徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「K-20 怪人二十面相・伝」―胸躍る、痛快劇―

2008-12-31 12:00:00 | 映画

日本で、最も著名な探偵と大泥棒の闘いを描いた映画だ。
新解釈の怪盗伝で、大人から子供まで楽しめるエンターテインメントである。
佐藤嗣麻子監督が、自らも脚本を担当した、血湧き肉躍るスーパーアクション大作と言えるかも知れない。

この作品、どちらかと言うと女性寄りかも知れない。
ヒーローが格好よく、共感でき、笑いもある。
それに、とにかく迫力満点だ。
怪人二十面相と明智小五郎が、激しい暗闘を繰り広げる。

1949年―架空都市《帝都》―。
帝国陸海軍と、アメリカ、イギリスとの平和条約の締結が合意に達し、第二次世界大戦が回避された世界・・・。
19世紀から続く家族制度により、極端な格差社会が生まれ、帝都の富の9割は、ごく一部の特権階級に集中していた。

そんな中、富裕層のみをターゲットにして、次から次へと美術品や骨董品を、魔法のような手口で盗んでしまうという、《怪人二十面相》の出現が世間を騒がせていた。

学術会議場から、無線送電システムが盗み出されるという事件が発生する。
多くの参加者の目の前で、大胆にも、その模型を持ち去ったのは、正体不明の大怪盗・怪人二十面相だ。
早速、名探偵・明智小五郎(仲村トオル)や、浪越警部(益岡徹)らが現場検証を行うと、そこには変装用のマスクが残されていた・・・。

一方、グランドサーカスでは、曲芸手品師・遠藤平吉(金城武)が、子供たちの前でショーを繰り広げていた。
その平吉の前に、謎の紳士(鹿賀丈史)が現れ、札束をちらつかせ、明智小五郎と羽柴財閥の跡取りである葉子(松たか子)の結納の様子を写真に撮るよう要請する。

結納の儀をを隠し撮りしようとして、平吉がカメラのシャッターを押すと、参列者の埋まったホールは煙に包まれる。
怪人二十面相から、羽柴財閥の持つ、ブリューゲルの「バベルの塔」を頂戴するとの犯行予告を受け取り、この日厳重な警備を行っていた軍警は、平吉を怪人二十面相として逮捕した。
しかし、平吉は、二十面相の仕掛けた罠によって、逆に二十面相に仕立て上げられてしまったのだった・・・!
・・・刑務所に護送中の平吉を救い出したのは、サーカス団のカラクリ師である源治(国村隼)とその仲間たちだった。


さあ、平吉は潔白を証明すべく、明智や葉子らと、怪人二十面相を追って、広い帝都を所狭しと駆け回る。
原作の中にもある、二十面相の逃走術として、「直線を走るべし」を映像化したあたり、なかなかだ。
どんな障害物があっても、最短距離を駆け抜ける。
建物があれば乗り越え、川を渡り、道路を突っ切る。
肉体だけを駆使したチェースだ。
もう、迫力満点で、ハラハラドキドキで楽しめる。

冒頭から、カメラは、住宅街、工場地帯、ビル街へと移動し、一気に観客を映画の世界へと引きずり込む。
息をのむスリリングな展開で、あっという間に2時間あまりが過ぎてしまった。
文句なしに面白い、娯楽映画の誕生だ。
町並みも、機械や乗り物も、様々な装置が古き良き時代の雰囲気をかもし出していて、いい。
特殊撮影の妙味もたっぷりだ。観て損のない作品と言えそうだ。
佐藤嗣麻子監督の映画「K-20 怪人二十面相・伝は、老若男女誰もが楽しめる作品になった。

  ・・・閑 話 休 題・・・
今年は、洋画も邦画も、特に傑出した作品が少なかったようだ。
極論すれば<不作>と言うことだろうか。
「おくりびと」や「母べえ」などは、日本アカデミー賞の優秀作品にノミネートされているが、どうもいずれも小粒で、総じて優れた作品を見つけるのは難しい。
(ただし、これはあくまでも個人的な見解にすぎません。)
最優秀賞の発表は、2月20日だそうだ。

そんな中で、今年最も心に残った一作と言えば、躊躇なく、
市川崑監督の幻の名作「その木戸を通ってを取り上げたいと思います。
・・・さて、来年はどんな年になるのでしょうか。
どうぞ、よい年をお迎え下さい。


