徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

アナログ放送終了!―堕落と放埓のテレビとお別れする人も―

2011-07-30 07:00:00 | 寸評

蝉の鳴き声を聞いて、ちょっと安心した。
本格的な暑さは、まだまだこれからだろう。

・・・アナログ放送が終了して、地上デジタル放送へ移行して一週間になる。
これで、テレビを買い変えていないから地デジが視聴できないかといったら、どうも、そうばかりではないのである。
地デジ移行ということで、いろいろ取りざたされていたが、ケーブルテレビ局の「デジアナ変換」とやらで、デジタル波を変換してアナログテレビでも視聴できるようにしているので、ケーブルテレビ局と視聴契約を結んでいなくても、一部集合住宅(マンション)などでは、アナログテレビでも視聴できるところがある。
このサービスによって、2015年3月までは、いままでのブラウン管テレビでも、普通に地デジを視聴できるからだ。
これによって、大分助かるという声もあるが、それでもなお、地デジ化未対応で、テレビを見られない人たちがまだ数万世帯はあるといわれている。
そうだ。'国策’の犠牲者だ。

一時、家電量販店には、急遽テレビの買い変えで行列が絶えなかったが、そんな狂騒をよそ目に、この機会に、テレビにさよならした人たちが結構いる。
長いことテレビの恩恵にあずかってきたが、新たにお金もかかることだし、この地デジ完全移行を機に、思い切ってテレビのない生活を選んだという人たち・・・。
今までも、普段テレビをほとんど見ないという世帯もかなりあるといわれ、たまにしか見ないテレビを買い変える余裕もないし、あってもそんなものに金を使いたくない、といった声も聞かれる。
だから、情報といったら、これからは新聞とラジオだ。
それで十分だといって、笑っているお年寄りがいるかと思えば、さんざんテレビっ子で育ってきた大学生でさえも、「テレビがなくても全然困らない」という。
テレビとの付き合いを断つという人は、老若男女を問わず少なくない。

最近は、テレビ自体への興味も薄れてきているし、本当に見たいテレビ番組がなくなってきているのも事実だ。
ある高齢の女性が、言っている。
 「今のテレビには、後に残るものがないんです。つまらないお笑い番組ばかりで・・・。漫才だって、昔は社会を風刺するお笑いがありましたけど、そういうのはなくなりましたね」

そういえば、本当に最近は、質のいい、面白いテレビ番組は少なくなってしまった。
これ、まさに実感だ。
ふざけたヤラセ番組だったり、素人の学芸会番組だったりで、どうしようもない堕落ぶりだ。
たとえば、まず知らない人はいない、おなじみの長寿番組の「笑点」も、始まった頃はいまよりずっと面白かった。
司会者は三波伸介で、1970年から1982年ごろまで続いた。これがまた上手い司会で、よく笑わせたものだ。
それに出演者の質もかなり高かったから、これこそ大人のお笑い番組だと思ったものだ。
ところが、いまは、あの体たらくだ。
まるで素人で、これがプロの芸人のやることとは思えない。これでは、見る方もいい加減躊躇するというものだ。
この番組もマンネリに陥ったまま、いつからこんな風になってしまったのだろうか。

ニュースなど報道番組にしても、ワイドショーにしても、今回の放射能被害などの災害報道ひとつとってみても、本当に国民のための真実を伝えているのかは、大いに疑問だ。
情報は、果たして正確か。
コメンテーターにしても、たとえば原発反対派の意見はほとんど取り上げず、取り上げても、きわめて一般論的な当たりさわりのない批判で、どこか白々しい。
報道姿勢や体質にも問題がある。
コメントが局の方針に反すれば、正しい発言でも控えさせられ、場合によっては降板させられるといった具合だ。
原発問題でも、賛成派と反対派の専門家の意見などがそうで、極力賛成派でまとめようとしているのが、あまりにも見え見えなのだ。
だから、つまらないのだ。
これで、公正な報道といえるだろうか。
大新聞をはじめ、テレビも、いろいろな思惑が絡んでいるから、情報のひとつひとつを100%真実かどうか、疑ってみる必要がある。
国民は、マスコミを信じられなくなったら、何を判断材料として信じればよいのだろうか。
新聞の読み方、テレビの見方を、よくよく考えないといけない。

デジタル放送は、高品質の画像が売りだから、やはりアナログ時代から比べれば雲泥の差だ。
見ていて、画像そのものは実に綺麗だし、言うことなしなのに、チャンネルも多いわりに、くだらない低俗な番組が多すぎる。
やりたいほうだいのハチャメチャなバラエティ番組といい、時間つぶしの再放送や再々放送番組、ヤラセの捏造番組、安直なトレンディドラマ、それでいて延々と続く民放のコマーシャルだけは威風堂々(!!)として等々・・・。
これでは、貴重な電波がもったいない。電波は国民共有のものなのに・・・。

高品質、高画質の地上デジタル放送が、さめざめと泣いている。
みっともないテレビ、どうしようもないテレビ、ごくごく少数の上質で素晴らしいテレビ番組もあるなかで、我が物顔の放埓テレビ・・・。
たかがテレビ、されどテレビ・・・、テレビ不要派は嘆いている。
 「もう、テレビなんていらない。テレビのない暮らしをしてみて、本当に必要だと感じたら復活させるかも・・・」
地デジ化を機に、堕落と放埓のテレビとは、いっそお別れしたいという人の気持ちがよくわかるというものだ。
まして、こういう時代だからこそ、必要のないものは買わないで、本当に必要なものだけを買うという知恵も大切だ。


