徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

川端康成 美しい日本~鎌倉文学館35周年特別展~

2020-12-09 11:08:52 | 日々彷徨


朝夕めっきり冷え込み、冬が駆け足でやってきたようだ。
コロナ禍で、外出を控えめにしていたが、思い切って出かけた。
もうとうに薔薇の季節は終わっていて、久しぶりに静かな鎌倉であった。
訪れた当日の早朝は、幸せなことに、来館者は私一人で、貸し切りのような閲覧者となって、かえってよかったと安堵した。

1935年から鎌倉で暮らし、日本人で初めてノーベル賞を受賞した川端康成(1899年~1972年)の数々の作品をしのびながら、一貫して自身追求してきた日本の伝統美やこの地とゆかりのある深みを感じさせて、ミニ展示なりによくまとまっている。
作品の原稿や愛蔵品、パネル紹介など80点から、故人の紡いだ日本の「美」を感じとることができる。
川端については語り尽くせぬことが多く、ノーベル賞についてはそもそも川端康成と、三島由紀夫の二人が有力候補だったが、師弟の関係にある年長者川端を、三島周辺の反対を押し切って推奨したという話は有名だ。

ノーベル賞受賞式での川端康成の講演は、「美しい日本の私」であった。
当初川端は、「美しい日本と私」というタイトルで講演を予定していたが、「美しい日本の私」となった。
いずれにしても、「抒情の美」を描いて、数々の名作を残した川端は、日本文学の名を高め、世界がそれを認めた証となった。

川端は源氏物語の現代語訳を試みていたが、こちらは果たせぬまま、自死の道を選んだことは残念でならない。
川端展については、これまで文学館などで特別展が幾たびか開かれてきたが、鎌倉文学館で手にした小冊子(図録)などダイジェストしてよくまとまっており、一見に値するだろう。

今年も残り少なくなってきた。
この特別展、12月23日(水)まで。
鎌倉文学館(TEL 0467-23-3911)へは、江ノ電由比ヶ浜駅から徒歩7分だが、私はJR鎌倉駅下車、中央図書館前から裏小路を通り抜け、歩きやすい散歩道から、吉屋信子旧邸の前を通って文学館を訪れた。
勝手知ったいつもの散歩道である。
月曜日は休館、平日、日曜祭日午前9時から入館できる。



 

 

 


映画「男と女 人生最良の日々」―愛と哀しみの果てに―

2020-03-26 19:16:42 | 映画


1966年、恋愛映画の金字塔と言われたフランス映画「男と女」から半世紀余り、あれから52年後を、その時と同じ俳優が演じた。
監督も同じクロード・ルル-シュ監督である。
心に染み入るような大人の作品を、今なお健在なクロード・ルル―シュ監督が、あの時の愛をテーマに取り上げた作品だ。
主役の二人が50年たっても生きている。

二人が再会するシーンなどは、リハーサルなしで自然体で撮影された。
そして、フランシス・レイの優美な音楽も忘れがたく、本作は旧作の映像も交えて物語は進行する。
いつになっても、愛は年齢には関係ない。

施設で余生を送る元花形レーサーのジャン・ルイ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は、過去の記憶を徐々に失いつつあった。
そんな中で、かつて別れた恋人のアンヌ(アヌーク・エーメ)のことは憶えていた。
そこへ、彼の息子の頼みでアンヌが訪ねてきて、二人は再会する。
だが、目の前の高齢の女性がアンヌとは気づかないジャン=ルイは、過ぎ去りし日のアンヌの思い出を語り始める。
彼の語る話で、いかに自分が愛されていたかを知ったアンヌは、ジャン=ルイを連れて思い出の地へと車を走らせるのだった・・・。

このドラマでは、この作品の撮影時、トランティニャンアンヌもともに実年齢は80歳を超えていた。
燃え立つような愛ではない。
長い年を経て再会した二人が、ゆっくりと相手の気持ちを思い出していく。
その二人の表情、追憶を探る眼の演技が実に上手い。
老境の二人が愛を演じる。
目は嘘をつかないものだ。

2018年に死去したフランシス・レイの音楽が、再びスクリーンに蘇るとき、思わず懐かしが込み上げてくる。
アヌーク・エーメも老いてなお美しいし、どこかさりげない遊び心を漂わせて、大人の愛を描いている。
しかも、年老い、いながらにしてみずみずしさがある。
エスプリに富んだ二人の会話が、ゆっくりと時を刻んでいくのだ。

