「重大な異常事象」発生だ。
大変なことになってきた。
福島第一原発から、高濃度の放射性物質の汚染水が漏れ出した。
確かな原因もわからず、対応も遅れている。
タンクには、25メートルプール800杯前後、33万4000トンもの汚染水がたまるといわれるが、その総計は驚くなかれ2京7000兆ベクレルという、想像もつかぬような巨大な数字になる。
その汚染水が・・・。
あれから2年半、福島第一原発はいまだにトラブルが頻発し、事故は収束しておらず、東電は嘘という嘘をつき続けてきた。
原因究明もままならず、その対策もずさん極まりない。
しかも放射能汚染水の漏れといえば、原発事故発生以来ずっと続いている、そのさなかにまたである。
これは、決して想定外の事故ではない。
貯蔵タンクの多くは急ごしらえの一時しのぎのもので、5年が耐用年数だといわれる。
5年後に、またタンクを急ごしらえするのか。
同型タンク350基にも、漏洩の恐れが出てきた。
こんな状態では、汚染水は永遠に増え続ける一方だ。
これを、完全に処理することは不可能だろう。
そして最後は、高濃度放射能汚染水は大量に海に流れ出すだろう。
待ったなしである。
日本近海の漁業は、やがて立ち行かなくなる。
もはや、人間の作った原発もひとたびの事故で、人間の手には負えない事態になってきている。
チェルノブイリ原発は、たった一基の事故で廃炉まで100年以上かかるとみられている。
東電も、完全に手詰まり状態で期待できない。
それで今頃になって、国が前面に出る方針を固めたが、いかにも遅い。遅すぎる。
これから体制作りなんて言っているが、汚染対策の解決の糸口さえ見えてこない。
そもそも、タンクの貯蔵というこの一時しのぎの「最後の砦」も、いつかは崩壊の危機を迎える。
事態は極めて深刻だ。
核と人間は、共存できない。
完全なる安全などあり得ない。
これほどの汚染水流出問題なのに、日本のメディアは、何故かあまり大々的には取り上げていない。
海外では、異常な危機感をもって報じられているのに・・・。
福島沖を中心に、太平洋の汚染が進み、漁協などでは試験操業を中止した。
回遊魚のカツオ、マグロをはじめ、スズキ、イワシ、ヒラメ、アサリなど安心して食べられなくなりそうだ。
危険度の高い魚は、青森沖から房総沖まで泳いで回遊しているからだ。
今回の汚染水の流出で、浅いところで泳ぐ魚もかなり危ないといわれている。
専門家は、今後子々孫々10世代先まで、太平洋の魚を安心して食べられる日はないとまで断言している。
この先どうなることか。
日本の政治は、「改憲」などにいたずらにエネルギーを空費している。
憲法問題や消費税論議よりも、人の命に関わるこの汚染問題こそ緊急の最優先課題ではないか。
本当に、どうにかしないといけないのだ。
政治家は、国家、国民のために政治を行うために選ばれたのではなかったのか。
国民の命、人間の命を守る。
政治家は、いま何をしなければならないか、自らの生命を賭けて政治をしっかりと見つめなおしてほしい。
姑息な議論をしている場合ではない。
最近、本州を脱出して沖縄や屋久島へ移住し始めた人の話を、よく耳にする。
このままでは、日本列島は人の住めない国になる。
何としたことか。
そんなことは杞憂であってほしいのに、少しずつ現実味を帯びてきた・・・。(?!)
安心安全だからといって、産めよ増やせよと強引に原発を推し進めてきた自民政権の、万死に値する大罪とはこのことだ。
それで、性懲りもなく再稼動だと叫んでいる。
ここはきっちりと、国家国民のためにこれまでの責任を取って頂きたい。
「福島」を考えたら、ゴルフ三昧、海外旅行など、のうのうとしていられる場合ではない。
「やさしい嘘」(03)でデビューした、ジュリー・ベルトゥチェリ監督が7年間の時間を経て発表した、フランス・オーストラリア合作映画だ。
オーストラリアの雄大な自然を舞台に、突然愛する家族を失くした母と娘の再生のドラマである。
いつもよく映画のテーマとなる、大切な人を失ったときその家族はどう生きるかということを、この作品は温かな眼差しで綴っている。
人には必ず、大切な人との別れがある。
そして、それは突然訪れる。
ジュリー・ベルトゥチェリ監督自身、予期せぬ夫の死を乗り越えて完成させた作品で、美しい田園風景を背景に、生きることの喜びを込め、おかしみと優しさに満ちている物語を誕生させた。
オーストラリアの大自然の中、庭に大きなイチジクの木のある家で、ドーン(シャルロット・ゲンズブール)とピーター(エイデン・ヤング)は、4人の子供たちと幸せに暮らしていた。
ところがある日、ピーターが長期の仕事の帰りに、心臓発作を起こして死んでしまう。
夫の突然の死で、その喪失感からドーンの思考は停止してしまい、子供の世話どころか日常生活もままならない。
