徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「密 約」―外務省機密漏洩事件―

2010-04-29 10:00:00 | 映画

果たして、どういう決着を見るのか。
いま、沖縄普天間問題が大揺れである。
そんな時に、22年ぶりに緊急上映された映画だ。
沖縄返還の裏に隠されていた「密約」そもそも、このことが最初に報道されたのは30年以上も前のことであった。
自民政権下で、ひた隠しにされてきた「核密約」は、民主政権になってようやく白日の下に曝されたのだ。

映画「密約」は、ノンフィクション作家の澤地久枝さんが裁判を傍聴し続けて書いた原作を、千野皓司監督で1978年にテレビ用映画として、35ミリフィルムで製作された力作だ。
タブーとされた政治問題のドラマとして、大反響を呼んだ。
初公開は88年で、「国民の知る権利か」それとも「国家の秘密保護か」をめぐって、激しく意見が対立した裁判の、息詰まる描写を通じて、国家とは何かをいま改めて問いかける渾身の作品だ。
製作当時、この映画はまさに「いま」を予測していたふしがある。
初公開当時と比べて、いまもって少しも色褪せた感じがしない。

しかし、70年代後半の日本映画界は斜陽化が激しく、こうした社会的テーマを扱った作品を世に問う力さえなかった。
88年に細々と公開されたが、そのときは日本がバブルに浮かれていて、政治問題などは見向きもされなかった。
いま、鳩山政権がかかえる、沖縄基地問題も重要な局面を迎えようとしているときに、この映画を知らない人にも、是非観ていただきたい作品だ。
考えさせられる問題は極めて大きく、そして深い。

混迷の続く沖縄問題の陰で、日本とアメリカの間で交わされた「密約」の真実を、日本政府は国民に伝えなかったのだ。
それどころか、その事実を報道しようとした、元毎日新聞西山太吉記者(この映画では石山太一)を、「秘密を漏らすようそそのかせた」という罪で、また外務省の女性事務官の蓮見喜久子(この映画では筈見絹子)を、国家公務員法で裁き、それぞれを有罪と断じた。
いわゆる、あの西山事件である。
日米間の「密約」をめぐる政治責任は、いつのまにか男女の問題にすりかえられ、政府は長年にわたって、「密約などない」とシラを切り通してきたのだった。

実際の人物は、映画の中ではそれぞれ実名を少しずつ変えてはあるが、誰だかすぐわかる。
当時新聞などでも報道された通り、登場人物の名前以外は99%まで真実だ。
演技陣も、そうそうたるメンバーで、当時のテレビ映画ではとうてい考えられない、素晴らしい顔ぶれだ。

裁判は最高裁まで争われ、真実を報道しようと、取材源に密着した西山記者は記者生命を絶たれ、取材に協力した蓮見事務官は職を失い、彼女の家庭は崩壊した・・・。
問題の「本質」はどこにあったのか――

昭和47年10月14日、東京地裁第701号法廷で、検事が険しい表情で起訴状を読み上げていた。
 「被告人石山太一は、被告人筈見絹子とひそかに情を通じ・・・」
前年、東日新聞社(毎日新聞社)の政治部長(永井智雄)は、沖縄返還交渉の焦点となる外務省に、石山太一記者(北村和夫)をキャップとして送り込んだ。
政府は、時の総理大臣の花道として、沖縄返還交渉を成立させたかった。

日本側は、基地の旧地主らに対する損害補償をアメリカ側に請求していた。
その代わり、アメリカが占領政策上沖縄に注ぎ込んだ、核兵器の撤去費や施設開発の諸費用を、日本側が支払うと約束した。
ところが、日本側の主張は認められず、日米交渉はこうした補償問題などで難航していた。
結局、考え出されたのは、日本政府がアメリカの請求権を全面肩代わりするというものであった。
石山は、何としても確実な情報を入手したかった。

私鉄ストの日、石山は外務省の女性事務官筈見絹子(吉行和子)を食事に誘った。
こうして、二人の付き合いが始まった。
6月9日、パリでの日米会談で、請求権問題はアメリカ側が自発的に支払うことで解決、沖縄に関する交渉は一切終了したと発表した。
そんななか、石山は、彼女に近づくことで、日米間の極秘電信文のコピー3通を入手した。
それは、日本側が請求権を放棄し、表向きアメリカ側が支払うという内容であった。
そして、6月17日沖縄返還協定は調印された。