年齢を重ねながら映画つくりに携わってきた二人の名優の、その過去の映像をそのまま使った回想シーンまで、観ているこちらが引き込まれる。
時を経て甦る名場面と、スキャットのようなあの名曲に浸り、現代の二人の穏やかな会話の場面を見ていて、老いもまたかくのごとく美しいものかと感心させられる。
ジャン・ルイは、施設で再開した彼女がかつての自分の愛した人とは気づかない。
ああ、何という現実だろう。
前作同様、心憎いフランス映画の名作である。

アヌーク・エーメは、この映画とはまた違った多彩な愛とと哀しみの実人生をたどったと伝えられるが、ルルーシュ監督をはじめ、出演俳優がいまもなお健在でいることに思わず嬉しくもなった。
クロード・ルルーシュ監督のフランス映画「男と女 人生最良の日々」は、人生の黄昏をしっとりと優美に描いた、大人の気品に溢れた作品だ。
この作品、公開は遡るが、現在はシネマジャック&ベティ(TEL/045-243-9800)で4月3日(金)まで上映中だ。
         [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

追 記
いま、悠長なことを言っていられない。
世の中は騒然としている。
その中で桜が満開である。
やがて散るその桜が、苦しそうに、大きく風に揺れている。


文学散歩「中 島 敦 展」―魅せられた旅人の短い生涯―

2019-11-04 12:25:00 | 日々彷徨


 いつしか凶暴な嵐も去り、熟成の秋が大地を覆い始める頃となった。
 過ごしやすい季節である。
 横浜市の県立神奈川近代文学館を訪れる。
 11月24日(日)まで、特別展「中島敦展」が開かれている。
 高校時代の国語の教科書に、名作「山月記」登場したときは、今も思い出すが、不思議な衝撃と感動に胸を打たれたものである。

 今回の特別展は、中島敦の短く起伏に富んだ人生を「旅」としてとらえ、わずか33年の生涯を展観する。
 「山月記」のほかにも「李陵・司馬遷」といった名作を残し、その生涯に遺した作品は20数篇に過ぎない。
 だが、それらの作品の端正な筆致と物語性に富んだ小説などは、今も多くの人々を魅了するものだ。
 特別展では、短かったが転変の多かった中島敦の人生を、彼の直筆の原稿用紙や手紙、写真などを通してその生涯を振り返る。

 中島敦は亡くなったときは無名だったが、神奈川近代文学館(TEL/045-622-6666)では5660点もの膨大な資料を所蔵しているうえに、未定稿や資料は遺族が保管していたものもあって、過去3回も展覧会を開催しているそうだ。






今回の展示について、第一部では少年時代、東京帝大学生時代、横浜高等女学校(現、横浜学園高等学校)教諭時代、第二部では、文字から文学が生まれるという「光と風と夢」など傑作が次々と登場した豊饒の時期、そして第三部では、中島敦の作品が現代文学、漫画、映画などにどのような影響を及ぼしたか、その経緯について紹介している。

中島敦は、横浜では8年間を過ごしているが、南洋庁の国語編修書記としてパラオにも赴任していた。
しかしながら、かねてからの喘息の発作に耐えかねて、転地療養をも考えたが、病状は悪化し1942年12月その短い生涯を閉じる。
彼の33年の足跡を、貴重な資料を多面的に俯瞰出来てよい。
今からだと、11月17日(日)には中央大学教授・山下真史氏の講演が予定されているほか、会期中毎週金曜日にはギャラリートークが行われている。
読書の秋である。
今月9日()まで読書週間だ。
中島敦の珠玉のような作品の数々に触れ、そこからかもし出される知的に構築された世界を、揺るぎのない美しい文章で堪能するのも一興ではなかろうか。

神奈川近代文学館の次回企画展は、「没後50年 獅子文六展」で12月7日(土)から催される。


映画「帰れない二人」―改革開放の中で時は移り現代中国の変革とともに逞しく生きる女性を見つめて―

2019-10-05 12:25:58 | 映画


 暑い日も時々あるが、秋色が濃厚に感じられる季節へと移ってきた。
 しかし時の流れは速い。
 天変地異、内憂外患・・・、国政も社会も乱れ、日本という国は、どうやらわけのわからぬ変転の波間に浮き沈みながら、行く先を見失っているような・・・。