高校生の長男は、亡き父の役目を果たそうとアルバイトを始める。
そして、8歳の末娘シモーン(モルガナ・デイヴィス)は、死の意味さえ理解できず、父親が死んだときにふとぶつかった庭の木に「パパがいる」と、木とお喋りを始めるのだった。
またシモーンは、なかなか立ち直れない母親を元気づけようと、木にパパがいるという“秘密”を教えてあげようとする。
はじめは真に受けないドーンだったが、木に導かれるように話かけるようになって、徐々に心の平静を取り戻していくのだった。
ようやく動き出したドーンは、これまで働いたことなどなかったが、自分で仕事を見つけ、そこで雇い主のジョージ(マートン・サーカス)との関係が親密になり、明るさを取り戻していく。
しかし幼いシモーンは、母親ドーンがジョージと仲良くすることが気に入らない。
シモーンは、女として再び花咲かせようとする母親の気持ちを敏感に感じ取り、その抵抗から木の上で生活を始めるのだった。
・・・こうして、それぞれが少しずつ動き出した家族たちだったが、父親の死から一年後、ついに事件が起きる。
それに呼応するかのように、木は成長し、家族の生活を脅かし始める。
そこへ、想像を超えた大きな嵐がやって来た・・・。
大切な人の記憶を大木に重ね、その記憶を断ち切れずもがく家族がいる。
ここでは大木も、重要な“登場人物”のひとりなのだ。
オーストラリアで、2年もかけて1千本以上を見て回った中から、選ばれし大木だそうだ。
なるほど、見れば見るほど立派な木だ。素晴らしい。
ジュリー・ベルトゥチェリ監督は、この映画の中で、シャルロット・ゲンズブール演じる母親と、モルガナ・デイヴィス演じる8歳の娘との関係性を大事にしている。
父親を失くしたシモーンは、自分がしっかりしなければと自覚を持ちつつ、ある日母親にほかの男の影を見てしまったことで、父親だけでなく母親をも失ったように感じてしまうのだ。
こんな時の母親は、本当は強くなければならないのに、逆に弱さや脆さを露呈していく。
このあたりの描写は、とても繊細で細やかによく描かれている。
子役のモルガナ・デイヴィスの演技も上手いし、笑顔など観ていて、何という愛らしい少女かとすっかり魅せられてしまうほどに可愛い。
2001年生まれの彼女は、この作品での映画デビューとなったが、撮影当時はまだ7歳半だったそうだ。
彼女は、イチジクの木に登って遊ぶことが大好きで、このことは映画にも不可欠の要素だった。
そして、幼い彼女の演技は、なにせ驚くほど完璧だった。
あどけなさを持ちながらも、ときに大人のような表情を見せる新星モルガナ・デイヴィス、そして実生活でも3人の子供の母であり、少女っぽさを兼ね備えた等身大の母親像を演じるシャルロット・ゲンズブール、この二人の持ち味を存分に発揮した珠玉のような小品である。
ジュリー・ベルトゥチェリ監督のヒューマンドラマ「パパの木」は、その美しい映像とともに、一本の大きな木の下で繰り広げられる、心温まる寓話だ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
現代の日常から、被爆地長崎に暮らす人々の苦悩を、見つめなおす作品だ。
この地を舞台に、命と向き合う被爆者の苦悩は、どのようなものであったのか。
日向寺太郎監督は、多くの命が奪われた東日本大震災にも想いを馳せ、死についての映画を生についての映画として観せる。
大事故や災害で、家族や友人を失った人々は多い。
そんなことは当たり前のことだが、それを重く貴いものとして、この映画は紡がれる。
長崎在住の芥川賞作家青来有一の原作を得て、三世代にわたる人々の、記憶と現在の思いを丁寧に編み上げた、実に静かな作品である。
「私たちは、生まれる時代、国、場所を選ぶことはできない。
生まれた時、世界はすでにあり、私たちは、今まで生きてきた膨大な人々の末席にいる。
しかし、未来は私たちの現在によって作られる。」
日向寺監督は、この作品にその思いを込めた。
坂の上の団地に住む、大学3年生の門田清水(北乃きい)は、父母と平凡だが幸福な日々を過ごしていた。
ある朝、些細なことで母親と喧嘩をした。
その夜、家に帰ると、母親は心臓発作で死んでいた。
夕方電話を受けたのに、清水は出なかった。
あまりの突然の出来事に、清水はその死を受け入れられない。
一方、高森砂織(稲森いずみ)は、娘の沙耶香を失ってから一年がたとうとしていたが、哀しみからいまだに立ち直れずにいる。
砂織の実家は300年続くカトリックの家庭で、両親とも被爆者だった。
父母は、孫の死を「神の思し召し」と考え、試練を乗り越えようとしてきた。
ある日、砂織の妊娠が発覚する。
また子供を失うのではないかという恐怖と、生みたいという想いで、彼女は苦悩する。
