徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「ふゆの獣」―ぶつかり合う若者たちの愛とエゴイズム―

2011-09-28 11:00:00 | 映画

     
     天高く馬肥ゆる秋・・・。
     いよいよ秋本番だ。
     あちらこちらで、紅葉が始まっている。

     これは、新鋭内田伸輝監督による作品だ。
     この作品は、脚本もなく、プロットとキーとなるセリフのみで、演技のほとんどが即興(アドリブ)だ。
     カメラは長回しで撮影され、編集で構成されていった。
     そのことが、この心理ドラマに昂揚感をもたらしている。
     男ふたり、女ふたりという、たった4人の登場人物が、限られた時間と空間の中で、文字通り火花を散らすのだ。
     
     
     
     
          
     





                 
     男は追いかける。女は逃げる。
     女は追いかける。男は逃げる。
     どこまでも、あてのないさすらい、男も女も・・・。
     人は誰でも、いつだって、傷つかないように生きていこうとしている。
     何としても、恋人をつなぎとめようとする、女がいる。
     ときに、さざ波のような、自分の心の揺れを確かめようとする、女がいる。
     どのような形であれ、愛を奔放に分け与える、男がいる。
     情けなく、愚直なまでに、どうしようもなく孤独な男がいる。
     ・・・だが、求めても求めても、追いかけても追いかけても、つかまえることができない。

ユカコ(加藤めぐみ)は、同じ職場で働くシゲヒサ(佐藤博行)とつき合っていた。
最近になって、彼女はシゲヒサの浮気を疑っている。
精神的に不安定になって、駅の地下道で倒れたユカコを介抱したのは、同じ職場で働くノボル(高木公介)だった。

ノボルはアルバイトのサエコ(前川桃子)を恋し、自分の気持ちを伝えるが、シゲヒサと密会を繰り返していた。
サエコは、ノボルのことを同僚以上には見ていなかった。
地下道で介抱をしたことをきっかけに、ユカコとノボルは互いのことを語り合った。
そして、アパートの狭い部屋で、その4人が顔を合わせる機会が訪れる・・・。

そうして、4人それぞれの火花を散らすような、むきだしの感情が交錯するのだが・・・。
ここに登場する彼らは、当たり障りのない会話や、ぎごちない態度で、相手の真意を探ろうとする。
誰もが、安心のよりどころを求めようとする。
しかし、いったんその歯車が狂いかけると、彼らはうろたえ、泣き叫び、喚き、感情をあらわにしてぶつかり合うのだった。
嫉妬とエゴが表面化し、お互いの関係が修復できないままに壊れたとき、どこにたどり着けばよいのか。

作品は、しっかりと作られたシナリオのない、ほとんどがアドリブによる演技だ。
ここでは、センスのあるセリフも、機知に富んだセリフも不要だ。
彼らの流す涙も、怒りの衝動も、繰り返される葛藤も、どうしようもない孤独も・・・、これが、若者たちの実は本当の姿なのだ。
そんなわけだから、作品はかなり荒削りな部分も多い。
この種の作品として、成功しているかどうか。
成果はともかく、これは映画におけるひとつの‘実験’だ。

俳優たちのコラボレーションは、通常の映画では重要なはずだが、内田監督は、これまでに彼の映画に出演したことのない4人を選んだ。
彼らは戸惑いながら、この作品に没頭した。
内田監督映画「ふゆの獣」は、ひりひりとした痛みが伝わってきて、何かやりきれない想いも正直拭いきれない。
それは、言葉のもつ‘暴力性’が強いからかもしれない。
でも、新時代の映像作家としては、まだまだ期待されていい、そんな才能の片鱗は間違いなく見えている。

カメラの使い方も際立っており、俳優たちも精いっぱいの演技を見せる。
しかも、限られた超低予算の中で、ざらついた手持ちのカメラの映像による、小さなインディペンデント映画だ。
出演者たちも、役者専業ではなく、平日はみんな仕事を持って働いている人たちなので、土日のたびにやりくりして撮影が行われたそうだ。
そんな厳しい条件のもとで作られた映画でありながら、悲しみよりは可笑しさを漂わせて、少しでも高みを目指そうとする、スタッフ、俳優たちの意気込みだけは強く感じられる。