法廷で、石山は、ニュスソースを秘匿できなかったことを絹子に詫びたが、新聞記者として行った取材活動を犯罪とする点については、とうてい納得できないと訴えた。
この事件に深い関心を抱いた作家澤井久代(実名澤地久枝・大空真弓)は、取材のため、石山裁判の傍聴を始める。

33年も前に製作された映画が、こうして再び脚光を浴びるというようなことは、これまでのテレビや映画の世界には全くなかったことである。
社会的な評価は、人それぞれによって異なるところではあるけれども・・・。

この事件で、検察側のいうように、問題が新聞記者と女性事務官の個人的な問題にすりかえられ、「密約」は民主政権によって明らかにされるまで、不問に付されてきたのだ!
政官共謀の「虚構」に区切りが打たれたのは、今年、平成22年3月に入ってからであった。
調べてみたら、何ということか、外務省の「極秘メモ」なるものに、「密約」の引継ぎ記録にある歴代の政治家は、当時の佐藤栄作首相以下外相ら20名にも及ぶ!
非核三原則は、67年の佐藤栄作首相の表明直後から、空洞化していたのだった。
その間、国民は政府に騙されてきたのだった。
愕然とするばかりだ。

最高裁は、西山記者を有罪とした控訴審(第一審では無罪だった)を支持し、上告棄却とした。
しかし、国家機密の壁によって、ジャーナリストの仕事は困難なものになったと、当時の澤地氏は語った。
今後、民主政権でどうなるか。

話は少しそれるが、いまもテレビはそうだが、こうした政治問題を取り上げることを、極力避けようとする。
それは、テレビ局を支配しているのが政府だからだ。
自民政権下では、決して歓迎されなかったし、下手をすれば握り潰される。
それが、政権交代となって民主政権に変わると、テレビ電波の利権もこれまでのようにはいかなくなるとの、大いなる危惧がテレビ局にはある。

元毎日新聞西山記者(現在も健在)を演じる北村和夫は、いまは故人となってしまった。
ときどきマスコミに登場する西山氏が、当時を語っている姿を目にする。
この映画「密約―外務省機密漏洩事件―は、全編を通して、国民の知る権利の重要性を訴えている。
あの時、女性事務官が「密約」の存在について、もっと闘う姿勢を見せていれば、もしかして、西山記者の無罪もあったかも知れない。
映画では、裁判の単なる告発劇を超えて、ひとりの女性の心の深淵に入り込み、ドラマとしてユニークな作品となった。

この映画は、最後にこう問いかける。
国民の「知る権利」とは何か。
真に裁かれるべきは誰か――
                           (朝日新聞、および澤地久枝著「密 約―外務省機密漏洩事件」を一部参照させて頂きました。)


映画「第9地区」―流浪のエイリアンたち―

2010-04-27 16:00:00 | 映画

なかなか、斬新で刺激的なSF大作だ。
今年のアカデミー賞でも、一時は作品賞のダークホースと目され、残念ながら賞は逸した。
ニール・ブロムカンプ監督アメリカ映画だ。
監督も無名だし、主人公も無名である。
それで、これほどの大作を作り上げた手腕は高く評価されてよい。

大都市の上空に、忽然として巨大なUHO(宇宙船)が現れる。
この映画「第9地区」の出だしである。
28年前に地球に飛来し、難民と化した、エイリアンたちの強制隔離地区(第9地区)を舞台に起こる、奇妙奇天烈な事件の顛末が、息をもつかせぬテンポで展開するのだ。
SFとしては、かなり大胆なヒネリが効いている。


南アフリカ・ヨハネスブルグの上空に突如現れた巨大宇宙船は、宙に浮かんだまま動かない。
船内には、衰弱しきったエイリアンの群れがいて、処遇に困った政府は、彼らを「第9地区」の仮設住宅に難民として収容する。

しかし、野蛮で小汚い、不潔なエイリアンの、管理事業を委託された民間企業MNUは、彼らを別の土地に強制移住させようとする。
その立ち退き作業の責任者ヴィカス(シャルト・コプリー)は、「第9地区」で、エイリアンたちの持ち込んだ(?)、謎のウィルスに感染してしまったから、さあ大変だ。

ヴィカスは、身体の一部が徐々にエイリアン化し、当局から抹殺されかかるのだが、やがてエイリアンたちと共闘し、個人戦に転化させて行く・・・。
本当のドラマは、そこから始まる。