「メールやめろ!」―爆発した怒り―

2008-12-28 13:15:00 | 雑感

相変わらず、携帯メールのトラブルがあとを絶たない。
先日、JR 東海道線の車内で、50代の男性が殴りあいの喧嘩をして、流血騒ぎに発展するという事件があった。

隣り合わせに座った二人のうち一人が、もう一人に、携帯電話のメールをやめるように注意したのが発端だった。
優先席ということで、携帯電話使用禁止のステッカーが貼ってあった。
注意した男は、メールをやっている男に、「あれが、見えねえのか」と言ったところ、それを無視してメールを続けた。
そこへ、注意をした男が、相手の顔面にパンチを食らわせたことから、相手も怒って、すぐに殴り合いの喧嘩に発展し、車内は騒然となった。

先制攻撃を仕掛けたはずの男は、顔面から流血、相手の男も返り血を浴びるほどの惨事だったそうだ。
二人とも、全治1週間のケガを負ったわけだが、おまけに警察官に現行犯逮捕された。
 「注意を無視されて、腹が立った男」と、「注意の仕方が、気に食わなかったという男」の、二人の演じた“子供の喧嘩”だった・・・というから、あきれた話である。

それにしても、優先席でのメール禁止は当たり前のことだし、もしその席にペースメーカーを使用中のお年寄りが座っていたらどうだろう。
相手の男に、メールをやめてくれるよう注意を促すことが出来るだろうか。
また、近くにいる人が注意したり、喧嘩騒ぎを止めに入ることが出来るだろうか。
人は、そんなときいつも(?)傍観者なのである。
もし、そこに自分が居合わせたらどうだろうか。
即座に、正しい(!?)行動が取れるだろうか。

携帯のトラブルは、ほかにも、車内でメールを打っていた男の腕が、隣の男性の身体に接触したことから傷害事件も起きたし、バスの車内で注意した男が、逆上した男に暴行を受けたり、エリート証券会社員の男が、座席に座っている若い女性のスカート内を携帯電話で盗撮して捕まったり、枚挙にいとまがない。

携帯のマナーの悪さは、なにも今に始まったことではない。
文明の利器も、使い方ひとつで大きな事件に発展する。
いつ当事者になり、いつその場に居合わせて傍観者になるかわからない。

授業中のメールの送受信や、有害サイトへのアクセスを憂慮して、小学校や中学校では、携帯電話の持ち込み禁止を決めたところもある。
当然のことだろう。
携帯のT.P.Oを、大人も子供も忘れないことだ。
マナーを守れないなら、携帯など持つべきではないと思います。


映画「秋深き」―浪速の恋の純情物語―

2008-12-26 16:00:00 | 映画

・・・うちのこと、幸せにしてくれて、ほんとにありがとう。
織田作之助の原作にもとずいて、池田敏春監督が、ほんわかとした心温まる映画を創った。
可笑しくて、滑稽で、悲しくて・・・。

人と人との結びつきが希薄になって、孤独と隣り合わせに生きる日々・・・。
‘愛’とか‘友情’が、心から求められている今の時代・・・。
一途に愛を貫く、真面目で平凡な男と、拭いきれない過去を引きずりながらも、ありったけの母性で男の愛を受け止める女の、可笑しくも悲しいまでの一編のラブ・ストーリーである。

不器用な生き方しか出来ない男は、世の中に大勢いる。
ここに奏でられる恋物語は、人生の切なさ、日々の営みの尊さも、人情のあたたかさも、そしてとどのつまり愛なくしては生きられない人間の‘性’を、優しく示しているようだ。

中学校の教師寺田悟(八嶋智人)は、仏具展を営む実家で両親と暮らしている。
見合い話には目もくれず、今夜も北新地のクラブへいそいそと出かけていく。
店のホステス川尻一代(佐藤江梨子)に、思いを寄せているのだ。
一代の方は、酒も飲めないのに足しげく通ってくる寺田に、まんざらでもない様子だ。

ある夜、寺田は、店を終えて帰る一代を待ち伏せる。
帰り際に、客の男に執拗に迫られている一代を助けることすら出来ず、彼女から責められる寺田だったが、意を決して一代にプロポーズする。
一代は、寺田の申し出を受け入れた。

家を飛び出した寺田と、孤独を恐れ、幸せを夢見る一代の新婚生活が始まった。
二人の幸せな愛の日々が続くが、生活を重ねていくうちに、一代の過去の男性遍歴が見えてくる。
寺田は、一代が留守のおり、彼女に届いた葉書を何気なく見てしまう。
それは、知らない男からの逢引の誘いをにおわせる文面だったが・・・。
そして・・・、妻の一代が乳がんに冒されていると告白されたのは、それから間もなくのことだった。

