徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「パンドラの匣」―前向きに生きる青春―

2010-03-30 22:00:00 | 映画

少し前の作品だが、昨年生誕100年の、太宰治の原作を映画化した。
この作品、冨永昌敬監督が、終戦直後の当時の若者たちのユートピアを描いた点でも、ちょっと変わった、ポップな青春ドラマなのだ。

・・・ふと気がついたとき、もう、昔の僕ではなかった。
何故か、「新しい男」として生まれ変わったのである。

日本が、戦争に負けた年のことだ。
当時不治の病といわれた結核に罹った青年は、人里離れた‘健康道場’で鍛錬に励み、恋と友情に悶々としながら、「新しい男」を目指していた。

利助(染谷将太)は、身体の弱さから、自分を生きている余計者だと思い込んでいた。
母親(洞口依子)の心配をよそに、自分をいじめるように、彼は畑仕事に精を出した。
終戦の玉音放送を聞いて、利助は、自分が「新しい男」に生まれ変わったと感じた。
しかし、その直後ひどく喀血して、山里にある結核療養所‘健康道場’へ入る。

そこでは、独特の日課と慣習があり、塾生も助手もあだ名で呼び合っていた。
助手から「がんばれよ」と声をかけられたら、「ようしきた」と答えるしきたりだったし、「やっとるか」「やっとるぞ」の挨拶とともに、この共同社会は同志的な結合を重んじていた。
非常時が叫ばれていた時代にあって、周囲外界と全く隔絶された桃源郷(ユートピア)でもあった。

利助は、すぐに「ひばり」と名づけられた。
ある日、詩人のつくし(窪塚洋介)の結核が完治し、晴れて退院すると、すぐに新しい組長(看護婦長)に竹さん(川上未映子)がやって来た。

ひばりは、この竹さんに人目会ったときから、自分が恋をしていることに気づくのだった。
そして・・・、ことさら大きな起伏はないものの、この‘健康道場’で、塾生仲間の友情と死、まだ幼く甘酸っぱい恋、若い心の揺らぎ、希望と勇気の織り成すドラマが、静かに淡々と綴られていくことになるのだが・・・。

結核患者たちの、あらゆる苦悩が一杯に詰まった療養所の中にあって、若い女性の補導員は輝ける希望の星だった。
この作品の、ユーモアとペーソスあふれる和やかで暖かな雰囲気は、意表をつくような脚本で生き生きと描かれている。
強い刺激もインパクトもないが、本来暗くなりがちな世界で、お互いが心を寄せ合って生きている姿が、ほのぼのとした温もりさえ感じさせる。

今回特筆すべきは、同録の時代にオール・アフレコに挑戦したことで、これは昭和の文芸映画ならではの試みだ。
ナレーションで表現される主人公の手紙や、耳馴染みのない当時独特の言い回しのセリフなど、冨永監督が太宰の作品を生かした部分が際立った特徴となっている。
美術は、あの頃モダンであった山里の‘健康道場’の雰囲気を再現するために、廃校を利用したり、特注のベッドを使うなどのディテールにまでこだわった。
看護婦たちの衣裳も、あえて時代考証を無視して、可愛さを優先するといった遊び心が目立つ。

太宰治の作品としては、めずらしく明るい青春小説を現代に甦らせた感じがする。
冨永昌敬監督パンドラの匣は、あらゆる不吉が人間を不幸に陥れるというギリシャ神話の物語とは対極的に、幽かで前向きの希望を大きく取り上げ、幸福な理想郷を描こうと心がけたことに注目だ。
芥川賞作家川上未映子が、ヒロインとして登場するのも異色だ。
演技も、なかなか堂に入っている。
(彼女は、このほかにもいろいろな映画に出ていて、もう立派な女優さんだ。)
ほかに、場長(ミッキー・カーチス)、つくしを恋しがる助手のマア坊(仲里依紗)、大学生の固パン(ふかわりょう)らが登場してにぎやかだ。


映画「すべて彼女のために」―命を懸けて守りたかったもの―

2010-03-28 07:30:00 | 映画

桜が咲いて、いよいよ春の訪れか・・・、とはいっても、まだ寒い日もあったりして、本格的に暖かな日和が続くようになるのは、もう少し先のことかもしれない。
花曇りの空に、桜の花もふるえている。
その桜を見上げる人も、寒そうに身をかがめている。
それでも、季節の移ろいを確かに感じる、花冷えの朝である。

さて、この映画は、無実の罪で投獄された妻を救うために、すべてを懸けた男のドラマである。
フレッド・カヴァイエ監督フランス映画は、極限の状況におかれた、人間の愛の本質を描く。
はらはら、どきどきの、ヒューマン・サスペンスドラマだ。
この作品が、カヴァイエ監督の長編デビュー作となった。