映画「赤い靴」―60年前のあの名作が見事に現代に甦る―

2011-07-27 20:32:03 | 映画


     どうしたことか、今年の夏は、蝉の鳴き声がほとんど聞かれない。
     放射能の影響か。地震の予兆か。
     春先の、低温の影響があるのかも知れない。

     ・・・さて、この映画は、時代をはるかに遡ることになる。
     1950年3月1日、東京有楽座で1本の洋画が日本初公開された。
     アンデルセン童話「赤い靴」をベースに綴られた、バレエダンサーの悲劇を描いたものだった。
     この映画、56日間で33万人もの観客を動員したそうだ。
     当時その影響で、靴業界では“赤い靴”が流行したといわれる。




 







マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー両監督
によるイギリス映画だが、2年かけて新たに制作されたデジタルリマスター・エディションで、半世紀以上を経てここに見事に甦った。 
いまでも、バレエ映画の不朽の傑作とまでいわれている。
何故なら、この映画のヒットで、日本では空前のクラシックバレエ・ブームが起こったからだ。
いまの世代で、この作品を、当時観たという人は、残念ながらそんなに多くはないはずである。
その映画を、いま観られるのは幸運だ。

世界のプリマを夢見るヴィッキー(モイラ・シアラー)は、バレエ団主宰者レルモントフ(アントン・ウォルブルック)に見出される。
彼は、ヴィッキーを新作「赤い靴」の主役に抜擢する。
公演は成功し、ヴィッキーは作曲家クラスター(マリウス・ゴーリング)との恋も実らせ、結婚を誓った。

しかし、レルモントフはヴィッキーに踊り続けることを強いるのだった。
彼は、愛を選ぶことと踊り続けることの両立は不可能であり、不確かな人間の愛に頼るダンサーは決して芸術家にはなれないと、ヴィッキーに言い放つのだった。
ヴィッキーは苦悩し、そして悲しい結末へ・・・。

イギリス映画「赤い靴」は、バレエダンサーの2つに引き裂かれる心を描きながら、芸術に生きる道を進む者が背負う運命について、語りかけてはいる。
ただ、どちらかというと、メロドラマ的な要素がやや強いかも知れない。。
半世紀以上の時を経て、この作品のオリジナル・ネガの修復作業を、初めて手掛けたのはマーティン・スコセッシ監督で、完成には2年の歳月をかけたそうだ。
そして、彼の努力が、ここに見事な映像を甦らせたのである。
「赤い靴」へのリスペクトを公言している映画監督は多いが、彼だけがデジタルリマスター・エディションを完成させ、2009年カンヌ国際映画祭で世界初公開された。

音楽は、トーマス・ビーチャム指揮のロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団が演奏し、バレエ「赤い靴」は、映画芸術に革命(?)をもたらし、その衝撃はいま観ても色褪せることはない。
「白鳥の湖」「ジゼル」「コッペリア」「レ・シルフィード」といった、おなじみの古典バレエの名場面が、惜しげもなく散りばめられているのも、見どころのひとつだ。

数々のバレエのシーンで、一番の見どころは、何といっても17分間に及ぶバレエ「赤い靴」の場面だ。
初々しい白の衣装に身を包んだヴィッキーが、軽やかにステップを踏み始める。
名作「ペトルーシカ」を思わせる広場のにぎわいが、いつの間にかおどろおどろとした幻想に変わる。
そして、現実がセロファンになって、剥がれてゆく・・・。
生の舞台では出来ない特殊効果を駆使しつつ、登場人物の心理描写に分け入っていくところは、全編を通しての山場だし、極めて刺激的でさえある。
靴屋の顔がレルモントフになり、恋人になり変わる妄想は、愛すべき対象が自分を苛み、破滅に導く女の運命を暗示する・・・。
しかし、この映画の、あまりにも唐突な結末はいただけない。
ちょっとびっくりだ。

・・・赤い靴は踊り続ける。
疲れを知らない赤い靴は、彼女を外に連れ出した。
時を追い越して、恋を置き去りにし、人生を駆け抜けて。
赤い靴は踊り続ける・・・。

アンデルセン童話「赤い靴」は、カーレンという名の美しい娘が主人公で、この物語から映画「赤い靴」が発想されていることは確かだ。
カーレンは、赤い靴への執着心を抱いている。
それは虚栄心であり、教会での祈りや近親者への情愛よりも赤い靴を大事にするという点で、彼女はその高慢な虚栄心を罰せられることになる・・・。
ただし、主軸は同じでも、パウエルバーガーは、童話の「赤い靴」のテーマを完全に変更し、アンデルセンのいう、虚栄心への罰というキリスト教的な意味合いを拭い去って、人生を犠牲にしてさえ表出される、芸術への衝動というのか、より普遍的な主題に置き換えている感じを強くする。

ヒロインを演じたモイラ・シアラーも、二枚目俳優アントン・ウォルブルックも、もうこの世にいない。
男っぷりのいいウォルブルックは、重い存在感を放っていて、あまりいい男なのでほれぼれするほどだ。
人生と芸術という相克の、どこまで迫りえたかはともかくとして、音楽とバレエ、そして色彩の美しさがコラボレートされた、よき時代のこの作品が現代に甦ったのは奇跡的なことです。
しかも、綺麗な映像のままで・・・。


