徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「しあわせへのまわり道」―新しい挑戦に決して遅すぎることはない―

2015-08-31 16:30:00 | 映画


 2002年に雑誌「ニューシカゴ」に掲載された、キャサ・ポリットの実体験にもとずくエッセイが原作だ。
「 エレジー」(08年)イサベル・コイシェ監督が、独自のアレンジを加えて映画化した。

 陽光きらめくニューヨークを舞台に、突如結婚生活が破綻した女性の哀歓を、飾りたてることなく描き出している。
 一旦は道標を見失ってしまったひとりの女性が、幾多のまわり道を経て、再び自分らしさを取り戻す姿に、くすぐられるような共感を覚える。
 人はいつだって新しいことに挑戦できる。
 そしてそれはまた人生の再出発でもある。









マンハッタンのアッパー・ウエストサイドで暮らす、売れっ子書評家ウェンディ(パトリシア・クラークソン)の順風満帆の人生は、あっけなく崩壊した。

長年連れ添った夫テッド(ジェイク・ウェバー)が、隙間風の吹く結婚生活に見切りをつけ、浮気相手のもとへと去ってしまったのだ。
ウェンディは、それでも夫との復縁の可能性を信じようとしたが、彼の浮気相手がこともあろうに自分のお気に入りの人気作家だと知って、ショックは隠せない。

ウェンディはそんなどん底の悲しみを味わっていたが、自分が車を運転できないという現実に直面し、インド人タクシー運転手ダルワーン(ベン・キングズレー)のレッスンを受けることにした。
ダルワーンは伝統を重んじる堅物の男性で、ウェンディとは宗教も文化も階級も対照的だったが、過去の思い出にしがみついていてばかりいられなくなった。
ウェンディは心の針路を変え、未来に踏み出す勇気を与えられて・・・。

ありのままの自分と向き合って、再びまっさらな自分に戻る。
まわり道のその先は、きっと“しあわせ”が待っているだろう。
そう信じるヒロインは、言葉や民族の違いを乗り越えて、車の運転のレッスンを受ける。
彼女は自分で車を運転できるようになる。
年を取ってから、新しい一歩を踏み出すのはためらわれる。
でも、否が応でも踏み出さざるを得なかったのだ。
主人公にとって、車の免許を取るために運転のレッスンを受けることは、自分の人生の運転の仕方を再発見していくようなものだった。

パトリシア・クラークソンベン・キングズレーの演じる役は、ともに切実な状況を抱えている。
ウェンディは離婚、ダルワーンの方は進められて同郷の女性と結婚するが、新生活とは程遠い。
そんな男と女が徐々に知り合って、学び合うのだが、俗っぽい大人の男女の話にはならない。
そこがこの映画のよいところだ。
イサベル・コイシェ監督アメリカ映画「しあわせのまわり道」は、決してドラマティックな作品ではない。
ハートフルで爽快な後味を残す小品だ。
人生の本質を運転教習で学ぶと言ってしまったら、ちょっと大げさかも知れないが、この作品には、オスカー俳優ベン・キングズレーの知的な存在感と、名女優パトリシア・クラークソンのコンビによる、新鮮な話の設定のもと、絶妙なセリフと掛け合いにも、役者としての品とユーモアのセンスが生きている。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回はイラク・トルコ合作映画「サイの季節」を取り上げます。


映画「アリスのままで」―聡明な女性が時とともに忘却の彼方に壊れていく―

2015-08-28 09:00:00 | 映画


 ・・・やがて、私はすべてを忘れる。
 けれども愛した日々は、決して消えることはない。
 もし人が、全ての記憶を失う若年性アルツハイマー病を宣告されたら、どうするだろうか。
 避けられない運命と闘う、一女性の目線を通して、家族の葛藤と絆を丁寧に描いている。

 世界各国で25の言語に翻訳されたリサ・ジェノヴァの作品を、リチヤード・グラッツアー、ウォッシュウ・ウェストモアランド共同監督が映画化した。
 本作で、ジュリアン・ムーアアカデミー賞主演女優賞した。
 また、グラッツアー自身もALS(筋萎縮性側牽索硬化症)と闘病中の身で、本編のリアルな病気のヒロインの心境に細やかに分け入った。
 そのグラッツアーは、映画完成後に亡くなった。