フランス、パリ・・・。
国語教師のジュリアンヴァンサン・ランドン)と、出版社に勤める妻リザ(ダイアン・クルーガーは、一人息子のオスカル(ランスロ・ロッシュ)と三人で、平凡ながらも幸せな生活を送っていた。
しかし、ある朝彼らの人生は一変した。
警察が、突如として家に押し入り、リザが殺人容疑で逮捕され、投獄される。

やがて、三年の時が経ち、リザに二十年の禁固刑が宣告される。
無実の罪を必死に主張するリザであったが、状況証拠などから、誰もが彼女の罪を確信していた。
夫のジュリアンをのぞいては・・・。
彼女の人生に残されたのは、深い絶望だけであった。

リザは次第に衰弱し、精神状態も不安定になっていった。
一方で、しかしジュリアンはあきらめなかった。
再び三人で暮らすため、彼女に生きる希望を取り戻してもらうため、彼は、ある重大な決意をする。
平凡だったジュリアンは、正義、道徳、地位、信頼、そして未来、人生のすべてを投げうって、究極の行動に出た・・・。

映画「すべて彼女のためにフレッド・カヴァイエ監督は、いまフランス映画界でも注目される監督のひとりだ。
アカデミー賞常連として名高い、ポール・ハギスは、自分の初めてのメイク作品として本作を選んだ。
この作品での夫役ヴァンサン・ランドンは、コメディからシリアスまでこなすフランスを代表する俳優だし、一方のダイアン・クルーガーは、陰影に富んだ確かな演技力で、世界を舞台に活躍するドイツ生まれの女優だ。

ドラマの奥深いところで、父親と息子、すなわちジュリアンと彼の父親、ジュリアンと彼の息子という二つの親子関係に触れ、さらに、無実でありながら投獄の身となった母親リザと息子の関係についても、そのデリケートな部分に、演出は細やかな気配りを感じさせる。

妻は無実だが、逆に夫は罪を犯してしまうのだ。
本来、善であることをするために、どこまで悪の中に踏み込んでいくことができるか。
ドラマは、ほとんどすべてを時系列で撮影している。
希望から絶望の底へ、このときの人間心理はまことに複雑だ。
ことに、その極限の状況においてはなおのことだ。

作品のなかでの、リザの状況証拠については簡単に触れられているだけだが、現実に、それらの罪重ねで無実の罪を負わされる人はいるものだ。
こじんまりとしたドラマだが、どきどきするようなサスペンスが随所に散りばめられていて、とくに後半からラストまで一気に観せる。

こういう種類の作品の中で、夫が妻を救いたいがために、現実に犯罪に手を染めるシーンは、許されぬことと知りつつも、思わず応援したくなるような心理がはたらくから不思議だ。
無駄なシーンは、極力省かれている感じがする。
手際よくよくまとめられた作品だから、最後まで、ドラマの小気味よいサスペンスフルを楽しむことができる。


映画「海角七号 君想う、国境の南」―郷愁は切なく―

2010-03-26 23:00:00 | 映画

ウェイ・ダーション監督による、初長編の台湾映画だ。
過去と現代、日本と台湾をつなぐ、七通の手紙・・・。
それは、今はない住所に宛てた手紙だった。
懐かしさと新しさが混在するドラマだ。

どんなに時が流れても、人の心に残る歌がある。
どんなに遠く離れていても、忘れられない人がいる。
誰でも人は、どこか心に沁みる、あたたかな想いがある。
それが、郷愁というものではないだろうか。

台湾の最南端にある海辺の町、恒春が舞台だ。
ミュージシャンの夢破れて、台北から故郷に戻った阿嘉(ファン・イーチェン)は、いやいやながら、郵便配達員として働くことになった。
日本統治の時代の住所が書かれた、宛先不明の小包を見つけた彼は、好奇心からそれを開封してしまう。
中身は、若い日本人教師が、台湾人の教え子・友子(60年前の友子・レイチェル・リャン)へ宛てた、60年前のラブレターだった。
それは、愛しながらも別れなければならなかった女性を想って、船上で綴った七通のラブレターであった。

阿嘉は、町おこしのイベントで、日本人歌手を招くため、自分を含めた素人バンドを結成する。
しかし、メンバーは寄せ集めで、いつも不機嫌な日本人スタッフの友子(田中千絵)と衝突ばかりしていた・・・。

ライブの日は、刻々と近づいていた。
バンドは、ステージを無事に務めることができるのだろうか。
60年前の手紙は、宛名の女性のもとに届くのだろうか。
・・・奇跡は、起きるのだろうか。