 さて今日の映画の方は、政治と経済が激動する中国社会の底辺で生きる男女の、17年にわたる物語だ。
 2001年の北京五輪開催の決まった年から、三峡ダム完成の06年、そして現在へと三つの時代を描いている。
 三部構成の物語を、その時代に流行した音楽が繋いでいく。
 時は21世紀、それも20年近くになる。

 何が変わり、何が移ろい去ったか。
 刻々と変化を遂げる中国と、その中で生きてきた人の姿をとらえて、自身と同じ時代を生きてきた、 「長江哀歌」(2006年)のジャ・ジャンクー監督が、男女の変転を深く鋭く描く。
 「長江哀歌」をふと思い出した。

 

時を重ねた男と女がいる。
お互いに生き方を変えることはできない。
互いにかけがえのない存在だと思っていても・・・。

2001年、山西省のそれほど大きくない都市、大同・・・。
麻雀屋をやっている女チャオ(チャオ・タオ)と、そこに集まる男たちから一目置かれる裏社会の男ビン(リャオ・ファン)は、幸せを夢見ていた。
が、ある日ビンは路上でチンピラに襲われた時、チャオが発砲し一命を取りとめる。
この事件で二人は投獄される。

2006年、5年の刑期を終えてチャオは出てくるが、4年前に出たはずのビンは迎えに来ない。
この頃、チャオ・タオは長江をひとりさすらっている。

そして2017年、チャオとビンは中年になった。
それまですれ違い続けた二人は、再び大同で出会う。
またしても雀荘で女将となったチャオは、深酒から脳溢血で倒れた車椅子のビンを引き取る。
しかし、力と金を失った男に昔日の面影はなかった。
チャオはひとり身を通した。
渡世の世界に生きる女の愛のありかたと生き方を信じていたからだった。

変わりゆく17年の歳月の中で、変わらぬ思いを抱えた男と女がすれ違う・・・。
チャオが、乗り換えの武漢(ウーハン)から38時間もかけて新疆ウルムチに向かうなど、物語の中で7700キロもの距離を旅するのだ。
新しい自分の人生を夢見る北西の果てまで、長い長い流浪の旅である。
中国大陸をまるで横断するのような・・・。

ジャ・ジャンクー監督の作品としては、感情の起伏は豊かに描写されている。
中国の開発の波は、多くの自然をもそうだが、ひとの心をも破壊する。
ビンにはほかの女ができたし、チャオは男に騙され、自分は自分で人を騙すすべを身に着ける。
変わりゆく中国を舞台に、男女の変転を描いて興味は尽きない。
時の移ろい、心の移ろい、社会の移ろいを、二人の男女の生きた歴史を背景に描いて、悲しく、いとわしい作品に仕上がっている。

人物描写も心理描写も複雑だが、今回登場のヒロイン、チャオ・タオはさすがジャ・ジャンクー監督のミューズであり、妻でもあって、気高く生きる中国人女性を演じて、長い時間の幅で激しくせめぎ合う心中を描いており、中国・フランス合作映画「帰れない二人は、映像で観る生きた歴史のようでもある。
中年男女の哀愁が、中国の今と重なる、さすらいのラブストーリーである。
この映画、横浜のシネマジャック&ベティ(TEL/045-243-9800)では10月18日(金)まで続映中だ。

        [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「火口のふたり」―男と女の性愛の日々は死とエロスに迫る終末の予感を漂わせて―

2019-09-01 12:30:00 | 映画

 路傍に真っ赤な彼岸花が咲いていた。
 立秋を過ぎて、なお日中はまだまだ残暑が続いている。
 でも、朝夕は秋の風を感じるようになってきた。
 何かときなくさい世情に背を向けて、敢えて取り上げた今回の一作は・・・。

 直木賞作家・白石一文の原作を、このところ活躍めざましい脚本家・荒井晴彦監督映画化した。
 荒井晴彦監督といえば 「大鹿村騒動記」「共喰い」など優れた脚本も多く、この作品では女と男の濃密な時間を秋田を舞台に描いている。