砂織の夫はやり直そうといって彼女を励ますが、砂織は何故沙耶香を失ったのかという想いに、心が支配されていく。
やがて、清水と砂織は、浦上天主堂の近くで導かれるように出会った。
二人は、ともに大切な人を失くしたことを知り、お互いに欠けているものを求めあうように、心を通わせていくのだった・・・。
日向寺太郎監督の作品「爆心 長崎の空」は、母から娘へ、娘から母へ、その想いと生命(いのち)をつなぐ物語だ。
そいて、心身の傷痕を抱えながら生きる、ヒューマンドラマだ。
静かな日常が、ある日突然訪れた、家族の死という事件によって破られる。
沢山の命が失われた長崎爆心地周辺のこの街で、今を生きる人々がめぐり逢い、それぞれの過去を受け入れ、あたらしい一歩を踏み出す再生の日を迎えようとしている。
愛する存在と死別、それは残され者にとってこれほど悲しいものはない。
その悲しみは、癒えることのない深い傷痕となって、残された者の心に宿り、そこから立ち上がろうとする、もうひとつのドラマがある。
タカラガイを拾おうとして車に轢かれかけた砂織を、清水が偶然助けたことから始まった墓場での会話は、砂織は亡き娘の想いを、清水は亡き母への想いを語るところから、二人の間にほのかな共感が生まれる。
ここで交わされる二人の言葉は、二人の対話でありながら、また同時にそれぞれの愛する死者との対比でもある。
この作品の初稿が出来上がったころに、東日本大震災が起きて、長崎をテーマに映画の製作を考えていた日向寺監督は、長崎と福島、原爆と原発との共通項もあったかもしれないが、生死を分けて生き残った人、亡くなった人の分まで生きることの大切さを訴えたかったのではないか。
この作品は原爆を描いていても、それがこの作品のテーマではなく、いま長崎に生きる人々を描くことで、被爆地への記憶をたぐり寄せ、人生の別れから再生へと、人それぞれの想いを人生讃歌へとつなげるドラマに仕上げた。
昨日に続く今日は、また明日へとつながっていく。
まあ、もどかしいほどに静謐な、優しさに満ちた物語ではある・・・。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
朝な夕なに降りしきる蝉しぐれ・・・、立秋を過ぎて、ときに明け方は空気がひんやりとすることも・・・。
しかし、まだまだ酷暑の夏は終わりそうにない。
暑い毎日が続いている。
この映画は、昭和初期の戦前、戦中、戦後を勇気と信念を持って生きた、ある家族の真実のドラマだ。
1997年に刊行された、妹尾河童の自伝的小説を、降旗康男監督が初めて映画化した。
原作は少年Hの目で書かれているが、この映画での主役はその父親である。
降旗監督は、当時の神戸を舞台にしたたかに生きた彼らを、温かく見つめる。
戦中から戦後まで、その流れをきちんと描いたこの作品は、おそらくこの映画が初めてではないだろうか。
戦前の豊かで穏やかな生活があって、戦争がどういうものであったかを、問い直している。
昭和16年春・・・。
神戸の街で、洋服の仕立て屋を営む家族がいた。
父・妹尾盛夫(水谷豊)は、いつも柔軟な考えを持ち、家族を温かく見守り、母親・敏子(伊藤蘭)は大きな愛で家族を包んでいる。
そんな二人のもとで、好奇心旺盛な少年Hこと長男・肇(吉岡竜輝)、そしてHの2歳年下の妹・好子(花田優里音)との四人家族は、幸せに暮らしていた。
ところが、H一家の周囲でもいろいろな変化が起き始める。
近所のうどん屋の兄ちゃんが、思想犯として警察に逮捕されたり、召集令状が来たオトコ姉ちゃんが入隊せずに脱走して憲兵に追われるなど、徐々に不穏な空気が漂うようになっていく。
太平洋戦争が始まると、軍事統制も一段と厳しさを増し、自由な発言もしづらい時代になった。
盛夫はそんな時でも、周囲に翻弄されることなく、「おかしい」「何で?」と聞くHに、しっかりと現実を見ることを教え育てるのだった。
そして、家族の安否を心配する盛夫は、スパイや非国民とみなされないよう、自分の考えや信仰を心の中にしまっておくことが大事だと、家族を諭すのだった。
Hが中学校に入ると、彼を待っていたのは軍事政策ばかりだった。
盛夫は消防署に勤めるようになり、敏子は隣組の班長に、そして好子は田舎に疎開することになるなど、戦況が不利になるにつれ、それぞれの日常が激変していった。
ついに神戸大空襲に襲われ、終戦を迎えたとき、街は見渡す限り焼け野原となっていた・・・。
そうして、神戸も日本も新しく生まれ変わろうとする頃、Hの一家も小さいが確かな一歩を踏み出していくのだが、父親の盛夫の、いつもいきがっている息子を温かく包み込む姿勢に、好感が持てる。
頭ごなしにがみがみ物をいう父親の多いこの時代に、このような父親がいたのだろうか。
戦争から家族を守ろうとする父親を、この映画の引っ張り役である水谷豊が好演している。