映画「木漏れ日の家で」―炎の命の輝きを人生の最後に見つめて―

2011-07-22 16:46:00 | 映画


     ポーランドの森で、ひとり美しく年を重ねた老女は、過ぎ去りし日々を回想する・・・。
     鮮烈なモノクロームの映像が、ドロタ・ケンジェジャフスカ監督自身の脚本で綴られる。
     ポーランド映画珠玉の一作である。
      撮影時91歳の名女優、ダヌタ・シャフラルスカの演技が際立っている。








 







1975年ポーランド・・・。
ワルシャワ郊外の森に、一軒の古い屋敷がある。
91歳になるアニェラ(ダヌタ・シャフラルスカ)は、この家に、愛犬フィラデルフィアとともに長く暮らしていた。
しかも、年老いたいまも、みずみずしい自らの感性を失わず、ひとりで誇りを持って生きていた。

戦前に両親が建てた古い家は、彼女が生まれ、成長して恋をし、夫と暮らしてひとり息子ヴィトゥシュ(クシシュトフ・グロビシュ)を育てた、かけがえのない場所だった。
しかしいま、夫はとうに他界し、息子も結婚して家を出て、社会主義時代に政府から強制された間借人もようやく出ていった。
アニェラは、自分の余生がもう長くはないことを悟るなかで、自分がこれからなすべきことについて静かに考える・・・。

老女アニェラの脳裏には、若き日の甘美な思い出や、息子の幼いころの愛らしい姿が去来する。
その一方で、静かな生活をかき乱す息子夫婦との関係、家をめぐる諍いが・・・。
そんな中で、彼女はやがてある思い切った考えを行動に移すことにした。
のちに思い残すことのないように・・・。

主人公のアニェラを演じる、ダヌタ・シャフラルスカは、95歳のいまも現役を続けるポーランドの伝説的女優だ。
気鋭の女性監督ドロタ・ケンジェジャフスカの夫は、現代ポーランドの最高のカメラマン、アルトゥル・ラインハルトで、ともに長年にわたって、作品を撮り続けてきた二人だ。

ポーランド映画「木漏れ日の家で」は、いまどき珍しい黒白のモノクロームで撮られている。
モノクロの方が、今では手間がかかるといわれているのに、それでもあえてカラーを排したのは、観る側が、想像力による純粋な視点で、作品を鑑賞すべきだとしたからではないか。
このドラマの主役は、何はともあれ、ここに登場する古い家なのだ。
そう思って見るとき、息子と縁を切ったかのように見える老女の無縁社会は、鮮やかに甦るのだ。
ここでは、なるほどワルシャワ郊外の森にある、二階にガラス張りの洒落たテラスのせり出した、古い山荘風のコテージ、その「家」が主役なのであった。
ポーランドで、実際にあった話にインスピレーションを受けて、製作された。
お年寄りが、政府に二つ持っていた家を取り上げられ、ひとつはすぐに取り戻せたものの、もうひとつを取り戻せたのは亡くなる一週間前だったという実話があり、この国では、共産主義時代には国が勝手に持ち主から家を取り上げてしまったり、間借人を置くようにに強制されたことはよくあったそうだ。

この作品には、事件らしい事件はほとんどないので、偏屈で、少し頑固で、でも情に厚い女主人公の日常を淡々と綴っているのだが、心に食い込んでくるようなところがある。
とくに、窓ガラス越しに主人公が外を見るシーンは、一枚のガラスが外界とアニェラの世界を隔てていて、細かいところに目配りの効いた上手いシーンである。
ロケハンで、よくあのような家を見つけたものだと感心する。
映画は、アニェラのモノログに導かれる。
彼女が、家の中をあちらこちら移動していく姿を、カメラが追う。
その主人公の、ほとんど一人芝居とも思える独白(モノログ)は見事に成功している。
古い家と老女の独白・・・、それだけでも見事な作品として結実している。

この映画が製作された三年後に、夫婦で作品を撮り続けていたケンジェジャフスカ監督は、新作の日本・ポーランド合作「明日はきっとよくなる」を完成させたといわれるが、日本で観る機会はあるだろうか。
・・・普段はあまり考えないことだが、間違いなく人生の終焉が近づいたとき、人はどんなことを思うのだろうか。
誰だって、悔いのない人生を全うしたいと思っているが、やり残したことがないかと、おそらく後悔するに違いない。
そのための「老い支度」は、きっと大切だ。きっと・・・。


映画「マイティ・ソー」―神の世界から追放された男の物語―

2011-07-19 12:15:00 | 映画


     神々と人間の、二つの世界を描くSFアクションだ。
     たまたま、迫力の3Dでの鑑賞になってしまったのだが、これも3Dでなくて2Dで十分だ思った。
     神々の世界から追放されてしまった勇猛な戦士が、おのれの再起をかけて奮闘する・・・。
     娯楽映画としての迫力はあるだろう。

     ケネス・ブラナー監督の、スリリングなアクション満載(!)のアメリカ映画だ。
     日本人俳優の浅野忠信が、ハリウッド本格進出をとげた作品だ。







 