映画「海角七号 君想う、国境の南は、バンドの結成と練習のドタバタをコミカルに描きながら、60年前の恋文の文面を挿入するなどして、情緒を散りばめている。
登場人物は、それぞれが恋や仕事や悩みを抱え、挫折の痛みも知っている。
そうして、彼らのエピソードをからませ、重ね合わせて、物語を膨らませている。
そのエピソードを欲張りすぎたのか、盛りだくさんでまとまりに欠けるきらいがある。

それに、60年代の恋人たちと、現代の若者である阿嘉と友子という二組の日本と台湾のカップルをだぶらせるあたり、思いつきは悪くないのだが、やや分かりにくい構成だ。
これを、手の込んだ巧妙な脚本と見るか、編集と演出の拙さと見るかは分かれるところだ。

ドラマは素直で平明なのだが、前半の雑駁な部分は、少し疲れる。
後半になるとドラマはしまってきて、60年代の手紙が果たして女性に届くかどうかというあたり、南の空に虹がかかったりするのも、出来すぎた遊びごころか。
ドラマは、終盤になってようやくすべてが解ってくるという感じだ。
ひねりすぎているというわけではないが、こういう演出もありということか。
ともあれ、日本と台湾の歴史に、過去と現在が紡がれる、心の温まるドラマではある。

世代間の隔絶などを織り交ぜた、悲喜交々の群像劇だ。
ただ、物語のドタバタは、コミカルなねらいもあるのだろうが、どうも気になる。
作品は、音楽をふんだんに取り入れているから、そちら向きにはいいかも知れない。
登場人物の感情はあくまでも素直だし、笑いの大衆性もある。
茂じいさんが、月琴を弾きながら歌うシューベルトの「野ばら」も、郷愁に引き込む至福のエンディングに流れる「野ばら」も、ともに印象的だ。
ウェイ・ダーション監督が、若いキャストを組み合わせて、二世代にわたる、ロマンティックな音楽映画を考えた意図は十分伝わってくる。


映画「カティンの森」―いま語られる祖国の悲劇―

2010-03-24 13:00:01 | 映画
第二次世界大戦から70年、東欧の民主化から20年経って、この映画は、封印されていた歴史の事実を明らかにする。
ポーランド巨匠アンジェイ・ワイダ監督渾身大作だ。
彼の発信する、血のにじむようなメッセージが伝わってくる。

この作品は、ワイダ監督自身の両親に捧げられている。
ワイダ監督の父親は、第二次世界大戦中の1940年春、ポーランド将校とともにソ連軍に虐殺され、母親も、夫の帰還の望みが失われていくなかで亡くなった。
作品の完成まで、実に17年の歳月をかけたといわれる。
この作品の中で描かれる、祖国の悲劇と抵抗の歴史と向かい合うとき、誰もがこの真実から目をそらすことはできない。

ポーランドに、ナチス・ドイツとソ連が侵攻したのは、1939年であった。
第二次世界大戦の始まりだった。
ポーランドは、両国に分断占領され、ポーランドという国は、ある時期まで地図上からその名を消したのだ。
行き場を失った、ポーランドの悲劇はここから始まった。
・・・そして、ソ連の捕虜となった、約1万5000人のポーランド人将校が行方不明となる。
当初は謎とされていたが、1943年春、ポーランドのカティンで彼ら数千人の遺体が発見され、事件が明らかになった。

ドイツは、事件をソ連の仕業としたが、ソ連は否定し、ドイツによる犯罪として糾弾したのだ。
戦後、ソ連の衛星国となったポーランドでは、カティンについて語ることは厳しく禁じられたが、1989年秋、ポーランドの雑誌が、虐殺はソ連軍によるものであるとして、その証拠を掲載した。
翌年、ソ連はこの犯罪を認め、さらに2年後ロシアのエリツィン大統領は、スターリンが直接署名した命令書によって行われたことを言明した。

物語は、アンナ(マヤ・オスタシェフスカ)の夫アンジェイ大尉(アルトゥル・ジュミイェフスキが、ソ連軍捕虜として連行されていくところから始まる。
・・・そして、アンナは、数年後夫の死を伝えられるのだが、すぐには事実を受け入れることができない。

映画は、実際に残された日記や手紙をもとに、事件の真実を、捕えられた将校たちの姿と、彼らの帰還を待つ家族の姿を通して描いている。
将校たちの、国家への忠誠、生きる家族たちへの不安と恐怖、夫の帰還を想う妻、父を想う娘、真実を叫び続けることで兄の死に報いようとする妹・・・、幾重にも語られる人々の運命は、戦争に翻弄され、互いに交錯し交わりあうのだ。
そして明かされる、ラストでの真実の衝撃・・・。
厳かな終盤で、カティンの森の墓穴にむくろとなって横たわる人々、死者を演じきる俳優たちの驚くべき真摯な姿には、ドキュメンタリーを超えたリアリティを観るのだ。
このシーンは、まさに祈りだ。