森繁久弥と淡島千景のコンビで、映画化された名作「夫婦善哉」で華々しく文壇に登場した、昭和の文豪織田作之助の短編をもとに、失われつつある浪速の厚い人情の世界を再現して見せた。
大阪の男と女のけったいな関係を、池田敏春監督秋深きは、純情物語として描いたものだが、昭和の名作を現代の大阪によみがえらせた、ほんまにええ話だと言いはりますが、さてどんなものですか。


映画「パリ、恋人たちの2日間」―愛すべきラブ・ストーリー―

2008-12-24 15:00:00 | 映画
恋人たちの都・パリで過ごす2日間・・・。
15歳にして、ゴダール監督作品でデビューした演技派女優といえば、ジュリー・デルピーだ。
そのジュリー・デルピーが監督、脚本、主演、音楽、編集を手がけた、フランス映画の会心作(?)だ。
独創的で大胆な脚本、それでいて大笑いする面白さに溢れている。

フランス人写真家マリオン(ジュリー・デルピー)と、アメリカ人インテリアデザイナー、ジャック(アダム・ゴールドバーグ)は、付き合って2年になるニューヨーク在住のカップルだ。
ヴェネチアでのヴァカンスの後、ニューヨークへ戻る途中、マリオンの故郷パリで2日間を過ごすことになった。

この街で過ごす2日間に期待をかける2人だが、何やら雲行きが怪しい。
英語が全く話せないマリオンの母親や、次々に出くわす彼女の過去のボーイフレンドたち・・・。
別れた後は、二度ともとの彼女には会わないタイプのジャックは、もとカレと親しげに振舞う、マリオンの姿に戸惑いをかくせない。
嫉妬心と猜疑心にさいなまれた、彼のイライラは募るばかりで、二人の関係もギクシャクしはじめていた。
異国の地で、ジャックのストレスは最高潮に達する。マリオンの両親に会ったジャックは、そのあまりの自由奔放さに圧倒され、カルチャーショックを受ける。

安泰に見えたカップルに、突然訪れる別れの危機・・・。
長年付き合っていても、相手のことをすべて知りつくし理解しているとは限らない。
ひょんなことで知った愛する彼女、或いは彼氏の新たな一面に恐怖心を抱くことはあるが、果たして自分もありのままの姿を相手に見せているだろうか。
相手を愛すれば愛するほど、さらけ出すのが怖くなるのが、本当の自分なのだから・・・。

この作品は、なかなかチャーミングでユーモラスだ。
登場人物たちの、軽快なテンポある会話も大胆かつユニークだ。
なかでも、喜怒哀楽の激しいリベラルなフランス人女性マリオンと、皮肉屋でネガティブなアメリカ人ボーイフレンド、ジャックとのかけ合いは面白おかしい。
コミカルでリアリティに富んだ脚本も、ジュリー・デルピー自身が手がけているし、オリジナルなセンスも一杯だ。
しかも、そもそもジャック役のアダム・ゴルドバーグは、ジュリーの本当の元カレだそうだ。
これは、まさにリアルな配役ではないか。
よくまあ、元カレを映画のなかに自分の恋人に選んだものだ。
思わず、ふ~むとうなってしまった。
映画のなかでは、自己中心的で、あまりいかさない男に見えるジャックだが・・・。
彼は、髭もじゃのルックスで、神経質な男をひょうひょうと演じている。
‘大人の恋’は、甘いだけじゃない。

それから、マリオンの父親役は、ジュリーの実父でベテラン俳優のアルベール・デルピー、天真爛漫なキャラクターのマリオンの母親のアンナ役にジュリーの実母で女優のマリー・ピレといった、二人の両親を出演させているいるのも、面白いキャスティングだ。

パリジェンヌのマリオンはリラックスして、もともとのパリっ子になり、ジャックは異国の地でより窮屈になるというわけだ。
フランス人とアメリカ人、その‘誤差’がパリの街に妙な笑いの増幅をもたらす。
台詞はなかなかリアリティがあって、一部卑猥な会話の応酬もあったりするが、すべて明るく笑い飛ばされる。

言ってしまえば、このフランス映画 「パリ、恋人たちの2日間は、どう見てもジュリー・デルピーのワンマン映画だ。
テンポのよさもいいが、時にけたたましいほどの会話の応酬は、滑稽と諧謔に満ちているが、かなり騒々しい。
男女の性について、その自由を謳歌するフランス人と、意外にピューリタンなアメリカ人の、ナショナリティ(国民性)の違いをこの作品に見ることができて、軽やかなコメディに見えても、奥はなかなか深そうである。