神々の世界アスガルドの王の子、ソー(クリス・ヘムズワース)は、最強の戦士であった。
ソーは、父オーディン(アンソニー・ホプキンス)から、王位継承者と目されていた。
だが、その強さゆえの傲慢さが、アスガルドを戦乱の危機に陥れた。
そのことで、オーディンはその力と最強の武器ムジョルニアを奪い、ソーを地球へと追放したのだった。
地上に落とされたソーは、天文物理学者のジェーン・フォスター(ナタリー・ポートマン)と知り合い、ジェーンらの人間の持つ優しさに触れ、挫折と落胆を味わいつつ真の戦士として成長していく。

一方、アスガルドでは、己の出生の秘密を知った王のもう一人の息子ロキ(トム・ヒデルストン)が、王を責めたてていた。
オーディンは、重なる心労で倒れ、深い眠りについてしまう。
その機会を狙って王座に就いたロキは、敵も味方も巧みにだますことで、その地位を守ろうとする。
そしてついには、兄のソーを亡き者にしようと、アスガルドの強力な兵器、金属体のデストロイヤーを地球に送り出した。
また、ソーの護衛であった勇士ホーガン(浅野忠信)たちも、ロキの不穏な企みを察知し、ソーを連れ戻すべく地球へ向かった・・・。

いにしえから、人々に語り継がれた神々がいる。
はるか昔、偉大な王オーディンに率いられた神々の軍団は、襲いかかった氷の巨人族を倒して、人類を救った・・・。
これは、それから長い年月がたってからの物語である。

ドラマは壮大かつファンタジックで、なるほど観ていてあきさせないし、テンポも速い。
人間、そして神々をも敵とした壮絶な戦いを描く。
主人公ソーを演じるクリス・ヘムズワースは何とまだ27歳で、ハリウッド期待の新星らしいが、浅野忠信の影が薄いのと彼自身の台詞の少ないのは気にかかる。
強靭な肉体と精神の持ち主としてキャスティングされているが、ドラマの中では寡黙な性格ということもあってのことか・・・。
それにしても、登場場面も少なく(?)淋しい。
コミックでは看護師役だが、ここでは詩人的な科学者でアーティストという、ナタリー・ポートマンの役どころも、ちょっと首をかしげたくなる。
でも、彼女自身は、「ブラック・スワン」の後にこの映画の現場に入れたことを、たいそう喜んでいたそうだ。

ケネス・ブラナー監督アメリカ映画「マイティ・ソー」は、ビジュアルエフェクトの限界というか、日々進化する映画テクロノジーを駆使して、ドラマを楽しませようと意気軒昂である。
ソーのような、こういうキャラクターのスーパーヒーローを生み出した、北欧神話や原作コミックが下地だから、最初から馬鹿馬鹿しい絵空話ではあるが・・・。
地球の人間と、地上に降り立った神とが対話するなど、それはそれで荒唐無稽であっても、笑って大目に見ることにする。
そうでもないと、とてもこの映画に付き合えるものではない。
気難しい理屈は抜きにして観る、まあ遊び半分、この夏の暑さを吹き飛ばす、大がかりな快作というのか。(笑)
エンドロールの終わりに、ワンシーンありで、鑑賞の際は見逃さないことだ。


菅首相の独断会見―居座り続ける希代の暗君―

2011-07-17 11:00:00 | 雑感

毎日暑い日が続いて、本格的な夏の訪れだ。
東日本大震災の被災地は、いまなお不自由な生活を強いられていて、復旧復興の道はまだなお遠く・・・。
この非常事態に、政治が全くといってよいほど機能していない。
永田町の混迷は、ますます深まる一方だ。

辞めると言いながら、一向にその気配が見えない。
菅首相は、いったい何を考えているのだろうか。
このところずっと、「ぶらさがり」からも、マスコミの取材からも逃げ回っていた首相が、脱原発をアピールする緊急記者会見を行った。
ところが、公式の場で表明した会見の中身は、政府の見解ではなく、自身の思いを述べたに過ぎないといって釈明したというから、あきれる。
おそらくは、当初の思い付きで、周囲には何の根回しもないのに、公式の政府見解としたかったのではないか。
そこへ、閣内から不協和音の大合唱が起きてしまったものだから、これは当然だ。
一国の首相の発言の重みが、この人にはわかっていないのか。
自分の、単なる思いだけで記者会見までやるものか。
そんな会見は、時間の無駄だ。

菅首相のこれまでの発言は、ことごとくこんな調子で、何かあれば言い訳に終始し、詭弁を弄しているに過ぎない。
しかも、確かな展望や論拠があるわけではなく、場当たり的だから、始末に負えない。
首相の姑息なやり方が、与党野党の苛立ちを呼び、一日も早く退陣をということになる。
こういう人が、私利私欲のために、総理の座に居座り続けること自体、まことに奇怪きわまる異常事態なのだ。

だからといって、執行部や閣僚の面々までが、公然と首相批判を繰り返すばかりで、菅首相を総理の座から引きずり下ろすこともできないでいる。
何という情けなさか。
何という政権の体たらくか。
岡田幹事長は、「やるやる詐欺幹事長」の異名があるそうで、この人をもってしても、政権にしがみつく菅首相を辞めさせることができない。
この人、菅首相が辞めない時には自分が身を処するとまで言い切った人だ。
一方で辞任を迫りながら、首相批判だけを延々と繰り返している。
経産相、財務相、官房長官、国対委員長しかりだ。
誰も、本気で政権を辞めさせる気などないのだ。
それでいて、いまの地位に自分たちが居座りたいわけで、お互いに黙認し合っていて、これも延命のためでしかない。
いずれ辞めるだろうという首相に、本気でついていく人間などいないものだ。