高名な言語学者で、ニューヨークのコロンビア大学で教鞭をとるアリス(ジュリアン・ムーア)は、50歳になったその日、最高の誕生日を迎えた。
夫のジョン(アレック・ボールドウィン)は変わらぬ愛情にあふれ、法科大学を卒業した長女アナ(ケイト・ボスワースと、医学院生の長男トム(ハンター・パリッシュ)にも、何の不安もなかった。
ただ唯一の心配は、ロサンゼルスで女優を目指す次女リディア(クリステン・スチュワート)のことだけだった。

ところが、そんなアリスにまさかの異変が生じる。
ある日の講演中に、突然言葉が頭から抜け落ちだのだ。
そして、彼女は頻繁に物忘れを起こすようになって、診察を受けた結果若年性アルツハイマー病だと宣告されたのだ。
しかもそれは、子供たちに50%の確率で遺伝をしてしまう、家族性のアルツハイマーだというのだ。
アリスの家族に突きつけられた、苦難と衝撃は大きかった。
アリスは気丈に闘うが、いまの医学では記憶を失うことは止められない。
・・・アリスが、自分の持っているすべての記憶を失くす日は、確実に近づいていた・・・。

アリスはパソコンに自分の残した映像を発見し、かつての自分から自分への、いつまでも“自分でいるための”メッセージを発するのだが・・・。
過去の自分と現在の自分とはつながらない。
あれよとあれよという間に記憶は遠ざかり、どんどん忘れられていく。

確かに、自分の名前すら思い出せなくなっても、主人公の生きた証は決して消えることはない。
人生に何が待っているのか、誰にも予測などできはしない。
それでも、アメリカ映画「アリスのままで」は、瞬間瞬間を精いっぱいに生きることの尊さを、尊厳を伝えてくれる作品だ。
50歳になるヒロインが、自分のままでいられる最後の夏を描いて、ここでは人生の悲惨と無情を感じさせる。

ジュリアン・ムーアは演技派女優としてもトップクラスだが、日々記憶を失くしながらも最後まで懸命に闘おうとする姿を、真正面から怯むことなく演じきった。
心を打つ演技力は特筆すべきだろう。
ジュリアン・ムーアはこの作品でアカデミー賞をはじめ、ゴールデン・グローブ賞、英国アカデミー賞に加え、いままでの3大映画祭女優賞受賞のキャリアによって、女優史上初となる世界主要6代映画祭(主演女優賞)制覇という快挙を成し遂げた。
女優賞総なめというのも大変なことだ。なかなかできることではない。
この映画は重いテーマを扱った作品だが、中高年層の女性にかなり人気が高いようだ。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「彼は秘密の女ともだち」―驚きと戸惑いとやがて共感の果てに―

2015-08-26 17:00:00 | 映画


 どこかかなしく、ほろ苦く、少し可笑しい、洒落たコメディが誕生した。
 「8人の女たち」(2007年)「危険なプロット」(2012年)「17歳」(2013年)など、次々と話題作を世に送り出すフランスの才人フランソワ・オゾン監督の、“女たち”の物語である。

 平凡な主婦が、「特別な女ともだち」との出会いを通して、本当の自分らしい生き方を見出していく。
 そ うなのだ。
 親友の夫の、秘められた実像を知ってしまったら・・・。
 これ、なかなか味のある面白い作品ではないだろうか。










親友のローラ(イジルド・ル・ベスコ)を亡くし、クレール(アナイス・ドゥムースティエ)は悲しみに暮れていた。
残された夫のダヴィッド(ロマン・デュリス)と、まだ生まれて間もない娘のリュシーを守るという約束をしたクレールは、二人の様子を見るために家を訪ねる。
するとそこには、何と、亡きローラの服を着て娘をあやしているダヴィッドの姿があった。
妻の死を機に、ダヴィッドは女として装う楽しみを追求し始めたのだ。

はじめは、ダヴィッドから「女性の服を着たい」と打ち明けられ、驚き、戸惑うクレールだったが、やがて彼を「ヴィルジニア」と名付け、絆を深めていく。
クレール自身も夫ジル(ラファエル・ペルソナ)に嘘をつきながら、ヴィルジニアとの密会を繰り返すうちに、それに従って地味だったクレールもつられるように美しく開花し、女性として一段と成長していく・・・。