映画「モンテーニュ通りのカフェ」―人生にエスプレッソを―

2008-12-22 13:00:00 | 映画

ダニエル・トンプソン監督の、少々粋なフランス映画だ。
パリ8区のモンテーニュ通りというと、パリのありとあらゆるエスプリで美しく彩られた場所だ。
あのエッフェル塔のよく見える、街の一角に息づく人たちの、どこか切なさとほろ苦さを感じさせるドラマだ。
モンテーニュ通り・・・・、そこは出会いと別れの交差するところでもある。

その通りに、劇場、オークションハウス、メゾン、由緒あるカフェなどが立ち並ぶ。
そのカフェに集うのは、世界的なピアニスト(アルベール・デュポンデル)や、初老の美術収集家(クロード・ブラッスール)、そして有名女優(ヴァレリー・ルメルシエ)や劇場の管理人など・・・。
様々な思いを持った人々の人生が、通りの一角に実在する。

祖母がかってあこがれた街、パリ・・・。
そのパリへ、ジェシカ(セシール・ド・フランス)はやって来て、カフェの“ギャルソン”となる。
彼女は、蝶のように軽やかに飛び交い、そこに集い来る人々の人生を一緒に奏でていくのだった。

人生の成功者である人々の一見華やかな外見と、その心の底にある焦燥感や不全感、彼らがやがて得る愛に溢れた人生が、きらびやかなパリの風景と人間の日常が映す普遍と融合した、人間讃歌のドラマを誕生させた。

カフェで交差するそれぞれの人生を描きつつ、詩情豊かなパリの一面を覗かせる。
ジェシカは、そんな憧れの人々の素顔に触れて、自らの人生に心躍らせるのだ。
登場する人物同士に相関関係はなく、それぞれに独立した物語があって、それがセーヌの流れるパリの街、モンテーニュ通りのキャンバスの上に展開するという構図なのだ。

ドラマティックな人生のあるがままを、暖かで品のあるユーモアに包み込み、愛情に溢れたドラマに昇華させようとした努力が見える。
いまここにあるものが見えず、遠くにあるものに思いをはせることで生まれる苦悩・・・。
登場人物たちの抱えた、切ない想いが伝わってくる。
コンサートの会場で、ピアノを弾きながら自分の胸に去来する想いに熱くなるジャン・フランソワ、初日の舞台を迎えようとしている女優カトリーヌ、思い出の彫像に思いを凝らすグランベール、彼らの人生が緩やかに幕を開け、ほろ苦い余韻と共に幕を下ろすのだ。
しかし、彼らの幸せに満ちたエンディングに向けて・・・。

人それぞれの人物描写もなかなかだが、さりげない対話の数々が、会話劇としても際立っている。
コンサート会場でフランソワ(アルベール・デュポンデル)が、演奏中に突然暑いからと脱いだ上着をステージに投げ出し、演奏が中断するハプニングなどは、思わず笑いを誘う場面だ。

ドラマの中で、父親と向き合うことが出来ずに悩む、グランベールの息子フレデリックを演じるクリストファー・トンプソンの実の母は、この映画の監督ダニエル・トンプソンなのだ。
しかも、この二人の共同脚本というのも興味深い。
フランス映画 「モンテーニュ通りのカフェは、パリの空の下で暮らす人たちの、悲喜こもごもの人生模様が楽しい。
作品自体、これといって派手さはない。
東京国際女性映画祭、フランス映画祭横浜などでも、好評を博した作品である。。


映画「地球が静止する日」―それは、人類滅亡の日―

2008-12-20 20:00:00 | 映画

娯楽映画としてのスケールは大きい。
スコット・デリクソン監督アメリカ映画である。

映画は、人間と自然の関係を映す鏡となって、人類という種や他の種が生存するために、人類が地球での生き方を考えなおすように求めている。
作品の中で、“チェンジ (Change)”という言葉が繰り返し宇宙人から発せられるのも、このことを強調しているのだろう。

突如、巨大な光る球体が出現する。
全てが謎に包まれたまま、宇宙からの使者クラトゥ(キアヌ・リーブス)は、地上に降り立った。
その時、科学者ヘレン(ジェニファー・コネリー)は、この非常事態の危機対策ティームに強制的に召集される。
ヘレンは、のちに息子と共にクラトゥの任務に巻き込まれていくとは知るよしもなかった。
政府は、軍を出動させ、厳戒態勢を敷いた。
街という街は、異様なまでに静まり返っていた。