映画「蜘蛛の糸」―地獄のファンタジーを原作とは違った視点でー

2011-09-25 22:50:01 | 映画


     
     爽秋と呼ぶにふさわしいような、季節になった。
     あの、夏の猛暑が嘘のようである。

     芥川龍之介の名作短編「蜘蛛の糸」を中心に、「アグニの神」「煙草と悪魔」の二作を盛り込んだ、地獄のファンタジーだ。
     「河童」から5年、「五重の塔」「斜陽」など、現在まで20作を数える作品を残している、秋原正俊監督の、映像の美学を観る。

     これまでも、数々の日本文学を映画化してきた秋原監督が、どのような新解釈を加えたか、興味あるところだ。
     ただ単に、文章を映像化するだけではない。
     そこには、あくまでもレンズの‘魔術’にこだわり続ける、独自の芸術世界が展開する。







主人公のカンダタ(平幹二朗)は、現世で悪事を働いて、地獄に落ちた。
黄泉の国では、様々な人物が登場し、カンダタは翻弄される。
この国では、生前何を行ったかによって、一人ひとつの地獄を持つとされる。
その形態は、様々であった。

カンダタというのは死後の名前だが、彼は成仏できずに地獄の世界へ導かれた。
生前は、大手食品会社の社長だった。
自分の妻や娘を顧みずに、会社にすべてを捧げてきた。
会社は成功し、金もあるが、プライベートな面では孤独であった。

・・・正確には、天国と地獄の間にある黄泉の国で、カンダタに与えられた‘地獄’では、‘写真を撮り続ける’という奇妙なものであった。
黄泉の国は、地獄の入口をさまよう人々の空間だ。
カンダタが、生前に働いた悪事・・・、すべてが明らかになった時、カンダタが助けた蜘蛛の糸が、空から垂れてくるのだったが・・・。

秋原監督の、こだわりのレンズに見る映像美が必見だ。
ここでは、ドラマ性云々より、そのファンタジーの世界にまずひきつけられる。
作品上映の前に、秋原監督と出演者(発嶺麿代、松田洋治ほかの舞台挨拶とスペシャルトークがあって、映画撮影のエピソードなどが披露された。
見ていると、映画製作の世界では、もうスタッフ全員がよくまとまった家族なのだ。
作品の中では、テレビでも活躍している高畑淳子、こと美母子の映画初共演もあり、他にも個性豊かな役者が揃った。

平幹二朗は、舞台活動の方が多く、ここしばらくは映画に登場していなかった。
スクリーンでお目にかかる機会もなかったが、この作品では、実際に80歳近い彼が、元気で矍鑠として確かな演技を見せている。
名優は健在だ。

浄土から黄泉の様子を見守っている救世観音は、一般的には「観音さま」と呼ばれ、慈悲の心により救いを求めている人がいたら、すぐにそこへ行って彼らを救済するといわれており、手にすべての願いがかなうという宝珠を持っている。
カンダタは悪魔の畑に興味を持ち、自分の畑を荒らされそうになるのを見て怒る悪魔やら、謎めいた洋館に住む魔女やら、特殊メイクの登場人物もユニークだ。

この映画「蜘蛛の糸」は、主として長野県千曲市や長野市、静岡市内の各所でも、地域住民たちも多数参加して撮影が行われたが、葬式のシーンなど実にリアルだ。
いま、こうした地域住民参加、協力のもとに映画作りが盛んなようで、今後このように地域参加型の映画製作が、ますます広がっていくのではないか。

作品に出てくる、妖しく奇妙な魔女の部屋には、見たこともないような小道具もセットされ、意外性に驚くばかりだ。
それに、十一面観音や飛天の衣装、アクセサリーなどは、大学生のクリエイティブ集団の作成だそうで、それもよく考えたもので、随所に様々な工夫と配慮が行き届いており、天国といい、地獄といい、何ともファンタジックな様相を呈している。
映像が美しい。
映画そのものが、もうアートであり構成の妙であり、新感覚でとらえた彼の独特の美学に、秋原監督が‘奇才’と呼ばれる訳が分かった。
新感覚の「文学映画」というのか、いや「ブンガク映画」といった方がよいか。
近頃珍しい、日本映画の誕生である。