事件は、戦争というより、スターリンの指示による組織的な虐殺だ。
手を縛り、後頭部を撃ち抜き、埋める・・・。
最終の、虐殺場面はまるで流れ作業である。
強烈で、衝撃的で、凄まじい。
それなのに、高潔だ。

アンジェイ・ワイダ監督が紡ぐ物語は、生きて残された人たちを軸に綴られる。
映画は、登場人物を含めて、ほとんどが実話だそうだ。
89年に、共産主義政権が次々に倒れて、東欧革命が起きるまで、真相はほとんど闇に葬られていたのだった。

ポーランド映画「カティンの森は、カティン犯罪の、巨大な虚偽と残酷な真実の物語だ。
 「史実は出来事、すなわち人間の運命の背景であるに過ぎない」
このアンジェイ・ワイダ監督の言葉は、意味深い。
虐殺された死者たちは、死して、残された人々の記憶と、消えることのない歴史の真実へ、もしあるとすれば、そこに永遠の生を宿している。

ワイダ監督
といえば、個人的には「地下水道」「灰とダイヤモンド」を鑑賞した記憶があるが、どれも衝撃的なレジスタンス映画だった。
しかし、素晴らしく感動的だった。
この映画も、観ていてとても辛い。
辛いけれど、観なければいけない。
そういう、作品だ。
今年84歳、アンジェイ・ワイダ監督の数ある作品のうちでも、おそらくもっとも重要であり、長いこと完成が待たれていた作品ではないだろうか。

民主党副幹事長解任―言論の封殺?!―

2010-03-22 23:00:00 | 雑感

突風の吹いた翌日であった。
横浜で、桜の開花宣言があった。
いよいよ、春本番か。

民主党の執行部を批判したかどで、生方副幹事長が解任されるという事態が起きた。
この事態、どっこいこのまま落着とはいかなかった。
小沢幹事長の、政治資金の問題についての発言が、ことの発端だ。
小沢氏の十分な説明が果たされず、国民の納得が得られなければ自らの進退を考えるべきだと述べ、民主党の権限や財源を握っているとされる、小沢氏個人への皮肉交じりの発言が問題となった。
暗に、小沢幹事長に対する辞任要求だ。
この発言、決して的外れとも思えない。

いま、国民の間でも、与党、野党の内部でも、陰では「小沢独裁」への不満の声が出ているからだ。
問題は、生方氏が与党内の要職にありながら、党外の、特にマスコミに対して執行部批判をしたことにあるらしく、だからといって、即解任とはいかがなものか。
民主党内で、もっと穏やかな結着をはかれなかったのか。
処分の仕方に、大いに疑問がある。

生方氏解任については、いまになって小沢幹事長筋でも、もう少し上手くやれなかったのかとの意見も出ている。
全くその通りだ。
ここへきて、一部には、とどのつまり、生方氏解任を主導した、高嶋筆頭副幹事長への見えない風当たりも、強くなっているようだ。
それもそうだろう。
高嶋氏に取材しようとすると、物好きなテレビ局のお呼びには頑として背を向け、登場するのはもっぱら生方氏の方だ。
とにかく、この人、出演回数が半端ではない。ちょっとしたスター並みである。
これだって、異常だ。
彼が出れば出るだけ、ますます問題がこじれていく。
冗談じゃあない、と言いたい。
いまこの大事なときに、民主党の株はどんどん下がっていく・・・!

小沢氏に不平や不満があるなら、本人に向かって言えなかったのか。
これが、言えなかったのだ。
まことにもって、情けないことだ。
そういう状況にないというのだが、まずは直接本人と向き合うことが大事だし、外に向かって自分の党のことをあれこれ批判するというのはどうだろうか。
そんなことをすれば、喜ぶのはマスコミで、彼らの好餌になるに決まっている。
民主党内部のちっぽけな問題が、ことさら大きく取り上げられて、与党のイメージダウンは避けられない。
小沢幹事長はさらに悪人のようにいわれ、民主党全体の支持率までが急落することになった。
現に、世論による民主党の支持率は、すでに30%を切ったとも伝えられる。

民主党が、自分の党内部からの批判を許容できないようでは、これからも新政権など覚束ない。
政策論争以前の問題だ。
野党・自民党のある元幹部は、「この程度のことでクビにされていたら、自分なんか何回クビになったか分からない」と言って、苦笑していた。
どこの党だって、執行部批判はある。
そんなこと、当たり前だ。