お父さんは戦争に行くのと息子に問われて、行かないから大丈夫だよと答えるとき、戦争には反対だけど、国民の一人として戦わないことは恥ずかしいと、葛藤する表情をのぞかせる父親であった。
降旗康夫監督の映画「少年H」は、戦争を体験した人にはあの時代を思い出させ、体験していない人には戦争ってこうなんだと思わせる、それを息子と父親のいい話として綴った、そういう作品である。
70年近くもたって、いまや太平洋戦争のことも忘れ去られようとしている。
父親と母親役の水谷豊と伊藤蘭のコンビは、なかなか息の合ったところを見せているが、小学生から中学生までの10歳からの5年間を同じ子役で演じた吉岡竜輝には、かなり無理もある。
それに元気のいいのはいいとしても、気負い過ぎの感も・・・。
子供らしい日常の遊びがあったことなど、活き活きと伝えてはいるけれど・・。
それと、家族団欒もいいが、テレビドラマでもそうだが、やたらと卓袱台(ちゃぶだい)を囲んで食事のシーンの多いのも気になった。
感心したのは、当時の神戸の街並みもそうだが、空襲の翌日の一面焼け野原のシーンだ。
クライマックスは、焼夷弾が音を立てて人家に突き刺さる夜の空襲のシーンで、空を焦がす赤い炎に、身の震える幼き頃の記憶が嫌でもよみがえる。
悪魔の花火のように見える夜空とあの焼け野原は、忘れもしないあの頃の自分の瞼に、今でも鮮烈に焼き付いている。
このシーンだけで撮影は一週間がかりだったそうで、十分に納得のいく神戸大空襲の画面は、何にもまして迫力満点だ。
空襲警報のサイレンが鳴り、敵機(B29)来襲に脅え、慌てて防空壕に駆け込んみ、ひたすら無事に通り過ぎるのを祈るように手を合わせていた。
焼夷弾や爆弾が投下され、もしかしたら本当に死ぬかもしれぬという恐怖と闘いながら・・・。
空襲と聞くたびに、まんじりともしない恐い夜々が続いた。
今でこそ飽食の時代だが、食糧もままならず、ひもじく貧しかったあの終戦直後・・・。
やがてラジオから流れる、並木路子の「リンゴの唄」が一世を風靡する・・・。
しかし…、と誰もがきっと思うのではないか。
空襲は嫌だ。嫌なものだ。あんな嫌なものはない。
恒久平和のもと、日本はいつまでも戦争をしない、戦争のない国でありたい。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
故若松孝二監督の反骨精神を継ぐ、井上淳一監督が満を持して世に問うデビュー作である。
暴力とエロスの側面から、戦争の愚かさを描き切って、、そこには原作者坂口安吾の厭世観がにじむ。
日本映画がこれまで封印してきたタブーに、果敢に挑戦した文芸ロマンだ。
坂口安吾の短編小説を、荒井晴彦の脚本が忠実にたどる。
原作は、おそらく作者の体験に近い。
敗戦前後の東京と近県を舞台に、「どうせ戦争で滅茶苦茶になるんだから、お互い滅茶苦茶に暮らそう」といって、虚無的な男と女が同棲生活を始めるところから、このドラマは始まる。
何とも、荒々しい性生活を重ねながら、戦争や空襲をあたかも楽しんでいる風に見える。
戦争の非人間性は、よく描かれている。
女(江口のりこ)は元娼婦で、男(永瀬正敏)は坂口安吾自身と思われる飲んだくれの作家だ。
自分自身に忠実に生きようとする女と、戦争に絶望した男がいた。
そこにもう一人、中国戦線で片腕を失い、戦争を十字架のように背負った帰還兵大平(村上淳)が、傷痍軍人で登場する。
女と作家の野村は、ただひたすらに体を重ね、帰還兵は自らが戦争の不条理と化し、何の罪もない女を犯し続ける。
戦争には、被害者も加害者もない。
どのように生きようとも、戦争からは逃れられず、何もかもが失われていく。
それでも人間は生きていくし、いかねばならない。
女は夜の空襲を素晴らしいと言って賛美し、そして戦争が好きらしい。
自分たちの住む街が、劫火の海に包まれる日を待ち構えてる。
そして、そうなる。
ここでは、男も女ももともと戦争賛美者だ。
・・・戦争が終わり、野村はドラマの終わり近くで死を迎える。
ドラマの最終場面、女が大平と交錯して迎えるそのあと、ひとり歩く女をカメラは捉える。
かつて野村と歩いた運河のほとりで、一本の焼け残った木の傍らに立ち止り、お腹に手を当てて、亡き野村に向かって女は呟く。
「先生、ごめんなさい。アイノコを生む約束、守れなかった・・・。私、日本人を生むわ」
空を見上げて微笑みを浮かべる彼女は、本当に強姦魔の子を産むのだろうか。
この作品には、戦場は描かれていない。
それでも、戦争の悲惨さは描かれている。
女性が殴られ、転がされ、なぶりものにされ、首を絞められ、死の恐怖にまで追い込まれ、ときには仮死状態となって、最後は真っ裸にされ、本当に殺されてしまうのだ。
そんな場面をスクリーンで見るのは辛いものだ。