 かつて恋人同士だった二人が再会し、体を重ねる。
 白石一文の同名小説をもとに、荒井監督は主人公の二人を見つめ、凝縮したドラマに作り上げた。
 話して、食事して、互いに相手を求め合う。
 何のことはない、それだけの二人の話である。
 作者の言う「身体(からだ)の言い分」に従って、一緒に過ごす男女の大胆不敵ともいえる性愛描写が連写される。
 いま令和の世紀の混沌に、懐旧と郷愁を誘うこの映画に誰もがたじろぐことになる。
 ほぼ全編を、男女の対話で構成した野心作だ。




10日後に結婚式を控えている直子(瀧内公美)と、秋田に帰省してきた賢治(柄本佑)が久しぶりに再会する。
直子と賢治は、いとこ同士なのだ。

直子はアルバムを取り出し、壁に貼った〈富士山の火口〉のポスターの前で、二人が裸体を重ねている写真を見せて、「今夜だけあの頃に戻ってみない?」と誘いかける。
直子の婚約者が、出張から戻ってくるまでの5日間だけと約束した二人は、時を惜しんで情を交わすのだ。
ただそれだけの中に、二人の過去、現在の状況と心情が垣間見える。
5日間限定に火がついた二人は、より大きな終末の予感とともにさらに燃え上がった。
そして、5日後・・・。

男女のエロスを描いた、1947年生まれの荒井晴彦脚本が傑出している感じがする。
登場人物はほぼ二人だけだし、どろどろした情念は感じられない。
さらりとした、当たり前の日常感覚が全編を支配している。
緊張感と脱力感と・・・、生と性が陰湿でなく軽やかで明るく、青春映画のように若々しい。
ドラマの中の二人は、原作者が言うところの「身体の言い分」に身を委ねており、人として身体が求めるもの、人として最も自然な「生き方」を純粋な生の営みとして描写している。

柄本佑の何気ない視線に不思議な色気があり、瀧内公美の腹の座った女っぷり、脱ぎっぷりの大らかさ、明るさに脱帽だ。
瀧内公美は、ヒロインの直子像を陰影深く見せて切ない。
彼女の多様な側面に、女優の大器が見えた。
「賢ちゃん」と「直子」の感情の襞の隅々まで、失われてゆく時の流れが刻み込まれ、会話もよく練られていて無駄がない。
最後のシーン、富士山大噴火の予感は、死の淵から生の世界へ戻ってくる、まさにこの死の匂いは究極のエロスに迫るものだろう。
一種の会話劇でありながら、赤裸々な性愛描写で生々しく肉体を映し出し、絶望を突き破って命がほとばしるような、若い魂の勢いが感じられると言ったら言い過ぎであろうか。
決してそんなことはない。
荒井監督は、「身も心も」(1997年)、「この国の空」(2015年)に次いで長編は3作目になる。

荒井晴彦監督作品「火口のふたり」は、愛と性の物語として老若男女にもぐっとくるものがある。
二人の主人公がケロッとして、何とも爽快である。軽やかなのがいい。
この映画は、横浜シネマジャック&ベティ(TEL045-243-9800)ほかで9月13日(金)まで上映中。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回は中国・フランス合作映画「帰れない二人」を取り上げます。


映画「新聞記者」―民主主義を踏みにじる官邸の横暴と忖度に走る官僚たちを報道メディアはどう見つめたか―

2019-08-18 13:00:00 | 映画


 暦の上ではとうに立秋を過ぎている。
 でも、連日厳しい残暑が続いている。
 涼しい秋はまだまだ先のようだ。
 体調管理には十分気をつけていただきたい。
 この夏の映画館の混雑は、個人的にはあまり歓迎の口ではない.
 映画は、静かなところでやはり大画面でゆっくり鑑賞したいものだ。

 今回はこの作品に目をつけた。
 東京新聞の望月衣塑子記者のノンフィクションを原案に、映画版「安倍政権の暗部」といってもいい、現政権の疑惑を網羅した内容の作品だ。
 1986年生まれの藤井道人監督が、比較的若者の目線で撮った作品だが、痛快さや派手さはなく、閉塞感が全編に漂い、果敢な挑戦のわりには映画作品としてはまだまだ弱い気がする。