かつてそうであったように、与党の幹事長室に多くの人たちが自由に出入りし、もっと風通しをよくして、明るい民主党をこころがけてもらいたいものだ。
といっても、いまの幹事長では難しいかも・・・。
今回の一件、民主主義を提唱する与党としては、まことに民主党らしからぬ対応だ。

言うことが気にいらないからと、当人を解任するのは簡単だ。
それより前に、生方氏の言動に言い過ぎがあったとするなら、注意勧告で足りることではなかったか。
こんな、公に大きな騒ぎになるような事案ではない。
ことをここまで大きくしてしまった責任は、生方氏と民主党(執行部を含む)の両者にある。
小沢氏に最も近いとされる、高嶋筆頭副幹事長に、小沢氏は円満な解決を望んだのに、幹事長の真意を読むことができなかった。
いい大人の政治家(?)にして、この程度なのである。
どっちもどっちという、感じがする。
何のことはない、いつの世にもある、救いがたき政治家の身勝手・・・!

要は、もっと自由に闊達に、意見交換のできる民主党でなければ、結局は国民は失望して離れていく。
言論の自由なき(?)政党、まさかとは思うが、そんな自由もないとなれば情けない限りだ。
マスコミだけを喜ばせるような、馬鹿騒ぎをしている暇があったら、景気浮揚策に労を費やしてもらいたい。
国民は、呆れて言葉もない。
何をやっているんでしょうね。
期待を担い、あれほどの追い風に乗って、颯爽と登場した民主党、しっかりしないか。
~ったく!!

・・・夜遅くなって、風がやんだ。
そうか、追い風がやんだのか。


映画「スイートリトルライズ」―さまよえる愛と孤独―

2010-03-21 09:00:00 | 映画

人は、嘘をつく。
守りたいものに、あるいは守ろうとするものに・・・。
何気ない秘密と嘘、愛と孤独を綴る、大人のラブストーリーだ。
江國香織原作矢崎仁司監督の、どこか美しく切ない作品だ。

一見、ふんわりとした雰囲気の中に、日々生きていくような世界観がある。
しかし、そこには、時々はっとさせられるような、深遠な孤独や狂気が覗くときがある。
それが、死の匂いであったりすることも・・・。

(大森南朋)と結婚して3年になる瑠璃子(中谷美紀)は、人気テディベア作家だ。
子供はいないが、誰から見ても理想の夫婦だ。
しかし、IT企業に勤める夫の聰は、自室に鍵をかけて閉じこもりがちだ。
短調な会話、清潔な部屋、裕福な暮らしに見えるが、二人の心はすれ違いだらけだ。
決して不幸ではない。
でも、時々感じる、どうしようもない淋しさが漂っている。

ある日、瑠璃子は、自分のベアを欲しがる青年春夫(小林十市)と出会った。
自分の恋人のために、非売品のベアを譲って欲しいといわれ、瑠璃子はそれを譲ってしまう。
その後、偶然再会した二人は、あっという間に恋に落ちていった。
時を同じくして、聰もまた、自分に好意を寄せている後輩の女性しほ(池脇千鶴)と再会し、積極的にアプローチしてくる彼女に次第に惹かれていく。

夫婦は、それぞれが別の相手と恋を始める。
ただ真直ぐに、貪欲に恋をするだけの瑠璃子と聰だった。
こうして、二人の間には、甘い秘密と嘘が、静かに音もなく積み重ねられてゆくのだったが・・・。

テディベア作家の、妻瑠璃子が「この家には、恋がないと思うの」と、ふとつぶやく一言が効いている。
誰にでも潜在する孤独を通して、主人公の現代人の愛のありようを問いかける。
どこか気だるい虚脱感、部屋の窓を開けると、目に入ってくる墓地・・・。
そう、何故か、墓地なのだ。
夫婦の間の小さな倦怠・・・、自分たちが求めていたわけでもないのに、どこからか(?)浮気の相手となるような男女が二人に近づいてくる。

これは、さまよう夫婦だ。
血が通い合っているようで、通い合っていない。
いや、実際は通い合っているのかもしれない。
人間は、愛なくしては生きられない。
それが、人間の業というものだ。

矢崎仁司監督作品スイートリトルライズは、切なくかなしい、人生の機微をとらえて、情感のある演出を見せる。
淡々とした静謐のなかに、不思議なやすらぎにも似た余韻がある。
原作者は、「書いたことではなく、書きたかったことを視覚化されて愕然とした。一体、どうしてこんなことができたのかわからない」と語っているが・・・。
原作の紡ぎだすセリフが、そのまま映画の中にも生きていて、優しく心に響く。
人は、誰もが、いつでも自分らしく生きたいと願うものなのだ。
そして、本当の幸せとは、自分にしか分からないものだ。
大人の寓話を演出した、文学と映画のコラボレーションのようで、小品としては、よくまとまっている。