映画「ペーパーバード 幸せは翼にのって」―かけがえのない絆の物語―

2011-09-22 15:35:00 | 映画


     厳しい時代の波が押し寄せる中、明日への希望を夢見て、強く生きる。
     そうだ。
     愛と勇気の信じられる、未来があるはずだ。

     エミリオ・アラゴン監督スペイン映画だ。
     
生きていることの懐かしさと、涙と、そして笑顔をもたらしてくれる、ほんのりと温
     かな感動作だ。













1930年代のスペイン・マドリード・・・。
内戦で、妻と息子を失った喜劇役者ホルヘ(イマノル・アリアス)は、悲しみに暮れていた。
芝居の相手エンリケ(ルイス・オマール)と再会した彼は、孤児のミルゲ(ロジェール・プリンセプ)とともに、3人で暮らすことになる。
しかし、亡くした自分の息子と同じ年のミルゲに、悲しみのあまり、つい冷たくあたってしまうホルヘであった。

そんな中、軍からホルヘに反体制派の容疑がかかった。
監視の目におびえながらも、ホルヘとエンリケは仲間たちと、一緒に舞台に立ち、歌や踊り、そして笑いで、観客たちの心に灯をともしていく。
やがて、自分を父親のように慕い、必死になって芸を覚えようとするミルゲに、「いつか2人のネタを作ろう」とホルヘは励ますのだった。
ミルゲの存在が、生も希望も失くした彼の心の傷を癒やしていったのだった。

そんなある日、軍の命令で、ホルヘたちの劇団は、独裁者フランコ総統の前で公演を行うことになった。
そして、いよいよ本番という時、ホルヘを巻き込んだ陰謀が明らかになったのだ。
それを知ったホルヘは、ミルゲとエンリケとともに、スペインを出てブエノスアイレスへ脱出することをついに決意した・・・。

・・・家族のように過ごしてきた彼らに、どんな
将来が待ち受けているのか。
スペイン内戦からフランコ独裁政権へと、20世紀のスペインが迎えた、悲しみの時代だ。
この時代、画家のピカソが怒りを込めて「ゲルニカ」を描き、この時代を代表する詩人ロルカが右派党員によって銃殺されるなど、全てはスペイン内戦のもたらしたものであった。

ドラマの中で、エンリケが腹話術で笑わせるシーンもなかなかユニークで面白い。
映画のラストで、年老いたミゲルに扮して画面に登場し、製作過程の随所で作品の原動力となったのは、監督の父ミリキ・アラゴンその人で、独特の余韻を残している。

フランコ独裁政権は、思想統制や言論統制に厳しく、多くの芸術家たちが、国外へ脱出したといわれる。
スペイン映画「ペーパーバード 幸せは翼にのって」は、そうした激動の時代を背景に描かれる、喜劇役者と少年の物語だ。
エミリオ・アラゴン監督は、代々続くサーカス・アーティストの家系らしく、当時の祖父や父を取り巻く仲間たちの逸話をもとに、時代に翻弄されながらも、強く生き抜こうとする人々の姿を生き生きと描き切った。。
希望と勇気を感じさせる、一作である。





映画「ゴーストライター」―不条理性あふれる大人のサスペンス―

2011-09-18 09:30:00 | 映画


     
     現実のニュースと、実在の元首相の影が、作品の中に漂っている。
     間もなく80歳を迎える、ロマン・ポランスキー監督が、久しぶりに挑戦した本格派サスペンスだ。
     イギリスのベストセラー作家ロバート・ハリスの原作だが、映像は緊張感に満ちている。

     明らかに、英国のブレア首相をイメージさせる作りで、期待される一作だが・・・。
      べルリン国際映画祭銀熊賞(最優秀監督賞)受賞作である。













元英国首相アダム・ラング(ピアース・ブロスナン)の、自叙伝の執筆を依頼されたゴーストライター(ユアン・マクレガー)は、ラングが滞在する真冬のアメリカ東海岸にある孤島に赴いた。
そして、取材をしながら原稿を書き進めるるうちに、前任者のゴーストライターが不慮の事故で亡くなっているなど、ラング自身の過去にも違和感を覚えるようになる。
ゴーストライターの仕事としては、締め切りまで時間がないことを除けば、それは美味しい仕事のはずであった。