東都新聞の記者、吉岡エリカ(シム・ウンギョン)のもとに、大学新設計画に関する極秘情報が、匿名FAXで届いた。
日本人の父と韓国人の母のもとでアメリカで育ち、ある思いを秘めて日本の新聞社で働いている彼女は、真相を究めるべく取材を始める。
一方、内閣情報調査室の官僚・杉原拓海(松坂桃李)は葛藤していた。
国民に尽くすという信念があるのに、それとは裏腹に、与えられた任務は現政権に不都合なニュースのコントロールであった。
愛する妻の出産が迫ったある日、杉原は久々に尊敬する昔の上司で神崎(高橋和也)と再会するのだが、その数日後神崎はビルの屋上から身を投げてしまう。
真実に迫ろうとする若き新聞記者、政官界の闇の存在に気付き、選択を迫られるエリート官僚と、二人の人生が交叉するとき、衝撃の事実が明らかにされてゆくのだった・・・。

現在進行形の様々な問題を、ダイレクトに描写する社会派のドラマである。
権力とメディアのたった今の出来事を、如実に描いている。
その意味では現実社会と絶妙にリンクしているのはいいが、内閣情報調査室の描写はともかく、報道機関の内実は描写不足が目立ち、腰砕けの感は免れない。
その点でこの作品は失望が大きい。

エリートの杉原は上司に言われるがままに、現政権を守るため情報をでっち上げ、マスコミ工作をしていることで、自ら苦悩している。
新聞社社会部の若手女性記者の吉岡は、調べていくうちにキーマンとなる人物が自殺、二人が突き止めたのは内閣府が進める恐るべき計画だった。
誤報を出す恐怖、内調からのプレッシャーとの狭間で、一記者の人間としての存在も問われかねない。
アメリカからの帰国子女というシム・ウンギョンの女性記者役は妥当だったかどうか、少々疑問だ。

この種の外国映画の政治スリラーと比べると、数段落ちるのは否めない。
こんな機会に、官邸政治の暗部に、もっと強烈に切り込むことはできなかったのか。

登場人物たちの職業意識や倫理観、信念といったものも、肝心の部分の描かれ方があいまいで大いに不満が残る。
藤井道人監督作品「新聞記者」は、製作サイドまでがかなり官邸に気を使って「忖度」していたのではないか。
そんな気もしてならない。

社会派ドラマは大いに次作も期待したい。
これをきっかけに、更なる作品の登場を待ちたいものだ。
余談になるが、近頃の官邸支配とメディアの恐るべき萎縮は、余りあるものがある。
大新聞はもちろん、公共放送までが、官邸に都合の悪い事実を報道していないきらいがある。
政権寄りの記者の、揃って満面の記事や場面などテレビや新聞が執拗に幾度も取り上げている。
いい加減目を覚ましてほしいものだ。。
政権に批判的な言論人が、いつの間にかメディアから消えつつあるのも気になってならない。
現政権、本当におかしくないか。
「国家」が、こんなことで壊れていくことはないだろうか。
この物語も決して虚構とは言い切れないだろう。

       [Julienの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
8月30日(金)まで横浜シネマジャック&ベティ(TEL045-243-9800)ほかで上映中。
次回は日本映画「火口のふたり」を取り上げます。

 


映画「よ こ が お」―社会から理不尽に追い詰められた人間の心の深層に分け入ると―

2019-08-04 13:00:00 | 映画


 鬱陶しい梅雨が明けて、いよいよ夏本番だ。
 連日の猛暑の中で、降るような蝉しぐれと早くも秋の虫の音が・・・。

 今回の映画は、久しぶりに狂気をはらむ報復劇である。
 世の中には思いがけない出来事がたくさんある。
 そうした不条理に翻弄される女を、自作のオリジナル脚本で、「淵に立つ」(2016年)深田晃司監督が映画化した。
 「淵に立つ」では、カンヌ国際映画祭「ある視点部門」審査員賞受賞した深田監督は、この作品で、人生を奪われた女のささやかな復讐を描いている。

 人間の持つ得体の知れぬ怖さを、現在と過去、現実と幻想を自在に操るように見せる。
 したがって、この作品はときに観客を放り出して置いてきぼりにされかねないのだ。
 先の見えない怖さを、真正面から見つめた深田監督は、ここでもまた筒井真理子を主演に迎えた。
 彼女の演じる「顔」の表情が巧みで、緊張感のわりに抑制のきいた語り口は特筆ものだ。