どうなった?新型インフルエンザワクチン騒動

2010-03-19 20:00:00 | 雑感

あれほど騒がれた、新型インフルエンザワクチンはどうなったのでしょうか。
大流行とまで伝えられていたのに、いまはどうやら大過なく終息に向かっているようです。(少なくとも日本では。)
WHOにしても、ずいぶん人騒がせなことでした。
とはいえ、09年6月、世界の死者数1万5000人を超えた時点で、「フェーズ6」という警戒レベルも納得できないわけではありませんでした。
これには、日本は一体どうなるのかと、間違いなくちょっとしたパニック状態でした。

輸入新型インフルエンザワクチンは、9900万回分の内6300万回分については、解約に向けて交渉に入っているということです。
それだけ、余ってしまったということですか。
これは、厚生労働省の話です。

日本人は、成人の約3割、子どもの7、8割が接種を受けたようです。
結局、ワクチンは何ほどの効果があったのでしょうか。

海の向こうのドイツの話ですけれど、誰でもが受けられるインフルエンザの予防接種を希望する人は、当初の予想をはるかに下回ったそうです。
接種を受けたのは、国民の8%だといわれます。

このことは、日本についても同じことがい言えそうです。
かなりの数の人たちが、インフルエンザは危険が低いと判断し、ワクチンそのものの安全性に疑問をもったのではないでしょうか。
かく言う自分もそうで、人混みに出かけたりしているものの、マスクもせず(一応持ってはいましたが)、面倒くさいのでワクチンの接種も受けませんでした。
もちろん、外出から帰ったらよく手を洗い、うがいを励行し、予防には気を使っていました。
そのせいか、幸いなことに、この冬は、インフルエンザはもちろん、風邪ひとつひかないで、今日まできました。
これまでも、ワクチンのお世話にはなっていませんし、今後もそうしたいと思っています。
だって、そもそもこれで100%インフルエンザにかからないという保証はないのですから。

一時は、世界中からワクチン不足の声が上がっていました。
需要に間に合わないとも・・・。
しかも、ワクチン接種によるアレルギー被害や、何らかの副作用を訴える人は多かったといいます。
日本では、ワクチンが大分余ってしまっているらしいし、そこで輸入元への解約交渉にのぞんでいる状態です。
はじめは深刻で、大変な騒ぎでしたものね。
何だか、とてもおかしく思えませんか。
ワクチン依存も、考えものですね。
それに、誰もが無料というわけではないのですから。
病院は儲かるでしょう。でも、どうだったでしょうか。
すっかり目算がはずれてしまったのでは・・・。
いや、ほんとうに・・・。
これから本格的な春に向けて、インフルエンザよりは、どうも花粉症対策のほうが必要となりそうです。


沈みゆくドロ舟―自民党の崩壊―

2010-03-18 06:30:00 | 雑感
早いもので、あちらこちらで、もう桜の蕾が開き始めている。
この時をうらむかのように、じいっと空を見上げているのはどこの誰か。
何かが始まるとき、きっと何かが終わる。
そしてそれは、終わりの始まりだ。

ドロ船が沈みかけている。
内部分裂、脱党、離党・・・、そして負け犬の遠吠えのような、党総裁の叫びが空しくあたりにこだまする。
近頃の、自民党のゴタゴタもひどい。

園田幹事長代理が、執行部批判のあげく、役職を辞任した。
さらに、鳩山邦夫元総務相が離党し、自分は平成の坂本龍馬になりたいと言っている。
何の根回しもされていない、まだどうなるとも分からない、夢物語を追うような話だ。
どうも、見渡したところ、同調者もまだ現れていないようだ。
誰が、彼についていくのだろう。
政界再編の起爆剤になりうると、本人は言うけれど、こんなに大きな騒ぎになってしまっている。
大丈夫なのか。
ご本人は、幕末の志士気取りか。
新党の結成、政界再編と言うからには、どんなヴィジョンがあるのだろうか。
具体的なものは、まだ何も見えてこない。
このまま突っ走って、引っ込みがつかなくなってしまうのではなかろうか。

与謝野元財務相と、舛添厚労相を結び付けたいらしいのだが、この二人とも離党する気はなさそうだ。
・・・となると、とんだ茶番劇で、一番慌てているのはどなただろうか。
正しい情勢判断ができているのか、疑わしい。
果たして、勝算はあるのか。
新党を作るといっても、言うほどに簡単なことではない。
政策や理念はどうなっているのか。