仕事を始めた直後、ラングに、イスラム過激派のテロ容疑者を“不法”に捕え、拷問にかけたという戦犯容疑がかかる。
しかし、この政治スキャンダルも、まだ序章に過ぎなかった。
一向にはかどらない原稿と格闘していく中で、ゴーストライターは、ラングの発言と前任者の遺した資料との間に矛盾を発見し、ラング自身の過去に、隠された大きな秘密があることに気づき始める。
やがて彼は、ラングの妻ルース(オリヴィア・ウィリアムズ)と、専属秘書アメリア・ブライ(キム・キャトラル)とともに、国際政治を揺るがす恐ろしい影に近づいていくのだった・・・。

ゴーストライターとは、言わずと知れた、有名人本人に代わって著作を執筆する作家だ。
どんな場合でも、本人の作者は顔を出すことはない。あくまでも影の存在だ。
フランス・ドイツ・イギリス合作映画「ゴーストライター」は、不穏な夜の海に浮かぶフェリーから始まり、あっという間に、ゴーストライターが不可解な謎に巻き込まれていくドラマを、テンポよく見せていく。
そして、普通の男として、普通の生き方をしていたゴーストライターが、特別な人物をクライアントに持ったことで、彼は‘知りすぎた’男へと一転し、観ているものを、みるみるうちにサスペンスの世界に引きずり込んでしまうのだ。

ピアース・ブロスナンの演じる、ハンサムだが中身の空っぽな元英国首相は、ブレア元英国首相をを髣髴とさせるが、ブレア元首相そっくりにアメリカべったりで、英国を戦争に巻き込んだとして告発される。
このドラマは、海に浮かぶ島や、屋敷の内部を舞台としながらも、台詞や画面の省略が効き過ぎ(?)ていて、かなり理解し難いところも散見する。
森の中から始まる不気味なカーチェイスの場面、フェリー乗り場での危機一髪の脱出劇、空港の屋根に立つ狙撃者、画面の奥から疾走してくる黒い乗用車、どこを見ても十分過ぎるほど味が濃い。

ポランスキー監督は、愛妻シャロン・テートをカルト教団に惨殺され、年少者とのセックススキャンダルで逮捕されたり、保釈中に国外逃亡するなど、数奇な運命に翻弄されている。
そうした、屈折した自分の人生が、作品に反映されているとみてもおかしくはない。
権力の頂点にあって、国中から憎まれている元首相を描いて、閉じ込められた牢獄のようなところで、ゴーストライターの孤独は、いまも“流刑”を続けるポランスキー監督の孤独と重なってくる。

彼の卓越したその演出力は、いかんなく発揮されているが、どうもこれだけの内容を盛り込むと、2時間余りの上映時間もさすがにせわしい。
謎解きだけでなく、ポランスキー監督の、磨き上げた映像と音によるサスペンスは、一種の魔術のようで楽しめるが、複雑な人間関係も絡んで、観る者を翻弄せずにはおかない。
この映画は、知りすぎた孤独な男を描いた、大人のサスペンスだ。
ドラマの結末も、衝撃的である。
暗い色調の作品で、不条理性に満ちていて、元首相の'犯罪’‘政治の闇’をゴーストライターが知るところとなり、ただごとではなくなっていく過程は見事だ。
最近の日本公開のサスペンスでは、かなりの見応えがある。


大好評!午前十時の映画祭―往年の懐かしい名画が勢ぞろい―

2011-09-15 16:00:00 | 映画

「午前十時の映画祭」が、結構な人気だ。
昨年の二月から始まって、早くも二年目になる。
今年の二月からの第二回目開催で、[シリーズ1」(赤の50本)が、「シリーズ2」(青の50本)と並んで、いま全国各地で開催されている。
これが大変好評のようで、他に公開されている新作人気映画を押しのけて、映画館はどこも大勢の観客でにぎわっている。
大した人気なのだ。

確かに、1950年~70年を中心とする、映画の黄金時代に生まれた作品の中から、傑作映画をセレクトしてはいるが、どれも素晴らしい作品群だ。
毎朝十時から、1年間にわたって上映する企画も二年目で、それも残り少なくなってきた。
上質な名画の数々の、いまなお色褪せない感動が、人々をひきつけているのだと思われる。
どれもこれも、オリジナルのニュープリントで、名作の数々をフィルムで鑑賞できるのはこの機会が最後かもしれない。