やがて、ヘレンはクラトゥから衝撃の事実を聞かされる。
彼の使命とは、“地球を救うこと”だったが、その唯一の手段が、“人類を滅亡させること”だと言うのだ。
クラトゥの警告を聞いたヘレンは、彼こそが人類滅亡の鍵を握ると確信し、必死の説得を試みる。

しかし、崩壊へのカウント・ダウンは始まっていた。
人類が滅亡すれば、地球が生き残れるとは・・・。
クラトゥは、へレンらと行動することで、人類の別の側面を知っていくことになる。
だが、脅威の攻撃はすでに始まっていた。
現代のテクノロジーをはるかに超える破壊力が、地上のあらゆるものを溶かし去り、ついに人類は抵抗する術を失なってしまうのだ。

それを止められるのは、宇宙人クラトゥだけなのか。
人類の罪深い本質を見抜いたクラトゥの意志は、揺るぎそうになかった。
彼は、その使命を全うし、“地球を救うために”人類の滅亡を完全実行するのか。
それとも、人類は彼の“心”を動かすことができるのか。

怒涛のような、息をもつかせぬアクションが続く。
このエンターテイメントはダイナミックだが、そうした特殊撮影技術をとことん見せつけながら、よく分からない部分もある。
宇宙人クラトゥは、地球へ何のためにやって来たのか。
それは、人類に対する様々な“警告”のためだったのだろうが、そのために地球規模の破壊が何故必要だったのか。
1951年のSF映画「地球の静止する日」のリメイク版だそうだが、今回の作品は、撮影もリアリズムを追及し、視覚効果はさすがだ。

ここで描かれるクラトゥは、人類に対する絶望を抱いていて、冷徹な眼で地球の営みを見つめ、破壊を繰り返す人間の愚かな本質を悲観し、存在意識そのものに「NO」を突きつけたのだが・・・。
宇宙人クラトゥが示唆する、人類の“罪”とは一体何なのか。
勿論、環境問題とか戦争とか、様々なことが連想される。
でもそれは、劇中では明示されず、すべては観客に委ねられている。

クラトゥは異星人なのに、人間の姿で登場し、人間の言葉を語っている。
この種の映画は、科学的な論拠や証明を求めたら矛盾だらけで、当然無理もある。
それを言い出したらきりがない。
アメリカ映画「地球が静止する日は、そう思って、午後の紅茶でも啜りながら観る作品だ。


ただいま、新顔急増中!!―ああ、家なき子―

2008-12-18 21:00:00 | 雑感

木枯らしの吹きすさぶ街頭に立って、ホームレスの男は、今日も声をからして、雑誌「ビッグイシュー」を売っていた。
ホームレスの売る300円の雑誌だ。売り上げの一部160円が、彼らの収入になる。
貴重な生活費である。

古顔の東京ホームレスが、こんなことを言っていた。
 「この頃、新顔がやけに増えたよ。若いのがね。やっぱり、リストラのせいだろうよ」
とくに驚くことでもない。
予想されたことだからだ。
これから、年末、新年にかけて、寒風のなかにさまよう人たちはますます増えることだろう。

会社を解雇されて、働く当てもなく生活が出来ないからと、コンビニに強盗に入った若者もいた。
治安だって心配だ。
先行きは、見通しもたたない。
そんな中で、大分県杵築市は、地元の「大分キャノン」などで解雇される請負社員1200人を、臨時職員として雇用することを決めた。
たとえ短期雇用でも、解雇された非正規社員を、自治体が直接雇用するのだ。
こんな例はあまりない。よく思い切ったものだ。

また国東市も、社員寮を追われた失業者に、一般市民向けの保養施設など、市の宿泊施設を無償で提供するとともに、市営住宅を半額で貸し出すことを決めたという。
市営住宅の家賃は数千円だそうだ。
これも、ささやかな朗報だ。

不景気を口実に、簡単にクビを切る経営者もいれば、財政の厳しい地方都市が、税金で、困っている人たちを救済しようという動きもあるのだ。
小規模な自治体にとっては、これだってかなりの支出になる。
それでも、少しでも解雇された人の手助けになればという心意気を、他の自治体も学んではどうか。
神奈川県でも、県営団地の入居などについて、前向きに検討を始めている。
これこそ急ぐことである。

それにしても、派遣社員を次々に解雇する、大企業の実体は聞いていてあきれる。
キャノンは、3兆円もの内部留保があり、大分の職場を解雇される1200人の社員1人あたりの年収300万円と見て、必要額は0.1%程度、計算すると、何とこれだけの金があれば、850年間も雇えるのだ!
キャノンの御手洗会長は、2億円以上の年収があると言われ、いまや財界の「総理」と呼ばれ、経団連の会長様だ。
この企業は、違法な偽装請負までやって、労働者を安価で使い、それがバレそうになって、「派遣法」を変えることまで主張したらしい。(本当なら、大分悪ですね。)
労働者がまともに聞いたら、許される話ではないだろう。