延命だけが目的のような政権だから、何でもありで、なりふりなどかまっていられないのだ。
この深刻な事態に、奇矯な集団がやろうとする政治で、この国は、果たして再生できるのだろうか。
内閣支持率が10%台まで落ち込んで、いまや誰もこの内閣を信用していないし、期待もしていない。
与党も野党も、政治家(政治屋)は本当に頼りにならない。
恐るべき体たらくの、堕落集団となってしまったのか。

東日本大震災の被災地はどうなるのか。
何だか、そっちのけにされているような気さえする。
被災地では、がれきを乗り越えて復旧を目ざし、まだまだ収束のめどすら立たない福島原発では、放射能を浴びながら一致団結して頑張っているのに、国権の最高機関の国会議員は、党利党略むきだしで不毛の争いを続けている。
国民は全く無視されている。
他国では、こんな状態が続けばテロや暴動が起き、収まりがつかなくなるだろう。
そうなれば、最高責任者たるものは、間違いなく辞任に追い込まれる。

それなのにどうだろう。
この国の最高責任者は、夜ごと高級飲食店で家族ぐるみ、親しい(?)側近だけを連れて、贅沢なディナーににんまりと舌づつみを打っていると、もっぱらの噂である。
国民にはどう映るだろうか。
大体、会食といえば夫人同伴で、この国難の時代にわが世の春を謳歌するなど、権力の頂点に立つとこうも人は変わるものか。
菅首相には、いつも夫人が指南役だというが、古来政治に女が顔を出すとろくなことはないようで・・・。
折しも、ドイツで開催されているサッカー女子ワールドカップ決勝、日本―米国戦(日本時間18日未明)に、菅首相が政府専用機を使って応援に乗りこむことを検討していたそうだ。
東日本大震災の復興が遅々として進んでいないのに、数千万という巨額の経費を使って、サッカー観戦など世論を逆なでする行為に待ったがかかり、これはさすがに断念したらしい。
それは、当然というものだ。

福島原発に発した放射能汚染も広がる一方で、とどまるところを知らない。
ここへきて、いままた、三浦半島を震源域とする大地震の予兆まであると言われている。
不安は募るばかりだ。
政治が当てにならない今、未曾有の国難をどうやって乗り越えていくか、国民の叡智が求められている。
国家のために、自分の身を投じる覚悟がなければ、本当の政治家とは言えない。
いま、そんな人がいるだろうか。
狂人のような、ハチャメチャな内閣は、一刻も早く終わらせなくてはいけない。
希代の暗君には、早々に退陣してもらいたい。
日本が、悲しみの国でなくなるために・・・。

 


映画「4月の涙」―許されざる愛と運命の選択―

2011-07-15 07:25:00 | 映画


     1918年、同じ国民同士が戦ったフィンランド内戦があった。
     戦争という極限状況の中で出逢い、命の危険にさらされながらも、最後まで自分の信念を捨てなかった女と、自らを犠牲にしてまで、ただ
          一人清らかな心を持ち続けた男がいた・・・。

     荒廃した風土の中に、戦争のおぞましさを背景に描かれる、奇跡的なラブストーリーだ。
     この作品、北欧フィンランド映画というのも大変珍しい。







 





1918年4月、ロシアからの独立直後にフィンランド内戦は起こった。
赤衛隊の女兵士のリーダー、ミーナ(ピヒラ・ビータラ)とその仲間たちは、白衛隊の兵士らに追いつめられていた。
彼女たちは乱暴され、仲間たちが逃亡兵として無残にも処分されていくなかで、ミーナは脱走をはかろうとするが、準士官アーロ(サムリ・ヴァウラモ)に捕まってしまう。

アーロは、他の兵隊と違って、ミーナを公平な裁判にかけようと、裁判所へ連れて行く。
が、その途中で、二人は不毛の孤島に遭難してしまった。
二人は、一緒の時間を過ごすうちに、ある変化が芽生え始める。
二人は敵同士であり、それは、許されざる愛であった。
その先に待ち受けるのは、残酷なまでに哀しく、切ない運命だった・・・。

ミーナは、冷酷で精神の屈折した判事エーミル(エーロ・アホ)から、死刑の判決を受ける。
そして、何とアーロに刑を執行するように命じる。
アーロは、彼女を連れて旅立とうとする。
しかしそこに、白衛隊軍が、逃亡をはかろうとする彼らを追って迫って来ていた。
二人に、別れの時が迫ろうとしていた・・・。

自己の信念と、愛の狭間に揺れる女性を演じる、ピヒラ・ビータラの野心的な演技がひときわ光っている。
フィンランド内戦については、日本でもあまり知られていないし、フィンランド国内でも知っている者は少ないそうだ。
隣国のロシア革命の影響下で、フィンランド国内での階級対立が激化して起こった内戦だが、それに独立問題やドイツ軍の介入も絡んで、同じ民族同士で戦ったフィンランド国民には、この戦争は深い心の傷を残したと伝えられる。