・・・ということで、観客は、老若男女実に幅が広い。
話題になった人気作品を、生まれて初めて観る若い世代から、昔観たけれどもう一度観たいという人や、50本全部を見に来ているという人まで、いやいや映画の好きな人って多いですね。
それもそのはずで、1970年以降に生まれた若い世代(といっても、いままだ40代の方々)は、これらの名作を時たまテレビで見るか、DVDに頼るしかないのですから。
しかし、映画はやはり映画館で観ないことには、本当の作品の香りやスケールを味わうことは、どうしたって難しい。
それで、この特別企画が、沢山の観客を動員しているに違いないのだ。

そんなことを、わけ知り顔(?)でしゃべっている自分も、初めてのものも、二度目三度目のものも、これまで数本を鑑賞した。
あのウィリアム・ワイラー監督「ベン・ハー」(1960年日本公開)もそのうちの1作で、初公開の時とテレビでの放映を含めると3回は観ていることになる。
この作品の主人公チャールトン・ヘストンもよかったし、何よりも音楽が素晴らしかったので・・・。
これだから、映画音楽はこたえられない。
残念なのは、いまは、こうした往年の名作に匹敵するような作品が少ないことだ。

こういう特別企画は、大いに歓迎だし、作品を観たことのない人には、是非おすすめしたい。
いつもなら、まず自分では観ることもなさそうな作品であっても、こうした稀有な機会に観ることで、また新しい発見があるというものだ。
第二回開催も2012年1月20日(金)まで だけれど、作品数も開催劇場も拡大して開催中で、いま、1年目に好評だった50本(シリーズ1/赤の50本)も、再上映されている。
映画ファンならずとも、この「何度見てもすごい50本」(両シリーズ合わせて100本)を見逃す手はないのではないか。

 


映画「ライフ いのちをつなぐ物語」―動物たちの生きるための真実―

2011-09-11 23:25:54 | 映画


     「アース」では地球の美しさを、「オーシャンズ」では海の神秘を描いた。      
      そのBBC EARTHが、今度は地球上に住む、全ての「命」の営みを見事に映し出した。
      3000日をかけ、世界各地の動物たちの姿を記録したドキュメンタリーだ。

      当然、世界で初めて撮影された映像を含み、動物たちの目線からの映像は、圧巻の迫力がある。
            マイケル・ガントン、マーサ・ホームズ監督の、イギリス映画だ。













地球上に暮らす、様々な生き物たち・・・。
自分の命を犠牲にして子供を守る愛や、独自の知恵で生き抜く姿を、ありのままに映し出している。
最新鋭機材を導入し、ダチョウを狩るチータや、ザトウクジラの求愛、ハネジネズミの高速移動など、世界でも初めてといわれる、15シーンの決定的瞬間の撮影にも成功した。
超スローモーションや、動物たちの目線で追った映像群は、どれを見ても臨場感にあふれている。
美しく幻想的で、時に厳しい大自然の営みは、生きることの意味を改めて教えてくれる。

たとえば、熱帯アメリカに見られる、体長4ミリのハキリアリは、自分の体の数倍の大きな植物の葉や幹をせっせと運ぶ。
ブラジルに生息するフサオマキザルという猿は、好物の固いヤシの実を、自分の頭ほどの大きな石で割って中身を食べる、道具を使う動物だ。
人間と同じように道具を使い、人間と同じように笑う動物がいるとは・・・!

このドキュメンタリー映画「ライフ  いのちをつなぐ物語」を彩る生き物たちは、その数30種にものぼり、生物のその生命力に圧倒される。
全てが、感動的である。
人間が、自然から学ぶことは多い。
所詮、人間は、人間の力だけでは、豊かに生きていくことはできない。
地球は、かけがえのない星である。
こうした作品を通じて、少し大げさだが、大自然の奇跡の旅を体感するのもいい。
作品全編が、実にエモーショナルなドラマで、驚異の映像は見飽きない。もう少し見たい気さえする。