しかしこれこそが、間違いなく戦争の実相なのだ・・・。
目をそらしてはならない、直視すべき画面だ。
そうだ。戦争は、非人間性そのものなのだ。
井上淳一監督の作品「戦争と一人の女」は、女の開き直りともとれるセリフが、いい脚本でありながら一本調子なところもある。
全編を通して退廃的な雰囲気が濃いが、人間のやりきれなさ、脆さ、弱さ、それでいて逞しさやしたたかさに加え、哀しさ、可笑しさを抱きながら、どうしようもなく生きている男と女を描いている。
女はむしろ、馬鹿がつくほど正直だ。
女はどこか頭が足りないように見えて、しかし自分に対しては、とことん忠実で、決して弱きものではなく、あざとくさえ見える強い女だ。
一般社会の通念で考える価値観と、彼女の持つ価値観は明らかに違うものだ。
坂口安吾の原作は、初出はGHQ当局によって検閲削除された部分が多いが、この作品ではそれらを復元して映画化している。
映画を観る限りでは、これは確かに危険な映画だ。
非日常の戦争を楽しみ、その暴力に刺激されて暴行し、女を犯し、生命を燃焼させる。
男といっしょに空襲に逃げまどいながら、振り仰ぐ空は真っ赤な悪魔の色だった。
坂口安吾の、声なき叫びを聞く思いがする。
登場人物たちはみな力演なのだが、キャスティングには一考の余地もありそうだ
江口のりこの演技には固さがあるし、永瀬正敏はもっと凄惨さがあってもいいのではないか。
この映画は、もっとも低予算で製作されているようだし、それに大胆な演出となると、出演者の方が尻込みしてしまうかもしれない。
井上監督は、戦争の不条理と性暴力の実相を炙り出している。
太平洋戦争末期の、男女の交錯する運命を描いたこのような作品、坂口文学にいささかでも関心がないと難しいかもしれない。
余談になるけれど、アジアで、そして日本で、合わせて2300万人以上もの犠牲を出して、その上に成立されたとされる、日本国憲法の改正(改悪?改変?)論が世上で話題になっており、自衛隊を国防軍に変えて、日本が戦争できるようにする動きまで出てきた。(!!)
戦前回帰へ、怖ろしい世の中にならなければよいが・・・。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
(本文一部改訂)
深い神話性を帯びた、キム・ギドク監督の韓国映画だ。
「嘆きのピエタ」とは、十字架から降ろされたキリストを胸に抱いている、聖母マリアのことだ。
母と子の復讐と救済、そして無償の愛を描いている。
ギリシャ悲劇を思わせるような設定だ。
痛切な人間の業を描いて、ひりひりとした痛みさえ覚える。
怖ろしいほど荒涼とした、孤独な人間たちの魂の世界である。
冷酷無比な借金取りの男ガンド(イ・ジョンジン)は、生まれてすぐ親に捨てられた。
天涯孤独の男である。
ガンドは、自分の暮らしている町工場のひしめく地域でも、悪魔のように恐れられていた。
そこへ、突然母を名乗る謎の女ミソン(チョ・ミンス)が現れる。
彼女は、本当にガンドの母親なのだろうか。
最初は疑心暗鬼のガンドだったが、彼女から注がれる愛情の前に、次第にミソンを受け入れていく。
・・・女から注がれる無償の愛を知って、ガンドは借金の取り立て屋から足を洗おうとする。
その矢先、ミソンが突如姿を消した。
心配して、一晩中待ち続けるガンドだったが、その頃ミソンはある工場にいた。
借金の末に、ガンドに障害者にされた青年が、自ら命を絶った場所であった。
彼こそが、ミソンの最愛の息子サング(イ・ヴォンジャン)だったのだ。
冷蔵庫に保留したサングの遺体にすがって、ミソンは号泣していた・・・。
高利貸しに雇われた取り立て屋ガンドは、金を返せない者には、保険金を払わせるために手を切断したり、重傷を負わせるといったことを繰り返す、鬼畜のような血も涙もない男だ。
女のあまりにも必死の態度に、彼は彼女への愛情がわいてくるのだが、そこから物語は二転三転と方向転換を始める。
50年間をこの町で生きてきて、ガンドの厳しい取り立てにあうある男の一人は、ビル群を指さしながら自殺する。
現代のソウルは、カネを動かして冨を得る人々ばかりが、優遇されているという。
キム・ギドク監督は、この作品の中に、金融資本主義にのみ込まれた社会を象徴するシーンを散りばめる。
この男のみならず、生まれてくる子供のために、自ら腕を切り落とされることを望む者など、借金を取り立てる側の人々を極めて冷静に見つめる。
時代に取り残されたような、零細工場群をカメラがとらえる。
そこは、監督自身がかつて働いていた工場街だ。
彼の作品は、貧しき者から暴力への怒りが出発点にある。
キム・ギドク監督は、いまでこそ国際的に高い評価を受けているが、韓国での興行収入はほめられたものではない。