エイリアンたちの、スラムと化した彼らの居住区(第9地区)の描写は、それだけで社会の様々な暗喩ともとれる。
強烈な、メッセージである。
ニール・ブロムカンプ監督自身が、アパルトヘイトの暗い歴史を持つ、南アフリカ出身と聞いただけでも注目だ。
政府委託の民間企業社員に過ぎない男ヴィカスに、観客は感情移入していくことになる。

いろいろなSF大作がはびこるが、ほっとする作品のラスト、一輪の花は哀愁の漂うロマンティシズムだ。
無名の製作陣が、これだけの映画「第9地区を作ったことが、なかなかのことだ。
前半では、エイリアン=外国人(移民)の排斥問題に対する、告発めいた演出も随所で見られるが、後半からは派手でスピーディーなアクションに徹し、全く先の読めない展開が、ぐいぐいと引っ張っていく。
主演の無名俳優シャルト・コプリーが、いい味を出している。
この人、たいしたものです!
SFではあるが、見どころ満載の、どちらかといえば社会派娯楽大作である。


新党乱立!―雨後の竹の子のように―

2010-04-25 09:00:00 | 雑感
没落自民党からの、脱党、離党が相次いでいる。
そして、次から次へと雨後の竹の子のように、小ざかしい少数新党が立ち上がった。

先頃の世論調査の人気投票で、気をよくした舛添善厚労相は、自民党を乗っ取るかと見られていたが、「改革クラブ」に移籍し、党名を改称して「新党改革」の名乗りを上げた。
舛添氏は、新しい政治、清潔な政治を目指すと語っていたが、何と政党助成金欲しさだったとは・・・!
本人が、はっきりと会見でも「すぐにも金がほしいから」とおっしゃった。
この一言に愕然とした。
ほかの新党と同じように、姑息で不純な動機ばかりが透けて見えている。

自民党内でも、執行部批判を繰り返し、孤立した上での脱党である。
自民党のあだ花といわれるゆえんだ。
・・・自民党は、これまでやりたい放題やってきたが、もう崩壊から消滅へと一直線だ。

「たちあがれ日本」「日本創新党」ともども、「新党改革」も、参院選を見据えた票の食い合いになることは必至だ。
しかし、テレビに出まくって、自分を売り込むだけ売り込んで、首相に最もふさわしい政治家ランキング1位というのだから、まことに悲しいものだ。
有権者の能力が、知れようというものだ。
そこに、今後どれだけの人材が集まってくるのか、注目だ。

「松下政経塾」のメンバーが立ち上げた、「日本創新党」にしても、何をやろうとして新党結成に踏み切ったのか。
まだよく解らない。
どの新党も、立ち上がりは派手だが(もっとも、マスコミが馬鹿騒ぎしすぎるのだけれど)、いたずらに売名行為のように見えて仕方がない。

どこの党の誰とまで言わないが、不倫スキャンダルにまみれ、任期途中で要職を放り出した某氏やら、職員減らしで借金を減らしたと意気軒昂と思いきや、やるべき事業を安い民間事業に丸投げ、その挙句自分が理事長を務める民間団体に数千万の補助金をを支出したとされる某氏、知事選で落選し、なれるはずの大学教授への再就職先がなくなった某氏、・・・こういった前市長とか区長とかという方々の野心は一体何なのだろうか。
何をやろうとしているのだろうか。

高齢者ばかりが集まった「たちあがれ日本」にしても、これからの日本の改革に向かって、どのような理念や哲学をもって、この国を立ち上がらせるつもりなのだろうか、
所詮は、どれもこれも(?)第二、第三自民党ではないのか。

マスコミに操作される(?)世論が、意図的に作られているような気がしてならない。
ただ誰の目にだって、参院選だけは民主党に勝たせたくないという魂胆がありありだ。
政治がダイナミックに動くことを、国民は期待している。
参院選で、民主党が勝つか負けるかが、日本の将来にとって重要な岐路になる。

政治家は、ボランティア精神で、私利私欲を捨て、国家のために身を投じる覚悟がなくてはならないはずなのに、そんな政治家が、いまの国会にどれだけいるだろうか。
誰もが、立派なことを言っているようだが、一向にヴィジョンが見えてこない。
見えるのは、小ざかしさばかりだ。
もう一度言わせていただく。
小ざかしさばかりですよ。