お互いに敵同士で出会ってしまった、男女の運命が、北欧フィンランドの美しい風景を背景に描かれる。
その叙事詩的な映像も、写実的で力強い。
アク・ロウヒミエス監督フィンランド映画「4月の涙」は、戦争ドラマと見ることもできるが、主人公二人の衝撃的な選択を、終盤に持ってくる設定もさることながら、やはりラブストーリーだ。
この作品を観ていると、第二次大戦の敗戦国という点で、フィンランドと日本がどこか通じているようなところも感じられ、あちらでは日本ブームみたいなものもあるといわれるが・・・。
映画の中で流れる音楽は、ベートーヴェンの「交響曲第七番第二楽章」で、なかなか作品に合っていて、より味わいの深いものになっている。
主人公のミーナが、逃亡しようとする時に、敵であるはずの准士官の男に「一緒に」と発する一言は、ぐっとくる台詞だ。


映画「戦火のナージャ」―生き別れた父を捜す旅―

2011-07-12 13:30:00 | 映画

     第二次世界大戦の独ソ戦を舞台に、父と娘の絆を描く。
     カンヌ国際映画祭グランプリとアカデミー賞外国語映画賞をW受賞した、名匠ニキータ・ミハルコフ監督の作品だ。
     ロシア映画の最新作である。
     ロシア映画史上最高の製作費をかけ、1941年の独ソ戦を忠実に再現した。

     スターリンによる大粛清の時代を描いた「太陽に灼かれて」(1994年)の続編ということになる。
     戦場の悲劇と父と娘の絆を、圧倒的なスケールと臨場感で描いている。
     あの「黒い瞳」ニキータ・ミハルコフが、古きよきロシアへの郷愁を込めて・・・。











1943年、コトフ大佐(ニキータ・ミハルコフ)は粛清の犠牲者となって、強制労働収容所送りとなった。
スターリンは、処刑されているはずのコトフの捜索を、KGB(旧ソ連国家保安委員会)幹部のドミートリ(オレグ・メンシコフ)に指令する。
かつて、コトフを逮捕したドミートリは、彼の消息をたどる。
ドイツがソ連に侵攻した1941年、コトフは収容所を脱走し、一兵卒として戦争の最前線に送り込まれていた。
彼は、激戦の中で、戦争の悲劇を目の当たりにする。

一方、共産党の少年少女団に所属するコトフの愛娘ナージャ(ナージャ・ミハルコフ)は、ふとしたことから父の生存という驚愕の事実を知って、生き別れとなった父親を捜す旅に出る。
ナージャは、従軍看護婦として戦場に赴いたのだ。
さすらいの身となった父娘は、行く先々で、人間の尊い命を奪う戦争の無慈悲と不条理を思い知らされ、絶望のどん底に突き落とされる。
しかし、不屈の逞しさで這い上がり、いつか再会の日を夢見て生き抜いていくのだが・・・。

この映画では、ミハルコフ監督自らがコトフ大佐を演じ、その実の娘ナージャが、凛々しい従軍看護婦を熱演している。
(彼女が、「太陽に灼かれて」でデビューしたときはまだ6歳だった。)
それから16年、この作品では出演年齢24歳だから、ずいぶんと大人になったものだ。

独ソ戦は、世界征服を狙ったナチス・ドイツと、共産圏の盟主ともいうべきソ連が真っ向からぶつかった戦争だ。
ヒトラーとスターリンの、20世紀を決する戦いだった。
両国は、数千万規模の戦死者を出したといわれる。
その攻防を、圧倒的な臨情感とリアリティで映像化した。
詩的な感性に満ちた自然描写、ユーモアや音楽を積極的に導入した豊かな人物描写も、ここでは健在だ。
ひたすら惨たらしい戦場の悲劇とのコントラストは、鮮烈なまでに強い印象を残している。

ロシア映画「戦火のナージャ」は、スターリンの命を受けたKGBの幹部が、時をさかのぼって、コトフの消息をたどる形で綴られる。
激戦のさなかで、両脚を失った青年兵が、目を開けたまま雪原で逝く場面といい、一度も女性の乳房に口づけしたことがないという瀕死の青年兵が、従軍看護婦のナージャに胸を見せてくれと懇願するシーンは、それこそ胸に迫る。

陰惨な戦争の悲劇を背景に、若い女性の娘と、いままさに逝こうとしている青年兵との心のふれあい・・・。
この映画は戦争を描いていてもいわゆる戦争映画ではなく、むしろヒューマンドラマであって、戦争よりも人間を描くことを、最優先している。
それは、ミハルコフ監督の言うように、確かに、どんなに多数の戦車や飛行機の大規模な戦闘シーンよりも、いかに力強い説得力を持つか。
生と死、愛と憎悪・・・、細部にわたって、芸術的な真実を宿した作品は、あまりにも過酷な歴史に翻弄される、ひと組の父と娘の絆を描いた、壮大なドラマとなった。
2時間30分の大作である。

映画「アンダルシア 女神の報復」―雄大な景色と壮大なサスペンス―

2011-07-09 04:00:00 | 映画


     あの前作「アマルフィ 女神の報酬」から2年、今回はスペイン・地中海が舞台だ。
     西谷弘監督は、前作よりはスケールアップし、見どころはたっぷりだが・・・。
     真保裕一の原作をもとに、巧妙に仕組まれた(?)数々の罠を潜り抜けて、アンダルシアに最後の舞台が展開する。

     国際犯罪をうたって、タイトルまでも勇ましい。
     守るのは、誇りか、愛か。
     さて・・・?