どうも、派手な人気スターを起用しないからだとも言われているが、そればかりではない。
娯楽性よりも芸術性の高い作品を、彼が目指しているからだという声も聞かれる。
1960年、貧しい山村に生まれた彼は、10代を工場労働者として、20代で軍隊に入り、除隊後は障害者施設で働きながら夜間の神学校へ通い、30代でシベリアに渡り、路上画家として3年間を送った。
異色の経歴の持ち主である。
低予算で、かつ短期間で撮影された作品は、ストーリーの暴力性から常に批判と物議をかもし、一方で海外の映画界で次々と受賞を重ねていた。
熱狂的なファンがいるのも、また事実である。
この作品は、1912年ヴェネチア国際映画祭で、韓国映画で初めて最高賞・金獅子賞に輝いた。
その効果もあり、国内で60万人を動員し、興行成績も好調だった。」
しかし、キム・ギドク監督は、大作がスクリーンを占有し続ける、韓国映画界の現状を鋭く批判し、本作「嘆きのピエタ」の国内での上映を4週間で自ら打ち切ったそうだ。
まあ、ありていに言えば、鬼才と呼ばれるほどほとばしる才能を持ちながら、異端の存在ともいえる監督だ。
このドラマのミステリアスな展開は、予測がつかない。
ガンドがミソンの胸の中で眠るシーン、そのうぶな少年のような表情、そしてついに本性を現すミソンとガンドがのたうちまわり、最後の安らぎは残酷な姿で・・・。
思いもかけぬどんでん返しの果てに、キム・ギドク監督の、驚愕の真骨頂を見せつけられる!
凄い!
母性に身悶えする“母”を演じる、ミソン役のチョ・ミンスの素晴らしい演技に、胸が締め付けられそうだ。
怖ろしい物語だが、これはもう秀作に近い。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
暦の上では早くも立秋だというのに、降るような蝉しぐれ、そして朝から猛暑である。
この暑さを吹き飛ばすような、王道エンターテインメントの登場だ。
とにかく、面白さ爆裂!だ。
「パオレーツ・オブ・カリビアン」三部作で世界中を席巻した、ゴア・ヴァービンスキー監督のアメリカ映画だ。
1930年代にはラジオドラマとして、また1949年には、全211話という驚異的なでテレビドラマがブームとなり、日本でも1958年から6年間放送された。
この頃が、空前の外国ドラマ全盛時代だったと思われる。
当時黒いマスクをつけたローン・レンジャーは、子供たちの憧れの的であり、人気は社会現象化した。
そして今ここに、聖なるヒーローと悪霊ハンターの善悪入り乱れての、新しい娯楽大作として甦った。
とことんたくさんのお話で観るスーパーアクションが、観客の目をくぎ付けにせずにはおかない。
恐らく、この夏一番のA級娯楽映画ではないだろうか。
少年時代のある忌まわしい事件のせいで、復讐に燃える戦士となった悪霊ハンター、トント(ジョニー・デップ)は、不思議な白馬シルバーの導きと自らの聖なる力によって、瀕死の検事ジョン・リード(アーミー・ハマー)を蘇らせる。
レンジャー部隊の英雄である兄ダン(ジェームズ・バッジ・デール)を、何者かに殺されたジョンは、兄の敵を探すためにトントと手を組む。
若き検事ジョン・リードが、黒いマスクをして正義の味方ローン・レンジャーとなり、頭にカラスの飾りをつけた先住民トントがその従者となる。
だが、法に基づく正義の執行にこだわる彼と、復讐のためには手段を択ばないトントとは、全くかみ合うことのないコンビだった。
1933年のサンフランシスコで、ひとりの少年が、遊園地のアメリカ開拓時代の展示室で、頭にカラスを乗せた老人の異様な迫力にひきつけられる。
はじめ人形だと思ったそれは、実はトントだったのだ。
ここから、60年以上もさかのぼった1869年から、この物語は幕を開ける。
そして、大陸横断鉄道の建設、銀の採掘、弟ジョンの兄嫁レベッカ・リード(ルース・ウィルソン)によせるレンジャーのひそかな愛など、波乱がいっぱいだ。
ドラマは、様々な謎めいた断片がつながり合って綴られ、異なる信念を持ちながらも、同じ目的を持つジョンとトントの間には、奇妙な友情さえ生まれ始める・・・。
ジョニー・デップのカリスマ的な存在感には、やはり一目置かざるを得ない。
彼の曾祖母が先住民族だったというから、独特の個性が発揮されていて面白い。
今回の作品「ローン・レンジャー」は、最新作ならでのビッグスケールと、新解釈を目いっぱいに詰め込んで、最後まで観客を飽きさせない。
鉄道も機関車もすべてが本物で、徹底してリアルを追求した、ダイナミックなお膳立ては見事である。
映画の冒頭と後半のクライマックスで、観客の度肝を抜くのは、その暴走する列車を駆使した、列車そのものによる派手なアクションシーンだ。
何と、そのために、19世紀のアメリカの機関車を、二台もフルサイズで作ってしまったのだ!