「動物と同じ目線」で撮影するために、超ハイスピードカメラ、ハイビジョンカメラや特殊な撮影テクニックを駆使し、正直どうやって撮ったのだろうかと思った。
作品は、丁寧に辛抱強く、一瞬のチャンスのために相当な手間をかけていて、これまでに見られない至近距離からの撮影で、新たな自然の生態を見ることを可能にした、ネイチャードキュメンタリーだ。
前作オーシャンズ」には物足りなさを感じたが、格段の違いだ。納得がいく。

動物たちも、逞しく生き残るために、独自の進化をとげてきた。
その彼らの営みから、生きる意味を問い直す・・・。
それが、この映画の発信するメッセージだ。
映像からは、動物たちの息遣いが聞こえてきそうで、大人から子供まで幅広く、十分楽しめる作品だ。


映画「ハウスメイド」―禁断の愛と憎しみのサスペンス―

2011-09-08 21:15:11 | 映画

怖ろしいのは、女の情念と狂気である。
それは、禁断の愛から始まった、衝撃のドラマだ。

1960年の、キム・ギヨン監督「下女」のリメイク版で、欲望の渦巻く虚飾の館が、ひとりの女によって崩壊していく様が描かれる。
韓国上流階級を舞台にして、今回はイム・サンス監督がリメイクした、魔性の女の物語だ。
ヒロインを演じるチョン・ドヨンは、「シークレット・サンシャイン」(2007年)で、カンヌ国祭映画祭主演女優賞受賞しており、この作品でも体当たりの演技に注目が集まる。

一級の芸術品に彩られた、豪華な邸宅が物語の舞台だ。
その邸宅に、無垢で、従順な若いメイド、ウニ(チョン・ドヨン)がやって来る。
家事全般のほかに、双子を妊娠中の妻ヘラ(ソウ)と6歳になる娘の世話も、彼女の仕事だった。
ベテランメイドのビョンスク(ユン・ヨジョン)の厳しい指導のもとで、ウニは明るい笑顔を絶やさず、一生懸命に働く。

ある日、主人のフン(イ・ジョンジェ)求められたウニは、おのれの欲望に従い、関係を持ってしまった。
やがて、ウニは身ごもり、そのことに目ざとく気づいたビョンスクが、妻の母親に密告する。
ウニは、邸宅を離れて、ひとりで生きようと決意する。
それを、残酷な手を使ってでも阻止しようとする、フン家の妻と母であった。
そして、不可解な出来事が相次ぎ、各々の欲望が破裂しそうな邸宅で、ついに衝撃的な狂気の事件が起きる・・・。

愛、嫉妬、憎悪、復讐の情念が、ドラマ全編に交錯する。
韓国ものらしいサスペンスだが、描き方にはやや物足りなさがあるものの、最後の戦慄のシーンなど、衝撃的で怖ろしい。
非現実的な場面と知りつつも、人間の持つ狂気が昂じて、凄まじさがある。
非現実だから、ドラマにもなる。
ドラマと知って観ている限り、こんなことはありえないと思って当然だ。

禁断の愛に自ら溺れてしまった女が、やがて狂気にとらわれていく。
人間の感性をざわつかせ、もたらされる、一種奇妙な戦慄と恐怖がこの作品の持ち味で、チャン・ドヨンが好演だ。
女とは怖ろしいもの(?)、天使の優しさも、とんでもない狂気へと変貌する。
最後の場面は、マジックを見ているような錯覚にとらわれる。

イム・サンス監督韓国映画「ハウスメイドは、期待をしないで観ると面白く観られるが、期待して観ると肩透かしを食わされるかもしれない。
映画の中、虚飾の邸内に見られるゴージャスなセットは、一見に値する。
韓国のトップ俳優が登場して、女の魔性を描いた、ハラハラドキドキの、あくまでも古典的な復讐劇だ。
こういう作品も、たまにはいいではないか。
若い女性の観客の多いのに、驚いた。
映画の上映館が少ないのは、残念だ。


映画「シャンハイ」―陰謀渦巻く開戦前夜の上海で―

2011-09-06 10:00:18 | 映画


     国境を越えて、歴史と運命が交錯する。
     中国上海・・・、国際都市を舞台にしたスパイアクションだ。

     ミカエル・ハフストローム監督アメリカ映画だ。
     時代に翻弄される中で、男と女が命を賭けて貫いたものは、何だったのか。
     太平洋戦争開戦前夜の上海を舞台に、サスペンスフルなドラマが展開する。