ああだ、こうだと言っているうちに、ドロ船は沈んでゆく。
新党騒ぎは、もはや自民党の最後のあがきか。
哀れ、谷垣総裁率いる自民党よ。
自民党が、みしみしと音を立てて瓦解してゆく。
断末魔の叫びを残して・・・。
そうして、やがては歴史の彼方に消えてゆくのだ。

・・・政界再編の名の下に、また政治の常なる、離合集散を繰り返すのか。
かつて巨大勢力を誇った自民党は、もはや民主党の敵ではない。
新しい時代の波に適応できなければ、消えてゆくさだめなのだ。

    ***** 閑 話 休 題 *****

いまの鳩山政権に対する世論は、「支持する」が32%、「支持しない」が47%で、新聞各社の世論調査は、大体似たりよったりだ。
鳩山内閣の支持率は、下落の一途だが、どの政党を支持するかと問えば、やはりまだ民主党だ。

注目すべきは、昨年の総選挙の結果、民主党政権が誕生し、政権交代が起きたことを、70%近い人たちがよかったと答えていることだ。
もう、自民党政権に戻ることは考えられない。
後戻りはないのだ。
少なくとも、向こう3年半は、民主党政権が続く。

「政治とカネ」の問題で、さんざん世間を騒がせた民主政権だが、景気対策等の喫緊の問題からすれば、国民にはそんなことは小さなことだ。
どちらが先か、誰だって解っている。
政権発足から半年で、目に見えて何もかもが変わるものではない。

何だかんだと、うねりのように巷で高まっている、鳩山総理や小沢幹事長の去就如何にかかわらず、もちろん人の見方はいろいろあるだろうが、民主政権はさらに盤石な(!?)ものとなっていくかもしれない。
頼りない自民党は崩壊寸前だし、目下の民主党は、向かうところ敵はない。(!?)
いまは、やるべきことをやるっきゃない。
前政権の残した、あまりにも多くの負の遺産を前に、焦土と化したこの国で・・・。
弥生三月、いつのまにか花咲く春の訪れである。

映画「花のあと」―女、凛然として―

2010-03-16 14:00:00 | 映画

今年で没後13年、藤沢周平の同名小説を、中西健二監督が映画化した。
脚本は、「山桜」に続いて、長谷川康夫と飯田健三郎が担当した。
ひとりの女性が、剣をとって義を貫くという時代劇である。

藤沢作品に一貫する、心の美と義は、この作品でも健在だ。
満開の桜が、印象的な映像美を余韻とともに盛り上げる。
藤沢作品は、文章というより詩的要素の強い部分もあり、行間に漂う空気は、そのままここでも丁寧に描かれている。
一見さらりとしていて、ものすごく静かだが、激しさを秘めた映画だ。

時代は、江戸・・・。
藩の要職にある寺井家の一人娘の以登(北川景子)は、男にも劣らぬ剣の使い手だった。
以登は、藩内随一と噂の高い江口孫四郎(宮尾俊太郎)と竹刀を交え、恋に落ちる。
それは、以登にとって生涯ただ一度の、しかし叶うことのない恋であった。
以登には許婚がいて、孫四郎もまた上士の家の婿となる日が迫っていた。

自らのさだめを静かに受け入れ、思いを断ち切る以登であった。
・・・やがて、遠く江戸から届いたのは、孫四郎自害の報であった。
激しい動揺を抑え、以登は婚約者・片桐才助(甲本雅裕)の力を借り、その真相を探る。

二人は、孫四郎の死の陰に、藩の重鎮・藤井勘解由かげゆ・市川亀治郎の陰謀が潜んでいることを突き止めた。
孫四郎は、内藤家の加世(伊藤歩)に婿入りをしていたが、実は加世は婚前より勘解由と密通していたのだった。
その勘解由が、孫四郎を罠に陥れたことも分かった。
そして、以登は、あの日以来遠ざけていた剣を手に、立ち上がった・・・。

昔から日本人の持っていた、内面の美しさや情緒がにじむ画面だ。
主人公の、以登を演じる北川景子が実にいい。
彼女が、役作りのために、時代劇特有の所作と殺陣の稽古に半年間も費やしたというのだから、その苦労が知れる。
市川亀治郎を向こうにまわしての殺陣も、凛然として鮮やかだ。
この映画「花のあとのクライマックス、朝靄の漂う中で対峙する一対一の長い立ち回りは、二日間かけて撮られた緊迫の場面だが、原作では、短刀で一突きにするという、たった二行しか書かれていなかった。