人間関係それ自体は極めて微笑ましいが、どこか危うい恋愛の香りも漂わせて、女に変装した男だから少しややこしい。
しかし、ロマンデュリスアナイス・ドゥムースティエが、観客を引っ張っていく。
内気だった女性の心を開き、自らの中に眠っていた女らしさを解き放ち始める。
その女の心の進化を描いたフランス映画「彼は秘密の女ともだち」では、ダヴィッドから「女ともだち」として付き合ってくれと頼まれたクレールが、一緒になって、女としてのおしゃれやショッピングを楽しむうちに、“彼女”に強く惹かれていくのだ。

クレールの感情の変化は、観ている側と同じようにはじめは驚き、戸惑い、拒絶し、関心を持ち、妄想も生まれ、接近し、共感する。
フランソワ・オゾン監督の描く人物には血肉が通っていて、皮相的ではない。
女性願望の男を演じるデュリスは、どうもごつい感じで観客には抵抗感もあるが、次第に変貌していく様子を見るのは楽しい。
本人の心の中では、男と女のせめぎ合いもあるだろうが、デュリス自身もヴィルジニアを楽しく演じていて、何だかおかしくて笑ってしまう。
喜劇の中に感傷の漂う一作だ。

巧妙に作られたストーリーもさることながら、色とりどりのファッション、刺激的なカルチャーをふんだんに盛り込んだ作品で、ちょっとした人間讃歌だ。
余談だが、クレールの夫役のラファエル・ペルソナは、「黒いスーツを着た男」(2012年)出演していて、来日した際に「アラン・ドロンの再来!」といわれ、多くの女性たちを魅了したそうだ。
やっぱりよく似ていると思った。

映画では、ドラマの冒頭の悲痛さは物語の序盤で薄れ、ヴィルジニアという開放的な存在が、生きることの希望を生み出してくる。
ローラの生と死を描く冒頭部分は、確かに悲劇的に描かれていても、クレールとヴィルジニアの友情が育まれていくにしたがい、少しずつだが生きる歓びが戻ってくる。
ヴィルジニアとクレールは恋に落ちる。
愛にはジェンダーなど関係ないのだということを、この映画は雄弁に物語っている。
こんな映画は今まで観たこともなかったが、結構楽しませてくれる。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はアメリカ映画「アリスのままで」を取り上げます。


映画「ターナー、光に愛を求めて」―不器用で孤独な天才画家の半生―

2015-08-21 11:00:00 | 映画


 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーと聞けば、19世紀イギリスを代表する風景画家で、自由で壮大なそのロマン派の作品は有名で、のちにモネなどの印象派の画家たちにも大きな影響を与えたといわれる。
 19世紀初頭に若くして認められ、数々の傑作を世に送り続け、76歳の生涯を終えるまで英国最大の謎の人でもあったそうだ。

 ターナーは、若くして27歳でロイヤルアカデミーの正会員となって、名声を得たそうだが、その謎に満ちた私生活はヴェールに包まれており、いまここにヒューマンドラマの名手マイク・リー監督によって映画化された。
 2年間も絵画を習い、ターナーを完璧なまでにスクリーンに甦らせたのは、「ハリーポッター」シリーズでピーター・ペテグリュー役を演じた名優ティモシー・スポールだ。







リー監督
は脚本なしの即興演出で物語を作ることで知られ、リアルであることを重視するが、この作品でも監督独自の演出方法にティモシー・スポールは敢えて身を投じ、その演技は生涯に一度の大役にめぐりあったといえるほど絶妙な名演技で、ここまで見せられると、並みの伝記映画とは異なる実に豊かな味わいで、映画は最後まで飽きさせない。
2014年、カンヌ国際映画祭主演男優賞受賞している。

19世紀、イギリス・・・。
若い頃から画家として成功していたターナー(ティモシー・スポール)は、新たなインスピレーションを求めて、いつも旅を続けていた。
そんな彼を助手として支えていた父(ポール・ジェッソン)が病で亡くなると、悲しみから逃れるように訪れた港町で、自らの生き方を変える“ある再会”を果たすのだ。

・・・家政婦ハンナ(ドロシー・アトキンソン)の恨みがましい視線や、2人の娘を共に捨てた元妻の怒りに悩まされながら、港町で泊まった宿の女主人ソフィア(マリオン・ベイリー)に安らぎを見出し、夫を亡くした彼女と夫婦同然となったりもするが、自分の正体は明かさない。
人生で初めて穏やかな愛を知ったターナーだったが、その後もソフィアのもとをたびたび訪れていた彼の絵画は、次第に大胆かつ挑戦的になっていき、批評家の評価は天と地に分かれていく。
それでも憑かれたように筆をとるターナーであったが・・・