1941年、上海・・・。
日本・ドイツ・アメリカ・中国が、互いの腹を探り合いながら、睨み合っていた時代だ。
米国諜報部員のポール・ソームズ(ジョン・キューザック)が、この街に降り立った。
ポールの同僚コナー(ジェフリー・ディーン・モーガン)の、死の真相を突き止めるためだった。
新聞記者になりすまして、ポールは中国社会のボス、アンソニー(チョウ・ユンファ)に出合い、日本軍のタナカ大佐(渡辺健)を紹介される。

謎の多い人物ばかりが、捜査線上に浮かび上がった。
時同じくして、忽然と姿を消したコナーの恋人で麻薬中毒のスミコ(菊地凜子)、アンソニーの美しき妻アンナ(コン・リー)の存在を知る。
やがて、ポールはアンナの裏の顔が革命家と知り、理想に生きる彼女に強く惹かれていく。
ポールは殺人事件の真相に迫るが、そこに暴き出されたのは、世界を揺るがす恐るべき陰謀であった・・・。

列強の巨大な陰謀に巻き込まれていく主人公たち、野望に燃える彼らが、運命に挑む愛を描くサスペンスだ。
上海は法と正義が死に絶えた街となり、愛だけ(?)が生き残ろうとしていた。
しかし、その愛たるものの前に、日米開戦という大いなる宿命が立ちはだかるのだった。

安定感ある演技を見せる、渡辺謙、菊池凜子といった、日本人勢の活躍ぶりに目がいくが、とくに菊地凜子の存在感が思ったほどでなく、影が薄いのにはがっかりした。
まあ、どうしてもチョウ・ユンファの貫録とキレのある演技がやっぱり主役なのだ。
それに、コン・リーもなかなかいい。

アメリカ映画「シャンハイ」は、一応超大作というけれど、映画の作りは少々雑で粗っぽい。
それに、いろいろなエピソードを詰め込みすぎるから、ドラマが中途半端だ。
スパイアクションといっても、見終わって、とくに新味があるとも思わないし、メロドラマ的で、印象に残るスケール感は少ない。
1940年代の上海はこんな風だったかと思わせる、密度の濃いディテールは興味深い。
時代の運命に挑む愛を描くサスペンスと言う触れ込みだが、豪華な演技陣のわりには、満足度はどうしても希薄だ。


野田新内閣発足―国民不在のネコの目政権崖っぷち―

2011-09-03 14:00:00 | 雑感

時の過ぎゆくのは早いもので、季節は確実に秋に向かっている。
台風の影響で、雨風が強まっている。
各地での被害が心配だ。

さんざん辞める辞めないで、政局まで混乱させた菅内閣が退陣し、民主代表選の逆転で野田新政権が誕生した。
菅前首相は、やるべきことはやったと大いに自画自賛だったが、本当にそうか。
何をやったのか。
何ができたのか。
がっかりさせるような、しらけた話である。

新内閣の閣僚名簿を見ると、特別なサプライズも新味もない。
野田新総理が自ら言うように、「どじょう」内閣だ。地味である。
地味で、結構だ。
「どじょう」であれ何であれ、要は何をやるかだ。
わずかな期待と、大きな不安を感じさせる、新政権のスタートだ。

我も我もと集まって、党代表選に勝っての野田新総理だが、その能力のほどは未知数である。
いま、この未曾有の国難の時だ。
誰が総理になっても、難しいかじ取りだ。
これから、どんな具体的な政策を打ち出していくのだろうか。

記者会見でも語っていたように、東日本大震災の復旧・復興と福島原発事故の早期収束が、最優先課題だ。
このために、野田総理は、全力をあげると力強く言い切った。
有言実行は、大丈夫か。
前首相みたいに、口先だけで終わらないでもらいたい。

民主党政調会長に決まった、前原氏の外国人献金問題がいまもくすぶり続けているというのに、またもや、今度は野田総理の外国人献金問題が発覚した。
相手は在日韓国人だというから、前原氏と同じようなケースではないか。
新内閣発足直後に突然降ってわいた報道にも驚いたが、一体全体、どうなっているのか。
これまた、黙って見過ごされぬ、新たな火種となって、新政権への影響は必至だ。
ああ、やれやれ・・・。