 




スペインの北部に隣接する小国・アンドラ・・・。
そこで、日本人投資家・川島直樹(谷原章介)の遺体が発見された。
国際会議の準備でパリを訪れていた、外交官の黒田康作(織田裕二)は、事態を把握すべく調査を命じられる。
彼は、二人の事件関係者と会うことになる。
遺体の第一発見者は、ビクトル銀行員・新藤結花(黒木メイサ)と、事件担当のインターポール(国際刑事警察機構)捜査官の神足誠(伊藤英明だった。

しかし、多くを語ることなく絶えず何かに怯えている結花と、捜査状況を隠そうとする神足…、それは、二人が過去の事件をきっかけに、心に闇を抱えていたからであった。
結花を保護するため、外交官・安達香苗(戸田恵梨香)が駐在する、バルセロナの日本領事館へ向かった三人は、正体不明の武装グループから襲撃を受ける。

結花は、襲撃犯の正体が国際テロ組織ではないかと恐れる。
黒田は、この事件には何か裏があるのではないかと確信した。
そして、フリージャーナリストの佐伯章悟(福山雅治)からの情報を得て、投資家殺人との関連について調査を進めていく。
そこには、どうやら、マネーロンダリング(資金洗浄)に関して、未曾有の国際犯罪の影がちらつくのだった。

一方、神足は、ビクトル銀行のブローカーが、アンダルシア地方で巨額の不正融資を仕掛けているとの情報を得た。
仕組まれた複数の罠と、錯綜する情報、隠された秘密をめぐって、黒田は真相を追う。
そんなときに、黒田についに任務中止の命令が下りた。
真実をめぐって、アンダルシアでは、予断を許さぬ運命が、三人を待ち受けていたのだった・・・。

まず、スケールが大きく、フランスのパリから、アンドラ、スペインのバルセロナ、アンダルシアと、舞台がめまぐるしく変わる国際犯罪を描くドラマにしては、物語の流れやマネーロンダリングの背景も、あまり詳しく描かれていない。
前作の「アマルフィ 女神の報酬」よりは数段よく出来ているとはいうものの、派手さばかりがやけに目立って、サスペンス超大作といっても物足りなさが残る。

心を閉ざしている登場人物のキャラクターが、どこまで正確に描かれているか。
とくに、肝心の謎めいた女という、難しい役どころを演じる黒木メイサは、どうも演技が上手くないし、明らかにミスキャストだ。
友情とか、男女の愛といっても、黒田に対する彼女の想いと、そのそこはかとない関係など、表現も語り不足も否めない。
この女性の描かれ方で、ドラマはもっと膨らみを持っていいはずだが、彼女を見ているとどうも歯がゆい。
それに、‘女性’としての魅力が乏しい。
情熱の国スペインを駆け巡る、空前の大作というには、正義も誇りも愛も、薄っぺらで頼りない。

ただし、西谷弘監督のこの映画「アンダルシア 女神の報復」に見る、景色だけは素晴らしい。
撮影にも、相当力が入っている。
スペインとフランスに挟まれたピレネー山中の小国・アンドラ公国、スペイン・バルセロナの世界遺産サグラダ・ファミリア聖堂、そして、太陽がいっぱいにふりそそぐ、南部の地中海を望むアンダルシア地方・・・。
とくに、アンダルシアはフラメンコ、闘牛、白い家並み・・・と、イメージ通りのスペインで、イスラム文化の色濃い残影とエキゾティックな印象は言うことなしである。
どうも、気が付いたら、この作品、このために観たようなものだったか。(笑)
最後の場面、ああやっぱりというオチがついていたが、これも安易な子供騙しに映った。


映画「小川の辺」―義と情に凛然として―

2011-07-06 10:00:00 | 映画


     藤沢周平
ワールドの劇場公開作品は、これで8回目になる。
     いつまで、この人気が続くのか。
     今回も、2008年に「山桜」を撮った、篠原哲雄監督が映画化した。
     主演には、あの時と同じ東山紀之を起用している。

     どこか、国としての形を失っている日本・・・。
     出口の見えないこの国に、いま時代の閉塞感が漂っている。
     そんなときに、ひとつの人生に真直ぐ対峙していく人間を描いた作品が登場した。

     それは、藩令か。愛か。
     海坂藩から江戸へは、100里の旅であった・・・。




海坂藩士・戌井朔之助(東山紀之)は、脱藩した元藩士・佐久間森衛(片岡愛之助)を討てという藩令を受ける。
しかし、佐久間は朔之助の妹・田鶴(菊池凜子)夫であり、剣の腕を認め合った友でもあった。
佐久間の脱藩は、藩主の行なってきたずさんな農政改革に、真っ向から批判する上申書を提出したために、藩主の不興を買ったものであった。
謹慎中の佐久間に対して、さらに決定的な処断が下されようとしていたとき、彼らは夫婦そろって姿を消したのだ。

朔之助の心は揺れる。
兄妹で斬り合うことを恐れ、気をもむ母(松原千恵子)に対して、父(藤竜也)は主命ならばそれを拒否するわけにはいかないと、朔之助に静かに決断を迫る。
朔之助の妻(尾野真千子)は、朔之助の身を案じつつも、気丈に旅の支度をする。
妹は武家の妻として、たとえ兄であっても刀を抜くに違いない。
そんな田鶴の勝気な性格を知りながらも、家を守り、武士としての道理を守るため、朔之助は主命に従って、佐久間を討つ旅に出る。