進んで改革をやる政治家は、当然必要だ。
それには誰がふさわしいか。この見極めが重要だ。
国民、有権者は、いまの政治家たちよりも、もっと利口に、もっと賢くならなくては・・・。
判断を誤ると、とんでもないことになる。
国民は、ともすれば政党や政治家に頼りすぎるきらいがある。
選挙民の水準と意識の低さが、結果的には国を滅ぼしていくことになりかねない。
乱立する雨後のタケノコならぬ、毒キノコにはくれぐれも要注意だ。

もちろん、いまの民主政権の心もとなさは、大いに気がかりだ。
奮起してもらいたいものだ。
問題は山積している。
だからといって、自民政権に戻ることを期待するか?
それだけは御免被りたいと、多くの国民は思っているはずだ。
時間もかかるだろうが、政権交代の流れだけは止めてほしくない。

春爛漫である。
花咲き、鳥は歌い、木々のみずみずしい若葉が目にしみる季節だ。
新年度も、まだ始まったばかりだ。
新党乱立・・・、小党を立ち上げ、国民の期待と希望の星々となって輝くか。
はたまた、政界迷妄の荒野に咲く、数輪のあだ花となって散りゆくか。
―― それは、天のみが知っている。



ダダっ子とダダ親父と―高速料金の見直し撤回―

2010-04-23 17:00:00 | 雑感
国交相が公表した高速料金の新料金を、鳩山総理は見直さない方針を決めた。
ただし、今後の国会審議をふまえて、修正を検討するという意味を含ませて、である。
要するに、当面は見直さずということに落ち着いたのか。

政策決定の迷走は、いまに始まったことではない。
民主党はマニフェストで、高速料金の無料化を約束した。
それが、実質的な値上げとなれば、反発の声は必至だ。
だから、幹事長の一声がものをいったのだ。
この裏には、参院選を控えて、有権者の批判を浴びたくないというみえみえの事情がある。

鳩山総理が間に入って、一応玉虫色の結論めいたものを引き出した。
しかしそこには、ダダっ子大臣に対するダダ親父のご都合主義がちらつく。
高速無料化どころか、結果として値上げになったのでは、政府与党としても説明がつかないことになる。
一体どうなのか。
何故、こういう問題が起きたのだろうか。

高速道路を利用する人の8割が、現行料金より、明らかに値上げとなるような新料金を、利用者が納得できるとは思えない。
もともとは、官僚がでっち上げたものだから、そんなことに言いなりになってどうするのかということになる。
国交相が、道路官僚の手玉に取られては、政治主導が泣く。
官僚の、狡猾な罠にはまってしまっては身もふたもない。

これは、政治家の能力の問題か。
役人の言う通りにはやらない。
それが、国民の期待を担って政権交代をした、民主党のやりかたではないのか。
ダダ親父の言い分ももっともだ。
ダダ親父だからといって、侮ってはならない。
いろいろ悪評もあるが、並みいる凡人よりは、<いま>を生きる術は数段上だ。

高速料金をめぐる、今回の一件で、大臣を辞めるとか辞めないとか、あまり国民の前でみっともない芝居はやめたほうが宜しいのではないか。
そんな芝居など、誰も見たくもない。
それもこれも、つまるところは総理の指導力のなさだ。
政権の統治能力も・・・?

政府が一度決めたことであっても、それをまた修正するということ自体は否定できない。
よりよい政治のあり方を探る、そうした努力は惜しむものではない。
それが、ただちにブレると言う指摘はいかがなものか。
過ちは誰にでもある。
過ちに気がついたら、改めればいいのだから・・・。
何もやらないのが、一番よくない。

映画「ソフィーの復讐」―振られた女のリベンジは?―

2010-04-22 17:30:00 | 映画

ハリウッド出身のエヴァ・ジン監督の手がけた、めずらしいロマンティック・コメディだ。
何と、主演はチャン・ツィイーなのだが、彼女は、この映画の製作(プロデュース)にも携わっているのだ。

ラブ・コメディでありながら、既存の中国のコメディ映画とは一味違って、徹底して、衝撃的、娯楽的なコメディとなった。
チャン・ツィイーにとっては、はじめてのコミカルな演技が見もので、「HERO」「LOVERS」とはまた違って、そのキュートな演技は実に新鮮に映る。
これは、意外な発見だ。
ソフィーの相手役は、これまた韓国のトップ俳優ともいわれるソ・ジソブで、この映画「ソフィーの復讐が公開されると、中国でも韓国でも、異例の注目を集めたそうだ。
女流監督エヴァ・ジンの演出は洗練されてはいるのだが、かなりハチャメチャなドタバタ劇には閉口する。