ターナーの絵の色合いは、そのまま彼自身が生きた19世紀英国になかったような色調の絵画で、荒れた海や荒れた野が再現される。
絵具を伸ばすのに唾を吐きつけ、キャンバスに出した絵具を手で混ぜたり、ターナーの奇行とも見える技法が彼の人なりと重なる。

主演のティモシー・スポールは、自信過剰、偏屈、負けず嫌いな天才を怪演し、凄まじいばかりだ。
マイク・リー監督英・仏・独合作映画「ターナー、光に愛を求めて」は、世界から批判されても、あくまでも自分のスタイルを貫き通した絵画界の巨人ターナーを、極めて人間的に描き出した。
彼の絵画と同様に光のマジックも壮麗で、観ていて吸い込まれそうになる。
美しい太陽を求め続けるターナーの絵の色調は、デジタルカメラで撮った海の夕日が沈むシーンに見られて、印象的だ。
そして、産業革命やヴィクトリア王朝を迎えた英国の華やかな時代の再現も見事で、時を越えた旅へ誘われる気分だ。
マイク・リー監督の、想像力巧みなターナーの後半生の演出にはまったく脱帽だ。
興味尽きない作品だろう。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はフランス映画「彼は秘密の女ともだち」を取り上げます。


映画「画家モリゾ、マネの描いた美女 名画に隠された秘密」ーその知られざる実話ー

2015-08-17 01:35:01 | 映画


 美術史とともに描かれる、、一人の女性の物語だ。
 19世紀半ば、フランスで起こった芸術運動「印象派」の誕生に深く関わった、女性画家ベルト・モリゾ巨匠エドゥアール・マネとの出会いを経て、一人の女性として成長していく過程が描かれる。
 ベルト・モリゾ没後120年となる今年、カロリーヌ・シャンプティエ監督による彼女の秘密に迫る作品が登場した。

 彼女には多くの謎が残されていた。
 19世紀のフランスで、どうやって画家として身を立てたのか。
 マネとの関係は?
 姉弟なのか、友人なのか。恋愛関係か。
 のちにモリゾかマネの弟と結婚したことなどが、さらなる謎を深めている。







1865年フランス・・・。

パリ6区に暮らすベルト・モリゾ(マリーヌ・デルテリム)は、サロンへの入選を目指して絵画に情熱を傾けていた。
ある日、モリゾはマネ(マリック・ジディ)と出会い、モデルを頼まれたことから彼のアトリエに出入りするようになる。
マネはモリゾの美貌と才能に惹かれ、モリゾはマネの斬新な画風に目を開かせられる。
家庭に入ることを望む両親や、マネとの複雑な関係の中で、互いの才能と刺激を受け、二人は強く求め合うようになる。
だが、妻や弟子のエヴァの存在と、マネの気まぐれで矛盾した性格に、ベルトは混乱し心を引き裂かれていく。
そんな中、ベルトは妊娠した姉を訪ねる。
姉は、結婚の虚しさを、妹はひとりで生きる寂しさを打ち明け、励まし合うのだった。

1870年、普仏戦争が始まるが、ベルトはパリにとどまり、苦しむ人々を見すえ、戦死した若き兵士を想い、憑かれたように絵を描き続ける。
翌年終戦を迎えたときには、ベルトの絵は明らかに変わっていく。
そんなベルトの新作はサロンから拒否されるが、ルノワール、モネ、ドガのグループからともに展覧会を開こうと誘われる。
それは、胸躍る新しい出発であると同時に、彼女がマネとは別の道を行くことを意味していた・・・。

パリを舞台に、ルーヴル美術館での模写や、豪華な屋敷での夜会など、当時の芸術家たちの華やかな日々が描かれる。
さらに、マネの「笛吹く少年」や「バルコニー」の制作秘話なども、見逃せないエピソードだ。
葛藤の末にベルト・モリゾは、社会と美術界の古いしきたりから解き放され、ついに真の愛と自分の生き方を見出すことになるのだが、彼女がキャンバスに切り取る何気ない日常の幸福が、人生のすべてを教えてくれるような映画だ。