いつも思うのだが、ヒロインをはじめ役者陣の、<目>に集中する演技がいい。
中西監督は、愁いも哀しみも、表情を感情に出さない演技へのこだわりが強い。
孫四郎役の、宮尾俊太郎はバレエダンサーで、今回異色の映画初出演となった。
そのせいか、演技が固い。
その孫四郎が、自害にいたる陰謀については、大事な部分なのだから、しっかり撮ってもらいたかったが、ドラマの中では簡単に語られているだけで、どうも不満が残る。
まあ、その分、美しく激しい北川景子の演技に救われたか。

ところで、彼女の次回作は6月19日公開の「瞬―またたき」で、これは岡田将生と共演のラブストーリーだそうだ。
実は彼女はかなりの読書家で、セクシー系よりは、一時は精神科医を目指したりもしたが、明治大学商学部出身という、れっきとしたインテリ系だ。
自身が学業優先、映画は二の次といい、それでいて、巷でうわさのスキャンダルとやらは大物女優並みの23歳、人気度もさすがというか、今後ますます注目度アップといわれるゆえんですか。

映画は、一編の詩を観ているようだ。
日本映画のよさだろうか。
作品の根底には、人間への深い愛が横たわっていて、女性の機微も細やかに描かれている。
藤沢周平の原作も手伝って、かなりの観客を動員しているが、映画は人気の方が先行しているきらいもある。


映画「ヴィクトリア女王 世紀の愛」―女の高潔、男の献身―

2010-03-14 12:00:00 | 映画
かつて、イギリスを「太陽の沈まぬ国」と呼ばれるまでに押し上げた、ヴィクトリア女王の知られざる実話だ。
ジャン=マルク・ヴァレ監督による、イギリス・アメリカ合作映画だ。
イギリスの黄金時代を築いた、女王の愛と真実が丹念に綴られる。
美しいゴージャスな衣裳と宝石や宮殿が見どころで、そこに、権力闘争の中に生まれた、試練の愛だ。

19世紀のイギリス・・・。
王位継承者ヴィクトリア(エミリー・ブラント)をめぐって、権力を手に入れようとする者たちの思惑が交錯していた。
しかし、ベルギー国王の策略で、彼女のもとに送り込まれた、甥のアルバート(ルパート・フレンドとヴィクトリアは、そんな政治的な思惑を外れて、本当の恋に落ちた。

国王が崩御すると、18歳になったヴィクトリアは、無事女王に即位する。
・・・議会に混乱を招いたりして、一時国民からは批難を浴びたりする。
外に嵐が吹き荒れる中、アルバートに励まされ、ようやくヴィクトリアは、彼こそが自分を利用しないただひとりの存在だと気付くのだ。
女王自ら、彼に求婚し、結婚が成立する。

しかし、真の絆が結ばれるまで、二人は数々の波乱と困難を乗り越えなければならなかった。
母親との確執、王室の権力争い、政治家との駆け引き、マスコミが騒ぎ立てるスキャンダル、国民の暴動・・・。
そして、ある日、ヴィクトリアに向けて、一発の銃弾が放たれたのだった・・・。

イギリス・アメリカ合作映画「ヴィクトリア女王 世紀の愛は、知られざる真実の話だが、華麗な絵巻物を見ているようで、本来波乱のドラマのはずだが、特別ひねりもなくやや単調に過ぎて、退屈気味だ。
波乱の描写をあえて抑制したとも見えて、画面の豪華さのわりに、ドラマの作りは丁寧すぎて物足りない。
この映画で描かれるカップルの目的そのものが、結婚ではなく、夫婦となった男女が、いかに固い絆を手にするかということを、女王暗殺未遂事件を通して描く。

愛以外の何ものでもない、とっさの行動が、夫婦の絆を確固たるものにする。
ヴィクトリアもアルバートも、ともに賢明に生きている。
実際に、ヴィクトリア女王は、1837年18歳の少女のときに即位し、1901年まで64年間もの長きにわたって、女王として君臨したのだった。
この在位期間は、英国歴史上最長だ。
ヴィクトリア王朝時代は、イギリスが最も繁栄した時代として、いまも語り継がれている。

アルバートが42歳で病死ののち、ヴィクトリア女王は約10年間公の場から姿を消し、9人もの子にめぐまれたが、後半生の40年間、生涯を喪服で通したそうだ。
そのため、イギリスでは、喪服に合う黒いジュエリーが流行したといわれる。
そういえば、私たちが目にする、太り気味のヴィクトリア女王晩年の写真は、黒い喪服に白い豪華なレース姿である。
この作品、今回、アカデミー賞衣裳デザイン賞受賞した。
さすがに、これだけは見事である。