実際に、時速64キロの速度で走る列車の屋根の上で、ジョニー・デップはアーミー・ハマーとともに走るというスタントまで、自ら演じてしまった。
脱線した列車が、ローン・レンジャーとトントに向かって猛スピードで突進してくるショットも、リアルなセットで撮影されたものだそうで、空中に飛び跳ねる機関車の壮絶さは、二つの列車があたかも決闘しているかのような、強烈な印象を与える。
物語の背景にはアメリカ西部の大自然があり、この壮大なアドベンチャーは、極力CGを排除した作りが何とも超リアルである。
衣装といい、メイクといい、小道具といい、2013年版「ローン・レンジャー」は、総勢274人もの美術チームで西部の町をつくり、圧巻の大陸横断鉄道を走らせ、何から何まで最新の西部劇大作の趣きだ。
ゴア・ヴァービンスキー監督のアメリカ映画「ローン・レンジャー」は、この夏の暑さを吹き飛ばすような、壮快無比、文句なしに楽しめる、久々の娯楽超大作といってよい。
大人も子供も、手に汗握る、息をもつかせぬ2時間30分である。
百聞は一見にしかず、是非ご覧になっていただきたい。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
美しくも残酷な、ひと夏の出来事を描いている。
映像は鮮烈で衝撃的である。
青春といえば、美しい夢の人生と思いきや、危険で濃密な人間模様の中で負う傷は痛々しい。
リー・ダニエルズ監督のアメリ映画は、ある殺人事件に翻弄される男と女たちの物語だ。
それはミステリアスな禁断の青春のドラマで、人間の持つ内なる心と、社会に潜む得体の知れないダークサイドを、スリリングに描いている。
うだるような蒸し暑い夏、1969年のアメリカ・フロリダ・・・。
青年ジャック(ザック・エフロン)は、人生の道標を見失っていた。
将来有望なスイマーだったジャックは、ある問題を起こして大学を中退し、地元で小さな新聞社を営む父親(スコット・グレン)のもとで、配達を手伝いながら、やりたいこともなく退屈な日々を過ごしていた。
母親は幼い頃に家を出てしまい、父親の現在の恋人エレン(ニーラ・ゴードン)には全くなじめない。
ガールフレンドもいない、ジャックの心を許せる話し相手は、黒人メイドのアニタ(メイシー・グレイ)だけだった。
そんな、ジャックは、大手新聞社に勤める兄ウォード(マシュー・マコノヒー)の取材を手伝うかたわら、運転手として働き始めた。
そこで、オフィス代わりのガレージを突然訪ねてきた、謎のような女シャーロット(ニコール・キッドマン)と出会い、本気で恋をした。
しかし、彼女には婚約者ヒラリー(ジョン・キューザック)がいて、切ない想いを募らせていく。
ヒラリーは、ある殺人事件の容疑者で、すでに死刑が確定していたが冤罪事件の疑いもあって、取材助手を務めることになったジャックは、その殺人事件の真相をめぐって、濃密な人間模様の中に引き込まれ、そのことが彼の人生を大きく変えてゆくことになるのだった・・・。
初めてジャックが本気で恋した女性は、死刑囚の婚約者だった。
謎を深める殺人事件の真相と、兄の衝撃的な秘密が明かされ、主人公ジャックの、魅惑の狂気の夏は悪夢の闇へと誘われていく。
それはまさに、人生が一変してしまうような悪夢の出来事だった。
目を覆いたくなるような、凄惨で壮絶なシーンも飛び込んでくる。
ハリウッドスターたちの、どこまでが演技なのかわからないほど、演技合戦は見事だ。
ニコール・キッドマンらの鬼気迫る演技にも驚かされるが、俳優というのは、いやあ、あそこまでやりますか。
アメリカ映画「ペーパーボーイ 真夏の引力」は、ピート・デクスターという人の小説が原作で、それはとある黒人女性の回想という形で語られる物語だ。
純情青年が想い焦がれる年上の女性への思い、そして当時流行のソウル・ミュージックが流れ、甘美としかし狂気も混在し、ドラマの背景には不穏な猟奇が漂い、そこに殺人事件の謎がある。
アメリカ南部の独特の人種差別といった、社会事情もあるようだ。
主人公ジャックの心の傷は大きい。
この白人青年が出会う過酷な現実が、観ているものを情け容赦なく、きりきり刺してくる!