人気漫画家であるソフィー(チャン・ツィイー)には、付き合って二年になる、イケメン外科医の恋人ジェフ(ソ・ジソブ)がいた
ジェフからのプロポーズを受け、2ヵ月後には結婚して、世界で一番幸せな女になるはずだった。
ところが、そのジェフが手術をした、映画女優ジョアンナ(ファン・ビンビン)と恋に落ちたから、話はややこしくなった。
ソフィーは、打ちのめされた。

ソフィーは、この失恋の痛手を乗り越えようと、ある計画を思いつく。
そうだ。予定の結婚式までに、何としてもジェフを自分の手に取り戻すのだ。
そして、今度は自分の方から彼を振ってやるのだ!
それが、彼女の復讐(!)だった。

ハロウィンのパーティーで出会った、写真家ゴードン(ピーター・ホー)を仲間に引き込み、ソフィーのリベンジは確実に実行に移されるのだったが・・・。
なかなか思い通りにいかないソフィーのリベンジは、二転三転するギャグのジェットコースターになってしまうのだった。
そんなことで、果たしてソフィーは、オトコを取り戻すことができるのだろうか。

チャン・ツィイーのキュートな魅力は十分だが、ドラマはたいして感心できたものではない。
いたずらと遊びが過ぎて、目の回るいそがしさだ。
中国・韓国合作「ソフィーの復讐」は、一応はラブストーリーだが、我慢して観ないと苦しいかも(?)。
しかし、最後のシーンだけは、息をのむような優しい美しさが、絵のようだった。


映画「シャッターアイランド」―ミステリーの謎が解けるとき―

2010-04-20 09:00:00 | 映画

アカデミー賞監督マーティン・スコセッシと、レオナルド・ディカプリオのコンビによる、ミステリー映画だ。
注目の謎解き映画だが、単純な犯人探しのドラマではない。
一見、スリラー風である。

絶海の孤島で、ひとりの女が謎の暗号を残して忽然ときえた失踪事件が、この物語の発端だ。
多層にわたって絡み合う謎と、ドラマの深さが、ミステリーファンをうならせるところだが・・・。

ボストンのはるか沖合いにある孤島“シャッターアイランド”は、精神に障害を持った犯罪者たちを隔離する病院である。
1954年9月・・・。
連邦保安官テディ・ダニエルズ(レオナルド・ディカプリオ)と、新入りの相棒チャック(マーク・ラファロ)は、その島へやって来た。

女性患者レイチェル(エミリー・モーティマー)の、失踪事件の捜査というふれこみだった。
三人の我が子を溺死させた罪で、この島に送られてきた彼女は、前夜鍵のかかった病室から煙のように消えてしまったのだ。
彼女が部屋に残した、一枚の紙切れだけが、唯一の手がかりであった。
その紙切れには、ある暗号が記されていた。
それはしかし、レイチェルという女が狂っていること以外、何も語っていないように見えた。

病院の医長ジョン・コーリー(ベン・キングズレー)から、事情を聞いたテディとチャックは、患者たちから聞き込み捜査を開始した。
テディの真の目的は、それは・・・、復讐であった。

孤島に嵐が近づき、不気味な気配が充満する。
追うものと追われるもの・・・、そこには生々しい記憶の断片が飛び交い、それぞれの人間の過去にどんなトラウマが植えつけられたのか。
ナチス強制収容所の死人の山、さらに第二次世界大戦を経ても続いている20世紀の惨劇が、何を物語っているのか。
島の灯台で行われている人体実験、あれは一体なんだったのか?