マネとの出会いから始まる背景の中、画家として女として、彼女がいかに成長し自らを確立していったか。
カロリーヌ・シャンプティエ監督フランス映画「画家モリゾ、マネの描いた美女 名画に隠された秘密は、両親の娘への想い、姉との関係、マネへの憧れ、彼女をめぐる様々な人間模様を、彼女の芸術の展開の中に描いている。
ベルトが女性として生きること、画家として生きることで、心が揺れ動く姿がテーマとなっている。
映画は、ベルト・モリゾが弟のウジェーヌ(フランソワ・デューアイデ)にプロポーズされ、最後にマネからプレゼントを受けるところで終わる。

マネは、実際に二人の結婚を機に、ベルトをモデルに描くことは二度となかったといわれる。
モリゾとマネの親密な関係は。この時までである。
モリゾの画家としての活動は、ここから本格的な展開を見せ、彼女は生涯絵を描き続け、印象派グループの中心的な存在となっていく。
彼女が仕事と家庭をあきらめることなく、女性として、人間として、そして画家として自身の人生をたくましく生き抜いたという話は、現代でも多くの女性の共感を呼ぶことだろう。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回はイギリス映画「ターナー、光に愛を求めて」を取り上げます。


映画「この国の空」―戦時下の青春を繊細に耽美に―

2015-08-13 16:00:00 | 映画


 反戦映画ではなく、戦後を問うホームドラマのような趣もあって、よくできている。
 芥川賞作家・高井有一による同名小説は、1983年に刊行されたものだ。
 終戦70年目にして、屈指の名脚本家・荒井晴彦が念願の映画化を果たした。
 1997年の「身の心」次いで、18年ぶり、二作目の荒井監督作品だ。

 終戦間近の東京を舞台に、肩を寄せ合うように暮らしている市井の人々と、戦争に翻弄される男女を描いている。
 この作品は、戦争シーンがあるわけではなく、東京が空襲で焼け野原となった頃の日常、非日常の空間に生きた主人公を軸として物語を設定している。
 そこはさすがにしっかりした脚本で、荒井監督入魂の一作に違いない。






1945年、終戦間近の東京杉並区・・・。

19歳の里子(二階堂ふみ)は、母親の蔦枝(工藤夕貴)と二人で暮らしている。
度重なる空襲に脅え、雨が降ると雨水が流れ込んでくる防空壕を行き来しながら、まともな食べ物も口にはできないが、健気に生活している。
隣家に住む銀行支店長の市毛(長谷川博己)は、妻子を疎開させていて、里子は市毛の身の回りの世話をするようになる。

日に日に戦況は悪化し、田舎へ疎開する者、東京に残ろうとする者・・・。
戦争は終わるとささやかれはしても、すでに婚期を迎えた里子は、こんな状況下では結婚など望むべくもない。
自分は男性と結ばれることもなく、死んでいくのだろうか。
そんな不安を抱えながら、里子は市毛の家に出入りするようになり、蔦枝はそんな娘のことを心配しながらも、次第に配給も細る中、闇米が手に入ると市毛に誘われて出かけた帰路、里子は市毛との距離を急速に縮めていく。
そして、里子の中に「女」が目覚めていく・・・。

物語はほとんどが、里子と市毛の家の中で進む。
空襲や本土決戦といった、死と隣り合わせの不安に包まれる中で、他愛ない世間話、ちゃぶ台で食事といった日常の描写が、どこか緊張感をはらみ、サスペンスの要素も描かれる。
カメラは日本家屋の光と影を端正にとらえ、灯火管制下の暗い室内の撮影が多いが、もう少し明るさも欲しかった。
撮影はフィルムだが、その日々の描写は丁寧で、二階堂ふみのセリフは言葉の美しさへのこだわりすら感じさせ、何ともたおやかで優しい。
日本語とはこんなにも美しいものか。
彼女はこの作品を撮るために、小津安二郎監督成瀬巳喜男監督の作品を何度も見たそうだ。

このドラマに、戦争そのものの悲惨な映像がないのは救いだ。
この時代の、一見いつもと変わりない、しかし実際は先行きの見えない、これからの日本に途方に暮れる人たちの姿を鮮やかに描き出している。
里子と市毛の家の庭を隔てる竹垣が、需要な舞台だ。
里子はこの垣根を越えて、幾度も隣の市毛の家に入っていく。
万一の爆風を避けるために、窓ガラスには斜め十字に張り紙が施され、そのガラス戸の向こうへ行く里子を、母の蔦枝は「もってのほかだわ」と言いながらも、「今はこんな時代で、あなたの近くでは市毛さんしかいない」と暗に黙認している。