青春とは、美しいことばかりではなさそうだ。
リー・ダニエルズ監督の演出は自由奔放で、映像にもかなり凝っており、展開からも当然目が離せない。
真夏の引力は、観客にまで否応なく及ぶ・・・。
刺激はかなり強烈だが、この夏どちらかというと男性向けの一作である。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
戦いの果てに、分かり合えるものがあるのだろうか。
この映画は、終戦直後の日本が舞台である。
当時、連合国軍最高司令官だったダグラス・マッカーサー元帥は、アメリカ人准将に真の戦争責任者を探すよう命じる。
ピーター・ウエーバー監督は、日本の文化、とりわけ日本人の精神性や天皇に対する、特別な感覚にまで踏み込もうとした努力はうかがわれる。
アメリカ人の書いた脚本(デヴィッド・グラス、ヴェラ・ブラシ)は、日本人の心をどうつかんだか。
マッカーサーも、日本文化の重要性はよく理解していたと思われる。
日米文化の違いを乗り越えることで得られるものもあるが、この作品はどちらに偏ることもなく、日本側、アメリカ側の両側面から描かれたドラマだ。
日米の名優たちの豪華競演という点では、大いに魅力はあるが、それにしては結構地味な作品だ。
1945年8月、日本は連合国に降伏し、第二次世界大戦は終結した。
そして、ダグラス・マッカーサー元帥(トミー・リー・ジョーンズ)率いるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が、日本に上陸する。
マッカーサーは、軍事秘書官ボナー・フェラーズ准将(マシュー・フォックス)に、ある極秘任務を命じる。
それは、太平洋戦争を引き起こした、本当の責任者は一体誰なのかを解き明かすことだったが、日本文化を愛するフェラーズでさえも危険で困難な任務であった・・・。
生々しい空襲の跡を見て、フェラーズは崩壊寸前の日本を助けようと決意するが、そこには個人的な想いも絡んでいた。
フェラーズは大学生の頃、日本からの留学生アヤ(初音映莉子)と恋に落ちるが、彼女は父の危篤のためたまたま帰国していたのだった。
・・・あれから13年、フェラーズは片時もアヤを忘れたことはなかった。
フェラーズの日本での公的、私的両面の調査は、幾度も行き詰まる。
戦争を始めたのが誰かは、わからない。
だが、終わらせたのは天皇だ。
フェラーズはマッカーサーに、証拠のない推論だけの報告書を提出する。
戦争を裁くという大義の奥には、連合国やマッカーサー、さらには日本の元要人たちの思惑が激しく渦巻いていた・・・。
日本の運命を決定づけたダイナミックな物語なのだが、一方でまた国家という壁や、時代の荒波を超えて愛し合った男女のラブストーリーが絡むという構成だ。
このハリウッドの大作に、アヤ役の初音映莉子をはじめ、西田敏行、中村雅俊、伊武雅刀、片岡孝太郎、夏八木勲、桃井かおりといった実力派が終結した。
「ラストサムライ」「SAYURI」などのキャスティングを手がけた奈良橋陽子が、プロデューサーの一人に名を連ねている。
実話をもとに、フィクションを織り交ぜて展開するスリリングな物語は、確かにせめぎ合う人間たちの熱いドラマには違いないが・・・。
フェラーズは実在の人物だが、歴史秘話として描かれる、日本人女性アヤの恋模様はどうもいただけない。
むしろ、なかったほうがよかったのではないか。
このメロドラマティックなラブストーリーの部分は、このドラマには中途半端で必要なかった。
それに、冒頭の原爆投下のシーンは毎度おなじみだが、それとてここでも必要だったか。
しかも、ピーター・ウェーバー監督のアメリカ映画「終戦のエンペラー」は、肝心の「エンペラー」が描かれていないに等しい。
これだけ大見えを切ったタイトルなのに、作品の内容は薄っぺらだ。
天皇史観、日本人思想についてもよく研究したと言っているが、映画の内容はあまり感心できたものではない。
「終戦」「エンペラー」を扱いながら、作品には鋭利な切込みもなく、期待される重厚さもない。
拍子抜けである。
トミー・リー・ジョーンズはユーモアもあって存在感もあるが、‘サスペンス超大作’という触れ込みはちょっと大げさすぎる。
作品はどうにも、これまた人気先行といった感じが強い。
ただ出色は、戦後の東京の焼け野原を映し出したカット、このあまりにもリアルな風景にはぐっとこみあげてくるものがあって、圧巻である。
この景色、現実に、私は幼かりし頃目の当たりにして、いまでもまぶたの裏に鮮やかに焼き付いている。
驚いた。あまりにもそっくりではないか。
生涯、忘れえぬ風景である。
戦争という悲劇は、二度と繰り返してはならない。
平和憲法を、いつまでも守っていくべきだ。
日本は、戦争をしない国なのである。
[JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点)