こうした話は、大企業ほどひどい。
内部留保を知って驚く。(以下、括弧の中の数字は報道された内部留保の額)
期間従業員、派遣社員のリストラを決めた大手は、トヨタ(12兆6600億円)、ホンダ(5兆3600億円)、日産(2兆8200億円)、ソニー(2兆800億円)、シャープ(8000億円)、コマツ(7900億円)、東芝(7100億円)など、これらの企業はこの内部留保の他に、数千億円からの現金や定額預金があり、役員報酬ときたら、最低5000万円から、最高3億5000万円を下らないと言われる。
片や、年収300万円の派遣社員は、住む家まで追われているのだ。
余裕のある会社ほど、早めにリストラに動いている。
非正規社員を、まともな人間として見ていないのではないか。
この世の中、矛盾だらけだ。

いろいろ問題の多い「派遣法」は、廃止も含めて、思い切った見直しが必要ではないか。
劣悪な条件で、仕事を提供する、それでも働かざるを得ない人たちに対する、何の保証もない悪法ではないのか。

これは余談ですが、麻生総理に410万円の賞与が支給されたそうだ。
国会議員にも、概ね330万円が支給されたそうだ。
一口に400万円と言うが、一般市民の年収と言える額が税金でまかなわれているわけだ。
民間企業のリストラに怯える労働者は巷に溢れ、いま、ホームレスが急増しつつある。
そんな時に、政治家は一体何をしているのですか。
国民のために、どんなことをしてくれたのですか。
何もしていないのに等しいのではないですか。
これでは、とても内閣の支持率など上がろうはずがありません。
経営者も政治家も、拝金主義者の多い世の中になりました・・・。(嘆息)

現在神奈川県の財政も、大変厳しい状況におかれているようです。
かつて、平静7年から2期努めた岡崎洋知事が、年末賞与をまるまるすべて辞退したことがありましたっけ・・・。
何故ともなく(?)いま、ふと思い出してしまいました。
いや、これは余談でした。


映画「アラトリステ」―英雄、その誇りと義と愛―

2008-12-16 12:00:00 | 映画

久しぶりのスペイン映画で、歴史スペクタクル作品を観た。
17世紀初頭の、スペイン・・・。
ヨーロッパ各地で抗争が相次ぐ、激動の時代に生きた、一人の剣士の物語だ。

黄金時代の帝国スペインが没落していく、歴史のうねりを背景に、スペインの映画界が、史上最高の制作費を投じて完成させたと言われるだけあって、なかなかの大作である。

この映画の物語の背景には、スペインとオランダの八十年戦争というのがあって、それはひとことで言えば、貴族と平民の戦いだったと言われる。
さらには、スペインはカトリックの国で、プロテスタントを異端として蔑視していた。
加えて、ユダヤ人を蔑視する傾向も強く、よく言われる異端審問所は、改宗ユダヤ人や、その子孫までも断罪しようとしていたのだった。
映画の中に、異端審問所の追及に怯える人物が登場するが、当時は、何代か前の先祖にユダヤ人がいるというだけで、過酷な拷問の果てに、最悪の火炙りという時代でもあった。

1622年、フランドルの夜襲で、獅子奮迅の戦いをみせた剣士アラトリステ(ヴィゴ・モーテンセンのもとに、戦友の息子イニゴ(ウナクス・ウガルデ)は身を寄せて、従者となった。
イニゴは剣士に憧れていた。

ある時、アラトリステのもとに、二人のイングランド貴族を暗殺せよとの依頼があった。
だが、彼は腑に落ちないものを感じ、暗殺を中止した。
この事件の裏には、プロテスタントを恨む、異端審問所の陰謀が隠されていたのだった・・・。

一方、イニゴは街角で一人の美少女アンヘリカ(エレナ・アナヤ)と出会い、恋に落ちる。
・・・軍務を終えたアラトリステも、自分のかつての恋人マリア(アリアドナ・ヒル)と再会する。
マリアには夫がいたが、その生命がもう長くないことを告げ、彼と所帯を持ちたいと希望を語る。
イニゴとアンヘリカの仲は深まり、アンヘリカは王妃の気に入りとなって、イニゴに出世コースを紹介しようとする。
しかし、イニゴはしがらみを捨てて、彼女とともにスペインを出ることを望んでいた。
二人の思いはすれ違い、一方アラトリステの前にはサルダーニャ警部補が現れ、マリアから手を引くよう警告する。
何と、マリアは国王から見初められていたのだ。