荒井晴彦監督「この国の空」は、昭和の香りが漂い、市民の目線で綴られる市民の生活と、そんな時代にあった男と女の物語である。
男と女の不倫とも恋とも違う、そんなあまやかな感情ではなく、時代の風に煽られて、二枚の木の葉が一隅に吹き寄せられるような関係だ。
里子に市毛を送り出させて、里子が振り返るラストシーンがとてもいい。
「これから私の戦争が始まるのだ」という一文が、里子の心象を物語っている。
そして、それに呼応するように茨木のり子の詩「わたしが一番きれいだったとき」がエンディングに流れてくる。
 わたしが一番きれいだったとき
 わたしの国は戦争で負けた(中略)
 わたしが一番きれいだったとき
 わたしはとてもふしあわせ

戦争に奪われた青春の痛み、先の見えない愛情の儚さ・・・。
二階堂ふみの消え入りそうな低い声が、里子の心情に共鳴してかなしい。
全編を通して、強い視線で、二階堂ふみが難役を好演しており存在感がある。
緊張感をたたえた、それでいて静謐な映画である。
登場人物たちのもどかしい心情や官能を、直接的ではなく間接的な仕草などで精妙に映し出すなど、繊細にして耽美、精緻な演出も見事だし、日本映画としては近頃出色の出来だ。
★五つでもと思うほどに。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はフランス映画「画家モリゾマネの描いた美女 ~名画に隠された秘密~」を取り上げます。


映画「野 火」―狂気こそが非情な戦争の本質だ―

2015-08-05 20:00:00 | 映画


 戦後70年という節目のいま、戦争文学の代表作でもある大岡昇平の同名小説を、塚本晋也監督が映画化した。
 かつて同じ小説を、1959年に映画化した市川崑監督は狂気と正気をさまよう主人公を描いて、いま想えば本作より過去の市川作品の方がわかりやすかった印象がある。
 しかし、モノクロ作品の前作より、カラーで描かれたこちらの作品の方がよりリアルな映画作品として登場した。

 第二次世界大戦末期、敗北が決定的となったフィリピン戦線をさまよう日本軍兵士の物語である。
 塚本晋也監督自身が主人公を演じ、孤独と飢餓の中で、極限にまで追い込まれていく人間の姿を描いている。
 異様な映画である。






第二次世界大戦末期の、フィリピン・レイテ島・・・。
日本軍の敗色濃い中、田村上等兵(塚本晋也)は、結核を患い、部隊を追い出されて野戦病院行きを余儀なくされる。
しかし、病院と舞台をたらいまわしされたあげく、島の北西部にあるパロンボンへの退却命令を知って、密林を行軍する。
田村は力尽きて倒れたところを、足の悪い安田(リリー・フランキー)と永松(森優作)に助けられ、伍長(中村達也)とも遭遇する。

安田は永松に敗残兵を狩らせ、どうもその人間の肉を食べているらしい。
田村は、いつかは自分が狩られるかもしれないという、恐怖に煩悶する。
同胞たちの無残な死、略奪、殺し、そして人間の肉を食らうという、悍ましくも厳しい現実・・・。
さらに、凄まじい飢え、敵の脅威、理性さえもどうにもならない混沌の中で、むき出しにされる本能的な生への渇望・・・。
生か死か。
田村は、帰国できるかもしれないという一縷の望みを糧に、伍長に従うことにする。
しかし、それはさらなる狂気の世界へと続く道であった・・・。

戦場では、人間性は狂気に変わる。
そんな狂気に満ちた戦争の実態を、凝縮して描き出していく。
銃弾が行き交う、前線だけではないのだ。
飢餓や病気による死が、いつ訪れてくるかわからない。
この作品の中でリアルに描かれる過酷な現実は、まさに地獄だ。

戦場の腐臭が漂い、肉片が飛び交う。
これが非情な戦争の現実であり、本質だ。
塚本晋也監督映画「野 火」は、不条理と暴力が支配する戦場の衝撃を強く印象づける作品だが、声高にメッセージを発しているわけではない。
登場人物たちは鬼気迫る演技で、戦争のもたらす恐怖をまざまざと見せつける。

自分が生きて殺されないためには、加害者とならなければいけない現実、奪う側と奪われる側の人間の持つ内なる葛藤を描いて、人間性をめぐる作品としては、強烈な戦線体験を余儀なくされる。
戦争の恐怖がこの作品の核となっている。
極めて低予算で作られた映画だが、重厚感ある作品として、観るべき一本だ。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点