それにこの人は、過去に前原氏と連座して、偽メール事件で同僚の永田議員を死に追いやってしまった、無念の十字架を背負っている。
ガセネタを安易に信じ、証拠もないのによく調べようともせず、日本中の笑いものになった。
テレビの国会中継で、とんだ茶番を演じてしまったのだ。
あれは、想いだしても情けない話だ。

首相交代は、この5年間で6人目だ。
民主政権では、早くも3人目だ。よく変わる政権だ。
新鮮で結構だ、などと言って笑ってもいられない。
国連総会で、国家の元首が毎年変わるなど日本だけではないか。
何とも、恥ずかしい話だ。

新内閣となって気になることも多々ある。
野田総理は、党内融和とノーサイドを心がけるのは大変に結構だとしても、かたや大連立と増税を唱えてきた。
このことは、十分に議論を尽くさなくてはならい、重大な問題だ。
拙速は避けるべきだ。
それと、財務省にヒモつきのポチ君が、またぞろ財務官僚の操り人形になってはいないか。いや、もうすでになっているか。

民主政権は、これまで「反小沢」「親小沢」といって、与党内で分裂状態を続けてきていた。
今回の人事で、その点にはかなりの気配りが見える。
だが、議会運営はまだこれからだ。
人間同士の怨念、確執など捨てて、与野党の別なくこの国難を乗り切っていくべきだ。

誰もが感じるように、どうも、国会議員には口先ばかりの人が多い。
国家、国民のことを、どこまで真摯に考えているか。
自分の身を投げ打って、命を懸けて頑張るというような人はいないに等しい。
そういう国会議員は真の政治家とは言えず、政治屋と呼ばれるのだ。

しかし、残念ながら、この国には何とも政治屋さんが多すぎる。
天下国家を論じながら、自己保身、自分の利害得失しか考えていない。
それは、その人のやってきたことを見れば誰にでも一目瞭然だ。
一国の首相たる人がそうであったりするなどは、言語道断だ。

野田新総理は、どんな人なのだろうか。
よく知らない人もいるのではないか。
ましてや、新閣僚についてもよく知らない人がいたりする。
それはそれで仕方がないが、政争中心の国会運営だけはもう終わりにしていただきたい。

「どじょう」内閣の野田総理は、「中庸の政治」がどうやら信条らしい。
でも、寛容と忍耐だけでは、救国の政権たりえない。
乏しい人材を承知の上で、本当の挙党体制をどこまで構築できるか。
そして、山積する難問、諸問題を迅速かつ確実に遂行できるか。

全てが、待ったなしである。
喫緊の課題から、まっしぐらに実行あるのみだ。
ただ、いまだ新総理の具体的な政策は見えない。
日本のリーダーとして、それを速やかに解りやすく、国民の前に示してもらいたい。

仄聞するところによれば、松下政経塾出身の政治家に、政策論争の好きな、口達者の人が多いのだそうだ。
残念だが、その分、肝心の実行力が伴わないとも・・・。
政治を動かす力量に、どうしても疑問符が付く。
国民をうならせるような、哲学や見識と実行力を持った逸材は、どこにも見当たらない。

優れた政治家とは、なかなかいないものだ。
いまの政治家といわれる人たちは、政治を自分の出世の道具にしていないか。
私利私欲に駆られて、成り上がり根性だけで、国家のために自分が何をなすべきかがよくわかっていない。
そんな、寂しく貧しい日本の政治の未来に、夢や希望を抱けるだろうか。

政界は、みなドングリの背比べで、誰が首相になっても同じだと、すでに国民はあきらめ顔である。
この国は、いまそんな、しら~っとした閉塞感に満ち満ちている。
ため息ばかりで、人々の顔に、生気がないではないか。
それで、希望が持てるといえるのだろうか。

2年前の、あの劇的な政権交代は一体何だったのか。
新内閣への淡い期待も、わずかな希望どころか、またも虚しい幻想で終わるかもしれない。
古い自民党に戻るのではなく、新生民主党として再生できるのか。
泥臭い「どじょう」だって、何だっていい。有言実行あるのみだ。
前総理に続いて、野田総理にくすぶる火種も厄介だ。大丈夫なのか。
どっちにしたって、もう後がない民主政権の、いまが本当の崖っぷちだ。