時を同じくして、アンヘリカには伯爵との結婚話まで持ち上がり、彼女はイニゴとともにナポリへ逃げる約束をするが、貴族社会への憧れが邪魔をして、約束は果たされずに終わった。
・・・こうして、アラトリステとマリア、イニゴとアンヘリカ、二つの恋は悲しい結末を迎える。

時は流れ、1643年フランス軍と対峙したスペイン軍は大敗し、降伏を勧告される。
だが、アラトリステらは、スペイン兵としての誇りと共に散ることを選び、ついに最後の戦闘が始まる・・・。

スペインの鬼才アグスティン・ディアス・ヤネス監督は、主人公に「ロード・オブ・ザ・リング」のアメリカ人俳優ヴィゴ・モーテンセンを選んだ。
このキャスティングは、適役だろう。
無骨にして高潔、その上ロマンティックさを持ち合わせている、複雑な人格の剣士の役どころだ。
全編、スペイン語である。

時代考証は、実に緻密だ。
華麗な美術や衣装を、見事なまでにふんだんに配して、濃密な映像世界を紡ぎ上げている。
どうもこの作品を観ていると、黒澤明監督が思われてならない。
アグスティン監督が、17世紀の歴史と美術の専門家だからだろうか。
この時代の世情を巧みにドラマに織り込んで、厚みのある作品に仕上げている。
その絵画的な色彩や構図、アクションシーンのたたみかけるようなスピード感も、望遠レンズを多用した幻想的なカメラワークも、風や雨や霧などの気象状況を巧みに取り入れて盛り上げる手法も、何から何まで黒澤的なのだ。
これは、驚きであった。

スペイン映画 「アラトリステは、実在の歴史に架空の英雄を登場させた、冒険心に満ちたドラマの意欲作である。
全編に流れる音楽はよかったが、冒頭の夜襲のシーンの長いことや、終幕のあっけなさが気にならないことはない。
それから、当然、殺し合いのシーンの多いのも閉口だが、こうした作品ではやむをえないと言うべきか。


映画「地上5センチの恋心」―ファンタジックなラブ・コメディ―

2008-12-14 12:00:00 | 映画
平凡な人生を送っている、普通の主婦がいた。
すべてを手に入れているのに、幸せを感じられない人気作家がいた。
この二人を結びつけたのは、一通のファンレターだった。

エリック=エマニュエル・シュミット監督のフランス映画だ。
ありきたりの日常をバラ色に変えて、ミーハー心をときめかせる、夢みる幸せドラマだ。
はじめて公開されたのは、大分前のようだ。

ささやかな生活を送っているオデット(カトリーヌ・フロ)にとって、何よりの幸せと言えば、お気に入りのロマンス作家バルタザール(アルベール・デュポンデル)の本を読むことであった。
たとえ空想上であっても、それが彼女の恋する気持ちなのだった。
彼こそが、心の恋人だから・・・。
そんな憧れの人物が、現実に自分の前に現れたらどうなるか。

オデットは、バルタザールのサイン会に、とびきりのおしゃれをして会場に向かった。
そこで、彼女は、彼にファンレターを渡した・・・。

この頃、作家のバルタザールは、どこか満たされない生活を送っていて、妻とも不仲の関係にあった。
人気作家は自殺まで図ったが、一命をとりとめた。
そんな中に届いた、オデットからの一通のファンレターが二人を引き合わせる。
オデットからのレターを読んだ彼は、突然彼女のところを訪れる・・・。

でも、数年前に夫を失い、二人の子供の母親でもあるオデットにとって、バルタザールは恋愛の対象ではなく、あくまでも‘憧れ’の対象であってほしかった。
自分の痛める心を癒してくれるのは、オデットだと思い込むバルタザールは、彼女に恋を告白するが、それを知った彼女は逆に彼と距離を置くようになるのだった。
バルタザールは、彼女の家に押しかけ、共に生活するようになって、気持ちの上では強く惹かれあう二人だった。
しかし、オデットの心は、バルタザールへの‘憧れ’の域を出ることはなかったのだ。
オデットから、「あなたは、‘運命の人’ではない」と言われて、バルタザールは彼女のもとを去っていく。
オデットとバルタザールの奇妙な生活は、このまま終わってしまうかと見えたのだったが・・・。