初めて訪れた美容院で、リサ(筒井真理子)は、髪を明るいブラウンに染めている。
予約の時に指名した美容師の和道(池松荘亮)から、前の店にいたときのお客さんかと聞かれたが、それは違った。
数日後の朝、リサは和道が使っているゴミ捨て場で彼を待ち伏せし、偶然会ったふりをして連絡先を聞き出した。
出勤する和道を見送ってリサが戻ったところは、窓から向かいの彼の部屋が見える安アパートの一室だった。

リサというのは偽名で、本当の名前は市子だ。
市子は半年前までは訪問看護師を務め、周囲からは熱く信頼されていた。
なかでも、訪問先の大石家の長女基子(市川美日子)には、介護福祉士になる勉強を見てやっていた、
基子が市子に対して、密かに憧れ以上の感情を抱き始めているとは思いもせずに・・・。

そんな中、ある日基子の中学生の妹サキ(小川未悠)が行方不明となる。
サキはすぐに無事保護されるが、逮捕された犯人は市子の甥だったのだ。
この事件との関わりを疑われた市子は、捻じ曲げられた真実と予期せぬ裏切りにより仕事を奪われることになり、恋人との結婚も破談となる。
すべてを奪われた市子は、葛藤の末復讐を心に誓い、自由奔放な“リサ”となって、姿を変えたのだった・・・。

深田晃司監督日本・フランス合作映画「よこがお」は、誘拐事件をきっかけに「無実の加害者」に問われた女がその運命を受け入れ、再び歩み続けるまでの絶望と希望を描いたヒューマン・サスペンスだ。
ヒロイン筒井真理子はほとんど出ずっぱりで、この人の役作りによる「顔」の演技はなかなかのものだ。
深田監督自身の描き下ろし小説版「よこがお」とはラストが全く異なっており、映画「よこがお」ついても視点のあて方によって、様々に異なる貌を見せる映画だ。

映画は怪しく静謐である。
端正な「よこがお」の市子が少しずつ別の顔を見せる。
美容師和道に対する嫉妬の鬼気迫る表情、全てを失った果ての孤独といい、憎悪と復讐に燃える市子の映像は、ヨコハマ映画祭主演女優賞受賞でも「凄み」を思わせる女優魂を見せてくれている。
筒井真理子は、「淵に立つ」で家族の崩壊に直面する女性の心身の変化を鮮烈に表現したが、この作品では地道に生きる市子と自由奔放なリサという二つの顔を見せる女性を繊細に演じ分けている。

深田監督は言う。
「横顔から見えるのは顔の片側だけで、もう片側は見えていない。そのことが、この物語が描く人間の本質に合っている」と。
映画自体も一色ではなく、絶望と希望がない交ぜになっている。
複雑で微妙な感情のゆらぎを映しだす表現に、筒井真理子は長けている。
これはもう、大人の映画になっている。
8月7日(水)開幕のロカルノ映画祭コンペティション部門出品作だ。

深田作品は、極限まで説明描写を排し、カットを丹念に重ねている。
研ぎ澄まされた映像は、表面は静かでも、緊張感は途切れず、語られることのない言葉や感情が底の部分にうごめくように揺曳している。
無駄をそぎ落とした静謐感と冷え冷えとした恐怖感は、心をうならせるものがある。
映画は7月27日(土)から横浜シネマジャック&ベティ(TEL/045-243-9800)ほか全国で上映中。

       [Julienの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回は日本映画「新聞記者」を取り上げます。


映画「ア ラ ジ ン」―痛快無比!ディズニーワールド実写娯楽映画の真骨頂だ―

2019-06-20 12:15:01 | 映画


 梅雨の中休みもあるが、暑い日々が続いている。
 やがて本格的な夏の訪れとなるだろう。

 言わずと知れた有名アニメーションの実写映画化作品だ。
 話の面白さ、楽しさがいっぱい詰まっている。
 原作は、1991年の大ヒットアニメに実写化「アラジン」の原典「アラジンと魔法のランプ」「千夜一夜物語」に付け加えられたもので、現在も紛争で揺れている中東シリアのルーツをたどるような内容となっている。

 何かと気忙しい今の時代、時には童心に帰って、緻密で華麗なファンタジーの世界に遊んでみるのも一興ではないか。
スピーディーなアクションはもちろん、夢と現実を交錯させ、古典的な物語を幅広い観客層に楽しませてくれる。
 娯楽映画であり、ダイナミックなエンターテインメントそのもので、コミカルな味付けと相まって、比類のない夢空間が次から次へと展開する。
 ガイ・リッチー監督による、近頃妙味満載のアメリカ映画の大作といえる。