絶海の孤島“シャッター・アイランド”に乗り込んだ(?)テディは、この島におびき寄せられ、そして、この島に閉じ込められてしまったのだ。(?!)
果たして、島を脱出できるのだろうか。

・・・この映画は、あくまでも観衆を惑わせるように作られている。
スコセッシ監督の、高笑いが聞こえるようだ。
どこまでが現実で、どこからが幻想か。
何が、真実なのか。
何もかもが、曖昧に見える。

スコセッシ監督ディカプリオ主演のコンビによるこのアメリカ映画シャッターアイランドは、事件の謎を追う、ゴシックな雰囲気のミステリーだが、時代を50年代に設定したことで、癒えない大戦のトラウマや、精神治療に関する論争など、様々なテーマが入り乱れて交錯する。
謎が謎を呼び、観る者は翻弄される。
デニス・ルヘインの原作小説は、監獄と精神病棟の置かれた孤島を舞台に、その巨大な密室で繰り広げられる政治的な陰謀と凶悪犯罪をスリリングに描いた作品で、このジャンルに経験の浅いスコセッシ監督が、このドラマをいかに映像化したか。

この映画は、一人の人間が真実を追い求めていくドラマでありながら、自身のトラウマを発見し、どう対処するかをも描いている。
まあ、ひとつ騙されたと思って観ると、楽しみは倍増(?)するかもしれない。
しかし、案外マーティン・スコセッシ監督という人は、かなり独りよがりで、ことによると自分だけがこの作品に大満足しているのかも・・・。
どうも、そんな気もする。


映画「コトバのない冬」―どこか切ない大人の童話―

2010-04-18 08:30:00 | 映画

どこか切ない、冬の出会いと別れを綴った物語だ。
物語といっても、静かな映像詩に近い。
渡部篤郎がはじめて撮った映画で、脚本は岡田恵和が書いた。

冬の季節の寒さ、家族のあたたかさ、雪の音や風の音、そして穏やかな恋の始まり、そこはかとなく高まる感情・・・。
余分なものは、極力排除される。
たとえコトバであっても、そして表現までも・・・。
すべてが心優しく、繊細で、抒情的なのだ。

北海道のちいさな町で、黒川冬沙子(高岡早紀)は、単調だが幸せに暮らしていた。
寡黙な父親(北見敏之)と、二人の生活だった。
そこへ、上京してモデルの仕事をしていた妹(未希)が帰省し、近所の食堂のおばさん・丸山みどり(渡辺えり)と、楽しい日常を過ごしていた。

そんなある日、大雪の中、バス停に残された冬沙子は、偶然通りかかった門倉渉(渡部篤郎)に声をかける。
彼は、しかし言葉を発することができないのだった。

渉は、寒さに震える冬沙子に暖をとらせた。
二人の、何気ない出会いであった。
それから、二人の日常に、それこそさりげなく、心地よい癒しのような「時間」が生まれはじめた。
単調な毎日の中に訪れた、どこからともなく湧き上がる感情・・・。

冬沙子は、牧場の仕事をしていた。
ある時、そこで落馬事故を起こした。
彼女は、短期の記憶障害と診断された・・・。

真っ白な雪景色を舞台に、日常のスケッチとある哀しい出来事を、細やかなタッチで描いていく。
渡部篤郎の描く映画「コトバのない冬は、どこか切なくてもどかしい、小さな冬の童話である。

ドラマといえるような、はっきりとしたドラマではない。
もう少し、ドラマティックな展開が期待されてもと思うが、これはこれで自然と人間の映像詩の趣きがある。
ここでは、誰もが寡黙だ。
ときには笑いもあるけれど、淡々と綴られる映像は、やや哀しく淋しい。
ゆきずりの出会いが、やがてすれ違いとなり、たまたま時の偶然に引き裂かれてしまうといった、一時の男と女の触れあいの時のもどかしさが、ひたひたと寄せてくる。
観ていると、一編の詩のようでもある。
全体に、とくに気張った演出もなく、自然体で、ドキュメンタリーのような小品ともいえる。


♪映画音楽ベストテン♪―懐かしい曲ばかり―

2010-04-16 21:00:00 | 映画

花散らしの雨が、箱根ではこの季節に雪になりました。
急に、また冬に舞い戻ったような寒さで、思わず身震いしてしまいそうです。

ところで、映画を観ていて、作品の中で演奏されたり、歌われたりする、忘れられない音楽というのががありますね。
いわゆるテーマ音楽や主題歌で、♪映画音楽♪というあれです。
雑誌「キネマ旬報」が、昨年90周年を迎えたことを記念して、洋画、邦画の「映画音楽ベストテン」を発表しました。
音楽評論家や映画監督、作曲家ら95人のアンケートによるものです。
それによりますと、<映画音楽>が心に残る、映画音楽ベスト10」は次のようでした。