これは、ファンタジックな大人のラブ・コメディだ。
小説の世界にひたって、幸せを感じ、作者が現れ、もっと幸せとハッピーな気分が高揚する。
そのことが、作品の中では、地上5センチをふわふわと浮遊するという形で、キュートな表現となる。
勿論、二人の間にはハッピーだけでは割り切れない、複雑な心理も生まれたりする。
オデットは、やっぱり何歳になっても、夢みる‘大人の少女’なのだ。
ヒロインは、何かあれば、すぐにジョセフィン・ベーカーの歌を口ずさみながら、踊りだし、いつでも地上から少し浮いているような女性なのだ。

フランス映画の、洒落た小粋な会話とセンスが行きとどいた(?)、明るく楽しめる作品にはなっている。
いつになっても、ミーハーな夢みる女の子でいたい。
女性の心には、そうした想いが枯れずにあって、いつまでも若くありたいと願っている。
よいことは楽しみ、悪いことは軽く受け流して、やさしく、温かく、しかし真直ぐに現実を見つめていく。
幸せは自分でつかむもの、自分が幸せなら、他人が何と言おうと気にしない。

このフランス映画「地上5センチの恋心は、大それたテーマを掲げているわけではなく、何となく、子供だましのような、他愛のない作品で、イイ元気がもらえそうな、まあ少し浮き浮きした話も悪い気はしないかも・・・。

沈みゆくドロ船―嵐の予感―

2008-12-12 18:00:00 | 雑感

麻生内閣の支持率が、ぎりぎりの20%台まで急落した。
驕れるものは、久しからず。
もはや、終章ではないか。
支持率の見事な急落は、安部、福田内閣をも上回っている。
最悪である。

相次ぐ政策のぶれや失言で、政権崩壊は秒読み段階に入った。
それでも、首相をやっているのか。
一体何故?どうして?

選挙も出来ない。
景気対策もない。
自民党からだって、相手にされなくなっている。
どうなるのか。

解散する力さえ、麻生総理にはないのか。
「無能」「迷走」「失言」の文字が、連日のように飛び交っている。
無茶苦茶内閣の下手なマンガ芝居も、もう終わりだ。
先日も「景気の低迷(ていまい)」と読み間違えて、野党のヤジが飛ぶと、「野党の皆さんも、、もうちっとレベルの高い(たけえ)ヤジを」と混ぜ返して、周囲の失笑を買った。

バラ撒き給付金、道路特定財源など、重要政策は迷走の連続だ。
漢字が読めず、しかしプライドは一流だ。
百年に一度の危機に、何をやりたいのかが見えてこない。
こんな政権では、国民は皆殺しにされるのを待っているようなものです。
今度の不況は未曾有のことだから、待ったなしの時間とのたたかいだ。

まさかとは思うが、来年の9月まで、このまま居座りなんていうことはないでしょうね。
いまや麻生総理は、身動きの取れないレームダックだ。
何も出来ない。

このドロ船は、進むことも出来ない。
降りるに降りられず、にっちもさっちもいかない。
このまま、間違いなく沈む。

自民党は、この際脱党を目論むものや、新党結成に走るもの、それを阻止しようとやっきになっている幹部、党利党略ならぬ個利個略で右往左往の、バケツをひっくり返したような大騒ぎだ。
ここに及んで、沈むことの分かってきた自民党の議員の中には、このボロ船から降りようとする議員も出てきた。
降りるなら、急いで降りないと危ない。
だから、水面下であれやこれやの引っ張り合戦や、自民分断作戦が起きているらしい。
どんな仕掛けが用意されているのか。
何が起きるか、全く予断を許さない。

驚くのは、小泉元総理の暫定首相説まで飛び出したことだ。
まさか・・・?(まさか、という坂もあるそうだが)
自民党の中には、人材がいないということか。
そんなことで、選挙が勝てるほど甘くないだろう。
なりふり構っていられないということか。
日本をぶっ壊したA級戦犯は、どなたですか?
果たして、国民が許すだろうか。

たばこ税増税、消費税増税もダメになった。
やることなすことすべてダメなのだ。
与党からも見放されて、麻生総理は死に体化が加速している。
完全に末期症状だ。
半世紀の長きに渡って、良くも悪くも国家に君臨してきた自民政権が、いよいよ『その時』を迎えようとしている。

とにかく、このままでは、内閣の「退陣水域」と言われる、支持率10%台突入はもう目前である。
百年に一度の危機に、麻生総理も自民党も手をこまねいていていいのか。
何をしているのだ?
倒閣運動は?
四分五裂、支離滅裂な無能政権下の政情は、一気に緊迫してきた。
永田町冬の陣は、風雲急を告げている!
嵐よ、吹くなら吹け。早く吹け。