旅立ちには、戌井家に仕える若党の新蔵(勝地涼)が供についた。
新蔵は、幼い日からひとつ屋根の下で兄弟同然に育った仲であり、田鶴が嫁ぐ前日、ただ一度田鶴と心を通わせたことがあった。
が、いまでも彼は、身分違いの愛を、田鶴に対しひとりひそかに抱き続けているのだった。

・・・そして、江戸の先の行徳の地に、佐久間と田鶴の隠れ家は見つかった。
そこは、かつて18年前、青空の高く広がる夏の日、まだ子供だった頃にともに遊んだところと同じような、水の流れ清らかな小川の辺にあった。
その小川の辺で、ついに向き合う、朔之助と佐久間・・・。
そして、田鶴はどうしたか。
幼い日の思いをそれぞれの胸に秘め、三人は過酷な運命の時を迎えていた・・・。

篠原哲雄監督映画「小川の辺」は、あくまで静かな物語である。
実の妹の夫であり、親友でもある相手を討たねばならない。
義と情の狭間に揺れ動きながらも、背筋を伸ばして、その運命を受け入れようとする人間たちの思いが交錯する・・・。
みずみずしい東北の自然と風景もさることながら、自らに降りかかる禍に正面から立ち向かっていく、凛々しい朔之助を演じる東山紀之がいい。
大体、いつも藤沢作品のテーマは、武家社会に生きる人々の姿をとらえて、家族への思い、友情、愛、矜持を描いていて、この作品もまたじんわりと心にしみる小品だ。
どこまでも清々しく、正しく、潔く、気高く、真直ぐに生きる・・・。
そういう登場人物には、こうした映画作品でしか会えないものだろうか。


映画「クロード・シャブロル未公開傑作選」―巨匠の魅力的な三作品―

2011-07-03 05:00:00 | 映画


     2010年9月に、ヌーヴェル・ヴァーグの巨匠のひとりといわれた、クロード・シャブロル監督が逝った。
     彼はミステリーやサスペンスの巨匠ともいわれ、フランス映画史にも大きな足跡を残した。
     でも、その全体像は、なかなか理解できないでいた。
     それもそのはずで、彼の作品は、日本公開のものがあまりにも少なかったからである。
                

 











今回の、とくにシャブロル監督の晩年の作品は、どれもそれぞれ面白い。
「最後の賭け」「甘い罠」「悪の華」の三作品で、巨匠を追悼する。
一種の懐かしさとともに、映画への憧れを強く抱かせるに十分だ。

シャブロル作品のミューズと呼ばれる、イザベル・ユペールと、ミシェル・セローの、二人の演じる詐欺師の話が『最後の賭け1997年)だ。
マフィアの金に手をつけた、ともに詐欺師二人の運命を、巧みな物語構成で見せてあきさせない。
ブラックユーモアというのだろうか。
異色の犯罪スリーラーとして見ると、結構楽しめる。

『甘い罠』(2000年)は、やはりイザベル・ユペール、ジャック・デュトロンといった芸達者が出演し、人間の心の深奥に潜む、善と悪の葛藤を描いている。
一見平穏なブルジョワ家庭が崩壊していく過程を、淡々と描きながら、なかなかの犯罪心理ドラマとして仕上げている。
ここでも、サスペンスの技巧は際立っている。
アメリカの作家シャーロット・アームストロングの「見えない蜘蛛の巣」が、下敷きになっている。
リストのピアノ楽曲「葬送」の、暗喩のような使い方にも注目だ。

第二次大戦末期のドイツ占領下で、優雅に暮らしている幸福な家族を描いた『悪の華2003年)は、一枚の中傷ビラが波紋を投げかける。
ナタリー・バイ、ブノワ・マジメル、シュザンヌ・フロンらの演技陣が揃い、複雑で謎めいた血縁関係、ブルジョワ階級の退廃的なモラルを、悪意に満ちた眼差しで見つめている。
階段のシーンなどドラマティックで、格調の高い作品だ。
殺人事件と、ブルジョワ家族という、シャブロル好みの異色心理サスペンスだ。

「クロ-ド・シャブロル未公開傑作選」は、これらいずれの作品も、オープニングからエンディングまで、実に無駄のない、きっちりとした構成で余韻も鮮やかである。
時間的にも、少々無理をして三編とも鑑賞した。
クロード・シャブロル監督は、若くしてはじめ映画批評などを書いていたが、やがて映画の製作に関わるようになり、日本では「いとこ同士」(1959)、「二重の鍵」(1959)を観た記憶がある。
かなり昔の話だ。
ゴダール「勝手にしやがれ」(1960)には、技術監督として名義を貸していたし、その頃からヌーヴェル・ヴァーグのひとりとして名を呼ばれるようになっていった。

後年は、主として犯罪映画を撮り続けるようになり、異常心理の描写を得意として、TV映画にも進出していた。
どの作品にも、不要な部分がほとんどなくて(このことは大変貴重だし、大事なことなのだけれど)、とぎすまされた技巧はさすがと思わせるものがある。
作品の中に、観客が思わずあっと驚くようなシーンがいっぱいあるからだ。
フランスのヒッチコックとはよく言ったものだ。
いかにも残念なのは、日本での公開作品の少ないことだ。
クロード・シャブロル監督は、一貫して人間の怒り、欲望、弱さ、滑稽さを、どこかで笑い飛ばすような姿を描き続けてきた。
アメリカ製とはまた違った、フランス人の作るサスペンス・スリラーももしや見納めになってしまうのではと、その死が惜しまれる。