  ① 男と女 (1966年フランス、フランシス・レイ)
  ② ゴッドファーザー (72年アメリカ、ニーノ・ロータ)
  ③ 第三の男 (49年イギリス、アントン・カラス)
  ④ ニューシネマ・パラダイス (89年イタリア・フランス、エンニオ・モリコーネ)
  ⑤ ウエスト・サイド物語 (61年アメリカ、レナード・バーンスタイン)
  ⑥ シェルブールの雨傘 (64年フランス、ミシェル・ルグラン)
  ⑦ スター・ウオーズ (77年アメリカ、ジョン・ウィリアムズ)
  ⑧ 太陽がいっぱい (66年フランス・イタリア、ニーノ・ロータ)
  ⑨ 仁義なき戦い (73年日本、津島利章)
  ⑩ 死刑台のエレベーター (58年フランス、マイルス・デイヴィス)
                                                                   (国名のつぎは作曲家)


これらの作品を全部は観ていませんが、いずれも懐かしい映画とともに、懐かしい音楽がよみがえってきます。
やはり、親しみやすいテーマ音楽で、スマッシュヒットを放ったような曲が、いつまでも心に残ることになるのですね。
 「男と女」は、カンヌ国際映画祭でグランプリ受賞に輝いた作品だし、このときの音楽は、軽いスキャットというのか、いまでも人気のあるヒットメロディです。

ほかでもおなじみなのは、「ウエスト・サイド物語」「シェルブールの雨傘(カンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞)、それに「太陽がいっぱい」などで、「死刑台のエレベーターはあのモダンジャズとフランスのヌーベル・ヴァーグの鮮烈な作品のイメージは、いまもって忘れがたいものがあります。

ここに選ばれた作品以外にも、たとえばモーリス・ジャールの「アラビアのロレンス」(62年アカデミー作曲賞)、ドクトル・ジバゴ」(ラーラのテーマ)、「禁じられた遊び」「鉄道員」など、数え切れないほど沢山あります。
それにともなって、幾多の名画、名曲が思い出されます。
個人的には、少し前ですが、中国映画「LOVERS」の音楽(梅林茂)も素晴らしいものでした。

映画作品と音楽とは、切っても切り離せないし、作品を観ていないと、そのよさはなかなか解らないもので、一方作品を観たものにとっては、一段と感慨の深いものとなります。
きっと、誰にでも、人それぞれに、そうした想い出のひとつやふたつはあるのではありませんか。
最近は、映画ももちろんですが、<映画音楽>に、いいものが極端に少ないのが残念です。

ラジオ(AM・FM)でも、以前ほど、<映画音楽>の番組がほとんど聴かれなくなってしまいました。
音楽番組があっても、素晴らしい<映画音楽>を聴きたいと思ったときは、CDとかに頼るしかないかもしれません。
まことに、淋しいかぎりです。

映画作品の中に占める音楽(テーマ音楽、主題歌、BG等)のウエイトって、かなり高いものがあるはずですし、その作品を論じるときでも、観客は、音楽から何らかのインパクトを受けるものではないでしょうか。
そして、その曲を聴くたびに、名画のあのシーンを再び思い出すのです。
そこに、また映画のよさがあるのだし、映画とは、そういうものではないでしょうか。


映画「獄(ひとや)に咲く花」―吉田松陰の恋―

2010-04-14 12:00:00 | 映画

幕末、長州から高杉晋作、伊藤博文らの傑物が誕生した。
その中にあって、彼らの才能を見出して育てた希代の教育者が吉田松陰だ。
松陰と言えば、松下村塾だが・・・。
今の混迷の時代にあって、幕末の原点であった松陰は、30歳の若さでその苛烈な生涯を終えた。

今年は、その松陰生誕180年にあたる。
古川薫原作「野山獄相聞抄」を得て、石原興監督が映画化した。
この作品獄(ひとや)に咲く花は、松下村塾を開く前、海外密航を企てた大罪で、松陰が長州藩の牢獄に収監されていた日々を、一女囚の目を通して描いている。
この獄の中で、松陰が自らの理想を信じる姿、実在の人物・高須久との相聞歌から浮かび上がる、淡い恋慕の情景が、日本映画の端正で美しい画面に綴られていく――

長州藩の、士分のための牢獄「野山獄」に収監された者には、刑期がない。
ひとたびここに入ると、出られた者は多くなかった。
嘉永七年(1854年)、吉田松陰(寅次郎・前田倫良)は、海外密航を企てた大罪で、この牢獄に送られる。