砂漠のアグラバー王国・・・。
貧しいながら心の清らかな青年アラジン(メナ・マスード)が、王宮を抜け出した美しい王女ジャスミン(ナオミ・スコット)と出会って一目ぼれする。
ジャスミンを侍女と思って、また会いたいアラジンは城に忍び込むが、王座を狙うジャファー(マーワン・ケンザリ)に捕まって、洞窟から魔法のランプを持ち出すよう命じられ、子猿アブーの失敗で閉じ込められたところを、ランプの魔人ジーニー(ウィル・スミス)に救われる。
ランプをこすると巨人ジーニーが現れ、願いが三つ叶えられるという。

王は娘のジャスミンをどこかの王子と結婚させたい。
でも、娘は白馬のプリンスを待つことなく、自分の国を治めたいのだ。
ジャスミンもまた王座を望み、一方アラジンに惹かれる。
彼女の正体を知って、アラジンは身分の違いが心に影を落とすのだったが・・・。

アラジンとジャスミンが魔法のカーペットに乗って、空を翔ける場面が見もので楽しい。
ここで流れる音楽は「ホール・ニュー・ワールド」で、アニメ版に書いたアラン・メンケンの大ヒット曲だ。
音楽担当のアラン・メンケンという人は、この作品のために新曲まで書き足した。
それは、ヒロインのジャスミンがクライマックスで謳い上げる、力強いバラードだ。
すべての作曲を手掛けたメンケンの役割は大きい。
人柄は気さくだが、大作曲家だ。

ランプの魔人ジーニー役のウィル・スミスは5月に来日したが、この映画では30年間のキャリアで培ってきたものを全て燃焼し尽くした感がある。
アクションあり・ミュージカルありだし、空飛ぶ絨毯で滑空する映像は迫力満点、ヒップホップなノリの歌も悪くないし、サービス満点、にぎやかなお祭りのような豪華な娯楽映画に仕上がっている。
CGを交えているが、全編に渡るリアルっぽい映像はアニメとは違って、視覚的な楽しみを十分与えてくれる。

ヒロインのジャスミンのキャラクター設定は、結婚が最大の関心事ではなく、人間の自由と尊厳、そして民の幸福を願っているところにある。
邪悪な大臣に憤慨し、実写版の新曲では自分の意見を聞いてほしいと訴えている。
このあたりに、何やら政治的にも道義的にも、この2019年という令和の年代にこの作品がつくられた意味があるのではないか。
そこに、今回のアメリカ映画、ウィル・スミス監督の「ア ラ ジ ン」の興行収入が70億円を超えるといわれるゆえんがあるのだろう。
ディズニーの娯楽映画としては、ひときわ傑出した見逃せない作品となりそうだ。
TOHOシネマズほか全国で公開中。

       [Julienの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)

次回は日本・フランス合作映画「横顔」を取り上げます。


文学散歩「江藤淳企画展」―初夏の神奈川近代文学館にてー

2019-05-27 08:30:01 | 日々彷徨


 関東の梅雨入りは、関西より一足早かったようだ。
 横浜の港の見える丘公園は、いま薔薇の花の真っ盛りである。
 その賑わいを抜けて、県立神奈川近代文学館 足を延ばしてみる。

 没後20年になる、評論家・江藤淳展が7月15日(月・祝)まで開かれている。
 江藤淳は慶応義塾大学在学時、「三田文学」に発表した「夏目漱石論」で文壇に登場した。
 その後も 「小林秀雄」「成熟と喪失」など文学評論や評伝・史伝など数多くの研究で、戦後の文壇、論壇に大きな影響をもたらしたことで知られている。














今回の企画展では、 「夏目漱石論」の草稿をはじめ、諸家書簡など多数の資料が展示されており、江藤淳の生涯と業績を振り返る企画展となっている。
展示は、江藤淳の前半生と後半生の二部構成でなっており、第一部での「日本の小説はどう変わるか」の座談会で、文学界」1957年8月号に掲載された写真は壮観だ。
山本健吉、福田恒存、伊藤整、高見順、遠藤周作、荒正人、石原慎太郎、野間宏、石川達三、堀田善衛、大岡昇平、中村光夫ら錚々たる面々に入って、新人の江藤淳の姿も見える。
そういえば、この席で、江藤の私小説批判につて高見順が激昂する一幕があったのだ。
江藤は新人ながら動じずに応酬し、このことは文壇の語り草になっている。

