解りずらいところだ。
全般に、ストーリーを追うあまり、大切な心理描写が弱くなった。
19世紀前半、貴族社会から市民社会へ移ろうとする時代を背景に、主人公をはじめ多くの関連する人々の命運が複雑に交錯し、愛と憎しみが絡み合い因果がめぐるこのドラマは、最終的には運命の地リスボンに収斂されていくのである。
そう、絵画のように美しい映像の数々とともに・・・。
この作品は各界からも称賛の嵐だが、ルイス監督自身最後の監督作品の成功を見届けると、2011年8月に70歳でこの世を去った。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

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映画「イノセント・ガーデン」―甘美な毒をまとって大人へと成長する少女の物語―

2013-06-14 22:00:00 | 映画


 美と恐怖の織りなす、戦慄と陶酔のミステリーである。
 幾重もの謎が張り巡らされているような世界が、眩惑を運んでくる。
 このドラマは、作者の名前の伏せられた、一冊の脚本から始まった。
 執筆に8年をかけた物語を映画化したのは、韓国パク・チャヌク監督だ。
 ハリウッドが求めた監督は、スクリーンの中に破滅と激情をエレガントに奏であげ、これまでのアートの世界を挑発してきたアジアの鬼才と呼ばれる。

 異なる文化と言語を持つパク・チャヌク監督が、少女が大人になり、彼女が初めて異性に夢中になっていく過程を、ひねりのきいたラブストーリーに仕立て、そこにミステリアスな要素を織り込んだ作品である。







     
インディア・ストーカー(ミア・ワシコウスカ)の18歳の誕生日に、謎めいた一本の鍵だけが入った箱が届けられる。

贈り主のはずのリチャード(ダーモット・マローニー)は、不審な死をとげる。
インディアは繊細で五感が鋭すぎ、学校でも成績優秀だが孤立していた。
家では、たった一人の理解者だった父を失い、心の通わない疎ましい母エヴィ(ニコール・キッドマン)と二人だけが、広大な屋敷に取り残された。

父の葬儀の日、ずっと行方不明だった叔父チャーリー(マシュー・グード)が戻り、インディアと参列者を驚かせた。
エヴィも初対面だという彼は、そのまましばらくストーカー家に滞在することになる。
翌日、家政婦のマクガーリック夫人(フィリス・サマーヴィル)が、チャーリーを責める場面を、インディアは目撃した。
夫人は、その日のうちに姿を消した。
そして、次々と周囲の人々が姿を消していく。

全てが完璧なチャーリーに惹かれていくインディアは、その一方で彼の過去に疑問を抱き始める。
父の死の真相、誕生日のプレゼントの本当の贈り主のこと、そして姿を消した人たちは一体何を知っていたのか。
チャーリーの真の目的は何だったのか。
あの鍵がすべての扉を開くときが、ついに訪れる・・・。

いく重にも仕掛けられた謎が、ひとつひとつ明かされていくとき、戦慄が新たな陶酔とともに、ドラマを結末へと導いていく。
もともとこのアメリカ映画「イノセント・ガーデン」は、ストーカー家の主リチャードの不可解な死と、それと入れ替わるように出現したチャーリーの素性など、様々な謎を持ったミステリードラマとして展開するが、理路整然と納得できるものは無いに等しい。
パク・チャヌク監督らしい暴力表現と、生々しい感覚に満ちた作品で、ダークなおとぎ話の様相を呈している。
だが、この映画には戦慄と官能が描かれていても、ストーリー上の謎や登場人物の心理を、厳密に読み解くという作品となっていないのが残念だ。
期待がしぼんでしまった。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点

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