獄囚たちは、皆長い幽閉生活で希望を失っていた。
しかし、彼らは常に前を向き、清廉で一途に人を愛してやまない松陰の姿に、少しずつ心を動かされていく。
唯一人の女囚、高須久(近衛はな)もそのひとりだった。

二人は、松陰の呼びかけで催された、短歌の集いなどを通じて気持ちを深めていった。
その後、自宅蟄居となった松陰は、「松下村塾」を開き、後進の指導に当たりつつ、獄囚の開放に尽力した。
全てが、うまく回り始めていたと思われたその時、松陰への捕縛命令が幕府から届く。
のちに、安政の大獄と呼ばれる、粛清の時代の始まりであった・・・。

松陰が江戸送りと知ったとき、久は深夜ひそかに松陰の牢にハンカチを届ける。
少しの間、二人の手は重なったままで、久がささやく言葉がいい。
 「いつまでもお慕い申しております。わたくしが生まれてはじめて味わう、痺れるような女の歓びでございました」
手を重ね合わせただけなのに、この独白は何とも艶麗な、映画の中での静かなクライマックスだ。

当時、獄内での行動には自由が認められていたので、こうした交流が生まれることが可能だった。
野山獄で、いよいよ松陰が江戸へ送られていくというとき、彼を追う女の哀れが痛いほど伝わってくる。
・・・松陰は、安政六年十月二十七日、伝馬町の獄舎で処刑された。

幕末は松陰からはじまったともいわれ、その後の日本を拓いた男のつかの間の淡い恋を描いて、スクリーンは、よき日本映画の香りを残した丁寧なカメラワークがいい。
たおたおとして、儚げで、しかし、一途な心を失わない女を演じる、近衛はなが好演だ。
彼女は、父が目黒祐樹、母に江夏夕子、叔父に松方弘樹を持つ芸能一家の生まれだ。
そういえば、父親に似ていると思った。
吉田松陰(寅次郎)を演じる前田倫良は、もう少し、気張り過ぎない、自然体の演技の方がよかったような気がする。

国を憂えて、新しい日本の夜明けを夢見ていた男が、この時代にもいたのだ。
幕末に活躍した志士たちは、みなこの時代の若者たちであった。
彼らは、青春の真っただ中にいたのだった。
吉田松陰の、生涯ただ一度のプラトニックな恋を描いた小品である。

   ―― 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂 」 ――
                                      
吉田松陰 遺書「留魂録 」)


「カティンの悲劇」再び―ポーランド機墜落事故―

2010-04-13 05:00:00 | 雑感
これを、因縁というのだろうか。
ポーランド大統領機が、ロシア西部の、空港近くの林の中に墜落した。
旧ソ連による、ポーランド人虐殺の「カティンの森」事件の、70年追悼式典に向かっていたのだった。

カティンスキ大統領夫妻をはじめ、政府高官や、遺族たち約50人を含め、96人全員が犠牲となった。
大統領は、冷戦時代にポーランドを支配化においたソ連への反感は強く、ロシアとは敵対的な姿勢をとってきた。

事故当日は霧が深く、空港への着陸を変更するよう管制官は指示していたのに、機はそれを無視して着陸態勢に入ったところ、墜落したのだった。
何と、そこはあの「カティンの森」のすぐ近くであった。

つい先日、映画「カティンの森」を観たばかりだったので、この報道は衝撃的だった。
ポーランド人将校ら15000人近くが虐殺(銃殺)された、「カティンの森」に眠る彼らの霊が招いたのか。
しかも、彼らを追悼する慰霊のために向かっていた、その日に・・・!

墜落したツポレフ154機は、旧ソ連が、国内幹線と中距離国際線の主力機として開発したものだが、最近では2007年8月にウクライナ東部に墜落し、このときも170人が事故の犠牲となった。
今回の政府専用機にしても、約20年間も使われ、老朽化していたという情報もある。
旧ソ連製の航空機というのは、やたらと事故が多く(?)、とても安心して乗れたものではないようだ。

墜落、炎上した機体の無残な姿に、皮肉にも運命の巡り会わせを見る思いがする。
あの、痛ましい歴史を刻んだ悲劇の森で、また新たな悲劇が繰り返されたのだった。
「カティンの森」の悲劇、またしても・・・。
これは、因縁なのだろうか。合掌。