小林秀雄江藤について、一目置いていたことは間違いないと思われるし、後年、妻が病死し、そのあとを追うように本人が自死するという最期は悲しいが、新進評論家としての素養は十分あったといえる。
享年67歳(1999年)は、惜しまれる死であった。
鎌倉幕府が開かれたといわれる、鎌倉市西御門に50歳頃から終の棲家で暮らしていて、鎌倉を訪れたときはその前をよく通ったもので、江藤淳が後々まで強い喪失感を抱き続けていた妻・慶子とともに、彼の生涯が偲ばれるのだ。

6月1日()には社会学者・上野千鶴子氏、また6月8日()には作家で評論家の高橋源一郎氏の講演も予定されている。
そのほか、1階エントランスホールでは、6月16日、30日、7月14日のいずれも日曜日にはギャラリートークも開かれる。(無料)
天気がよければ、イギリス館周辺の満開の薔薇を存分に楽しむことができる。

 次回はアメリカ映画「アラジン」を取り上げます。

 


映画「マイ・ブックショップ」―文学の香り漂う中で女はあくなき権力への勇気ある抵抗を込めて―

2019-04-21 12:30:01 | 映画


 イギリスの小さな町に本屋を開いた女性とその波紋を、スペイン生まれのイザベル・コイシェ監督ペネロピ・フィッツジェラルドの原作を得て映画化した。
 古きよきイギリスの町といっても、それゆえ結構閉鎖的で、町の人々も古い価値観に縛られてかなり抑圧的である。
 その一方で、素朴な魅力や力強い自然が作品を後押ししている映画だ。

 「死ぬまでしたい100のこと」(03年)が日本で大ヒットした、イザベル・コイシェ監督が新たなジャンルに女性の感性を吹き込んで、この保守的なイギリスの町に小さな変革を起こそうとした女性の、ささやかな奮闘記に仕上げた。




1959年のイギリス・・・。
本を愛するフローレンス(エミリー・モーティマー)は、書店のない海辺の田舎町に移り住み、戦死した夫との夢だった小さな本屋を開く。
住民は気さくに声をかけてくれるが、二言目にはこの町に本を読む人はいないよと、結構な嫌味を言う。

そこに現れた資産家のガマート夫人(パトリシア・クラークソン)は、物件について、芝居や音楽会に使う芸術センターにしたいなどと難癖をつけて、フローレンスの立ち退きを迫るのだった。
ガマート夫人には議員に甥がいて、地元では顔のきくだけにたちが悪い。
そんな時に、家に引きこもって本ばかり読んでいる偏屈な老人・ブランディッシュ(ビル・ナイ)だけは、フローレンスの味方になるのだった・・・。

話を味わい深くするために、「華氏451度」「ロリータ」「ドンビー父子」といった、時代を象徴する名著たちも劇中に登場し、コイシェ監督は、町に文化に敬意を払わない人が増えている風潮とか、表現(言論)の自由を抑えつけようとする権力への抵抗の思いを込めている。
理解者の少ない環境で、逆境にめげずに生きていくにはどうしたらよいか。
勇気を与えてくれる作品だ。

書店の空間描写も悪くはない。
風の吹き荒れる浜辺の風景、古めかしいゴシック風の不気味な屋敷など、背景を丹念に撮影しているのも好感が持てる。
そんなところで、本は嫌い、読書は嫌いという少女クリスティーン(オナー・ニーフシー)の存在も、おしゃまな感じが出ていて面白い。
タイトルの通り文学の香りが漂い、ヒロインと老紳士の静かな交流もしみじみとした大人の味を醸し出しており、悪くはない。
センチメンタルな感情に流されず、映像も美しく、派手さを抑えた演出と脚本がよく、海辺の風景の描写もとてもよい。
イギリス・スペイン・ドイツ合作映画「マイ・ブックショップ」は、たとえどんな苦境に立たされても、勇気を持ち続けることだけは諦めなかった女性の話である。
       [Julienの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
この作品は、横浜シネマジャック&ベティでは終わってしまったが、5月11日(土)から5月24日(金)まで横浜シネマリン(TEL/045-341-3180)で上映予定。